官僚制度と計量の世界(32)
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官僚制度と計量の世界(32)総力戦研究所「日本必敗」――計量は正しく、決定を誤った 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(32)総力戦研究所「日本必敗」――計量は正しく、決定を誤った執筆 夏森龍之介
海辺の風景
二本の系統が交わるのは天皇のもとだけで、両者を束ねる法的権限を持つ常設の機関はなかった。天皇は補佐に従って裁可するのが慣例で、自ら決めることはしない。内閣は統帥に口を出せず、統帥部は政治と外交の責任を負わない。 その結果、「誰も止めず、誰も最終的に決めない」構造が生まれた。
(タイトル)
官僚制度と計量の世界(32)総力戦研究所「日本必敗」
―計量は正しく、決定を誤った―
· 執筆 夏森龍之介
(本文)
福島新吾の問いに終止符を打つために
日本は負けることを知っていた。それでも開戦した。本稿は、この一点を総力戦研究所の「日本必敗」を手がかりに論じ、連載の結びとする。
第一高等学校から東京帝国大学法学部へ進み、学徒出陣ののち結核で召集解除となり、外務省の嘱託職員として終戦を迎えた福島新吾は、自らに問うた。「何故このようになってしまったのか」。
その問いは六つに分かれていた。「一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。三、そこに何を期待していたのか。四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。五、国民は戦況不利の中で、何故手の平をかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。」福島はこの六つの問いを抱えて、戦後を歩み始めた。
第21回から第31回まで、この問いに答えるための資料を集めてきた。昭和恐慌と満州、御前会議と天皇、秋丸機関の国力比較、ヒトラー・ドイツの熱狂、小野寺信の電報、バチカンとスイスの和平工作、学徒出陣、そして総力戦研究所の研究生たちの戦後である。そこから浮かび上がったのは、六つの問いが一つの連鎖だということだった。その根には、「知っていたこと」と「決めたこと」の断絶がある。
本稿は二つのことを論じる。第一に、日本は国力を正しく計量していたが、その計量を決定に結びつける制度がなかったこと。第二に、「総力戦」を叫んだ国が、学問も兵士も国民も一つに束ねられなかったことである。
総力戦研究所という若手官僚の「模擬内閣」
総力戦研究所は、1940年(昭和15年)9月の勅令で内閣総理大臣の直轄機関として設置された。目的は、総力戦に関する基本的な調査研究と、総力戦を担う人材の教育である。開所時は企画院総裁の星野直樹が所長事務を取り扱い、のちに陸軍中将の飯村穣が所長となった。
1941年4月1日、第一期の研究生35人が入所した。官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人である。各省の官僚、陸海軍の将校、日本製鉄・日本郵船・同盟通信などの民間人で、多くは30代前半の若手であった。いずれ各組織の中枢を担うはずの、それぞれの組織の選り抜きである。
1941年7月12日、研究所は彼らに「模擬内閣」を組ませた。仮想の日本政府を「青国政府」とし、研究生が総理大臣・外務大臣・陸海軍大臣・企画院総裁などの役を分担した。各人は出身官庁や会社から実際の統計資料を持ち寄った。仮想の内閣でありながら、手にしていた数字は本物であった。配役と研究生たちの戦後は、第31回で詳しく述べた。企画院総裁役の玉置敬三はのちに計量行政審議会の会長となり、日本銀行総裁役の佐々木直は28年後に実際に日銀総裁となった。
この研究所に、大学の研究者はいなかった。集められたのは官僚と軍人と企業人である。この点は後に結論3で取り上げる。
1941年夏の机上演習と「日本必敗」
1941年の7月から8月にかけて、模擬内閣は日米開戦を想定した机上演習を行った。結論は「日本必敗」である。
演習の筋書きは、おおよそ次のように進んだ
日本が石油を求めて蘭印(オランダ領インドネシア)に進攻すれば、米英との戦争は避けられない。緒戦は奇襲によって優勢に立てるとしても、米国は講和に応じず、戦争は長期戦になる。そのあいだに輸送船は次々に沈められ、造船は喪失に追いつかず、南方の石油も資源も本土に届かなくなる。物量で劣る日本は次第に戦力を失い、最後にはソ連が参戦する。これが模擬内閣の描いた筋書きであった。
この筋書きは、原子爆弾を除けば、その後の四年間に起きたことをほぼ言い当てている。特別な情報を使った予言ではない。研究生が出身組織から持ち寄った生産力、船舶、物資の数字を、そのまま積み上げた結果である。
決め手は船であった。資源のない日本にとって、戦争を続ける力とは、南方から資源を運ぶ船の量である。占領地を広げても、運ぶ船がなければ資源はないのと同じである。実際、油槽船隊は1943年の最盛期から1945年にはその4分の1にまで縮小した(関連論説その1)。
「戦争は計画どおりにいかない」――首相官邸での報告
1941年8月27日と28日、研究生たちは首相官邸で演習の結果を報告した。聴いたのは近衛文磨首相、東條英機陸相ら、本物の内閣である。
東條は報告を最後まで聴いたうえで、およそ次の趣旨を述べたと伝えられる。諸君の研究の労は多とするが、これはあくまで机上の演習である。実際の戦争は計画どおりにはいかない。日露戦争も、勝てるとは思われていなかったが勝った。意外裏なことが勝利につながる。そして、この研究のことは口外してはならない、と。
この発言には、本連載で見てきた問題がそろっている。
第一に、勝利体験への依存である。日露戦争の「偶然の勝利」が、計量を退ける根拠として持ち出されている(第21回)。第二に、「意外裏なこと」への期待である。これは、秋丸機関の報告が「突き崩し得ないことはあるまい」と結ばれたのと同じ論法である(第24回)。第三に、口外の禁止である。不都合な計量は、反論されるのではなく封じられた。国民が戦況の真実を初めて知ったのは、敗戦の日の新聞であった(第22回)。
その東條が、二か月後の10月に首相となる。木戸幸一内大臣は、陸軍を掌握する当人に開戦の困難さを痛感させるつもりで東條を奈薦した(ニュースの窓-408)。だがその東條は、開戦の困難さをすでに研究所から聞かされ、それを退けていた人物であった。
同じ夏、計量はどれも同じ答えを出していた
総力戦研究所は孤立した少数意見ではなかった。1941年前後、国の内外で行われた計量と観測は、ほぼそろって同じ方向を指していた。
第一は、陸軍主計大佐の新庄健吉である。新庄は1941年4月からニューヨークで米国の公開統計を調べ、米国の産業力を日本の約20倍と算出した。しかしその数字が開戦を止める材料になることはなかった(第24回、関連論説その1)。
第二は、陸軍省戦争経済研究班、いわゆる秋丸機関である。1941年7月の報告は、英米の経済抗戦力を日本の約20倍と見積もりながら、短期戦ならば「突き崩し得ないことはあるまい」と結んだ。その報告は、南進論の裏付けに転用された(第24回)。
第三は、陸軍省戦備課の岡田菊三郎大佐である。岡田は1941年の1月、3月、11月に物的国力について回答し、物的国力は開戦第一年に80〜75%、第二年に70〜65%へ低下するとし、「二年以上先は確信なき」と述べた。この回答は、短期戦であれば開戦は可能だという意味に読まれた(第24回)。
第四は、本稿の主題である総力戦研究所の模擬内閣である。1941年8月に「日本必敗」の結論を出したが、それは「机上の演習」として退けられ、口外を禁じられた。
第五は、ストックホルム駐在武官の小野寺信である。小野寺は1941年秋以降、独ソ戦でドイツは行き詰まると見て「日米開戦絶対不可」と打電した。しかし、大島浩の親独情報のほうが優先された(第27回)。
これに対して、開戦を決めた御前会議の席で示されたのは、企画院がまとめた物資と船舶の見通しである。そこでは、船舶の喪失は造船で補え、南方の石油を運べるとされた。実際の船舶喪失は、この見通しをはるかに上回った。第23回で毎日新聞の栗原俊雄記者の言葉を借りたように、開戦に前のめりの軍官僚たちは「自分たちが作ったデータで催眠術にかかった」のである。
正しい計量はいくつもあった。決定の場に届いたのは、そのうちで最も楽観的な一つだけであった。
結論一 計量は正しく、決定が誤った
日本が誤ったのは、計量ではなく決定である。情報が足りなかったのではない。計った結果を決定に通す制度がなかったのである。
第一に、目的が数字より先に決まっていた。秋丸機関に協力した遠藤武勝は、機関の研究は「戦争意志は別のところで決められ、その遂行上如何なる配慮を加えられるべきか、という極めて戦術的な問題として取り扱われたに過ぎ」なかったと回想している(第24回)。大本営で国策を書いた石井秋穂は、中国からの撤兵に賛成する者は「ずうっと上の人から下のほうの幹部にいたるまで」誰もいなかったと語った(第23回)。撤兵できないという結論が先にあり、数字はそれを動かすものではなかった。
第二に、数字は「仮定」で書き換えられた。米国の国力が20倍であることは誰も否定しなかった。その代わりに、「短期決戦なら」「ドイツが英国を屈服させるなら」という仮定が置かれた。その仮定を支えたのは、大島浩の親独情報である。大島は戦後、「経済力生産力の判断はまったくやってない」と語っている(第24回)。計量せずに得た情報が、計量した情報を押しのけたのである。
小野寺信は1897年、岩手県胆沢郡前沢町に、町役場助役小野寺熊彦の長男として生まれた。12歳で父を亡くし、本家筋の小野寺三治の養子となって遠野に移り、遠野中学校に学んだ。のち仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に進み、1919年に第31期の歩兵科を5位で卒業して恩賜の銀時計を受けた。1928年12月に卒業した陸軍大学校第40期では、席次七位で、上位6名に与えられる恩賜の軍刀にわずかに届かなかった。これを惜しんだ旧領主の南部家は、郷里遠野ゆかりの小野寺に特別に刀を贈った。
陸大を出ることそのものの重みは大きかった。陸大卒業者は、その徽章の形から「天保銭組」と呼ばれ、陸大を出ない大多数の将校は「無天組」と呼ばれた。藤井非三四の調べによれば、陸大第18期から第25期の卒業者は、大将6%、中将38%、少将34%で、合わせて78%が将官になっている。無天組の多くが中佐で予備役に編入されたのと比べ、進級の速さでも最終階級でも大きな差があった。陸大卒業者は陸士同期の序列の最右翼に置かれ、陸軍省・参謀本部・教育総監部という中央三官衙の幕僚の座を占めた。卒業席次についても、人事に反映されるのは陸大卒業から10年間とする内規があり、大佐に進むまでは席次が大きく効いたとされる。
一方で、卒業席次がそのまま出世を決めたわけではない。参謀本部が1944年12月に作成した「陸軍大学校卒業者人名表」は、陸大卒業者を同期の中で順位付けした人事用の名簿で、卒業席次だけでなく考科表(上官による人物評価)が反映されていた。たとえば第34期では、卒業成績上位の西浦進・服部卓四郎・堀場一雄が、人名表では下位の者の下に置かれている。第44期では首席の瀬島龍三が原四郎の下に置かれている。前田啓介氏はこれを踏まえ、「恩賜の軍刀組の栄光は、いつまでもまばゆいものであったが、それだけでは、えらくなることはできなかった」と書いている。第24期と第25期には、首席でありながら佐官止まりの例もあった。
第三に、最終的な責任を引き受ける者がいなかった。天皇は9月6日の御前会議で明治天皇の御製を読み、避戦の意を示した。しかしそれは和歌であり、決定ではなかった(第23回)。内閣は統帥に口を出せず、統帥部は政治の責任を負わない。誰も止めず、誰も最終的には決めない。その空白に、「既定の方針」だけが前に進んだ。
総力戦研究所の報告を受けた東條は、反論も検証もしなかった。「口外してはならぬ」と封じただけである。計量と決定の間に、両者を突き合わせる手続きがなかったことを、この一言が示している。
この構造は終戦も遅らせた。
ヤルタ密約の情報はストックホルム、ベルン、リスボンから届いていた(第27回・第28回)。福島新吾が外務省で拾い読みした機密電報にも、大本営発表とは正反対の戦況が記されていた(第22回・第27回)。
それでも指導層はソ連の仲介に賭け続けた。開戦と同じく、知っていたことは決めたことに届かなかった。
結論二 「総力」は数えられたが、束ねられなかった
総力戦とは、軍事だけでなく、経済、学問、情報、国民の生活までを一つの目的に束ねる戦争である。日本はその「総力」を正しく数えたが、束ねることはできなかった。
学問を束ねられなかった
学問を束ねられなかった。総力戦研究所に大学の研究者はいなかった。秋丸機関は有沢広巳ら学者を集めたが、その結論は国策に従わされた(第24回)。暗号解読に高木貞治ら数学者が動員されたのは1943年である。「後二年早く…数学者を使い始めていたら」と、暗号少佐だった釜賀一夫は悔やんだ(第27回)。これに対して米国は、戦略情報局(OSS)の調査分析部に人文社会系の大学教授や若手研究者を多数配置していた(第28回)。戦後に東京大学社会科学研究所が「学問研究の成果と国の政策を結びつける」ことを趣旨に設立されたのは、開戦が大学と研究者を排除して決められたという反省からである(第23回)。
兵士を束ねられなかった
兵士を束ねられなかった。高級将校は最後まで抗戦を叫んだが、それは軍の存続が自らの家業だったからである(第21回・第25回)。学徒兵は「消耗品」と罵られ、講和を唱えかねない文系の青年は軍隊内に拘束された。彼らは「小さな声で戦争への疑問をささやき続けた」(第25回・第29回)。兵站を無視した作戦と、失敗が伝わらない組織が前線の士気を奪った(第24回)。福島の問い四「軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか」の答えはここにある。上層と下層は、同じ目的を共有していなかった。
国民を束ねられなかった
国民を束ねられなかった。配給制は1943年末までにほぼすべての生活物資に及んだ。しかし船が沈み、物は届かなかった。戦費は公債で賄われ、通貨が膨らんでも公定価格は据え置かれた。売り手は公定価格では売らず、現物は闇に流れた(ニュースの窓-408)。国民は国家より生存を選んだ。問い五と問い六は、総力を束ねられなかった結果が、生活の場に現れたものである。
総力戦研究所の若手たちが示したのは、日本の総力が米国に及ばないということだけではない。その乏しい総力すら、一つに束ねる仕組みがなかったということである。福島自身も、社研を志望した理由を「開戦後も戦争政策に国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」を研究するためだと書いている(第26回)。
計量の世界から見た教訓
計量の仕事は、正しく計ることで終わらない。計った結果が信頼され、判断に使われてはじめて、計量は社会の役に立つ。総力戦研究所の経験は、そのことを三つの教訓として残している。
その第一は、正しく計ることである。
新庄健吉も秋丸機関も総力戦研究所も、公開統計と各組織の実数字から正しい答えを出しており、日本に計量の力はあった。
第二は、計った結果を決定に通す制度を持つことである。
不都合な数字を封じず、決定を下す者の前で反論と検証にかける手続きであり、日本に欠けていたのはこれであった。
第三は、公の物差しへの信頼を守ることである。
公定価格は国家が示した価値の目盛りである。その目盛りが実態と離れたとき、人々は公の目盛りを捨て、闇価格という自分たちの目盛りで取引した。福島の問い六は、物差しへの信頼が崩れた社会の姿を問うている。
この教訓は、戦後に受け継がれた。秋丸機関で英米班の主査を務めた有沢広巳は、戦後、物資の欠乏とインフレの中で傾斜生産方式を提唱した。開戦前に国力の差を計った学者が、敗戦後はその計量を復興の政策に生かしたのである。
総力戦研究所で企画院総裁を演じた玉置敬三も、通産次官を経て計量行政審議会の会長を務めた(第31回)。
国力を量った世代が、戦後は計量制度そのものを支えた。
福島新吾は、外務省を辞して新設の東京大学社会科学研究所の助手になった。学問と政策を結ぶというその設立趣旨は、総力戦研究所の報告が封じられたことへの、戦後の答えでもあった。
結び 「何故このようになってしまったのか」
福島新吾の問いに、本連載はこう答える。日本は知っていたが、知っていることを決定に結びつける制度を持たなかった。そして「総力」を叫びながら、その総力を束ねる仕組みも持たなかった。
六つの問いは、この二つの欠落が段階を追って現れた姿である。計量を退けて開戦し(問い一)、国民には景気と宣伝で同調を求め(問い二・三)、兵士には目的を共有させず(問い四)、生活が崩れると国民は国家から離れ(問い五)、公の物差しは信頼を失った(問い六)。
1941年の夏、三十代の若い官僚たちは正しい答えを出した。その答えが「口外してはならぬ」と封じられたとき、「このようになってしまった」道はすでに始まっていた。
計量の世界と官僚の世界が交わるところに、この連載が追いかけてきた問いの答えがある。正しく計ること、そして計った結果に耳を傾けること。その二つがそろってはじめて、国は自らの力の限りを知ることができる。
[追記]
何故このようになってしまったのか ― 福島新吾の六つの問いへの総合的な回答
六つの問いは、別々の問いではない。一つの連鎖の各段階を問うている。連鎖の出発点は、「小さく貧しい国が、軍事によって領土と資源を広げることで繁栄できる」という前提である(石井秋穂の言う「侵略思想」)。この前提のもとで日中戦争は終わらせられず、米国の撤兵要求を受け入れられないまま、国力の差を知りつつ開戦した。国民は景気の回復と宣伝によってこれに同調した。しかし戦争は国民の総力を一つにまとめられず、生活が崩れると、末端から順に国家を離れていった。最後に、通貨と物資の釣り合いが崩れ、経済は闇へ流れた。
六つの問いの根にあるのは、「知っていたこと」と「決めたこと」の断絶である。
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか
日本は勝てないことを知っていた。新庄健吉の現地調査と秋丸機関は、米国の産業力を日本の約20倍と算出した。陸軍省戦備課は「二年以上先は確信なし」と回答し、総力戦研究所は「日本必敗」の結論を出した。小野寺信は「日米開戦絶対不可」と打電している(第24回・第27回・関連論説その1)。
それでも開戦したのは、戦争の意思が先に決まっており、数字はそれを追認する材料として使われたからである。遠藤武勝は秋丸機関について「戦争意志は別のところで決められ」たと回想している。統帥部は自ら作った楽観的なデータに「催眠術」のようにかかった(第23回)。判断を支えたのは、「短期決戦なら」「ドイツが勝つなら」という二つの仮定だった。情報も、大島浩の親独情報だけが採用され、正反対の情報は派閥の事情もあって退けられた(第27回)。
根本には二つの事情がある。一つは、日中戦争を終わらせられなかったことである。中国からの撤兵は満州の放棄につながり、それを受け入れる者は「上から下まで誰もいなかった」(石井秋穂)。もう一つは、天皇・内閣・統帥部のいずれもが最終的な責任を明確に引き受けない統治構造である。天皇は避戦の意思を和歌で示したが、輔弼の側はそれを決定に結びつけなかった(第21回・第23回・ニュースの窓-408)。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか
第一に、戦争が不況からの脱出と結びついて受け止められた。昭和恐慌で疲弊した国民にとって、満州進出と軍需景気は暮らしの改善として実感された(ニュースの窓-408)。軍需による雇用回復が熱狂を生んだ点は、ドイツのヒトラー支持と同じ型である(第25回)。
第二に、宣伝と情報統制があった。国民は大本営発表しか知らされず、戦況の真実を初めて知ったのは敗戦の日の新聞であった(第22回)。日清・日露・第一次大戦の三つの勝利体験が「戦えば勝つ」という感覚を育て、八紘一宇・大東亜共栄圏という「見事な文句」に知識人までが同調した(第21回)。
第三に、「歓迎」の中身は熱狂だけではなかった。異を唱えずに大勢に従う同調と沈黙が、体制を支えていた。福島の言う「大勢順応主義」であり(第22回)、ドイツで言われる「カール氏」である(第29回)。
三、そこに何を期待していたのか
期待は層によって異なっていたが、共通していたのは戦争が経済の行き詰まりを解決するという期待である。
国民は、農村の窮乏からの脱出と生活の向上を期待した。福島自身も、中国の資源を排他的に確保しなければ農村は救えないと「信じ込まされていた」(第22回)。
知識人は、欧米の支配からのアジアの解放という大義を期待した(第21回)。
国家は、東亜経済ブロックによる自給自足と南方資源を期待した(第24回の秋丸機関の論理)。
指導層は、緒戦の勝利による有利な早期講和を期待した。永野修身の言う「20年、50年の平和」である(第23回・第28回)。
国民が信じたドグマと、国の調査機関の報告書の論理は同じものだった。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか
「戦意」は層によって正反対であった。
上層の高級将校は、最後まで抗戦を叫んだ。軍の存続が自らの家業であり、敗北は軍の解体を意味したからである(第21回・第25回)。宮城事件の将校たちがその典型である。
下層の兵士には、戦う目的が共有されていなかった。学徒兵は「消耗品」として下級指揮官の補充に充てられ、講和を唱えかねない文系の青年が軍隊内に拘束された(第25回・第29回)。兵站を無視した作戦、失敗が組織に伝わらない構造、無謀な命令が前線の士気を奪った(第24回のノモンハン・インパール)。初年兵いじめに象徴される兵営の実態もあった(第23回)。降伏の報に特攻要員の頬がゆるんだという証言は、下層の本音を示している(第22回)。
戦意の欠如は兵士個人の怯懦ではない。福島の言う「国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」の結果である(第26回)。
五、国民は戦況不利の中で、何故手の平をかえしたように闇物資の入手に狂奔したのか
国民の支持は、はじめから条件付きのものだったからである。ドイツについて第25回が書いたとおり、熱狂は「戦争が優位で生活の向上を実感できる間だけ」のものだった。日本でも、問い二の熱狂を支えた景気と生活が崩れたとき、国家に従う理由が失われた。
配給制は1943年末までにほぼすべての生活物資に及んだが、船舶の喪失(油槽船隊は最盛期の4分の1)で物資が届かず、配給だけでは生きられなくなった(関連論説その1・ニュースの窓-408)。大本営発表の嘘が明らかになり、国家への信頼も崩れた。人々は国家より生存を選び、統制は名目だけのものになった。
問い二と問い五は同じ現象の表と裏である。手の平を返したのではなく、手の平を合わせていた理由が消えたのである。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか
価格という「物差し」が実態と合わなくなったからである。
戦費は増税では賄いきれず、公債の発行で賄われた(ニュースの窓-408)。通貨が膨らむ一方、物資は減り続けたが、公定価格は低く据え置かれた。売り手は公定価格では損をするため、現物を手元に置くか闇に回した。こうして現物は闇価格でしか動かなくなった。福島が1947年に岐阜で見た闇のいもの山、大阪の伯父の家具店に豊富にあった在庫は、この光景である(第26回)。
この歪みの清算が、戦後の預金封鎖・新円切替(1946年2月)と財産税(同年11月)であった。なお、公債の日銀引受けによる通貨膨張の仕組みは、連載の本文ではまだ明示されておらず、ここは経済史の通説で補っている。
以上から導けることがら
1、失敗の核心は情報の欠如ではなく、計量を決定に結びつける制度の欠如であった。
日本には国力を正しく計量する人材と組織があった。秋丸機関、新庄健吉、陸軍省戦備課、総力戦研究所、小野寺信、外務省の機密電報である。しかし目的が先に決まり、数字は追認の道具になった。福島が社研に入ったのは、この断絶をつなぐためであった。社研の設立趣旨「学問研究の成果と国の政策を結びつける」は、この教訓そのものである。
2、責任の所在が曖昧な統治構造が、開戦も終戦も遅らせなかった。
天皇大権と輔弼、統帥権の独立のもとで、誰も止めず、誰も最終的に決めなかった。同じ構造が、国体護持への固執、情報判断の誤り、ソ連仲介への賭けを生み、終戦を焦土になるまで遅らせた(第21回・第27回・第28回)。
3、総力戦を叫んだ国が、総力を統合できなかった。
学問は政策判断から排除され、暗号解読への数学者の動員は1943年まで遅れた(第23回・第27回)。米国はOSSに研究者を集めていた(第28回)。兵士は目的を共有できず、国民は闇へ離れた。「総力戦」は掛け声にとどまった。
4、国民の同調には経済的な土台があり、それが崩れれば支持も崩れる。
熱狂(問い二)と離反(問い五)は、同じ経済的条件の表と裏である。景気と宣伝で得た支持は、生活が崩れれば消える。
5、公の「物差し」が信頼を失うと、社会は闇に移る。
公定価格は、国家が示した価値の目盛りである。その目盛りが実態と離れたとき、人々は公の目盛りを捨てて自分たちの目盛り(闇価格)で取引した。正しく計ることへの信頼が社会の秩序を支えるということは、「官僚制度と計量の世界」という連載の主題に戦時経済の側から光を当てる。
6、「国民はだまされた」という戦後の語りは、問い二を見えにくくした。
ナチスとドイツ国民を区別した米国の方針は、日本では「軍部が悪く国民は被害者」という語りになった(第28回)。福島の問いは、国民自身がなぜ戦争を歓迎したのかを問う点で、この語りに抗っている。この問いを手放さないことが、同じ過ちを繰り返さない条件である。
参考文献と連載の関連回
本稿が依拠した文献は、猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』(初刊1983年)、森松俊夫『総力戦研究所』(白帝社、1983年)、牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦――秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書、2018年)、福島新吾『学徒出陣落第記』(オリジン出版センター、1993年)、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)である。あわせて、国立公文書館アジア歴史資料センターが公開する総力戦研究所関係の資料を参照した。
本稿は、連載のこれまでの回を受けている。第21回「戦争と経済と昭和天皇裕仁」、第22回「結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合」、第23回「第二次大戦突入と焦土の敗戦」、第24回「戦争への偽りの瀬踏み 秋丸機関の作業」、第25回から第29回までの「日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃」ほかの各回、そして第31回「総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった」である。関連論説その1「経済からみた日米戦争と国力差」と、ニュースの窓-408「大東亜戦争と経済と昭和天皇裕仁の役割」も、あわせて参照されたい。
-no32-2026-10-07-the-measurement-was-correct-but-the-decision-was-wrong-
[資料]
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
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├関連論説-その5-総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
├関連論説-その4-大東亜戦争と経済と昭和天皇裕仁の役割 夏森龍之介
├関連論説-その3-3,000万人国家日本と生活の有り様の予測 夏森龍之介
├関連論説-その2-インフラ建設が経済成長に寄与した時代の経済学 夏森龍之介
├関連論説-その1-経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介
├
├官僚制度と計量の世界(32)総力戦研究所「日本必敗」――計量は正しく、決定を誤った執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日 · 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(29) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦(なぜ戦争をし敗れたのか) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(20) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(19) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その3- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(18) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(17) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(16) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その3-
執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(15) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(14) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(13) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その3- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 計量公務員への就職事情 国の機関・計量標準総合センターと地方公務員としての計量行政職員 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 中国における科挙制度の歴史 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 官僚 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 国家総合職と官僚機構 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 経済産業省の施策の一つに計量標準の供給と適正計量の実施の確保がある 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) OECDのプリンシパル・アドミニストレーターの古賀茂明 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 計量課に二度目の着任となった高山峰雄計量課長 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 通商産業省秋津修計量課長と芦原駅に降り立つ 執筆 夏森龍之介
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├総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
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官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日
· 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介
韓国でのセミナー講師を通じて感じた韓国の計量事情-その1-
韓国でのセミナー講師を通じて感じた韓国の計量事情-その2- 「日本の計量器産業論-その1-」序論)
「日本は貿易立国ではない]輸出依存度は15.2%
日本は第3次産業に移行中。変化する産業・職業構造(総務省統計局が2005年国政調査もとにまとめた資料による)
国土地理が日本の重力値の基準を40年ぶりに更新。国土地理院が2017年3月15日に公表
「重力を知る」 重力とは、重力の単位、地球の重力値、重力の役割
計測自動制御学会2017年第1回力学量計測部会運営委員会6月16日(金)に開かれる
5月下旬の韓国ソウル市中心街で過ごした一日(日本と韓国を考えるために役だった滞在だった)
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