私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その9- 田畑を耕し薪採りをした中学時代
高校1年生になる1952年までの10年疎開地に居着くことに 1949年に湯川博士のノーベル物理学賞
中学時代は受難の日々
田の草取りで文明の差を感じた
私たちは疎開でこの丹波に行ったのであるが、戦時中の「中小企業は大企業に統合すべし」との国策に従い、会社を川崎重工に引き取ってもらって家族全員で移ったので、終戦になっても父は神戸には帰るところもない、職もないことになったようだった。
したがって我々は、私が高校1年生になる1952(昭和27)年まで、約10年間疎開地に居着いてしまったのである。
後で聞いた父の言によると、疎開した当初は、10年程は優に食べられる蓄えがあったが、戦後の銀行封鎖とインフレでどうにもならなくなったらしい。一家大受難の日々の始まりである。
父も村の方々と色々な事業を試みていたが、「はかり」とは違い、実らなかった。そこで「芸は身を助ける」と言われる如く、父がバイオリンを教えたり、母はお琴やお花を教えたりしていた。私や兄貴は、もっぱら田や畑を耕すのを手伝った。山に薪を取りにも行った。鶏やうさぎの世話は主担当が私で、妹や弟には手伝いをさせたが、頼りなくて、とてもまかせっきりではいられなかった。部屋の掃除は、姉をはじめ妹たち。
暑い夏の日、お湯のようになっている田んぼに入り、草取りをする。稲の葉先が目を突くので網の面を着けて、である。かのアメリカではトラクターというものがあり、種まきから刈り取りまで全て機械がやるという。雑誌で見たアメリカの車のかっこよさ、そしてテレビジョンもあるようだ! 文明の差をつくづくと感じさせられたものであった。
自分は大きくなったら機械や文明の利器を作るのだと、子供心にも誓ったものだ。幸い空襲は体験しなかったが、戦後の田舎で、きつい田畑の仕事の合間に見せつけられたアメリカ文明が、私に大きな影響を与えたといえよう。
働く為に食う
ある日、父が私たち子供に「人間は食う為に働くのか、働く為に食うのか」と聞いたことがあった。兄と姉はすかさず「食べる為だ」と返事をした。次男坊である私は暫し考えて(私は生来返事が早い方ではない)「働く為に食う」と返事をして褒められたことがある。確かに食うだけでは、牛馬と一緒だと考えたからである。
人間は「何か為すべきこと」があってその為に生きているから、食べなければならないのだろう。もちろん小学校4、5年の頃の私であるから「人の為」とか「平和の為」とかいった言葉は出てこなかったが、解らないながらも何かの為だと言ってその場を取り繕った記憶が残っている。
ものがあれば豊かになれる
「為すべきこと」の為に生きている、という漠然とした思いが次第にハッキリとしてきたのが、中学校1年の時であった。
きっかけとなったのは、1949(昭和24)年に湯川博士がノーベル物理学賞を取ったこと(これは私に「日本人も結構優秀なのだ」との印象を与えたに過ぎないが)。
身近な出来事としては、浜松高専出身の機械屋さんが、こともあろうにこの田舎に英語の先生として赴任し、私のクラス担任になったことが大きい。
やはり物不足の頃だけあって、心に期したのは「物を生み出す機械こそが大切だから、『エンジニア』になろう」ということであった。この英語の先生に胸の内を打ち明けて相談し、大いに賛同を得て嬉しかった。
当時の私の考えでは、新聞・ラジオを賑わしている殺人や強盗、詐欺事件も全て「食うや食わん」がもとになって、正義が歪められると簡単に考えていたからである。食べる物や着る物、それを造る機械や工場、これらがあれば人間は幸せになれるのだと思っていた。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その9- 田畑を耕し薪採りをした中学時代
高校1年生になる1952年までの10年疎開地に居着くことに 1949年に湯川博士のノーベル物理学賞