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官僚制度と計量の世界(23)
Bureaucracy and Metrology-23-
第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」
Why did we fight the war and lose?
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

焦土日本と敗戦「なぜこのようになってしまった」「侵略思想があった、それが限りなくね」

第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介

(本文)

焦土日本と敗戦「なぜこのようになってしまった」「侵略思想があった、それが限りなくね」


最高戦争指導会議(出典=「毎日新聞」昭和20年1月1日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

焦土日本と敗戦「なぜこのようになってしまった」

第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み外交官になる道を歩んでいた男の自らへの問い

 第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み、学徒動員につづく幹部候補生の途中で結核のため招集解除になり外務省の嘱託職員として終戦を迎えた男の問いかけである。

何故このようになってしまったのか
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

 占領軍のメッセンジャーボーイになり下がった外務省の仕事とその職員の状態にあきれて大学に戻る。アダム・スミスの国富論(諸国民の富)を読んでいた友人はさっさと大蔵省に入り、後に大蔵次官になる。一歳下だが飛び級によって同学年であった横浜第一中学開学以来の秀才の男である。学徒動員された学生には卒業資格が与えられていたのを知らなかった。知っていれば母方の叔父のように外交官になると決めていた。

 肺結核で招集解除となった身ながら外務省の嘱託職員の身分で終戦までの4カ月ほどを過ごした。卒業すれば試験を通らくても高等官の身分が与えられることを人事課長に聞いていた。占領軍の小間使いになった外務省に愛想をつかした。東大卒業の事務手続きをした男は新設なった東京大学社会科学研究所の助手となる。設立の趣旨は大学や学問研究の成果と国の政策を結びつけることであった。日米開戦が大学と研究者を排除されていたことと無縁でないと考えていた人々の思いがあった。

 外務省の嘱託職員から東京大学学生に戻り、事務手続きをして卒業した男は回り道をした。それでも復学して半年ほど授業にでたことで教授たちの戦中との姿勢の変化をみたのは得難いことであった。マルクス主義を奉ずる教授のマルクスを取り扱うときの曖昧な表現が消えた。学問の世界は政府の思想的統制下にあったことを物語る。男は1993に『学徒出陣落第記』(オリジン出版センター)を出版した。甲府にある連隊で幹部候補生になり病気で除隊するまでの兵営での生活を手帳に記載していた。思いがけない貴重な記録となり、それがそのままの形で図書になった。そこから発せられた疑問が次のようなことであった。何故このようになってしまったのか。一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

 兵営での生活を通じて初年兵いじめを含めた兵隊たちのようすから「軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか」という問いが発せられた。「何故このようになってしまったのか」という問いは東京大学社会科学研究所の助手としての研究と調査活動につながっていた。

何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか

一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。

日米開戦へ突き進む1941年(昭和16年)年初からの政府近衛内閣、統帥部、両者の上に立つ昭和天皇裕仁をめぐる動きをMHKテレビがドキュメンタリー番組にした。1991年08月15日放送の「御前会議 太平洋戦争開戦はこうして決められた」である。

 1941年(昭和16年)12月1日の御前会議で太平洋戦争の開戦が決められるまでの経緯を大本営で政策、つまり戦争計画を書く陸軍大佐などの証言をもとに追跡する。

結局理論的に申せばどれもこれもみな問題があったことになりますけどね。それを正直に申せばね

侵略思想があった、それが限りなくね、これがすんだら今度はこれという風に侵略思想があったんですよ


 この年、1941年4月13日に日ソ中立条約が締結されたている。7月25日にアメリカ政府が在米の日本資産を凍結した。資産凍結とは在米邦人や法人企業の資産凍結だけをいみするのではなく、連合国との石油だけではなく資材、食糧などの取引を占めだす内容である。連合国との開戦回避の条件は中国からの日本軍の撤退。このことに関連すれば満州からの撤退も意味していた。また南方方面からの撤退をも米国は要求する。

 国策、つまり戦争の作戦計画を決める御前会議は米国の要求は受け入れることはできないとして、12月1日の開戦を決めた。12月8日に日本軍がマレー半島に上陸し、時間的に少し遅れてハワイの真珠湾に浮かぶアメリカ太平洋艦隊を攻撃を攻撃した。

 大本営陸軍参謀部にいて戦争計画を立案したのが石井秋穂である。最終階級は陸軍大佐。石井秋穂(いしい あきほ)は1900年(明治33年)11月2日(山口県豊浦郡豊西村)~ 1996年(平成8年)8月25日)。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校本科を経て、1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を秩父宮を除き4番の成績で卒業。陸幼と陸士卒業時の2度に亘り恩賜の銀時計組。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業。

 終戦後は官職などに付かずに1996年(平成8年)8月まで生きた石井秋穂は、MHKテレビがドキュメンタリー番組のなかで次のように語る。

御前会議に上奏する戦争計画を書いた大本営陸軍参謀部石井秋穂の証言

 国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。天皇陛下が、第一項に戦争が書いてある、第二項に外交が書いてあるって、ご機嫌が悪いわけね。ところがそれを、第一項に戦争を書いたのは、わしですよ。大東亜戦争ていえば、すぐさまあの「四方の海」ね、あれを思い出します。だからわしはあの政策に、ずいぶん責任がありますよ。資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。どうしようかと。夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。そして、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。和解となればね、あの時には日本は支那から撤退せにゃいけなくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退するとなると満州も含む、それにもかかわらず賛成する人がおろうか、おったらそれは本当の平和主義者か、そういう人がずうっと上の人からね、下のほうの幹部にいたるまで誰かおるだろうかと考えたら、おらん誰も。 結局理論的に申せばどれもこれもみな問題があったことになりますけどね。それを正直に申せばね侵略思想があったんですね。それが限りなくね、あっちこっち、これが済んだら、今度はこれという風に侵略思想があったんですよね、もとは。そういうことになりましょうね。

御前会議と昭和天皇裕仁の発言の記録

「富山大学経済学部紀要 天皇の戦争責任に関する覚書(1)-太平洋戦争を中心に-小松和生」からの引用


 富山大学経済学部紀要 天皇の戦争責任に関する覚書 (完)--太平洋戦争を中心に--小松和生に次のような記載がある。1941年(昭和16年)の御前会議ほかで昭和天皇裕仁が発言した記録である。当時の情勢と国策としての戦争計画の決定の経緯を読み解く資料であり、誰にどのような権限があり責任があったのかがわかる。

 以下は「富山大学経済学部紀要 天皇の戦争責任に関する覚書(1)--太平洋戦争を中心に--小松和生」からの引用である。

目次
はじめに
Ⅰ 開戦決定過程
小松和生
(1) 7月 2日「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」
(2) 9月 6日「帝国国策遂行要領]
(3) 11月 5日「帝国国策遂行要領」
(4) 12月 1日御前会議 (以上本号)
Ⅱ 戦争遂行過程
(1) 戦果拡大期
(2) 戦局転換・敗退期
Ⅲ 降伏決定過程
(1) 近衛上奏文と天皇の対応
(2) 国体護持と本土決戦論
むすびにかえて

  9月6日「帝国国策遂行要領」 9月6日の第6回御前会議が開かれ,以下のような内容の「帝国国策要領」が決定された)

 この「帝国国策遂行要領」こそ、「十月上旬頃ニ至ルモ尚要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」とされているように、事実上、太平洋戦争突入を決定したものである。

 天皇は、9月6日の決定の前日 9月5日に「突然陸海軍統帥部長ヲ召サレ近衛総理立会ノ下ニ御下問」を行い、総長に以下のような「奉答」をさせている。

御上 南方作戦ハ予定通リ出来ルト思フカ
参謀総長 右ニ対シ馬来比島等ノ予定作戦ヲ奉答ス
御上 予定通リ進マヌ事カアノレタラウ五ヶ月ト云フカソウハイカヌコトモアノレタラウ
総長 従来陸海軍テ数回研究シテ居リマスノテ大体予定ノ通リ行クト思ヒマス
御上 上陸作戦ハソンナニ楽々出来ノレト恩フカ
総長 楽トハ思ヒマセヌカ陸海軍共常時訓練シテ居リマスノテ先ツ出来ノレト思ヒマス
御上 九州ノ上陸演習ニハ船カ非常ニ沈ンダカアーナレパドウカ
総長 アレハ敵ノ飛行機カ撃滅セラレル前ニ船団ノ;航空ヲ始メタカラテアヅテ,アーハナラヌト思ヒマス
御上 天候ノ障碍ハドウスルカ
総長 障碍ヲ排除シテヤラネハナリマセヌ

御上 予定通リ出来ルト思フカ オ前ノ大臣ノ時ニ蒋介石ハ直ク参ノレト云フタカ未タヤレヌテハナイカ

総長 更メテ此ノ機会ニ私ノ考へテ居リマスコトヲ申上ゲマスト前提シ日本ノ国力ノ漸減スルコトヲ述へ弾捺力ノアノレウチニ国運ヲ興隆セシムル必要ノアル、コト又困難ヲ排除シツツ国運ヲ打開スル必要ノアルコトヲ奏上ス

御上 絶対ニ勝テルカ(大声ニテ)
総長 絶対トハ申シ兼ネマス 而シ勝テル算ノアルコトタケハ申シ上ケラレマス必ス勝ツトハ申上ケ兼ネマス尚日本トシテハ半年ヤ一年ノ平和ヲ得テモ続イテ困難カ来ルノテハイケナイノテプリマス 二十年五十年ノ平和ヲ求ムヘキテアルト考ヘマス
御上 アふ分ッタ(大声ニテ)

 天皇はかなり突こんだ作戦について質問し、その結果をふまえて、9月6日の「対米(英,蘭)開戦ヲ決定ス」る「帝国国策要領」を裁可したのである。天皇が「私ハ毎日 明治天皇御製ノ 四方の海皆同胞と思ふ代になど波の立騒ぐらむ ヲ拝踊シテ居ル」と述べていることだけで、平和主義者だったとはさらさら言えるものではなく、9月 5日の「御下問」と関連して、木戸内大臣も「対米施策につき作戦上の御疑問等も数々あり」としているように、それが単なる戦争へのためらい(不安)にすぎなかったことは以上の経過から明らかである。

 さらに9月6日の対米英蘭開戦決定以降、天皇は、以下に示すような「御下問Jなどを繰返して太平洋戦争開戦への道を促進していったので、ある。まず9月9日「南方作戦構想ニ就キ上奏ノ際御下問Jでは、次のような遣り取りが行われている。

御上 作戦構想ニ就テハヨク分ッタ南方ヲヤッテ居ル時北方カラ重圧カアッタラドウスルカ
総長 南方ヲ始メタ以上ハ之ヲ達成スル迄右顧左阿スルモノニアラスシテ湛進スル必要カアリマス 又ソウ御願ヒ致シマス 但シ北方ニ事カ起レハ支那ヨリ兵ヲ転用スルコトナトモ致シマシテ中途テ南ヲヤメル様ナコトハイケマセン
御上 ソレテ安心シタ支那カラ兵力ヲ抽出スルコトハ大ナル困難ヲ伴フニアラスヤ
総長 之ハ支那方面テカカ薄クナリマスカラ戦面ノ縮小其他ノコトモヤラナケレハナラヌト思ヒマス 此ノ事ハ年度作戦計画テモ考へテ居リマス ソレテモ支那ニハ心配ハ入リマセン

 以上のように南進政策強行に伴うソ連の脅威などについて、さかんに質問をしており、その結果にもとづいて、9月10日の「対南方動員ニ関スル上奏ノ際御下問」で、

御上 又聞クノテアルカ南ヲヤッテ居ル時北ハ出テ来ルコトハナイカ
総長 絶対トハ申上ケラレマセンカ季節ノ関係上大キナモノト出テ来ルトハ考ヘラレマセン

 というような応答のように一抹の不安を示しながらも、結局、「動員ヲヤッテ宜シイ 。近衛『ルーズベルト』ノ話カマトマレハ止メルダラウ」と、裁可しているのである。少くともこれらの諸事実からみても、天皇の戦争責任は明白である。さらには開戦後の戦争遂行過程、降伏決定過程における天皇の言動が追及されなければならない。

毎日新聞記者栗原俊雄が確認した戦争と天皇責任

 栗原俊雄(毎日新聞記者)の調査・論考「戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う」によって確認された昭和天皇裕仁の御前会議での発言と戦争責任の所在は次のとおりである。内容の基本陽光は、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)に書かれている。

 なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか。毎日新聞の栗原俊雄記者は「昭和天皇は開戦を決めた御前会議で、和歌を詠むだけで、戦争回避を求める発言はしなかった。和歌の意図は戦争回避だったと考えられるが、作家の五味川純平も指摘しているようにそれだけでは不十分だったのではないか」という。

「自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない」という近衛文麿の決意

 1941年9月5日、近衛首相は天皇に拝謁し、大本営政府連絡会議がまとめた「帝国国策遂行要領」(「要領」)を内奏した。
要点は、
(1)日本は自存自衛を全うするため、対米英蘭との戦争を辞さない決意のもと、おおむね10月下旬をめどに戦争準備を完整させる
(2)(1)に並行して米英との外交で要求貫徹に努める。交渉における最少限度の要求は別紙の通り
(3)(2)の外交により10月上旬ごろになっても要求貫徹のめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する
というものだ。

 日本側が求める「最少限度の要求」のうち、主なものは、(A)米英は日本の「支那事変処理」に容喙ようかいしたり、妨害したりしないこと、(B)米英は極東において、日本の国防を脅かすような行為をしないこと、(C)米英は日本が必要な物資を獲得するのに協力すること、である。

 さらに、譲歩できる限度も想定した。

①日本は進駐した仏印(フランス領インドシナ、現ベトナム)を基地として、中国以外の近隣地域に武力進出はしない。
②公正な極東平和が確立した後、仏印から撤兵をする。
③フィリピンの中立を保障する。
というものであった。

 「要求」は、ハル4原則[(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持]と真っ向から対立するものである。その要求をのませる対価として、「中国以外の近隣地域に武力進出はしない」などの前記の「譲歩」①~③は、あまりにも見劣りした。筆者のみるところ、10円で100円を買おうとするようなものだ。

 「要領」は自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない決意をし、10月下旬をめどに戦争準備を終える、10月上旬までに対米交渉で上記の要求を貫徹できるめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭戦争を決意する、という内容である。このときすでに、日本は石油が入ってこなくなりつつあった。対米交渉妥結が延びれば日本の戦力、国力は削られる。交渉に期限を設ける必要があった。

開戦の気配を感じ取った昭和天皇

 外交は相手の意思や都合もある。敗戦後の日米関係ならともかく、この段階での日米関係はどちらかが相手の要求をすべてのむ、という関係ではない。互いの譲歩が必要なのだ。交渉期限を設定してしまうと、互いの譲歩の余地が少なくなる。「開戦決意」までたった1カ月しかない。『平和への努力 近衛文麿手記』を見ると、天皇は以下のように述べた。

 「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点について明日の会議で統帥部(陸軍参謀本部海軍軍司令部)の両総長に質問したい」このあたり、戦争回避を願う天皇の視点は鋭い。危機感が増したのだろう。

 近衛は、「一と二の順番は軽重を表すものではなく、政府としてはあくまでも外交交渉を行う。どうしても交渉がまとまらなければ、戦争の準備にとりかかる」、という趣旨の返事をした。その上で、翌日の御前会議の前に杉山元陸軍参謀総長と、永野修身海軍軍令部総長を呼んで聞くことを勧めた。御前会議には文官もいて、軍事の詳細を話し合うのは、はばかられたためだろう。天皇は「すぐに呼べ。首相も陪席せよ」と命じた。

 「どのくらいの期間で片付ける確信があるのか」天皇は両総長に、要領の順番について近衛にしたのと同じ質問をし、両総長は近衛と同じように答えた。天皇はさらに杉山に聞いた。

 以下、前掲の近衛手記から再現してみよう。

天皇 「日米戦争となったら、陸軍はどれくらいの期間で片付ける確信があるのか」
杉山 「南洋方面だけは3カ月くらいにて片付けるつもりであります」
天皇 「お前は支那事変[日中戦争]が勃発した時の陸相だ。その時、『事変は1カ月くらいにて片付きます』と申したことを覚えている。しかし4年の長きに渡ってまだ片付かないではないか」
杉山 「支那[中国]は奥地が開けており、予定通りの作戦が難しいのです」
天皇 「支那の奥地が広いというなら、太平洋はさらに広いではないか。いかなる確信があって3カ月と言うのか」

 杉山にとって、3カ月で南方作戦を成功裏に終わらせるのは願望であり、それを実現させる確信はなく、確信の裏付けとなる客観的なデータなどなかったのだろう。だから「3カ月」と判断する理由を説明できなかった。永野が言葉を添えた。

「絶対に勝てるか」と大声で問いただした昭和天皇

 本当に「手術」するしかないのか。外交などの「投薬」を尽くしたのか。戦争だけが「手術」で、他にすべはないのか。疑問は残る。アメリカ相手の戦争を始めるにあたり、説得力のある説明は永野といえどもできなかっただろう。戦力で考えたらアメリカに勝てるはずがないし、永野たちも勝てないことは分かっていた。

 「一か八か」のような永野の論法を聞いた天皇は、不安をぬぐえなかった。

 強い言葉でさらに問いかけた(『杉山メモ』)。

御上[天皇] 「絶対に勝てるか(大声にて)」

 天皇が翌日の会議を前にわざわざ2人を呼び出したのは、このことを聞きたかったからではないか。居並ぶ大本営政府連絡会議のメンバーを前に「絶対勝てます」とは、米英との彼我の国力差を考えれば、軍事のプロとしては言えないだろう。かといって「勝てません」とも言えない。そこで本音を言いやすい環境で2人に問うた、ということではないか。

 永野「絶対とは申しかねます。しかし勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申上げかねます。なお日本としては半年や1年の平和を得ても続いて国難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」

御上 「ああ分かった(大声にて)」

 必ず勝つとまでは言えない。しかし、勝算はある。半年や1年の平和を得たとしても、国難が続くことがあってはならない。半世紀先までの平和を考えなければならない。永野はそう言う。その平和は、戦争をすることで見えてくる。そうも言いたかったのだろう。

御前会議の終盤に起きた異常な事態

 天皇の「分かった」は、どういう気持ちからの言葉だったのか。「手術=開戦」に納得したのか。あるいは、いいかげんな説明にうんざりして話を打ち切りたかったのか。開戦過程の研究では、この翌日9月6日の御前会議がよく知られている。

 非常に重要な会議ではあるが、筆者は前日に行われた両総長と首相による、天皇への内奏も劣らずに重要であったと考える。

 天皇は、両総長が対米戦に前のめりになっていることを改めて知ったはずだ。そして、確たる勝算がないことも。そうであれば、文官も含めた各閣僚がいる御前会議の場ではなく、5日のこの時点で戦争回避の意志を強く示すべきであった。永野は「半年や1年……」と述べたが、もし半年ないし1年日本が熟慮を続けていれば、1945年8月の敗戦とは相当違う未来があっただろう。

 6日午前10時、御前会議が始まった。終盤に異常な事態が起きた。同会議では発言しないという慣例があるが天皇はそれを破り、明治天皇の和歌を読み上げた。

 「四方よもの海、皆同胞みなはらからと思ふ代に、などあだ波の立ち騒ぐらむ」(『杉山メモ』)

 「避戦」のための、異例の発言だった。

 「手術=開戦」に納得していなかったことが分かる。しかし、要領は可決された。つまりこの会議から1カ月余り後の10月上旬ごろを期限とし、それまでに日米交渉で日本の言い分が通らなければ、対米英蘭の戦争を決意することが、天皇の前で国家意思として決まったのだ。大日本帝国は戦争へと大きな一歩を踏み出し、ここから破滅への坂を転げ落ちていく。

「避戦」の意思は軍部に伝わったが

 戦中派の作家、五味川純平は「四方の海」の場面について言う(『御前会議』)。

 「発言しない建前の天皇が発言したのは異例のことである。天皇は意思表示せずにはいられなかったと解すべきであろう。もしそうなら、天皇は詩歌の朗読による表現などとるべきではなかった。詩歌は感傷的感慨の表現手段でしかない。事はまさに国運が決する瞬間だったのである」

 天皇の「避戦」の意思は、軍部に伝わった。

 御前会議から帰った東条英機陸相は「聖慮は平和にあらせられるぞ」と述べた。武藤章軍務局長は「オイ戦争なぞはだめだぞっ。陛下はとてもお許しになりっこない」と言った(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。

 しかし、わずか3カ月後に戦争は始まる。

 五味川は嘆息する。「朕は戦争を欲せず、とひとこと言ったらどうであったか。(中略)沈黙の慣例は天皇みずからによって破られているのである。天皇の直接的意思表示が異例のこととして行われたとしても、行われてしまえば、それを輔弼(ほひつ)するのが列席者たちの任務なのである。

 詩歌の朗読では、意思はどれほど明瞭に感取されても、手続きは忖度(そんたく)でしかないから決定力を持たない。列席者は恐懼(きょうく)したが、それだけである」(前掲『御前会議』)

 「「輔弼」とは、明治憲法が定める規定で、各国務大臣が天皇の判断や行動が正しくなされるように務める、というものだ。天皇が「自分は戦争を望まない」と言っていたら、この規定によって避戦へと方向が変わったのではないかと、五味川は見る。しかし天皇はそこまで明瞭に意思は示さなかった。だから、天皇が戦争を望んでいないことは分かっても恐懼=恐れ入っただけだった。

自分たちが作ったデータで催眠術にかかってしまった

 天皇が戦争回避を望んでいることを知った統帥部は、開戦への説得工作を進めた。

 石油や船舶の確保の見通しについて具体的データを示し、対米英戦争は可能、とした。結果的に見て大甘の見通しであった。開戦に前のめりの軍官僚たちも、安心材料が欲しかったのだろう。自分たちが作ったデータが催眠術となり、「何とかなる」と思い込んだのではないか。彼我の国力差を知ってなおアメリカに勝てると本気で思っていたら、それは医学の問題に関わってくるだろう。

 陸海軍ことに海軍には慎重論も根強かった。アメリカとの戦争となれば主戦場は太平洋であり、海軍力が勝敗を大きく左右する。軍艦の保有量などで見ると米英が世界1位と2位で、帝国は3位だった。イギリスはドイツとの戦争で相当の戦力を割かなければならず、アメリカも大西洋に艦隊を配置しなければならなかったが、それを織り込んでも帝国海軍の物量的劣位は明らかだった。「勝てるはずがない。戦争はすべきではない」というのが、純軍事的な判断である。

山本五十六が想像した以上の悲惨な結果になった

 沢本頼雄海軍次官の手記は、連合艦隊司令長官、つまり現場の最高司令官である山本五十六は1941年9月29日、対米戦を予想して、永野に語ったことを記録している。

 「日本が有利なる戦を続け居る限り米国は戦を止めざるべきを以て戦争数年に亘り、資材は蕩尽せられ、艦船兵器は傷つき、補充は大困難を来し、遂に拮抗し得ざるに至るべし。のみならず戦争の結果として国民生活は非常に窮乏を来し、内地人は兎も角として、朝鮮、満州、台湾は不平を生じ、反乱常なく、収拾困難を来すこと想像に難からず。かかる成算小なる戦争は為すべきにあらず」(『戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯〈5〉』)

 アメリカは、日本が有利に戦っている限り戦争をやめないだろう。戦争は数年に及ぶ。日本の資材はなくなり、補給が難しくなる。アメリカに張り合うことは困難になる。日本内地はともかく、併合した朝鮮や植民地の満州、台湾などの統治も難しくなる。勝ち目の小さい戦争はすべきでない。米駐在武官を経験し、相手の国力や国民性をよく知る山本らしい卓見であった。

 戦争はおおむね山本五十六の予想の通りに進んだ。その被害の大きさは山本の想像以上であった。

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目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介





官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介



[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介

[以下は覚書]


通産官僚と大分県知事

地方公務員齋藤勝男

地方公務員吉田としお

製鉄会社の計量技術者二人

夜学から大学へ 石川島播磨の男

工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を
据えるようになった。

ほか

[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html




私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励





指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業
の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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    齊藤勝夫 私の履歴書_斎藤

計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)

計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))

計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
計量士資格認定の申請について
数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
人の言葉の基(もとい)は教養である
産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
田中館愛橘博士と航空の歴史
現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
私の履歴書 安斎正一 目次
古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
古賀茂明 - Wikipedia
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
前川喜平 - Wikipedia
私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)

電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。

日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15

 現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したこと
で話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
 筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
 さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。

 「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
 第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。

計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書
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