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計量計測データバンク ニュースの窓-190-
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計量計測データバンク ニュースの窓-190-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-190-小野寺信大佐至急電「日米開戦絶対不可ナリ」「ソ連はドイツの降伏3カ月後に対日参戦」(1)
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├(83) 「日米開戦不可ナリ」|ストックホルム 小野寺大佐発至急電 - YouTube
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├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
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├小野寺信 - Wikipedia
小野寺信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業(31期、歩兵科。歩兵科5位で恩賜の銀時計を拝受。
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├大島浩 - Wikipedia
大島浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。
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├ヤルタ会談 - Wikipedia
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦及び千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本の領土の処遇も決定。
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├『消えたヤルタ密約緊急電』(岡部伸)をめぐって:海神日和:SSブログ
平洋戦争末期、スウェーデンのストックホルムから陸軍武官、小野寺信が打電していたヤルタ密約情報を大本営が真剣に検討していたら、日本の終戦はもっと早まり、その後の東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、シベリア抑留、北方四島の占領なども避けられたのではないか。
電報が伝えていたのは、「ソ連はドイツの降伏より3カ月後に対日参戦する」という密約である。だが、戦後判明したことに、大本営ではだれもそんな電報をみた覚えがないという。とうぜん政府上層部もヤルタ密約を知らなかった。すると、その電報はどこに消えたのか。ヤルタ会談が開かれたのは1945年2月上旬のことである。アメリカのルーズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが一堂に会したこの会談では、敗戦間近いドイツの戦後処理がおもに話しあわれた。しかし、同時に日本を敗北に追いこむための方策として、ソ連が対日参戦することが求められ、スターリンも喜んで同意した。この約束は密約にする必要があった。当時、日本とソ連のあいだでは中立条約が結ばれていたからである。
会議が終わって早々に、この密約の存在に気づいた日本のインテリジェンス・オフィサーがいる。それがストックホルムに陸軍武官として駐在する小野寺信少将だった。どのようにして、かれはいちはやくその情報を手にいれたのか。そのカギとなるのは、かれが築きあげた信頼関係にもとづく正確無比な情報ネットワークである。
本書は、知将、小野寺信の人物像に迫るとともに、その諜報活動の実態、人的ネットワークの広がり、スクープの秘密をあますところなく明らかにしている。夫人、小野寺百合子が著した名作『バルト海のほとりにて』では、まだ曖昧であったり、謎として残されたりしていた部分が、長年の調査によって、より鮮明に描かれたといってもよい。
ペーター・イワノフという男が出てくる。本名ミハール・リビコフスキー(おそらく正確にはミハウ・リビコフスキ)。リトアニア出身で、ポーランド参謀本部に勤めていた。ドイツによるポーランド侵攻後、一時収容所に送られたが、そこを脱出し、ベルリンで満州国のパスポートを得て、ラトビアのリガにあった日本の陸軍武官室にもぐりこむ。そして、今度はバルト三国がソ連に吸収されると、ストックホルムに移り、そこで小野寺と出会った。ポーランドの愛国者である。
リトアニアのカウナスにいた杉原千畝が、ユダヤ系ポーランド人を救う「命のビザ」を発給した背景には、イワノフの部下たちの働きかけがあった。イワノフはロンドンに拠点を置く亡命ポーランド政府の参謀本部と連絡を保ちながら、ストックホルムを拠点にソ連情報の収集にあたっていた。日本に恩義を感じながら、反独反ソの姿勢をつらぬく微妙な立場にある。
そのためナチス親衛隊指導者ヒムラーはかれを「世界で最も危険な密偵」と呼び、その行方を必死で追っていた。小野寺はドイツの追及からイワノフを守りぬき、大戦末期にはロンドンに脱出させている。
1941年はじめ、ドイツが対ソ戦を準備しているらしいという情報を小野寺がつかんだのも、イワノフらからである。実際にバルバロッサ作戦がはじまってからも、表向きの快進撃宣伝とは裏腹にドイツの苦戦が伝わってきた。
イワノフの情報はきわめて正確だった。その年10月、ドイツの劣勢を知った小野寺は大本営に「日米開戦は不可なり」との電報を何十本も打ち続ける。だが、大本営からは一本の返信もないまま、日本は無謀な対米戦争に突入する。
ロンドンの亡命ポーランド政府に帰属してからも、イワノフは命の恩人の小野寺に秘密情報を送りつづける。「ソ連はドイツの降伏より3カ月後に対日参戦する」というヤルタ密約情報を知らせたのもイワノフだった。
そこには小野寺との友情に加えて、存亡の危機に立つ日本を何とかして救いたいという思いが働いていた。
だが日本の大本営は、このヤルタ密約緊急伝を握りつぶす。それどころか戦後になっても、そんな電報は届かなかったかのようにシラを切ったのだ。
著者は防衛省の史料室、米国立公文書館、英国立公文書館などを調査し、公刊された各国の戦史をひもとき、さらに当時の関係者とも会って、小野寺が参謀本部次長の秦彦三郎にあてた緊急電のゆくえを追い、ついにその痕跡を探り当てる。
それは当時、大本営参謀本部作戦課を動かしていた、あまりにも有名な参謀、瀬島龍三のところで途絶えていた。
著者はこう書いている。
〈間違いなく特別機密電報は届いていたのである。小野寺がヤルタ密約をスクープしたことは明らかだ。そして、それは一握りの者だけでなく……参謀本部の「常識の判断」になるほど多くの者が知り得ていたのだ。しかし、ソ連の対日参戦は敗戦をも意味する不吉な情報ゆえに、作戦課の「奥の院」は、本土決戦を控えた兵士の士気に大きく影響する軍事機密と判定し、これを握りつぶしたのである。もちろん、その背景に、ソ連を仲介とする和平工作の大きな動きがあったことを忘れてはならないだろう〉
戦争末期、日本の軍部は、沖縄や硫黄島を「捨て石」にしながら、本土決戦をし、米軍に一矢報いるという「一億玉砕」の作戦を本気で考えていた。
そのいっぽうで、ソ連のスターリンの仲介により、米英との和平にこぎつけようと画策していた。仲介の見返りは南樺太の返還、漁業権の解消、場合によっては北千島の譲渡、それに満州国の中立化とその利権の提供だったという。
日本の軍部はこうした妄想のシナリオにとりつかれていた。小野寺の緊急電はそれに警鐘を鳴らすものだったといってよい。だからこそ、参謀本部によって握りつぶされたのだ。
本書があぶりだすのは、国家的妄想のおろかさである。
インテリジェンスなき信念と、主観的願望への拘泥、必要な対策を怠る無為、何が重要であるかを判断できない愚劣さ、これらは「不都合な真実」に目をつぶる日本の中枢の硬直ぶりを示している。しかし、それらはすべて、どこかで見た光景ではないか。
スウェーデン赴任前の上海での日中和平工作も興味深いが、小野寺と杉原千畝との意外な接点、反ヒトラー派のドイツの情報士官カール・ハインツ・クレーマーとの関係、スウェーデン公使岡本季正の妨害工作なども浮かび上がってくる。よくここまで調べあげたものだと感心するほかない。
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├駐在武官・小野寺信 ~日米開戦ヲ回避セヨ!~ | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~
小野寺は、後に、長男と次男を自宅に集めて、百合子さんと共に戦時中に自分たちがどのような事をしてきたか、初めて語りました。(貴重な歴史証言として、カセットテープに録音しました)戦時中の事については一貫して口を閉ざしてきた小野寺が、初めて、人前で「小野寺夫妻の戦争」を語り始めた瞬間でした。百合子夫人は、その証言テープを基にして、『バルト海のほとりにて』というタイプ印刷の私家版の本を書き上げます。1980(昭和56)年の事です。そして5年後の1985(昭和61)年、この私家版を出版したいという出版社が現れ『バルト海のほとりにてー武官の妻の大東亜戦争』というタイトルの書籍が世に出ました。昭和から平成に時代がうつった1989(平成元)年2月、NHKのドキュメンタリー番組「NHK特集」でも「日米開戦不可ナリ」というタイトルで、戦時中の小野寺夫妻の活動が紹介されました。なお、小野寺信は、1987(昭和62)年に89才で、百合子夫人はその11年後の1998(平成9)年に91才で亡くなりました.
小野寺信陸軍少将―1897(明治30)年生~1987(昭和62)年没。第二次世界大戦の中立国スウェーデンの首都ストックホルム駐在武官であった小野寺は、同盟国ドイツが日本政府や大本営が期待するイギリス本国侵攻ではなく、日本とは中立条約を結んでいたソヴィエト連邦へ侵攻する意図を持っていること、さらに独ソ戦がドイツにとって戦局不利な状況であるという正しい情報を入手し、ドイツの敗北は必至であり、「日米開戦不可」を30回以上も本国に打電しました。その内容の一つに、「ドイツ軍は東部に向かい戦死者のための棺を多く輸送している」(『正論』昭和天皇と激動の時代より)というものがあります。
小野寺は、ポーランド出身の愛国主義者ミハール=リビコフスキー(※ロシア人ぺーター=イワノフとして活動)から情報を得ていました。イワノフ(リビコフスキー)は主にソヴィエト情報を得るスパイでした。それゆえ小野寺は当時のヨーロッパ戦局を正確につかみ、本国へ「ドイツからの情報だけに頼るのは危険である。」「ドイツ軍の敗北は必至」と、何度も警告したのです。しかし、当時の大本営及び陸軍参謀本部は親ドイツ派で固められておりました。「反ドイツ的、親米的な意見は口にするな」という気質が小野寺の情報を排除し、ヒトラー(ナチス=ドイツ総統)を信奉する駐ドイツ大使大島浩(おおしまひろし)が発するベルリンからの情報だけを採用したのです。皮肉にも‟絶対に負けるはずがない“ドイツがモスクワで敗北した12月8日、日本は対米蘭開戦(太平洋戦争※当時は大東亜戦争と呼称)に舵を切ることになりました。
イワノフ(リビコフスキー)は、ドイツとソヴィエト連邦によって消滅させられた祖国ポーランドの復興のため尽力しますが、ドイツの軍事機密を収集しているとしてドイツ国防軍から命を狙われました。しかし小野寺は終始イワノフ(リビコフスキー)を匿い通します。戦後、イワノフ(リビコフスキー)は祖国ポーランドが共産化したため帰国できず、アメリカに渡り、その後カナダに移住しました。彼は「私が今日生きているのは全て小野寺のおかげ」(平成元年2月NHKスペシャルより)と語っています。また百合子夫人に対しても「小野寺が私をかばい続けてくれた恩は、一生わすれるものではない。」(小野寺百合子著『バルト海のほとりにて』より)と伝えたそうです。
NHK終戦スペシャルドラマ「百合子さんの絵本―陸軍武官・小野寺夫婦の戦争―」でも描かれていましたが、『バルト海のほとりにて』には駐在武官とその妻の仕事が詳細に書かれています。武官の仕事は各国の駐在武官や王侯貴族と接触して大日本帝国のためになる情報を入手し、素早く本国に通達すること、及び暗号書や重要文書の保管でした。その妻の役割は、武官が記した情報メモを暗号文書に変換したり解読したりすること、第三者に任せられない重要機密の扱い、金庫の管理などです。
小野寺が本国に発信し、無視された情報の中で最も重要なものは、1945(昭和20)年2月4日~11日まで、アメリカ大統領ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト連邦共産党書記長スターリンが、クリミア半島のヤルタでヤルタ会談(ヤルタ密約)を行い、千島列島のソ連領有と引き換えに、ソヴィエト連邦はドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する密約を交わしたことを伝えたことです。彼は「戦争ヲ終結スベシ」と何度も打電しました。さらに大本営の主戦派がこの情報を握り潰したことを悟った小野寺は、単独でスウェーデン国王を介した和平工作を試みています。
結局、大本営から鈴木貫太郎首相あるいは昭和天皇にこの情報が伝えられることはなく、近衛文麿(このえふみまろ)元首相を特使としてソヴィエト連邦に和平工作の仲介を依頼しようと画策するお粗末ぶりでした…。ドイツ降伏からちょうと3カ月経った8月8日にソヴィエト連邦は日本に宣戦布告。満州と南樺太に侵攻しました。その結果、60万人以上のシベリア抑留者を出し、中国大陸にいた100万人以上の日本人が帰国時に地獄の苦しみを経験し、多くの犠牲者や中国残留孤児をうみました。北方領土問題など今日まで未解決な問題も、ソ連の対日参戦に起因するものです。
1945(昭和20)年2月の段階で、小野寺の情報を大本営と政府が真剣に吟味し、スウェーデン国王を仲介に和平工作を進めていたら…。2月に「国体護持」を条件に終戦していたら、3月10日の東京大空襲、4月1日~6月23日の沖縄戦、5月29日の横浜大空襲など各都市への無差別爆撃、8月6日の広島への原爆投下、8月8日のソ連の対日参戦、8月9日の長崎への原爆投下…、これらの犠牲はなかったのかもしれません。さらにはポツダム宣言もなかったわけです。小野寺の情報を握り潰した大本営軍人に限定しますが、その者が戦争継続と敗北の責任をとらず。
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├「諜報の神様と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀」 - 好きなもの、心惹かれるもの
英国ロンドン郊外ミルトンキーンズにあるブレッチリーパークに英国に盗まれた日本陸軍の暗号書が展示されているのを見て衝撃を受けた。館内の一角でM16が密かに入手した日本陸軍の日本語とアルファベットで書かれた暗号書(乱数表)を展示していた。少なくとも1944年初め頃から太平洋諸島や欧州などで日本陸軍武官の電報を傍受して解読していた。
日本の暗号のうち最も早く解読されたのは外交暗号だった。1940年と真珠湾攻撃の1年以上前から終戦まで外交暗号電報が解読された。ベルリンの大島浩大使の暗号電報を解読して連合国側がナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの本音を読み取っていたことはあまりにも有名である。
外務省電信課長などを務めた亀山一二はソ連大使館に参事官として勤務していた1945年12月、戦時中に外務省と在外公館などの間で情報伝達に用いた暗号は理論、技術がすこぶる幼稚だったと指摘。
海軍の暗号も日米開戦時から解読されていた。連合国は陸軍の暗号は十文字以内の短文でモールス信号を発信していて手こずった。ブレイクスルーを生んだのは、ニューギニアの村落で玉砕した日本軍が残していた暗号表を、連合軍が入手したことだった。
1943年、東大数学科名誉教授高木貞治という世界的権威の数学者の協力を仰ぎ、天文学者らを集め、小野寺がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して44年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。
「暗号を盗んだ男たち」檜山良昭によると、45年4月からは解読が進み、5月21日は初めて米軍のZ暗号が完全解読できた記念すべき日となり、7月半ば、米国国務省が重慶の在中国大使館に打電した電文が解読された、という。
中央特殊情報部の本部は三宅坂の参謀本部にあったが、太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷台に移り、赤坂に移転後、44年春に英国、米国の暗号を解読する研究部が杉並区高井戸の浴風園という日本最古の養老院に移った。数学、英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧姓中学生を加えると総人数512人が米国軍の各種暗号の解読作業を行なった。
M16がロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウスで女性や若いオックスフォードやケンブリッジの学生を動員して各国の傍受電報を解読したステーションX(通称ブレッチリーパーク)と同じである。
後二年早く、開戦の1941年から数学者を使い始めていたら、あんなに簡単には負けなかっただろう。暗号少佐だった釜賀一夫は、戦後後悔の念が消えなかった。
支那課を中心として国民党No.2だった汪精衛を担いで傀儡親日政権を作り、戦争を終わらせる秘策、主導したのは参謀本部支那課長から謀略課長を務めた影佐禎昭である。ところがこの動きに疑念を抱いたロシア課は汪精衛工作が山場に来ていることを察知し、その前に重慶国民党政府との直接和平工作を図ろうと小野寺を急遽、上海に派遣した。小野寺はこの工作について、ロシア課の他に謀略課からも命令を受けていた。となると謀略課は、汪工作と直接和平工作の二つを同時に模索していたことになる。
リガからロシア課に復帰した直後の1938年7月、小野寺はロシア課課員として、板垣征四郎陸相の知遇を得た。中央にパイプを持った小野寺が行なった蒋介石への和平打診工作は、決してスタンドプレーでなかった。
小野寺に協力した人物に、蒋介石を対手とせず、と発言した近衛文麿首相の長男、近衛文隆の名を挙げていることに注目。プリンス近衛は、東亜同文書院理事の肩書きで近衛文麿が秘密裏に上海に送り込んだ密偵の早見親重と友人の武田信近と、小野寺と共に日中和平に傾注していた。
「木戸幸一日記」に、近衛文隆の行動記録として、小野寺さんの手先となり、重慶工作に深入りしつつ、との記載もある。早見と中支那派遣軍の同僚である三木亮孝がいた。早見、三木、近衛文隆を介して、鄭蘋如(テンピンルー)も出入りしていた。日中混血の美貌のスパイ鄭蘋如は、重慶政府の特務機関、国民党中央執行委員会調査統計局に属しながら、直接和平を進める構想に賛同して、小野寺機関に協力していた。翻訳係として働いていたと言われる。
影佐が傀儡政権を作って和平の道を見出そうとしたのに対し、小野寺はあくまで多くの中国国民の支持を集める蒋介石を相手に戦争を早く切り上げようと考えた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪政権では、中国の民衆の信頼を得られない。根本的に解決するには、蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。そして天皇の決断を得ずして、泥沼化した日中戦争の終結は無理だろう。」
バルト三國のラトビアの首都リガに駐在してヨーロッパで民族の興亡を見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かないことを知っていた。最初のフィンランドのソ連との冬戦争のとき、ソ連が作った傀儡政権では国民が動かなかった。ドイツがノルウェーに作った傀儡政権も国民が動かなかった。
小野寺がラトビアで学んだことは、ソ連が世界を共産化する野心を持っていることだった。国民党の背後に、敵対関係にありながら抗日で合体を模索する中国共産党がいて、背後でコミンテルンが繰っていることを見抜いていたのだ。国民党政府との戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。小野寺は、早急に蒋介石国民党と和平し、ソ連、コミンテルン対策を優先すべきと考えた。
帰国した小野寺は、東海道線で京都から帰京する近衛文麿に、浜松-小田原間の車中で面会する。だが文麿は、軍が同意さえすれば、と言うだけで、諸手を挙げて賛成ではなかった。失意にくれた小野寺を同期の親友参謀本部謀略課の臼井茂樹が救う。蒋介石と直接交渉する委任状を発行した。
臼井の取り計らいで板垣征四郎陸相と中島鉄蔵参謀次長と面会。小野寺と同郷の板垣陸相は、こう語っている。「香港はもちろん、重慶まで行って蒋介石に会う」作戦課の中で、重慶直接交渉派だった秩父宮や堀場一雄からも激励された。
ドイツは潜水艦で、V1ロケットの情報ほか、日本に協力した一方、独ソ戦に踏み切ることを日本に内緒にしたのは、日本の暗号を信用していなかったから。小野寺信は、蒋介石、秩父宮、グスタフ五世、グスタフ五世の甥であるプリンス・カール・ベルナドッテという王族と実際に会っている。ほかのネゴシエーターとレベルが違う。
影佐には、陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。自民党谷垣禎一の母方の祖父が影佐である。
大本営内にも、現地軍の中にも、汪工作に疑問を持つ軍人は多かったのだが、欧米勤務出身者が多く、インテリで政治力がない。汪派の人々は長年の中国勤務で、世界的見地に立つ視野を欠いていたが、政治力は強かった。結局中央は、汪派に振り回された。
小野寺が陸軍内の権力闘争に敗れた背景には盧溝橋事件の前年1936年2月に発生した二・二六事件があったとの見方もある。当時の陸軍内では、蒋介石と和解し、ソ連に対抗するため国力の充実を図ろうというグループと、対ソ連は棚上げにして、まず支那大陸を支配しようという派に大別された。前者は荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らが率いて皇道派と呼ばれ、永田鉄山、東條英機が主導する後者の統制派と激しく対立した。
皇道派の若手将校が起こした二・二六事件後、皇道派の人々は陸軍中枢から外れ、統制派が主導権を握るようになった。
小野寺は小畑の一番弟子と見なされる皇統派の一端にあった。皇道派と統制派の対立は、その後の大戦に置いて小野寺が参謀本部に送る情報の取り扱いでも公平さを欠き、日本の国益を大きく損ねることになるのである。
東京で国民政府と直接交渉するため重慶に行く了承を得ようと工作を進めていた近衛文隆と早見は、閣議で汪工作が決まると、軟禁となる。鄭蘋如ら中国人工作員も逮捕され、日本の憲兵隊に処刑された。
汪政権が成立したが、日中和平は実現しなかった。日本政府が当初親日中国人に約束した、大陸からの日本軍の撤退を履行しなかったからだ。主流派だった影佐はラバウルの第三十八師団長に更迭された。
蒋介石は「蒋介石日記」の中で、自分に対する日本の和平案は1938年から1940年の間に12回提議され、和平要求を12回拒否したことを明らかにしている。小野寺は、12人のうち最も初期の段階の一人だった。
小野寺が上海から帰国する寸前、蒋介石は部下の姜豪を通じて金製のカフスボタンを贈った。カフスボタンには蒋介石が自筆で書いた「和平信義」の彫が入っていて、国と国の間は和平、人と人との間は信義、との言葉を小野寺に伝えたという。
ヒトラーは独ソ戦に踏み切る決断について、ベルリンを訪問した松岡外相に隠していた。
ロンドン駐在だった辰巳栄一少将も、1940年10月、独軍の英本土攻略は不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する、と報告している。しかしこれらは、英米に偏りすぎた情報として処理され、大島大使をはじめとするベルリンからの親独情報が優遇された。視野の狭い統師部が、独ソ戦に関する情報の価値判断を見誤り、国家の指導者に決断を促す材料として提供していなかった事実がある。
1943年小野寺はノルウェーを占領したドイツ軍に招待され、ノルウェーを訪問した際、ドイツ参謀本部のウォロギツキー大佐から、独ソ戦前のドイツ大本営は、作戦準備をカモフラージュするため、日本外交団に対して、ドイツ軍が英本土上陸作戦に向かうような印象を持たせるため、あれこれ技巧を凝らす逆宣伝をした、と聞かされた。
ヒトラーは自分たちが伝える情報を鵜呑みにする大島大使を最大限に利用して、偽情報に夜撹乱作戦をした。
ストックホルム武官室には、ペーター・イワノフという人物が出入りしていた。ポーランド参謀本部きっての大物インテリジェンス・オフィサー、ミハール・リビコフスキーである。独ソ開戦を掴む最後の決め手になったのは、彼の情報だった。
ドイツ軍が開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内で次々と配置しており、同時に棺桶を準備したという内容だった。
エストニアとポーランドの情報武官が小野寺の味方について、非常に精度の高い情報を優先的に回したことで、どこよりも早くて正確な軍事情報を手に入れることができたのに、その重要さを理解できない日本政府中枢部によって握り潰された。(事実は、もっと知られて良いことだと思います。果たして小野寺の情報は、確実に昭和天皇の耳に入ったのでしょうか。)
ナチスはリビコフスキーを亡き者にしようとしていた。ゲシュタポで逮捕されたのは、リビコフスキーの直属部下のヤクビャニェツ大尉だった。ポーランド地下組織のリーダーとして、ドイツとソ連に対する諜報活動をしていた彼は、ベルリン満州公使館で匿われていた。彼は以前、リトアニアのカウナス日本領事館で、杉原千畝領事代理に協力している。密かな日本とポーランドの諜報協力は強固だった。
ドイツは、ベルリンの大島大使に自分たちに都合の良いニュースを日本に提供しているのに、ストックホルムで正反対の都合の悪い情報を集め、日本に提供されることに我慢がならなかった。
ドイツ諜報機関から、リビコフスキーの身柄引き渡し要請が、大島大使に行われた。しかし小野寺は、頑として受け付けなかった。
リビコフスキーの更なる身の安全のため、満州国のパスポートをストックホルム公使館の神田代理公使に依頼して、日本パスポートに変更した。リビコフスキーは、これで日本人になれた、と小野寺に深く感謝したという。(バチカンを通じた和平工作は、行われなかったようですね。むしろポーランド情報武官を通じて、早い時期にロシアの対日参戦という重要な情報がもたらされたことを生かせなかった。)
在ローマ日本大使館の河原峻一郎一等書記官とイエズス会総長のウラジミール・レドホウスキ神父が、ポーランドの地下組織が日本の外交クーリエを使って、ローマからベルリンなどへの情報が伝達できることに深く関与している、とイタリア国防省から警告を受けていた。
亡命ポーランド政府の情報士官達が、日本の外交特権の行嚢を使って、在欧公使館やバチカンの支援を受け、ワルシャワやヴィリニュスからスウェーデンを経由して、ロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る全欧規模の広範な諜報ネットワークを確立していたのである。(行嚢(こうのう)とは、郵便物や旅行用の袋を指す言葉です。郵便物を入れる袋。郵便物を入れて郵便局間で輸送する袋で、郵袋(ゆうたい)とも呼ばれる。郵袋は布製の袋で、郵便局から他の局へ送る際に使用される)
大戦末期、長年にわたる恩義に報いる大きなお礼が、ポーランドから小野寺を通じて日本に送られることになる。(戦局の全体像が見えていた少数派と、惑わされていた多数派の違いと混乱が、この本によく描かれています。負けるよう邪魔をするように、と指令されていた人々が混ざっていたの)
朝日新聞のストックホルム特派員として王室を取材していた衣奈多喜男は戦後、「証言 私の昭和史」で証言している。「あの時グスタフ五世陛下は、日本が戦争に突入してミリタリストが非常に強くなり、その厚い壁に囲まれて、日本の天皇陛下が大変お困りになっていられるのではないか、と言っておられたということも聞きました。もしそういうことなら、スウェーデン王室は、親戚でもあるイギリス王室を通して、アメリカとの交渉の道をつけて差し上げたい、というのがスウェーデン王室の偽らぬお気持であった、と私は推測しています。」
小野寺が意を決したのは、大本営と政府の連絡会議から特使として欧州に派遣された岡本清福中将とベルリンの日本大使館で会った1943年9月だった。ベルリン空襲で避難した防空壕の中で、和平工作に取り組むことで意気投合したのだ。渡欧した岡本中将の使命は、ドイツの本当の国力を探り、ヨーロッパで日本の終戦の機会を模索することだった。小野寺と、終戦工作は中立国でしかできない。互いにそれぞれの国で努力しよう、と固く約束し、岡本はチューリヒへ赴任した。
その後岡本中将はスイスで、欧州総局長アレン・ダレスを通じて和平工作を、加瀬俊一スイス公使、北村孝治郎国際決済銀行理事、吉村為替部長、ペル・ヤコブソン同行経済顧問と終戦間際まで行った。
真珠湾攻撃から半年後、1942年5月、珊瑚海海戦の直後、拝謁したスウェーデン国王グスタフ五世から、忠告を受けた。「日本は戦勝に酔っているようだが、戦いは勝つときばかりではないのだから、適当な時期に終戦を図るべきだろう」。
この国王の言葉が小野寺の心に深く響いた。親日的なスウェーデン国王が同じ君主国の日本に示した行為に感謝して、その機会が来れば、国王に仲介の労をとってもらい、国王が親戚関係にあるイギリス国王との間に和議の道が開けないだろうか。そんな期待を大戦初期から胸に秘めていたのである。
一方、重光外相が朝日新聞専務鈴木史朗を使って、駐日スウェーデン大使バッゲに英国を仲介とする和平工作を申し入れるという同時和平工作が発覚。
(どうして肝心なところで、足を引っ張る日本人が必ず現れ、ストップしてしまうんでしょう。)(東郷外相に告げ口した岡本スウェーデン公使。和平工作の助っ人扇大佐が駐スウェーデン海軍武官として任命されながら、ビザ発給の斡旋を頑として拒否し、国益を毀損した岡本公使のようなタイプの人物は、戦時中の本に必ず出てきますね。)
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吸収合併のお知らせ (shimadzu.co.jp)
2024年4月1日 吸収合併のお知らせ
株式会社島津総合サービスは、2024年4月1日付で株式会社島津総合サービスを存続会社、株式会社島津アドコムを消滅会社とする吸収合併を実施いたしましたので、お知らせします。合併日以降、株式会社島津アドコムの業務並びに債権債務は株式会社島津総合サービスに承継されます。合併を機に、社員一同、新たな決意を持って事業に邁進してまいる所存でございますので、今後とも一層のご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。
株式会社島津総合サービス 代表取締役社長 井形 彰利
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├計量計測データバンク ニュース原稿など資料庫-その2-
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├日本の名目GDPでドイツと入れ替わり世界4位に落ちる
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├岐阜県職員倫理憲章の計量検定所実行計画
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├計量検定所検査所など地方計量行政機関の業務ニュース HPからの抜粋(2024年03月29日現在、04月25日追加)
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├シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。
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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
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├死霊はわが姿なり(副題・女の深い悲しみの表情が人の心の闇を照らす)森龍之
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夏森龍之介のエッセー
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