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官僚制度と計量の世界(25)
Bureaucracy and Metrology-25-
弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-
Small countries grow taller and World War II
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃-その1-

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介

(本文)

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃


1941年(昭和16年)年3月28日、日本の松岡洋右外務大臣がドイツのベルリンにヒトラー総統を訪問(前列右はヒトラー総統、左は松岡洋右外務大臣。後列左が駐ドイツ大使の大島浩)。

「日本ニュース第17号 日独伊三国同盟」1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡外相のベルリン訪問」の動画映像

 1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡外相のベルリン訪問」の動画映像が残されている。次がその映像である。ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕

 日本国の松岡洋右外相を迎えるアドルフ・ヒトラードイツ国首および国家元首(総統)以下政府幹部による日独同盟締結の祝賀の式典のニュース映像である。松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使ほか日本の一行は街頭パレードをして、総統官邸のバルコニーから松岡洋右とヒトラーが群衆に手を振る。動員されたドイツ国民の熱狂の度合いは米国が日米戦争に勝利したきやマッカーサーが凱旋したときに勝るも劣らない。沿道をパレードする松岡の車に押し寄せる群衆を制するにがやっとという状態であり、その熱狂は心からのものに見える。

1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会

 日本の学徒出陣壮行会として1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場で文部省主催のそれが有名である。東條英機首相が熱のあがらない演説をし学徒代表の決意表明があった。その日は雨。学生服に学生帽。腰ベルトをして銃を持って水たまりを行進する。観覧席には女子生徒と母親たちで埋まっている。軍楽の音がむなしく雨に消える。

 1943年9月に東条内閣が理科系と教員養成系以外の大学と高専在学生の徴兵猶予を停止、この年10月21日に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。文部省主催の壮行会は全国7都市と満州などで開かれた。東京の出陣学徒壮行会は、首都圏の77校が参加、ラジオはこの模様を2時間余り実況中継した。

 戦時中の東京帝国大学は三年次を終えて卒業であった。二年半ばまでに所定の単位を取っていれば卒業となる学徒動員令である。後に大学教員になる福島新吾は法学部政治学科二年時にこの学徒動員令に対応して出征する。法学部生は政治学科と法律学科あわせて八百名であった。

東京帝国大学法学部長末弘厳太郎「行ってまいります、は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えずに征きます、と言え」

 当時、東京帝国大学で法学部長は末弘厳太郎であった。昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。末弘厳太郎の法学部長在任期間は、1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)3月まで。末弘厳太郎は学生の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行っていた。1943年(昭和18年)10月21日の明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に際しては「行ってまいります、は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えずに征きます、と言え」といわれて気が引き締まったと福島新吾は手記に残している。

 福島新吾は「私は体調が悪かったし、お祭り騒ぎを嫌って参加しなかった」と『学徒出陣落第記』で語っている。甲府市の陸軍第13師団歩兵第49連隊で初年兵となった福島は幹部候補生試験に合格して教育を受けることになっていたが以前から結核が悪化して除隊扱いになる。歩兵第49連隊は3000人規模の兵団で、当時は人口5万2700人余であった。第49連隊については次のような記録がある。1944年(昭和19年)11月フィリピン中部・ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置するレイテ島で、大部分が壊滅。1945年(昭和20年)8月太平洋戦争終戦に伴い、ビサヤ諸島のセブ島にて武装解除。

 学徒動員に際して学生は仮卒業の資格を得ていた。除隊復学の道もあり福島新吾は同じ死ぬなら学生の身分のままでありたいと考えて復学できる処置をしていた。そのために戦後の大学教授たちの授業の変化を経験し、また戦後の民主主義における学問の息吹に触れることになる。

東京帝国大学終戦直後の法学部の教授たちと授業の様子

 以下は福島新吾「体験戦後史 1945~47」「社会科学としての政治研究―1947~54」の手記の一節である。

 東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に『ドイツ国民に告ぐ』と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、一語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に「押しつけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほかに公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。

 末弘さんは、昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。教授は戦時中私の在学当時の法学部長であった。

 その頃なんと東大の入学式には「父兄同伴」が求められていた。病床の父の代わりに出席した東大物理学科を卒業した兄は、末弘法学部長が訓示して「今は科学万能のようなことを言っているが、理科を出た人間に国家を運営することは出来ない。法科で学ぶ諸君が天下国家を担わなければならない」と激励したので憤慨していた。

 当時東大法学部教授で政治学を担当していた矢部貞治氏は 『矢部貞治日記銀杏の巻』(1974)で末弘氏の法学部長選出に反対して、これは「横田喜三郎一派[つまり親欧米、反ナチス派というわけ]の策謀と見える」と書いているが、当時かなり厭戦的だと知られていた横田氏の派閥(田中耕太郎氏ら)が推薦したというのはあまり納得できない。矢部氏は南原教授も末弘氏に批判的と書いているが、末弘さんはむしろ当時憂国的だったから南原さんが危惧したのではないだろうか。その外、当時タカ派で思想弾圧のリーダーと見られた大審院検事池田克の夫人が末弘の妹という関係が知られていた場合には不安をもたらしたかも知れない。

 私達の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行い、学徒出陣の壮行会の時には「『行ってまいります』は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えずに『征きます』と言え。」といわれて気が引き締まったことを覚えている。

 そんなわけで学生の眼にはかなり戦争協力的に見え、一部学生は批判的だったが、私は好感を覚え、矢部さんのように軍部に迎合した人とは立場が違うと感じられた。末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。

 しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は継続し、労働者委員の徳田球一(共産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日経連)などとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。

以上である。

学徒出陣式は一般の関心をかきたてて国民の戦争協力の強化に役立てる演出に過ぎなかった

 学徒動員の狙いと効果についての福島新吾の考察『学徒出陣落第記』がある。次のようなものである。

 1943年9月、東條首相が発表したいわゆる学徒出陣は緊急施策であった。それまで大学、高専在学中は二十歳の兵役年齢を超えても、最高二十五歳まで入営塩基の特権があった。この停止で、理工医農の技術系を除いて、文科系すべて推定六万強の学徒を一挙に動員したわけだ。のの狙いは何より下級指揮官の級増だった。

 学徒兵が軍隊内で「お前たちは消耗品だ」と罵られたとおり、軍はつぎつぎ倒れる下級指揮官の補充が比喩用だった。

 「学徒出陣(式)」は一般の関心をかきたてて、国民の戦争協力の強化に役立てる演出に過ぎなかったのではないか。

 さらに踏み込めば、絶望的な戦況の中で、講和の声をあげやすい社会科学、人文科学系の青年をあらかじめ軍隊内に拘束したのではなかったか。彼らはすべて軍隊内で小さな声で戦争への疑問をささやき続けたに止まったのである。

以上。

1941年(昭和16年)3月、ヒトラーへの熱狂としての最盛期 松岡洋右外相ベルリン訪問

 日独同盟締結すなわち1940年(昭和15年)9月27日締結の日独伊三国軍事同盟ののち、1941年(昭和16年)3月、松岡洋右外相がベルリンのドイツ公式迎賓館にヒトラー総統を訪問したときのドイツ国民の熱狂はヒトラーへの熱狂としての最盛期であった。

 1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達していた。1940年43万1千人になり、求人が求職を上回る完全雇用が実現していた。ナチスドイツの絶頂期と雇用とが一致している。この時期の松岡洋右外相のベルリン訪問であった。

 ドイツ国民のヒトラーへの熱狂の原因は別にして、その熱の冷め方を伝える次の証言がある。亡命ドイツ社会民主党の「ドイツ通信」が伝えるところによると、戦局が不利になるとヒトラーの演説に対する意欲は減退、回数も減り1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となった。ヒトラーの繰り返される演説に多くの人々が飽き飽きしており、ほとんどラジオ放送を聞かなかった。

失業率4割からの軍需産業による復興を背景とするドイツ国民のヒトラーへの熱狂

 ヒットラーへの熱狂は第一次世界大戦での敗北に伴う賠償でドイツ経済は疲弊し、産業総失業者割合が40%を超える苦境からの脱出期に重なったことによる。この時代の敗戦国の賠償は身包剥がれる過酷さであった。

 次の本がある。『ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』池内紀著 (中公新書 2553、発行日2019年07月25日)。

 ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期まで。泡沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧。という内容である。

 フォルクスワーゲン(国民車)の開発と生産については、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用され、結果的に数十万人分の積立金は戦争資金として流用されることとなり、予約購入者には一台も納車されることはなかった。

 ナチス・ドイツでは、1934年にアドルフ・ヒトラーが安価で高性能な自動車を国民に供給する国民車計画を提唱し、数十万人分の予約を取り付けていた。第二次世界大戦が開始されたために量産計画は破棄、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用された。戦後に連合軍によって工場が復興し、フォルクスワーゲン・タイプ1として大衆車の量産となった。戦中のドイツ国民の収入額は、安くても自家用車を所有できる状態になかった。

 アウトバーン建設構想とその計画は失業対策も含めてヒトラー以前に動いていた。1932年の自動車保有者は住民千人一人であった。同時期のアメリカでは五人に一人。アウトバーンはドイツ国民の所得と生活とは無縁であり、国民はアオトバーン建設よりも安価な住宅を欲していた。

 ドイツで建設された自動車専用道路網のアウトバーンは、ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。アウトバーンはヒトラーの唯一の功績として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛された。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、1936年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した」としている。2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている。

 山川用語集、その他の事典類は、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている(2018年改訂版では「1933年から建設が開始された」とされている)。建設開始が1932年とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていた。

 ナチスドイツとからめて概念化されているヒトラーへの熱狂の要素としての、ウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産は打ち消される。失業率の改善は軍需生産と連動していた。軍需生産は国民生活を究極的に豊かにするものではない。ドイツはポーランドなどに侵攻し、併合してここから資源と食糧を確保した。ウクライナも維持時期ドイツ領となって小麦の調達先となった。

 戦争で疲弊した経済と国民生活の復興とが軍需産業を国内総生産の5割ほどに増やした産業政策によってもたらされた。

1939年のドイツの国民所得中の軍備負担率は異常なほどに高く23%

 ドイツ国防軍の主任エコノミスト、ゲオルク・トーマスの分析(国民所得における軍備の負担)

 1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマス(英語版)が分析した国民所得における軍備の負担は次のとおり。(英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回る)
1、ドイツ23%
1、イギリス12%
1、フランス17%
1、アメリカ2%

 トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった

1939年ラジオ所有世帯70%で世界一「ラジオ最も重要な大衆感化の手段」(宣伝相のゲッベルス)

ナチスドイツにおけるラジオの生産


 ヒトラーを英雄として描き出す巧みな宣伝と先導はラジオをも用いてなされた。国家の意思を国民に伝え、国家の意思に国民を服従させる道具立てとしてナチスドイツ時代にはラジオの役割は大きかった。

 国民ラジオ計画が立てられた。国民ラジオ(こくみんラジオ、独: Volksempfänger)が大量生産され、低価格で販売された。国民ラジオ計画の進展とともにドイツでのラジオ受信機の普及は急速に進み、1939年にはラジオ受信機を所有する世帯が全体の70%を占めた。この普及率は当時において世界一だった。1933年から1939年までの間に製造された国民ラジオの累計台数は700万台を超えている。

 宣伝相のゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であるとした。国民ラジオは、ナチスの放送はだけが受信対象であり英国放送協会(BBC)の国際放送BBCワールドサービスのは聴取できなかった。

 ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがニュルンベルク裁判の最終陳述で次のように語った。
 「ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった」

1933年2月1日のヒトラーは政権獲得時ラジオ演説聞けたのは全世帯の4分の1(25%)

 次のような資料がある。

1、ヒトラーは政権獲得後の1933年2月1日にラジオ演説をしたが、演説を聞けたのはドイツの全世帯の4分の1だったといわれる。当時のドイツ人口6600万人に対してラジオは430万台だった。
1、1933年頃のドイツ製ラジオ受信機の価格はローエンドの製品でも150RM前後 。一方、当時のドイツ労働者の平均月収は120~150RMだった 。

ヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟入団式が松岡外相来独の前に放送

 1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡洋右外相、のベルリン訪問」の動画映像の最初に取り上げられたのは14歳になったヒトラーユーゲント若者の入団式である。14歳以上の100万人を超える少年と少女はヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟に入ることが義務付けられていた。1941年3月30日の入団式の報道が松岡外相ベルリン訪問のニュースの前に報じられている。

 ヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟への入団式には熱気はなく、松岡洋右外相歓迎の沿道の観客は警備の兵隊を押しのけてでも松岡が乗る車ににじり寄るという歓喜があった。日独伊三国同盟締結はドイツ国民には戦争勝利への大きな期待となったことを示す。

ヒトラーユーゲント

 ヒトラーユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler Youth)は、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。

ヒトラーユーゲント女子版のドイツ女子同盟

 ヒトラーユーゲント女子版であるドイツ女子同盟(ドイツじょしどうめい、独: Bund Deutscher Mädel、略称 BDM)は、ナチス・ドイツがドイツに住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。少年によって構成されたヒトラーユーゲントと対を成す。ドイツ少女同盟、ドイツ少女団、ドイツ女子団などとも訳される。1930年から1945年まで活動した。ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足。ヒトラーユーゲント法が成立して全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。入団の資格は、ドイツ民族の血統に属し、かつドイツの国籍を有する18歳までの女子。

ヒトラーが英雄だったのは戦争が優位で生活向上を実感できる間だけ

 大人になる前は子供であり青少年である。ヒトラーと国家への忠誠を誓うように青少年を義務的な組織にはめ込んで統制した。悪知恵を総動員した国家による策謀であり国民はヒトラーを英雄として崇(あが)めた。それは戦争が優位であり生活の向上を実感できる間だけのことであった。

ヒトラーを最後まで妄信した日本陸軍中将にして駐ドイツ大使の大島浩

 ヒトラーが台頭して政権を獲る時代に重なって陸軍駐在武官としてドイツに滞在、ヒトラー政権下で駐ドイツ大使となった陸軍中将がいる。父親は陸軍中将であり1916年(大正5年)3月30日~10月9日、第2次大隈内閣陸軍大臣。 10月9日~1918年(大正7年)9月29日、寺内内閣陸軍大臣。ドイツ贔屓(ひいき)の父親に幼少からドイツ語修得のために特別な教育を施され、在日ドイツ人家庭でドイツ語を学んだこの男は物事の発想と身のこなし方までドイツ人のようだといわれるようになる。第一次世界大戦からの復興が軍事産業への重点投資によってなされ、四割を超えていた失業率が完全雇用の状態になるころのドイツ国民のヒトラーへの熱狂をそれ以上の思いで歓喜していた男である。

 この男のヒトラーへの歓喜はドイツ敗戦までつづく。いやその後終生続いていた。大本営発表を疑わずに受け止めていた日本国民は多かった。駐ドイツ大使のこの男はヒトラー政権が発表する戦況をそのままに受け止めて、日本国政府に伝え続けた。

 この男、駐ドイツ大使の日本政府への公電は少なくとも二つの時点で日本政府と大本営の判断の間違いを引き起こした。

 日本国が米英に宣戦布告した1941年(昭和16年)12月8日を前にして、ソ連に進行したドイツ軍は、スターリングラードでの戦闘が補給が途絶えて敗北が確定していた。秋の遅くにはこのことが判明していて、中立国のスエーデンのストックホルムでソ連とドイツの戦況を観測していた駐在武官の小野寺信は、ドイツはロシアに負けていて回復困難だから、米英との戦争に突入してはドイツとともに日本は負けるという意味で「開戦絶対に不可なり」と打電していた。

 1945年(昭和20年)5月には、米英ソのヤルタ会談において、ドイツ降伏の5月5日から三カ月間を準備期間としてソ連が日本に宣戦布告して攻め込む密約を確かな筋の情報として入手して、日本国政府に打電していた。

外務省嘱託勤務の福島新吾は終戦直前の外国大使館からの電文や報告書を見ていた

 学徒動員ののち幹部候補生になっていた福島新吾は結核の発症により招集解除となり、外務省に嘱託として勤務していた。課長、局長などが出勤しない外務省にあって終戦の少し前に外国大使館からの電文や報告書などを見ていた福島はスエーデンからの電報、スイスからの電報、ソ連からの電報ほかを、なかば暇に任せて閲覧していた。日米の戦闘の結果がニューヨークの株価にまったく反映されない状況は勝敗がすでに決しているためであることを局長に報告書にして提出したら、当たり前のことを今更という態度であった。

 戦争を最後まで続けようとしたのは高級将校である。親の代から続く家業としての将校職であり、それは軍隊あってのものである。駐ドイツ大使のその男もそのようであった。東條英機もしかり、大本営の参謀たちも同じであった。スエーデンの小野寺信からのヤルタ会談の密約を知らせる電文を握りつぶしたのは大本営参謀のある男と推定されている。この男は戦後になって終生参謀時代のことを口にしなかった。大概の参謀たちは良しに付け悪しきにつけ、幾ばくかを口述するか、手記に残している。

 ここに登場する駐ドイツ大使は大島浩である。大本営参謀は陸軍中佐である。負けていて負けが決定付けられているにも関わらず焦土決戦を叫び続け、その口実は国体の護持であった。天皇制の存続のためには死中に活を求める一大戦果を挙げてこそというものであった。米国と連合軍はドイツ空爆とベルリン壊滅作戦をそのまま日本侵攻で実行した。1945年初頭、日本軍の戦闘力は無いのと同じであった。都市が焼かれ、軍の基地と軍事産業は完膚なきまでに痛めつけられた。基地に関係しては占領後に米軍と連合国が使うことを想定して一部は爆撃の対象から除外された。

杉山元参謀総長「御上は開戦に反対だぞ」と会話するが大本営内部は侵略の思想で統一されていた

 天皇制の扱いについては都市を焼き尽くしたことと連動して廃止であった。ドイツは国家への忠誠をヒトラーへの忠誠と重ね合わせて国民に求めた。日本国では天皇への忠誠は国家への忠誠であった。ヒトラーが国家の権限を自在に操ったのに対して日本国天皇は遥かに控えめであった。御前会議では天皇は直接に言葉を述べないことになっていて、唯一例外があって、それは明治天皇の言葉である「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」と口にしたことであった。大本営とのやり取りについてはもう少し言葉を残している。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の意味していることは、四方に広がる海(よもの海)で繋がるこの世界は、みな兄弟(はらから)であるように思うのに、なぜ人々の間に戦争などの波風がたってしまうのだろう、ということ。

 このころ場に杉山元参謀総長らは、御上は開戦に反対だぞと会話している。しかし戦争はするな、開戦には反対だと直接には言っていないために、開戦を準備していた大本営は開戦に突き進む。大本営の内部ではここを取ったら次はどこ、と侵略の思想で統一されていた。中国からの撤退は、満州国の放棄にもつながることから、連合国の要求を受け入れ余地は大本営にはなかった。

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目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介






官僚制度と計量の世界(29) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(28) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介



計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
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