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計量標準総合センターなど産総研の採用基本情報


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計量計測データバンク ニュースの窓-217-計量標準総合センターなど産総研の採用基本情報



計量公務員への就職事情

産総研:採用情報 (aist.go.jp)

2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】

2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】

採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)

応募要領(2025年度)
 ※今年度の応募受付は終了しました。
募集職種 総合職
雇用形態 常勤職員(任期の定めのない定年制の職員)
試用期間 採用日から6か月間
※試用期間終了前後において、雇用条件に差はありません。
(職責手当については、通常4か月目より支給。)
応募資格 以下2つの条件を満たすこと。
・ 大学卒業(または見込み)以上
・ 1996年(平成8年)4月2日以降生まれの者
※補足:新卒・既卒不問。但し、次に該当する者を除く。
・ 禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又はその刑の執行を受けることがなくなるまでの者。
日本国籍を有していない場合は、採用予定日までに日本国内における当研究所で就労するために必要な在留資格を取得すること。
採用予定日 原則として、2025年4月1日
主な職務内容 多様な業務により最先端の研究所の運営をマネジメント
勤務時間 1日7時間45分(休憩時間1時間)、週38時間45分勤務
所定労働時間を超える労働有り
勤務形態 フレックスタイム制又は標準時間制
勤務地及び採用予定人数 本部:つくばセンター(茨城県つくば市)、東京本部(東京都千代田区)

地域センター等:北海道センター(北海道札幌市)、東北センター(宮城県仙台市)、福島再生可能エネルギー研究所(福島県郡山市)、柏センター(千葉県柏市)、臨海副都心センター(東京都江東区)、北陸デジタルものづくりセンター(福井県坂井市)、中部センター(愛知県名古屋市)、関西センター(大阪府池田市)、中国センター(広島県東広島市)、四国センター(香川県高松市)、九州センター(佐賀県鳥栖市)

主たる勤務地は本部。ただし、転居を伴う地域センターでの勤務の可能性あり。
(採用予定数:20名程度)
備考 受動喫煙防止措置に関する事項:屋内禁煙(屋外喫煙場所あり)

待遇
月給 学部卒業 月給:227,600円以上(職責手当15,000円を含む)
修士修了 月給:241,000円以上(職責手当15,000円を含む)
※2023年4月入所職員の7月実績
※職責手当については、通常4ヵ月目より支給。その他については経験・年齢・能力等を考慮の上、弊所規定により決定する。
昇給 年1回(7月)
賞与 (業績・期末手当)年2回(6月および12月)
その他諸手当 扶養手当、超過勤務手当、住居手当、通勤手当 等。
休日・休暇等 土日、祝日及び年末年始(12月29日から1月3日まで)。
年次有給休暇(年最大20日付与。残日数は20日を限度として翌年に繰越可)。
病気休暇、特別休暇(夏季、育児、結婚、出産、忌引 等)。
育児休業制度、介護休業制度あり。
※産総研は子育てサポート企業として「くるみん認定」(厚生労働大臣認定)を受けています。
福利厚生 健康保険・年金加入(経済産業省共済組合加入)、雇用保険・労働者災害補償保険加入。
貯蓄・貸付制度等、託児施設(つくば・中部・関西)、診療所、体育館、テニスコート、宿泊研修施設 等。
研修制度等 階層別研修、分野別研修、派遣研修、外国語学校・資格取得補助制度、 メンター制度、OJT制度 等。

主な職務内容
募集期間:2024年2月19日(月)~2024年3月28日(木)23時59分
領域等の名称をクリックすると、各テーマの概要をご覧いただけます。
<エネルギー・環境領域>
1. エネルギー、環境、資源の問題解決に挑戦する技術開発
<生命工学領域>
1. 少子高齢化等の課題解決に貢献する生命工学に関する研究開発
<情報・人間工学領域>
1. 人と共栄する情報技術に関わる研究開発
<材料・化学領域>
1. 材料技術や化学技術に関する研究開発
<エレクトロニクス・製造領域>
1. グリーン・サステナブル半導体製造技術に関する研究開発
2. 超⾼効率コンピューティングを実現する集積回路システム設計に関する研究開発
3. 循環経済に貢献する製造技術の⾼度化に関する研究開発
4. 非連続な技術革新を実現する新機能材料・デバイス技術に関する研究開発
<地質調査総合センター>
1. 地圏環境の利用・保全及び開発に関する研究
2. 海底鉱物資源の分布域把握に資する探査技術の研究開発
3. 火山の中長期活動予測に向けた地質学・岩石学ないし地球化学的研究
<計量標準総合センター>
1. 気体流量計測技術に関する研究開発
2. 地球温暖化抑制に資する新規代替冷媒の状態方程式開発
3. 質量標準高度化のための分銅校正システム開発
4. 幾何学量の精密計測技術に関する研究開発
5. 微弱光分光計測技術の高度化とその応用研究
6. テラヘルツ波の精密測定および計量標準に関する研究開発
7. 実電磁環境の評価と機器共存技術に関する研究
8. 光コムの量子コンピュータへの応用
9. 電気化学計測を用いたpH測定の技術開発
10. ナノ粒子の計測技術および計量標準に関する研究開発
11. ガスセンサ応答性評価のための多成分標準ガス調製技術と計測技術の開発
12. ナノ材料の寸法・形状校正技術の研究開発
13. 低湿度の標準発生と計測技術の研究
14. 放射線治療で用いられる放射線計測技術の研究開発
15. 先端量子ビーム計測技術開発とその応用
16. インフラ・構造材料の健全性評価と非破壊検査技術の研究開発
17. 多軸運動の計測信頼性評価技術とその応用

【募集終了】計量標準総合センター(NMIJ)5daysインターンシップ
計量標準総合センター(NMIJ)では、大学院修士課程に在学中の学生(修士課程1年を推奨)を対象に5daysインターンシップを開催予定です。
※詳細は募集要項をご確認ください。
対象
大学院修士課程に在学中の学生(修士課程1年を推奨)
開催方法
産総研つくばセンターにおける対面開催
開催日時
8月5日(月)~8月9日(金)


<量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター>
1. 量⼦技術に関する研究開発

勤務地
北海道センター(北海道札幌市)
東北センター(宮城県仙台市)
福島再生可能エネルギー研究所(福島県郡山市)
つくばセンター(茨城県つくば市)
柏センター(千葉県柏市)
臨海副都心センター(東京都江東区)
中部センター(愛知県名古屋市)
北陸デジタルものづくりセンター(福井県坂井市)
関西センター(大阪府池田市)
中国センター(広島県東広島市)
四国センター(香川県高松市)
九州センター(佐賀県鳥栖市)
※勤務地は従事する研究課題により決定されます。

採用実績
人数
(内、女性人数) 2020年度入所 2021年度入所 2022年度入所 2023年度入所 2024年度入所
6(3)人 7(4)人 9(2)人 7(3)人 18(12)人

2024/4/1 2024年度第1回研究職公募を開始しました。【終了しました】
2024年度はパーマネント型研究員を170名規模で採用します。皆様からのご応募をお待ちしております。

024/4/2 2024年度地域型任期付職員の公募を開始しました。【終了しました】 産総研:事務職員募集:募集職種 (aist.go.jp)


中途採用比率
「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」に基づき、中途採用比率の公表を行っております。
公表日 : 2022年3月7日
2018年度 2019年度 2020年度
正規雇用労働者の中途採用比率 63.5% 66.1% 61.9%

国立研究開発法人 産業技術総合研究所(産総研/AIST)の新卒採用・会社概要 | マイナビ2025 (mynavi.jp)

国立研究開発法人 産業技術総合研究所(産総研/AIST)
常勤職員数
2,866名(研究職:2,183名、事務職:683名) [2023年10月1日時点]

技術を通じて、社会課題解決と産業競争力強化に挑む
■最先端の研究×社会への橋渡し
産総研は、科学技術によってイノベーションを生み出し、「社会課題解決と産業競争力の強化」に貢献することをミッションとしている国の研究所です。特に、産業化/実用化を見据えた応用的な研究に力を入れており、その研究成果を社会や企業に橋渡しをして技術を使ってもらうことで、企業や社会全体への貢献をしています。
■日本最大級×世界最先端
職員約6,000人に加え、外部からの研究員などを含めると約1万人が、全国12カ所の研究拠点で働いています。研究領域も幅広く、直接的な宇宙開発/原子力開発以外の研究分野をすべて網羅しています。また、組織の歴史は古く、1882年に設立された地質調査所にルーツを持つ歴史と伝統のある組織です。加えて、2016年には日本に3組織しかない特定国立研究開発法人に認定されるなど、国からの信頼も厚く、今後も更なる発展が期待されています。
■総合職(文理/学部学科不問)と研究職(修士卒)
・総合職
産総研では、文理/学部学科不問・公務員試験なしの総合職という職種が活躍しています。研究所は、研究者だけの組織ではありません。
総合職は、「研究成果を社会へ橋渡しする業務」や「研究者が研究成果を生み出しやすくなる仕組み/環境づくりをする業務」に貢献しています。
・研究職(修士卒)
産総研では、 修士卒で入所する研究職を募集しています。採用選考の際、公務員試験を受ける必要はありません。修士課程修了後、博士卒の同僚とともに産総研で研究者として働きながら、並行して博士号の取得を目指すことができます。
研究領域等:【エネルギー・環境】、【生命工学】、【情報・人間工学】、【材料・化学】、【エレクトロニクス・製造】、【地質調査】、【計量標準】、【量子・AI】

本部所在地 茨城県つくば市梅園1-1-1 中央事業所 つくば本部・情報技術共同研究棟
本部電話番号 029-861-2000
設立 2001年4月1日(※1882年(約140年前)の農商務省 地質調査所が由来)
資本金 2,779億9,141万円
常勤職員数 2,866名(研究職:2,183名、事務職:683名)
[2023年10月1日時点]
売上高 国立研究開発法人のため売上高はありません
予算 1,812億75万円(2023年度3月決算)
組織名 国立研究開発法人 産業技術総合研究所
(さんぎょうぎじゅつそうごうけんきゅうしょ)
英語名称 National Institute of Advanced Industrial Science and Technology(略称:AIST)
理事長 石村 和彦(いしむら かずひこ)
所管省庁 経済産業省(METI)







【産総研への就職】就職難易度・採用大学や総合職・研究職の年収もご紹介 | JobQ[ジョブキュー] (job-q.me)
産総研の採用大学・実績
<大学院>
茨城大学、岩手大学、大阪大学、お茶の水女子大学、金沢大学、京都大学、慶應義塾大学
神戸大学、首都大学東京、千葉大学、筑波大学、東京大学、東京医科歯科大学、東京工業大学、東京農工大学、東北大学、東北学院大学、徳島大学、名古屋大学、日本女子大学、一橋大学、北海道大学、明治大学、横浜国立大学、立命館大学、早稲田大学。
<大学>
青山学院大学、茨城大学、大阪大学、大阪府立大学、お茶の水女子大学、金沢大学、関西大学、関西学院大学、学習院大学、北里大学、九州大学、京都大学、岐阜大学、慶應義塾大学、神戸大学、静岡大学、首都大学東京、信州大学、上智大学、成蹊大学、成城大学、千葉大学、中央大学、筑波大学、東京大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京工業大学、東京農工大学、東京薬科大学、東京理科大学、東北大学、鳥取大学、同志社大学、名古屋大学、一橋大学、法政大学、北海道大学、明治大学、山形大学、横浜国立大学、横浜市立大学、立教大学、立命館大学、早稲田大学、その他国公立大学・私立大学より採用実績あり。
産総研の採用大学を確認したところ、全体的に国立大学や有名私立大学が目立ちます。
全国各地の大学からの採用実績があるようです。

産総研の採用実績
年度 男性(名) 女性(名) 全体(名)
2021 14 17 31
2020 16 15 31
2019 18 13 31
産総研の採用実績は大手求人サイトによると、以上の通りでした。
産総研の過去3年間の採用人数はどの年も31名で、大きな変動はありませんでした。
このことより産総研では、採用人数がそれほど多くないことから、産総研の就職難易度はどの年も高めであることが言えます。

産総研の年収 
まずは産総研の平均年収を、常勤・任期付・非常勤に分けて、それぞれ役職別にご紹介します。
常勤職員の年収
人員 平均年齢 平均年収 賞与内訳
常勤職員 2,276 47,9 919万円 242万円
事務・技術 523 45.2 703万円 191万円
研究職種 1,753 48.7 983万円 257万円
参照:産総研|令和2年役職員の報酬及び給与等の公表

産総研の常勤職員の平均年収は919万円で、そのうち事務職は約703万円、研究職は約983万円でした。どちらも賞与の割合は3.6~3.8割程で、賞与を引いた金額を月給に換算する以下のようになりました。

事務・技術職 約42.6万円
研究職種 約60.5万円
任期付職員
人員 平均年齢 平均年収 賞与内訳
研究職種 143 33.6 643万円 167万円
参照:産総研|役職員の報酬及び給与等の公表

産総研の研究職種に就く任期付職員の平均年収は641万円で、そのうち賞与は167万円でした。

月給に換算すると約39.6万円です。

非常勤職員の年収
人員 平均年齢 平均年収
非常勤職員 1,012 51.2 322.5万円
事務・技術 884 51.2 288.1万円
研究職種 128 52.6 560万円
その他医療 2 ー ー
参照:産総研|役職員の報酬及び給与等の公表

産総研の非常勤職員の平均年収は322.5万円でした。
産総研は非常勤職員の場合は賞与がないので、平均年収を12ヶ月分で割った金額が推定月給になります。
非常勤職員 約26.8万円
事務・技術 約24万円
研究職種  約46万円

次に、役職別の年収を比較してみましょう。
常勤職員 919万円 事務・技術 703万円
研究職種  983万円
任期付職員 643万円 研究職種  643万円
非常勤職員 事務技術  287.3万円
研究職種  526.3万円
参照:産総研|役職員の報酬及び給与等の公表

役職別の年収を比較したところ、常勤の研究職種の年収が1番高く、非常勤の医療職種が1番低い結果になりました。産総研の平均年収は、約991万〜約284万円と言えるでしょう。
産総研の新卒の初任給
初任給
総合職
修士卒:226,700円
学部卒:212,300円

研究職
修士卒:234,200円
昇給 年1回(4月)
賞与 年2回(6月、12月)

産総研の採用情報によると、初任給・昇給・賞与については以上の通りです。
産総研では、初任給の一番多い修士卒と、学部卒の初任給の差額は、21,900円ありました。
産総研の福利厚生
休日・休暇 ・土日、祝日及び年末年始(12月29日から1月3日まで)
・年次有給休暇(年最大20日付与。残日数は20日を限度として翌年に繰越可)
・病気休暇、特別休暇(夏季、育児、結婚、出産、忌引等)
・育児休業制度、介護休業制度あり
 ※産総研は子育てサポート企業として
 「くるみん認定」(厚生労働大臣認定)を受けています
福利厚生 ・健康保険・年金加入(経済産業省共済組合加入)
・雇用保険・労働者災害補償保険加入
・貯蓄・貸付制度等
・託児施設(つくば・中部・関西)、診療所、体育館、テニスコート、宿泊研修施設 等
・屋内禁煙(屋外喫煙場所あり)
就業時間
・フレックスタイム制
フレキシブルタイム(午前7時~午後8時)の間で始業及び終業時刻を自ら決定する。
(1)コアタイムなし
(2)清算期間
 清算期間は1カ月とする。(起算日は毎月1日とする。)
清算期間における所定労働時間は
「所定労働日数(その月の日数-休日の日数)×7時間45分」

・標準時間制
1日7時間45分
始業時刻 午前8時30分、終業時刻 午後5時15分、休憩時間 正午から午後1時まで
※ただし、始業時刻、終業時刻、休憩時間については勤務地により異なる場合がある。

産総研の採用情報によると、休日・福利厚生・就業時間は以上の通りです。
休日については、土日・祝日休みで年末年始休暇があります。
産総研の福利厚生については働きやすい環境が備わっているようです。
また就業時間については、実働7時間45分でフレックスタイム制を導入していることから、働き方を柔軟に変えることができます。
以上のことから、産総研の休日・福利厚生・就業時間については、高い水準であることがわかります。

AISTですが、勤務時間は、プロジェクトマネージャー(チームリーダー)の裁量によるところが大きいです。

正規職員の場合は残業をせず定時で帰る人もいるが、非正規雇用の場合は成果を出さなければ、翌年の契約更新がない場合があるので、必然的に残業や休日出勤が増えてくる。
産総研の会社概要
企業名 国立研究開発法人産業技術総合研究所
住所 東京都千代田区霞が関1丁目3番1号
代表者 石村 和彦
設立 2001年4月
従業員数 6,274人





【ライブ】トランプ氏演説中に銃撃…右耳から流血も容体は安定 容疑者は射殺 / トランプ氏「暗殺未遂」銃声は1か所ではなく散発的…警備体制は ──ニュースライブ(日テレニュース LIVE) (youtube.com)

【トランプ氏銃撃まとめ】トランプ氏が耳のあたりを負傷か 選挙集会で複数の発砲音 銃を撃った人物は死亡 バイデン大統領「こうした暴力は許されない」【随時更新】 (youtube.com)

アメリカ合衆国シークレットサービス - Wikipedia

「ライフルを持った男が屋根の上に」と目撃者がBBCに トランプ前米大統領の集会で発砲 (youtube.com)

トランプ氏を銃撃したのは20歳の青年、120mの距離からARライフルで狙撃 (youtube.com)

【検証】 トランプ前米大統領銃撃、容疑者とステージの位置関係は (youtube.com)

トランプ前米大統領銃撃の容疑者の映像 屋根の上で腹ばいに (youtube.com)



【#安倍元総理銃撃】後方警戒に”空白の6秒” (youtube.com)






1945年に起きたラストボロフ事件に関する質問主意書 参議院議員鈴木宗男(令和3年11月11日) s206013.pdf (sangiin.go.jp)

ラストヴォロフ事件 - Wikipedia

ユーリー・ラストヴォロフ - Wikipedia

志位正二 - Wikipedia

松村知勝 - Wikipedia
石坂善次郎 - Wikipedia
松村法吉 - Wikipedia

志位正人 - Wikipedia

故・志位明義さんの経歴紹介(2005年5月4日) maru.on.coocan.jp/siryou/20050504siike.html
ご列席のみなさん  本日は、志位明義さんのためにたくさんの方にお集まりいただきまして、ありがとうございます。志位明義さんの経歴を紹介させていただきます。志位明義さんは、1929年、昭和4年12月7日、東京都世田谷区で生まれました。6人兄弟の5番目です。戦争が終わった次の年の春、旧制中学校を卒業した志位明義さんは千葉県の四街道に移り住むようになりますが、若い仲間と学習サークル「北総文化クラブ」を作ります。そこでは、「社会発展の法則」「資本主義社会の経済の仕組み」「世界大戦後の世界はどうなっているか」などを学んだと聞きいています。志位明義さんは生前このサークルについて、「北総文化クラブは、少人数で短い期間でしたが、私の一生を決める『私の大学』でした」と話しています。このサークルでの学習がきっかけとなって、志位明義さんは1948年3月、日本共産党に入党し、その後、亡くなるまでの57年間、日本共産党員として民主主義と社会進歩の事業に力をつくしてきました。入党した直後の4月、船橋市立船橋小学校の教員として就職し、26年間の教員生活がスタートしました。その後、湊町小学校、峰台小学校、八木が谷小学校と船橋市内の小学校で教職を務めました。その間、1953年5月に「茂野さん」と結婚。54年7月には長男が生まれ、平和を願って「和夫」と命名しました。そしてこのころから、教職員組合の活動でも中心的な役割を果たすようになります。勤務評定反対闘争、全国いっせい学力テスト反対闘争などを通じて分会から民主化が進み、1970年の春、船橋市教職員組合は綿貫吉正委員長、志位明義書記長の新しい体制が作られ、志位さんは学校を休職して初めての専従書記長になりました。そして1975年、転機が訪れます。日本共産党から市議会議員に立候補してほしいとの要請がありました。志位さんはこれに応えて、教職を辞め、四街道から船橋に引っ越して立候補。当選して議員になりました。以後2期勤めることになります。実は、志位さんが住んでいた四街道の家に、童話作家の斉藤隆介さんが住むことになり、それが縁で、志位明義さんの議会報告集に「推薦の言葉」を寄せています。この斉藤隆介さんの言葉を、少し引用させていただきます。「志位先生は静かな人だ。会う人々は静かな優しさを感じる。しかし、志位先生は、問題の核心を、データに基づいて、静かに詰め寄り、一歩も下がらず追い詰める力ある人だ。…これはどこからくるのか。まず、先生が、本当に働く人の党、日本共産党に所属しているからだろう。次に、市内の小学校に奉職した現場教師出身の議員であること。第3に、先生は数限りない団体の人々と、密接に協力し合いながら活動している。これらの団体に属する無数の市民の苦しみは先生の苦しみ、喜びは先生の喜び、怒りは怒りになっている」と斉藤隆介さんは書いています。市議を引退したあとも、船橋革新懇話会の事務局長、明るい船橋民主市政の会事務局長、そして地元夏見の日本共産党居住支部の支部長と、地域の運動を支えてきました。いま、志位明義さんを失って、本当に大事な人をなくしてしまったとの思いでいっぱいですが、志位明義さんはたくさんの大事なものを残してくれました。私たちは、それをしっかりと引き継いでいきたいと思います。どうもありがとうございました。

故・志位明義さんの略歴(2005年5月4日) maru.on.coocan.jp/siryou/20050504sii.html
1929年12月7日 東京都世田谷区で生まれる。6人兄弟の5番目。
1936年       世田谷区若林小学校入学。その後、都立千歳中学校に進学。
1943年4月     陸軍熊本幼年学校に入学。
1946年3月     石川県立輪島中学校卒業。
1946年春     千葉県四街道町に移り住む。
1947年      学習サークル「北総文化クラブ」をつくる。
1948年3月    日本共産党に入党。
1948年4月    船橋市立船橋小学校助教諭として教師生活を始める。
1951年4月    船橋市立湊町小学校に赴任。
1953年5月    茂野さんと結婚。
1954年7月    長男誕生。平和を願い「和夫」と命名。
1961年4月    船橋市立峰台小学校に転任。
1961年7月    綱領を確定した日本共産党第8回大会に代議員として参加。
1970年春     船橋市教職員組合書記長に就任。このあと4年間、休職専従。
1974年      船橋市立八木が谷小学校で学校現場に復帰。9月に退職。
1975年4月    日本共産党から市議会議員選挙に立候補して当選。2期。
1983年春     「船橋民主教育研究所」を設立・運営。
1984年      日本共産党西部地区夏見支部長(04年7月まで)。
1988年6月    結成された「船橋革新懇話会」で事務局長(02年10月まで)。
1989年1月    「明るい革新船橋市政をつくる会」を結成し事務局長に。
2005年4月30日午前00時03分永眠。享年75歳。

志位和夫 プロフィール  https://www.shii.gr.jp/profile/profile.html
志位委員長 プロフィール (shii.gr.jp)
〒100-8981 東京都千代田区永田町2-2-1 衆議院第1議員会館1017号室
電話03-3508-7285  志位和夫事務所
■1954年 千葉県四街道市に生まれる
■1993年 第40回衆議院選挙で当選
■1973年 日本共産党に入党
■1996年 第41回衆議院選挙で2期目当選
■1979年 東京大学工学部物理工学科卒業
■2000年 第42回衆議院選挙で3期目当選。 第22回党大会で幹部会委員長に選ばれる
■1980年 日本共産党東京都委員会に勤務
■2003年 第43回衆議院選挙で4期目当選。
■1982年 日本共産党中央委員会に勤務
■2004年 第23回党大会で幹部会委員長再選
■1987年 第18回党大会で党准中央委員に選出される
■2005年 第44回衆議院選挙で5期目当選
■1988年 党中央委員会書記局員に任命される
■2006年 第24回党大会で幹部会委員長再選
■1989年 党中央委員に選出される
■2009年 第45回衆議院選挙で6期目当選
■1990年 第19回党大会で書記局長に選出される
■2012年 第46回衆議院選挙で7期目当選
落花生の畑が原風景
 私は、1954年7月29日、千葉県四街道市(当時は町)に生まれました。「和夫の『和』は、平和な世界をという願いを込めた」と、聞かされました。私の家は、町の中心部から離れた落花生の畑が広がるなかにありました。四街道は、とりたてて名所・旧跡があるわけでもない、平凡な田舎の町でしたが、私にとってはいまでも故郷であり、畑や野原のなかを走り回って遊んだ懐かしい思い出があります。父(明義)も、母(茂野)も、日本共産党員で、二人とも小学校の教員でした。父は、船橋市の教職員組合の書記長をつとめ、日本共産党の船橋市市議会議員もつとめました。
父の肩車にのって安保闘争
 私の初めての「政治体験」の記憶をたどると、幼稚園児だった時、1959年から60年にかけての日米安保条約改定反対の大きなたたかいがおこるなか、千葉市でおこなわれた安保反対のデモ行進に「参加」したことでしょうか。「参加」したといっても小さな私が大勢のなかを歩くのは危ないと考えたのか、父の肩車の上でした。当時の安保闘争の緊迫した熱気ある情景がはっきり思い起こされます。おそらく、5歳から6歳のころのことだと思います。
入党--輝いていた日本共産党の姿
 日本共産党に入党したのは、1973年、大学1年生のときです。当時、自民党の田中内閣が、小選挙区制をもちだすという動きがもちあがり、大きな反対運動がおこりました。私の大学でもストライキを決めて、駒場から国会へ700名ほどのデモ行進もしました。このたたかいなかで、民主主義をまもるために輝いていたのが日本共産党でした。たたかいに参加するなかで、仲間もでき、よびかけられて入党しました。学生時代は、党の活動と学生運動に熱中しました。科学的社会主義の古典も夢中で読みました。大学の学業の方はというと、講義の出席は悪く、立派な学生とはいえません。物理工学科でしたので、卒業には実験と卒論が必要で、これだけは何とか仕上げました。超伝導といって、極低温で、電気抵抗がゼロになるという物性の研究でした。この時期は、私にとって、人生の進路を決めた、ほんとうに大事な時期となりました。
日本共産党の専従の道に
 党員になったとはいえ、進路については、いろいろと悩みました。大好きな音楽の道を本気で考えていたこともありましたし、物理の道をやりたいと考えたこともありました。でも、選んだのは、日本共産党の専従活動家の道でした。大学を卒業後、1980年に、日本共産党東京都委員会の青年・学生分野で仕事をはじめました。1982年からは党本部の勤務となりましたが、おもに青年・学生分野での仕事と、政策委員会や、社会科学研究所などの仕事でした。かけだしの専従時代には、多くの先輩からたくさんのものを、教えていただきました。新しい経験の連続でした。
1990年の党大会で
 私の生活が一変してしまったのが、1990年の7月に開かれた日本共産党第19回大会でした。大会で中央委員に選ばれた後に開かれた第1回中央委員会で、突然、書記局長に選ばれたのです。私には、まったくの突然の話でした。「ほんとうですか」とよく聞かれますが、ほんとうに突然の話でした。「えらいものが回ってきた」という驚きもあり、不安もありましたが、重責を担うことになりました。35歳のときでした。この時は、まだ国会に議席もなく、衆議院に議席をえたのは、1993年の総選挙の時でした(旧千葉1区)。知名度の低い私にとって、たいへんな苦戦でしたが、地元のみなさんの必死の支援と、不破委員長(当時)にも何度も応援にきていただくなど、たくさんの応援をいただき、国会におしあげていただきました。38歳のときです。
逆風と上潮と、新たな試練
 書記局長に就任した当初は、旧ソ連・東欧の崩壊がすすんでいるさなかであり、「共産主義崩壊論」が、内外で荒れ狂っているたいへんな逆風の時代でした。しかし自主・独立の党への強い自信と誇りがあって、将来を悲観するような、悲壮な気持ちは少しもありませんでした。この時の党全体のがんばりが、90年代の後半からの躍進につながりました。その後、相手の側からの巻き返しもあり、新たな躍進をつくれるかどうかという、とても重い責任を担って、2000年に開かれた第22回党大会で、私は、幹部会委員長に選ばれました。「21世紀の早い時期に民主的政権」をつくることが、私たちの目標です。書記局長になってからの12年間をふりかえってみても、いまこそどんな風が吹いても、揺るがず、国民から頼りがいのある、強大な党をつくりたいーこれが、私の願いであり、決意です。

瀬島龍三の謎 2019/02/26金言(第79号)( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)
■第一章「終戦までの経歴」
第1節「軍のエリート官僚の道を歩む」
さて、瀬島龍三は富山県の現在小矢部市(旧西砺波郡松沢村)に1911年12月に生まれるが、幼い時から秀才の誉れが高く県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て1932年陸軍士官学校を次席で卒業、さらに1938年陸軍大学校を首席で卒業し、関東軍第四師団の参謀を経て、1940年には大本営陸軍部作戦課に配属される。この間関東軍参謀時代には、対ソ連戦の示威演習である関東軍特殊演習(関特演)の作戦担当として作戦の立案に係る。そして1941年には、同上第一課の作戦班長補佐となり、同年12月8日に太平洋戦争が開戦すると以後45年7月に関東軍参謀として満州に転出するまで陸軍の主要な南方作戦を軍事参謀として指導したのであった。(主要な作戦・・開戦初期のマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦(特攻作戦)、対ソ防衛戦など)。この間1944年にはクーリエ(一種の公認の軍事スパイ)としても、モスクワに2週間出張している。この事が後にソ連側からスパイとして追及される。1945年7月に竹田宮恒徳中佐の後を受け関東軍作戦参謀となるが、同年8月15日の日本の降伏後の8月19日にソ連軍との停戦交渉にのぞむ。
第2節「参謀時代の汚点」
話は前後するが、1944年10月12日から16日に行われた台湾沖航空戦は、日本が米軍のフィリピン上陸を阻止すべく準備していた中、米海軍機動部隊は突然台湾の航空基地を攻撃したため、これを迎撃した日本軍との間で熾烈な戦いが繰り広げられたのであった。アメリカ軍の損害は軽微なものであったにもかかわらず、日本軍は大戦果と発表したため、比島防衛がおろそかになっていたところに、意表をついて米軍は、フィリピン本島ではなくレイテ島へ来襲したため容易に上陸を許したのであった。この大戦果が誤報である事を再三大本営に連絡した堀栄三参謀の電報をあろう事か握りつぶしたのが瀬島である事は、本人自身が明らかにしている。この行動により、瀬島は「小才子で大局の明を欠く」と批判されている。彼の握りつぶしにより、どれだけ多くの将兵の血が流されたかは事実が証明しているが、彼の参謀時代の大きな汚点であろう。
第3節「ソ連との停戦交渉における密約疑惑」
さて話は元に戻し、彼は8月19日のジャリコウヴォで極東ソビエト赤軍総司令官ヴァシレフスキー元帥他2名の元帥、将軍と関東軍参謀長秦彦三郎中将及び通訳の宮川舟夫と3名で交渉に当たった。その停戦交渉の内容の詳細について、おそらく停戦交渉は交渉とは名ばかりの一方的なソ連側からの命令に終始したのではないかと想像出来るのであるが、その後シベリアに抑留され、厳寒と粗食、そして強制的な重労働にあえいだ日本人は約57万5千人といわれ、内約5万9千人がシベリアの土となった。これはポツダム宣言に違反するものであったが、このような事実のもとになった停戦交渉の詳細を、一切瀬島は明らかにしていない。実際に抑留された人の中からはこの交渉の中で、捕虜を人的な賠償として差し出すという密約が取り行われたという疑いは十分にあると言い切っている者が多数いる。歴史の証人として瀬島には、その責任が十分あったにもかかわらず、重ねて言うが その詳細は一切つまびらかにしていない。
■第二章「シベリア抑留時代」
第1節「極東軍事裁判ではソ連側証人として証言」
その後、瀬島はシベリアに11年間抑留されることになる。この11年間瀬島は、将校としては労働義務がないにもかかわらず、強制労働に従事させられたといわれているが、後に述べるように彼の言動には疑われる節が多い。この間、彼は連合国側から極東軍事裁判にソ連側証人として出廷する事を命じられる。
1946年9月17日、関東軍鉄道司令官草場辰巳中将と総参謀副長松村知勝少将と共に、ウラジオストクから空路証人として市ケ谷に送られる。草場中将は、東京裁判における法廷での証言を潔よしとせず、東京へ連行された3日後の1946年9月23日服毒自殺をとげた。彼は、ソ連側の検事証人という旧帝国陸軍軍人として屈辱的な役割を受け入れさせられた時から自殺を決意していた節がある。その日記には、自殺に至る心境が綿々と綴られてれていたようである。何故自殺を選択しなければならなかったかについては、証人訊問調書で、彼は日本陸軍が対「ソ」戦準備を実行して戦争計画を持っていたと証言し、これは、日本陸軍内部で計画されていた戦争準備案が即実行に移される「対ソ侵略計画」であるというソ連の告発理由を、十分に裏付けるものであった。他の二人、松村、瀬島の自筆の供述書もワシントンのナショナルレコードセンターに残されており、草場と同様あるいはそれ以上に饒舌に参謀本部内の対ソ連計画をソ連側に告白したものと思われる。特に瀬島は、大本営参謀として知り得た作戦計画及びその細部を語っている。又松村も作戦計画が生み出された背景を詳細に語っている。ソ連側としてはこの二人の証言を組み合わせれば「対ソ侵略計画」が裏付けられると判断したのではないか。ソ連の検事団は、日本陸軍は対ソ侵略を計画していたと告発していた。そしてその証拠として次のような瀬島の供述書を読み上げる。「昭和17年度に於いて参謀本部の計画は攻撃計画であり、作戦は急襲的に開始する予定でありました」即ちソ連はこの「攻撃計画」を「対ソ侵略計画」とみなしていたのである。瀬島は、この「攻撃計画」は単なるペーパー上の年度計画であり、「対ソ侵略計画」には当たらないのではないかという弁護人側の反対訊問を否定してしまう。具体的には「昭和16年、17年の計画は攻撃計画であり、昭和19年、20年の計画は守勢計画であった」と供述してしまう。これは、16年、17年には攻撃計画が存在していたことを意味してしまうのである。もう一つ瀬島の供述で重大な点がある。すなわち「参謀本部の作戦計画に関東軍は関係を持たず、参謀総長が天皇に会って裁可を頂き、これを関東軍司令官に伝達し、これに基づき関東軍司令官は自己の作戦計画を立案する」と証言、さらに「関東軍司令官に与えられているものは大元帥陛下の命令であります」この証言から導き出されるものは、関東軍の攻撃作戦計画も天皇の裁可を得ている以上、天皇の責任ということになる。この事はあらためて天皇の戦争責任にふれる重大な意味を持っている。
瀬島を賛美する著作の中で天皇の責任には一切ふれなかったとか、かつての上官を守るために論を展開したとか云っているが、実際には上記の通り「攻撃作戦計画」の存在や天皇の戦争責任を間接的ながら証明したものであった。極東軍事裁判に出廷した3人の内草場中将は自殺し、松村少将は昭和31年に帰国し、その後ソ連問題研究家として生き、その間「関東軍参謀副長の手記」を公刊するが、その中でソ連側の証人になったいきさつには一切ふれていない。家族にも収容所の生活について何一つ話していない。一方瀬島は、抑留中の詳細な事実には一切口をとざしている。そして抑留から帰国後、商社経営の中枢として、また臨調の重鎮として活躍し、他の2人の証人との落差は余りにも大きい。瀬島は、東京裁判へ出廷した事実を大本営の2000日」の中でわずかに語っている。それによると「最初は何で突然連れて来られたのかわからなかった。羽田から丸の内の三菱のビルに連れて来られた。そして2~3日してから東京裁判の証人として連れてこられたことがわかった。証人台に立ったのはたしか9月18日であった」と云っている。全てうそである。同じく証人として連れてこられた
草場中将は、詳細な日記を残しており、それによると「最初はなんで突然連れて来られたのか全然わからないんです」という話は事実に反している。日記によると、東京に来る1ヶ月半以上前に瀬島は他の3人(草場、松村、樺太庁長官大津)と一緒にソ連軍将校と食事をとりながら、東京裁判に証人として出廷することについて話し合っているからである。また「証人台に立ったのは9月18日」も事実に反している。正確には10月18日である。
第2節「主人公を極端に美化している小説「不毛地帯」」
昭和史研究の第一人者である保阪正康氏の推理によると10月18日を9月18日としたのはある文学作品、すなわち昭和48年から53年迄「サンデー毎日」に5年間にわたり連載され、後にベストセラーになった山崎豊子氏の「不毛地帯」の主人公、元大本営参謀「壹岐正」が9月18日に東京裁判のソ連側証人として立ったことになっており、それが頭にあったのではないかということである。「不毛地帯」はあくまで小説であるが、大日本帝国陸軍参謀の主人公がシベリアで辛酸をなめ、11年間抑留の後帰国、総合商社に入り、以後最初は民間の仕事になじまなかったが戦闘機の輸入に関する仕事に携わり、旧陸軍のコネクションなども生かしその輸入に成功して異例の出世をとげる。その後日米の自動車会社の提携や中東における石油堀削プロジェクトにも成功するが、最後に社長と対立して会社を辞め、シベリア現地で死んだ日本人の墓参と遺骨の収集に向かうのである。主人公壹岐正のモデルが瀬島龍三である事は間違いないが、先にも述べたようにあくまでこれは小説である。付言すると瀬島龍三も利根川首相(中曽根康弘)のブレーンとして登場する。しかし、山崎豊子の書く小説では他にも旧日本航空において会社側と対立した労働組合委員長小倉完太郎氏をモデルとした恩地元と、伊藤淳二をモデルとした会長国見正行を主人公とした小説「沈まぬ太陽」があるが、両書共に共通するのは極端に主人公を美化しているのである。これは文学作品であるからいたしかたないであろう。瀬島にインタビューした保阪氏によれば、瀬島自身も証人として東京に来た時、家族に会わせるとのソ連側の申し入れを絶ったとしているが、実際には家族に面会しており、彼は法廷で証言した後1カ月近く東京に滞在していたのに、保阪氏には「わずか1週間ほどしか東京にいなかった」と語っておりその期間は「不毛地帯」に述べられている期間と一致している。
第3節「シベリア抑留時代の謎」
裁判後シベリアに連れ戻され1950年の後半迄抑留生活を強いられた。その間の詳細について彼は明らかにしていなかった。彼が公式にシベリア収容所の体験を公にしだしたのは第二臨調委員に就任してからである。しかし、その内容も全く一つのパターンが繰り返されていたに過ぎない。その内容は「昭和21年自分は大本営参謀であったというかどにより、即決で重労働25年の刑を云い渡された。そして翌日から重労働に服した。そして昭和31年日本に帰るまで11年間労働に服した。伐採や石炭堀、シベリア鉄道の貨車の荷下ろしもした。その他土工作業も経験し、およそ重労働のほとんどを体験した。しかしあの厳寒の地で重労働では25年は生きられないと思い、手に職を付けた方がよいということで左官屋に弟子入りして左官屋すなわち壁塗りである。そして帰国するまでこの仕事を続けた」彼はいろいろな席で語っているが今述べた全てがワンパターンである。一方「明日の命がどうなるのかわからない。毎日おなかペコペコで労働はきつく恐らく人間の「生活」ではなく人間の「生存」という11年間でありました」このようにシベリア収容所で人間の極限を見、これを機に人生観が変わったという。その人生観が変わったということを彼は著書「大本営の2000日」の中で、「自分は陸軍のエリート生活の中で階級がすなわち人間の価値だと信じていたが、シベリアの生活から階級とは単に一つの組織を維持する手段に過ぎない。人間の価値とは全く別のものである事に気がついた」とも述べている。以上が瀬島が語るシベリア体験であるが、瀬島には十分に語っていないことが多々あるのである。というのは瀬島がシベリアにおいてその所在がはっきりとしていた場所は1946年7月6日から翌47年1月中旬までハバロフスクの収容所から「夏の家」という別荘に移され、東京裁判の証人として東京に連行された6ヶ月間、そして1945年4月から1951年8月の帰国まで戦犯として収容されていたハバロフスクの第二十一分所で生活した期間だけなのである。その他の年月はどの収容所でどのように過ごしていたのか明確になっていない。1947年末から1950年4月まで瀬島は、モスクワ近郊にあった第7006捕虜収容所に大本営情報参謀朝枝繁春少佐と関東軍情報主任参謀志位正二少佐、元大本営戦争指導班内閣嘱託の種村佐孝少佐と共に収容されていたと見られている。朝枝、志位はその経歴からみて、25年の刑を宣告されてもおかしくないのに1950年、1949年に帰国している。その後1954年に発覚したソ連の対日スパイの元締ラストボロフ事件にからみ、帰国していた志位、朝枝の両名が、自分等はラストポロフに協力していたと警視庁に自首したのであった。前記の第7006収容所は日本へ帰国した後民主化運動、共産主義運動のリーダーとなるべく機密要員を訓練する学校でラストボロフはその教員の一人であり、ここには11名の日本人が収容されていたとされ、その内氏名が明らかになっているのが種村、志位、朝枝、瀬島であったという説があるが確認されてはいない。しかしいずれにしても瀬島にはスパイではないかというグレーな部分が付きまとっている事は確かである。元警察官僚で浅間山荘事件を指揮した佐々淳行氏は一貫して瀬島スパイ説を主張している。実はかつて國民會館で佐々さんに講演していただいた事があった。講演後の雑談の中で瀬島はスパイかと思い切って聞いてみた。答えは直接的ではなかったが、私は肯定と受け取った思い出がある。瀬島の体質は東条英機、服部卓四郎、辻政信と全く同質の陸軍官僚の典型といってよい。

草場辰巳 - Wikipedia
1945年(昭和20年)9月からシベリア抑留となった。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年(昭和21年)9月17日に松村知勝、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷することになっていた。9月20日未明、草場は隠し持った青酸カリを飲んで自殺した。3通の書き置きのうち公式当局と親族宛の2通は捜査資料に添付された。アメリカ検事団が英訳させた日記には、シベリアの収容所でソ連側から証言を要求されたこと、ソ連側から恫喝、甘言など受けたこと、「将校でありながら捕虜となり、どの面下げて祖国に帰れるのか」とか「私には自殺しか道がなかったと諦めてください」という表現などが書かれていたという。墓所は多磨霊園。
その他
山崎豊子の小説『不毛地帯』に登場する「秋津中将」は、草場がモデルといわれる。[要出典]『不毛地帯』では、壱岐正、秋津中将、竹村少将が東京裁判へ出廷し、実際には、瀬島龍三中佐、松村知勝少将が出廷した。

草場辰巳 歴史が眠る多磨霊園  (plala.or.jp)
父の草場彦輔の墓は旧大津陸軍墓地(滋賀県大津市皇子が丘一丁)にあり、この墓地に眠る軍人の中で最も階級が高い。墓石の左側面に「男辰巳」と建之者として刻まれているが、草場辰巳のことである。












2024年度国家総合職(春試験)の合格者を発表-2024年5月28日-(計量計測データバンク編集部)


計量法解説 (keiryou-keisoku.co.jp)

:計量法の読み方 - livedoor Blog(ブログ)

「計量法の読み方」全章 |

微分も積分も忘れてしまう東大理三卒の大学教授(2023-05-09)【理3のリアル@50代】 東大医学部卒の弁

フィルムカメラとデジタルカメラの発展の速度の違い

「ハッピーエンド」を聴く。メンバーは大瀧詠一,細野雅臣、鈴木茂、松本隆。


シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。


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