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計量計測データバンク ニュースの窓-204-
News material content collection of metrology databank №204
計量計測データバンク ニュースの窓-204-
開戦前夜、総力戦を経済面から分析した秋丸機関と日米国力比較を現地調査した陸軍主計大佐新庄健吉


計量計測データバンク ニュースの窓-204-
開戦前夜、総力戦を経済面から分析した秋丸機関と日米国力比較を現地調査した陸軍主計大佐新庄健吉

計量計測データバンク ニュースの窓-204-

計量計測データバンク ニュースの窓-204-開戦前夜、総力戦を経済面から分析した秋丸機関と日米国力比較を現地調査した陸軍主計大佐新庄健吉




官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介

昭和恐慌 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C
 昭和恐慌(しょうわきょうこう)は、1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。第一次世界大戦による戦時バブル(=日本の大戦景気)の崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。
農業恐慌
 昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落、朝鮮、台湾からの米の流入によって米過剰が増大し、農村は壊滅的な打撃を受けた。
なお、1930年(昭和5年)時点での日本の1人あたり国民所得 (GNI) は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎなかった。

 1929年(昭和4年)を100としたときの1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)の経済諸指標は以下の通りである。
項目 1929年
昭和4年 1930年
昭和5年 1931年
昭和6年
国民所得 100 81 77
卸売物価 100 83 70
米価 100 63 63
綿糸価格 100 66 56
生糸価格 100 66 45
輸出額 100 68 53
輸入額 100 70 60

昭和農業恐慌 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E6%81%90%E6%85%8C
昭和農業恐慌
 昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じた。米価下落には朝鮮や台湾からの米流入の影響もあったといわれる。農村の経済は壊滅的な打撃を受けた。当時、米と繭の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれるありさまだったのである。
 翌1931年(昭和6年)には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢饉水準の窮乏に陥った。
 1933年(昭和8年)以降、輸出好調により景気は回復局面に入るが、同年に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。また、1934年(昭和9年)は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた。農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1936年(昭和11年)であった。

満蒙開拓移民 - Wikipedia

満蒙開拓ミニ知識 - 満蒙開拓平和記念館ページ

https://www.manmoukinenkan.com/history/
満蒙開拓のミニ知識

 満蒙開拓について、ここではあくまで基本的なことについて述べさせて頂いています。まずは、一般には余り知られていない「満州」や「満蒙開拓」等についての基本的なことを知って頂くことを主眼としていますので、学術的、専門的な視点からはもの足らないと思いますが、前記趣旨からのことですので簡易化、表現省略等はご容赦ください。
※「旧満州」、「満州」等の用語を使用していますが、これらを美化・賛美しよう等の意図ではなく、歴史を正しくそのままに伝えようという意図によるものです。

「満蒙開拓」とは
満州に駐留していた日本の陸軍部隊、関東軍による満州事変を経て1932年に日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」が建国されました。当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け深刻な経済不況に陥り、特に農村経済を支えていた養蚕業は大打撃を受け、農家は借金を背負い、村や町といった自治体も負債を抱えていました。1936年に「満州農業移民100万戸移住計画」が国策となります。疲弊した農村の経済の立て直しや食糧増産などを目的に推し進められましたが、背景には「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的もありました。日本の戦況悪化、ソ連軍侵攻。結果として、約27万人の開拓団のうち約8万人がなくなったと言われています。

満州へ渡った開拓団の悲しい末路

 1945年8月9日、ソ連侵攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。戦力で圧倒的に勝っていたソ連軍に加え、日本の敗戦を知った現地の人たちも各地で暴動をおこし日本人を襲撃しました。逃避行を余儀なくされた人々は、満州の広野でコーリャン畑に身を潜めながら歩きました。力尽きた母親が我が子を山に置いてきたり、川に流してきたり、手りゅう弾で殺してもらったという話もあります。また追い込まれた人々の壮絶な集団自決も多発しました。敗戦国となった祖国日本からは何の援助もなく帰る手段もありません。難民となった開拓団の人々は収容所生活の中、寒さと栄養失調、疫病で大勢亡くなりました。子どもを中国の人に預けたり、売買もされたといいます。「中国残留孤児」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。背景には壮絶な歴史があったのです。

 満州国へ渡った農業移民、満蒙開拓団は全国から約27万人。そのうち約8万人が犠牲になりました。中には青少年義勇軍として組織された少年たちもいました。「満蒙開拓」は国策として大々的に宣伝され推進されましたが、戦後はあまり語られてきませんでした。それは、あまりに壮絶な体験なのでご本人たちが語ろうとしなかった、地域の中には満州行きを進めた立場の人もいて責任を問われていた、開拓団が手に入れた土地の中にはもともと現地住民の農地だったものもあった、など様々な背景がありました。

主な移民の形態
◆試験移民(武装移民) 1932(昭7)年から1935(昭10)年までの初期段階の移民を試験移民といいます。当時、満州には抗日武装集団(日本人は「匪賊(ひぞく)」と呼んだ)が各地に存在していたこともあり、初期の移民は主に農業経験のある在郷軍人(予備役軍人)から選ばれました。実際に襲撃にも遭い犠牲者も出るなどしたことから、第1次試験移民は約500名入植したうち3年間で162名、第2次も約500名のうち2年間で161名の退団者を出しました。
◆分村・分郷移民 1937(昭12)年、満州農業移民が国策として着手されてからは大量移民政策が実施され、同じ地方からの集団移民が組織されました。各県ごとに募集された開拓団のほか、町村が単独で送出する分村開拓団や、近隣複数の町村が送出母体となる分(ぶん)郷(ごう)開拓団が推進されました。
◆満蒙開拓青少年義勇軍(満州での名称は満州開拓青年義勇隊) 満州移民を推進するため1938(昭13)年から国が募集を開始しました。満14~18歳までの青少年で組織され、3年間の訓練期間を経て開拓団に移行し満州で農業の担い手になることが大義名分でした。
◆自由移民 国や県、市町村募集以外の開拓団です。
◆勤労奉仕隊 青年層を中心に農繁期の春から秋の数ヶ月間派遣されました。
◆帰農開拓団(転業開拓団) 農業以外の職種から満州へ移民し農業に転業した開拓団です。
*当館所蔵資料を満蒙開拓の学び、継承、研究等を目的とした対外的公表物において利用、転載を希望される方は、お問い合わせフォームよりメールにてご相談ください。なお、現物の貸出しはおこなっておりません。

満蒙開拓団略年表
1905年(明治38年)日露戦争終わる。満州での権益を入手。
1905年(明治39年)南満州鉄道株式株式会社設立。
1910年(明治43年)韓国併合。
1912年(大正元年)中華民国政府樹立。清王朝滅びる。
1915年(大正4年)日本、中国に二十一か条要求。
1922年(大正11年)ソビエト社会主義共和国連邦設立。
1925年(大正14年)治安維持法公布。
1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件。
1929年(昭和4年)世界恐慌始まる。
1931年(昭和6年)柳条湖事件発生。満州事変始まる。
1932年(昭和7年)「満州国」建国宣言。リットン調査団満州へ。第一次試験移民(弥栄村開拓団)。
1933年(昭和8年)国際連盟「満州国」不承認決議。日本 国際連盟脱退。
1934年(昭和9年)土竜山事件勃発(抗日農民蜂起)。第一試験移民の「大陸の花嫁」満州へ。
1936年(昭和11年)二・二六事件、陸軍青年将校ら政府要人を暗殺。広田弘毅内閣「満州農業移民二十ヶ年百万戸送出計画」決定。
1937年(昭和12年)盧溝橋事件発生。日中戦争始まる。中国抗日民族統一戦線結成。満州拓殖公社設立。
1938年(昭和13年)国家総動員法公布。満蒙開拓青少年義勇軍渡満開始。
1941年(昭和15年)第二次世界大戦始まる。
1942年(昭和17年)アメリカ、対中支援を決定。日独伊三国同盟。大政翼賛会結成。
1941年(昭和16年)日ソ中立条約。太平洋戦争始まる。
1942年(昭和17年)ミッドウェー海戦で大敗北。
1944年(昭和19年)サイパン島陥落。
1945年(昭和20年)開拓団成人男性「根こそぎ動員」。2月ヤルタ会談。3月東京大空襲。5月ドイツ降伏。6月沖縄陥落。7月ポツダム会談。8月6日広島に原子爆弾投下。8月9日長崎に原子爆弾投下。8月9日ソ連対日参戦、満州へ侵攻。8月14日ポツダム宣言受諾決定。8月15日、日本無条件降伏。8月18日 「満州国」崩壊。9月2日降伏文書調印。
1946年(昭和21年)5月、満州からの集団引揚げ開始。
1949年(昭和24年)中華人民共和国成立(日本不承認)国交断絶。集団引揚げ中断。

計量計測データバンク ニュースの窓-202-第二次大戦開戦時、日本国力を分析した陸軍秋丸機関の役割

シリーズ 日米開戦50年 新発見 秋丸機関報告書 有澤廣巳と太平洋戦争|戦争|NHKアーカイブス
シリーズ 日米開戦50年 新発見 秋丸機関報告書 有澤廣巳と太平洋戦争
日米開戦から半世紀にちなむ2回シリーズの最終回。東大経済学部の未整理資料から発見された「英米合作経済抗戦力調査」という1冊の報告書を取り上げる。この報告書は、1941年(昭和16年)、陸軍省の秋丸次朗中佐の依頼で、有澤廣巳らが英米と日本の戦時経済力を調査、予測したもので、それによると英米は、日本の20倍もの経済力を有していたという。経済からみた太平洋戦争を描く。 その中から、「1941年7月 秋丸機関がまとめた英米の国力調査と報告会」の動画。語り鈴木瑞穂。放送日1991年12月03日。

秋丸機関 - Wikipedia
『石井秋穂回想録』によると、1941年4月17日に大本営海軍部で決定された「対南方施策要綱」は、秋丸機関や陸軍省兵備課で行われた研究を参考にして作成され、秋丸機関は、陸軍省軍務局軍務課高級課員の石井秋穂大佐に対し、研究結果を何度も報告していたとされている。その石井大佐が9月29日に大本営陸海軍部にて決定された「対英米蘭戦争指導要綱」や11月15日に大本営政府連絡会議にて決定された「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の策定に参画していたこと、また「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」と『英米合作經濟抗戰力調査(其一)』は、両資料とも、海上遮断による経済封鎖で経済的に脆弱性のあるイギリスを敗戦に追い込み、その結果アメリカの反戦気運を期待して外交交渉などによる終戦を提案していることなど、内容に共通項が多いことから、「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」作成に秋丸機関の報告書が影響力を与えたという研究もある[7]。しかし1942年(昭和17年)3月、陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐が、中山伊知郎らが参加した「大東亜建設座談会」で、英米の国力の大きさを認めながらも植民地を奪ったり船舶を沈めるなどしていくことで国防経済的に英米に屈服を求めることができると発言しており、この内容は朝日新聞1面に掲載されている。これ以外にも太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前後には同様の戦略が新聞や雑誌上で数多く論じられており、秋丸機関の報告書も「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」も、当時の日本における常識的な内容であったという指摘もされている。

総力戦研究所 - Wikipedia

秋丸次朗の経歴とエピソード
秋丸次朗の経歴とエピソード(1939(昭和14)年陸軍省に経済戦研究班を創設、班長を命じられる)
 秋丸次朗の経歴とエピソード秋丸次朗は昭和63年に「朗風自伝」を出版している。誕生から終戦までの47年間の自叙伝である。また、昭和17年に南方戦線に派遣された間、日記をつけている。それらに従って、経歴とエピソードを綴る。なお、朗風は日本詩吟銀学院より授与された雅号である。
1898(明治36)年9月10日
宮崎県西諸県郡飯野村大字原田3457に於いて、父秀強(27)、母ミネ(25)の次男として生まれる。「次郎」として届け出たが、戸籍係の従兄弟が平凡だとして「次朗」に改めて登記したと言う
1905(明治38)年
飯野尋常小学校に就学。小学校の6年間は無欠席で、常に首席、級長を続ける優等生であり、将来に向かってエリート意識が強かった。当時は日露戦争に勝利して、子供心に軍人になって出世したいと心に決めていた。
1911(明治44)年
県立宮崎中学校に入学。成績は100人中50番ぐらいで世間に出ると学力の低いことにやや自信を失う。
1912(明治45)年
陸軍幼年学校を受験、身体検査で心臓の動悸が高いと不合格になり涙をのむ。県立都城中学に転校。
1916(大正5)年
中学卒業、4年間無欠席。卒業式で品行方性、学術優等で賞状を受ける。海軍兵学校を受験するが、近視との理由で不合格。再起を図り、鹿児島の軍人養成予備校の三省舎に通う。軍人志望は変わらず、軍医か主計官なら身体検査に支障はないと思い、長崎医学専門学校を受験合格、1学期在学したが、陸軍経理学校も合格したため、熊本歩兵第13連隊に主計候補として入隊。
1918(大正7)年
東京の陸軍経理学校に入校、会計経理の専門教育と軍事訓練を受ける。
1920(大正9)年
1年半の生徒科課程を履修し、原隊に復帰曹長に進級、12月に主計少尉に任官、歩兵第45連隊付に補せられ、鹿児島に勤務する。いとこの森アサさん宅をたびたび訪問、人をそらさぬアサ姉の接客振りに魅せられる。
1926(大正15)年
森アサの一人娘ミキと結婚。前年から陸軍高等経理学校を受験するも失敗、1930(昭和5)年に合格するまでの5年間血のにじむような受験勉強に没頭する。
1932(昭和7)年
陸軍高等経理学校をトップの成績で卒業、東京帝国大学経済学部に派遣される。
1935(昭和10)年
東京帝国大学経済学部の選科生として修了、関東軍交通監督部部員兼奉天航空廠員に補され、渡満。満州航空会社の会計監督官として勤務。翌年、関東軍参謀付に補され、新京に赴任、経済参謀として農業を担当、日本人開拓団の導入、定着に力を注いだ。そのご商工部門に変わった。当時の参謀長は東條英機中将、満州国側の商工関係は岸信介、椎名悦次郎など大物揃いだった。主な仕事は、満鉄改組に伴う満州重工業開発会社の設立であった。日産コンツェルンの満州移駐のため鮎川義介、野口窒素社長島津寿一氏など当時の日本財界の大物を相手に手腕を発揮する黄金時代の活躍で「関東軍に秋丸参謀あり」と日本内地の財界に知られていた。
 この頃、内地から財界人が来満すると必ず料亭に招待された。程度を越すと公務員のスキャンダルに陥りやすい。そこで料亭では一切公務の話はしないとの条件で招待に応じることとした。必ず、羽織袴を着用し、午後10時には辞去することで3年間の要職を大過なく果たすことが出来た。
1939(昭和14)年
陸軍主計中佐に昇進、陸軍経理学校研究部員、陸軍省経理局課員、軍務局課員に転任となり東京へ。任務は陸軍省に経済戦研究班を創設、班長を命じられる。
1941(昭和16)年
陸軍主計大佐に昇進、大本営野戦経理長官高級部員と研究班長をかねる。12月8日、太平洋戦争開戦。
1942(昭和17)年
6月5日、ミッドウェー海戦の大敗により大本営は南太平洋進攻作戦を中止、米英連合軍は反撃に転じ日本軍の敗色は濃くなった。大本営野戦経理長官部としては、食糧の補給継続にもっとも苦心した。制空権、制海権を失った日本軍としては海軍の護衛による輸送しかなかったが、海軍にもその余力はなく内地からの食糧補給は殆ど不可能になり戦地部隊は現地自活によって継戦するしかなかった。将兵はマラリアに苦しみ、飢餓に耐え、悪戦苦闘を続けた。この様な戦地の将兵の苦労を思うと一身上のことを考える気分になれなかった。
1月31日に次女の紀子(3歳)が肺炎で死亡したが、通夜にも出ずに役所にとどまった。4月7日には次男満男(7歳)が脳脊髄炎で死亡したがやはり戦地のことを考えると悲しんでばかりはいられなかった。子供には済まぬことをしたが、戦地で多くの兵士が倒れているのだと思い直して悲しみをこらえた。
7月、陸軍大学の経済戦術の教官を兼務、戦局の推移に伴って総力戦研究所は閉鎖、陸軍省の経済戦研究班も解散となる。12月15日、比島派遣第16師団経理部長に補され、同月19日に出征。当日の日記に「いよいよ出発の日となった。早朝起きて、心静かに神に祈る。東京駅には栗橋局長はじめ多くの見送りを受ける。研究班関係の人々が多いのは嬉しい。家族3人が車窓に立つ。信夫の元気な声が姿が今も残る。さらば行ってきます。汽車は静かに南へ走る」
1943(昭和18)年
12月、北豪派遣第19軍経理部長としてアンポン島に着任。
1944(昭和19)年
第19軍セラム島移駐のため、先遣隊長となる。
1945(昭和20)年
3月、第19軍は解散となり、本土決戦のため空路立川に帰着、第6航空軍経理部長となる。8月15日終戦、第1復員省復員官となり残務整理。
1946(昭和21)年
3月残務整理終了、飯野に帰る。その後6年間、公職追放を受ける。
1954(昭和29)年
公職追放解除後、助役を経て飯野町長に当選、2期務める。町長時代東京出張した折、東京駅に岸信介が出迎えに来ており、一流料亭で歓迎会を開いてくれて、お付で行った町役場の職員がびっくりしたエピソードが残っている。
1986(昭和61)年
町長を退いたあと社会福祉協議会の設立に参加、15年間務め、そのうち13年間は会長として社会福祉に尽くした。
1992(平成4)年8月23日
老衰のため死去、享年94歳

陸軍「秋丸機関」が戦後に果たした役割|日経BizGate
 太平洋戦争直前の1939年、日本陸軍が来たるべき総力戦に備えて各国の国力を調査しようとしたのが「秋丸機関」(陸軍省戦争経済研究班)だ。戦前における一流の経済学者を網羅した一大シンクタンクだったが、同機関が作成した緻密な調査報告書は、結局41年の日米開戦を止めることはできなかった。それでも秋丸機関の経験は構成メンバーにとって戦後の復興に役立てることにつながったという。摂南大学の牧野邦昭准教授に聞いた。(写真は秋丸次朗中佐、秋丸信夫氏提供)
■マルクス、ケインズ…駆使したビッグデータ
――秋丸機関の設立は39年のノモンハン事件がきっかけだったといいます。
「ソ連(当時)の機械化部隊に敗北したことは、戦争の形態が最後は戦車や飛行機を作る生産力や経済力の戦いであることを、陸軍に痛感させました。満州国の経済計画に携わっていた秋丸次朗・主計中佐は『関東軍参謀部に秋丸あり』と日本の財界にも知られた工業政策のエキスパートでした。陸軍省に呼び戻され研究チームの結成を任されたのです」
――統計学の権威だった有沢広巳・東京帝大助教授(当時、戦後教授)も秋丸機関に誘われました。
「治安維持法違反で検挙され保釈、休職中だった有沢は秋丸らから『軍が世界情勢を判断する基礎資料とするため科学的、客観的な調査研究が必要だ』と力説され、主査を引き受けたと述懐しています。月給は当時で500円だったといいます」
――現代の貨幣価値に直すと100万円以上でしょうか。秋丸中佐は経済研究におけるトップレベルの知能を集大成したい狙いでした。国内経済力、生産力の各種統計や指数など、いわば当時のビッグデータを活用しての調査だったようです。
重要だったのはドイツ経済の抗戦力分析
――秋丸機関は英米、日本、ドイツ、ソ連など各国別に調査しています。英米班では「対米英戦の場合、経済戦力の比は二〇対一程度」と判断していました。開戦後1年から1年半で最大供給力に達するとしていました。
牧野邦昭・摂南大学准教授
「米国の生産力の大きさを指摘する一方、島国である英国の弱点が海上輸送力であることにも言及しました。船舶が無ければ米国で生産した軍需物資は英国に届きません。英国への輸送船を撃沈し、補給を断って英国経済を崩壊させられるかどうかが焦点だったわけです」
「しかし大西洋上の英米船を、日本海軍が攻撃するわけにはいきません。三国軍事同盟を結んでいた独・伊、特にドイツの経済戦力にかかってくるわけです。これまで注目されてきたのは主に英米班の結論でしたが、重要だったのは実は『独逸(ドイツ)経済抗戦力調査』でした」
――ドイツ班を率いていたのは武村忠雄・慶大教授でした。現役の陸軍主計少尉でもあるという変わり種でした。報告書は独ソ戦が始まった41年6月直後に完成しており、第2次世界大戦は新しい局面を迎えていました。
「極めて正確な調査でした。ドイツの経済力は41年を最高点として42年から次第に低下すると指摘しました。ドイツは既に労働力の限界に達しており、食糧不足にも悩まされていました」
「独ソ戦が2カ月程度の短期戦でドイツが勝利し、直ちにソ連の生産力利用が可能になれば対米英長期戦態勢が完成し、英本土攻撃も可能になるかもしれない。しかし長期戦になればドイツはいたずらに経済抗戦力を消耗して、第2次世界大戦の運命も決定されると結論しています」
「現実の歴史も長期化したスターリングラードの戦いが分岐点となり、ドイツは敗勢に陥っていきました。ドイツの勝利を前提にしていた日本にも重大な影響を与えました」
「秋丸機関は、対米英ソ同時戦争の阻止に役立った可能性があります。ソ連に侵攻しても石油などの戦略物資は期待できません。半年も交戦すれば陸軍の貯蔵していた石油は底を尽いてしまいます」
「さらにドイツの側に立ってソ連を攻撃すれば、ドイツと戦う英国およびそれを支援する米国と事実上開戦することになります。陸軍内でも意見が分かれていて、秋丸機関は独ソ戦の見通しの厳しさを指摘することで、陸軍省軍務局の北進反対論に理論的裏付けを提供した形になりました」
――肝心の対太平洋戦争の回避にも役立てられなかったのでしょうか。
A 開戦しないと2、3年後は国力を失う
B 開戦すれば非常に高い確率で敗北。極めて低い確率でドイツ勝利・英国屈服で米国は交戦意欲を失い日本と講和
 A・Bの前提で考えると、行動経済学のプロスペクト理論や社会心理学のリスキーシフトでBが選択されやすくなります。日本の経済学者が戦争回避に貢献できたとすれば、Aの予測に日米の巨大な経済格差というネガティブな現実を指摘するだけではなく、ポジティブな将来図も可能性として示すことだったでしょう」
「秋丸機関はそれが可能だった機関かもしれないと考えています。ドイツの国力は限界でした。ドイツが敗北すれば、今度は高い可能性で米英とソ連との対立が起きることは当時でも予想できました。来たるべき東西両陣営の対立を利用して、日本が開戦しなくても国際的な立場を失わないでいる構想を、経済学者や政治学者を動員して作り上げることは十分できたでしょう」

開戦直前にも「消された報告書」秋丸機関とは : 読売新聞
太平洋戦争開戦の約半年前、「経済謀略機関」としてひそかに設立された「陸軍秋丸機関」は、英米戦の勝算について「勝ち目なし」とする内容の報告書をまとめたが、陸軍上層部に握りつぶされ、廃棄を命じられたとされている。しかし、この通説は誤りで、報告書の内容は報道、公表され、作成直後には報告書も廃棄されていない。廃棄されたのは国策に反するからではなく、その後に起きた「ゾルゲ事件」への陸軍の関与を疑われないためだったとみられる。2019年の読売・吉野作造賞を受賞した『経済学者たちの日米開戦』で、摂南大学准教授の牧野邦昭さんは謎に包まれた秋丸機関のヴェールをめくり、その経緯を克明に明らかにしている。

『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書) 常翔学園 FLOW No.86
日米開戦 痛恨の教訓正確な情報から不合理な選択エリートの失敗に迫る摂南大学 経済学部経済学科牧野 邦昭 准教授ニューウェーブ教育・研究*注:<ことば>秋丸機関=陸軍主計中佐の秋丸次朗をリーダーとして1940年1月に設立。総勢200人近い頭脳集団で、日本、同盟国、仮想敵国の経済力を比較分析。英米班、独伊班、ソ連班、日本班、南方班、国際政治班があった秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く 1941(昭和16)年12月8日未明に日本軍がハワイ真珠湾の米海軍基地を奇襲攻撃し、3年9カ月に及ぶ太平洋戦争が始まりました。間もなくその78回目の開戦記念日が巡ってきます。膨大な犠牲者を出した太平洋戦争には、「不合理な軍が始めた無謀な戦争」というイメージが定着しています。しかし、戦前に他ならぬその陸軍が一流の経済学者を集めて組織した研究班「秋丸機関」*が、日米間の経済力の隔絶を指摘した冷静な報告書を出していました。長らく「都合の悪い極秘の報告書を軍が焼却処分した」と信じられてきましたが、摂南大経済学部の牧野邦昭准教授は、焼かれたはずの「幻の報告書」など新資料を次々に“発見”。更に「正しい情報がありながら、なぜ不合理な開戦を決定したのか」を新たな視点で鮮やかに分析した『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書)を世に問い、高い評価を受けました。今年の読売・吉野作造賞も受賞したその著書と研究について牧野准教授に聞きました。

陸軍秋丸機関による経済研究の結論 牧野邦昭(摂南大学)
https://jshet.net/docs/conference/79th/makino.pdf
陸軍秋丸機関による経済研究の結論 牧野邦昭(摂南大学)
はじめに
太平洋戦争前、日本や同盟国・仮想敵国の経済力分析を目的として、陸軍が多くの経済学者を集めて結成した「陸軍秋丸機関」と呼ばれた組織(正式名称は陸軍省戦争経済研究班)が存在したことは比較的よく知られている。その全体像は不明な点が多かったが、報告者は最近相次いで秋丸機関の報告書の存在を確認し1、その実態がかなり明らかになった。本報告ではこれまでに判明した秋丸機関の研究と結論を紹介したい。
1.秋丸機関の結成
秋丸機関の設置に力を注いだのは、陸軍中野学校の創設に深く関与するなど戦争における謀略・情報の重要性を強く認識していた陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐であり、実際の運営にあたったのは秋丸次朗主計中佐ほか東京帝国大学経済学部に聴講生として派遣された経験を持つ陸軍主計官である。秋丸中佐は 1939 年 9 月に陸軍省経理局課員兼軍務局課員着任後に岩畔大佐から、ノモンハン事件での敗戦を機に英米との戦争の可能性を考慮して経済戦の調査研究を進めたいとして、「経済謀略機関」の設立を命じられた。秋丸中佐は高級課員の遠藤武勝中佐など上官の手助けも得て、「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合して、最弱点を把握すると共に、わが方の経済戦力の持久度を見極め、攻防の策を講ずる」ため、ブレーンとして経済学者を集めることに力を注いだ2。その中心となったのが統制経済や戦時経済に詳しく、かつ 1938 年の教授グループ事件で大学を休職中で調査に専念できた有沢広巳であった。有沢の他に武村忠雄、中山伊知郎、宮川実など、経済学の学派の違いを超えて多くの経済学者が集められた3。さらに世界政情の調査のために蝋山政道らを起用し、個別調査のため「各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子をはじめ、各界にわたるトップレベルの知能を集大成」4した。機関は対外的名称を陸軍省主計課別班としており5、現在残されている資料は大半がその名義だが、後述のように陸軍内部の報告では陸軍省戦争経済研究班という正式名称を使用していたと考えられる。
なお、秋丸中佐自身の経済国力に関する認識は、1939 年 12 月の第 1 回東亜経済懇談会の北九州経済座談会での発言から読み取れる。秋丸中佐は当時の第二次大戦当初の「まやかし戦争」について、イギリスの経済封鎖とドイツの封鎖突破努力、さらに第三国を通じた輸入努力と国内自給という形で経済戦争が行われており、さらに「自分の国又は自分の勢力圏に在る国家群を擁して、其の中で自給生活をやることがどの程度出来るかと云ふことに依つて、其の国力と云ふものが判定される」6と述べている。その一方で現在の世界は大国によりブロックに分割されているため東亜経済ブロックの結成が必要であり、「私は日満支を一丸にして連環の経済関係を打立てるならば十分に自給自足出来る、世界を相手にして戦ふとも敢て恐れない所の確信を有つものでございます」と述べ、満洲開発を進めることを主張している7。つまり秋丸中佐にとって国力とは勢力圏における自給能力を意味し、従って日本の国力を高めるために東亜経済ブロックの建設は当然必要とされていた。秋丸中佐の認識はその当時の他の軍人とあまり変わらないものだったといえる。
2.秋丸機関の活動
(1)研究活動
秋丸機関の目的は「次期戦争ヲ遂行目標トシ主トシテ経済攻勢ノ見地」から「戦時戦費工作ニ関スル事項」「戦時特殊経済ニ関スル事項」「其ノ他戦争指導上必要ナル経済ニ関スル事項」を研究することであり、岩畔大佐が意図していた経済謀略機関としての側面が強かった。また陸軍省の軍事課、軍務課、主計課および参謀本部の協力を受けると同時にその成果を陸軍大臣・参謀総長に知らせるとされていた8。中山や有沢によれば秋丸機関では各国の経済力を分析するためにソ連のゴスプランやレオンチェフによる産業連関表を用いたアメリカ経済の分析を参考にしていたという9が、後述する秋丸機関の報告書を見る限り産業連関表そのものを利用して分析を行ったとは考えられず、当時欧米で行なわれていた国民所得(当時の日本でいう「国家資力」)研究の結果の数値を利用したものと考えられる。しかし有沢は秋丸機関でマルクス経済学の再生産表式を利用したり産業連関表に触れたことで、戦後の日本経済復興に大きな役割を果たした傾斜生産方式を提唱することになったとしている10。中山も秋丸機関に参加して実証研究や日本経済の具体的な問題に関わったことが転機になって戦後につながっていったと認め
ている11。有沢や中山らにとって秋丸機関での研究は戦後に大きく役に立つものであった。
(2)陸軍他部局との関係秋丸機関は同じ陸軍の他部局と共に研究をしていた可能性が高い。1940 年冬、参謀本部は陸軍省整備局戦備課に 1941 年春季の対英米開戦を想定して物的国力の検討を要求した。これに対し戦備課長の岡田菊三郎大佐は 1941 年 1 月 18 日に「短期戦(2 年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、3 月 25 日には「物的国力は開戦後第一年に 80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判断していた12。中山伊知郎によれば 1940 年末または 1941 年初め13に陸軍主計中将が出席した秋丸機関の各班の報告会が行われ、中山らは日本が兵力や補給力で日中戦争の二倍の規模の戦争を戦うことは不可能という結論を説明した14。他の参加者の証言15からも戦備課と秋丸機関の活動時期が一致しており、二つの組織の研究が連動していたと考えられる。また陸軍省軍務課高級課員だった石井秋穂は「秋丸中佐ハ金融的国力判断ヲ大規模ニヤツテ何回モ報告シテクレタ」と回想しており、秋丸機関や三菱経済研究所の研究を参考にしたのが「対南方施策要綱」(6 月 6 日陸海軍統帥部により決定)であった16。同要綱の基本的な方針はあくまで「綜合国防力ヲ拡充」することにあった。石井は「武力南進ハシタクモ出来ナイノダトイウ共通観念ガ支配シテオツタノデ、コノ共通思想ヲ数字的研究ノ教訓トシテ更メテ文章的ニ確認シタ」のが対南方施策要綱であったとしている。日本の物的国力では対英米長期戦を遂行できないことは秋丸機関などの研究により十分認識されており、英米を刺激しない形での南方進出が意図されていた17。秋丸機関の研究は 1941年前半時点では当局者に日本の国力の限界を認識させ、武力行使を抑制させる働きを持っていた。しかし日本側が戦争に至らない範囲での南進策と考えていた 1941 年 7 月の南部仏印進駐は対日石油輸出停止というアメリカの強力な経済制裁をひき起こした。これにより対米開戦の機運が高まり、陸軍省戦備課は東條英機陸軍大臣から 11 月 1 日開戦を前提として再度物的国力判断を求められた。この結果も「決然開戦を断行するとしても二年以上先の産業経済情勢に対しては確信なき判決を得るのみであつた」と岡田は回想している18。有沢広巳は 9 月末に秋丸機関による対英米開戦の際の国力判断が参謀総長の前で行われたとしているが、これはこの戦備課の国力判断を指している可能性がある。
3.秋丸機関の出した結論
(1)『英米合作経済抗戦力調査(其一)』『英米合作経済抗戦力調査(其二)』 秋丸機関の一応の結論の陸軍首脳への説明会の開催時期は秋丸によれば 7 月であり、これは『英米合作経済抗戦力調査(其二)』『独逸経済抗戦力調査』表紙の「昭和十六年七月調製」という表記から確かであると思われる。
イギリス・アメリカの合同の経済抗戦力を分析した報告書は『英米合作経済抗戦力調査(其一)』と『英米合作経済抗戦力調査(其二)』(以下それぞれ『其一』『其二』)の二冊および『英米合作経済抗戦力戦略点検討表』(未発見)に分けて刊行され、『其一』は「量的抗戦力」を計算するために「社会生産物」という形で総生産をまとめており、現在でいうマクロ経済的な分析が行われている。『其二』では「質的抗戦力」として対外関係、地理的条件、人口、各種資源、交通力や輸入力、経済構造と戦争準備、生活資料自給力、軍事費負担力、消費規正与件などを個別に挙げて分析している。
『其一』の「判決」ではまずアメリカの生産能力の大きさが指摘されている。アメリカがイギリス側に参戦すれば 1 年または 1 年半後にはイギリスの供給不足を賄い、さらに第三国向けに軍需資材 80 億ドルの供給余力を有する(「判決」1 頁)。一方「判決」の後半では、イギリスには「完成軍需品ノ海上輸送力」が「致命的戦略点(弱点)ヲ形成スル」ことが指摘されている。今後ドイツ・イタリアの撃沈による船舶の喪失が続き、英米の造船能力に対し喪失トン数が超えるときはイギリスの海上輸送力は最低必要量を割り「英国抗戦力ハ急激ニ低下スヘキコト必定ナリ」(「判決」2 頁)。その上で「判決」では、対英戦略は英本土攻略により一挙に本拠を覆滅することが正攻法だが、イギリスの弱点である人的・物的資源の消耗を急速化する方略を取り、「空襲ニ依ル生産力ノ破壊」「潜水艦戦ニ依ル海上遮断」を強化徹底する一方で「英国抗戦力ノ外郭ヲナス属領・植民地」に戦線を拡大して全面的消耗戦に導き、補給を絶ってイギリス戦争経済の崩壊を目指すことも「極メテ有効ナリ」としている(「判決」2 頁)。さらに、アメリカを速かに対独戦へ追い込み、経済力を消耗させて「軍備強化ノ余裕ヲ与ヘサル」ようにすると共に、自由主義体制の脆弱性に乗じて「内部的攪乱ヲ企図シテ生産力ノ低下及反戦機運ノ醸成」を目指し、合わせてイギリス・ソ連・南米諸国との離間に努めることを提言している(「判決」2 頁)。 『其二』では「例言」において、英米合作の経済抗戦力の「弱点を確認し、その弱点の性格を検出してその全関連的意義を闡明することにより経済抗戦力の戦略点を究明するに在り」と書かれており、英米の「弱点を確認」し、それにより取るべき日本の戦略を提案しようとしていた。マルクス経済学の再生産表式に基づくと思われる生産財部門と消費財部門とに分けた分析(工業力)、英米における国民所得研究の数字を参考にしたと考えられる分析も使われているが、全体として統一のとれた分析手法が使われているとは言い難い。例言とは裏腹に「英米を合作すれば、米国の過剰[石油]は英国の不足を補つて尚ほ余りある状態である」(54-55 頁)など、イギリス単独では弱点と言える場合でも、アメリカとの合同で考える場合には大半で弱点らしい弱点見いだせていない。しかし『其一』と同様に英米を合わせても船舶輸送力が不足がちであり、これが弱点であるとされている。 実際には『英米合作経済抗戦力調査』はアメリカの造船能力を過小に見積もっていたが19、英米のうち経済力の弱いイギリスの崩壊をまず目指し、そのため英米間の輸送を遮断したりイギリス植民地を攻撃することは、枢軸国にそれだけの力があったかどうかを別にすれば合理的な方針であったといえる。
(2)『独逸経済抗戦力調査』
『独逸経済抗戦力調査』の「判決一」では「独ソ開戦前の国際情勢を前提する限り、独逸の経済抗戦力は本年(一九一四(ママ)年)一杯を最高点とし、四二年より次第に低下せざるを得ず。」(1 頁)とされている。ナチス政権誕生時には多くの失業者と豊富な在庫品が存在し、企業の操業率は低かったが、「ナチス統制経済の高度の組織力」を用いて遊休生産力を活用したことで生産力は急速に拡充した。しかし 1937~38年頃には完全雇用に達し生産力は増強されなくなった。1939年の第二次大戦勃発から報告書執筆直前の独ソ開戦(1941年 6月)までは現在の生産力では消耗を補えないため過去の生産による軍需品ストックに頼っているが、そのストックも来年(1942年)から枯渇してくるため経済抗戦力は低下せざるを得ない(2-4頁)。そして「判決二」は、「独逸は今後対英米長期戦に耐え得る為にはソ連の生産力を利用することが絶対に必要である。従つて独軍部が予定する如く、対ソ戦が二ヶ月間位の短期戦で終了し、直ちにソ連の生産力利用が可能となるか、それとも長期戦となり、その利用が短期間(二、三ヶ月後から)になし得ざるか否かによつて、今次大戦の運命も決定さる。」(4 頁)としている。既に労働力と食料の不足に悩むドイツは、ソ連の労働力と農産物を利用することが絶対に必要であるが、「対ソ戦が、万一長期化し、徒に独逸の経済抗戦力消耗を来たすならば、既に来年度以後低下せんとする傾向あるその抗戦力は一層加速度的に低下し、対英米長期戦遂行が全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失はれる」(7 頁)。「判決三」では「ソ連生産力の利用に成功するも、未だ自給態勢が完成するものに非ず。南阿への進出と東亜貿易の再開、維持を必要とす。」とされている。このように『独逸経済抗戦力調査』はドイツの経済力を冷静に分析していた。ただ、『独逸経済抗戦力調査』の判決はそこから日本のとるべき方向について驚くべき結論を出している。「東亜」はドイツの不足するタングステン、錫、ゴム、植物油を供給することができる。ヨーロッパと「東亜」の貿易を回復するためにはドイツがスエズ運河を確保し、日本がシンガポールを占領してインド洋連絡を再開しなければならない(8 頁)。「一方我国は独ソ開戦の結果、やがてソ連と英米の提携が強化されるにつれ、完全の包囲体制に陥る。この包囲態勢の突破路を吾人は先づ南に求む可きである。」「北に於ける消耗戦争は避け、南に於て生産戦争、資源戦争を遂行す可し」「南に於ける資源戦により短期建設を行ひ、経済抗戦力の実力を涵養し、これによつて高度国防国家建設の経済的基礎を確立す可し」(8-9 頁)。つまり日本は資源を獲得するためにも南進すべきだと提案している。なお、イタリアに関しては資料という形で『伊国経済抗戦力調査』(1941年 12月)が刊行されており、戦力が限界に達しており今後は下降する可能性が高いという内容である。
おわりに
陸軍は秋丸機関の少なくとも結論については国策に沿ったものと受け取ったとみられる。参謀本部のソ連班の委嘱を受けて 1940 年頃にソ連の経済力測定に参加した20赤松要は、中山・有沢・都留重人と共に参加した 1978 年の座談会で「洩れ聞いたことがあるのだが、その[秋丸機関の]研究は、アメリカと戦争しても大丈夫だという答申を出したと聞いているが……」と中山・有沢に聞いている21。『英米合作経済抗戦力調査』で提示された方針は、対英米開戦にあたり戦争終結構想として策定された「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(前述の石井秋穂らが原案を作成し、1941 年 11 月 15 日に大本営政府連絡会議で国策として承認)とかなり似たものである。それは他の枢軸国との協力によりイギリスを経済封鎖等により屈伏させ、イギリスにアメリカを誘導させて講和に持ち込むとするものだった22。秋丸機関と協力していた可能性が高い陸軍省戦備課長の岡田大佐は 1942 年 3 月に朝日新聞 1 面で連載された「大東亜建設座談会」(秋丸機関に参加した中山伊知郎、蝋山政道も参加)で、英米の国力の大きさを認めているが、同時に「英米に屈伏を求める手段が国防経済的に見て見当らないのかといふと、さうではない」として、植民地を奪ったりして物資を失わせるとともに「手取り早い方法としては彼等の船舶を失はすことが一番かと思ふ」としている。座談会記事の見出しは「船が沈めば英も沈没」であった23。秋丸中佐の協力者だった遠藤武勝は、秋丸機関の研究は「戦争意志は別のところで決められ、その遂行上如何なる配慮を加えられるべきか、という極めて戦術的な問題として取り扱われたに過ぎ」ず、「研究に当たった諸学者においても、その気配に媚びて、結論としての報告において、強く厚いその経済力でも「突き崩し得ないことはあるまい」という意見が加えられた」と回想している24。秋丸機関はもともと戦争を行う上で客観的に経済的方法を探るために設置されており、実際にその役割を果たしていた。1941 年 2 月 22 日付の秋丸機関の内部資料では「ソ連経済抗戦力判断研究」を行うにあたり、「諸項目ノ関連ヲ考察ノ上抗戦力ノ弱点ガドノ部面ニ現レルカ測定」し「弱点ニツイテ経済戦略ヲ樹テルコト」が目指されており、そのための客観性を担保するため報告書作成に際し「事実ヲ挙ゲ(数量等)判断(強弱点ヲ摘出)シ理由ヲ附スルコト」「資料ノ何頁(出所)ヨリ摘出セルカヲ明記スルコト」といった指示がなされていた25。秋丸機関の研究は目的合理性を徹底的に追求するものであったが、戦争という目的そのものを疑う存在ではなかったといえる。
なお、有沢は 1941 年秋に秋丸機関を離れるが、これは 1941 年 10 月にゾルゲ事件が起き治安維持法違反者に対する扱いが厳しくなり、治安維持法違反容疑で起訴保釈中だった
有沢を陸軍が利用できなくなったためと推測される26。秋丸中佐は 1941 年 10 月に大佐に昇進するとともに大本営陸軍部野戦経理長官部部員になり、1942 年夏からはガダルカナル島への軍需補給に忙殺され経済戦略に手が回らなくなったことが秋丸機関解散の原因だったとしている。1942 年秋の秋丸機関解散後その調査部門は総力戦研究所に、「支那法幣工作」
などの経済謀略は陸軍中野学校に移され、秋丸大佐は 12 月末にフィリピン派遣第 16 師団経理部長に転出した27。

1 牧野邦昭「『独逸経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)―資料解題と「判決」全文」『経済学史研究』第 56 巻第 1 号、2014 年、同「『英米合作経済抗戦力調査(其二)』(陸軍秋丸機関報告書)―資料解題」『摂南経済研究』第 5 巻第 1・2 号、2015 年。
2 秋丸次朗「秋丸機関の顛末」『回想』東京大学出版会、1989 年、62-64 頁。
3 牧野邦昭『戦時下の経済学者』中央公論新社、2010 年、28 頁。
4 秋丸「秋丸機関の顛末」21 頁。
5 同右、65-66 頁。
6 財団法人東亜経済懇談会編・刊行『東亜経済懇談会第一回報告書』1940 年、504 頁。
7 同右、505 頁。
8「陸軍秋丸機関(戦争経済研究班)ニ関スル件(十五年六月末現在)」大久保達正ほか編・土井章監修『昭和社会経済史料集成』第 10 巻、大東文化大学東洋文化研究所、1985 年所収。
9 座談会「経済政策論の発展過程およびその周辺」『中山伊知郎全集』別巻、1978 年所収、64-65 頁。
10有沢広巳『有澤廣巳 戦後経済を語る 昭和史への証言』東京大学出版会、1989 年、13 頁。
11中村隆英・伊藤隆・原朗編『現代史を創る人びと(1)』毎日新聞社、1971 年、195 頁。
12 塩崎弘明「対米英開戦と物的国力判断」近代日本研究会編『年報近代日本研究九 戦時経済』山川出版社、1987 年所収。
13偕行社で秋丸機関の発表会があった時期について中山は座談会「経済政策論の発展過程およびその周辺」62 頁では「昭和十五年の終わりごろだったと思う」と述べる一方、「第十集への序文」『中山伊知郎全集』第 10 巻、1973 年では「たしか昭和十六年の初め」(Ⅰ頁)と書いている。
14 中山「第十集への序文」Ⅱ頁。
15脇村義太郎「学者と戦争」『日本学士院紀要』第 52 巻第 3 号、1998 年、 148 頁。
16 『石井秋穂大佐回顧録』防衛省防衛研究所史料室蔵、96-98 頁。
17 相澤淳「太平洋戦争開戦時の日本の戦略」防衛省防衛研究所編・発行『平成 21 年度戦争史研究国際フォーラム報告書』2010 年所収、37 頁。
18 岡田菊三郎「開戦前の物的国力と対米英戦争決意」『現代史資料 43 国家総動員1』みすず書房、1970年、144 頁。
19 脇村「学者と戦争」152-157 頁。
20 赤松要「学問遍路(8)南方調査とマライの独立運動」『世界経済評論』第 11 巻第 11 号、1967 年、40 頁。
21座談会「経済政策論の発展過程およびその周辺」62 頁。
22 参謀本部編『杉山メモ』上、原書房、1967 年、523-524 頁。
23 「大東亜建設座談会 本社主催 2 船が沈めば英も沈没 粘りは米の方が弱い」『朝日新聞』1942 年3 月 20 日 1 面。
24 遠藤武勝「一経理官の回想」陸軍経理学校同窓会若松会『若松誌通巻一五〇号記念 若松 総集編』1995年、343 頁。
25 「ソ連経済抗戦力判断研究関係書綴」1941 年 2 月 22 日、防衛省防衛研究所史料室所蔵。
26 脇村義太郎「回想の戦中・戦後(上)」『中央公論』1995 年 11 月号、168-169 頁。
27秋丸「秋丸機関の顛末」67 頁。


日本の戦争計画におけるイギリス要因―「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の消滅まで―赤木完爾 防衛研究所2023/11/18
https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2002/forum_j2002_7.pdf

はじめに
第二次世界大戦は、その起源において相互関係のなかったアジアの戦争とヨーロッパの戦争が一つのものとなって戦われた戦争であった。それは 1940 年の日独伊三国同盟による国際関係における友敵関係の明確化、1941 年の独ソ戦の開始、英米の対ソ援助の開始、そしてグローバル・パワーとしてのイギリス植民地帝国のアジアにおける危機の切迫、さらに西半球の防波堤としてのイギリス本国の崩壊を座視することはできないとして開始されたアメリカの対英援助、ならびにアメリカの大西洋における実質的な参戦を経て、日本海軍の真珠湾攻撃によって、一挙に第二次世界大戦に発展した。日本の戦争計画が策定される過程においては、二つの仮説が存在した。それは「ドイツの不敗」と「イギリスの屈服」である。この仮説は日本軍部の政策決定者に 1940 年 5月のドイツの西方電撃戦以来一貫して共有されていた。1941 年 9 月から 12 月にかけて日本の戦争決意が形成された。ことに 11 月 5 日の御前会議で、対英米蘭戦争は不可避と判断された。開戦にあたっての基本戦略が、大本営政府連絡会議が 11 月 15 日に決定した「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」である。 この腹案の決定をめぐって、すでに陸軍と海軍の間で対立があった。開戦前の研究において、政府と統帥部は戦争が長期戦になる公算が大であり、この長期戦を戦い抜く戦略物資が日本には不十分であり、したがって日本にはアメリカを武力で屈服させる手段がないことを認識していた。たとえば 9 月 6 日の御前会議において、永野軍令部総長は、日本は進攻作戦を以て敵を屈服させ、その戦争意思を放棄させる手段はないと発言していた1。こうした認識は陸軍も共有していた。しかしながら想定されていた戦争の態様は、陸軍は「長期持久戦」であり、海軍は「短期決戦」であり、そこに認識の一致はなかった。「長期持久戦」と「短期決戦」の含意はそれぞれ「不敗」と「引き分け」である。敵を直接的に屈服させることのできない日本の戦争計画が構想したのは、先に触れた二つの仮説に基づいた間接的な戦争終結シナリオであった。その中で強調されていたのが、まずイギリスを屈服させ、その影響を利用して戦争を少なくとも引き分けに持ち込むという構想であった。本稿で言うイギリス要因とは、これを指す。そしてそのイギリス要因が戦争計画や作戦の立案や実施においてどのように意識されていたか、あるいは無視されていたかを検証することが、本稿の目的である。日本の第二次世界大戦史研究の中で、戦争の日英戦争の側面ならびに日本の戦争指導計画については少数ではあるものの重要な業績が積み重ねられている。本稿はそうした先行研究に依拠しながら、もっぱら戦争指導計画の変容をイギリス要因の消長を中心として概観を試みるものである2。あわせてこの検討作業を通じて、日本の軍事幕僚組織の計画作成におけるリーダーシップの問題を考える材料を提示することを試みている。
「腹案」の論理
1941 年 11 月 5 日の御前会議で、対英米蘭戦争は不可避と決定された。開戦にあたっての総合的な戦争計画は、同年 8 月頃から陸・海軍および外務省の事務レベルで「対英米蘭戦争指導要綱」として立案準備されていた。このうち最終部分にあった戦争終末促
進の方略が抜き出されて、「腹案」となった 3。11 月 15 日に大本営政府連絡会議で決定された「腹案」は日本の基本戦略であり、そのことは政府・統帥部において一般に諒解されていた。戦争前に成文として出来上がった唯一の戦争計画であったといえる 4。さて、前述のように日本がアメリカを自ら屈服させる手段を持ち得ないことは、自明であったとしても、そのことはそのまま日本が必ず敗北するという見通しが確認されたということではない。1941 年 9 月から 12 月にかけて何度も開催された連絡会議の審議や討議の記録、関係する政策文書をとりまとめて論ずれば、以下のようになろう。すなわち初期作戦の勝利は確実であり、一定の条件さえ満たされれば引き分けに持ち込める。しかし最終的な見通しは不明ということになる。だが長期戦の場合の見通しについては、陸海軍の首脳は概して悲観的であった5。「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の基本構想は次のように規定されている 6。

1 参謀本部編『杉山メモ』上(原書房、1967 年)35 頁。及び防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<2>』(朝雲新聞社、1968 年)433 頁。

対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日 国立公文書館
https://www.jacar.archives.go.jp › das › image
標題:対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日 · 防衛省防衛研究所 · 陸軍一般史料 · 文庫 · 宮崎


ノモンハン事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ノモンハン事件
1939年5月から同年9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。第一次(1939年5月 - 6月)と第二次(同年7月 - 9月)の二期に分かれる。場所:満蒙国境、ハルハ川付近。
戦力 日本軍総兵力
58,000名-76,000名(うち戦闘参加2万数千名)、戦車92輌8月20日時点、歩兵8,000名
で総人員は2万数千名)、戦車なし火砲70門。
戦力 ソ連軍・モンゴル軍総兵力
ソ連軍69,101名、モンゴル軍8,575名8月20日時点、総兵力51,950名、火砲542門、戦車438輌、装甲車385輌、兵力比で日本軍の4倍。

損害日本軍 戦死 7,696-8,109、戦傷 8,647-8,664、生死不明1,021(うち捕虜566-567、戦後に捕虜交換で生還したもの160)、戦車 29輌、航空機 171機(含損傷機)、搭乗員死傷 113。
損害赤軍 戦死 9,703~10,000人以上、戦傷 15,952、戦車・装甲車 397輌、航空機 251機、搭乗員死傷 287。
損害モンゴル軍 戦死 280、戦傷 710、装甲車数十輌。


経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介
第一次、第二次大戦の戦費、兵器供給と米国

 第一次世界大戦の戦費を敵対国がともに米国から借りており、敗戦国ドイツから英国などへの賠償金の支払いは米国からドイツへの貸し付けによってなされていた。第二次世界大戦の日中戦争では米国から武器弾薬が中国に供給され、英国、仏国など連合国の対ドイツ戦線の武器も同じように米国から供給された。

 第二次世界大戦における日米戦争が始まると米国では婦女子を動員して兵器製造に全力を挙げた。

米国の無条件降伏を目的とした日本焦土作戦

 米国の対日戦争の戦略は戦闘において日本軍の戦力を粉砕し、武装を失った政府に無条件降伏させることであった。これは第一次世界大戦における対ドイツ戦線での米軍の行動の延長であり伝統的作戦となっていた。

 アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃隊の司令官や一部の海軍将官にとって、この伝統的作戦は目的というよりは手段であった。

 日本の軍需産業と都市爆撃は躊躇なく実施された。野坂昭如の火垂るの墓は、神戸市界隈への都市爆撃にによって路頭をさまようなか4歳の妹が栄養失調で死んでいくことを描いている。このとき作者は14歳であった。日本は石油の7割を米国に依存していた。これを止められ、また預金を封鎖された。満州、中国から手を引けという条件であった。

B-29エノラ・ゲイとB-29ボックスカーによる原爆投下

 米軍の対日作戦のその戦略は日本を焦土として戦闘能力を奪い無条件降伏させることである。そのための作戦行動の中心はB17爆撃機の後継で能力が大きく向上した超大型爆撃機B-29であり、1945年5月以降にボーイング社以外の工場でも生産体制を築いて大増産している。長距離侵攻能力を生かして日本本土への戦略爆撃に使用された。B-29エノラ・ゲイとB-29ボックスカーの2機は広島、長崎へ原子爆弾を投下した。1944年7月9日のサイパン陥落などによって南部マリアナ諸島を出撃基地として日本の主要都市が射程となった。

 米国戦略爆撃調査団(USSBS)発表では日本本土を爆撃したB-29の延べ出撃機数 33,401機、作戦中の総損失機数485機、延べ出撃機数に対する損失率1.45%、作戦中の破損機数2,707機、投下爆弾 147,576トン、搭乗員戦死 3,044名。

 アメリカ空軍第9爆撃航空団統計によるB-29所属部隊の戦績と損失は次のとおり。
 第20空軍1944年6月5日以降。作戦数380。戦闘出撃機数 31,387。その他出撃数1,617。出撃機数合計33,004。投下爆弾・機雷トン171,060。戦闘損失数494。アメリカ本土での訓練損失260。損失合計754。搭乗員戦死576。搭乗員行方不明2,406。搭乗員戦傷 433。搭乗員死傷者合計3,415。

1945年8月、日本軍の航空機実戦配備 6,000機(すでに38,000~50,000機を失う)

 日本軍のサイパン基地陥落前後における日本軍の航空戦力の状況はどうであったか。

 日本軍は1945年8月当時、まだ約 6,000機の航空機を実戦配備していたが、帝国陸海軍の航空部隊はすでに38,000~50,000機と、それらを操縦していた搭乗員の大多数を失っていたと推計される。日本の陸軍兵士は6人に1人の割合で戦死したのに対し、海軍水兵は4人に1人の割合で戦死していた。200万人以上の帝国陸海軍人が戦死したが、生存者も 500万人以上にのぼる。ピーク時の1943年には 873,000トンであった油槽船隊が1945年にはその4分の1の規模にまで縮小していた。

 都市爆撃によって、少なくとも50万人の日本の民間人が死亡。本土在住の国民の12分の1に当たる。これらのことは敗戦時の日本の状況を表す指標の一つである。

開戦時日米の経済格差は1対20(陸軍主計大佐新庄健吉の現地調査)

 第二次世界大戦終結時における世界の富の二分の一を米国が保有していたといわれる。開戦時の日米の国力比較を軍の命令でしたのが陸軍主計大佐新庄健吉である。

 新庄健吉は1941年(昭和16年)1月にアメリカ出張を命ぜられた。新庄の任務は日米戦争にかかわり米国の国力と戦力を調査である。4月に米国に到着して以来、すべて公開されている統計情報をつうじて調査は実施されたとされる。政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。調査のための場所に選ばれたのはエンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店で、ここに新庄は机を置いた。表向きの身分を三井物産社員。米国が世界一の工業生産力を持つことははっきりしていたがこれを確かな形で確かめた。重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3であった。

米国国力を調査した陸軍主計大佐新庄健吉

 米国国力を調査した陸軍主計大佐となった新庄健吉は異色雄経歴をもつ。

 1897年(明治30年)9月30日農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業。同年12月、陸軍三等主計(少尉相当)に任ぜられ、歩兵第62連隊附。1923年(大正12年)6月、陸軍経理学校高等科に入り、1925年(大正14年)5月卒業。陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入る。1927年(昭和2年)3月、一等主計(大尉相当)に進級し、1928年(昭和3年)3月、経済学部を卒業、大学院に進み経営経済学を学び1930年(昭和5年)3月、大学院を修了する。1935年(昭和10年)11月からソビエト連邦・ポーランドに軍事研究員として駐在。1941年(昭和16年)1月、参謀本部附仰付、アメリカに出張を命ぜられ同年4月ニューヨークに赴任。

重工業分野は1対20、化学工業1対3、全体は米国が日本の20倍の産業力

 第二次世界大戦終了時において米国は世界の富の半分を保有していたことになっている。日米大戦の開戦時の1941年の日米の経済の状態を陸軍主計大佐新庄健吉の調査では重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3であったと調べ上げた。全体としても日本の20倍の産業力を保有していたのが米国である。

 陸海軍の軍備は軍縮会議で決められた内容に沿うものであるから日本1、米国20ではない。しかし第二次世界大戦欧州戦線の展開とともに米国は兵器の増産体制に移り、1944年には日本本土の都市を爆撃することを目的とした超大型爆撃機B29の大増産を始めた。軍需産業はことごとく爆撃され、都市は焼き尽くされた。1945年3月10日の東京大空襲は単なる絨毯爆撃ではなく円形に焼夷弾を投下することによって下町の住民10万人を死亡させた。

2021年の世界GDP比率は米国24.1%、中国18.3%、5.1%

 時が下って2021年の各国の国内生産はどのようになっているか。

 米国の世界GDPに対する比率は24.1%、中国の比率は18.3%、日本は5.1%、ロシアは1.8%。日米の差(比率)は1941年と変わらないが中国と米国が拮抗するようになった。1.8%のロシアが米国と対抗して東西冷戦と騒がれていたことが不思議である。

米国の兵器産業は日本のGDP700億円相当

 米国における兵器産業の状態である。

 2015年において米国の上位10社の軍事企業の売上高は41兆円。関連する企業などの売上高を総計すると日本のGDP700億円に迫ると想像される。米国における軍事産業は世界平和あるいは地域紛争と密接にかかわる。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イランとイラクの戦争、アフガニスタンの内紛、ウクライナ戦争などは、米国が製造する兵器の消費の場であった。軍事産業を宇宙開発に振り向けてきた事情があるが、宇宙開発はGPSを生み出し、ミサイル、無人攻撃機などにつながっている。

ウクライナ戦争から2025年2月で三年に

 ロシアのウクライナ侵攻によるウクライナ戦争は3年を経過する。ウクライナのNATO加盟に連動する西側の動きはロシア領への西側の圧迫である。一連の動きはロシアにはミンスク合意の破棄と受け止められている。ロシア・ウクライナ危機が対立の激しさを増し、2022年2月21日にロシアはドンバス地域の独立を承認し、翌22日ウラジーミル・プーチン大統領は会見で、ミンスク合意は長期間履行されずもはや合意そのものが存在していない、として破棄を宣言した。24日にはウクライナの非軍事化を目的とした特別軍事活動を承認し、ロシア軍によるウクライナへの全面侵攻が開始された。

ウクライナのGDPはロシアの10分の1以下、人口は2割

 ウクライナのGDPはロシアの10分の1以下。ロシアは米国の155の1。戦争が国力の総合で争われるものだとするとウクライナ軍の戦闘は異例である。NATO加盟国の軍事援助、米国による特別な武器支援がなければ戦えない。ウクライナ戦争に関係する各国のGDPと人口である。

戦争に関連した各国のGDP

 戦争に関連した各国のGDP世界の名目GDP(USドル)は次のとおり。(単位: 10億USドル)

 1位アメリカ27,720.73。2位中国17,758.05。3位ドイツ4,527.01。4位日本4,219.83。11位ロシア2,009.96(人口1億3千万人)。58位ウクライナ178.34(人口3千4百万人)。(以上2024年10月23日付け)

官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介

第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み外交官になる道を歩んでいた男の自らへの問い

 第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み、学徒動員につづく幹部候補生の途中で結核のため招集解除になり外務省の嘱託職員として終戦を迎えた男の問いかけである。

何故このようになってしまったのか
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

侵略思想があった、それが限りなくね、これがすんだら今度はこれという風に侵略思想があったんですよ


 この年、1941年4月13日に日ソ中立条約が締結されたている。7月25日にアメリカ政府が在米の日本資産を凍結した。資産凍結とは在米邦人や法人企業の資産凍結だけをいみするのではなく、連合国との石油だけではなく資材、食糧などの取引を占めだす内容である。連合国との開戦回避の条件は中国からの日本軍の撤退。このことに関連すれば満州からの撤退も意味していた。また南方方面からの撤退をも米国は要求する。

 国策、つまり戦争の作戦計画を決める御前会議は米国の要求は受け入れることはできないとして、12月1日の開戦を決めた。12月8日に日本軍がマレー半島に上陸し、時間的に少し遅れてハワイの真珠湾に浮かぶアメリカ太平洋艦隊を攻撃を攻撃した。

 大本営陸軍参謀部にいて戦争計画を立案したのが石井秋穂である。最終階級は陸軍大佐。石井秋穂(いしい あきほ)は1900年(明治33年)11月2日(山口県豊浦郡豊西村)~ 1996年(平成8年)8月25日)。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校本科を経て、1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を秩父宮を除き4番の成績で卒業。陸幼と陸士卒業時の2度に亘り恩賜の銀時計組。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業。

 終戦後は官職などに付かずに1996年(平成8年)8月まで生きた石井秋穂は、MHKテレビがドキュメンタリー番組のなかで次のように語る。

御前会議に上奏する戦争計画を書いた大本営陸軍参謀部石井秋穂の証言

 国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。天皇陛下が、第一項に戦争が書いてある、第二項に外交が書いてあるって、ご機嫌が悪いわけね。ところがそれを、第一項に戦争を書いたのは、わしですよ。大東亜戦争ていえば、すぐさまあの「四方の海」ね、あれを思い出します。だからわしはあの政策に、ずいぶん責任がありますよ。資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。どうしようかと。夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。そして、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。和解となればね、あの時には日本は支那から撤退せにゃいけなくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退するとなると満州も含む、それにもかかわらず賛成する人がおろうか、おったらそれは本当の平和主義者か、そういう人がずうっと上の人からね、下のほうの幹部にいたるまで誰かおるだろうかと考えたら、おらん誰も。 結局理論的に申せばどれもこれもみな問題があったことになりますけどね。それを正直に申せばね侵略思想があったんですね。それが限りなくね、あっちこっち、これが済んだら、今度はこれという風に侵略思想があったんですよね、もとは。そういうことになりましょうね。

  9月6日「帝国国策遂行要領」 9月6日の第6回御前会議が開かれ,以下のような内容の「帝国国策要領」が決定された)

 この「帝国国策遂行要領」こそ、「十月上旬頃ニ至ルモ尚要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」とされているように、事実上、太平洋戦争突入を決定したものである。

 天皇は、9月6日の決定の前日 9月5日に「突然陸海軍統帥部長ヲ召サレ近衛総理立会ノ下ニ御下問」を行い、総長に以下のような「奉答」をさせている。

御上 方作戦ハ予定通リ出来ルト思フカ
参謀総長 右ニ対シ馬来比島等ノ予定作戦ヲ奉答ス
御上 予定通リ進マヌ事カアノレタラウ五ヶ月ト云フカソウハイカヌコトモアノレタラウ
総長 従来陸海軍テ数回研究シテ居リマスノテ大体予定ノ通リ行クト思ヒマス
御上 上陸作戦ハソンナニ楽々出来ノレト恩フカ
総長 楽トハ思ヒマセヌカ陸海軍共常時訓練シテ居リマスノテ先ツ出来ノレト思ヒマス
御上 九州ノ上陸演習ニハ船カ非常ニ沈ンダカアーナレパドウカ
総長 アレハ敵ノ飛行機カ撃滅セラレル前ニ船団ノ;航空ヲ始メタカラテアヅテ,アーハナラヌト思ヒマス
御上 天候ノ障碍ハドウスルカ
総長 障碍ヲ排除シテヤラネハナリマセヌ予定通リ出来ルト思フカ オ前ノ大臣ノ時ニ蒋介石ハ直ク参ノレト云フタカ未タヤレヌテハナイカ

総長 更メテ此ノ機会ニ私ノ考へテ居リマスコトヲ申上ゲマスト前提シ日本ノ国力ノ漸減スルコトヲ述へ弾捺力ノアノレウチニ国運ヲ興隆セシムル必要ノアル、コト又困難ヲ排除シツツ国運ヲ打開スル必要ノアルコトヲ奏上ス

御上 絶対ニ勝テルカ(大声ニテ)
総長 絶対トハ申シ兼ネマス 而シ勝テル算ノアルコトタケハ申シ上ケラレマス必ス勝ツトハ申上ケ兼ネマス尚日本トシテハ半年ヤ一年ノ平和ヲ得テモ続イテ困難カ来ルノテハイケナイノテプリマス 二十年五十年ノ平和ヲ求ムヘキテアルト考ヘマス
御上 アふ分ッタ(大声ニテ)

 天皇はかなり突こんだ作戦について質問し、その結果をふまえて、9月6日の「対米(英,蘭)開戦ヲ決定ス」る「帝国国策要領」を裁可したのである。天皇が「私ハ毎日 明治天皇御製ノ 四方の海皆同胞と思ふ代になど波の立騒ぐらむ ヲ拝踊シテ居ル」と述べていることだけで、平和主義者だったとはさらさら言えるものではなく、9月 5日の「御下問」と関連して、木戸内大臣も「対米施策につき作戦上の御疑問等も数々あり」としているように、それが単なる戦争へのためらい(不安)にすぎなかったことは以上の経過から明らかである。

 さらに9月6日の対米英蘭開戦決定以降、天皇は、以下に示すような「御下問Jなどを繰返して太平洋戦争開戦への道を促進していったので、ある。まず9月9日「南方作戦構想ニ就キ上奏ノ際御下問Jでは、次のような遣り取りが行われている。

御上 作戦構想ニ就テハヨク分ッタ南方ヲヤッテ居ル時北方カラ重圧カアッタラドウスルカ
総長 南方ヲ始メタ以上ハ之ヲ達成スル迄右顧左阿スルモノニアラスシテ湛進スル必要カアリマス 又ソウ御願ヒ致シマス 但シ北方ニ事カ起レハ支那ヨリ兵ヲ転用スルコトナトモ致シマシテ中途テ南ヲヤメル様ナコトハイケマセン
御上 ソレテ安心シタ支那カラ兵力ヲ抽出スルコトハ大ナル困難ヲ伴フニアラスヤ
総長 之ハ支那方面テカカ薄クナリマスカラ戦面ノ縮小其他ノコトモヤラナケレハナラヌト思ヒマス 此ノ事ハ年度作戦計画テモ考へテ居リマス ソレテモ支那ニハ心配ハ入リマセン

 以上のように南進政策強行に伴うソ連の脅威などについて、さかんに質問をしており、その結果にもとづいて、9月10日の「対南方動員ニ関スル上奏ノ際御下問」で、

御上 又聞クノテアルカ南ヲヤッテ居ル時北ハ出テ来ルコトハナイカ
総長 絶対トハ申上ケラレマセンカ季節ノ関係上大キナモノト出テ来ルトハ考ヘラレマセン

 というような応答のように一抹の不安を示しながらも、結局、「動員ヲヤッテ宜シイ 。近衛『ルーズベルト』ノ話カマトマレハ止メルダラウ」と、裁可しているのである。少くともこれらの諸事実からみても、天皇の戦争責任は明白である。さらには開戦後の戦争遂行過程、降伏決定過程における天皇の言動が追及されなければならない。

毎日新聞記者栗原俊雄が確認した戦争と天皇責任

 栗原俊雄(毎日新聞記者)の調査・論考「戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う」によって確認された昭和天皇裕仁の御前会議での発言と戦争責任の所在は次のとおりである。内容の基本陽光は、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)に書かれている。

 なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか。毎日新聞の栗原俊雄記者は「昭和天皇は開戦を決めた御前会議で、和歌を詠むだけで、戦争回避を求める発言はしなかった。和歌の意図は戦争回避だったと考えられるが、作家の五味川純平も指摘しているようにそれだけでは不十分だったのではないか」という。

「自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない」という近衛文麿の決意

 1941年9月5日、近衛首相は天皇に拝謁し、大本営政府連絡会議がまとめた「帝国国策遂行要領」(「要領」)を内奏した。
要点は、
(1)日本は自存自衛を全うするため、対米英蘭との戦争を辞さない決意のもと、おおむね10月下旬をめどに戦争準備を完整させる
(2)(1)に並行して米英との外交で要求貫徹に努める。交渉における最少限度の要求は別紙の通り
(3)(2)の外交により10月上旬ごろになっても要求貫徹のめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する
というものだ。

 日本側が求める「最少限度の要求」のうち、主なものは、(A)米英は日本の「支那事変処理」に容喙ようかいしたり、妨害したりしないこと、(B)米英は極東において、日本の国防を脅かすような行為をしないこと、(C)米英は日本が必要な物資を獲得するのに協力すること、である。

 さらに、譲歩できる限度も想定した。

①日本は進駐した仏印(フランス領インドシナ、現ベトナム)を基地として、中国以外の近隣地域に武力進出はしない。
②公正な極東平和が確立した後、仏印から撤兵をする。
③フィリピンの中立を保障する。
というものであった。

 「要求」は、ハル4原則[(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持]と真っ向から対立するものである。その要求をのませる対価として、「中国以外の近隣地域に武力進出はしない」などの前記の「譲歩」①~③は、あまりにも見劣りした。筆者のみるところ、10円で100円を買おうとするようなものだ。

 「要領」は自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない決意をし、10月下旬をめどに戦争準備を終える、10月上旬までに対米交渉で上記の要求を貫徹できるめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭戦争を決意する、という内容である。このときすでに、日本は石油が入ってこなくなりつつあった。対米交渉妥結が延びれば日本の戦力、国力は削られる。交渉に期限を設ける必要があった。

開戦の気配を感じ取った昭和天皇

 外交は相手の意思や都合もある。敗戦後の日米関係ならともかく、この段階での日米関係はどちらかが相手の要求をすべてのむ、という関係ではない。互いの譲歩が必要なのだ。交渉期限を設定してしまうと、互いの譲歩の余地が少なくなる。「開戦決意」までたった1カ月しかない。『平和への努力 近衛文麿手記』を見ると、天皇は以下のように述べた。

 「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点について明日の会議で統帥部(陸軍参謀本部海軍軍司令部)の両総長に質問したい」このあたり、戦争回避を願う天皇の視点は鋭い。危機感が増したのだろう。

 近衛は、「一と二の順番は軽重を表すものではなく、政府としてはあくまでも外交交渉を行う。どうしても交渉がまとまらなければ、戦争の準備にとりかかる」、という趣旨の返事をした。その上で、翌日の御前会議の前に杉山元陸軍参謀総長と、永野修身海軍軍令部総長を呼んで聞くことを勧めた。御前会議には文官もいて、軍事の詳細を話し合うのは、はばかられたためだろう。天皇は「すぐに呼べ。首相も陪席せよ」と命じた。

 「どのくらいの期間で片付ける確信があるのか」天皇は両総長に、要領の順番について近衛にしたのと同じ質問をし、両総長は近衛と同じように答えた。天皇はさらに杉山に聞いた。

 以下、前掲の近衛手記から再現してみよう。

天皇 「日米戦争となったら、陸軍はどれくらいの期間で片付ける確信があるのか」
杉山 「南洋方面だけは3カ月くらいにて片付けるつもりであります」
天皇 「お前は支那事変[日中戦争]が勃発した時の陸相だ。その時、『事変は1カ月くらいにて片付きます』と申したことを覚えている。しかし4年の長きに渡ってまだ片付かないではないか」
杉山 「支那[中国]は奥地が開けており、予定通りの作戦が難しいのです」
天皇 「支那の奥地が広いというなら、太平洋はさらに広いではないか。いかなる確信があって3カ月と言うのか」

 杉山にとって、3カ月で南方作戦を成功裏に終わらせるのは願望であり、それを実現させる確信はなく、確信の裏付けとなる客観的なデータなどなかったのだろう。だから「3カ月」と判断する理由を説明できなかった。永野が言葉を添えた。

「絶対に勝てるか」と大声で問いただした昭和天皇

 本当に「手術」するしかないのか。外交などの「投薬」を尽くしたのか。戦争だけが「手術」で、他にすべはないのか。疑問は残る。アメリカ相手の戦争を始めるにあたり、説得力のある説明は永野といえどもできなかっただろう。戦力で考えたらアメリカに勝てるはずがないし、永野たちも勝てないことは分かっていた。

 「一か八か」のような永野の論法を聞いた天皇は、不安をぬぐえなかった。

 強い言葉でさらに問いかけた(『杉山メモ』)。

御上[天皇] 「絶対に勝てるか(大声にて)」

 天皇が翌日の会議を前にわざわざ2人を呼び出したのは、このことを聞きたかったからではないか。居並ぶ大本営政府連絡会議のメンバーを前に「絶対勝てます」とは、米英との彼我の国力差を考えれば、軍事のプロとしては言えないだろう。かといって「勝てません」とも言えない。そこで本音を言いやすい環境で2人に問うた、ということではないか。

 永野「絶対とは申しかねます。しかし勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申上げかねます。なお日本としては半年や1年の平和を得ても続いて国難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」

御上 「ああ分かった(大声にて)」

 必ず勝つとまでは言えない。しかし、勝算はある。半年や1年の平和を得たとしても、国難が続くことがあってはならない。半世紀先までの平和を考えなければならない。永野はそう言う。その平和は、戦争をすることで見えてくる。そうも言いたかったのだろう。

御前会議の終盤に起きた異常な事態

 天皇の「分かった」は、どういう気持ちからの言葉だったのか。「手術=開戦」に納得したのか。あるいは、いいかげんな説明にうんざりして話を打ち切りたかったのか。開戦過程の研究では、この翌日9月6日の御前会議がよく知られている。

 非常に重要な会議ではあるが、筆者は前日に行われた両総長と首相による、天皇への内奏も劣らずに重要であったと考える。

 天皇は、両総長が対米戦に前のめりになっていることを改めて知ったはずだ。そして、確たる勝算がないことも。そうであれば、文官も含めた各閣僚がいる御前会議の場ではなく、5日のこの時点で戦争回避の意志を強く示すべきであった。永野は「半年や1年……」と述べたが、もし半年ないし1年日本が熟慮を続けていれば、1945年8月の敗戦とは相当違う未来があっただろう。

 6日午前10時、御前会議が始まった。終盤に異常な事態が起きた。同会議では発言しないという慣例があるが天皇はそれを破り、明治天皇の和歌を読み上げた。

 「四方よもの海、皆同胞みなはらからと思ふ代に、などあだ波の立ち騒ぐらむ」(『杉山メモ』)

 「避戦」のための、異例の発言だった。

 「手術=開戦」に納得していなかったことが分かる。しかし、要領は可決された。つまりこの会議から1カ月余り後の10月上旬ごろを期限とし、それまでに日米交渉で日本の言い分が通らなければ、対米英蘭の戦争を決意することが、天皇の前で国家意思として決まったのだ。大日本帝国は戦争へと大きな一歩を踏み出し、ここから破滅への坂を転げ落ちていく。





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