私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その10- 父のはかり屋への復帰
私は京都府立福知山高校入学後の3学期に編入試験を受けて兵庫県立西宮高校に転校した
父のはかり屋への復帰
奇遇な出会い
丹波に疎開した後、父だけは、統制組合(兵庫県の商業組合が戦時中に昇格したもの、父はここで専務理事を仰せ付かっていた)の仕事のため単身で神戸に残っていたが、終戦とともに丹波に引き上げてきた。
そして、村の人々と種々の事業を試みたが、これという手ごたえもなく、買った畑や借りた田んぼを耕して少しのお米や野菜を作っていた。
しかし6人の子供と祖母を加えて9人家族では、採れるより食べる方が早かった。
やがて父は、母方の父の紹介を受けて、近衛家の次男で奈良の春日大社の宮司をして居られた宮川忠麻呂さんを助ける形で、春日大社の参事という辞令を戴き働いていた。
当大社に今も残る父の唯一の功績は、鹿寄せのラッパに、ベートーベンの「田園」で奏でられるホルンのメロディーを取り入れたことぐらいである。
その2年ほど後の1949(昭和24)年、ふとした事で神戸に行く機会を得、阪神電車の魚崎駅にて、戦前の計量界の知り合いで神戸製鋼の計量担当の人に会い、奇遇を喜んで話しているうちに、県計量協会の阿部会長にも通じることになり、川崎重工に行ってはどうかと誘われたと聞く。
はかり製造の許可
縁とは不思議なものである。川崎重工の方でも、父に来てもらうことを考えていた矢先であったらしい。
川鉄が川重から独立するに当たり、当時川鉄の西山弥太郎社長は兵庫にあった計量器部門を譲り受けることを考えていた由。この計量器部門こそ旧高徳衡機の諸設備と人材であったが、製造許可が取れず困っていたとのこと。
西山弥太郎社長は若い頃に、祖父の高徳純教をよく知っていたらしい。
採用が決まった後、重役に同伴して通産省に赴いたところ、「高徳さん、貴方がやるのですか」と言われて即座に許可された、と父が自慢顔で語ったのを覚えている。現代のように書類だ、審査だというのではなく、何よりも人と人の信用がものをいった時代であったのだろう。民も官も揃って迎えてくれた形となった計量界に、当時の父は大変誇りを感じていたようでもあった。
父が口にした「天職」
人生には思いも寄らぬ偶然のことが、後から考えてみると必然のように思えることがある。
今振り返ってみると、父はこの頃を境にして「天職」という言葉をたびたび口にするようになった気がしている。
また、いつの時代に造ったのか知らないが、我が家の玄関には、鎌倉彫のごとき大皿に「神の導きを信ずる」とあった。 父の後半の人生が、思いも寄らない形で前半のそれに続いて行ったことが、彼をしてそうさせたのであろう。
西宮の社宅へ
当時、もう一つ我が家の全員が喜んだことは、丹波の田舎を出て都会の神戸に帰れることであった。
疎開後、田舎に長くい過ぎて街に帰る目途も立たないままでは、我々子供の将来も思いやられるところであった。こんな環境が父をまた喜ばせたのであろう。
一方、父は経営者であった生涯の前半に比べ、後半は雇用される側に廻ったのだが、この事を全く気にも留めず、却って金の心配が要らぬことを喜んでいたくらいであった。
戦後の住宅難の頃であったので、父は差し当たって須磨にある独身寮に入り、丹波からの大所帯が入れる社宅が空くのを待っていた。私が中学生の時である。一家全員が入れる社宅が、西宮に与えられたのはそれから間もなくであった。私は、京都府立福知山高校入学後の3学期に、編入試験を受けて兵庫県立西宮高校に転校した。私にとっても未来が開けてきた感じであった。
2年生は化学
上は実験室
上は化学部活動中の筆者
3歳年上の長兄は、化学が好きだった。丹波では、自宅の一室を実験室と称して薬品を沢山並べていた。私もそこに忍び込んで、爆薬や発炎剤を作った覚えがある。兄は高校でも化学部に入り仲間達と騒いでいた。化学とはそんなに人気があるものなのか、と他人事ながらも感じていた。
この頃、兄貴との間に「化学とは新しい物を生み出す技術であり、これこそが人の生活を豊かにするものだ。これに引き換え、物理は物の理論であって、そんなものをいじっていても新しいものは何もできてこない」という議論があったように憶えている。
そんな雰囲気に引きこまれたのか、私も高2になれば化学をやろうと心に決めていたので、西宮に転校して間もなく「化学部」に入った。
ところが、部員は私ただ一人であったので、先生から、金属イオンの定性分析をテーマに実験を始めることへの了解を得て、試薬造りから始めた。高1の3学期に丹波の山奥から転校して来たので、学校では田舎弁の差別があり、中学生時代の友達はなし、誇るは少しばかりの化学知識のみであった。
放課後、白衣に着替えて、実験室の片隅で試薬を計り、メスシリンダーで読み取った蒸留水をフラスコに入れ、試薬を溶解させて0.5規定の溶液を作り、ラベルを貼って戸棚に並べる。こんな作業もやっていると面白いもので、確かに熱中したのであった。周期律表にも驚いた。「最外殻の電子の数か!なるほど、なるほど!」と。
3年生は物理
3年生になると、理科は物理になった。この物理の先生が、明るく愉快な先生で人気が高く「物理部」には、多くの生徒が集まっていた。
私も、化学部での定性分析もほぼ完了していたので、そちらに移ることにした。一人よりも大勢の方が楽しかったからである。
田舎からの転校生であったために言葉や仕草に出てくる「いなかっぺ」への差別もなくなり、打ち解けてきた心安さも手伝ったと思われる。
このように、理系の化学・物理は遊びのうちに何となく近づいていったし、数学もそれに連れられて興味も湧き得意科目となったが、国語・英語は何としても好きになれなかった。幼い頃より話すのが苦手な上に読むのも苦手、国語ができなければ英語ができるわけがない。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その10- 父のはかり屋への復帰
私は京都府立福知山高校入学後の3学期に編入試験を受けて兵庫県立西宮高校に転校した