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├計量計測データバンク ニュースの窓-191-小野寺信大佐至急電「日米開戦絶対不可ナリ」「ソ連はドイツの降伏3カ月後に対日参戦」(2)
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├(83) 「日米開戦不可ナリ」|ストックホルム 小野寺大佐発至急電 - YouTube
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├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
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├小野寺信 - Wikipedia
小野寺信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業(31期、歩兵科。歩兵科5位で恩賜の銀時計を拝受。
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├大島浩 - Wikipedia
大島浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。
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├ヤルタ会談 - Wikipedia
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦及び千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本の領土の処遇も決定。
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├バルト海のほとりにて
バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争 小野寺百合子(著)
「ストックホルムの密使」の構想を組み立てる資料の一つが本書であったと後書きで著者が述べています。その詳細を知りたくて、本書を読みました。
著者の夫・小野寺信(スエーデン公使館付武官・大本営陸軍部兼任)が大和田市郎・駐スエーデン海軍武官のモデルで森四郎と行動を共にするコワレスキはイワノフ(注1)のようです。
ヤルタ会談の密約情報(注2)も出てきます。 なるほど、いくつかの事実が参考になっているようです。
(注1)イワノフ
三人目のイワノフは実はロシヤ人ではなくポーランド人で、しかもポーランド軍の優秀な参謀将校ミハール・リビコフスキーであることを夫は私に耳打ちしてくれた。彼は1939年(昭和14年)9月ポーランドがたった2週間のうちにソ連とドイツに攻略され分割されたとき、ルーマニヤ、ベルギー、オランダと逃げまわった末、リガにたどりついて日本の武官小野打さんを頼ったのであった。1940年(昭和15年)9月小野打さんがリガからストックホルムに移ることになったとき、彼もまたさまざまの苦労の末、再び小野打さんを頼って、ストックホルムの日本陸軍武官室にたどりついたのであった。その後小野打さんは駐フィンランド武官となってヘルシンキへ赴任されたが、彼は西村さんの許に残って情報提供者となったのであった。彼は満洲国に居た白系ロシヤ人と称して満洲国のパスポートを持っていた。それはリスアニヤに居た日本領事杉原氏の斡旋でベルリンの満洲国公使館から発行されたもののようである。
イワノフは杉原氏の計らいでベルリンの満洲国公使館発行の満洲国のパスポートを所持していたが、同公使館の秋草俊大佐(ポーランドへ赴任の予定が不能となり、そのまま同公使館総領事の資格でベルリンに居た)が彼に好意を持っていないことを夫は知り、またスウェーデン政府が満洲国を承認していないことも不安であった。そこで夫はイワノフの身柄保護のため、在ストックホルム日本公使館に頼んで、イワノフに日本のパスポートを発行してもらった。当時の代理公使神田(こうだ)嚢太郎一等書記官は快く協力してくた。パスポートの氏名は「岩延平太」と夫が名付け、彼の事務所も日本武官室の中に移した。イワノフは今もそれを感謝している。
(注2)ヤルタ会談の密約情報
この筋の情報で忘れることのできないのは、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談のあとで報告してきた、ソ連の対日参戦約に関するものである。「ソ連はドイツの降伏より3ケ月を準備期間として、対日参戦する」という重大情報を、私は特に心して暗号に組んだことを覚えている。中央からそれについて別に何の返答もなかったが、私どもはそれは当然、中央に届いているものと思い込んでいた。事実はドイツの全面降伏が5月8日、ソ連の対日宣戦布告が8月8日であったから、まさにヤルタ会談の通りであったことを思い知らされたのであった。
出典:バルト海のほとりにて。
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├連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(1):誠実な人柄で情(なさけ)のつながり | nippon.com
2019.11.13
情報大国イギリスが「傑出した情報士官(インテリジェンスオフィサー)」と認めたストックホルム駐在陸軍武官、小野寺信(まこと)少将。ナチス・ドイツのソ連侵攻を見抜き、ソ連が対日参戦する「ヤルタ密約」をつかんで終戦工作に関わった小野寺の足跡を連載でたどる。
「世界標準」インテリジェンス・オフィサー
「日本のストックホルム駐在陸軍武官が、『ソ連の対日参戦』の情報をつかみ、日本の敗戦を認識して、スウェーデン王室筋に日本と連合国の仲介をお願いした」。終戦3か月前の1945年5月、英国政府は英連邦の主要国である自治領だったカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国にこの最高機密情報を打電した。この終戦打診工作を行なった人物こそ、小野寺である。
小野寺は、ポーランドやバルト三国から協力を得て連合国の機密情報を次々と掴み、「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられた。ポーランドをはじめ全欧に築いた情報ネットワークに法王庁(バチカン)も関与し、一端には「命のビザ」を出して6000人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝もいた。同盟国ドイツも、ドイツ保安警察(SIPO)が41年7月作成した報告書で、「日本の『東』部門―対ソ諜報の長はストックホルムの小野寺で、補助役がケーニヒスベルク(現ロシア・カリーニングラード)領事の杉原千畝」と分析していた。
日本陸軍武官室があったストックホルム・リネーガータンのアパート。5階左の出窓のある部屋が武官事務所=筆者撮影
小野寺が成功したのは、ポーランド、エストニア、フィンランド、ハンガリーなど小国の情報士官らと友好関係を築けたためだ。これらの小国はソ連に侵略された共通項があり、祖国再興を夢みながら小野寺を「諜報の神様」と慕い、日本と密接な関係を構築した。
日本では、インテリジェンスといえば謀略や破壊工作など、市民の秘密を暴く、どこか後ろめたい「人を騙して情報を掠める」イメージがある。しかし、回想録で「情報活動で最も重要な要素の一つは、誠実な人間関係で結ばれた仲間と助力者」と語った小野寺は逆だった。他国の情報士官と信頼関係を結んだ誠実な人柄が、類い希な成果を生んだのだ。
新聞など公開情報を分析するオシント(オープン・ソース・インテリジェンス)は勿論、人間的信頼関係を構築して協力者から情報をとるヒューミント(ヒューマン・インテリジェンス)で成功した。リガ(バルト三国のラトビアの首都)、上海、ストックホルムで「人種、国籍、年齢、思想、信条」を超えて多くの人と誠実な「情」(なさけ)のつながりを築いたといえる。
小野寺夫妻が寄贈して、現在もスウェーデン軍事博物館で展示されている軍服と軍刀と、百合子夫人の着物の帯(暗号表を隠すため、外出の際に持ち歩いた)=筆者撮影
ソ連の対日参戦密約をつかむ
欧州駐在陸軍武官で唯一人、ドイツが英国本土ではなくソ連に侵攻すると説き、ドイツの対ソ戦の劣勢をいち早く掴んだ。さらに最も価値があった情報は、45年2月、ソ連のスターリン首相がクリミアのヤルタでルーズベルト米大統領、チャーチル英首相と決めた対日参戦密約だ。日本が最後の拠り所と望みをかけたソ連が背信する密約は、日本の敗戦を決定づけるもので、北方領土問題の原点になる最高機密だった。会談直後に小野寺は、ロンドンの亡命ポーランド政府陸軍情報部からヤルタ密約を得て参謀本部に打電するが、活かされなかった。ソ連仲介和平に奔走する日本の中枢に、握り潰されてしまったためだ。
しかし、ロンドンの英国立公文書館に所蔵されるガイ・リッデル英情報局保安部(MI5)副長官日記には、小野寺が英米を震撼させた情報士官として記されている。リッデル副長官は45年7月2日付けで、こう記した。
「ストックホルムで暗躍したドイツのカール・ハインツ・クレーマーが(ドイツ降伏後、2カ月して)秘密情報の交換のため日本の陸軍武官、オノデラと取り引きをしていたことを認めた。オノデラ情報は、イギリス軍の配備やフランス陸軍、空軍の配置、イギリスの航空機産業、極東の英米空挺部隊の配置、ソ連の暗号表、アメリカにおける原材料の所在地などに関する戦略的かつ戦術的なものだった。オノデラ情報は、クレーマー情報よりも価値があると考え、ドイツが気前よく報酬を支払った」
クレーマーは小野寺が戦後、家族に、「ドイツ随一の情報家」と回想した法学博士のインテリジェンス・オフィサーで、英米情報のスペシャリストだった。MI5は、安全を脅かす危険人物を調査してファイル(KV2)にまとめ、クレーマーに対して14冊も作った。だが、リッデル副長官は、クレーマーより小野寺情報の方が「価値があった」と評した。
リッデル日記に登場する日本の陸軍武官は小野寺だけだ。また小野寺のファイル(KV2/243)はあるが、対ソ諜報第一人者としてベルリンで大戦初期に暗躍した陸軍中野学校初代校長、秋草俊や、スイスで終戦工作を行なった岡本清福中将ら他の日本武官のファイルはない。英国立公文書所蔵公文書はインテリジェンス大国が小野寺を、「国際基準」で第一級の情報士官と認めて徹底マークしたことを物語っている。
終戦工作を英国が自治領と共有
情報収集だけではなかった。終戦工作に関し小野寺は表の外交で解決できないため、「バックチャンネル」(裏ルート)として携わった。ラトビア勤務後、単身乗り込んだ上海で、日中戦争に終止符を打つため、蒋介石との直接交渉の可能性を探った。
大戦ではドイツが無条件降伏する2カ月前の45年3月、リッベントロップ独外相からベルリンに呼ばれて、ストックホルムでの独ソ和平仲介の要請を受けた。降伏直前にも親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長からの依頼で、スウェーデン王室を通じて連合軍との和平を探った。
ドイツ降伏後の同年5月には、ストックホルムで、スウェーデン王室を通じた連合国と日本の和平仲介を打診した。英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、小野寺の終戦工作について、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝えた。英政府は、「日本が初めて降伏の意志を示した」と判断したのだ。
そして、冒頭に記したように、小野寺がストックホルムにおいて、ドイツ敗戦から3カ月後にソ連が対日参戦するという「ヤルタ密約」をつかみ、和平仲介打診に乗り出した工作を、英国は「最高機密」と判断。英連邦の自治領だったカナダやオーストラリアなどと情報共有したのである。その際に、ハリファクス大使は「オーソライズされた陸軍武官は天皇の“代理”となるので、(スウェーデン)国王グスタフ五世は興味を持たれ、何事かアレンジされた」と1回限りの暗号で打電した。
小野寺の終戦工作に関する英自治領省からカナダなどに送られた最高機密情報=1945年5月25日
英国立公文書所蔵の秘密文書によると、英国が小野寺工作を評価した背景には、45年2月に3巨頭がヤルタで署名した「極東密約」について、英国がコピー15部を作成してジョージ国王はじめ戦時内閣の閣僚など中枢が情報共有していた事実がある。米国では、ルーズベルト米大統領が密約文書をホワイトハウスの金庫に封印し、トルーマン次期大統領でさえ、同年7月ポツダム会議に出発まで知らされなかった。
ヤルタ会談直後の1945年2月25日付けで外務省から首相官邸のチャーチル首相の秘書、マーチン氏に送った書簡(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
密約のコピーを配布して情報共有したリスト。コピーには15番まで番号が記され、1番からジョージ国王ら配布先の名前が記されている(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
密約のコピーを配布して情報共有したリスト。コピーには15番まで番号が記され、1番からジョージ国王ら配布先の名前が記されている(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
参謀本部の作戦課が小野寺電報を握りつぶした日本は、和平仲介への淡い幻想を抱き、ソ連にすり寄っていた。これに対し、北欧の中立国、スウェーデンで正鵠を得た情報を元に、ソ連ではなく米英との和平に乗り出した小野寺を、英国はキラリと光る枢軸側の情報士官と評価したのだ。チャーチルは、スターリンの野望を砕くべく米国などアングロサクソン諸国と連携し、ソ連の極東支配阻止に動き出すのである。
バナー写真:ストックホルムの日本大使館でドイツの中将と談笑する小野寺信陸軍武官(中央)=小野寺家提供
岡部 伸OKABE Noburu経歴・執筆一覧を見る
産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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├「バルトの真珠」で学んだインテリジェンスの極意:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(2) | nippon.com
情報大国の英国から「枢軸国側諜報網の機関長」と警戒された小野寺信(まこと)少将(最終階級)。彼が小国の情報士官から機密情報を得ることができたのは、誠実な人柄だけではなかった。ロシア語とドイツ語で高度なコミュニケーションが取れる「世界標準」の語学力を習得していたからだった。
ドイツ語とロシア語で「世界標準」の語学力
岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)で生まれた小野寺は、1912(大正元)年、13歳で仙台陸軍幼年学校に入学する際、ドイツ語を選択し学んだ。「ドイツ語は幼年学校でも士官学校でも優等生であったので、ゆくゆくは陸大を卒業してからドイツへ行って勉強したいと心に期していたし、また自信もあった」(「小野寺信回想録」)からだ。
ドイツ語を得意としていたが、ロシア語にも取り組むようになった。転機はシベリア出兵だ。1921(大正10)年、ロシア極東ニコライエスクに派遣されると、旅団司令部のロシア人タイピスト姉妹、タチアーナ、クラ―ラから活きたロシア語を学んだ。語学の才もあったのだろう。わずか1年で新聞が読め、文章が書けるように上達した。
日露戦争から、脅威となったのはロシアで、ボルシェビキ革命で誕生したソ連も膨張政策を継続し、最大の仮想敵国となった。陸軍ではロシア研究の俊英の育成が焦眉の急だった。小野寺は1925年に陸軍大学校に進む際、ドイツ語で受験。見事合格すると、ロシア語を第1語学として専攻し、頭角を現した。
陸大卒業後は、陸大教官に任用され、1933(昭和8)年5月、36歳で、北満(現在の中国東北部)ハルビンに「短期留学」した。白系ロシア人家庭に1年間ホームステイして、ロシア語を磨き上げたのだ。陸軍有数のロシア専門家となった背景には、上司の小畑敏四郎大佐(当時)の引きがあった。小畑大佐は、当時、陸軍内で抗争した「皇道派」と「統制派」の派閥のうち「皇道派」の旗頭だった。
陸大在籍中の1927年、一戸(いちのへ)百合子と結婚した。百合子夫人は日露戦争の旅順攻略で勇名をはせ、退役後は学習院院長、明治神宮宮司などを務めた一戸兵衛の孫。また父の寛は黒羽藩藩主、大関増徳(増式)の六男で、陸軍皇族付武官少佐を務め、皇室との関係が深かった。この皇室に近い家柄は、小野寺が後にスウェーデン王室を通じた終戦打診工作に生きてくることになる。
ソ連ウォッチャー揺籃の地に
駐在武官として辞令を受けたのがラトビア公使館だった。二・二六事件が起きる1カ月前の1936年1月、バルト海のほとりのリガまでシベリア鉄道で赴いた。「バルト海の真珠」とたたえられる港町リガは、古代から交通の要衝にあたり、ハンザ同盟の時代から欧米のソ連専門家が育つ揺籃の地だった。ソ連と国境を接し、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国は地政学上、ソ連はじめ欧州各国の趨勢をうかがうには絶好だったからだ。
小野寺が駐在した1937年から40年までリガ武官室があった建物(2018年4月、筆者撮影)
小野寺が駐在した1937年から40年までリガ武官室があった建物(2018年4月、筆者撮影)
ロシア革命(1917年)の後、世界最初に誕生した社会主義国のソ連を西側諸国はなかなか承認しなかった(アメリカが承認したのは33年)。中国ウォッチャーが香港に集まったように、ラトビアが第一次世界大戦後の1918年に独立して40年に再びソ連に併合されるまで、首都リガは欧米の外交官や情報士官の対ソ最前線拠点となった。「ソ連封じ込め」政策を提言した米国の外交官、ジョージ・ケナンや、『歴史とは何か』の著者で英国の歴史家、E・H・カーもいた。
駐在していたのは、アメリカ、ポーランド、チェコスロバキア、スウェーデン、エストニア、リトアニア、イギリスとソ連の武官だった。日露戦争で大国ロシアを破った日本は武官団の間でも一目置かれ、スターリニズムの「真実」を探ろうと、ラトビアはじめ各国武官と密接な関係を築いた。欧米の白人は、宗教や文化が近く、片言で通じ合えるが、アジアの黄色人種である日本人が白人の輪に入ることは容易でない。しかし、ロシア語とドイツ語が堪能な小野寺は、臆することなく、家族ぐるみで肝胆相照らした。
百合子夫人は自著『バルト海のほとりにて』で語っている。「一番好意をよせてくれたのがポーランド武官ブルジェスクウィンスキー夫妻で、(中略)夫妻の好意が数年後に、信じ難いほどの厚い信義にまで発展しようとは、当時は思いもよらないことであった」
この後、ストックホルム駐在武官に転進したフェリックス・ブルジェスクウィンスキー武官は、再会した小野寺との友情を大戦終了後まで続けた。気脈を通じたのは、プライベートでも交流を重ねたからだ。3歳でリガに渡った二女の節子さんは、子供の誕生日パーティーでブルジェスクウィンスキーの同じ年の長男から、「人生で初めてプロポーズされた」ことを覚えている。子供が近しくなると親の距離も縮まった。
リガ陸軍武官室の自宅で小野寺(後列右から2人目)や百合子夫人(中列右から2人目)ら勤務していたスタッフ(小野寺家提供)
日独でエストニア工作員をソ連に潜入させる
親友となった武官がもう1人いた。エストニアの武官、ウィルヘルム・サルセンだ。エストニアの情報が質量ともに優れていたため、南のリトアニアと北のエストニアとバルト三国全体を兼任する希望を参謀本部に上申すると、1936年12月許可された。エストニアからの情報でスターリンの大粛正に伴ってソ連軍が弱体化している事情が次々に判明した。
情報収集には経費がかかる。提供の見返りにエストニアに諜報費として年額5000ドル(当時の為替は1ドル=4円で2万円。現在の貨幣価値は1500倍として3000万円程度)支払った。さらに「可能性があるならば広げてくれ」と要請すると、エストニアは極東までエージェントを配置した。その責任者がエストニア陸軍参謀本部第二部長(情報部長)のリカルト・マーシングだった。後に同参謀次長となるマーシングは1940年、ソ連に併合されると亡命したスウェーデンでドイツ軍情報部に入るが、再会した小野寺の右腕として支えた。
特筆すべき業績はエストニアとドイツと共同で行なった日独エ「対ソ」潜入工作だ。日本陸軍は、ベルリンに馬奈木敬信大佐(当時)を長とする参謀本部直轄の謀略組織、「馬奈木機関」を設けた。「小野寺信回想録」によると、ドイツのアプヴェーア(独軍情報機関)と共同で対ソ工作員や諜者を養成し、ソ連に潜入させて、情報収集や暴動を起こし、扇動する計画を立て実行していた。情報が漏洩して未遂に終わったが、スターリン暗殺計画も進めていた。
小野寺とマーシングは、エストニア情報部の工作員を「馬奈木機関」で養成。日本が1938年、ソ連と往復するため、国境にあるペイウス湖の高速船の購入資金1万6千マルクをエストニア軍に提供して高速船を購入し、ソ連に潜入させた。工作員の1人はソ連参謀本部に潜入し、39年まで情報を提供するなど、エストニア人の潜入は極東のハバロフスクや満州まで広がり、ロシア内(レニングラード、モスクワ、ボルガ、東シベリア)にスパイネットワークが出来たという。
世界遺産に登録されたエストニアの首都タリンの街並み(2018年4月、筆者撮影)
リガでの友情、ストックホルムで結実
「馬奈木機関」とエストニア情報部は、①ウクライナで革命家に反体制運動を起こさせる②グルジア(現ジョージア)などコーカサス地方で民族独立運動を支援して体制転覆工作――を試みた。「馬奈木機関」ではソ連から欧州各地に亡命したウクライナ人やグルジア人を工作員として養成、ペイウス湖から工作員を潜入させた。小野寺もテロ用爆弾をベルリンからエストニアまで鉄道で運んでいる。
ただし、大量の工作員をソ連に潜入させることに成功したが、戦後、小野寺は家族に「成果があったかどうかはわからない」と述べているように、ソ連の防諜に阻まれ、テロや暴動など攪乱する結果は残せていないようだ。しかし、多民族国家ソ連の弱い脇腹に、3国合同で工作を仕掛けたことは注目していいだろう。
1938(昭和13)年3月、参謀本部員兼大本営参謀の辞令が出た。リガでの2年間、ポーランドやバルト三国の情報士官たちと緊密な信頼関係を結んだことは小野寺の自信と財産になった。リガで学んだインテリジェンスの極意は諜報活動の基盤となり、後にストックホルムで結実する。リガで友情を育んだマーシングらは、再会した小野寺を「諜報の神様」と慕い、次々に機密情報をもたらしたのだった。
バナー写真:リガ駐在武官団(前列右端が小野寺信、右から2人目がエストニアのサルセン武官、後列右から3人目がポーランドのブルジェスクウィンスキー武官)(小野寺家提供)
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├小野寺信少将について | nejou-33のブログ
小野寺信少将について 2020-08-14 17:18:55
テーマ:小野寺信少将について 小野寺信という人物について述べる。
彼は1897年(明治30年)、岩手県前沢町の役場助役、小野寺熊彦の長男として生まれたが父が亡くなったため、叔父の小野寺三治の養子となった。遠野中学校を卒業後、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業した。陸軍士官学校では、同期の成績上位5名に天皇から軍刀が下賜されていた。
陸軍大学校は小野寺は卒業試験はトップだったがその前の成績が10番以下であったのが響いて総合で6番となり、拝受を逃した。
恩賜の軍刀組 刀袋に入れた恩賜の軍刀を持つ1930年代前半頃の陸軍大学校卒業者
(最左の「首席」1名と「優等」5名)。左腰に佩用している刀は当人が元より所有しているもの
この一番違いの成績は5番以内の成績の者が恩賜の軍刀組と呼ばれ、その殆んどが参謀本部に進む道が与えられたに対して、6番以下は外国の駐在武官などの勤務となった。小野寺信の最大エリートへの道はわずか一番違いで絶たれたのである。しかし、この悲劇が小野寺信を不世出のインテリジェンス・オフィサーの道へ導いたのである。ところが、この話を聞いた旧主の南部利淳が彼の能力とその不運を惜しみ、自ら刀を下賜したのである。
この43代当主南部利淳は東京大学を卒業し、芸術や文化に通じた優れた人物であり、また、学生への給費制度を設けるなど、人材の育成にも貢献した。大正3年(19149)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。
私も南部鉄器について調べたことがあり、拙書にも書いたが、彼が南部藩の旧藩主として小野寺信の実力を見抜き、認め自ら軍刀を与えた事は以上の経過から考えてもありえた事であり、小野寺信もこれを励みにしてその後の人生を精一杯生き抜いたのではないか。
さて下の写真の軍服や日本刀はストックホルムから小野寺信が引き揚げの際にスエーデン政府に寄贈したものであり、今もこうして展示されている。
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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
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