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散文、随筆、随想、小論文

2017年は2月28日に八ヶ岳美術館を訪れて常設の清水多嘉示の作品を見ました。
企画展の「小宮のおんばしら写真展」と「モボが写した原村」写真展を面白く見ました。
八ヶ岳と霧ヶ峰高原の景色はそこに身を置かなくても心を癒すほどに意識に染みついております。
(旅行家 甲斐鐵太郎)

2017年は2月28日に八ヶ岳美術館を訪れて常設の清水多嘉示の作品を見ました。
(副題)企画展の「小宮のおんばしら写真展」と「モボが写した原村」写真展を面白く見ました。
(副副題)八ヶ岳と霧ヶ峰高原の景色はそこに身を置かなくても心を癒すほどに意識に染みついております。

八ヶ岳美術館(2月28日に撮影しました)


八ヶ岳美術館 野外展示「みどりのリズム」(2月28日に撮影しました)


八ヶ岳美術館の設立のきっかけとなった彫刻家の清水多嘉示。


八ヶ岳美術館は清水多嘉示の作品を常設展示する。
(原村のホームページに掲載の八ヶ岳美術館紹介の写真です)


「モボが写した原村」(小林光雄撮影)写真展入り口です。


「モボが写した原村」の小林光雄撮影機材の紹介など。


小林光雄撮影機材。手前からニコンF、ブロニカ。キャノン7。


原村民俗資料館の象徴のような顔面つき鈎手の縄文土器。


縄文時代に八ヶ岳西麓の標高1,000m地帯はヤジリの工房があった。
夏場には標高の高いところで暮らし冬場には下手に移ったのだろうか。
縄文時代の日本列島における人口は10万人から30万人ほどであった。


(タイトル)
2017年は2月28日に八ヶ岳美術館を訪れて常設の清水多嘉示の作品を見ました。
(副題)企画展の「小宮のおんばしら写真展」と「モボが写した原村」写真展を面白く見ました。
(副副題)八ヶ岳と霧ヶ峰高原の景色はそこに身を置かなくても心を癒すほどに意識に染みついております。


(本文)

 2017年は2月28日に八ヶ岳美術館を訪れて常設の清水多嘉示の作品を見ました。

 八ヶ岳美術館の前は年に5回かそれ以上とおっておりますが、2017年2月28日に久しぶりに立ち寄りました。地元ラジオで「小宮のおんばしら写真展」という企画展を開いていることを聞いたからです。

 「小宮のおんばしら写真展」と一緒に「モボが写した原村」写真展があったのは意外であり、こちらに魅力がありました。いま生きていれば100歳を超える人が撮りためた写真の展示です。同名で写真集が出版されております。展示の写真はモノクロプリントでした。「小宮のおんばしら写真展」はカラー写真のパネル展示でした。同じ「小宮のおんばしら」を撮影していながら「モボが写した原村」写真には説得力がありました。カラーのパネル写真には色が着いておりますがその色が邪魔に思えます。

 「モボが写した原村」(小林光雄撮影)のモノクロの写真は35mmフィルムカメラとブローニーサイズのフィルムカメラで写され印画されております。公募した「小宮のおんばしら写真展」のカラー写真はデジカメで写してあるようです。色のきつさにたじろぎました。

 使っていたカメラはミノルタオートコードという二眼レフカメラとブロニカの電子になる前のカメラなどのブローニーサイズのものと、ニコンFフォトミックFTNとキャノンセブンであり、キャノンセブンには 焦点距離50mmで明るさF0.95の巨大なレンズが付けられておりました。使ったカメラはこれだけではないのでしょうが撮影機材として展示されていたのは上の物でした。

 企画展の「小宮のおんばしら写真展」と「モボが写した原村」写真展を面白く見ました。

 平成28年(2016年)の式年造営諏訪大社御柱祭につづいて、諏訪の地は春から秋にかけて鎮守の産土神から氏神、道端の小さな祠にいたるまで数百、数千と言われる小宮のおんばしら祭が地域をあげて行われました。小宮のおんばしら祭は、幼子や若い女性からじじばばまで子どもと女性が主役になれるおらが村のお祭りです。2、3歳の幼児が腹掛けねじり鉢巻きで木やりを鳴きオンべを打ち振ります。この年の上社における御柱を見物しておりました。ラッパと太鼓がジャカジャカと音頭をとるなか御柱が建てられていくのを5月5日の新緑の境内に氏子を始め集まった大勢の人が見ているのです。

 男衆にしっかり守られたご神木は山から里へ、辻から辻へと進み、普段は地区の行事等であまり見かけないうら若き女性や遠方からのご親戚もこの日ばかりは共に綱を曳き柱に乗り共に声を張り上げます。みんな生き生きしていてほほえましい表情を見せます。時代を超えて伝わる土着民俗信仰の原風景です。諏訪地方一円で繰り広げられた小宮のおんばしら祭ということで、公募という形で集められた「おらほーのおんばしら」「わが家のおんばしら」の写真は楽しいものでした。原村の地域ごとの御柱は9月18日にも行われておりました。御柱となる神木の選定、切り出し、里引きということで様々な行事があって御柱祭りの歳は一年中これがこれがなされております。

 一緒に開かれた「モボが写した原村」(小林光雄撮影)写真展では明治生まれのモダンボーイがとらえた戦時中の御柱祭などの写真が展示されていて、おんばしら祭り(御柱祭り)の今を見せておりました。一番大きな違いは人々の服装でありました。

 原村の人口は昭和48年(1973年)に5,725人まで減少、平成17年(2005年)には7,456人になり平成22年(2010年)からは横ばい傾向となっています。

 3月を明日に控えた日に霧ヶ峰高原を散策して川上村に向かう途中に立ち寄った原村村営の八ヶ岳美術館です。1980年(昭和55年)に開館した八ヶ岳美術館は現在は原村が設立した財団法人原村振興公社が指定管理者となって運営されております。原村では横河電機の社員が退職後に移住していて村長をしていたことがあります。原村は戦後のベビーブームを境に昭和23年(1948年)の7,344人から人口が減りつづけ、昭和48年(1973年)に5,725人まで減少しました。その後人口増加に転じ、平成17年(2005年)には7,456人と過去最高を記録しその後も延びておりましたが平成22年(2010年)からは横ばい傾向となっています。八ヶ岳美術館が開館した昭和55年は原村の人口が少なかったころでした。

 八ヶ岳山麓の別荘は木立の葉が落ちると道路からよく見えるようになります。原村付近の別荘は近年になって永住用に建設したものは3LDLほどの広さがあってしっかりした建物ですが、昭和の時代に建てられたものは建家面積が小さく粗末にできておりますから、冬場の仕様には不向きです。高冷地の冬場の別荘は正月に宿泊するとなると暖房を入れて3日ほどしてやっと温かくなるという状態です。

 住む人が壮年期に建てた別荘は老年期を迎えるころには冬場の生活には不向きであることが多く、また建物の傷みもすすんでおります。そのような別荘地の建物が抛棄されたように林の中に点在する姿から人の一生とそれを引き継ぐ人との関係を見ているようです。原村の人口が増えなくなったのは移住者が減ったことによるのでしょうか。人口とは住民登録されている人の数のことです。原村には都会から移住する人が年間50人ほどあったのです。

 清里のペンション群はブームのあだ花のような姿を呈しております。この地の土産物屋も酒屋もかつての賑わいが嘘のようです。素泊まり2,500 の清里の清泉寮に泊まってワンカップの日本酒を湯船に漬けて暖めて飲んでいた1970年代のことが懐かしく思い出されます。

 原村役場では「原村移住パンフレット」をつくり、空き家情報を提供し、「田舎暮らし現地見学会」を年に数回行っております。「田舎暮らし現地見学会」は定員に達することが多いのです。現地見学会には不動産物件の見学が含まれています。

 この企画を実施しているのは次の係です。
原村役場総務課企画係。電話0266-79-7942、FAX0266-79-5504。
E-mailはkikaku@vill.hara.nagano.jp

 八ヶ岳美術館の所在地は長野県諏訪郡原村17217-1611であり、原村民俗資料館を兼ねております。電話とファクシミリは0266-74-2701。

 八ヶ岳と霧ヶ峰高原がつくりだす景色はそこに身を置かなくても心を癒すほどに意識に染みついております。

 私は八ヶ岳美術館の近辺に住んでみようと考えて行動したことがありました。探すと良い物件がありました。気に入った区画にある土地の値段の高いのには驚きました。こうした思いも何時しか後退して消えました。知り合いのあの人とこの人とということで何人かが原村の周辺に退職後に東京から移住して暮らしております。

 別荘暮らしにするのか、別荘地に移住して暮らすのか、選択があります。

 谷地に造成された別荘地を訪れたことがありますが日照のこと湿気のことなどで駄目でした。終末田舎暮らしで有れば小さな建物でもよいのですが、移住して暮らすとなると二人暮らしであっても台所のほかに3室は要ります。別荘地の建物は林の中にあってもそこからの眺めが良いことを求めたいと思います。外にでれば良い景色が見えるということではなく、窓の外に良い景色が広がっているということです。清里の清泉寮は背後に八ヶ岳と前方に奥秩父そして富士山が見えるというのに安く宿泊できたえるということで、よくできた宿泊施設であます。

 八ヶ岳と霧ヶ峰高原がつくりだす景色はそこにいなくても私を癒します。誰かが言っておりました。良い景色と良い音楽と美味しい料理は人を仕合わせにする。原村の隣の富士見町に定年退職後に移住した知人はオーディオ装置が自慢であり、夫人は歌を歌えばプロと遜色ありません。ユーチューブで歌声を聞くことができる人です。

 高山市のブランド家具工房を見学して良い家具は部屋を良くすることを知りました。5人掛けの立派な食卓を見ていると仲良しであれば素晴らしいけれどもそうでないと意味をなしません。健康に恵まれれば別荘暮らしも別荘地への移住も晴れやかです。人の心と身体はいつでも快調ではありません。脳卒中で動けなくなった身体であっても心は八ヶ岳の山々や霧ヶ峰高原に飛んでいるということがあります。そのような知人がおります。

 都心の千代田区の九段に住んでいたときには夕方の列車にのって長野に出かけて、どこかの駅で朝を待つということもありました。都心の気温が33℃のときでも八ヶ岳山麓の高原の駅では20℃ほどだからです。

 1980年に清水多嘉示の油絵と彫刻などの作品を一堂に集めた「八ヶ岳美術館」が開館しました。

 八ヶ岳美術館の設立は原村出身の彫刻家で画家でもある清水多嘉示(しみず・たかし1897年から1981年)が多くの作品を原村へ寄贈したことを契機にしております。

 清水多嘉示は1897に原村に生まれ旧制諏訪中学に進むも1915年に中退します。画家を志していて風景や人物を重厚な色彩とタッチで描いていました。1919年諏訪高等女学校教諭。1921年平野高等女学校、岡谷蚕糸学校教諭をしておりましたが、旧制諏訪中学を中退した清水多嘉示が旧制中学校と同等の学校で教員をした経緯はわかりません。1923年にパリに渡るまでの間に二科展には毎回入選しておりました。旧制諏訪中学からは多くの有名な人々を排出しております。美しい景色が清水多嘉示に絵を描かせるように働きかけたのでしょうか。

 オーギュスト・ロダンの高弟、アントワーヌ・ブールデルの作品を「サロン・デ・テュイルリー」で見て感銘して彫刻に打ち込みます。ブールデルに師事して「サロン・ドートンヌ」に絵画と彫刻を出品して1927年まで毎回入選したのでした。清水多嘉示はパリでアルベルト・ジャコメッティ、藤田嗣治、イサム・ノグチ、小山敬三らとの交遊を持ちます。

 1928年に帰国して、1929年帝国美術学校助教授の職を得ます。ブロンズ彫刻によって院展、国画会の国展、春陽会展、サンパウロ・ビエンナーレ国際現代美術展などに出品します。生命感にあふれるブロンズ像で高い評価を受けます。1943年には新文展審査員になります。戦後は日展に出品を続けていて、1948年には武蔵野美術学校教授に就任します。この年に日展審査員になります。1950年には日展運営会参事になります。

 その後は1953年芸術選奨文部大臣賞受賞、1954年「青年像」で日本芸術院賞、1958年日展評議員、1965年日本芸術院会員、日展理事、1969年には武蔵野美術学園初代学園長と栄進を続けます。1969年に勲三等瑞宝章受章、日展常務理事、1971年東京国立近代美術館評議員、1973年日展顧問、1980年には文化功労者。文化功労者の顕彰を受けた1980年に清水多嘉示の油絵と彫刻などの作品を一堂に集めた「八ヶ岳美術館」が開館します。開館の翌年1981年5月5日に84歳で没します。

 私は写真が好きで山の写真を写しておりましたが清水多嘉示の変哲もない切り通しの風景を油絵で描いた作品を見て油絵の表現がもつ魅力に打たれたのです。それ以降は写真を撮影するのに在り来たりの構図にとらわれないようにと言い聞かせるようになりました。写真撮影における構図を清水多嘉示の油絵から示唆されたのですが、恐らくこれは私の勝手な思いこみであるのでしょう。

 「モボ」と呼ばれた人の写真はその人が過ごした原村の風俗と風景は貴重な歴史記録です。

 清水多嘉示と同じころに同じ原村で生まれこの地で農業を営んでいて90歳過ぎまで日常の出来事を撮影した「モボ」である小林光雄の写真に心を動かされたのです。モボとは「モダン・ボーイ」のことで1920年代(大正末期から昭和初期頃)に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象を体現した先端的な若い男のことをこのように呼んでおりました。モガは「モダンガール」のモボと同じことを意味します。ハイカラということとも重なります。

 自称か他称か「モボ」と呼ばれた人の写真は原村の風俗と風景の歴史記録です。撮影した当人の思いを超えてしまう記録としての写真の特性がここによく現れております。

 長野県の原村は八ヶ岳西麓の標高1,000m地帯にあります。八ヶ岳美術館は別荘地が広がる中に鉢巻き状の道路の上手にありその標高は1,350mです。平屋で丸い屋根を連結した形状の建物であり、大きな施設ではありません。野外には清水多嘉示製作のブロンズ像が置かれております。季節の良いころには数多い野外のブロンズ像を見物して休憩するのもよいでしょう。その野外の展示場を信玄の棒道が走っていて、これが明瞭な道になっております。

 前回、訪れたときには芳野満彦(よしの・みつひこ)の絵画の展示をしておりました。

 原村のある地帯はその昔は「神野(こうや)」と呼ばれる諏訪明神のお狩場でありススキだらけの痩せ野でした。武田信玄が開いた金鶏金山では九州渡来の金掘技能の集団が働いておりました。金の産出量が減っていたために里へ下りて農耕に従事しようと選んだのが原村の地であったのです。金鶏金山の高い場所から見ていると八ヶ岳の西山麓の原村のある地帯は速くい雪が消えるのでした。それを温かいためだと思って開墾を始めてからわかったのですが、降った雪が風で吹き飛ばされたために雪が積もらなかったのです。当てが外れたのですが生きて行くためには身を粉にして働くしかなかったのです。八ヶ岳山麓には明治以降も多くの人々が入植しております。昭和になってもそれは続いておりました。

 川上村にこのあと足を運びますと丘を削ってレタス畑として整地しておりました。ブルドーザーで平にした土は赤土でした。レタス畑として使っている土は黒くなっております。土壌改良材の石灰を撒いて、化学肥料を施して直ぐにでもレタス栽培をするのでしょう。かつては雑木林であったところが切り開かれてレタス畑に姿を変えており、レタス畑が大きく広がっております。川上村には大きな農業用の機械であるトラクターが沢山あります。人手を要する収穫の時期になると多くの中国人作業者が働き、川上村の往来でその姿を見ます。夏至のころに金峰山(きんぽうさん・きんぷさん、標高2,599m)や甲武信岳(こぶしがたけ・こぶしだけ標高2,475m)の登山のために川上村を経由すると高原野菜の最初の収穫に重なります。甲武信岳は甲州、武州、信州の三国の境にあるためにこのような漢字が当てられておりますが、恐らくこの山域を奥秩父と称していた黎明期の登山家たちがそのように書いていたのでしょう。地域名や山の名前は時代により古文書によって如何様な名前にもなっております。漢字を読んで詮索をすると堂々巡りをすることになります。

 原村の特産はセロリです。川上村のブランド野菜はレタスであり、原村のブランド野菜はセロリです。野菜もブランドになっていなくては値も付かないし市場も獲得できません。原村の6月は麦熟るるころであり八ヶ岳を背景に麦秋の茶色い畑地が広がります。それが過ぎるとセロリ栽培となって7月から8月9月の原村はセロリの青い葉がで覆われます。寒風が吹きすさび雪も積もらなかった八ヶ岳西麓の耕地は現代では夏場の野菜生産の好適地であるのです。水路を確保して農業機械を使って化学肥料を散布してセロリを栽培する原村の農業です。花卉(かき)栽培では赤く花びらの大きなアネモネが有名になっております。

 この30年ほどの間に八ヶ岳美術館には数度入館しております。前回、訪れたときには芳野満彦(よしの・みつひこ)の絵画の展示をしておりました。芳野満彦は先鋭登山家のクラブであるRCC IIの創立同人であり、絵を描くこともします。1931年(昭和6年)生まれの吉野満彦の『山靴の音』(朋文堂から1959年刊行)は山岳小説の名著の一つであります。小説を通じて知っていた吉野満彦の絵画展を見て嬉しくなりました。同氏は2012年(平成24年)2月5日に80歳で没していますから、この絵画展はそれより以前に開かれていたのです。そのとき明日か明後日かには吉野満彦が来ることになっておりました。

 八ヶ岳の西麓にはヤジリ製造工場ともいえる場所がありました。畑に打ち砕かれた黒曜石が散らばっております。

 八ヶ岳美術館は原村民俗資料館の名称が添えられております。八ヶ岳や霧ヶ峰高原および車山高原の山麓には縄文遺跡が沢山あります。縄文時代にこの地に人が住み縄文文化を花開かせていたのです。原村にある縄文前期の阿久(あきゅう)遺跡は1979年に国の史跡に指定されておりますが、他の遺跡から出土した土器や鏃(やじり)などが多数展示されております。霧ヶ峰高原で産する黒曜石が青森市の三内丸山遺跡から出土しております。縄文時代の交易の様子が偲ばれます。黒曜石は天然のガラスであり、黒曜石を打ち砕いてさまざまな刃物をつくっていました。八ヶ岳西麓にはヤジリ製造工場ともいえる場所がありました。今は畑になっておりますがヤジリ(鏃)をつくる過程で打ち砕かれた黒曜石が散らばっております。その黒曜石のクズの量に驚かされます。畑を耕す鍬(くわ)が黒曜石のクズにあたってガシャガシャと音を立てるほどの量です。

 長野県の諏訪地方にある原村の最寄り駅というと中央線の特急が停車する茅野駅です。八ヶ岳美術館は茅野駅からタクシーで25分ほどでしょうか。高速道路は諏訪南あるいは小淵沢インターで降ります。そこから30分ほどでしょうか。諏訪南から八ヶ岳美術館に向かっていく道は八ヶ岳めざして登っていくようであり、夏にはセロリの緑の畑が広がっております。

(文章と写真は旅行家 甲斐鐵太郎)
(文章を読み返しておりません。誤変換と表現のまずさを補ってお読みください)


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ブログの問題点そして本式のweb本体の利点-その1-
私はFacebook、mixi、Twitterは好きでない


ブログの問題点そして本式のweb本体の利点-その2-(執筆 横田俊英)
(副題)楽天ブログの「日記の編集・削除」見たまま編集でコピーしてweb本体に貼り付ければ完成。
(副副題)本式のweb本体をコンテンツ掲載の本体として、ブログは本体とリンクするなどして連動させて運営する。


フィルムカメラとデジタルカメラの発展の速度の違い。
(副題)フィルム写真の像はデジタル写真にはない趣(おもむき)を2017年現在では残していると思われる。
(副副題)フィルムを使ったカメラの時代であればフィルムの発展は化学方面の発展と歩調を合わせる。


タクシーの料金改正は計量検定所のメーター検定と連結する。
(副題)新しい考え方を導入したタクシー料金の改定が東京都の京23区と武蔵野市および三鷹市からなる東京地区で2017年1月30日から実施された。
(副副題)初乗り後は新運賃では237メートルごとに80円になった。これまでは280メートルごとに90円だった。


フィルムカメラのミノルタXG-SとMDロッコール50mmf1.7
(副題)ミノルタ「XG-S」は1979年に発売された絞り優先EEの横走り布幕フォーカルプレーンシャツターのカメラ。
(副副題)シャッターボタンを押すとシャッター膜がパーンと走るXG-Sに対してもたつくXDです。


オリンパスペンEED(1967年発売)というハーフサイズのフィルムカメラです。
(副題)画質はフィルム面積相当比、つまり2倍荒れてしまいます。これがハーフサイズカメラがもっている宿命です。
(副副題)オリンパスペンEEDはプログラムオートの露光をセレン光電池を使わずにHDタイプの電池を用いております。


コーヒーを飲み一息吐いて窓を開けると白い世界が広がっていた、雪の朝だ。(旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №28)
(副題)2017年1月10日夕刻に雪が降りだした。積もりそうな気配があったので雪への準備をしていると月が出てきてた。
(副副題)5センチメートルほどの積雪ではあっても樹木は雪に覆われて土色の冬景色が白一色になっていた。


2017年のフキノトウは3月5日の日曜日に目にしました。フキノトウは香り高い春一番の山菜です(旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №29)
(副題)子供たちにもがれるか心配でしたが3月7日夕刻に写真を撮るまで無事でした。
(副副題)フキノトウを撮影したのは2004年発売のデジタル一眼レフカメラ「ニコンD70」です。


ライカM5への思いを残してCanon EOS 5DとNikon D70で風景を撮る。(旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №30)
(副題)買った品物をそこそこの値段で売るという中古カメラの売買の楽しみは消えました。
(副副題)ニコン F6 ボディは新品273,330円、中古79,980円から(キタムラネットショップ2017年3月9日付け)


「富士山や月は東に日は西に」2017‎年‎3‎月‎11‎日午後6時。(旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №31)
(副題)蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の富士山版で「富士山や月は東に日は西に」。
(副副題)撮影カメラはEOS 5D。35mmフィルムカメラの画面と同じ大きさの撮像素子のカメラだ。


陽光に輝く雪の日(2月11日)の大きな木の枝を思い出していた
(副題)2017年2月11日、9:00:12の風景。窓の南の木にキジバトが留まっていた。
(副副題)仕事をするための机回りとパソコン操作がらみで改善をした。


JR草津駅の周辺は中山道草津宿であった。
(副題)向かい風が吹くと渡し船(矢橋渡し)を使より歩くのが速い。
(副副題)余程の感銘があったのだろう「急がば回れ」の言葉が生まれた。


「春風そよふく」春一番が吹いた2月17日です。「菜の花畠に入日薄れ」とは色彩豊かな高野辰之の言葉です。
(副題)フレディ・ハバードのジャズピアノが流れ出しました。タイマー予約がしてあったのです。
(副副題)ジャズのジョージ・ベンソンが好きです。ソングライターのジョージ・ベンソンも好きです。


2017年は2月17日に春一番が吹きました。『早春賦』は儚(はかな)さを歌い、『朧月夜』は春を喜ぶ歌です。
(副題)『早春賦』の歌詞のどこにも春はありません。春を待つ心になぞらえて人の儚さを歌っております。
(副副題)高野辰之の『朧月夜』(おぼろづきよ)は春の歌です。春風そよふく、菜の花畠に、蛙(かはづ)のなくね、とあります。


2017年は2月25日に冬の郡上八幡を散策しました。
(副題)1月12日は赤い南天玉が吊してあった旧八幡町庁舎には本染めの展覧の垂れ幕が下がっておりました。
(副副題)天空の郡上八幡城の城下町では郡上おどりが舞われます。


2017年は2月28日に八ヶ岳美術館を訪れて常設の清水多嘉示の作品を見ました。
(副題)企画展の「小宮のおんばしら写真展」と「モボが写した原村」写真展を面白く見ました。
(副副題)八ヶ岳と霧ヶ峰高原がつくりだす景色はそこにいなくても私を癒します。


沢渡に泊まり晴れたら上高地の見物にでかける、5月8日の沢渡。
(副題)市営第二駐車場まえにある宿は素泊まり三千円。贅沢はできないがくつろぐ。
(副副題)沢渡バスターミナル付近の5月8日春の盛りであった。上高地の緑は未だだ。


山梨県の道志村を富士山に向かって走る。4月27日のことだ。山中湖は桜の見頃であった。
(副題)奥道志の民宿が見える一風呂浴びて日本酒を飲みたいと思う。
(副副題)多摩丘陵は4月12日には青く萌えていた。それから2週間、奥道志は緑であった。


山の向こうに五箇山を感じる5月5日の城端曳山祭。
(副題)春は遅い。街の向こうに壁のようにそびえる山の先は五箇山なのだ。
(副副題)五箇山は絹織物で栄えた町であるが今はその工場跡をわずかに確認できる。




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