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私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
日大の高等工学校に

 中央度量衡検定所(中検)は職員に夜学に行くことを奨励していて、通学にはいろいろな便宜を与え、退庁時間も夜学に間に合う時刻で良いとされていました。夜学に行っていない人がいると、「何故行かないのか」と言われ、多くの人が中学校、専門学校、大学などの夜学に通っていました。

 私も4月から日本大学の高等工学校機械科に通っていましたが、家は代々商人で父は銀行員、中学に入るときも銚子商業か佐原中学かで迷わされていた程なのに、何故理科系の学校を選んだのか今になってもよく分りません。ただ、この時代、理科系優遇の措置がとられ、国としての要求も多くなっていました。同じ機械科に佐原中学の3年ほど先輩で都庁に勤めていた根本さんが通って来ていたのは、驚きでもありました。

ボート部に籍を置く

 この学校は夜学であってもボート部があり、郷愁もあって入部し、授業が終わったあと屋上でスライド式の道具を使い、エイトを漕ぐ練習をしていました。夏休みになって、艇庫に近い向島に合宿所を設営、朝の4時頃から2時間ほどエイトを漕ぎ、朝食後都電で銀座4丁目迄行き、木挽町の中検まで通う日々を2週間程続けました。

 日曜日にはエイトを漕いで埼玉県の方まで上ったりしたものです。合宿の終わりに上級生と浅草で打ち上げをしましたが、ビールの大ジョッキが54銭、大ビンが32銭だったように思いましたが、初めての面白い経験をしました。殆どの人がへべれけで、まともだったのは酒の飲み方を知らない私のほか二人ほどでした。上級生を合宿所まで連れて行くのが大変でした。

東京物理学校に入学

 10月頃までは日大の夜学にも通っていましたが、高等工学校は準専門学校であったし、17才の私に来年からボート部のキャプテンをやれ等と言われた事もあり、さらに、中検には東京物理学校の卒業生が多いし、在学している人も多かったこともあって、翌年から東京物理学校にゆくこととし、夜学は退学してしまいました。

 何故東京物理学校の卒業生が多いのか、その時は分かりませんでしたが、後に、1891年公布された度量衡法施行に伴う、度量衡取締公務員を養成するため、その教育を東京物理学校に委託したことに起因していることを知りました。中検には岡田さんの明治専門学校出を除けば技師は総て東大出で、専門学校出の多くは物理学校出でした。

 私は夜学に行かなくなると、時間を持て余すようになり、万世橋にあった洋画専門の映画館シネマパレスに毎週通い、ここで「格子なき牢獄」などのフランス映画を見たり、飯島さん達に付いて見物や遊びに連いて回っていました。

中検技師の面々

 中央度量衡検定所(中検)は1933年の庶務細則では、本所に1部、2部、3部と庶務係を置くとの規程がありましたが、私が入所した頃は、研究、検査、検定等を技師が分担処理していた模様で、一度も技師を呼ぶのに部長という言葉を聞いたこともありませんでした。

 長さ測定における光波干渉測定で世界的な研究成果をあげた渡辺襄氏が二代目所長で、その下に、本所には米田麟吉技師、今泉門助技師、玉野光男技師、岡田嘉信技師、天野清技師、佐藤朗技師と属兼技手の友森肇さん、大阪支所長に糸雅俊三技師、福岡支所長に的場鞆哉技師が居られ分担して総ての指揮をとっていたようでした。私などから見れば雲の上の方々ですが、先輩達は皆「さん」づけで畏まっているようなところはみえませんでした。

 私なども1年間教えて頂いたこともあって、親しみも感じられ中検時代から「さん」づけで呼ばせていただき、それが続いていました。この頃は食糧事情も厳しくなってきていましたが、まだ外食券なども比較的に余裕があり,銀座にも牡丹、若松などの喫茶店も開いていました。

教習修了祝いに箱根に

 一年間の教習が終わりに近づいた1943年3月、教習責任者の米田さんと神奈川県度量衡検定所長の岩崎栄さんとのお世話で神奈川県度量衡検定所小田原支所の見学と、教習生だけによる箱根湯本での一泊旅行を計画実行していただきました。

 確か吉池だったように思いますが、このときは大阪の西岡さんが引率者になっていました。計量教習の終了と同時に、支所の人たちは支所に帰り、本所でもそれぞれの部署に戻りましたが、私は量衡器係ではなく、新しく比較検査係に配属されました。

比較検査係に配属

 比較検査係は今で言えば基準器検査係で検定に使う当時で言う標準器の器差検査の実施部署で、幹部は玉野光男さん、天野清さん、佐藤朗さんの各技師の下に物理学校出の北村品市さん、竹内喜一郎さんの両技手と後に属となった技手で、教習が一緒だった斎藤勝雄さんがおられ、それに雇員の坂本熈さん、石沢邦治さん、大越正夫さん、宮坂主計さんなどと女子職員では井上みよ子さん、疋田ますさん、神田真砂子さん、松本多美子さんなどのベテラン先輩連がおられ、女子職員の方々は分銅、ます、化学用体積計の基準器の検査を、その他の器種を男性が担当していました。

 男子職員が毎日行っていた業務は湿式ガスメータの検査で、私も先輩達に教えられ早速と3灯、5灯の検査を手伝い始めました。

月給貰いながら物理学校へ

 この4月から飯田橋の東京物理学校にも通い始めましたし、親戚にいつまでも迷惑を掛けていられませんので、石沢さんの世話で千駄ヶ谷の石沢さんと同じ家に下宿することになりました。東京物理学校への入学は、無試験で、戸籍謄本があれば高等師範科に行かれますが、無いと本科で私は本科でした。これは、早くから父親に戸籍謄本を頼んでいたのですが、出願期限までに届かなかったためでした。

月給45円、授業料8円

 千駄ヶ谷での下宿代は朝、夕の2食ついた4畳半で月33円、月給が45円、物理学校の授業料が8円、これで、飢えもせずに生活できたのは、ボーナスと出張旅費とのお陰でしょう。下宿に移った当座南京虫に悩まされたのには閉口しました。

 この下宿には入所直後に配属された量衡器係の職員で、この時は退職していた東山利一さんが時折訪ねてきていました。中検には短い期間しか勤めていなかったようでしたが、彼は右翼の大物影山正治氏に心酔していて影山塾にも入っていたようで、終戦の日に宮城前で割腹してしまいました。下宿から新宿までは歩いても直ぐで、時間を作っては遊びに行っていました。

東京物理学校の夜学

 1943年4月には艦載機による東京初の空襲がありましたが庶務室の窓から見ていた事が思い出されます。物理学校では夜学の1年生が2500人で1組500人、さすがの大部屋も遅く行けば座るところもなく先生の声も聞こえませんでした。

 しかし物理や数学は計量教習での講義の復習が多く、1年の時の出席は半分くらいでした。6月になった頃、石沢さんのお姉さんが伊豆大島のため朝館におられ、大越さんと遊びに行くのに無理にご一緒をお願いし、下駄で三原山に登り、途中で下駄が半分に割れ往生したのを思い出します。

 石沢さんは私を連れて行くのに反対で、物理学校は試験が大変だから、大島などへ行っていては駄目だとのことでした。このとき、いま大島に帰られた白井岩一さんのお母さんにお目にかかった様に思います。

ガスメーター校正の思い出

 学校が夏休みになるのを待って,守衛室の隣にあった11tのタンクによるステーションメーター(大型湿式ガスメーター)の校正を行うことになりました。責任者は玉野さん、そして竹内さん、北村さんに坂本さん達、私も参加し手伝いをしました。

 測定は温度が一定する夜半過ぎから明け方まで、夜10時頃再び出勤する玉野さんは、私などには珍しかったホットケーキを持参されたりして、測定に立ち会っておられました。

 測定の流速が遅いときは待ち時間が長くなるので、本を読んだり囲碁をしたりしていましたが、私は玉野さんと将棋を指したことが忘れられません。囲碁はまだ出来ませんでしたし、将棋も小学校の頃に遊んだ程度、時間を持て余していた私の相手をして頂いたものと思っています。

 当然のことながら一度も勝たして貰えませんでした。10日程かかったこの測定が終わった頃、度量衡の指導者として中国の天津に居られた江浦重利さんが中国の人1人と共に、中検見学のためか1週間ほど比較検査係に通ってこられたことがありました。

 秋に入ると、今度は小型の標準湿式ガスメーターの校正を本館2階の中庭で、縦型のベル型ガスホルダーを使って行いました。

 丁度この頃が国内標準の確認時期にあったようです。ガスメーターの校正が終わった後は佐藤さんの仕事即ち原器室でH型標準直尺の水中での比較を手伝うようになっていました。地下室には横動比較機もあった筈ですのに原器庫の前での作業でした。

 私たち入所1年程の男性4、5人が、ガスメーター、水道メーターの出張検定要員確保のため、白藤静一さん(後岩手県に移られました)から検定の実習を受け、都内出張に行く事ができるようになったのもこの頃です。

検査出張手当で助かる

 出張先は、品川製作所、金門製作所、園池製作所、東京ガス、都の水道局その他で、毎日30人以上もの人々が出張していました。都内出張の手当は半日当で、技手が1円25銭、雇員が1円でした。この旅費は私の生活に随分役立ちました。

 岡田さんを長とした使用中の水道メーター調査が行われたのもこの頃で、成績はあまり良くなかったと思いますが、戦争に必要な金属不足を踏まえ、この結果から有効期間の延長になったようです。

 確かこの年の冬からだったと思いますが、鉄供出のため、暖房がスチームからダルマストーブに切り替えられ、地下室からの石炭運びが男の仕事になりました。温度の急激な変化は測定に影響を与えるため、部屋の中央部付近にストーブ1つが置かれていただけでした。

 休み時間になると先輩の女子職員達は半卓の下にガスコンロを置き、毛布を掛けておしゃべりをしていましたが、良くその中に入れて貰っていました。そんな時天野さんが脇を通ることがあっても、笑っていましたが、当時渡辺所長の主義なのか、男女間の垣根は非常に高いもので、所内では口を聞くのもご法度で、女性はお嬢様、男は何処の馬の骨か分からないと言ったとかで、年配の林さんと言う女子職員の監督者もいて目を光らせていました。

物理学校の2年生に進級

 坂本さんが出征したのもこの頃で、壮行会をするため天野さんと、今のJRで吉祥寺の坂本さんの家までご一緒したことがありました。

 翌1944年はじめ天野さんや竹内さんなどから勉強の便宜を与えられたお陰で、物理学校も運良く2年生になることが出来ましたが、2500人いた1年生が500人になっていたことには、聞いてはいたものの大きな驚きでした。比較検査係の皆さんからお祝いを言われました。

ご褒美とお仕置き

 2年生になったということだけで比較検査係から渡辺所長直属の調査研究係に移されました。

 物理学校出の小池清さんの下で、私と一緒に物理学校に通っていた「馬見塚勝」さんが出征した後任の様でしたが、後で聞いた話では、蓑輪君にはその仕事は向かないと、天野さんはこの移動には反対されたとの事でした。

 小池さんは物理学校夜学で製図の講義を担当していて、私も生徒の1人でした。調査研究係の係長は近藤幸造さんで、ここでは当然のことながら定常的な仕事はなく、ブロックゲージをベンガラや酸化クロムで磨き平面を出すことや、ニッケル鍍金の実験などをさせられていましたが、3週間くらい経ったときのこと、昼の15分前頃にブンゼンバーナーで飯盒の飯を炊いていたとき、突然と渡辺所長が入ってこられ、途端に雷が落ちてきました。

中検の感化院に

 直ぐ謝ればよかったのにと後で言われましたが、見つかってしまったことだし、今更言い訳もと頭を下げて黙っていましたところ、逆鱗に触れたのでしょう、翌日、中検の感化院と称されていた(後から聞かされた話)係長が谷川盈科さんの計圧器係に配置換えになりました。谷川さんから聞かされた話では、所長が玉野さんに、あいつは、馬鹿だか図々しいのかわからん奴だと、言ったとか。

(つづく)

明治専門学校
明治専門学校は山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎らによって、1909年(明治42年)福岡県北九州市に私立の旧制工業専門学校として創立された。1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)に国立九州工業大学になる。明治専門学校には支援と特別講義などのため尾崎行雄、犬養毅、大隈重信、原敬、長岡半太郎、手島精一、益田孝、渋沢栄一、團琢磨、藤山雷太他など訪れている。

米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏
米田麟吉氏は『日本計量新報』のwebサイトに掲載している、蓑輪善蔵氏の「私の履歴書」と齊藤勝夫氏の「私の履歴書」のなかに登場している。小口太郎は1919(大正8)年、東京帝国大学理学部物理学科に入学しており、当時1学年20名か30名であった理学部学生の同級生として芝亀吉、米田麟吉の両氏がいた。小口太郎の名前は科学者としての業績よりも、三高の水上部員時代に作詞した「琵琶湖周航の歌」で知られており、生家のある長野県岡谷市の諏訪湖畔、釜口に銅像が建っている。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい「これこれについてしかじかの条件下で何々が」と長々しい収吾をしつらえ、文末に「……が研究された」と書く。先生それをサッとご覧になって「頭が重いよ」と批評なさる。つまり「主語が長すぎるよ」という意味なのだ。芝亀吉は徳島中学校をてて、のち1918年(大正7年)に第三高等学校を卒業している。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。米田麟吉は東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。3人とも1922年(大正11年)に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。米田麟吉は電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授に転じている。芝亀吉は東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となっている。.米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏。

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私の履歴書 蓑輪善蔵014 (keiryou-keisoku.co.jp)
計量教習の内容
 計量教習は中堅職員の養成を目的にした中検独自のもので、中学校卒業者を対象に、数学、物理、電気などの基礎学科と度量衡器、計量器についての知識と技術を習得させるため、約1年間、勤務時間のすべてを当てて教授するものでした。
 計量教習は大学や高等専門学校を卒業して中検に入所する人が少なかったことにも起因しているようで、1937年(第1期)から開始され44年(第8期)まで続きました。
 1937年の第1期には服部章二さん、木戸作二さん、堀越義国さんなど、第2期には庄司行義さん、中谷昇弘さん、上野三郎さん、勝田仁郎さんなど、第3期には小泉袈裟勝さん、森田ふみさんなど、第4期には川村竹一さん、立川喜久夫さん、小川了さん、大岸修一さん、など、第5期には高橋照二さん、小島鹿蔵さん、後藤信雄さん、中村政人さん、松本恵美子さんなどがおります。

第6期教習生10名
 1943年3月に終了した私達の第6期教習生は10名程でしたが、そのうち長く計量に残っていた方々は、東京本所では飯島肇さん、栗島茂吉さん(後大阪支所)、茂木一雄さん、大坂支所の西岡輝治さん、広島出張所の高橋直倫さん(後広島県計量検定所)、福岡支所の松永三男さんなどでした。教習生側の代表は本所の斎藤勝雄さんでしたが、教習後半の1ヶ月ほどは、飯島さんと共に病気休養していました。

教授陣と先輩
 教授陣は教習責任者で熱学が米田麟吉技師、物理学が玉野光男技師、数学が天野清技師、電気が佐藤朗技師、衡器が岡田嘉信技師と北村品市技手、精密測定が朝永良夫技師と山本保技手、製図が小池清技手、水力学・機構学・化学実験などが外来講師、実習では酒井五郎技手、竹内喜一郎技手の方々だったと思いました。
 朝出勤してから帰るまで、1日中の授業でしたので私などはまるっきり学校の延長気分でした。中学を出たばかりの私が最年少で皆に良くしていただきましたが、特に、飯島さん、高橋さん、松永さんには可愛がって頂き、いつも3人の後ろについていました。

私の履歴書 蓑輪善蔵025 (keiryou-keisoku.co.jp)
渡辺襄所長から的場鞆哉所長に
 1941年、42年には1000万個にも達していた検定個数もこの年には僅か120万個と激減しています。年末には渡辺襄所長の挨拶がありましたが、翌1946年3月には1933年以来の渡辺所長が退職し、前年の1945年福岡支所長から糸雅俊三氏の後任として大阪支所長になっていた的場鞆哉さんが本所長として赴任してこられました。的場さんの後任には本所から
米田麟吉技師が単身赴任し、1953年まで支所長を勤めています。

私の履歴書 蓑輪善蔵028 (keiryou-keisoku.co.jp)
東大卒の入所が相次ぐ
 1947年になると東京大学卒業の人も入所してくるようになるし、1947年、48年には多くの人が入所してきました。加藤芳三さん、川田裕郎さん、増井敏郎さん、坂倉知巳さんや、専門学校出の村田守さん、角田和一郎さん、金田良作さん、天野重昭さん、渡辺修一さん、吉田彰二さん等々の人々でしたが、この頃は人の出入りが激しい時代でした。
本宮大介さんの移籍
 度量衡行政官として海南島に赴任していた高橋凱さん、原田祐之さんと本宮大介さんが復員したのが1946年の早い時期だったと思いますが、4階に寝泊りしていた本宮さんが中検から日本度量衡協会に移ったのがこの年の10月頃でした。
 確か小泉さんと本宮さんの発案だと思いますが、中検内の親睦団体である協和会の事業として、本宮さん名義で収入印紙と切手、それにタバコの販売を始めたのもこの少し後でした。タバコの販売は直ぐに取りやめましたが収入印紙と切手の販売は検定手数料の納付が収入印紙でしたので継続され、数年後からは検定数の増加とともに販売手数料も増え、協和会にも相当額の販売手数料が入金される様になり、観劇、運動会或いは講演会の開催など所員の福利厚生に随分と役立ちました。
講習室に寝泊まり
 サツマイモの買出しなどを主催した庄司行義さんが厚生係長で、食糧が不足していたこの時代に、協和会からとして1、2ケ月おきにA液、B液と称したビール瓶一本宛のエチル・アルコールと白絞油が配られていました。名義は多分、圧力計、温度計と浮ひょうの検定用でしょう。この頃になると兵役から復員してくる人も多くなってきましたが、住む家もままなりませんので4階の講習室に寝泊りする人が増えてきました。
 講習室に寝泊りしていた人々は、前掲の人達のほか、小川了さん、深津惣太郎さん、立川喜久夫さん、小泉袈裟勝さん、川村竹一さん、中原喜敏さん、川田裕郎さん、関口秀雄さんなどでした。



私の履歴書 蓑輪善蔵043 (keiryou-keisoku.co.jp)
第4部長就任への打診が
 計量研の第4部長は豊沢陽二さん、和田功さんから小泉袈裟勝さんになり、1971年から増井敏郎さんになっていましたが、1973年になって筑波移転がいよいよ具体化の段階に入ってきたころ、所長からではなく川田第3部長から相談の形で第4部長に、という打診がありました。
 この話が出る大分前から、第4部長室と同じ3階にあった密度研究室に増井さんが囲碁の誘いに来ては部長室で碁をうち、その時よく4部内の話をしてくれていましたのは、その前提だったのでしょう。薄々は感じていましたが、
増井さんが静岡大学に出向することになって、正式に話がでたときは、何故私なのか、私に勤まるのかどうか、また4部内は筑波移転問題で紛糾中、他の部長は東大出の研究者、また部長になることは私の先行きが限定されるようでもあり、居心地の良い計量研を早く辞めなければ等々ということを考えながら大分迷いました。
当時の計量研究所の体制
 この頃には2人の子供も親の責任がなくなる年になりつつあり、あとは計量研内のことだけで、移転問題の後始末も大変と思いましたが、色々の事情をも考え引き受けることにしました。特に何かの処理を命じられたこともなく、4月から4部長の職に就きました。2流、3流の研究者で、研究や実験が好きではなく、手先の不器用な私としてはそろそろ身の処し方も頭に有ったのかも知れません。
 あとで聞かされた話ですが、私が4部長になることを承諾して、何故か所長が喜んでいたとの事でした。この頃の計量研は山本健太郎所長、桜井好正第1部長、高田誠二第2部長、川田裕郎第3部長、入江義矩総務部長、奈良治郎企画官でした。第4部は大越正夫さんと穂坂光司さんとが課長で研究室長には角田和一郎さん、高橋照二さん、古関武雄さん、木村雄一さん、黒部明さん、村田守さん、検査係長には中保治彦さん、宮川安正さん、沢吹忠雄さん、菊池正明さん等でした。




私の履歴書 蓑輪善蔵051 (keiryou-keisoku.co.jp)
ゴルフは10回しただけ
 ゴルフも計量課の旅行会に参加しては何回か若い人たちとグリーンを回りました。私はゴルフにかかる費用や朝早くから丸1日の拘束には耐えられず、ここまで全然練習もしたことがありませんでした。ゴルフをしなければ人にあらず、の風潮、電車を待つ間も洋傘を振る姿、大きな荷物を混む電車に持ち込むのを見れば、天邪鬼な私は亡国のスポーツなどと毒づいていました。ゴルフはその後熱中しませんでしたが、弟達とのコンペを含めて10指近く、練習もせずにグリーンを回っただけです。初めて計量課のゴルフコンペに参加する前、研修所の鳥かごでクラブを振り練習をしましたが、なかなかまともに当たらず、野球やテニスに自信を持っていた私としては不甲斐ない思いをしたものです。この頃にゴルフの盛んな兵庫県の方々がきましたが、話の中で初めてのグリーンではドライバーは使わず、5番アイアンからにしたらなどと注意されたことが思い出されます。

高橋照二さんの計量研退職
 計量教習所に移って1年ぐらい経った頃でしょうか、高橋照二さんから計量研退職の相談がありました。はかりの専門家として長い間計量法の施行に、教育に、指導に携わってきましたが、先輩、同僚も少なくなり、幹部も若くなり、そろそろ退職の時期と考えたことのようでした。高橋さんは計量研入所、物理学校とも1年先輩でしたが、計量研内では一緒に野球チームを作ったりして同じように過ごしてきていました。高橋さんの希望も聞き、面識はありませんでしたがタニタ製作所の神谷茂社長にお願いに伺いました。快く会っても頂き、話がスムーズに進み、計量研にバトンを渡し、高橋さんはタニタに移りました。
酒井五郎さんと天野重昭さん
 物理学校の先輩で、4部2課長の前任者酒井五郎さんが、千野製作所を退き、後任の推薦と、計量士の仕事に変わりたいとの希望を話しにきたのもこの頃だったでしょう。後任には天野重昭さんを推し、酒井さんの仕事は千葉県の斎藤勝夫さんにお願いし決めてもらいました。

数学、物理の補習授業
 都道府県や特定市から一般計量教習に入所する人の中には、配置転換で他部局から移ってきた人、新卒でも物理の単位を履修していない人や、数学にも馴染んでいない人がいて、講義に苦労する人もいました。少なくとも高校初期位までのものを思い出しておいてほしいので、中原さんにも無理をお願いし、教習が始まる2週間ほどを当てて中原さんに物理、私が数学の基礎を補修授業したこともありました。一般計量教習を終え環境計量特別教習を受講する人達は毎期30名程で、環境計量士の取得を目的にする者約10名内外、それに都道府県や特定市から、指導、監督の立場から必用な知識を得るための人達でした。


私の履歴書 蓑輪善蔵052 (keiryou-keisoku.co.jp)
化学的知識と環境計量特別教習
 都道府県や特定市からの受講者は、物理、工学方面の知識は持っていますが、化学については使うことも殆ど無く、化学的知識を必要とする環境計量特別教習にきて戸惑うことが多かったようでしたので、受講が決まった時、原子記号、分子量などの初歩的勉強を要請したこともありました。そんなことで2ヶ月間の環境に関する授業は、相当に骨が折れたようでした。そこで慰労の意味合いから、特に年配者を中心に都道府県からの受講者何人かを、教習の終了間際わが家に招き、一夜の宴を催したことが数回ありました。
度量衡技術講習等の修了者名簿
 計量教習所の前身は中央度量衡検定所が1903年から行っていた度量衡技術講習ですが、この講習の修了者名簿も無ければ、計量教習の修了者名簿も作られていませんでした。そこで、初めに1903年からの修了者を度量衡協会の雑誌「度量衡」から調べ、1341名の名簿を作り、ついで計量教習の54期までの名簿を、費用が無いためガリ版刷りで完成させました。雑誌「度量衡」を調べるため何日も、暇を見つけては計量会館に通いましたが、本宮大介さんと小泉袈裟勝さんや佐藤次郎さんとご一緒してはお酒を飲んでいたことが思い出されます。
本宮大介さん
 この頃からでしょうか本宮さんは、早く教習所を辞めて計量士会にこい、きてくれと勧誘されていたのを思い出します。艶福家の本宮さんも家族のこともあってでしょうか、早く宮崎県西都市にいる奥さんの所に帰りたかったようでした。
通産研修所バーでの酒宴
 通産研修所には理髪所の他バーもあり、夕刻5時半頃からウイスキーやお酒を傾けることもできました。
 教習所長は地方から受講者の陣中見舞いなどに来所する方々も多く、時にウイスキーなどをいただくくことがあり、これをバーにキープしていましたので、それを飲みながら講師の先生方と懇談していたことが思い出されます。今考えても家が遠いのに、ここでお酒を飲み夕食はどうしたのか思い出せませんが、毎晩遅い帰りだったことは確かです。
 教習生の中には酒豪もいて、家から焼酎を送らせたり、バーでウイスキーを相当数飲み干した人もいたようです。
筑波からの旅費満額獲得
 機械試験所の筑波移転に伴う村山分室の跡地利用問題は、堀所長のときに通商産業省として運動場や計量教習所の環境関係と大型はかりなどの実習設備を含めて土地取得を要求していたようで、この頃に漸く本格化の要求になってきていました。
 要求の必要性と肉付けをさせられましたが、要求の理由付けに教習所が利用されただけであることはこの頃から判ってはいましたが。
 1979年の予算要求は1978年の6月には第一次ヒヤリングがありました。教習所としての主な要求は環境講習、環境教習と一般教習の実験器具の整備、講師の謝金、旅費等で計量課を通してのものでした。この時の要求では、計量研が翌年の後半筑波に移ることになっていたため、計量研からの講師旅費の要求がありましたが、1979年1月はじめ満額が認められました。
米田さんの逝去
 1月15日から福岡、山口、広島、大阪を回って20日に帰ってきましたら、米田さんが亡くなられており、21日の神式による通夜に伺いました。
計量課の意向と所長退任
 1979年になって間もなく、計量研の桜井所長から連絡があり、初めての肩叩きがありました。計量教習所長になる時の、2~3年という話もありましたので、計量課からの申し入れとのことでした。退職するについては、私もまだ54才、次の就職を考えてほしいとお願いしたところ、(財)製品安全協会の検査部長が空いているが、との話がありました。前に計量課にいて、その時には工業品検査所に帰っていた大坪睦治さんに調べて貰いましたが、(財)製品安全協会の検査部長は定年が57才であり、薦められませんとのことでした。
日本計量士会に移る
 桜井所長には自分で見つけるからと就職の世話を断りました。
 本宮大介さんや小泉袈裟勝さんとの義理もあり、(社)日本計量士会に移ることに覚悟を決めたのもこの頃で、この年の3月には退職願を庶務室に預けました。ただ後任人事がスムーズにいかず、私は桜井所長には大阪支所長の高井登さんを推薦していましたが、高井さんの断りなのか、計量課に押し切られたのか、話をしなかったのか、等級的に無理があった渡辺修一さんを持ち出され、強引な取り扱いで、とうとう12月までかかって漸く私も退職することが出来ました。
 計量研からの所長では思うようにならなかった思いが計量課にあったのかも知れません。私が計量士会に移る時に計量課長はただ、計量士会のような格の低いところで良いのか、と言っただけでした。
機振協技術試験所長時代の朝永さん
 国家試験合格者の環境計量講習の実習は、東久留米の鋳物センターで行われていましたが、ここは(財)機械振興協会技術試験所の敷地内で、技術試験所長は朝永さんでしたので、実習があると必ず一度は、鋳物センターに行って、その度ごとに
朝永良夫さんにお目にかかっていたように思います。朝永さんが(社)日本計量協会の会長になられたのもこの頃でしよう。
 朝永さんには都道府県計量検定所長と(社)日本計量協会との関係、その他協会の事情などを話したことが思い出されますが、朝永さんは、専務理事の堀忠良さんを相当に信用されていたようでした。


矢野宏 (工学者) - Wikipedia



徳増伸二(とくます・しんじ)
現職:経済産業省製造産業局参事官(デジタル化・産業システム担当)(併)ものづくり政策審議室長
学 歴: 早稲田大学理工学部卒、同大学院修士課程修了
ハーバード大学ケネディ政治行政大学院修士課程修了
MIT スローン経営大学院修士課程修了
東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了
(博士(学術))

1994年 通商産業省(現 経済産業省)入省
1999年 人事院 長期在外研究員(米国留学(ハーバード大ケネディ、MITスローン))
2001年 経済産業省産業技術環境局計量行政室 課長補佐(総括)
2003年 経済産業省産業技術環境局大学連携推進課課長補佐(総括)
2004年 JETRO ブリュッセル事務所
2007年 中小企業庁商業課課長補佐(総括)
2008年 経済産業省産業技術環境局研究開発課課長補佐(総括)
2010年 内閣官房
2012年 NEDO技術開発推進部 技術開発企画課長
2013年 経済産業省産業技術環境局国際室長
2014年 経済産業省産業技術環境局産業技術総合研究所室長
2016年 経済産業省製造産業局参事官(デジタル化・産業システム担当)(併)ものづくり政策審議室長

徳増伸二 内閣府大臣官房審議官(科学技術・イノベーション担当)
2_member.pdf (meti.go.jp)
https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/joho/conference/semicon_digital/0010/2_member.pdf






矢野宏 (工学者) - Wikipedia
矢野 宏(やの ひろし、1931年5月13日 - )は、日本の計測工学者。東京府東京市(現新宿区)出身[2]。1955年、東京大学工学部卒業。1956年、工業技術院計量研究所へ入所し、のちに力学部長を務めた。

飯塚幸三 - Wikipedia
飯塚 幸三(いいづか こうぞう、1931年〈昭和6年〉6月1日 - )は、日本の研究者、通商産業省技官。東京大学工学博士。

高田誠二 - Wikipedia
高田誠二(たかだ せいじ、1928年3月24日- 2015年)は、日本の科学史家、計量工学者。北海道大学名誉教授。

寄稿 高田誠二 (keiryou-keisoku.co.jp)
米田麟吉
計量史の観点からすれば、木下の最大の功績は、東工大教授兼理化学研究所主任研究員の立場で、大石二郎、天野清の2学究を育てたことであろう。大石は氷点の熱力学温度273・15Kの決定実験で斯界をリードした。天野の仕事は、日本計量史学会ではあまねく知られている。私が木下の謦咳に初めて接したのは、戦後間もない時期の学術会議の「国際度量衡研究連絡委員会・熱分科会」においてであった。天野は既に他界していたが、大石ほか芝亀吉、山内二郎ら学界人と、玉野光男、米田麟吉以下の中央度量衡検定所スタッフが、木下のリードのもとに議論を展開し、断絶していた国際的な学術貢献を再開するための真摯な努力を開始した。




計量史通信 2010年6月20日発行 日本計量史学会
http://www.shmj.jp/tuushin/tuushin65.pdf

東京帝国大学理学部物理学科の同級生 小口太郎・芝亀吉・米田麟吉 顧問 横田俊英

 小口太郎は、1917(大正6)年に三高寮歌「琵琶湖周航の歌」をつくった人である。その一番の歌詞が刻まれた記念碑が、大津市の琵琶湖畔、三保ケ崎の艇庫前に建てられている。彼は1919年(大正8年)に第三高等学校から東京帝国大学理学部物理学科に進学している。卒業後は同大学の航空研究所に入所して研究生活をしていた。

 小口に関して調べていて、東京帝国大学理学部物理学科の同級に、計量の分野で活躍した芝亀吉と米田麟吉がいることを知った。3人とも、1922(大正11)年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。私は久保田誠の供をした機会などに、芝亀吉と米田麟吉に会ったことがある。

 芝亀吉は徳島中学校の出で、1918(大正7)年に第三高等学校を卒業している。東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となった。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。

 米田麟吉は、東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。東京帝大卒業後に電気試験所に入所、1926(大正15)年に中央度量衡検定所に転任した。第一部長、第二部長などを歴任した後1961(昭和36)年に退官して工学院大学教授に転じている。齊藤勝夫は『日本計量新報』に連載した「私の履歴書 齊藤勝夫第7編」の中で、米田を紹介している。戦後第1回度量衡講習の折の様子を「熱力学と温度については、米田麟吉さんが受けもって、常に、あらぬ方向を向いて熱弁。講習生は熱弁にしては、熱が上がらず、浮かぬ顔。米田さんの一人旅は続いて半分程度は合点がいく」と述べている。

 米田麟吉の死に際して、中央度量衡検定所の後輩だった高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と追悼文を寄せている(『日本計量新報』1979年1月28日号)。また、同じく中央度量衡検定所の後輩だった高田誠二は、「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい『これこれについてしかじかの条件下で何々が』と長々しい主語をしつらえ、文末に『……が研究された』と書く。先生それをサッとご覧になって『頭が重いよ』と批評なさる。つまり『主語が長すぎるよ』という意味なのだ。計量研欧文報で『頭が重くない』抄録がお目にとまるとすれば、それは米田先生ご自身か、もしくは先生に『頭が重いよ』と注意された後輩か、どちらかの閲読を経たものといって差し支えあるまい」と書いている。

 さて、芝亀吉と米田麟吉は、小口太郎のことをどのように見ていたのか。小口のことを尋ねられた芝亀吉は「目立った存在ではなかった」と評しているが、米田麟吉は「理学部の二人の教授と話していた時に、小口が『アマゾンのようですね』といったところ、教授が大変感心したのを覚えています。話の内容が何であれ的確な表現で二人を感心させたのは小口の才覚が普通でないことを証明しています」と。このことは飯田忠義著『琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春』に書かれている。芝亀吉と米田麟吉が小口太郎の印象を語ったこれらの言葉は、この二人の人となりを物語っているように思われる。

 ところで、私のつれあいは諏訪を訪れると、諏訪大社下社秋宮のとなりにある「新鶴本店」で 塩羊羹を買うことに熱心である。かつてその「新鶴本店」にいた鈴子という女性は、小口太郎の縁戚であり、小口太郎が恋い焦がれた人であると、飯田忠義が『琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春』の中で述べている。

 人の縁はさまざまにつながっていることを思い知らされる。

諏訪湖畔と「琵琶湖周航の歌」と作詞者の小口太郎(1月13日 撮影甲斐鐵太郎)

小口太郎像の後ろ姿で富士山の方角をみつめる(撮影 旅行家 甲斐鐵太郎)

デジタル版 日本人名大辞典+Plus収録キーワード一覧 72520件目から72590件目 - コトバンク (kotobank.jp)
渡辺襄(わたなべ のぼる)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
わたなべ-のぼる
1881-? 明治-昭和時代前期の物理学者。
明治14年8月生まれ。海軍大学校教官などをへて,大正8年農商務技師兼海運技師,のち工務局中央度量衡検定所長。光波長を規準とする基線測定に関する研究で,昭和13年学士院メンデンホール記念賞。東京帝大卒。

「計量標準の日本における確立と進展」飯塚幸三 氏 (jst.go.jp)

「計測・制御分野のオーラルヒストリーについて」工業計測器の開発-山崎弘郎氏 (jst.go.jp)








































浮草日記 (youtube.com)



オーラルヒストリー 蓑輪善蔵氏インタビュー 「計量制度に係わっ て 69 年」
http://161.34.12.161/book-for-collecting-news-/new-holder-5-news-collection-/2024-02-17-news-materia-content-collection-/digidepo_10632249_po_ART0009947795.pdf
松本榮壽、黒須茂、高松宏之

○小泉袈裟勝さん
 小泉袈裟勝さんのお話をお伺いしたいのですが。(黒須茂)

蓑輪善蔵

 袈裟勝さんはね私より7つ年上でした。背が高い人ですが、干支は午ですよ。彼は1937(昭 和 12)年か 1938(昭和 13)年に中検に入って、それで渡辺襄さんの光の光波干渉の測定を手伝っていたんです。1942(昭和17)年に兵隊にとられてビルマに行ったのかな。出征するときのことも私は知っています。野砲でしたかね。馬の世話をしたりしながら。
 それで帰ってきたときに 、計圧器係がいる3階から小泉さんが 2階の岡田さんの部屋に入ったのを見ました。小泉さんが帰ってきたというのは、上から見ればわかるわけ。役所の中は狭いから。

 「小泉が帰ってきたけれど、手を出すな」と係員に言っていたのを覚えてい ます。小泉さんは、うるさ型で通っていたんですよ。それでけっこう切れるんだよね。彼は頭がいいんですよ。

 長いこと所長をやっていた玉野光男さんにかわいがられて、メートル法の宣伝とか、計量課とのつき合いとか、計量法を基本的にどうするとかという話に携わったりしていました。だから法律も含めて計量全般に関してよく知っているんですよ。行政マンとしての適性もありました。

○進級が難しい物理学校
 旧制中学を出て計量教習を出ているだけなんですよ。それで物理学校へ 1年間だけ行って、2年生になれなかったようです。物理学校って進級が非常に厳しくて簡単には2年になれないんです。

しばらく掲載の計量新報ニュース (keiryou-keisoku.co.jp)

計量法解説 (keiryou-keisoku.co.jp)

:計量法の読み方 - livedoor Blog(ブログ)

「計量法の読み方」全章 |

微分も積分も忘れてしまう東大理三卒の大学教授(2023-05-09)【理3のリアル@50代】 東大医学部卒の弁

フィルムカメラとデジタルカメラの発展の速度の違い

「ハッピーエンド」を聴く。メンバーは大瀧詠一,細野雅臣、鈴木茂、松本隆。


シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。


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