私の履歴書 蓑輪善藏-その10-
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私の履歴書 蓑輪善藏-その10-日本計量士会での仕事
写真は蓑輪善藏氏
私の履歴書 蓑輪善藏-その10-日本計量士会での仕事
計量士会専務理事に
1979年(昭和54年)12月17日漸く退職することになりました。この日は午前本省で辞令を貰い、計量課に顔を出し、教習所に取って返して、研修所と教習所合同の送別会に出席しました。翌18日から(社)日本計量士会に勤め始めました。
計量士会では歓迎会を、東京近郊の環境計量教習修了者の方々には退任の宴を開いて頂きました。また何故か、前計量課長だった秋山収さん、小泉袈裟勝さん、本宮大介さん、佐藤次郎さんと歓迎会ともつかぬ宴がありました。
この頃の計量会館には、(社)日本計量協会に堀忠良さん、佐藤次郎さん、(社)計量管理協会に松代正三さん、昇和美さん、(社)日本計量機器工業連合会に村田瑛一郎さん、小泉袈裟勝さん、日本試験機工業会に管野勝さん、東日本ガラス製温度計工業組合に石本義二郎さんなどの方々が居られました。
しばらく後のことですが外野から聞こえてくる噂には、計量協会、計量管理協会、計量士会の専務理事、計工連の常務理事が計量研OBとなり、計量会館は計量研に乗っ取られたなどというものもありました。
健全経営の筈が
私が日計士会に移る前本宮さんは、計量士会は「経理上は問題なく、健全経営である。長野計器との関係は清算し、職員の出向も無くしたし、大きな問題は特にない」とのことでした。
しかし職員は、本宮専務理事、経理担当の内藤文子さん、会員管理と材料試験機の成績書を担当する高橋博司さん、力計の検査を担当する村岡俊昭さん、材料試験機の検査と、地方で行っている材料試験機観測紙のチェックを担当している石丸努さん、それに非常勤で温度計、汚染水銀の検査を担当している大先輩の高橋凱さんでした。村岡さんはこの年の9月に計量教習所を修了して勤め始めた人で、この程度のスタッフで事務がよく処理できたものと思いました。
当時の計量士会のようす
私の出勤は12月も半ば過ぎからのことで、この年は挨拶と整理で暮れてしまいました。1980年になり間もなく、計量士会の副会長高萩浅吉氏が亡くなり、贈位の手続きがありましたが、本宮さんはもう帰心矢の如くなのでしょうか、やる気がなくなっているように見えました。
専務理事の仕事も止むを得ないものだけで、後は私の肩にかかってしまいました。私は高萩さんの贈位の手続き、会員のための情報紙の原稿作り、計量教習所時代から続く各種委員会関係の仕事もあり、忙しい日々が帰ってきました。
昭和55年度の事業に初めて「計量士の実態調査」という(財)機械振興協会経済研究所からの委託事業が決定したのも2月のことでした。2月には計量百年史の完成祝賀会、溝呂木金太郎氏の祝賀会、そして計量士会の事業運営委員会、検査事業委員会と理事会がありました。全国から集まった理事は、私より20歳も年上の人をはじめとする都道府県計量検定所OBが大多数を占めていました。
会長は溝呂木金太郎さんで、この時にはもう不自由な身体になっていました。副会長は東京都出身の原善造さんと広島県出身の藤田武夫さん。大阪府出身の高萩浅吉さんは1月に亡くなり1人欠員でした。理事会の運営は、2人の副会長と本宮専務理事、それに豊橋の鈴木敏夫さんで仕切っていたようでした。議長は藤田さんが努め、来年度の事業計画の前文は鈴木さんが作っていました。理事会が終ると今度は総会のための準備に入りました。そのために先ず、今年度経理の決算をしなければなりません。1人で受け持っていた内藤さんは、毎日残業しては伝票を書き、本宮さんの判を貰っていました。
計量士登録事務
当時は計量課OBの大橋一郎さんが計量士会に席を置き、国の業務である一般計量士登録の作業をここ計量士会で行っていました。これには後の話があって、大橋さんが亡くなった後もこの作業が続いていて、計量士会では松枝さんを臨時職員として雇用、この作業を続けていました。
そのためですか計量法制定後の計量士資格認定の資料、計量士登録の正本、副本ともに計量士会に保管されていました。しかし、このことは若し事故でもあって、これらの資料が紛失したらとんでもない事になります。数年後ですが計量課長に話し、計量士登録の正本を計量課に移し、その後この事務は総て計量行政室に移りました。
共済からのお土産
通産省を退職した時、共済組合から記念品として旅行券が支給されましたので、伊勢志摩への旅行を計画し、家内と2人、私としては始めて伊勢神宮参拝を果たし、賢島で2泊しましたが、食べ物に飽きたのか、退屈だったのか昼食にラーメンを食べに行った事もありました。このとき三重県の松本克一さんにお世話になりました。家内と2人での旅行はこれが二度目でした。
「交代の話は聞いていない」
5月28日に開催されたマツヤサロンでの総会は、溝呂木さんも出席していましたが、議長は藤田さんだったように思います。専務理事が本宮さんから私に代わることになっていましたが、ここで、ハプニングが起きました。
溝呂木さんが、専務理事の交代を聞いていないし、承認できないと言い出したことです。困ったのは副会長と専務理事、既に4月に長野計器に行き、その了解は取れていたのですが、記憶に残っていなかったのでしょう。その時のことは余り記憶にないのですが、原さんの話ですと、私は帰ると言ったらしい、私はそんな事を言ったとは思っていませんでした。副会長や専務理事の説得でなんとか納まりましたが、溝呂木さんのお守りも大変だとの印象でした。
この総会で、会長溝呂木金太郎氏、副会長原善造氏、吉藤忠次郎氏、藤田武夫氏、専務理事蓑輪善蔵となりました。
計量士実態調査
計量士会にきて最初の事業が、委託費での「計量士の実態調査」。一般計量士と環境計量士を含めてのことでしたので、(社)日本環境測定分析協会に環境計量士を分担して貰い、調査を実施しました。委託費は最初600万円でとの話が、最後は200万円になり葉書による調査になってしまいました。
このときの計量課の担当は、後に計量士会の専務理事を務めた監理班長伊藤政一さんです。この調査は渡辺修一計量教習所長を委員長とする委員会を組織して実施し、計量研OBの黒田さん、松本さんのご婦人2人にアルバイトをお願いし集計などをして貰いました。
夜打ち朝駆け
6月12日に中部7県計量管理協議会が能登の和倉で、翌13日には関東甲信越地区計量協会協議会が越後湯沢で行われ、計量士会から私がこの2つの会議に出席させられましたが、どちらか一方は本宮さんが出席してもよかった筈、随分ひどい話とは思いました。と言うのも12日の会議の後、翌日の朝早く発ち漸く協会の会議に間に合うスケジュールだったのでした。さらに7月3日の東北北海道計量大会に出席、8日には石川県山中温泉での理事会と、忙しい事でした。
バイメタル温度計問題
北海道の消費者協会から、百貨店に並んでいる湿度計の示度が極めて不揃いであることを指摘された計量課は、その対策として、いわゆる一般家庭で使用されている湿度計の、品質向上を図るため委員会による検討を行う事とし、バイメタル式と称する湿度計は、団体は金属製温度計工業組合が適当として、湿度計メーカーに金属製温度計工業組合に加入してもらい、この組合を事務局として委員会の運営を行いました。
計量課の担当は小杉さんと野村さんで、委員会は電総研OBの加納さんとメーカーそれに計量研と私が加わりました。最終的に計量士会に補助金による検査装置を作り、標準を統一することからはじめ、抽出による検査を実施することになりました。湿度測定は難しく、専門家の必要に迫られ、当時計量研で湿度標準の研究に従事していた田中良行さんに、無理を言って1982年計量士会に来ていただきました。実際の検査はそれ以後に始まりました。
計量旺美会のお世話
1968年に東京の小川直久さん、広島の藤田武夫さんなどが中心になって作った都道府県計量検定所長OBで組織された計量旺美会があります。広島県の藤田さんが会長で、本宮さんが幹事で事務局を担当していました。会員は、検定所長に加えて会員2名以上の推薦による者で、このころ計量研OBでは小泉さんのみが会員として参加していました。
この年、計量旺美会の総会が島根県松江で行われ、私も入会させられ本宮さんと同行しました。参加者の多くが計量士会の役員、会員で、しかも永年計量行政に従事していた大先輩ばかり、その時はただ話を聞くだけでした。しかしその時の旺美会総会は、新会長を小泉さんに、幹事を私にすることが根回しされていて、一言の相談も無く突然と決定されてしまいました。以後、総会、旅行の計画、会員の管理は私の責任になってしまいました。
それまで藤田さんが担当していた会計と本宮さん担当の旅行計画を引き継ぎ、長い間幹事を務めることになりました。本宮さんは下見をして旅行計画を立てていましたが、とてもそんな時間は取れませんので、奈良部さんの紹介で銀座松屋内に事務所を持っていた土佐電トラベルの金子静子さんに旅行計画の原案を作って頂き、添乗員としての世話も頼みました。
この旅行ははじめの頃は1泊だけでしたが、交通費なども考え、2泊を原則に今も会員約130名程で年1回の総会旅行をしています。計量関係に永年携わっていた方々と数人のご夫人が旅行に参加していますので話が弾んでいるようです。旺美会の旅行だけでも既に日本全国40ヶ所以上になっています。この会なども計量士会運営には随分役立っていたと思います。
関口幸雄さんの出向
専務理事になり2~3ヶ月程たつと、長野計器の箕浦務さんや戸谷幸一さんなどの説得と本宮さんを悪者にすることによって、溝呂木さんも総会で揉めたことなど忘れ私を信用してくれるようになりました。
計量士会にきて僅か6ヶ月ほどの期間でしたが、事務局体制の不備が目に付き、その強化が早急の課題と見ました。しかしこの時の計量士会では経理上の手当てが出来ませんので9月に入ると溝呂木会長を訪ね、庶務と経理の分る人の出向をお願いしましたところ、その場で、突然と関口幸雄さんが呼ばれ、計量士会への出向を決められた即決には、私も驚いたものでした。
計量士会での経理は闇の中のようで最初の建て直しが必要と考えました。元中央度量衡検定所の職員で小泉さんと付き合いのあった内藤さん1人が経理担当で、すべての出納を処理していました。溝呂木会長は叙勲に対する希望が極度に強く、通産省への働きかけを理由に、資金が不足すれば本宮さんが溝呂木会長にお願いして充足していたようで、お貸し下されが随分あったようでした。叙勲の結果が得られたことも本宮さん退任の理由の一つだったのでしょう。これから関口さんによる庶務、経理の組織化が始まることになります。
『計量ジャーナル』の創刊
この秋のことだったように思いますが、長野計器の溝呂木会長を訪ね、これからの計量士会についての計画を話し、了解を得るとともに、会員に対する情報の提供のため情報委員会、検査事業部内に計量機器検査のためのマニュアル作成委員会を立ち上げる事と、さらに社団法人に定期刊行物がないのは会員に対するサービス不足として、来年度から年4回の定期刊行物を情報委員会の仕事とし、溝呂木会長に1年間だけその費用を負担して貰う事にしました。この定期刊行物が『計量ジャーナル』として定着したのは歴代編集委員の努力と会員の協力の賜物と思っています。
米国・カナダ調査旅行
11月に通産省貿易局長から技術的貿易障害対策に関する調査員を依頼され、計工連の高田英男さんと11月末から12日間程アメリカとカナダを回りました。上智大を卒業している高田さんにすべての計画とアポイントメントをお願いし、話なども心強い味方で、ほとんどを高田さんに頼り、目的であったガスメーター、水道メーターの現状、特に規制状況を調査し無事帰ることが出来ました。
この時最初に訪問したNBSには計量研から留学していた増井良平さんが居り湿度の研究室などを案内してもらいました。この後、ニューヨークからカナダに渡りトロントからサンフランシスコを経て帰ってきました。
白石良平さん
昭和56年になると情報委員会は『計量ジャーナル』の編集委員会に様変わりし、4月の第1号発刊に向けての準備になっていました。この時の編集委員は石田三郎さん、和田武雄さん、中山敏雄さん達が主でした。
長野計器から白石良平さんの身柄を預かることになりましたが、白石さんとは計量研時代からお付き合いがありましたし、白石さんの知識が豊富でしたので、『計量ジャーナル』、マニュアル委員会の事務や計量旺美会の世話などの仕事をして頂きました。
『計量ジャーナル』は昭和56年4月に記念すべき第1号を発行することが出来ました。
この年の総会は藤田さんを議長に財政基盤の確立のため、57年度からB会員、準会員の会費を4000円から6000円にする事を決定しました。久永忠義さんを支部長とする鹿児島県支部が誕生し、お祝いに既に宮崎県西都市に帰っていた本宮さんに出席してもらいました。
ガスメーター分科会長
ガスメーターについての委員会が既に開かれていた様にも思いますが、計量行政審議会の検定検査部会に小泉さんを長にした大型はかり分科会、和田功さんを長にしたガソリン量器分科会、盛田清隆さんを長にした水道メーター分科会などが発足し、検定検査の再検討が行われました。
この時私はガスメーター分科会長になりましたが、計量課からの話では、ガスメーターは問題が無く簡単に審議が進む、とのことでした。ところがガスメーターの有効期間延長問題が浮上、簡単どころかガスメーターの製作者、使用者間の思惑等もあり結構気を使ったものでした。ほかの分科会は手際よく早い時期に結論を引き出していましたが、ガスメーター分科会はメーターの性能試験とフィールドテストの必要から実験期間を経たため、大分遅れたはずです。
ガス会社とメーカーが共同開発した新しいN型メーターとそれに匹敵するとするメーターの調査、N型メーターの使用実績、また資源エネルギー庁のガス課に元計量課に在籍していた春山さんが居ましたし、使用者と製作者との駆け引きなどにも巻き込まれましたが、漸くに結論を出し、有効期間10年の答申になりました。
この時の調査では、各ガスメーター製作者やガス会社の担当者に大変お世話になりましたし、福島県計量検定所の原田勝男さんにはよい相談相手になってもらいました。
大型はかり分科会の答申から中抜け問題が生じたのも記憶に新しいことです。
指定拡大検討
この時のことと思いますが、計量器使用事業場の指定拡大と計量士による定期検査に代わる検査の拡大が諮問され、そのための委員会の委員としても色々な意見を言いましたが、計量士会として多くの意見を集約、意見書を提出しています。計量器使用事業場の指定拡大などの検討は6、7年前にも行っていますが、良い方法が見つからず実効が上がっていませんでした。
仕事に忙殺される
計量士会の体制整備は、検査事業の拡大強化、会員のための事業整備もゆるがせに出来ない急務で、この頃から事務局整備に力を注ぎ始めることになりました。
先輩の高橋凱さんの退職希望、内藤さんの就業規則による定年退職に対する対応などがあり、計量士会で席を暖めることの少なかった中で、計量研からの人材確保を計画、会費問題などの調整、地方支部への話し合いに奔走していました。丁度このころ倅が大塚のガン研で手術、4ヶ月程入院しましたが、手術にも立ち会えず、忙しい日々を過ごしていました。
永瀬好治さんを迎える
私が計量士会にきて直ぐから高橋凱さんは退職を希望していましたので、当時川口市の鋳物工場に勤務していた永瀬好治さんに声をかけました。永瀬さんは計量研から埼玉県の体温計メーカーに転出した後、そこを退職し鋳物工場に勤めていましたが肉体的に大変な重労働だったようでした。
これより前永瀬さんは、私が計量教習所に居たころ、多賀谷さんと一緒に来所され、就職の世話を依頼されたのですが、その時、私の守備範囲は計量士関係のみですので永瀬さんに計量士の資格をとることを薦めました。その後暫く交渉はありませんでしたが、国家試験による計量士資格を取得していました。
1981年頃になり計量士会における検査事業の拡充強化を重要課題として取り上げ、高橋凱さんに代わる永瀬好治さんの外、力、材料試験機の検査に村田守さん、湿度計検査のために田中良行さんの旧計量研究所OBを職員とすることが出来ました。この頃から計量器の検査を行う体制が整備されはじめたことになります。
横浜市の審議委も
またこの年、横浜市は計量自主管理検討委員会を立ち上げ、私がその委員長になって市の計量行政の在り方について検討しましたが、定期検査その他について、押尾寅松さんや伊勢善一さん等と議論したことが思い出されます。横浜市として今後の計量行政運営の指針を得るための委員会で、横浜市の実情などを知ることができて、地方行政の経験の無い私にとっては良い勉強にもなりました。
長野計器の支援
1985年になると一番の課題は大分改善してきたとはいえ計量士会の財政問題で、溝呂木さん即ち長野計器との関係を含めて財政の確立が出来るかどうかでした。長野計器との関係は、古い話ですが第2次大戦の前後7年間に中検の計圧器係に在籍し、長野計器が発足したころ係長もしていたこともあって良い関係を保つことも出来たと思っています。
密度浮ひょうの存置
この頃のことでしたか、計行審検定検査部会で、検定対象機種の削減、有効期間の延長等が審議されたことがありました。このとき、計量研から出された案の中に申請個数が少なく、比重浮ひょうがあればよい、として密度浮ひょうの削除が提案されていましたが、基本の単位は密度であり、比重はあくまでも従たるもので、密度浮ひょうの削除は容認できないと意見を述べました。
計量研はどう考えていたか分かりませんが、時の計量課長からはこのことの圧力もあり、納得させるまでには何回も話をし、時間もかかりました。
計研部長に支援断わられる
多分この頃の事だと思いますが、計管協の昇和美さん、日計協の佐藤次郎さんと親しく話す機会が多くありましたが、いつも協会の事業と財政問題が話題でした。そこで3団体共同で講演会、講習会の事業を進めようと、先ず計量管理を主体にした一つの案を作り、計量研のある部長に支援と相談を兼ねて話しに行きました。
ところが計量士会などの事業には協力は出来ない、いまに計量管理協会の事業を拡大し計量士会を吸収するのだと、けんもほろろに断られ、この事業は破棄してしまいました。以後その部長氏とは口もきかない仲になってしまいました。
各地で支部結成の動き
5月の総会では会費値上げを提案、A会員2万円、B会員8千円を議決して頂きました。B会員会費を1万円にする予定でしたが、理事会の了承が得られませんでした。徳島県では三河敏昭さん、田村ー(たむら・はじめ)さん、新潟県では堀川啓介さんなどの努力で支部が結成され全国的組織が目に見えてくる様になってきました。
母の葬儀
6月頃から佐原市に2人ですんでいた両親が相次いで入退院を繰り返していましたが、9月 日30に母親が胆管がんで死亡、佐原市浄国寺で通夜、葬儀を行ないました。計量関係の多くの方々に弔意をいただき有難うございました。ひる(昼)通夜などという変わったこともあり、戸惑った方もおられたと思います。祭の日で交通規制があり車の人には迷惑をおかけしました。計量士会の職員の方々に受け付けなどのお世話をいただきました。
郵便局の計量管理業務受諾
1986年計量士会の運営に計量士以外からの見方、知識を導入するため理事として学識経験者3名を限度に選任できること、検査事業の明記その他現状に合わせた定款改正を行ないましたが、定款などの審査を担当する課に知った人がいたためスムーズにことが運びました。
この年、郵便局の計量管理受諾についての愛媛県支部の岡井優さんからの意見を実現すべく、郵政省用品研究所と折衝を持つとともに、計量課の課長、小杉茂班長と交渉、日本計量士会が責任を持つこととし、さらに、支部に権限委任を文書化して地方郵政局と実務の折衝、契約を結び、実施してもらうことにしました。
この事業は次第に浸透していきましたが、3年後、計量課長と総括係長が郵政省との間で計量法施行の面からか、縄張り争いからか奇妙な確執が生まれ廃止の憂き目を見てしまいました。時代の先取りが早過ぎたのかもしれません。
定期検査周期延長案
総務庁は定期検査の周期を、都市部1年、郡部3年を統一して3年周期とする提案をしてきました。計量士会は反対の立場を鮮明にしていましたが、計量課も反対で、共同歩調を取り撤回させることが出来ました。
このことでは、よど号事件で有名になった衆議院議員の山村新次郎氏は佐原市出身で私の父親とまた母親も先代の奥さんと親しく選挙対策の婦人部長等をしていた関係があって、山村さんを議員会館に訪ねたこともありました。
国試直前講習会
この頃になりますと職員も増え計量士会の運営も順調に進むようになり、一般計量士国家試験準備の直前講習会を新設、試験科目別の傾向別問題集を作成、財政的余裕を生むことが出来るようになりました。1987年計量士会副会長を兼ね、計管協の理事にもなっていました。1983年に計量士登録に現住所記載が削除されたこともあって1988年、一般、環境計量士、都道府県、特定市、計量器使用事業場についての実態調査を実施しています。倉瀬公男計量教習所を委員長とした実態調査委員会を組織し、日環協に協力してもらい実施しました。
後任専務理事人事
原会長からは数年前から退任の意向が示されていましたが、この年漸く叙勲の目途が付き会長交替と専務理事選任の準備に入りました。私は専務理事適任者としては早くから東京都計量検定所の平井一さんと思っていましたので、所長の中村さんに正式に懇望をしました。平井さんも定年前でしたが引き受けてくれることになり安堵しました。
しかしこれには一悶着が待っていました。計量課長にこの人事を話した所、機情局所管の社団法人の専務理事人事は、局次長の権限で、しかも都道府県の課長では承認できないと、この時は私も腹を立て、計量教習所長退職時における通産省の不実、計量士、計量士会に対する取り扱いの不満等をあげつらい、計量課長と直談判をしましたが、なかなか了承が得られず、文書での抗弁書を提出しようとしましたが、これは副会長の戸谷さんに止められ、最後は、以後の専務理事については事前に了解を取るという計量士会会長の念書を入れることで決着をつけました。
計量行政には随分と協力してきたつもりですが、いつの計量課長か分かりませんが計量課長引継ぎのメモに、私の名前にアンチMITIとあると話してくれた課長がいました。こんなことが尾を引いていたのかもしれません。(日本計量史学会会長)
計量士会創立30周年記念祝典
1989年5月の総会は計量士会創立30周年記念祝典を兼ね千代田区平河町のマツヤサロンで行ないました。この時の総会は任期満了に伴う役員改選で原会長が退任することになっていました。この時に計量法の改正が準備されることになったことや、計量士会内の事情から私が会長となることになり、副会長に戸谷、奈良部、橋本、高橋の各氏、専務理事は平井一氏となりました。
平井さんは有能な人で、私の意中の人、これで計量士会も人事的にも安定し、より大きな発展が期待できることになりました。平井さんには計量士会に移籍されて直ぐ、前年度の計量士の実勢調査をまとめてもらいましたが、計量士会を知る上で多分大きく約立った事でしょう。平井さんは計量管理受託の事業などを計画、実施するなど、計量士会の事業拡大に意欲を燃やしていました。
各種委員会の仕事
この頃の私の計量士会以外での出席した会議などを見ますと、計行審の検定検査部会、計量管理及び計量士専門部会、国計連の成分計測分科会、工業計測分科会、質量計測分科会、国際比較検討委員会、圧力測定研究懇談会、湿度懇談会、湿度・水分センサー研究会、石油ガスメーター調査委員会、計量管理システム委員会、国際化対応研究委員会、制度作業委員会、温度計作業委員会、計管協理事、日計協の常任理事、基本問題委員会、プラザ委員会、ひろば編集委員会などがあり、さらに計量士会その他の会議等に私用を含めて年に20回ほども地方を旅行していました。
これでよく仕事が出来ていたなと思いましたが、これは平井さんが総括し、村田さんが検査関係すべてを担当、関口さんが事務を処理し、事務局体制が整ってきたのと、その場その場の対応で事を済ませた私のいい加減さであったものと思っています。
本宮大介さんを見舞う
本宮前専務理事は退任の後、宮崎県に移り野菜などを作っていたようですが、喉頭がんを患い、手術し家庭で療養していると連絡がありました(退任した時、計量課と相談し藍綬褒章の申請を行ない、退任した翌年に授章しています)。
3月、中国・四国地区計量士会連絡協議会が愛媛県松山市で開催されたのを機に、宮崎県西都市を訪ね、本宮さんを見舞いましたが、当日は大雨でしたのでタクシーを使い漸くの思いで本宮さん宅にたどり着きました。本宮さんは声が出ずこの時の会話は筆談によるものでしたが、このときは元気で話していました。
計量法の全面的検討の開始
1990年8月通産大臣から計量行政審議会長に「新時代の計量行政の在り方について」の諮問があり、計量法の全面的検討が始まりました。
この時、私は第二法制臨時専門部会長となり審議を進められましたが、この時計量行政室の第二部会担当班長は宇田川さんで、委員であった東京都の山田さん、埼玉県の藤田さん等の方々にお世話になりました。
平井専務理事は第一専門部会委員になっていましたが、10月に発病、入院してしまい平井さんの代わりは私が務めることになって、審議会関係は第一、第三専門部会委員をも兼ねることになってしまいました。平井さんは入院加療していましたが翌年4月25日に亡くなられ、葬儀には東京都計量検定所の方々と相談の上、名ばかりの葬儀委員長を務めました。期待し色々の経緯の上、専務理事として計量士会に呼んだ平井さんに亡くなられ、大きな痛手を受けてしまいました。
台湾政府の計量法全面改正に協力
1991年になり台湾政府は日本の計量法全面改正について、その情報を知るため台湾来訪を打診、台湾とは正式な国交がないため公務員の訪台が許されなかったので、計工連の山崎信雄専務理事、東日本硝子製温度計工業組合の渡部勉理事長、奈良部尤専務理事と私の4人で3月 日から195日間程訪問、午前に私の計量法改正についての講演、午後に質疑の1日の他は懇談と観光でした。
会館内団体統合の議論
帰りの飛行機で山崎さんと隣り合わせの席になり、色々な話の中で、関係団体統合(日計協、計工連、計管協、計量士会)などが話題になり、議論の場を持ってほしいと依頼され、帰ってから小野田日計協会長に話をし、日計協から鈴木専務理事か佐藤常務理事、計管協から遠藤専務理事、それに山崎さんと私が加わり、数年かけて会合を持ち種々議論しました。
しかし日計協と計管協が極めて消極的であったことから結局はご破算にならざるを得ませんでした。
伊藤政一さんが専務に
計量法改正作業の進展とともに計量士会各支部への情報連絡も多くなるなか、改正のための第1、第2、第3部会に前からの検定検査部会があったりで、専務理事の欠員は許されず、計量行政室と相談、元計量課の監理班長を務めた伊藤政一さんを5月の総会で専務理事に選任しました。
伊藤さんは計量士会になかなか溶け込めず、副会長達も大変苦労していたので、副会長会議やその他の委員会を新設し、事業運営に対応させました。計量行政審議会も検討を終了させ、8月の初めに答申しています。
住まいのこと
わが家は1955年に京成電鉄の分譲地市川市菅野の約142平方メートルの敷地に40平方メートル程の家を建てて住んでいましたが、南側の家で娘さんが結婚して一緒に住むことになったためか敷地一杯に総二階を立て始めました。
1年程前には二階を建てないとのことでしたので、私は一部屋建て増しし、腹も立ちましたし、これでは庭に日が当たらなくなり、2人の子供も庭で遊ぶことも出来ませんので、早速、引越しを考え土地探しを始め、1964年に市川市国分に少し広い土地を見つけ、新しい家を建て引っ越しました。この頃は共済組合や住宅金融公庫などから借金も上手くいき、前の家も売れたので家を建てることが出来ました。
周囲は田甫、近くに3軒程の家しかなく静かなものでした。市川駅までバスの運行があり、バス停も直ぐ近くにあって便は良い所でした。ここも1990年頃には地盛りして家を建てる人が多くなり、わが家は低い土地になって、雨が降るとポンプで庭の水を汲み出す様になってしまいました。
そこでわが家も地盛りして家の建替えをすることにしました。荷物の梱包、運び出し後、8月頃から市川市菅野の家内の実家である妹の家に厄介になっていました。(日本計量史学会会長)
父の葬儀と網膜剥離
そんな中、元気でいた父が突然10月9日に死亡し、長男であるために通夜、葬儀の手当は大変でした。特に葬儀の当日は台風の直撃を受け、千葉県内のJRは全線不通、お付き合いのあった方々や親戚を含めて多くの人にご迷惑をかけてしまいました。大雨のなか墓地に埋葬したため、紋付などの後始末もまた大変でした。
母の時は佐原市諏訪神社祭礼の当日で、誰の心掛けが良いのやら悪いのやら。これで佐原の家には住む人がいなくなりますので、ある程度の後始末をしなければならず、仕事の合間を見つけ数日間泊まり込みで、荷物等の整理をしました。
その帰りのことですが、大雨の中1人で車を運転して宮野木ジャンクションにきた時、急に目に異常を来たし、右目の下一部が真っ暗になりました。1週間程出張や旅行をした後、駿河台の日大病院で診察を受けると、診断は典型的網膜剥離で翌日入院、病室の人達は殆どが糖尿病か眼患者で病状安定までの対策中でしたが、私は余病がないので直ぐ手術になり、剥離が大きいので後ろにカイモノをして網膜をつける手術とのことで入院翌日に手術、10日程で退院しました。私は大病をしたことがなく、後にも先にもこれがたった一度の入院でした。
それまでは1週間に2時間位、健康のためにとテニスをしていましたが、手術後はボールの遠近がつかめないので、テニスも出来なくなり、得意としていたボール競技は出来なくなってしまいました。
戸谷会長、松本専務体制
この年は1891年度量衡法公布から100年になることを記念し、11月1日天皇陛下、皇后陛28下をお迎えした記念式典がホテルオークラで行われています。雨の日だったと思いますが、この日通商産業大臣表彰を受けました。
1992年に入って直ぐ、東京都消費生活審議会に今後の東京都の計量行政のあり方について委員会が発足、活発な意見の交換がありました。最初は小野田元さんが委員長でしたが、途中から私が代理した様に思います。
新計量法も1992年公布、1993年11月1日施行されました。計量士会も翌年の5月役員改選の折、戸谷幸一会長、松本弘美専務理事を選任、私も漸く退任することが出来ました。
おわりに
計量士会会長を退いた後も顧問として、在籍して居り、その後も計量と名のつく中にいますが、退任後のことは、次の機会に譲ろうと思います。長いことくだくだと、愚にもつかない履歴を書いてきました。昔を思い出しながらのことですので、失礼があったり、間違いもある事と思います。ご寛容をお願いします。
振り返ってみますと、特に意志をもって何になろうとか、何をしようともしませんでしたし、その時々を適当に渡り歩いた気しかありません。ただ、先輩、同輩そしてお付き合いさせていただいた方々に恵まれ、一緒に仕事してきた人々にお世話になったことだけは確かなことでした。日本計量新報の横田社長、高松編集部長に厚くお礼を申し上げます。
(おわり)
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私の履歴書 安斎正一 目次
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その1-本欄の執筆をなぜ私が?
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その2-私の職場
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その3-私が生まれた日と父母兄弟について
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その4-夜間高校生と計量士との出会い
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その5-大学進学と空腹の日々
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その6-妻との出会い
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その7-寺岡精工へ入社
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その8-計量教習所と計量士資格取得
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その9-計量士資格取得
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その10-計量士会入会から役員35年間続く
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その11-寺岡精工CIは「新しい常識を創造する」
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その12-思い出に残る出来事 人命救助…お手柄少年安斎正一君
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その13-思い出に残る出来事 中学校の校長は「君は大きくなったら、偉い人になる」
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その14-私の内外の友 セブン銀行社長安斎隆氏は私と同郷、同級、同姓の仲
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その15-私の内外の友 アメリカ、マレーシア、オーストラリア、カナダ、香港に友あり
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その16-思い出に残る出来事 米兵との出会いに思わず涙
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)-その1-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第1編 公務員人生を歩みだす
千葉県中の「ハカリ」を検査を一人でする。新品は係長が検定をやる。日曜もなしだ。
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その2-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第2編 度量衡法末期の実状
「国敗れても度量衡行政は敢然として実施する」難行を経験者として語り継ぐ
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その3-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第3編 新しい夜明け、計量法の歩み
1960年代以降、人口急増と工業県に変遷していく中での千葉県の計量行政に全身全霊で取り組む
私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録-その1-はじめに
西宮高校から神戸大学の計測工学科に進み川崎製鉄千葉製鉄所で計量の仕事を始める
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その2-我が家と計量の係わり
祖父の高徳純教が「はかり屋」を始め社名に「メートル」を用いた気概に敬服
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