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ドイツとヒトラー時代の経済


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ドイツとヒトラー時代の経済

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計量計測データバンク ニュースの窓-205-ドイツとヒトラー時代の経済

(90) 映像の20世紀「ヒトラー 」/6回シリーズ・日本語版 全編 - YouTube

映像の20世紀「ヒトラー 」/6回シリーズ・日本語版 全編

日本ニュース第241号 - 大東亜戦争

バルバロッサ作戦 - Wikipedia

ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕

アウシュビッツ強制収容所 解放から80年 生存者が語る迫害の歴史と、繰り返さないために必要な事とは【World Report】|TBS NEWS DIG

【4Kカラー】学徒出陣 "出陣学徒壮行会" - Farewell Ceremony for Japanese Students Going War

文部省主催出陣学徒壮行会実況 於 明治神宮外苑競技場

1940年(昭和15年)10月 日本ニュース第17号

ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕
松岡外相のベルリン訪問1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。

ドイツのナチス時代の経済を示す統計数字

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)


ナチス・ドイツの経済

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
   年  失業者数  名目時間賃金率  名目週賃金収入
1929年  1,898,6      122.4      149.4
1930年  3,075,5              
1931年  4,519,7              
1932年  5,575,4       100      100
1933年  4,804,4       97.0      102.2
1934年  2,718,3       96.8      109.7
1935年  2,151,0       96.8      122.3
1936年  1,592,6       96.8      116.6
1937年   912,3       97.0      120.6
1938年   429.4       97.4      126.5
1939年   104,2               
1940年    43,1              

ヴァイマル共和政期の航空機生産数

企業\西暦
           1920   1921   1922   1923   1924   1925   1926   1927   1928   1929   1930   1931   1932   計

Albattros      -      1    -      5     23    24     21    22     23     23    25     13    -   180
Arado        -      -    -      -      -     10    19     8     16     5     4      9    11   82
Casper(英語版) -      -     5      3      9     6     7     7     1      -     -      -    -   38
Domier        2      3    6      8      20    38    23    22     30     21    17     19     9  218
Focke-Wulf     -      -     1     -       2     16    9     7     27     27    14     12    25   140
Fokker        6      15    12     4      -      -    -     -     -      -     -      -     -    37
Fokker-Grulich   -      -     -     -       6     36    -     -     -      -     -      -     -     
Heinkel        -      -    -      1      16     18    22    20     25     32    31     25    38   228
Junkers       74     16     9     79      90    78    69     58     62     73    92     88    27   815
Klemm         1     -     -     -       8     4     4     30     73      82    56    107   85    450
L.F.G         2      6     2      2      2     20    10     -      -      -     -     -     -    44
Messerschmitt   -      -     -      -       3     4     1     7      12     30    57     27    24   165
Rohrbach       1     -     -      1       4     9     5     6      5      12    -      1    -    44
Sablatnig(英語版) 9      9     4     -       -     -     -     -       -      -    -      -     -    22
Udet(英語版)                3      9     15    31      33     41    54    29      4       -    -    219
その他       -       7      5    18      66     112    107   66     81      45    32     9     12   560

計          95      57    47     130     264    406     330   294    409    379    332    310   231   3,284

貿易

ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
    年      四半期            輸入            輸出             貿易収支

1929年 3,354.9 3,054.7 -300.2  3,465.1 3,476.6 11.5    3,338.8 3,487.3 148.5  4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 3,171.0 3,222.0 51.0   2,533.0 2,983.0 450.0   2,440.0 2,923.0 483.0  2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1,919.0 2,420.0 501.0  1,885.0 2,348.0 463.0   1,464.0 2,465.0 1001.0  1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1,251.7 1,605.4 353.7  1,142.7 1,382.4 239.7   1,057.0 1,302.6 244.7   1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1,077.0 1,190.0 113.0  1,011.0 1,188.0 177.0   1,044.0 1,230.0 186.0   1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1,147.4 1,094.3 -53.1  1,152.8 991.9 -160.9    1,056.7 1,005.4 -51.3   1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1,139.7 967.0 -162.7  1,008.7 995.0 -13.7     965.3 1,099.7 134.4    1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1,052.9 1,134.2 81.3   1,058.4 1,107.7 49.3    1,027.6 1,215.8 188.2   1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1,092.7 1,285.2 192.5  1,433.7 1,431.3 -2.4    1,443.4 1,565.8 122.4   1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1,399.0 1,360.0 -39.0  1,482.0 1,354.0 -128.0   1,476.0 1,375.0 -101.0  1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1,445.8 1,333.4 -112.4 1,285.5 1,459.9 174.4    

統計

各国軍需生産の推移(1944年=100)

      1939年     1940年    1941年    1942年    1943年    1944年
ドイツ     20        35       35       51        80      100
日本     10        16       32       49        72      100
アメリカ    2         5       11       47        91      100
イギリス   10        34       59       83        100      100
ソ連     20        30        53       71        87      100


ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%)

産業分野   1938年   1939年   1940年   1941年   1942年   1943年   1944年
原料       21       21      22      25      25      24       21
兵器        7        9      16      16      22      31       40
建物       25       23       15      13      9       6        6
その他の投資財 16      18       18      18     19      16       11
消費財     31        29       29      28     25      23       22

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88

ヒトラー暗殺計画 - Wikipedia

7月20日事件 - Wikipedia

『ヒトラー暗殺、13分の誤算』本編映像

『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』映画オリジナル特報

ワルキューレ

『誰がため』 日本版予告編 FLAMMEN&CITRONEN

ハインリヒ・ヒムラー - Wikipedia
大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しく、目立った戦果はあげられなかった。ドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、アドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図ったが、エルベ川を渡った後の1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日の5月23日に自殺した。

親衛隊 (ナチス) - Wikipedia

ゲシュタポ - Wikipedia

国民社会主義ドイツ労働者党 - Wikipedia


回想記 北京追憶―若者が体験した戦後日中関係秘史―国谷哲資

├ドイツとヒットラー

その熱 日本との大きな差
ヒトラーへのドイツ国民の熱気

ヒトラーとドイツの失業者 対策
ヒトラー時代のドイツ失業率の推移
ヒトラー時代のドイツ経済の推移


ヒトラー時代のドイツ経済の推移
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ナチス・ドイツの経済
ナチス・ドイツの経済(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年から1945年までのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代のドイツ経済について記述する。

概要
 ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達し、社会情勢も不安定となった。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきているが、ドイツの回復は賃金の増大や民間消費拡大をともなわなかった。しかもドイツ経済の足かせであった外貨不足や、輸入困難による資源不足は解決されず、軍備拡大のために膨大な国家債務も抱えることになった。1936年からは自給自足経済の成立を唱えた第二次四カ年計画を開始するが、資源難と労働力不足は改善されなかった。1938年には軍備生産を3倍にするという計画が立てられたが、実務において一貫性はなく、財政危機で破綻した[2]。こうして軍拡も不完全なまま第二次世界大戦の開始を迎えた。

 戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省が指導する体制になった。またポーランド人やユダヤ人の強制労働による占領地からの搾取も始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となると、ドイツの軍需生産は拡大されて総力戦体制の構築が進んだ。しかし戦局の悪化とともにドイツ経済は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えた。

 ヒトラーは1933年2月8日の閣議において、「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、いつでもどこでも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と言明するなど、ヒトラー内閣時代の経済政策はすべて軍備増強を念頭に置かれたものであった。

経済政策の基本には、民族共同体の構築、東方への侵略と植民による生存圏(レーベンスラウム)の拡大、そのための軍拡があった。

航空機産業

1932年は航空機産業の雇用者は3200人、航空機の年間製造数は100機未満だった。その後約10年で、雇用者数は25万人、年間製造数は1万機以上となった。航空機を製造したのはユンカース、アラド、ハインケル、ドルニエ、フォッケウルフ、メッサーシュミットの6社で、いずれも1933年以降に急成長した。ユンカースの他は航空省と次官のエアハルト・ミルヒが主導して国家資金で作られた企業。

貿易

ナチス・ドイツ時代を通じて輸入は1938年第四四半期の15.92億マルク、輸出は1937年第四四半期の16.288億マルクが最高であり、いずれも1930年の水準の半分以下であった。ただし世界貿易に占めるドイツ貿易の割合は1929年とほぼ変わりない水準を維持している。1936年には輸入石油への課税は4億2100万マルクで全税収の30%だった。

対外債務

公的・民間をあわせた対外債務は1933年2月28日の段階で187億2千万マルク。アメリカが40%を占め、次いでオランダとスイスの順。政府は1933年6月に対外債務返済の停止を決定した。対外債務はマルクで返済は続けるが、マルクは外貨に替えられなかった。

軍備経済

1933年の8月1日には軍備計画が立てられ、1939年10月1日の時点で平時軍83万人、戦時軍462万人(野戦軍102個師団をふくむ)の編成を目標としていた。1935年から1938年までの総生産増加分の約47%が軍事支出にあたり、これに再軍備優先の投資を加えると67%となる。1935年の国家の購入による財とサービスの70%は国防軍であり、1938年には80%に増えた。第二次世界大戦開始時の航空機生産はイギリスと同程度、戦車にいたってはイギリス以下であった。

戦時経済

1939年9月のポーランド侵攻から1940年5月のフランス侵攻にいたる一連の勝利によって、ドイツはヨーロッパを横断する経済圏を確保した。経済ブロックにするとGDP合計はアメリカやイギリスよりも大きく、影響下の人口は2.9億人、面積はアメリカより若干小さい規模となる。
イギリスのウィンストン・チャーチル政権は戦争の維持を決めており、アメリカも対ドイツ戦のために軍備を進め、1940年12月にはアメリカで武器貸与法が成立した。ドイツ圏と英米には依然として経済格差があり、特にドイツ圏では食糧、石炭、石油が不足していた。石油はルーマニアからの輸入に依存しており、占領地が拡大すると石油消費は増加して1941年から各地で逼迫した。
アメリカ参戦の前にソ連を制圧するためにバルバロッサ作戦を行った。ウクライナの穀倉地帯やコーカサスの油田などの資源を確保するという経済的な目的だったが、フランツ・ハルダーなどの将軍は作戦の成功について悲観的だった。ソ連は当時のアメリカとドイツに次ぐ経済規模であり、消耗戦になればドイツの不利になることが明らかだった。フランス戦と同様に、ソ連戦も短期間で終わらせることが目標になったが、1941年までにソ連を制圧するという目標は達成されなかった。

財政・金融

戦費調達は債券増発でまかなわれることになり、債務は1944年11月までの間に3091億マルク増加した。ライヒスバンクの対政府信用供与も倍増以上となり、1941年の時点で200億マルクを突破した。

税制では、法人税率が1941年に40%から50%、1942年からは55%に引き上げられた。これによって1941年から1943年にかけて合計30億マルク以上税収が増えた。さらに家賃税の10年分前払いによって80億マルクを徴収した。

貿易

開戦から数ヶ月で輸入量が80%減少し、大恐慌時代(1932年)の30%ほどまで下がった。銅と石油の輸入はほぼゼロとなった。同盟国(ルーマニア、イタリア、フィンランド、クロアチア等)や中立国(スウェーデン、トルコ等)に対しては貿易収支の均衡を維持した。

食糧・消費財

食糧調達は海外輸入が途絶したが、非制圧諸国からの移入により状況は悪化しなかった。他方、ポーランドをはじめ占領された地域は食糧不足となった。食糧配給では、ドイツ人が1人あたり2600キロカロリーで、ポーランド人は609キロカロリー、ユダヤ人は503キロカロリーだった。軍以外の食糧消費額は1942年までに20%減少したが、これは肉類が減少してジャガイモや豆が増加するといった質の悪化によるもので、カロリーベースではほとんど変化はなかった。

1940年を100とすると44年には食糧事情。穀倉地であったウクライナやポーランドを奪還されて以降は、食糧調達を国内生産に頼らざるを得なくなった。1944年以降は食料品の不足が明らかになった。

終戦(敗戦と無条件降伏)

1944年6月にはソ連軍のバグラチオン作戦の開始、米英軍によるノルマンディー上陸作戦による西部戦線の再構築とフランス失陥によって、ドイツは戦時経済の基盤としてきた占領地の多くを失った。そして8月にはドイツの主要な石油供給源であったルーマニアのプロイェシュティ油田を喪失し、燃料不足はさらに深刻になった[273]。1945年には戦局がさらに悪化し、ドイツ国民の平均摂取カロリーは2100キロカロリー、外国人は2000キロカロリー、強制労働者にいたっては生存も維持できない量であった。3月20日、ヒトラーは通称ネロ指令と呼ばれる命令を出し、退却地の生産施設をすべて破壊するよう命じた。この命令はシュペーアの判断によって実行されなかったが、すでにドイツ経済は末期状態となっており、5月に終戦を迎えた。


ゲーリングの時代
 1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった。9月9日、ヒトラーはニュルンベルク党大会において、覚書に基づいた自給経済体制(ドイツ語:Autarkie、アウタルキー)の確立を目指す第二次四カ年計画の開始を発表した。10月18日には四カ年計画施行令が発令され、ゲーリングが四カ年計画受託官として、計画遂行のための全権を付与された。1938年頃には過剰な通貨供給と軍需拡大によってさらに景気が過熱し、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻化した。ゲーリングが12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語った。軍需産業への労働力集中は農業人口の減少を招き、食糧自給が困難になった。1937年11月5日の秘密会議でヒトラー自身も完全な自給経済体制構築は不可能であると述べ、自給が可能であるのは石炭・鉄鉱石・軽金属・食用油にすぎず、食糧にいたっては「まったく無理」であるとした。ヒトラーは食糧自給のためにはヨーロッパ内での領土獲得が不可欠であると述べ、近い将来における戦争準備推進を要求した(ホスバッハ覚書)。1939年10月の時点でガソリン、ゴム、鉄鉱石、銅、ボーキサイトの備蓄量はわずか半年分に過ぎなかった。


当事者たちのドイツ経済の分析
 1938年6月2日、国防軍国防経済局とライヒスバンクの共催で会議(ライヒスバンク、国防軍の軍事経済スタッフ、権威ある経済学教授たちが出席)での議論の結果。

 取り上げられた問題点。


1、財政的なその場しのぎの手法(メフォ手形など)。
1、一元化されていないドイツ負債の危険性。
1、公的債務の限界。
1、さらなる消費制限の可能性。
1、ライヒスバンクによるお金と信用創造の管理。
1、将来的な企業部門からの信用要求の増加を満たす可能性。
1、政府発注が一時的に緩和した場合デフレ兆候の危険性。
1、公的部門以外のバブル経済の危険性。
1、誤ったうわべだけの資金流動性が広がることの危険性。
1、企業の自己資金繰りによる危険性。

ドイツ国防軍の主任エコノミスト、ゲオルク・トーマスの分析
(国民所得における軍備の負担)

 1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマス(英語版)が分析した国民所得における軍備の負担は次のとおり。(英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回る)
1、ドイツ23%
1、イギリス12%
1、フランス17%
1、アメリカ2%
 トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった

所得
 1936年の完全雇用時点では、全納税者の62%の1450万人は年収1500マルク以下で週給30マルク・時給約60ペニヒにあたる。ブルーカラー労働者の年収は1500から2400マルク、ホワイトカラー労働者は3000マルクだった。
アメリカやイギリスとの経済格差は大きく、同時代のアメリカのデトロイトと同水準の生活をベルリンやフランクフルトでするには5380マルクから6055マルクが必要だった。1930年代後半にラジオを購入できたのは半数の世帯であり、イギリスは68%、アメリカは80%だった。


ドイツとヒトラー
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アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者として、ドイツを独裁国家に導きました。ナチスは第二次世界大戦を勃発させ、全世界で6000万人にも及ぶ犠牲者を生み出しました。
【ヒトラーとドイツの関係】
ヒトラーはオーストリア出身でしたが、ドイツ国民を扇動してナチスを興隆させました。
1923年にドイツ政府の転覆を謀った罪で逮捕され、投獄されました。
1933年1月にドイツの首相に任命され、ドイツの民主主義に終止符を打った。
恐怖政治によって、個人の自由やプライバシーを奪いました。
1945年4月30日に自殺しました。
【ナチスによる支配】
ナチスは人種差別主義と全体主義に基づき、基本的な自由を廃止しました。
「民族(Volk)」共同体の形成を求め、ドイツのすべての社会階級と地域を統合することを目指しました。
文化、経済、教育、法律をナチスの管理下に置きました。
商業組合を廃止し、労働者や従業員、雇用主をナチスの組織に強制的に組み込みました。


AI による概要
詳細
アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政党「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」の指導者で、ドイツの民主主義を破壊し、一党独裁国家を樹立しました。
【ヒトラーとナチス政権】
1920年にミュンヘンでナチ党の最初の公開会議が開催され、ヒトラーは「25か条綱領」を発行しました。この綱領には人種差別を具体化した内容が盛り込まれていました。
1933年1月30日にヒトラーがドイツの首相に任命され、ナチス政権が樹立されました。
ナチスは、出版や言論、結社の自由を奪い、恐怖政治によって目的を達成しました。
ナチスは、ユダヤ人やロマ民族(ジプシー)、政治的反対者らを迫害しました。
ナチスは、労働組合を支配し、独立した労働者の代表を消滅させました。
【ナチスと第二次世界大戦】
ナチスは第二次世界大戦を勃発させ、全世界で6000万人にも及ぶ犠牲者を生み出しました。
1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ドイツは1945年5月7日に西側連合国に、5月9日にソ連軍に無条件降伏しました。


ヒトラー なぜ人気
AI による概要
詳細
ヒトラーが人気を集めたのは、ドイツの復興や愛国心を高めるという期待、ヴェルサイユ条約の賠償金の負担軽減への期待、社会民主党政権への不信感、世界恐慌による経済破綻と失業の増加などが理由でした。
【理由】
ドイツ民族の復興や愛国心を高めるという期待
ヴェルサイユ条約の賠償金の負担軽減への期待
社会民主党政権への不信感
世界恐慌による経済破綻と失業の増加
ヒトラーが支持された背景には、次のような事情がありました。
ドイツはヴェルサイユ条約で多額の賠償金を課されており、ヒトラーならその負担や生活の困窮を何とかしてくれると期待された。
それまでの社会民主党政権に対する信用がなかった。
世界恐慌で経済が破綻しており、失業者が増加していた。


ヒトラーとドイツの失業者 対策
AI による概要
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ヒトラー率いるナチス政権は、失業対策として、経済政策や公共事業の建設、租税の軽減などを行いました。
【経済政策】
大企業や富裕層への増税
株式の配当を最大6%に制限し、残りの利益は国の購入に充当
資産家や大企業によるマネー・ゲームの取り締まり
メイドを雇った者の所得税の減税
家の改築を行った者の減税
労働者や低所得者層への大減税
【公共事業の建設】
ドイツとオーストリアを結ぶ高速自動車道路網「アウトバーン」の建設
住宅建設、農業向けの特別計画
【租税の軽減】
企業の税負担を軽減
企業の収益能力増大を促進
【失業減少のための法律】
ラインハルト計画(財務省次官ラインハルトにちなむ計画)


ヒトラー時代のドイツ失業率の推移
AI による概要
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ヒトラーが政権を握った1933年頃のドイツの失業率は30%を超えており、経済は麻痺状態でした。その後、失業率は減少していきました。
【失業率の推移】
ヒトラー内閣成立時に失業者は600万人いた
翌年春には失業者は300万人を割った
1936年春には失業者は200万人を切り、1937年春には100万人強にまで落ちた
1938年夏には失業者は20万人ほどとなった
【失業対策】
ヒトラーは、失業対策として、アウトバーン(ドイツとオーストリアを結ぶ高速自動車道路網)の建設事業を通じて雇用を生み出しました。また、1930年代後半からは軍事最優先の生産活動である四カ年計画を実施しました。
【経済恐慌】
ドイツは1929年に始まった世界経済恐慌に痛めつけられ、工業生産は30年前の水準にまで落ちました。経済的困窮はナチ党の急速な支持上昇に貢献しました。


大島浩の生い立ち

 のちに陸軍大臣になる大島健一の長男として愛知県名古屋市に生まれる。その後は東京で育ち1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学。1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。東京陸軍地方幼年学校の同期には東条英機がいる。

 大のドイツびいきであった父健一は、息子の大島浩に対しては、ドイツ語教育とドイツ流の躾をし、ドイツ語の単語を一日ごとに10語暗、陸軍幼年学校時代は週末にドイツ人の家に行きドイツ語会話をさせた。長期休暇はドイツ人の家庭で過ごした。軍人となってのちドイツに駐在すると、ドイツ人青年にドイツ語を習い、そのときの教科書は『ロシア革命』(ローザ・ルクセンブルク著)や、『手紙』(カール・リープクネヒト著)であった。

陸軍武官である大島浩はドイツ語に秀でた才能を示していたことからドイツ駐在武官としての経歴が長く、つづいてドイツ大使になった。第一回目が 1938年(昭和13年)10月8日で、同時に予備役編入、駐ドイツ大使に任命。第二回目が1939年(昭和14年)12月27日、大使依願免職。1940年12月にドイツ大使に再任。第一次世界大戦による疲弊からの復興と連動する国家社会主義のナチス党の台頭の熱気、狂乱のなかにいてヒットラーに心酔してしまった。


ヒットラーに心酔させたしまったドイツ駐在武官としての大島浩の履歴


大使第一期回目  1938年(昭和13年)10月8日から1939年(昭和14年)12月27日


 1921年(大正10年)、ベルリンに赴任し、ドイツ大使館付陸軍武官補佐官に着任する。1923年には、オーストリア大使館付陸軍武官としてウィーンに赴任。オーストラリアはこののちにドイツと一つの国になる。オーストリア駐在武官時代に、アメリカ大使館職員からアメリカの暗号表を入手している。1934年に再度ベルリンに駐在。政権の座についていた国民社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチス党の上層部と接触する。大島浩の独自の行動である。こうしたことを通じて日独同盟の下地をつくった。その後日本と英米との関係が悪化する中、大島は親独派が多い日本陸軍中央と通じて、1936年に日独防共協定の締結の裏役になっている。1938年(昭和13年)にドイツ大使に就任したのは、当時のドイツ大使であった東郷茂徳を退けてのことであった。

このころの駐英特命全権大使であったのが吉田茂。親英米派の吉田茂に対して親独派の大島浩とされている。

 大使就任した大島浩は、政治家ならびに外交官にしてナチス党幹部のヨアヒム・フォン・リッベントロップと親しくなり、アドルフ・ヒトラー総統と面識を持つようになる。

 しかし1939年8月25日にドイツの独ソ不可侵条約締結を、日独防共協定違反として日独同盟交渉中断を日本政府は閣議決定する。平沼 騏一郎内閣は日独防共協定違反の政治責任により総辞職。独ソ不可侵条約締結は日本の政界も揺がした。大島浩に責任が及び帰国命令がでる。帰国後に大使を依願免官の措置。


大使第二期回目  1940年12月から1939年(昭和14年)12月27日


 大島浩の後任に任命されていた来栖三郎は、1939年9月に始まった第二次世界大戦での日独伊三国同盟が締結の状況において、枢軸国外交に親米とされる来栖は不適任と判断された。大島浩は1940年12月に駐独大使に再任。1941年3月27日には松岡洋右外務大臣のベルリン訪問時には松岡・ヒトラー会談に同席。1941年4月には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に攻め込むことを察知していた大島浩は、ベルリンに来ていた松岡洋右に対して日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言。しかし日ソ中立条約は締結される。また、1941年6月5日にヒトラーと会った大島は、ドイツがソ連に戦争を仕掛けることを察知し打電する。松岡は取り合わなかった。

 大島のこのときの情報は後に大本営においては大島情報は正しいという思い込みをさせることになる。大本営は大島浩情報を第一とし、ソビエト大使あるいはスエーデン駐在武官の小野寺信の戦況情報を従とし、実際には信頼の薄い情報として取り合わなかった。ドイツのソ連のモスクワとスターリングラードへの侵攻が失敗したことが判明していた状況下において、1941年12月8日の日本の対英米戦争の宣戦布告となる。開戦の数カ月前にロシア戦でのドイツの敗北を知っていた小野寺信は「日米開戦絶対に不可なり」の電報を何度も大本営向けに打っている。

日本大使館や日本の駐在武官が本国との通信の電文はドイツにもイギリスにも解読されていた。 暗号解読におけるアラン・チューリングの功績の詳細は国防の意味もあって、事実上1970年代まで秘密にされていた。


アラン・チューリングとドイツの暗号解読


イギリスはアラン・チューリングらによって1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功した。解読成功を隠したためドイツ軍は終戦までエニグマを使用してうた。日本からの電報も暗号によるものであったが戦後になって解読されていたことが判明する。

チューリングは、第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校にてドイツの暗号を解読する手法を考案。英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となり、エニグマ暗号機を利用したその通信における暗号機の設定を見つける機械「bombe」(ボンブ)を開発した。

 第二次世界大戦に先立つ1938年9月からイギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始めたチューリングは、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読を担当した。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)とイギリスおよびフランスの関係者によるワルシャワでの会合で、ポーランドが解明したエニグマのローター回路の情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を土台にして解読に取り組むが、ポーランドの解読法はドイツ側の暗号のキーを変える解読できない状態だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe(ボンブ)の機能仕様に盛り込まれた。

ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)における暗号解読者はレイェフスキ。1932年
12月、シュミット情報を元にレイェフスキは3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。ローター解析には群論が用いられた。ドイツは暗号発信者に安易な開始位置設定をしないように求めても、今度はキーボード配列を借用したQAY, PYX等の鍵が多発する。このころの鍵探索法はgrill-methodとであり、プラグボードが6組しか置換していなかった。このためにエニマグによって発信される暗号の解読された。

戦後のチューリングは、イギリス国立物理学研究所 「NPL」 に勤務。プログラム内蔵式コンピュータの初期設計のひとつであるACE (Automatic Computing Engine) に携わったその完成を見ずに異動。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータである Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。


ドイツの文化に染まり切っていた大島浩


 大島浩はドイツ国のナチスの政策に傾倒し心酔していた。父親による教育を通じて大島は「姿勢から立ち居振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」と言われていた。「ナチス以上の国家社会主義者」と評したのは、アメリカ人ジャーナリストのウィリアム・L・シャイラーである。

ヒットラーとは駐ドイツ大使として交流があった大島は、ヒットラーは「私が酒好きだということを知っているものですから、私にだけキルシュといういちばん強い酒を出す」と話している。「ヒットラーの頭のいいこと、天才であることは疑いのないこと」とも。

すべて戦後の述懐だが「私は2回ドイツ軍を視察しているんですよ。実に立派な航空機を作ったもんだと、爆撃の装置もよし、射撃もよし。これは(日本)軍のパートナーとして不足はないと」と話す。

ヒットラーへのドイツ国民の熱狂以上に大島浩はヒットラーに熱狂し「ドイツが勝つだろうという前提に立ってやった」のである。


 重複するが第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)になっても日本政府は大島浩だけを信じていた。駐スイス公使阪本瑞男によるドイツ第三帝国瓦解を知らせる電報をを無視した。ヒットラーの本部が発するドイツ有利の戦況報告を大島はそのままに受け取って、日本政府に報告し続けた。

 同じころにスエーデンのストックホルムに陣取る駐在武官の小野寺信は、ポーランドの武官で少佐の〇〇××がヤルタ会談の密約を手に入れて小野寺に伝え、それを小野寺が日本政府に打電していたのであった。ポーランドの武官で少佐の〇〇××のドイツにおける諜報活動は1980年代以降に米マスコミで取り上げられ、〇〇××が取得した情報のほとんどが正しいものであることが確認されている。


 ドイツを一方的に信じ続けた大島による日本への戦況報告の暗号電報は、すべて連合国側に解読されていた。大島ならびに日本国政府の戦況理解の不正確さを英米連合国は察知していて、その後の作戦の遂行に反映した。ソ連軍の1945年8月9日の満州侵攻、日本の都市爆撃などもそれである。小野寺信はドイツ降伏後三カ月を準備期間としてソ連が日本に攻め入るという〇〇××を通じてもたらされたヤルタ会談の密約を日本に打電していた。和平の仲介にソ連を頼ってはならない、と。小野寺信はスエーデン国王の親族の多数が英国の高級将校になっていること、国王の甥が日本と連合国の和解のための仲介の中継ぎを国王にするなどの手筈をしていた。日本政府が小野寺信のスエーデン国王の仲介を依頼してきたのは1945年8月15日であり、その知らせが届いたのは翌日の8月16日であった。ソ連が満州に進行してきたのが8月9日であり、それを知ったのちのことである。


 1945年4月にはソ連軍がベルリンに迫った。日本大使館の大島大使にドイツ政府は高官らと共にオーストリアの温泉地であるバート・ガスタインに避難させた。この時の大島浩の行動がエピソードとして残されている。

 当時外交官補でのちに外務省アメリカ局長を務めた吉野文六は、大島から決死隊としてベルリンに残留するよう命じられたこと、避難地のバート・ガスタインまで酒とつまみを持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍航空機の機銃掃射を受けながらドイツ人運転手と必死で届けた。こうしたことを吉野文六が回想している。

 ドイツ敗戦後の1945年5月に大島はアメリカ軍に拘留、アメリカ・バージニア州のベッドフォード・スプリングスに移送され、8月の終戦を迎える。11月にワシントン州・シアトルから他の外交官などとともに日本に送還され、12月6日に日本に到着。このときに大島は「私は政府の指示に従っただけだ」「日本到着後は政治家にでもなるかな」と同行者に話していたという。戦犯としては無罪であることを主張していたのであった。

 極東国際軍事裁判の法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と証言。また三国同盟を主導したことなど自身に不利になることには一切話さなかった。判事による投票において、大島は1票差で絞首刑を免れた。



 士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。
軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。
 陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。
 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。
 将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。
 国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。
 戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。


小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。

大島浩

大島 健一[2](おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日)[3] - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。

年譜

大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。

1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学[3]。1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。東京陸軍地方幼年学校の同期には東条英機がいる[3]。

1905年(明治38年)11月 - 陸軍士官学校(18期恩賜)卒業。
1906年(明治39年)6月 - 陸軍砲兵少尉に任官。
1908年(明治41年)6月 - 中尉に昇進。
1915年(大正4年)12月 - 陸軍大学校(27期)卒業。
1916年(大正5年)5月 - 大尉に昇進。
1916年(大正5年)7月 - 重砲2連隊中隊長。
1917年(大正6年)2月 - 参謀本部配属。
1918年(大正7年)8月 - シベリア出張(~1919年(大正8年)2月)。
1921年(大正10年)5月 - 駐ドイツ大使館付武官補佐官就任。
1922年(大正11年)1月 - 少佐に昇進。
1923年(大正12年)2月 - 駐オーストリア公使館兼ハンガリー公使館付武官就任。
1926年(大正15年)8月 - 中佐に昇進。
1928年(昭和3年)8月10日 - 砲兵監部部員[33]。
1930年(昭和5年)8月1日 - 野砲兵第10連隊長に就任し[33]、大佐に昇進。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部防衛課長[33]。
1934年(昭和9年)3月5日 - 駐ドイツ大使館付武官昇進。
1935年(昭和10年)3月15日 - 少将に昇進。
1935年(昭和10年)10月 - ナチス党外交部長リッベントロップと初会談(二元外交始まる)
1936年(昭和11年)11月25日 - 日独防共協定調印
1937年(昭和12年)11月 - イタリア、日独防共協定に加わる。
1938年(昭和13年)3月1日 - 中将に昇進。


東條英機

東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日) - 大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。

年譜

東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日[注釈 1] - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。

番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:戸山高等学校)[3]、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。

1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。

東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日[注釈 1] - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。

1905年(明治38年)
3月30日 - 陸軍士官学校を卒業(17期生)。
4月21日 - 陸軍歩兵少尉に任官。近衛歩兵第3連隊附。
1907年(明治40年)12月21日 - 陸軍歩兵中尉に昇進。
1912年(大正元年) - 陸軍大学校に入学。
1915年(大正4年)12月11日 - 陸軍大学を卒業。陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長。
1916年(大正5年) - 陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
1919年(大正8年)8月 - 駐在武官としてスイスに赴任。
1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍歩兵少佐に昇任。
1921年(大正10年)7月 - 駐在武官としてドイツに赴任。
1922年(大正11年)11月28日 - 陸軍大学校兵学教官に就任。
1923年(大正12年)
10月5日 - 参謀本部員(陸大教官との兼任)。
10月23日 - 陸軍歩兵学校研究部員(陸大教官との兼任)。
1924年(大正13年) - 陸軍歩兵中佐に昇進。
1926年(大正15年)3月23日 - 陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官に就任。
1928年(昭和3年)
3月8日 - 陸軍省整備局動員課長に就任。
8月10日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。
1929年(昭和4年)8月1日 - 歩兵第1連隊長に就任。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長[3])に就任[17]。
1933年(昭和8年)
3月18日 - 陸軍少将に昇進。参謀本部付。
8月1日 - 陸軍省軍事調査委員長に就任。
11月22日 - 陸軍省軍事調査部長に就任。
1934年(昭和9年)
3月5日 - 陸軍士官学校幹事に就任。
8月1日 - 歩兵第24旅団長に就任。
1935年(昭和10年)
8月1日 - 第12師団司令部付。
9月21日 - 関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に就任。
1936年(昭和11年)12月1日 - 陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日 - 関東軍参謀長に就任。
1938年(昭和13年)
5月30日 - 第1次近衛内閣の陸軍次官に就任(1938年(昭和13年)12月10日まで)。
6月18日 - 陸軍航空本部長に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
12月10日 - 陸軍航空総監に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
1940年(昭和15年)
2月24日 - 臨時軍事参議官に就任(1940年(昭和15年)2月26日まで)。
7月22日 - 第2次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に就任。
1941年(昭和16年)
7月18日 - 第3次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任。
10月18日 - 東條内閣の内閣総理大臣に就任。
同日 - 陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任(対満事務局総裁は1942年(昭和17年)11月1日まで)。
同日 - 内務大臣に就任(1942年(昭和17年)2月17日まで)。
同日 - 陸軍大将に昇進。


「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2024年06月20日号「日本計量新報週報デジタル版」
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2024年06月20日号「日本計量新報週報デジタル版」
志賀直哉作小僧の神様とハカリ技術の変遷
志賀直哉 - Wikipedia

小僧の神様 - Wikipedia
 「小僧の神様」(こぞうのかみさま)は、1920年(大正9年)に雑誌「白樺」1月号に発表された志賀直哉の短編小説である。この作品がきっかけで、志賀は「小説の神様」と呼ばれるようになるほど知名度を上げる。

あらすじ
 神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。

 鮨を奢られた仙吉は「どうして番頭たちが噂していた鮨屋をAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。一方Aは人知れず悪いことをした後のような変に淋しい気持ちが残っていた。

 ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し惨酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。

登場人物

仙吉
神田のある秤屋に奉公する十三、四の小僧。

番頭
仙吉の奉公する秤屋の番頭。ある秋、若い番頭と鮨屋の話をする。

若い番頭
仙吉の奉公する秤屋で働いている。鮪の脂身が好きでそのことを番頭に話題にされる。幸(こう)と呼ばれている。

A
若い貴族院議員。同僚に通の話を説かれ屋台鮨に赴く。

B
Aの同僚。鮨の趣味の通をAに説く。後にAと共にY夫人の音楽会に行く。

Y夫人
AとBが参加する音楽会を主催。力強い独唱がその前に感じたAの「淋しい気持ち」を和らげる。

屋台の鮨屋の主
仙吉が最初に入った鮨屋の主。仙吉が取ろうとした鮪のお代が足りないこと指摘し、その後彼が手放した鮨を食べて処理する。

松屋の近所の鮨屋の主
充分食べておくれとお代を渡したAのことを仙吉が顔馴染みでないと言ったのを聞いて、かみさんと顔を見合わせる。

かみさん
松屋の近所の鮨屋に連れて来られた仙吉を案内する。障子を締め切り、仙吉が遠慮せず見栄もなく食いたいように食えるようにする。

細君
貴族院議員のAの細君。Aが仙吉に鮨を奢った後感じた淋しい気持ちを打ち明けられる。
Aとの間に幼稚園になる子供がいる。

伯母
仙吉の伯母。お稲荷様信仰が極まり、仙吉の前でも予言やものの言い当てをしたことがある。

作者
物語の最後に現れて、書かないことにした結末を読者に示す。

テレビドラマ
 1957年、日本テレビの『山一名作劇場』(山一證券一社提供。火曜20:00 - 20:30)で放送された。脚本:梅田晴夫。演出:池田義一。出演:木村功・鈴木春夫・加藤治子・島田妙子。

 1962年5月6日、NHK総合テレビの『こども名作座』で放送された。出演:中条静夫
日本テレビ 山一名作劇場。


読者の声

読者の声

 『小僧の神様』は寿司を食べたいけど、お金がなくて食べられない少年が、謎の紳士にごちそうしてもらうという童話チックなお話。ほかにも志賀直哉らしい短編が並ぶが、全体的に素朴で、単純過去形な文体で、事実を淡々と述べていくので、さっぱりとしていて、気取りがなく、壮健に思える。ただ意外にも行間の意味を狙っている手合いなため、難渋でやや高尚な印象はどうしても拭えない。気取りがないように見えて、実は気取っているように見える(隙がないからである)。ああ明治・大正の文学だな、というふうに思う。


 志賀直哉の代表的短編集。好人物の夫婦がよかった。


 読まなくてはいけない本代表の日本選考で、14位くらいの位置を長年キープしているので、中学いらいはじめて読んでみたが、なにせ登場人物が軽々と事故にあったり流血したり死んだりして芸がない。人権とか人格とかの概念が観念的にしか理解できない世代だったのだろう。


 仙吉はうわさの鮨屋になけなしのお金を持って足を運び旨そうな握りを横目に巻きずしを頼む。巻きずしはなく握りに手を伸ばすも物価高のあおりで値上がり、お金が足りず元に戻す。恥ずかしくその場を離れたのをAが見ており奢ればよかったと後悔する。秤屋で再開し寿司を奢ることはできたが偽善を感じたのかあまり嬉しくない。満腹になった仙吉はAを神様と思う。今だと見知らぬ人についていかないし奢ってもらうなんて何かの罠かと思い怖すぎるが、今より貧富の差があったとしても小僧なりの世界と幸せがあったんだろうな。みんな大学の今は幸せか。


 やはり、芥川が憧れるだけのことはあるよねー、仙吉の戸惑いAの自分の行いへの懐疑的心情表現がとても巧いと思う。さすが小説の神様だなーって感じです笑。そんな神様も芥川龍之介の相談には全然乗れないし。太宰治の作品はダメとか言って、また、太宰はキィーってなったり、この時代の文豪はマジで可笑しいから好き。生き様がもうドラマチックでまさに文豪なんですよね。


 秤屋に奉公している小僧さんの話。いつの時代も、どの階層の人たちも、美味しい店の情報をやりとりしてきた。小僧さんにとっては屋台の鮨屋は背伸びしてやっと手の届くものであったが、国会議員にとってはB級グルメレベルなのだろう。結局小僧さんは、普通には絶対食べることができない美味にありつけた。そのご馳走をしてくれた紳士(国会議員)は、小僧にとって正に神様ともいうべき存在であった。


 この岩波文庫は1928年(昭和3年)に第一刷が発行されました。「小僧の神様」という小説は、1919年(大正8年)に発表されました。名作で、以来志賀直哉は「小説の神様」と言われるようになりました。本が売れるので、昭和3年から昭和8年まで5年間小説を書きませんでした。1933年(昭和8年)に「万暦赤絵」を出すと、当時文芸時評をしていた川端康成が「わたしも一昔前志賀氏を『小説の神様』として耽読した一人であるが、近頃読み返そうとすると、その神経の『我』がむかむかとして堪えられなかった。」と余りほめて貰えなかった。


 全集の中から。小僧…が読みたかった。小僧にご馳走した後で「変に淋しくなった」のがいい。これがなければただの童話になってしまう。またその気持ちを友人には話さず奥さんに言うのもいい、そして奥さんが「それなんかわかるわ」って言うのも。志賀直哉いいわあ。


 鮨が食べたくなってきました。 「小僧寿し」の由来はこの小説なんですね。


 中学生の試験対策で『小僧の神様』を再読。貴族院議員のAが抱いた変な気持ちの中身について一緒に考えた。富める者の気まぐれによる善行と見ると、信仰心なき偽善的行為を恥じているようにも映るし、格差社会に対し政治家として目を背けているようにも映る。このAの内面がテストで問われるし、「神様」というタイトルに深みを与えると思う。「偽善」以外なら、利己・利他的という表現も使えるかもしれない。


 『小僧の神様』が好きだ。『小僧の神様』は、終わり方が素敵。歯痒い気もするが、ああいう最後だからこそAは小僧の神様でいられたのだと思う。


 小僧の神様は、著者志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以。此れ程迄に読者を暖かい気分にさせる文章は無い。


「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2024年06月20日号「日本計量新報週報デジタル版」
志賀直哉作小僧の神様とハカリ技術の変遷
日本計量新報 社説(98年5月3日号~8月30日号) (keiryou-keisoku.co.jp)
■社説・計量史学へのかかわりのすすめ(98年8月2日号)
 計量史学に関わることを推奨したい。古い計量器の歴史的考察、計量制度の歴史的考察の中に現代計量行政史、現代計量法制史を含めてはどうであろう。計量史学は現代を生きるすべての人々に関わり、また計量の仕事に就く人々にとってはその業務を計量史学的な視点から捉えることは有効である。このような視点に立つには計量史学会の会員になることが早道であり、最近では大手の計量器事業の経営者が入会している。

 日本計量史学会は「あなたも『はかる』をモチーフに、歴史を一緒に学びませんか」「当学会は自由な雰囲気で運営されている全く新しい“開かれた学会″です」と入会を呼びかけている。入会資格は特に問わない。計量史学に興味・関心がある者、計量史学を研究している者、関連分野の研究をしている者など、だれでも自由に入会できる。同好会のつもりで入会することでも構わない。学会費は年額七千円 。会員には年一回発行の『計量史研究』、年に何回か発行される『計量史通信』が刊行のつど無料送付される。

 入会申込先は次のとおり。
 〒175-0082 東京都板橋区高島平4-16-1 TEL・FAX03-3979-9117
 日本計量史学会事務局、郵便振替番号00170-9-66974

 日本計量史学会は会員百二十名ほどのこじんまりとした学会で、計量器の製造および販売事業者、計量士ほか計量関係者、計量公務員ならびにOB、街の計量器コレクターならびに研究家、学校・研究所等の教員・研究者、図書館や博物館等が会員になっている。

 学会の目的は「度量衡を含めたすべての量の計量に関連する歴史的な研究とその普及をはかること」。事業内容は定期刊行物になっている『計量史研究』『計量史通信』の発行、「計量史を探る会」の開催、計量に関する歴史的資料の調査、国内外の学会・団体・機関との協力など。

 日本計量史学会の設立は一九七八年。欧州では計量史を近隣諸国で共同研究することの必要性の認識が一九五五年頃から高まり、このうえで地球規模の視点からの研究を目的に一九七三年には国際計量史委員会が創立され、三年に一度の国際会議を開いて国際的な交流をはかっている。日本計量史学会は世界で最初の計量史学に関する地域の学会として、国際計量史学会から公認されており、また計量史学に関する研究や調査に関する事業の業績が高く評価され、『計量史研究』には海外からの研究論文の投稿がある。

 計量史学的な視点から計量制度を精察する必要性を説く論調があり、関連した研究では岩手県の会員、吉田和彦氏の地域の計量史研究、近代・現代の計量行政史研究が光彩を放っている。

日本計量新報 社説(99年9月~12月) (keiryou-keisoku.co.jp)
■社説・計量単位SI切り換えと今後の対応(99年9月19日号)
 計量法は計量の基準を定めることと、適正な計量の実施を確保することを使命にしている。計量の基準を定めることは適正な計量の実施の確保の前提になる。計量の基準となるものは計量単位のことである。
 計量単位は国際度量衡総会の決定に従い国際単位系(SI)を用いることとなっており、計量法はこれを法定計量単位として定め、取引または証明のための計量に用いることを強制している。

 現行の計量法は一九九二年(平成四年)五月一日に公布、一九九三年(平成五年)十一月一日に施行されたが、旧法の全部を変えた法律になったその要点の一つが計量単位のSI(国際単位系)化促進である。つまり取引・証明に使用できる計量単位から非SI単位を排除することを決めており、非SI単位使用の猶予期限を三段階に分けていたが、その最終の猶予期限がこの九月三十日である。移行の難易度に応じて実施時期が定められていたものの最終年の最終月が今月であり、改めて切り換え完了の確認を関係者に求めたい。

 今月末で使用の猶予期限が切れる計量単位は重量キログラム等に関係した単位で今後はニュートン、パスカル、ジュール、ワットなどを用いなければならない。圧力分野のトル、血圧測定分野の水銀柱ミリメートル、栄養分野のカロリーは例外として使用が認められる。

 猶予期限後の非法定計量単位である非SI単位は取引・証明に使用できない。ただし非SI単位による製造設備ならびに計量器の使用に関しては猶予期限後でも計測値をSI単位に換算するのであれば使用ができる。

 非SI単位の目盛りの付いた計量器の修理に関しては、猶予期限以前に製造したものであれば必ずしもSI単位の目盛りの付いた計量器に替える必要はないが、修理証明書はSI単位に基づく数値に換算していなければならない。なおSI化の完全実施という精神に立つ場合には、修理の際にSI単位の目盛りに替えることが望ましい。

 また法定計量単位から削除された非SI単位が付された計量器は、猶予期限以前に製造されたもの以外は販売できない。つまり猶予期限以前に、削除対象計量単位が付されたままで製造された計量器は、猶予期限後でも販売はできる。

 猶予期限後のもう一つの取扱いの例外として次の事項が挙げられる。
 猶予期限以前に削除対象計量単位が付された文書情報、商品その他の物件は、変更がない場合に限って猶予期限後も取引・証明に使用できる。

 SI使用に関連して多くの困惑が伴うのがカタログに記載する計量単位の表記である。カタログそのものは取引・証明の概念から外れるものであるから、計量単位に法定計量単位であるSIの表記は強制されない。しかし工業界ではJIS等にSIを採用していることから大概はカタログにもSI単位で表記されている。単位が非SIからSIに移行する場合には商品の購入者の混乱を少なくするために法定計量単位に従来単位を参考として併記することは許容される。
 参考事例は次のとおりである。

例 暖房能力3.5kW{3000kcal/h}
 {}内の数値及び単位は、参考として示したものです。 計量法の非SI単位の使用を禁止する猶予期限は一週間ほどを残すのみとなったが、SI採用についての努力は今後とも怠ることはできない。またSI採用の優等国である日本が今後とも世界に誇れる計量先進国、計量模範国であることを願う。
 (参考のため本紙面別項(下段)に計量単位関係の計量法本法の条文を記載する。)

日本計量新報 社説(00年9月~12月) (keiryou-keisoku.co.jp)
■社説・計量制度とトレーサビリティ思想(00年12月3日号)
 日本の計量法トレーサビリティ制度への産業界からの要望の一つは、産業の現場で必要としている計測標準がもっと身近に手軽く、そして安く供給されることだが、供給される標準の種類とその供給体制は需要実体とかなりの隔たりがある。

 日本の公的計量標準の供給制度は計量法が定めた「認定事業者制度」を骨格として形成されており、これが一般に計量法トレーサビリティと呼ばれている。認定事業者は定めに従って実施した計量器の校正や標準物質の値付けに対して国家標準とのつながりを証明するロゴマーク付きの校正証明書を発行できる。この制度は平成五年十一月一日施行の計量法とともに始まったもので既に六年が経過している。
 トレーサビリティをJISの計測用語は「標準器又は計測器が、より高位の標準によって次々と校正され、国家標準につながる経路が確立されていること」と規定しており、校正とは「標準器、標準資料などを用いて計測器の表す値とそのその真の値との関係を求めること」と規定している。

 計量の国際基本用語(VIM)は、トレーサビリティを「不確かさ(ずれの範囲)がすべて表記された、切れ目のない比較の連鎖を通じて、通常は国家標準又は国際標準である決められた標準に関連付づけられ得る測定結果又は標準の値の質」と定義している。

 トレーサビリティの用語に直結する考えは、一九六〇年代の米国の宇宙開発における計測結果の一貫性を担保することでシステムの信頼性を確保するための方策として発生した。用語の単純な意味としてのトレーサビリティとは、トレーサブル(traceable)であることから出ており、それはもとを辿ることができるということである。一般的に計測に関係してトレーサビリティといえば、ユーザーが使用している測定器の標準の源をトレースしていくこと、精度のレベルによっていろいろな経路を経たとしても、標準の値が次々と移し替えられて最終的に国家標準に達することができることをさしている。

 計量計測の世界では「トレーサビリティ」というと現在は二つの概念が存在する。一つはトレーサビリティを技術的・一般的な意味で用いることに発生する概念であり、もう一つは計量法トレーサビリティである認定事業者のJCSSロゴマーク付きの校正証明書付きの校正を意味する概念である。この二つの概念がトレーサビリティに重なっているため混乱が生ずることが多い。

 旧来からある純粋な技術的な意味でのトレーサビリティと、国家標準につながることを計量法が制度として定めた国が認定した校正事業者のJCSSロゴマーク付きの校正証明書発行の制度としてのトレーサビリティが明確に区別できることが望ましい。

 トレーサビリティの歴史に関して、トレーサビリティ思想の沿革を振り返ると自主的任意的なトレーサビリティの考え方と、国の計量法令と直接に結びついた標準と校正の水準を示すことを中心にした考え方の二つがあり、これの折衷的な考え方まである。どちらかが他方を完全に排除するう考え方で押し通すことができないのがトレーサビリティが純粋に技術に由来する側面を持つからである。


森と林と高原のホテル 甲斐鐵太郎


JCSS登録・認定事業者検索 | 適合性認定 | 製品評価技術基盤機構 (nite.go.jp)
登録区分

長さ
質量
時間・周波数及び回転速度
温度

角度
体積
速さ
流量・流速
振動加速度
電気(直流・低周波)
電気(高周波)及び電磁界
密度・屈折率

トルク
圧力
粘度
熱量 [標準物質]
熱伝導率
音響・超音波
濃度 [標準物質]
放射線・放射能・中性子
硬さ
衝撃値
湿度


自動車の社会的費用とその負担

山本理顕 - Wikipedia

【代表作】建築家山本理顕の建築作品9選 (takearch1894.com)


「建築界のノーベル賞」プリツカー賞受賞の”闘う建築家”山本理顕さん 社会の息苦しさは”建築で変えるしかない”【World Report】 (youtube.com)

移植医療 神戸大学医学部附属病院 腎臓内科 吉川美喜子先生

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年輪年代学 - Wikipedia

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微分も積分も忘れてしまう東大理三卒の大学教授(2023-05-09)【理3のリアル@50代】 東大医学部卒の弁

フィルムカメラとデジタルカメラの発展の速度の違い

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シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。


旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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計量計測のエッセー ( 2018年1月22日からの日本計量新報の社説と同じ内容です。)


旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
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夏森龍之介のエッセー

田渕義雄エッセーの紹介

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日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する

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