旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 番外編bR 小舟とポルシェと青空と白い雲、何気ない風景の背後にあるのは10メートルの大津波(3月26日に撮影)
(副題)日本国を脳溢血と心筋梗塞が同時に襲ったとたとえることができる東日本大震災
< ホームへ>エッセーの部屋
写真(下)は小舟とポルシェと青空と白い雲の何気ない風景
 
【写真説明】

 何も考えずにこの写真を見ればのどかな風景である。小舟とポルシェと青空と白い雲。何気ない風景のその背後にあるのは大津波。これは三陸地方のある町の公共施設の2階の屋根に出現した風景の一こま。押し寄せた10メートルほどになる津波によってポルシェが屋根に運ばれた。屋根にはもう一台車が駐車しているように乗っていて、1階と2階の窓には何台もの車が網に引っかかったように突っ込んでいた。

 ここで働く人の献身的活動がNHKテレビで報道されていて、その人は施設に取り残された人を避難させる活動をしているうちに波にさらわれて行方不明になった。子どもがいて奥さんがいて親がいる人であった。その親は息子は信念の人間だったとテレビカメラに向かってうなるように話した。この施設の前面には防波堤は築かれていなかったが、その30メートルほど先の防波堤は押し寄せた津波によってひっくり返された。砂の上に台形状の土台を築いて建てられたその堤防は津波の力に太刀打ちできなかった。

 倒れた堤防を見て感ずることは何であろうか。人が自然に対して力で立ち向かうことの意味とその限界である。堤防という力で対応するのか、津波の押し寄せないところに施設をつくりあるいは住むのか。そこに海があり魚がいる、そして海辺の平地は人が家を建てるのに便利である。

 縄文時代の竪穴式住居と質素な暮らしであれば、津波被害からの立ち上がりも容易である。裕福な暮らしのための家や設備そして暮らしのためのシステムができている現代の生活と文化の在り方の是非を問いたくなる。この施設を運営するこの町の中心市街地は津波と同時に発生した火事によって朽ちてしまった。

 3月は大きな災害が襲う月になってしまった。かつての三陸大津波が3月であったし、東京大空襲は3月10日であった。写真のような状態を引きおこした東日本大災害を引きおこした地震と津波と火事は3月11日に発生した。自然恐るべしであり、縄文時代の埴輪などは自然への恐怖、憧憬とあわせて、人への賛美が同居している。そうでなければ尖石遺跡から縄文のビーナスがでてくるわけがない。(写真は3月26日撮影。)
 
 
 
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 番外編 bR 小舟とポルシェと青空と白い雲、何気ない風景の背後にあるのは10メートルの大津波(写真は3月26日撮影)


一線を引いてその内と外で状況が極端に分かれるのが津波被害である

 東日本大震災という表現があるが、この震災で大きな痛手を受けたのは岩手県、宮城県、福島県などの三陸沿岸、太平洋沿岸である。その被災地でもたとえば宮古市、釜石市などはJR宮古駅そしてJR釜石駅を境にしてその海辺方面と内陸方面では様子がまったくことなる。海辺方面のとくに岸壁に近いところは津波で大きく打ちのめされた。内陸側は平穏そのものであり、「津波はどこに来たのか」というほどの風景である。宮古市から2時間奥にはいった県庁所在地の盛岡市は何もなかったかのようであり、釜石市から1時間の遠野市もそうであり、2時間行った花巻市、北上市は盛岡市と同じである。いわき市では被災者が遠くからの支援ボランティアに感動して感謝の言葉を述べる一方で、被災していない同じいわき市の内陸部の人に対して、何もしてくれないと恨み言を発して涙した。一線を引いてその内と外で状況が極端に分かれるのが津波被害である。被災者の窮状と無念を思うとどのような言葉もでない。何か着飾った言葉を返したり投ずる人は偽善者である。


宮城県の女川町(おながわちよう)、南三陸町、岩手県の陸前高田市、大槌町、山田町などの中心市街地は津波(大槌町、山田町は津波に伴う火事によって)によって壊滅した

 三陸地方の産業の基礎は漁業である。リアス式の入り組んだ海岸線は荒波を防ぎその岩礁は魚介類を豊かに育む。2011年3月11日午後2時46分に宮城県沖を震源とするマグニチュード9の巨大地震はユーラシアプレートが広範囲にそして大きく跳ね上がったことによって東日本各地で震度6強の地震を発生させ、同時に三陸地方に10メートルを超える津波をおこした。東北地方の太平洋側の海岸線の市街地は押し寄せた津波と同時に発生した火災によって大きな被害を受け、宮城県の女川町(おながわちょう)、南三陸町、岩手県の陸前高田市、大槌町、山田町などの中心市街地は津波(大槌町、山田町は津波に伴う火事によって)によって壊滅した。青森県の八戸市以南の海岸線から茨城県北部の海岸線の町には大きな被害がでた。千葉県でも津波被害がでたほか、千葉県浦安市は埋め立て地の上に町や工場が建設されているが地震による液状化現象による被害は大きい。つくば市の産業技術総合研究所の精密機械などの一部設に被害が出ており、研究体制や検査などの業務が滞ることになる。


トラックスケールが浮き、下にホークリフトが潜り込んだ

 3月11日午後2時46分に発生した大津波は三陸海岸が岸に向かってV字構造になっている場所では水かさはふくれあがり条件によっては20メートルに達する。牡鹿半島の付け根にある女川町(人口は訳1万人)は岸辺から200メートルほどのところに住居などの施設が広がっている。町役場は3階建ての鉄筋コンクリートビルで女川港の岸辺から200メートルほど標高5メートル以下のところにあり、押し寄せた津波は町役場の3階を超えて屋上の別の施設の上部にまで及んだ。横並びながら少し低いところにある仙石線女川駅に隣接した鉄筋コンクリートビルの施設は4階まで水がきた。津波はこの二つの建築物の上部にある民家を押し潰しており、町の中心地の施設は壊滅状態となった。港に面した奥行きのない平べったい3階建てのホテルはその3階部分まで津波で打ち砕かれ右に傾ぐ状態になった。港の真ん中に建てられた大きな正方形型の3階建てビルは外形はそのままの形で残った。女川町の魚市場に隣接して建設されたトラックスケールによる検量施設ではトラックスケールの筐体(きょうたい)の下にホークリフト2台が潜り込んでいた。筐体は表示計と演算装置が設置された建物に食い止めれて流されるのを免れた。女川港に押し寄せた津波は岸辺にある3階建てのビルを越える水かさであることが明らかであり、低地に立地した一般家屋は全てが打ち壊された。


石ノ森漫画館の向こう岸のハカリ屋の付近にハカリが散らばった

 仙台以北の三陸海岸沿いの都市として八戸市(人口24万人ほど)に次ぐ規模の石巻市(人口訳16万人)は北上川の河口部に拓けており仙石線石巻駅周辺は海抜0.9メートルのゼロメートル地帯であるために商店街が浸水した。石巻駅から東に1キロメートルほど、旧北上川の中州に建てられた石巻市のシンボルの銀色のドームの石ノ森漫画館はそのままの姿で残されていた。展示資料が水に浸かったことは間違いないが復興に動くものと思われる。この東側の岸辺の湊町1丁目のハカリ販売店付近には壊れた数台のハカリと分銅、おもりが泥にまみれて転がっていた。バネを用いた上皿式の自動ハカリは波にもまれ打ちひしがれて平べったくなっていて茶色にさびた文字盤に赤い指針が健気にへばり付いていた。同じ場所に電力量計がぽろりと落ちていて、水道メーターを埋めた箱の蓋がめくれていた。この地帯の住宅や商店そしてガソリンスタンドは1階部分が浸水。ガソリンスタンドの床に置かれたメーターは水に浸かって機能停止。4月2日朝には地下のタンクから手動でガソリンを組み上げてポリタンクの目盛りで容積を計って販売していた。被災のあとで人と企業が行動するときに自動車が駆り出される。その自動車には燃料が要る。それがガソリンであるために災害復興のための重大要素としてガソリンの供給が求められる。石巻駅から2キロメートルほど西側に立地した平地にあるガソリンスタンドには給油待ちの自家用車が列をなしていた。隣の福島市内では4月2日にも夜を徹して給油待ちをする自家用車があり、福島県四倉町では練炭を燃やして待っている間に老人が炭酸ガス中毒死した。


駅を境に平穏な市街地と壊滅した市街地が出現した

 釜石市に住む鮎釣り選手権で幾つもの栄冠に輝いた鈴子揚一氏が釣り人社社長の鈴木康友氏と4月2日の地元ラジオで対談していて、JR釜石駅の甲子川の岸辺近くで接骨院を営む鈴子氏の隣の家が浸水被害を受けた。鈴子氏の接骨院が無傷あったことに関連して、「震災で家も家族も失った人がいて、同じ地域で家も無事で震災以前と何も変わらない人がいるこという事実に大いに戸惑う」と述べていた。釜石市は駅の内陸側は無傷であり震災以前と何も変わっていない。釜石市は海岸付近の被災状況はひどい。釜石駅から海辺に下ると商店街が連なるがここは1階に浸水しているものの家並みはそのまま残っている。大きく被災したのはその先である。海辺に大きなビルを建てて業務をしている釜石警察署には3階部分まで波に洗われた。釜石市の海辺の小さな村落の両石地区は高台にある小さな家1軒を除いて全てが津波に飲まれた。鵜住居地区も国道45号線沿いの家も施設も壊滅した。ところあが釜石市の内陸に位置する遠野市は何も変わっていない。ガソリンの給油待ちの車の列が震災の影響を示すだけである。宮古市もJR宮古駅を境に海側と内陸側ではまったく違う。海辺に近い市街地は壊滅状態である。宮古市に合併した旧田老町の市街地の損害のひどさは際だっている。宮古市から内陸部に車で2時間走ると盛岡市で岩手県庁がある。その盛岡市も何も変わっていない。被災地の苦しさとは無縁である。そして3月11日以前のままの暮らしがつづいている。人々の意識も基本的に変わっていない。


わが家は残っても弟2人が死んで生き地獄の心もよう

 岩手県の大槌町と山田町は津波と連動する火災によって中心市街地が焼けてしまった。ここでも被災した家とそれを免れた人とで3月11日を境に明暗が分かれる。鈴子揚一氏は間一髪で難を免れたが、同氏が釣り船で遊ぶ山田町のある人は逆の立場になった。線路の土盛りに沿って走った波が高台にある県立山田病院の1階に浸水したところで、線路を乗り越えて下ってきたのである。30台ほどの駐車場に隣接した家屋は上から押し寄せた水の勢いにおされて5メートルほど移動して道路を塞いだ。この家を境にして明と暗が分かれた。この家より山側にある家屋は大きな被害を受けずに済んだ。電気店などは残って営業している。海岸に近い国道45号線沿いにある電気店などの店舗はすべて津波と火災によって打ち壊された。同じ電気店でも立地の差で幸不幸が分かれる。浸水の難を逃れた幸運な人であってもある人は二人の弟が津波にさらわれて行方不明であり、この人は苦労して育てた孫がその前年の同日に突然死していいる。地元で公務員生活を始めようという矢先のことであった。わが身だけは難を免れても幾つもの不幸が襲いかかっていて地獄の心もようである。幸不幸の境界線となって道路に押し出された不運な家は問答無用にしてたちまちのうちに解体され、その敷地には解体作業をした重機械が夜には駐車し、駐車場は焼け落ちた家や解体した家と土砂の集積場となった。


日本という国(人)に脳溢血と心筋梗塞が同時発生したのと同じ

 海と山とは川を通じてつながっている。海辺の漁業と内陸部などの農業もつながっている。商業地は漁業と農業を結びつけることによって成り立つ。三陸地方はあまり知られていないが工業が発達するようになった。仙台市の海側にも工業が立地し、石巻市は市街地の先の埋め立て地に工場が建ち並ぶ。八戸市は立派な工業都市である。溶鉱炉がなくなって人口が4万人ほどに減ってしまった釜石市は技術者魂に満ちていて周辺の町にも文化的影響を及ぼしている。東北と関東に発生した地震災害は人にたとえると脳溢血と心筋梗塞に一緒に罹患したようなものである。これを放っておいて治療をしなければ人は半身不随になるどころか死に至る。
 東北関東大震災によって日本の国はそのような状態に陥ったといってよい。トヨタの自動車生産が1カ月止まり、米国の自動車会社も操業を止めたことがそれを物語る。そのような考えが極論で的を得ていないのならそれに越したことはないが、地震発生と連動して重大事故を引きおこしている東京電力福島第1発電所の事態の進行と重ね合わせると大げさではない。脳溢血と心筋梗塞は放っておくことができないのだから、東北関東大震災による被災からの復興は国家あげての事業として取り組むことが求められる。そのために何ができて何をしなければならないかである。


緊急非常事態対応は救済、救援、復旧、復興、振興の5段階で

 震災にともなう悲嘆を希望に変えていく復興策が求められる。阪神淡路大震災の経験とその対応で力を発揮した堺屋太一氏は、緊急非常事態への対応として、救済、救援、復旧、復興、振興の5段階があると述べている。復興、振興にあたっては多数ある漁港に加えて貿易港をつくるくらいの発想が必要だと述べている。津波対策をするということでは津波で浸水する海抜(標高)の低い地域は自然公園などにして、山を削って住宅地を造成してそこに住むことができればいい。港湾施設は津波を受け流すかそれに耐える構造を模索する。住まいのための電力は様々な方式による自家発電にすることも考えられる。若者や外国人を呼ぶ込むための文化政策の推進などソフトウエアの開発も求められる。政府や財界が共同して東北地方に地震にも津波にも火災にも強い無災害・無公害な工業都市を建設する構想をつくることは日本の再発展に結び付く。


自らの稼ぎによって生きて行かなくてはならない人に生きる術を供与する支援

 北方領土を取り戻すために用いなければならないと予想される多額の費用を東北地方沿岸部の復興(東日本の沿岸部を含む)のために回すことなどを考えたらいい。東北関東大震災は人にたとえれば重度の脳溢血と心筋梗塞が同時におこったようなものである。東北を見捨てれば日本の命を捨てるようなものである。同時におきた脳溢血と心筋梗塞とその後遺症を治すための治療をすることが健全な日本をつくりあげる条件になる。人口が減ることになる自治体の収入は自然減を余儀なくされる。家を失って、職場を失った人々は収入を得る術をなくしている。年金世代であれば何とかなっても、自らの稼ぎによって生きて行かなくてはならない人に生きる術を供与しなくてはならない。自助による復旧、復興には限界がある。振興策は夢につながる。その復興から振興につながる方策を練って夢をもって生きていくことが望まれる。この課題は東北地方の人々だけではなく日本人全体の課題である。生き甲斐があって楽しくそして美しい日本をつくるために。


国道45号線と市街地の公道のほとんどが復旧した

 4月2日現在、復旧の動きは急である。自衛隊の災害出動は有効に機能している。隊員の若く肉体とたくましい精神は道路を塞いだ残骸物を急速に取り除いている。三陸沿岸を縦断する国道45号線は4月26日にはすべて開通しており、その道路に沿って送電用の電柱が建てられて送電線が張られている。東北道を電柱を積んで走る車の数は多い。送電線と併行して電話用の回線が架設されることになる。電気、ガス、水道といった生活基盤の復旧も全国の業者が動員されて急速に進めれている。火災によって町の中心部が焼けてしまった釜石市鵜住居地区、大槌町、山田町の道路は国道45号線が復旧したほか、町の公道のほとんどが復旧している。自衛隊や地方公共団体その他の行動は十分ではないまでも予想を超えてたくましく、復旧作業は目を見張るほどに早い。鍵を握るのは政府の政策であり、復興、振興のための知恵をだすことであり、それは希望につながる。山田町の中心部は火災で消滅した。役場から少し下がった場所で生まれ育って東北地方の大学の医学部を卒業して、県立病院の医院長をしている人の生まれ家は焼けてしまったが、院長の執務のなかから被災地支援のたまの私的な時間を無理矢理とってこの地の緊急医療に当たっている。災害にあっているなだでも少しはましな立場の人が、困難を抱えている人の支援にあたるという崇高な行動は、被災地の復興を後押しする。人は人によって支えれてている。被災しても前を向いて歩こうとする人の姿とそれを様々な方法で支える人の連携は勇気を与え復興と振興のための足がかりとり助走ともなる。挫けない、そして人に志があれば元気に生きていくことができる。


子どもたちが輝くことによって被災地は復興と繁栄に向けて希望を取り戻す

 復興は学校から始まる。小学生がすることは遊ぶことと学ぶことである。これが小学生の生活であり、中学生、高校生も変わらない。津波に打ち砕かれた町の活気と復興は学校から始まる。子どもには学ぶ権利があり、子どもの教育権を補償し、人の生存権を真剣に補償することから東北関東大震災(東日本大震災)の復旧と復興が始まる。偏った被災報道の反乱によって壊滅した印象を与える石巻市も釜石市も宮古市もその町の半分かそれ以上は無傷で残っている。学校も残っている。教員も残っている。住民もちゃんと残っている。子どもは元気である。子どもは地域で育むものである。地域抜きに地域文化抜きに子どもの教育はない。子どもには被災によって失った財産の負債はない。自分がよりよく生きること、育った地域が反映すること、地域に誇りを持つこと、そして日本に誇りを持つことが、子どもに与えられた権利であり、国と地域と住民はこれを大事にし補償しなければならない。子どもにあるのは生きるための希望でもあり、未来でもある。津波による被災の残土を取り除いたあとには間を置かずに送電のための電柱が建てられている。街が打ち砕かれて闇になっていた夜に電灯の明かりが少しずつつき始めている。明かりは希望とつながる。子どもたちの遊ぶ姿と明るい声は、その子どもたちが未来に向けて輝く前触れであり、そうした子どもたちの姿は被災地からの復興と繁栄を示す何ものでもない。被災地の大人は挫けない。挫けないためにも夢をもち勇気をもって前に進め。

(この文書作成のために現地確認したのは2011年4月2日現在)

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) (書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)
|←ホームへ|

自然からのメッセージ (自然から感じることの日記 1月から12カ月までの1年分) (執筆 甲斐鐵太郎ほか)

1月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
2月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか
3月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
4月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
5月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
6月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
7月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
8月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
9月  自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
10月 自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
11月 自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)
12月 自然からのメッセージ(自然から感じることの日記)(執筆 甲斐鐵太郎ほか)

「エッセー」の項目へ
 
 
エッセーの部屋
 

<topへ> < ホームへ>

 


         [ ホーム ]