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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録
-その35-から-その48-の一括版(14回分)



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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録
-その35-から-その48-の一括版(14回分)

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録
-その35-から-その48-の一括版(14回分)

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その35-
オーストラリアの製鉄所BHP社への技術援助

オーストラリアの製鉄所BHP社への技術援助

厚板形状制御技術を海外へ売る

 1984(昭和59)年、関西を離れ、東京本社のエンジニアリング事業部に異動した(いずれも川崎製鉄(株)、現・JFEアドバンテック(株))。

 スラブといわれる連続鋳造設備から切り出される矩形状の極厚の鋼材を普通に圧延していくと、頭部と尾端部に製品にならない異形状ができる。この頭部と尾端部を切り落とし、予定した定尺の板を得ようとすると、製品歩留まりが悪くなる。もし圧延し終えた厚板形状が、頭部と尾端部で長さ方向に対して直角であれば望むところとなる。

 圧延中にスラブの幅、長さと温度を繰り返し測定しながら圧延方向と圧延圧力を変えていく計測と制御ソフトが一体となった「MAS圧延」という技術が、我が社で開発された。この技術を海外に売るのがエンジニアリング事業部での私の初仕事となった。

オーストラリアの製鉄所

 BHP社は、鉄鉱石や石炭の膨大な資源を持ち、これを世界に売っているオーストラリア最大の会社であり、川崎製鉄はそこのお客でもあった。またシドニー近くのポートケンブラに製鉄所を持ち、その中の厚板工場が私たちのお客であった。我々はまずドキュメントを送り読んでもらい、先方の計算機のソフト改造、センサーの取り付けができあがったところで、実運転を行っている日本の製鉄所で実習してもらう事にした。

 私にとっては初めての海外業務であったので、まずは先方に礼を尽くすべきだと考え、大使館にビザの申請を行った際には、この国の歴史、政治、社会などの資料をもらって帰り、勉強をした。

 ところがやって来た客人に会ってみると、同業の製鉄屋という気安さも手伝ってか直ぐに打ち解けることができた。先方も日本のことを良く知っていて、お互いに礼儀を欠くこともなく、スムーズな打ち合わせとなった。彼らも英国の伝統を受け継ぐ紳士達であった。

無事に終了

 オーストラリア人特有のアクセントには少し悩まされたが、“ゆっくりと”の連発で無事切り抜けた。現場にいる日本人技師の英語を読み、我々日本人の英語がいかに解り難いものであるかが理解できたのが何よりの収穫であった。

 お互いの交流を通じて、我々がはじめに出したドキュメントの不備がわかり、これらを修正し再提出した。その2~3週後、先方のマネージャーから感謝状としてのレターをいただいて、嬉しかった。このような経験から、幼い頃から抱いていた人付き合いにおける劣等感からようやく解放された思いを感じていた。

 この厚板の技術援助の話はフィンランドへと続いたが、残念なことに私にはソ連の仕事が待っていた。

2、
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その36-
1986(昭和61)年からはカラーラインのプラント輸出でソ連と日本を行き来する

1986(昭和61)年からはカラーラインのプラント輸出でソ連と日本を行き来する

連続カラーラインを輸出

 1986(昭和61)年からは、カラーラインのプラント輸出に関する件で、ソ連と日本を行き来することになった。

 このカラーラインとは、コイル状に巻かれた鋼板に前処理を施した後にカラーペイントを塗り、そのあと乾燥と焼き固めるのを連続的に行う設備である。設備の全長は約150m、操作室も前処理・中央・出側の3カ所に分かれていた。処理したコイルは、決まった寸法に切れば屋根や壁板は勿論のこと、自動車や冷蔵庫にも使用できる。当時はまだ共産政権党最後の書記長であるゴルバチョフが健在であったが、党自体も軍事より民生が重要とも考え始めたのであろう。このプラントは平和社会向きの利用度が高い鋼板処理設備であった。この仕事を日本は、我が社をリーダーとする中外炉工業(株)と三菱電機(株)の3社によるコンソーシアムの形で受けた。

初めてのモスクワ出張

 何よりもまずロシア語である。NHKのロシア語講座は欠かさず聞いた。ビデオに撮り何回も繰り返し学んだ。テキストにもソ連邦の国土の面積はアメリカの2・5倍、世界の陸地の6分の1を占めるとあり(当時)、大国にして共産主義の国だということが、私の仕事に関する緊張感を自然と高めていった。

 1987(昭和62)年、初めてのモスクワ訪問で、チェレメチェボ空港に降り立った時の印象がまた悪かった。建物全体が暗くて、自動小銃を持った見張りが立っている。荷物を長い間待った上に、入国審査は正面を向き直立不動の形でうけた。無事帰れるのかなあと不安を抱いたものであった。

 仕事はまず、契約に従ったドキュメントの提出から始まった。相手は鉄鋼省に所属する輸入審査官のM氏である。計測と計算機は“オートメーション”としてまとめられ、これが私の範囲となっていた。

 M氏は英語が達者であり欧米の論文にも目を通していて、製鉄プラントのコンピューターコントロールの情報にも詳しく、交渉相手としては最も扱いにくい人であった。また、我々が納入するプロセス用コンピューターの上位には生産管理用の大型電算機をシーメンスから入れていたが、彼はその方の担当者でもあった。

 従って、我々から関連情報を引き出そうとする彼と、商売に徹して早くまとめようとする我々とで論じ合うことも多々あった。最大の問題は、連続焼付け炉での板温制御の精度に関する契約書での文言が、非常に厳しいことにあった。この場では、私は熱量計算の精度とフィードバックによる安定性を説いてM氏にわかってもらった。

レトルト食品で夕食

 1回の出張は2週間、平日は先方との折衝は4時半頃に終わり、皆が一団となって市内のレストランへ行き、キャビアありウオツカありの楽しい夕食となる。話が順調に完了すればそれで良いのであるが、時にはソ連軍団との話し合い以降に日本人同士のインナーの話し合いが始まる事も多かった。

 熱中して気がつくと、すでにレストランもホテルの食堂も夕食の予約を受け付けてくれない時間になっている。共産主義社会ではサービスを旺盛にして、売り上げを上げようという気が全くなく、時間が来れば「はい終わり」とくるのだから無理もない。

 夕食は仕方なくホテルの我が部屋で、手持ちのレトルト食品を温めていただく。立派なホテルなれど、ビールもサンドイッチも何もない。お酒は出国時に成田の免税店で買ってきた米国のバーボンを常とした。ご飯・ラーメン・ライスカレー・缶詰など、我が国のレトルト食品がこれ程良くできているとは思わなかった。200V用携帯用湯沸かし器のお世話になり、袋ごと暖めて食べたものであった。

ココム規制で苦労

 当プロジェクト活動がようやく軌道に乗りかけた矢先、1987(昭和62)年に東芝機械のココム規制(共産圏輸出規制)違反が明らかになり、通産省の共産圏への輸出審査が急激に厳しくなった。「ソ連なんかにはもう輸出してくれるな」と言わんばかりであった。コンピューターやデータロガー、計測器や通信機に至るまで全てのものについて、違反していない事を証明する書類を作成し、通産省に説明に行くのである。

 全く余計な仕事が転がり込んできたものであった。この処理に当たりながら「どうして日本の通産省がアメリカのために気を遣って国民に仕事を押し付けるのか」とつくづく思ったものである。

3、
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その37-
モスクワでの仕事とモスクワの町並み、そしてドストエフスキー博物館

モスクワでの仕事とモスクワの町並み、そしてドストエフスキー博物館

市内観光も「順番で」

 モスクワでの仕事は、一回行くと2週間の打ち合わせとなっていて、間の土日が現地での唯一の休日となるが、大概の土曜日はインナーの打ち合わせとなってしまう。
 またこの地への旅は出国前に予定を決め、ホテルの予約を取らなければ入国ができず、ホテルに入ればパスポートを取り上げられるので全く自由が利かない。従って1泊2日のモスクワ近郊への旅はいつも幻と化していた。仕方なくクレムリン、グム百貨店、革命記念公園等を見学して廻るのだが、何処にいっても行列、何を買うのも順番だからしょうがない。

 当時はゴルバチョフによるペレストロイカが盛んな時であり、禁酒令が出たりした。そこで、酒屋の前には長蛇の列。「このような世にした奴は許せない、俺が行って殴ってやる」と言って列を離れて行った男が暫くして帰ってきた。隣の人が「どうしたのか?」と尋ねたら「あちらの列の方が長かった」というアネクドート(ロシア逸話)があった。

ルーブルでの買い物に挑戦

我々外貨(ドル)を持つ者は「ベリョースカ」という外貨ショップに行く。いろいろな物が何不自由なく買える。インツーリスト(国営旅行社-英語・日本語で話せる)を通してドル払いで、ボリショイサーカスやバレエ、モスクワ国立交響楽団のチケットを入手するのは容易である。

 しかし憶えたばかりのロシア語を駆使して現地の窓口でルーブルで買ってみると、外貨 ショップと比べ格段に安い。ドルで買うのとでは全く異なることを知った。考えてみれば、外国に行けばその国の人と話し、その国のものを食べるのが交わりの本筋であり、やたらとドルをちらつかせるのは寧ろ邪道なのである。

 運よくチケットが手に入り、ボリショイサーカスやバレエに行けたり、モスクワ国立交響楽団のチャイコフスキーを聞けたりもした。

ドストエフスキー博物館

 ソ連へのプロジェクトと初めて聞いたとき、まず頭に浮かんだのはドストエフスキーのことである。共産主義社会で彼が如何に受容されているか、ソルジェニーツィンの人気はどのようなものなのか、など好奇心が沸いたが、所詮業務の出張の合間ではどうにもならなかった。

 現地で地図を買い求めてドストエフスキー博物館を探してマークを付け、あちこちの人に聞いて回った。その結果、消毒の臭いが漂う病院の中庭らしきところに彼の立像を見つけた。軍医を父に持った彼の生家がここであろうと想像した。要するに彼はこの地では受け入れられていない、ということだけは解った。

4、
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その38-
ソ連への輸出機器とロシアに長期滞在しての現地指導・調整

ソ連への輸出機器とロシアに長期滞在しての現地指導・調整

トレーニング生の受け入れ

 ドキュメントの提出が終わり輸出機器の製作が始まった1988(昭和63)年に、完成図書のチェックと実操業の実習のためにモスクワの事務局とノボリペツク製鉄所からの人達がやって来た。度重なる打ち合わせの結果、私は、少なくともモスクワではソ連人とロシア人を区別して対応すべきだとの結論を得ていた。即ち、共産党独裁体制での生粋の官僚がソ連人、ルールと権限を重んずる人達で、これに反して大らかで人懐こいのがロシア人である。

 しかし彼らが日本にやってきて東京(川鉄)や鎌倉(三菱電機)でミーティングを始めた頃には、次第にソ連人の影が薄くなり、「かたち」が消えていった。モスクワでの打ち合わせでは、時間が無いので昼食にサンドイッチを出して食べながら進めようとしても、別室に持ちかえって食べていた程の人達が、日本では全く居なくなっていた。皆本来のロシア人に還っていったのである。

 もう一つ驚いたのは秋葉原の電気店、有楽町界隈の薬局の情報に詳しく、買い物に専念する姿であった。買うためのお金を浮かすために、秋葉原から宿舎のある品川まで歩いて帰ったと聞いてまた驚いた。

 当時禁酒令が出ていたソ連と違って、街角の何処でもお酒が買えることを体得して、「これは大変なことだ、もうすぐ日本人は皆アル中になる」と心配してくれた友もいた。

ノボリペツク製鉄所へ

 1990(平成2)年、現地の建設も進み、調整・試運転の状態に入ったので、監督者として現地に出かけることになった。ノボリペツク製鉄所は、モスクワの南に直線で約300km、列車では約500kmのノボリペツク州にある、ソ連の最新鋭の製鉄所だった。我らの宿舎は製鉄所が運営しているホテルであり、工場から約30km離れた小高い丘の上、市の中心を少し外れたところにあった。送迎バスで工場に通い、昼食はこのホテルに帰って頂き、少しの昼寝の後再び工場へ。土・日曜は休みで残業なし。

 時間は充分あると聞いていたので、この機会に読むべしと、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』を持参した。また『未成年』は後から送ってもらった。

 予期していなかったが、職場で知り合った人達からもらったこれらの原書と見比べて読むこととなり、喜びも倍増であったし、またこれによって友達もできた。

現地の計測屋

 私の受け持ちはオートメーションで、中身は計測・コンピューター・シーケンサーであったが、技術レベルは至って高く、先に送った資料をよく読んでくれていたので楽であった。はかり屋はオートメーションとは別集団でいたが、この国の「ゴースト」(ГOCT)なる国家規格は完全なメートル法が取り入れられており、何も問題はなかった。

 ヤードの中に「タカトクワゴンチキ」(簡易ハウス)なる個室があり、何かあれば彼らが訪ねて来た。冷蔵庫の中にはビール、ウオツカとつまみを常備しておき、3時過ぎてからやって来る友には一応誘うことを礼儀としていた。

 朝は調整作業の見回り・状況チェック、順調であれば明日以降の作業説明と指導、実際の問題は殆んど出てこなかった。あるのは露訳の拙さ、その前に我々が書いた英文の拙さにも責任がある(我々がソ連に提出したドキュメントはページの左半分は我々が書いた英語、右半分にはそれを訳したロシア語が書いてある)。この種の問題はお互いにすぐ判るので、顔を見合わせて笑うほどであった。

 モスクワのミーティング以来気にしていた板の温度制御については、念のため三菱のコンピューターに入れた制御計算式を別に用意した可搬形計算機に入れ、検証用の接触式板温計も秘かに持ち込んでいたが、全くその心配はなかった。この2つの秘密兵器は帰る時、計測のリーダーにプレゼントし、お互い喜んだことであった。

高徳コック長

 ホテルでは3食ともいただけるが、似たものあり・不味いものありで日本人には評判が悪く、滞在半年で体重が2~3kg減った人も出た。そこで、私が行く少し前から夕食は自分達で作ろうということになり、一室を借りて炊事を始めていた。始めは日本から持ち込んだものが主であったが、私が行った頃からは現地調達のものも次第に増えていった。

 私は面白半分に、若者を伴って土曜日に自由市場で肉・野菜を買い、いろいろな料理を食卓に並べた。料理は全くの思いつき、かつ自己流である。こんなことを繰り返してやっていると、誰言うことなく私が「コック長」と呼ばれるようになった。こうなれば私の態度も大きくなり、自然と周囲の協力者に指示を出すようになった。日本から来た新人はまず人参・ジャガイモの皮剥きである。手つきを見て料理を命じる。焼き加減、煮加減が安心して任せられると立派な助手である。魚釣が趣味で魚捌きに秀でた人もいた。しかし本当に台所では何もできない人もいるもので、その人には“砥ぎ屋さん”になってもらった。

楽しく作って、楽しく食べる

 ただし、自由市場故にいつも決まったものが買える訳ではない。運よく飛び切り上等な牛肉が買える日もあれば、鳥しかない、またはアヒルだけの日もある。牛肉は斧で切り落としてもらうし、鳥・アヒルは一羽丸々である。

 従って土曜日の仕入れによってその週のメニューが決まる。これは一切私の頭の中に置き、公表はしなかった。「今日は何かなー」と思うことが食欲を呼ぶと考えたからである。自由市場故に何も出ていないこともあるので、ホテルの賄い方のデップリめのおばさんに近づいて仲良くしていただき、肉・魚・コニャック・シャンパンを分けてもらったり、食料品店ではお金持ちそうなご婦人が買う高価な缶詰を真似して買ったりもした。いずれも美味しいものを調達するノウハウである。

 コック長にはこんな苦労もあったのであるが、皆で作って楽しく食べられたのが何よりであった。何しろ仕事は4時に終わり全員バスで帰ってきて、時間はたっぷりあるのだから、料理は毎日の楽しいイベントでもあった。

 ついでながら主なメインディッシュを紹介しておくと、ステーキ、焼肉、親子丼、カレー、ハヤシライス、ちらし寿司、炊き込みご飯にそば付、……。喜ばれるコツは料理の組み合わせと、昨日と今日のバリエーションにあることも覚えた。当然のことながら、皆さんの体重が増え始めた。

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その39-
ロシア滞在と余暇そして人との交流(冬のワカサギ釣りとクロスカントリースキー)

ロシア滞在と余暇そして人との交流(冬のワカサギ釣りとクロスカントリースキー)

ロシアでの友好 ユーラーさんとの交流

 ユーラーさんは、計測屋のビクトル君が紹介してくれた、彼と同じアパートの住人で、土建屋さんであった。ユーラーさんもビクトル君も、インドの製鉄所の建設指導で一緒だったらしい。また奥さん同士も学校の先生で、家族ぐるみで付き合っていたようだ。従って2人とも少し英語が話せたのが幸いであった。

 ビクトル君に誘われてユーラーさんを訪問したのが最初であり、彼のお父さんがドストエフスキーの愛読者であったらしく、ここから話は進んでいった。彼がロシア語の『未成年』をプレゼントしてくれたので、ホテルで日本語のものと読み比べ、次に会ったとき、「この3カ所が最も気に入っている箇所だ」と言ったら彼も大いに同感してくれた。風変わりな読書会であったが、意見の交換ができて嬉しかった。

冬のワカサギ釣りとクロスカントリースキー

 ロシアでは冬に湖や川に氷が張ると、馬でも馬車でも走れるので交通の便が良くなるという。また、どこでも魚が釣れるらしい。ビクトル君とユーラーさんが最初に誘ってくれたのがワカサギ釣りであった。

 上は日本ミズノ製のスポーツ着、足は現地の防寒靴を借りて、ウオツカを飲み飲みワカサギ釣りを試みたが、あいにく天気が悪く風が強くて2時間程でお手上げとなった。釣り上げた魚がすぐに凍るのだからしょうがない。ユーラーさん宅で、釣った魚を煮込んだスープをいただいたら、途端に酔いがまわってきた。

 次にはクロスカントリースキーに誘ってもらった。仲間を募ったら十余名となったが、スキーの板は、学校の先生をしている奥さん達が学校のものを借りてくるから何人でもよいとの事、「公のもの」は「皆のもの」、全く大らかである。この日は晴天に恵まれて快適であった。ビクトル君が先導し、その後を我々が歩いたり滑ったり。小高い丘に立てば景色を見渡して小休止を取り、また駆ける。ユーラーさんは後尾でフォロー。野生の兎も歓迎の挨拶に顔を見せてくれたりして、ロシアの広さをつくづく身に感じた一日となった。

ドン河のカヌー下り

 もう一つ遊びの話を読んでいただきたい。なにぶん日本から出かけた監督者の生活は8時~4時で残業なし、春先からは金曜日は半ドンで土・日は全休。これを有効に使わない方はないと、よく戸外に出かけたものだ。特に夏は日が長く、一面の緑に囲まれて、風は 爽やか、そんな時にユーラーさんが息子さんまで動員してプレゼントしてくれた素敵な一日があった。

 カヌーは3人乗り、ユーラーさんは上流で我々を見送り、終着地では車にて出迎えてくれた。誠に念の入った接客振りである。今、想いだすだけでも親切に付き合ってくれたロシアの友に大いなる感謝を贈りたい。この辺りはドン河も上流、水は凄くきれいで人影もなし。

 古い教会や小高い丘を左右に見ながら、ゆっくりと下っていく、途中で泳いだり網で魚を採ったり、昼はバーベキュー。私も特製の“おにぎり”を持参していた。大自然の中での昼食もまた格別であった。

私のお返し

 謡曲の『隅田川』は、人商人にさらわれたわが子を訪ねて京都から隅田川まで下ってきた母親が此処でわが子の死を知らされる。渡し守の語りの中に、この川岸でただ独りで亡くなった幼子の様子と、母への心残りが見事に語られている名曲である。当時、日本映画の『寅さん』がロシアでも人気があるらしいとの噂を耳にしたこともあり、これに勇気百倍。この日本の芸術性を何とかして伝えてみようと努力してみた。ロシア語への翻訳にあたっては、もちろんロシア人の通訳にも手伝ってもらった。謡はもちろん日本語であるが、少しオーバーな表現をとった。着物と袴、白足袋もつけ、扇も持った。

 ユーラーさんとビクトル君夫妻とも目を赤くして聞いてくれた。民族と言葉の障壁を越えて解ってもらえたと思っている。悔やまれるのは能舞台の写真を1枚も持って行かなかったことである。

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その40-
レニングラードへの旅行とわが心の師ドストエフスキーの墓参り

レニングラードへの旅行とわが心の師ドストエフスキーの墓参り

わが人生の師の墓参り

 ノボリペツク製鉄所の方でも我々監督者に色々と気を使ってくれて、日帰りや、1泊2日のバス旅行に誘ってもらった。バス旅行というのは、近くにある、ツルゲーネフとトルストイの生誕地を訪問する企画であった。3~400kmからなる3角形をバスで走ったが、車窓からの景色は全く同じ、食事も同じ、風呂が無いのも同じ(当時ソ連では6月頃に1カ月間、ボイラー点検の為給湯休止となった。従ってホテルでも風呂・シャワーが使えなかった。地域が変われば、と期待していたのであるが……)という状況では、行った甲斐がなかった。

 そのような中での一番のイベントはレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)旅行であった。特別の計らいで地元の飛行場(ここは軍の基地でもあるので外国人は立ち入れない)からレニングラードに飛んだ。また当地レニングラード交響楽団の演奏会に行けたのもラッキーであったが、一番の私の望みはドストエフスキーの墓参りであった。彼はこの地の仕官学校に入学して以来この地に縁が深い。処女作『貧しき人々』が思わぬ反響を呼び、いろいろな事件に巻き込まれていくのもこの地でのことである。

 従ってモスクワとは違って、ドストエフスキー記念館は立派なものであり、机を始めいろいろな遺品が並べられていた。ネフスキー通りを行き着いたところにあるネフスキー修道院にわが人生の師の墓を見つけて、感謝の花束を奉げた。

ゴルバチョフの失踪

 1991(平成3)年8月19日、朝起きてニュース・天気予報を見ようとテレビのスイッチを入れると、音楽番組。

 “これはおかしい”と思い、電話で通訳を起こしテレビを見るよう伝えたが、「何もない!」と言う。フロントに走ると、案の定フロントの女性達は大騒ぎ、「何かあったのか」と尋ねた。ことの状況は正確には解からないが“ゴルバチョフが失踪した、これはクーデターだ”とは理解できた。友を誘って屋上に上がり見渡してみても、戦車も装甲車も出ていない。モスクワの騒ぎであり当リベツク州は平穏であると判断し、迎えのバスも変わらず来たので、工場に向かった。

わが国の対応

 モスクワの日商との電話でおおよその事はわかった。昼過ぎ(東京は朝)には本社からも連絡があり、“全員帰って来い”とのことで、航空機の手配を試みたが、全て予約済みで入手は不可。とにかく、国営放送1本で民放がない国の現地では何もわからない。

 頼りは電話(しかし日本への電話は3、4日前の予約が必要)従って日本からの連絡を待つしかない。当時NHKでは日に3回15分程度の海外向けニュース番組があった。普段でもそれとなしに聞いていたのだが、今回ばかりは、まず何よりもと深夜に眠たい目をこすって聞いていると、「高校野球が延長戦になりましたので“ニュースを中止し”このまま野球放送を続けます」。本当にこの国はどうなっているのか!と嘆いた事であった。

 ドイツは対応が違っていて、ドイツの放送局はソ連の状況をどんどん流しているとか。同じ製鉄所で働いている、しかも我々が納めるコンピューターの上位の電算機を据付けているジーメンス社の連中は、明日にもドイツからの救出機がこのノボリペツク(軍事飛行場)に来るという。国力の差をつくづく感じさせられた。

ドイツとの差を思い知る

 幸いエリツィンの活躍でことが平穏に収まり、安堵した。私はたまたま、パスポートの期限が切れるため、更新のためモスクワに行く予定であったので、次の土・日に出かけた。事件が起こった現場では、献花の花束が積まれ、ある若者が「我々が戦車を止めたのだ」と息巻いていた。

 大使館に行った際に、騒ぎの一部始終を知ろうと、日本の新聞を見せて欲しいと言うと、何処にもない。館員が自宅に持って帰っているのだと言う。本当にわが国のことながら、情けなく思ったものであった。とにかく、ドイツとの差が顕著であることをつくづく思い知らされた出来事でもあった。

7、
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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その41-
自動車用電気メッキ鋼板を製造に関してフランスへの計量管理技術の輸出

フランスへの計量管理技術の輸出

有機皮膜測定装置

 1989(昭和64)年頃、フランスの製鉄会社ユジノール社の子会社で自動車用電気メッキ鋼板を製造することになった。この製造技術は川鉄(現JFEスチール)のものであり、同じE/D事業部の圧延グループの手によってプラント輸出された。

 このプラントに設置される有機皮膜測定装置の輸出ならびに測定に関する管理技術指導を我々電計グループは担当し、ソ連から帰ってきたばかりの私がその任をまかされた。元来自動車用鋼板の特色は、耐食性と溶接性が優れていることにある。この二律背反の性質を兼備させる為には精度の良い膜厚測定を必要とした。正に「測れぬものは造れない」である。

 この膜厚計は赤外線を金属板上の厚さ1um程の有機皮膜に照射し、皮膜よる吸収量を測定することを原理としている、我が社が開発した装置であり、それをいかに運転管理していくかということも、我が社で生まれた技術である。一般に赤外線膜厚計といえば何処にでもありそうだが、これは鋼板に使用している有機皮膜を検知するのに最も適した波長と特殊なフィルターを用いたものであり、この自動車用電気メッキ鋼板には欠かせないものであった。

利用方法と管理技術

 また同設備では、このセンサーを板幅方向のスキャニングを行いながら幅方向の膜厚分布も測定できるようにもした。  輸出する技術範囲は、膜厚計の本体とスキャニング装置、および標準サンプルの作成方法と膜厚管理技術であった。

 1992(平成4)年、フランスから来た客を千葉製鉄所に連れて行き、今度輸出のモデルとなった自動車用鋼板のプラントと、そこに据付けられている有機皮膜測定装置に案内して説明した。驚いたことはフランス人の英語理解である。私が約20年前単身でフランスに行った時は「フランス人は自国語にプライドを持っていて英語は喋らない」とかで、警官でさえ受け付けてくれなかった。そのフランス人が、私の拙い英語を良く聞いてくれるのである。

 標準サンプルの作り方から測定器の校正方法、日常点検と異常の検出方法など、何分にも測定対象が鋼板上の1umの膜厚であるから手続きは込み入っている。細かい質問が出てきたらどのように答えるか心配したが、千葉の現場は何とかパス。製造を依頼している大阪のメーカーには現地で通訳を依頼する事にしたので、やれやれであった。

8、
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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録-その42-
東京本社のエンジニアリング部門に転勤を命じられ家族と一緒に転居

私を支えてくれた家族

子供の笑い

 今まで述べて来なかったが、私には4歳年下、1940(昭和15)年生まれの家内と1966(昭和41)年生まれの長女、1969(昭和44)年生まれの長男がいる。2人の子供は神戸・西宮工場勤務の時代に生まれ、当時宝塚在住の家内の両親や、引退後、丹波(かって私が育った疎開先の田舎)に移り住んだ私の両親にも囲まれて育った。私や家内関係の従兄弟、姉妹も周辺に十余人いて、わりあい賑やかな環境であった。

 仕事の休みが取れた折には一家4人で、行楽地にも行った。そんな時ふと気がついたのは、子供達の見事な「笑い」であった。本当に楽しく、心の底から溢れてくる「笑い」、それは他ならぬ子供の無邪気さ、純真さから来るものだと思った。

 我々大人はいつの間にか忘れ去ってしまっているが、本当に取り戻せないものなのか。

 愛読するドストエフスキーの『未成年』の中で、主人公アルカージイは、笑いを「最も正確な、魂の試金石」と規定し、巡礼のマカール老人の笑顔に理想的な無邪気さ、善良さを見出す。そして、マカール老人が持つ精神の「端麗さ」を憧憬する。

 私もまた、この「端麗さ」を追い求め、当時の年賀状にも目標として掲げた記憶がある。

子供の成長

 1975(昭和50)年の欧州出張の時は、子供達もまだ小学生と幼稚園児であったので、3週間の長きにわたって留守にすることをよく話しておかねばと考え、近くの緑地公園に出かけて話し合い、しばらくの別れを惜しんだ。留守中には、家内が2人の子供を連れて、ゴールデンウィークの混雑した列車で丹波での法事にも出てくれたことを聞き、私の子育ても1ステップ完了したと実感したものである。

 息子が小学生高学年の頃には、私と共に丹波に行き、春先の山で椎茸の原木を切り倒して運んだり、父が催す謡会の舞台で子方として謡って父を喜ばせたりもした。

 今、私も当時の父と同じ年頃になり、同じ年恰好の孫が来てくれた時の喜びは、父も同じものであったろうと実感する。

東京転勤
 
 1984(昭和59)年、東京本社のエンジニアリング部門に転勤を命じられたときは、息子がまだ中3であったので、単身赴任をするか否かで迷うところもあったが、率直に家内と子供2人に決断を迫った。「日本には関西と関東に2つの異なった文化圏がある。奈良・平安・室町時代は関西が主導的であったが、今は関東である。お父さんと一緒に東京に行かないか」と。そして約1月後には、家内から2人共行く決心が付いたようだと聞いた。この時には“もう子供たちも立派なものだ”という気がしていた。

 ところがである、それから12年後の1996(平成8)年、単身赴任の赤穂で最後の仕事を終えた時、父の要請もあり一時期関西に帰ろうかな?と思った時があった。その事を千葉に帰った時、家族に相談したら、今度は「お父さん一人で帰れ」と冷たく言われた。千葉の人と結婚した長女、関東の会社に就職した息子、子供たちと共に生活し多くの知己を得ている家内にしてみれば今更関西に!と思うのは当然であろうが、皆一人前になったことを喜びながらも一抹の寂しさを感じたものであった。

気遣い

 話は少し昔に返るが、ソ連への長期出張に際しては、すぐ外に出たがる私の行動を予期してか、娘が防寒の体操着を買い求めて持たせてくれた。これはワカサギ釣りや、クロスカントリーの際に実に役立った。この娘は現在、3児の母である。

 また、当時東京理科大学物理学科在学で、就職を控えていた息子には、行く気はないかも知れないが、祖父から私まで3代にわたって世話になった会社であるから、一度は訪問しておくようにといい、計測の後輩に案内も頼んでおいた。就職には至らなかったが、親の顔は立てておいてくれた。素直なところが嬉しかった。今では2児の父となっている。

9、
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その43-
56歳の管理職定年となり耐火レンガを製造する川崎炉材(株)に移る

播州赤穂へ

あちこちへの挨拶

 1992(平成4)年、私は56歳の管理職定年となり、播州(ばんしゅう)赤穂にあって耐火レンガを製造する川崎炉材(株)に移ることになった(当時の川鉄では、管理職は56歳で例外なく社外勤務となった)。

 川崎炉材(株)では、私の入社当時千葉で熱管理課長だった方が、社長として私を迎えて下さった。他にも神戸での同僚や千葉での仲間がいて、昔話には事欠かなかった。

 10年振りに関西に帰り、兵庫県の計量協会にも顔を出し、皆さんに喜んでもらった。特に当時の計量器使用事業所の集まりである管理部会の催しでは懐かしい顔ぶれに会い、お互いの健康を喜びあったものであった。

 その上、この播州は我が家のルーツである姫路を取り巻く地域であり、親戚筋も多い。祖父の里である飾磨(しかま)を始めとして、網干(あぼし)、那波野(なばの)、有年(うね)にも浄土真宗のお寺がある。

 幼い頃の想い出やその後の交流も懐かしく、挨拶に廻ったものであった。有年のお寺では、私が「謡と仕舞のお稽古をこの辺りのお稽古場で始める予定だ」と話したら、即座に「こんな田舎で習い事をする人があるかいな」と一喝された。「いや姫路の先生がここに通ってこられるのだ」と言うと、「それならば姫路の先生の自宅に通うべし」と諭され、それに従った。

 独身寮に一番近い相生(あいおい)市那波野のお寺の院家は、これからは「電話をかけずに、何時でも来て泊まって帰れや」「電話を貰うとご馳走せんならんでな」と気安かった。

いかにして貢献するか

 川崎炉材の社長は私に、「ここは耐火レンガの製造工場であるが、計量・計測の課題が多いので君に来てもらった」と話された。2人で3回に分けて現場を歩きながら、社長から説明を受けつつ責任感が増し加わって行くのを感じていた。

 温度では1850℃にも達する超高温キルン(焼成炉)があり、力では1000t級のフレクションプレス(原料を押し固める)も多数あった。1600℃~1700℃の溶鋼に耐えて精錬を進める、器に用いられるレンガの底力に触れた思いであった。

 結局、私のテーマは、私が見て聞いて考えた上で、社長に提案させていただくという事にした。工場をトータル的に見た上で、正に「いかにして貢献するか」を課題として頂いたのである。

間違い防止と省力

 やはり現場は最良の教師であった。省エネルギー・熱経済的課題もあったが、矢張り勝負は品質・生産性であると判断した。そしていろいろと話を聞き、あれこれと教えてもらっているうちに、ふと気づいた。

 人間には物事に思いを巡らしてヒントを得たり、創造したりといった素晴らしい能力があるが、同じ作業を繰り返してやっていると、逆に飽きてしまいすぐに忘れる欠点もある。うっかりミスである。しかし、コンピューターや機械は、決められたことはバカみたいに繰り返してやっている。

 耐火物の原料は多種にわたり、あちこちから切り出してきて1つの配合に纏められる。計量器も散在し、その間をフォークリフトや手押し車が活躍していた。

 これを在来設備と小規模なホッパースケールを用いて、パソコンやシーケンサーで繋ぎ合わせ、ミキサーへの原料配合を自動供給する省力設備として立案した。そして皆さんの意見も大いに取り入れて、据付・調整ではまた大勢の方々の協力をいただき、完成させた。

 これは、プレス成形するレンガのミキサーで混練する前の原料配合工程の自動化に当たるが、これで自信も協力体制もできて、次の更なるプロジェクトに進むことになった。

10、
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その44-
原料配合の計量にバーコードを用いた自動照合システムを採り入れる

FAラインの建設

営業情報による即日対応

 耐火レンガを大別すると、成形して乾燥または焼き固めるものと、粉体で納め、炉修工事に際して水で溶いてマッドガンなどで塗りつける「不定形」と呼ばれるものと、2種類がある。

 最近は過酷な環境で働く築炉工が少なくなったので、不定形レンガの需要が急増している。しかし、不定形は乾燥すれば個々に特色のある硬い耐火レンガになるだけあって、原料配合の計量は厳重でなければならない。また、原料の選び間違い、入れた筈が入っていないといった人間特有のミスも絶対に許されない。このミスを防ぐ方法として、当時はまだ出始めであったバーコードを用いた自動照合システムを採り入れた。

 不定形レンガの特徴として、顧客によって修理しようとしている炉の状況が変化すること、炉の緊急事態により急遽修理材料を提供する場合も必要なので、営業情報によっては、正常工程に割り込みをかけて直ぐに製造にかかれる体制を備えるために、パソコンソフトを駆使することを考えた。

生産計画からの参画

 これまで多くのコンピューターシステムを計画してきたが、制御用が多かったためか営業情報・生産計画は上位のコンピューターからもらっていた。しかし、客先への素早い対応も大きなメリットと考え、生産計画への割り込みを可能とし、しかも直ぐに出荷時期の返事が出るような営業対応の機能を持たせるシステムとした。

 正に生産計画からの参画である。また柔軟に対応して行くこのシステムをフレキシブルマニファクチャリングオートメーションから「FAライン」と呼んだ。標準工程ならば1週間から10日を要するが、運が良ければ割り込んで3日後も可能というプログラムである。

生産性・高品質・短納期を目指す

 設備の過大化を防ぐためと計量精度を上げるために、メインのホッパースケールは200kg/0・1kgと小さい。ただし多種類の原料を使うので貯槽は50槽に近い。おまけに、少量の添加剤もあるので、これらは1kgから2kgで手計量する。合計では、秤量2tから1kgまで約30台のはかりを使った。大半は自動はかりである。これらを、ハブで結ばれた6台のパソコンを駆使して計量し、5本のベルトコンベアで集めてミキサーに投入、最後にフレコンまたは紙袋梱包にて出荷となる。

協力者と共に

 工場は赤穂の海岸近くに在り、少し掘ると塩水が湧いてくるため、FAラインの建設は、鋼矢板をどんどん打ち込む基礎工事から始まった。計測屋の仕事としては、西宮工場の建屋集塵機以来の大工事である。

 土建にも精通した機械屋さん、シーケンサーを駆使出来る電気屋さん、営業情報を良く勉強してくれたシステム屋から成る、強力なスタッフが支えてくれたからこそ、また社長・専務のバックアップにも恵まれたればこそ出来た仕事であった。

 それにしてもFAライン完成後、原料が正確に計量され、集められ、大きなロットとなり、工程が進んでゆくのを見るのは実に楽しいものであった。現役最後の仕事としても「計量・計測をやって来て良かった」とつくづく思った。

 このFAラインは、品質と生産性に優れていて、今も順調に稼動を続けており皆さんに大変喜ばれている。

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その45-
60歳定年、休む間もなく東京計量士会で計量業務に従事

東京計量士会

神戸から東京へ

 1996(平成8)年、赤穂でのFAラインの建設も終わり初期トラブルも落ち着いた頃、赤穂を引き上げて千葉に帰る準備に入った。定年の60歳、今まではただ半年か1年先のみを考えて走り続けた40年足らずの会社生活、まずはゆっくりと人生の休みを取ろうと考えていた。

 長年世話になった計量士会も、退職後は当然縁がなくなると思っていた。しかし、立つ鳥跡を濁さず、という事もあるので、出向いてお礼を述べた上でと考え、神戸に小川敬司支部長を訪ねた。ところが支部長曰く「せっかく長いことやって来られたのだから、東京に帰ってからも続けてやりはったらよろしい」と、思っても見ない方向に話が進んだ。小川さんの説得を受け入れた訳ではないが、急いで退会することもないとも思うに至った。

まずは材料試験機の校正から

 帰葉後、小川さんの指示に従い、東京都新宿区にある日本計量会館に奈良部尤副会長を訪ねた。奈良部さんは「話は兵庫の小川さんから聞いている、東京でやって欲しい仕事もある」とのこと。そして、当時材料試験機を一手に引き受けてやっておられた出羽善衛さんを紹介して下さり、出羽さんから材料試験機の校正手順の手ほどきを受けることになった。

 試験機の校正実習は、私の車に校正用分銅を積み込み、出羽さんが助手席で道案内という形でスタートした。単純で操作が分かりやすいからということで、ショッパーの実習から始まった。データの取り方、まとめ方は勿論のこと、客先での対応から後始末まで丁寧に教えてくださった。

小型はかりの検査と適管の実務

 私は旧法の計量器使用事業場(適正計量管理事業所の前身)の計量士を30年やってきたが、30t~50tの大型ないしは50kg以上の中型のはかりが主であり、小型はかりの検査はどこかの講習で学んだ記憶があるくらいで、実務の経験は殆んどなかった。

 また計量器使用事業場の実務も作業長さん達にまかせっきりで、印鑑をつくぐらいあった。その上、新計量法には馴染みが浅い、このような私にとって、東京計量士会には何でも聞ける心強い先生達が揃っていた。

 小型はかりの検査方法は高梨園司さん、新法の適管事業所での実務は長野暢夫さんが親切に教えて下さった。その他、量目のことや分銅のこと、OIMLに関する事柄など、先生には事欠かないグループが東京計量士会である。

更に広い輪へ

 白石淸元会長にも量目検査や統計手法など種々のことを教えて戴いた。今思えば、赤穂から帰って来た時は何も知らなかったような気がするのである。皆さんには感謝の気持ちでいっぱいである。また、ここを足場として関東甲信越地区計量団体連絡協議会(関ブロ)や全国計量士大会に出入り出来ることも、私にとっては幸いなことである。

 このようにして、東京に帰ってきて以来新計量法に馴染み、勉強を進めて行くうちに、この新計量法は消費者向きであっても、自分が経験してきた製造業での仕事からは随分遠く離れているのに気がついた。従って外に対しては、まず「特定計量器についても、計量士にスパン調整をさせるべきだ」と訴え、次に、商品量目制度(IQマーク)に関しては「計量士に権限を!」と主張、現在は「自動はかりの管理は計量士の仕事」と、機会あるごとに呼びかけている。

 いずれも後輩の計量士が力強く育ち、会社や社会のために役立って欲しいとの願いからの活動であるが、既に時代の流れに逆らっているような気もしている。

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その46-
日東富士製粉東京工場で計量管理、ここで有終の美を飾ろうと秘かに決意

日東富士製粉(株)東京工場で計量管理

管理台帳と質量標準管理マニュアルの作成

 材料試験機の実習を終え正式の検査員となった1998(平成10)年の暮、日東製粉(現日東富士製粉)への計量士派遣の要請が日本計量士会松本弘美専務理事よりあり、奈良部副会長の命に従い、1999(平成11)年の1月から週2日は東京工場に計量士として勤務することになった。

 私は製鉄会社の出身であり、製粉工場は初めての経験であったが、計量・計測の技術を生産管理や品質保証に生かす事は変わらないと考えた。ただ現場的には、何事も教わる以外にないと決めて色々教えてもらった。前任者が残した管理台帳もないではなかったが、現場の各計器を覚えるためにも始めから作り直した。

 ところが、2月になって東京都計量検定所に挨拶に向かったところ、当時の林紘治係長より「質量標準管理マニュアルを年度内に作って欲しい」との要求があった。これも勉強だと考えて指導されるままにしゃにむに取り組んだ。

計量管理委員会の開催

「質量標準管理マニュアル」が受理され、管理台帳も整い始めて一息ついたところで、計量管理の諸課題について思いをめぐらせた。適管であった川鉄の工場(現JFEスチール阪神製造所)を離れて約15年は経っていても、計量検定所との書類のやり取りはすぐに甦ってくる。その懐かしさに喜びを感じながら、ここで私の計量士としての有終の美を飾ろうと秘かに決意をしたものであった。

 当東京工場も、ISO9000のキックオフの年でもあったので、お互いに新鮮な気分で対応が進んだ。私はまず工場全体の課題に取り組む決意を見ていただくためにも、自己紹介をするためにも、工場長以下部課長に集まっていただき、計量管理委員会を催して欲しいと申し出た。当時の田村工場長は快く受けてくださり、1999(平成11)年6月に臨時の第一回委員会が開かれた。以降第2回からは11月を定期開催月としている。

通産大臣表彰受賞

大久保工場長が来られた頃、東京都計量検定所の林係長より「通商産業大臣表彰(優良適正計量管理事業所)の候補になっているので頑張らないか」との打診を受けた。精力的に働いて厚さ5cmぐらいの資料を作らねばならないことは知っていたが、管理体制を一層充実させるためにもしっかり勉強する機会だと思い、工場長以下の同意を得た上で受けることにした。

 8月末には被審査書類を作成提出、11月の計量記念日には大久保工場長以下3名が受賞式に列席した。骨身を惜しまず協力してくれた当時の青木真課長には感謝の意を表したい。その後、突然彼の逝去を知らされ驚いた。いまだに無念さが込み上げてくる。

流量計の精度向上など

 “工場全体で進める計量管理”も10年も続ければそれなりの成果を生み、体力も付いてきたと思っている。

 具体的には、バラ出荷積み込み用のトラックスケールの精度向上、隣接する2つの小ポッパーに交互に小麦粉を入れてその重量を測ってゆくストップレス流量計や、傾斜板に小麦を落しその抗力を測定し間接的に流量を知るインパクト流量計(共に三協パイオテク(株)製)を計量管理に取り込み、給水流量計の管理と共に品質保証に役立てていること。繰り返し計量による累積誤差を最少にするために、ホッパースケールの分銅管理の厳重化に努めていることなどがある。

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その47-
2010年秋、神戸市が主催する計量管理強調月間で講演させていただいた

東京都計量管理研究会

研究会での大いなる出会い

 日東製粉に行き始めて間もなく、「東京都計量管理研究会」なるものがあることを知った。縮小の一途を辿っていた当研究会ではあったが、99(平成11)年頃は、まだ盛況時の影が僅かに残っていた。秋にはバスを仕立てて(株)荏原製作所の藤沢工場、東芝機械(株)の御殿場事業所経由月ヶ瀬温泉で、一泊の研修旅行が行われたので参加したが、これが最後のバス旅行であった。(株)荏原製作所の小澤典夫氏、白石誠一氏、藤倉電線(株)(現・(株)フジクラ)の石野昇氏、(株)石川島造船所(現・(株)IHI)の野々宮裕海氏、(株)オーバルの山路隆夫氏らが懐かしい。

 しかし、ここでの一番の出会いは、1950(昭和25)年9月に出された通産省の通達であった。たまたま研究会の会報が50号を迎える記念号として、研究会創設当時の様子を書き残しておこうとした時、総務委員長の先輩に当るミヨシ油脂(株)の田崎さんが出してこられた1通の文章(通達)であった。

 この通達には1951(昭和26)年6月に出される旧計量法の真髄が述べられているように思われる。全面に渡って“計量管理”の重要性が述べられ、これを行う者として“計量管理士”(のちに発表された法には計量士)を置くと書かれていた。

 この通達が発端となって、更に強力に推し進めるために、各都府県に計量管理協会が設置された。特に東京には「東京都計量管理研究会」が置かれ、当時石川島重工業(株)(現(株)IHI)社長であった土光敏夫氏が初代会長になった。当時の通商産業省が我国の産業界を如何に大きな力でリードしていたかが図り知られる。我国の戦後の復興は、正にこのような優れた官僚の力に支えられていたのであろう。

 この通達とその後の計量業界の動向を知り得たのは、東京に帰り、東京計量士会や東京都計量管理研究会に属するようになったからであればこそで、この50余年に及ぶ自分の計量活動の原点に立ち返らせてくれた偶然の出来事のうちに、必然性を感じるのである。

会員会社が東京から流出

 私がこの研究会にお世話になった1999(平成11)年の5月からの会長は(株)荏原製作所取締役の酒井氏であった。ちょうどこの時の総会で、長年にわたって活動してきた6つの分科会が廃止になり、技術研修、普及啓発、総務の3つの委員会にまとめられた。この頃の会員会社数は50社前後であったろうか。

 しかし、東京から近隣県への流失は止まることなく、(株)フジクラ、ライオン(株)に続いて(株)荏原製作所が千葉に、遂には初代土光会長の石川島播磨重工(株)が横浜に移転した。このような有力な大手製造業の流失は、会運営にとって致命的なものとなっていった。

 そしてついに、当研究会も解散し、後は(株)東京都計量協会の部会となって活動を続けることが決められた。2005年5月の最後の定期総会後には、OB会員も招いて盛大に「さよなら懇親会」を催した。なお当総会時の会員数は30社であった。

されど東京

 東京都計量管理研究会に出入りするようになって早10年、メンバーはどんどん替わっていったが、計量士という人種は変わらないためか、お互いにすぐに親しくなり、手を取り合って戦えることには少しも変わりはない。

 この団結と融合性、一見不思議な現象とも取られるかも知れないが、このバックには計量検定所がある故だと思っている。検定所の建物の中に東京計量士会があり、(一社)東京都計量協会があり、そして我が研究部会がある。この生活環境が在ればこそであろう。本当に得がたい環境である。その上、(社)日本計量振興協会にも近ければ、経済産業省の計量行政室だって目の前である。

 2010年の秋には、遣わされて神戸市が主催する計量管理強調月間の講演会で講演させていただいた。その前後には、地方に散らばって苦闘している計量士達にも会い話を聞くことが出来たが、かつて私が活動していた時代との状況の差に唖然とさせられた。

 こんなに恵まれたところにいるのだから、何か世のために、いや計量士のためにお役に立てることはないのだろうか。私を育てて下さった多くの先輩にお返しすること、すなわち後輩のお役に立てることは何があるのか。繰り返し考える昨今である。

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私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その48-
「現在の計量法とこれからの計量士」がこの『私の履歴書』のテーマであった

終えるに際して

感謝

 何はともあれ、長い間お付き合いいただき、拙文を読んでくださったことを感謝したい。また、励ましやエールを送って戴いたことは、格別に嬉しく思っている。

 今回は父や祖父にまで遡ってわが国の計量小史を辿ってみた。計量の仕事が最良と決めた祖父は大正の終わりに「神戸メートル商会」を興し、息子にも絶対良い仕事だからと、大学を中途退学させて東京の度量衡講習所に遣ったのだった。

 これが3代に亘る我が家の計量の始まりだった訳だが、黎明期であったとはいえ思い切った判断だと感心する。それから約80余年の歴史を経たが、現在私が持っているはかりに対するポテンシャルは祖父には及ばない。

変遷はあれど不変もあり

 昭和の初め高徳衡機(株)で造っていた10tの規格型台秤は、全くの槓杆の組み合わせで、これを送り錘と増し錘で平衡を取り測定していた。これを私が目にしたのは、奇しくも千葉から葺合(ふきあい)工場(旧川崎重工業の製板工場)に転勤した1966(昭和41)年が最後であった。

 既に陳腐化した代物であったが、いかにも「自分は量り続けてきた」と語っているようだった。それから、さらに45年が経過している。技術は大きく変わったし、背後の社会も更に大きく変わってしまった。変わらないのは、人間の「物事を見えるようにしたい」という欲望であろう。

 素早く、確かにつかみたいという欲望がある限り、計量計測の課題は永遠に続くだろう。また、これを通してプラントを見よう、工場での諸設備を管理して行こうという計量士も残るだろう。

少しでも良い環境を

 引退後15年にも及ぶ計量士としての仕事は、現役時代には思ってもみなかったものである。東京で過ごし、予想外の沢山の方々との交わりの中での日々である。このような環境下で、私は「現在の計量法とこれからの計量士」をテーマにしてきたような気がしている。

 それを一層ハッキリさせたのが、この『私の履歴書』の著述であった。自分の生涯を振り返って反省しながらこれを書いていると、良くして下さった諸先輩と後輩に対して、これということが何も出来なかった私が対比されて辛かった。この辛さが、一層自分をこのテーマに熱中させた感がある。

 具体的にいえば、私が見聞きしている限りでは、前にも触れた様に、旧計量法が製造事業所向けであったのに対して、新計量法は消費者保護に徹している観がある。

 従って製造事業所の計量士は仕事が狭められ、今や存在価値すらなくなりかけているのが現状ではなかろうか。「計量管理」が主なる業務といっても、現計量法にはその定義や内容は殆んど書かれていない。

「自動はかり」の問題

 そこで誠に僭越ではあるが、後輩の製造事業所の計量士が少しでも良い環境で働けるようにと考えて、業界や行政の方々にお願いしているのが、昨今の私の専らの仕事となっている。

 具体的にいえば「自動はかり」をOIMLに見習って計量法に取り入れることである。その管理を計量士に担当させると良いと考えている。

 「手動はかり」は法規制の対象で検定・検査はあるのに、「自動はかり」は全く知らぬ・存ぜぬというのも変な話である。国際的にもバランスを欠くと言わざるを得ない。国のためにもなり、計量士のためにもなるのだからこれ程良いことはないので、この訴えを続けていくつもりでいる。今後も皆様のご協力をお願いする次第である。

 南米にこんな民話がある。森に大火事があった時、ハチドリが小さな嘴に一滴の水を含んで、大火に何度も立ち向かっていき、“そんなことをして何になるの”と笑われる。
 今の私は、このハチドリに似ているかもしれない。

(おわり)

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録
-その35-から-その48-の一括版(14回分)


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私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その1-はじめに
西宮高校から神戸大学の計測工学科に進み川崎製鉄千葉製鉄所で計量の仕事を始める

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その2-我が家と計量の係わり
祖父の高徳純教が「はかり屋」を始め社名に「メートル」を用いた気概に敬服

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その3-「異人さん」と「神戸メートル協会」
母は大阪の船場の商家の生まれで、“こいさん”(末娘)として育った

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その4- 父(忠夫)のはかり屋「高徳衡機(株)」
裕福な青年期を過ごした父は祖父が始めた「はかり屋」の跡を継いだ

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その5- 私の誕生は1936(昭和11)年9月である
私が誕生したのは神戸の御影という阪急とJRに挟まれた静かな住宅街であった

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その6- 1943(昭和18)年、私は魚崎小学校に入学した
疎開列車は家族揃って城崎温泉に湯治に行ったときと同じ流線形の蒸気機関車

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その7- 1高徳家の由来
酒醸造や両替商を営みかつ庄屋でもあったのが我がご先祖、姫路藩ご用達となり苗字帯刀を許されたらしい

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その8- 疎開地・丹波での小学生時代
疎開先で雑音と音声の途切れる玉音放送をラジオ屋の前で聞き後で戦争に負けたのだと教えられた

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その9- 田畑を耕し薪採りをした中学時代
高校1年生になる1952年までの10年疎開地に居着くことに 1949年に湯川博士のノーベル物理学賞

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その10- 父のはかり屋への復帰
私は京都府立福知山高校入学後の3学期に編入試験を受けて兵庫県立西宮高校に転校した

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その11- 西宮での高校生活
2・3年生の担任は英語教師である「英語は丸覚えなり」と指導され、これに従って何とか様になった

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その12- 文学への傾倒
浪人時代お金はない。参考書代が小説代に化けていった。父は「芳忠には小説を読ませるな」と。

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その12-2- 牧師と教会の人々
私を育ててくださった他大学の関西学院小林信雄氏ほかの偉い先生方

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その13- 楽しき神戸大学での学生生活
ボート部では艇が走る水音とスピード感、漕ぎ疲れ艇庫に戻る時の疲労感と達成感に浸る

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その14- 国立大初の神戸大学「計測工学科」に進む
J・トムソン(英国)の言葉「科学は計測に始まる」に感激、「科」とは禾(か)(稲・麦などの穀物の総称)を斗(容量の単位)るに学をつけて科学

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その15- 時代の要求で生まれた「計測工学科」の名が消えた
神戸大学「計測工学科」は「システム工学科」に、今では「情報知能工学科」になっている

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その16- 3年夏休みの工場実習は川鉄千葉工場へ
「石を投げれば37(昭和37年入社)に当たる」学卒大量採用の年度に川鉄に採用決定

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その17- 千葉製鉄所管理部熱管理課に
「千葉製鉄所管理部熱管理課に勤務を命ず」という辞令をもらい、「特急つばめ」で東京に向う

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その18- 川崎製鉄(株)最初の職場は計量整備掛
「始めは現場で人と計測機器に接するのが一番の近道だよ。これ程恵まれた仕事の与えられ方はない」

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その19- 消耗型熱電対の導入
計量整備掛に就いて1年も経っただろうか、次は消耗型熱電対が入ってきた

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その20- ドイツ人と計測技術の導入
端子台に及ぶまでドイツ独特の技術レベルの高さに敬服したものであった。

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その21- 仲間達との交わり
何の為に仕事をしているのか」と問われ、私は「金を儲ける為でない、隣人の為だ」と答えた

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その22- 電子計算機による制御
千葉でのプロセス用コンピューターとの初めての出会いは忘れることができない

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その23- 計量士の誕生
口頭試問は何を答えたのか全く記憶にない。試験官に「お父さんはお元気ですか」と聞かれびっくり。

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その24- 日本学術振興会製鋼第19委員会と計測部会
学術振興会19委員会と共同研究会計測部会で鉄鋼各社の計測担当者が調査・研究の成果を発表していた

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その25- 計量管理委員会に若手技師としてデビュー
製品の歩留まり・品質・生産性・環境保全・安全等の計量・計測は確実か成果を報告をして指示を仰ぐ

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その26- 計測器をあえて設備しなくてすませる
「ハス切り」になるという原因は装置がさずかに横に動くとだったのでラインと装置のセンターを取り確かな据付をして対応

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その27- QCサークルができて活動がはじまった
計量中に排出ゲートからわずかな漏れが原因の誤計量が重役まで聞こえてしまった。それが失敗が教えた知恵になった。

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その28- 西宮工場にて掛長を拝命し計量と熱管理を担当する
「作業長や班長さんの査定は、あなた方が言っている事を信用しては行わない。あなた方の部下の仕事振りや日々の表情をみてあなた方の査定を行う」

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その29- 表面傷検査装置が開発課題であった
始めての海外出張 ヨーロッパの連中が何を考えているかが知たかったし、またお互いに議論もしたかった

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その30- 欧州鉄鋼業の表面形状検査を調査
ドイツでは鉄鋼業を訪ね、パリではゼンジミア社の人に会い、ロンドンでは形状検出機の発明者のDr.ピアソンに面会する

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その31- 煙を建屋外に出さない厳しい制約
製鋼工場から発生する多量の煙や粉塵を建屋内にて吸い取ってしまわなければならない

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その32- 私は父に似てきたらしい
私は父に似てきたらしく、近所の人は「よく似てきなはった」と言う

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その33- 私の習い事 謡と仕舞い
観世能楽堂で開かれた上田観正会では地頭を宗家に『隅田川』の渡し守を演ずるワキを謡わせていただいた

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その34- 父は論文を遺書として引退
父は「計量器工場の経営はいかにあるべきか」を書き上げ、それを遺書として引退した

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その35-
オーストラリアの製鉄所BHP社への技術援助














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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録
-その35-から-その48-の一括版(14回分)

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