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私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)
(日本計量新報デジタル版)

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その3-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第3編 新しい夜明け、計量法の歩み
1960年代以降、人口急増と工業県に変遷していく中での千葉県の計量行政に全身全霊で取り組む



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私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その3-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第3編 新しい夜明け、計量法の歩み
1960年代以降、人口急増と工業県に変遷していく中での千葉県の計量行政に全身全霊で取り組む


   齊藤勝夫氏

新しい夜明けに使命感にもえる

 昭和26年6月7日に、まさしく新憲法下において、誕生した計量法が、あまりにも官尊民卑のにおい紛紛たる度量衡法と当然ながら違いすぎて、新しい夜明けと自ら思い、新しい期待と新たな使命感にもえていた。世はやがて高度成長期を迎え、人口と工場と大型店が、首都圏を中心に、近畿圏、中部圏等の大都市圏を核とする衛星都市にも集中し、ために計量行政は大きな波に遭遇した。

計量法の誕生と検定所の歩みを述べる

 新しい時代にふさわしい計量法の施行と新たに規制下に入った計量器が種類、量とも格段に増大して、それに対応する計量検定所の新築ラッシュがおき始めた事情を、自分なりの千葉県の例をあげて述べてみたいと思う。

 自ら名付けて「第3編 新しい夜明け、計量法の歩み」。さらに副題として「計量法の誕生と計量検定所の変わりゆく歩み」として回顧して、今日の姿において参考になればの思いでこれから概説で述べてみたい。

計量法の誕生と計量検定所の歩み

 前述の計量法は、新憲法下において誕生したため、主権在民の法律であり、度量衡法と比較して、画期的違いがあり旧来から行政に継続して携わっていた公務員は、当初、若干の戸惑いはあったが、中央も地方も、公布の1951年(昭和26年)6月7日(法律207号)から施行の翌年3月1日までの間に、新しい息吹きと熱気が沸き上がっていた。

晴れて新法で歩めることに

 それもその筈、官尊民卑的取締色の強い度量衡法を背負って戦後の新憲法下の民主国家を標榜する新生国家形態体制のもとで、疑問視の中で取締執行に当たり不合格器物は破毀処分をするという他人の財産を棄損する実害とまで言わないにせよ、実損を与え、何等の正当な補償も行わないのである。

 半信半疑の及び腰的姿勢がこれで正々堂々、晴れて新法の根拠をもって、第1条の目的に規定している「この法律は、計量の基準を定め、適正な計量の実施を確保し、もって経済の発展及び文化の向上に寄与する」、という高邁な理想と理念を掲げ、日本の社会全体に奉仕できる計量法であると胸を張って言えて、まっしぐらに勇んで歩み進めることができることになったのだ。

新鮮さがみなぎっていた

 新しい使命を持ったのだ。しかも、中央の通商産業省の重工業局に、画期的「計量課」が誕生し、産みの親の高田忠課長が晴れやかに、笑顔をもって神様のように厳かに君臨し就任したのである。

 聞くも、見るも事大主義的、唯我独尊的響きの表現の文言を使ったが、当時の雰囲気としては、そのように関係者は感じとったのである。今の時代からすれば、大袈裟過ぎていると言われても仕方がないけれど、大真面目な新鮮さがどこでも、いつでも、中央・地方に漲(みなぎ)っていた。一言でいえば、やる気満々なのである。

計量法の新しさ

 その計量法の新鮮さは、度量衡法と較べて、英米法を模して、目的から平易な文言・文章に準拠し、法規的解釈を採用し、こと計量法上の確定的解釈に努めていた。

 いわく「計量」とは、「計量器」とは、「取引」とは、「証明」とは、と随所に規定している。

 特に取締(第6条)の章では、第139条から立入検査権限を与えているが、ご丁寧に、この権限は犯罪捜査のためではないとしているのである。

 一方、財産権は憲法第29条で、これを侵してはならないとし、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができると規定している。従って職務権限上の破毀処分は許されない。

 計量法は、法制上第67条で使用の制限の規定を設け、検定証印が附されていない計量器即不合格で、消印されたものを使用すれば最高刑の罰則第231条の規定で3年以下の懲役を科すとして、計量の安全を確保せんとしたのである。

 さらに、取引上または証明上計量を偽る目的で不正に計量器を使用した者は3年以下の懲役刑も第232条で用意して厳しく対処しようとした。

国民に視線をおいた行政に

 手間も時間もはるかにかかるが、これが民主的手続きなのである。やがて、相互研鑚を積み柔軟に計量法を駆使し始めて、まぎれもなく新法は、一年一年時をたつ毎に国民サイドに視線をおいた行政が、熱心に培われていった。

地方自治法改正で検定所が必置に

 地方自治法も改正され、計量法に係わる事務について、第2条で計量器の検査を捜入し、第148条第3項で、都道府県知事の管理及び執行する事務として、別表第3(94)において、計量法で掲げる事務を列挙し、さらに画期的、強力な規定として、別表第5において都道府県知事の必置機関として検定所を掲げ、都道府県区域単位としたのである。

 このことは、各都道府県とも、待ったなしに必置を迫られることになり、検定所側にとっては、またとない強力な自らの上層部に新築を肉迫し、折衝する武器となったのである。検定所新築ラッシュの事始めの地方自治法上から規定された法的要因の一面が法制上できあがったのである。

検定所の新築ラッシュのもう一つの理由

 前述のように、当時昭和30年(1955年)代に入り、計量検定所の新築ラッシュがおこり始める客観的動機と要因については、一面では、計量法の施行をもって、地方自治法の別表5に都道府県の必置機関として検定所を掲げられて、法制上整備を促す裏付けをされたことを挙げることができる。

 もう一面の日本国内の社会的、経済的状勢の変化というか、政治的日本列島改造論を根底にした国土整備計画による首都圏を主にした中部圏、近畿圏等の主要都市への人口集中現象や工場地帯や工業団地の造成配置が進み、世にいう高度成長期に入り息の長い景気浮揚と設備投資が続く年代となり、人口の流入増減がおこり所謂過密地域と過疎地域という文言が一般的に使われるようになってきた時代である。

 象徴的に顕著な社会現象として代表される例として、首都圏に最も隣接している千葉県が挙げられて良いと思うので、千葉県の変化していく推移を例示として当時の姿をとらえてみたい。

60年以降千葉県は一変

 戦前戦後直後の千葉県は、元々、農水県としては名は知られていても、代表的産業産品は、醤油に、いもに、落花生に、野菜等に、さらに鰯等の水産物である。人口については国勢調査による人口推移は戦前昭和15年(1940年)158万人、昭和20年終戦の年で未実施、昭和25年213万9千人、昭和35年230万6千人という250万人前後の中規模の県勢であった。

 しかし貿易立国、少資源技術立国の日本の国是の宿命を背負って、大車輪の勢いで昭和28年(1953年)先陣として川崎製鐵千葉製鐵所の1号基の溶鉱炉に火入れされ、千葉県の内湾地帯は遠浅の海という特色から、昭和30年代前半は、海の埋立事業と臨海工業地帯の造成が年をおって活発に進展した。

 昭和30年代後半(1960年以降)は、千葉県は一変し、京葉工業地帯として我が国屈指の重厚長大の基幹産業群が立地し、石油コンビナートもその一角を占める歴史的転換期を迎え、工業県として大きく脱皮変貌した。

工業県に変貌した千葉県と千葉県計量管理協会


川崎製鐵千葉製鐵所を始めとした東京湾臨海地帯(2019年2月23日撮影)

 第1回目の千葉県計量検定所長に就任した昭和38年(1963年)には、川崎製鐵千葉製鐵所を始めとし、臨海地帯には、東京電力千葉火力発電所、三井造船、富士電機、出光石油、丸善石油、旭硝子などなどの大企業が林立し、計量法上の計量器使用指定事業場の制度(現行の適正計量管理事業所制度)を適用できる実力のある企業群が群立する壮観たる姿になった。

 就任早々、計量法により誕生した中央の(社)計量管理協会の有力メンバーになり得る企業集団であり、千葉県計量管理協会の設立構想の実現に、自ら決意し、その進め方を熟慮し始めた。時は正に良し。黙っていても、検定は所在場所が増加し、定期検査は市は毎年、町村は3年に1回の周期。

特定市は1市だけであり県は18市69町14村を抱えていた

 特定市は1市のみで県は18市69町14村を抱えていて、実施に困難を極め飛躍的に中身が増大し、質量とも業務量が増加一途となり、所長就任時の昭和38年現員14名で総務課と業務課の二課で出発したものの、その法定業務の実施を当時所長として、どうこなしていくかが最大の問題であり、所員の増員と施設増強の難事業を同時に成就させなければならないことは必定の状勢展開となってきた。

 当時、千葉県としては赤字再建団体の姿から脱却しつつあるとはいえ容易に打開できることではない。

人口増は急増、336万人を突破、スーパーが林立

 一方、首都東京が政治経済の中心となる比重と力がますます強くなっている

 姿は、近隣への住居を構える人々が集中し始めたことに表れており、住宅公団が建てる所謂公団住宅団地が千葉県に押し寄せ、昭和35年から40年までの人口増加率4・5%。40年から45年まで実に17・2%という二桁の急増で336万人を突破するという人口の急増ぶりであった。

 市町村は中小学校の建設に毎年追われ、混乱を招く程の勢いであり、必然的に、百貨店を始め、大型スーパーが目白押しに進出してきて、地元商店会、商店街が食うか食われるか、存立をかけての商業戦争が起きていた。

史上滅多にない難事業を切り開かねば

 奏した事柄に県の立場は微妙である。さらに加えて外資系の大手国内計量器メーカーの本県への進出の話しなど、所長に就任して「待った」なしの歴史上滅多に遭遇しない難事業に、切り開く道と手段方法を見つけ、作戦と戦略を練りあげ、本庁の関係部局即ち人事と財政部局との必死の戦いをし、戦利しなければならない。時に全国最年少の38才で所長に就任して早々の出来事である。

 その成否は全国に同じ問題を抱いている県に影響を与えることも計算に入れて、悩み苦悶の日々が続くことになった。その戦いの道程は私の人生の中の歴史の歩みと辛いながらも生き甲斐と使命感に満ち満ちた、喜びさえも感ずる
修業であった。

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私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その3-
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私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)-その1-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第1編 公務員人生を歩みだす
千葉県中の「ハカリ」を検査を一人でする。新品は係長が検定をやる。日曜もなしだ。


私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)

神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録-その1-はじめに
西宮高校から神戸大学の計測工学科に進み川崎製鉄千葉製鉄所で計量の仕事を始める

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その2-我が家と計量の係わり
祖父の高徳純教が「はかり屋」を始め社名に「メートル」を用いた気概に敬服

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