私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その2-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第2編 度量衡法末期の実状
「国敗れても度量衡行政は敢然として実施する」難行を経験者として語り継ぐ
齊藤勝夫氏
さて、前号で申し上げた度量衡法の末期を歩んだ、今となっては数少ない地方官公吏の一人である私から、当時の実状と自らの体験を申し述べてみることにする。
唯一の解説書「度量衡要論」
度量衡講習時代から、さらに帰任して度量衡事務を所掌する上から、当時唯一の度量衡法の解説書を勉強させられ、徹底的に法第八条を実務上からも必要に迫られて、わがものにせざるを得なかった。
当時を振り返ると、解説書は、小林義雄係長秘蔵の本であり、巻末に、いつも使う決裁用の小林の印を押印してある。その名は「度量衡要論」飯豊武雄著。昭和十一年三月一日発行、定價壱円八拾銭とある。いたる所に棒線を付してあった。
規範条文「法第八条」
ちなみに、当時の第一種取締(現行の特定計量器の定期検査)の検査は、この法第八条に該当するか否かの判定する根幹的制度の規範条文である。法第八条各號とは、
(イ)検定證印の有無
(ロ)修覆検定を受け合格したものであるかどうか
(ハ)変造した事実の有無
(ニ)勅令(今の政令に該当)第十六条所定の公差以上の差狂の有無
(ホ)法定の構造を具備するか否か
かくして行う検査に合格すれば検査濟印(毎年その年の下位の数字を用いる)を附して適法の器物たることを證明する。この證明は、公の權力を以て一定の事実の存否を認定する處分であるから、第一種取締は行政法上所謂確認行政處分であるということができると記している。
検査施行での厳しい思い出
さらに取締の方法として、府縣広報をもって、執行する區域、日時、度量衡器、計量器を提出すべき場所を告示する。
告示を受けて市町村長は、補助機関として周知し、取引證明用に使用している者を調査し、遺漏なきよう検査施行の旨を通知し、提出を怠れば科料に處するとした。市町村長は補助機関として位置づけされ、前述の事前調査から、検査場所、検査場の整備、円滑な検査施行の準備、成績書の処理等一切の準備に当たり、大変な重責であり、時に警察官吏の常臨であり、私自身市町村レベルで多くの体験をし、駐在の巡査が警備についておられた。 その中での検査施行で若輩の身で引き締まった日々を過ごした若い厳しい思い出がよくよみがえる。
特に、変造の定義と解釈は、講習時代、岩崎栄東京都權度課長から、いやという程、判例を挙げ、たたき込められ教えられた。要は、検定證印の有る度量衡器を、不正に計量を偽る目的をもって工作を施すことをいい、公差以上の差狂を生ずると否とを問はない。という論理解釈で、おのずから、修覆と対比し、修覆とは機構に異状を生じた結果失われた効用の一部又は全部を、何等不正手段を弄する意思なくして元の旧態に復する行為として、現在でも、十分通る論理である。
60年前の解説文
さらに、同解説書から学んだ業務、取引及び證明の解説は、現行でも、変わることなく、公務員として知るべき解説である。参考までに60年前の解説文を引用してみることにする。
「業務」の意義
凡そ業務といふには、人が社會上に於て繼續的に従事する仕事でなければならない。即ち農業、工業、商業その他の經濟的生産に従事するは勿論、その他の精神的の仕事等であつても、人が社會上に於て従事するものである限り業務である。また繼續的に従事することが業務の要素であるから、偶々従事する仕事は業務でない。但し繼續的に従事する目的で始めた仕事、たとへ唯一回行っただけでも業務というに妨げない。また業務は必ずしも報酬を得て行う職業又は營利を目的とする營業なることを要しない。
「取引」の意義
「取引」の典型的の場合は賣買であるが、贈與や交換も取引の一態様で取引は有償又は無償行為を問わない。醫師の施療は業務上の取引なり。
「證明」の意義
「證明」を一般的に謂へば、相手方又は第三者に、一定の事實を眞實なりと確信を得せしめる作用をいふ。
「計量法」誕生の歴史的経緯
当時の代表的文言の解説は古今に関係なく生きている。後に昭和26年6月7日公布された戦後の新憲法下、民主主義国家体制において誕生した「計量法」において、度量衡法時代になかった判例の積み重ねてきた解釈が、特別法の中で歴として、法規的解釈を採用され、確定的な権威をもつことになったのである。
さらに、「度量衡」器の定義がなく、明文規定がなかったのを、併せて、「計量」とは、「計量器」とはと明文規定法規的解釈を先人の哲学的信念から設けられた歴史的経緯を学ぶことが我々はできるのである。
歴史の岐路に立った計量公務員
「度量衡法」末期の従事した者の経験として、現代では決して許されない行為を職務に忠実な行為として当時行ってきた事実とその根拠、しかし、疑問に自問自答しつつも、自らに言いきかせ、心掛けてできるだけ実行したことを特に述べたい。
歴史の岐路に立った事態に遭遇しつつ決して「歯車」の一つとしての行動でなく、一個人として使命感をもって職責を適正な計量の実施を確保する哲学をもって果たそうとしてきた計量公務員がいたことを現代の人々も忘れないでほしい。そのことは、こうである。
戦後6年間の度量衡法
さきに述べたように、度量衡法上、取締に当たっては、国税反則者処分法を準用してきた原則が一方であり、法規的解釈が一方にあった仕組みと、戦後昭和20(1945)年8月、敗戦、占領統治下、米国GHQにおける超法規「覚書(メモランダム)」軍政下で、旧帝国憲法の廃止死文化の現実でありながら、間接統治で進められ、政府機構はそのまま残し勿論旧主力勢力は追放排除されたが、官僚機構は無傷で生きていたのである。
従って度量衡法は生きて機能していた法規である。計量法の誕生施行まで立派な法規である。戦後6年間、こと計量制度に関する限り、「国敗れて度量衡法計量制度を守る」といえた。
当時の社会・経済状勢を述べる
度量衡法末期の実状の実話の記述は、苦労して経験した者のみが語れる難行修行である。
「国敗れて度量衡法計量制度を守る」と、いみじくも、歴史的、大観的視野から断定的に申しあげましたが、この「私の履歴書」の欄を関心をもって読んでおられる方には、私と同年輩の同僚的な方が少なくなっている今日、戦中、戦後の初期の状況を知らない方には、どうか、次のような社会状勢を頭の中で、描いてみていただいて、少しでも実感をつかんでいただいたら幸いと思い、当時の社会・経済状勢をかいつまんで述べてみることにします。
米国GHQによる間接統治
まず第一には、政治国家体制だが、1945年(昭和20年8月15日)の敗戦後、米国を主要国にして、8ヶ国による連合国日本占領軍による軍政国家で、米国GHQの統治下におかれたが、日本政府は、そのまま、形をのこしている間接統治で、新憲法(改正)制定の都合からも天皇制を在置している姿であった。
国民側からは、新円の発行と財産税の重税の新設と、食糧危機から農家に対する強制的供米の強行等、敗戦のみじめさと辛さを知る日々であったが、軍政下ということと旧警察機構が生きていたことと、日本国民の遵法性と敗戦の経験がなかったことから、治安状況も心配していたより保ち得ていた。
日本国憲法が成立
いうまでもなく、ポツダム宣言(1945年7月26日)を受諾して、無条件降伏したときから、旧帝国憲法は死文化していることはいうまでもないが、憲法改正は、「破棄」(革命)・「廃止」・「停止」・「侵害」の区分と憲法自身の定める手続きによって変更を加えること、すなわち、憲法のある条項を修正し、削除し、新しい条項を追加する改正とに分類できるが、戦後、総司令部(GHQ)から昭和21年2月10日に示された「マッカーサー草案」に基づき、同年3月6日、ときの幣原内閣により発表された「憲法改正草案要綱」に則して、ひらがなの「帝国憲法改正案」として、6月20日に第90帝国議会に提出され、若干の修正を経て、昭和21年10月7日成立し、日本国憲法は、昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日から施行された。
完全に統治権と主権を回復してはいない
しかし、日本国が独立国になって完全に統治権と主権を回復したのは、その5年後の「日本国との平和条約」(昭和27年4月28日発効)の締結成立にして、漸く沖縄問題を除き、こぎつけたのであり、今日のようにすべてにわたり論理的、学術的に法治国家の体制とはいえない点もあったことは、否めない事実である。
憲法の価値は生まれより国民への定着で判断を
代表的な例として、憲法そのものは、旧憲法は、日本の降伏により死文化していたにもかかわらず、旧帝国憲法の改正手続第七十三条「将来此憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅令ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ附スベシ」の規定による「改正」の形式をとって成立した。しかも占領下、「マッカーサー草案」によって作成された事実から強制された憲法であると、憲法の「生まれ」に最大の価値を置く考え方が根強く主張されている。
しかし、理屈をいうようだが、「生まれ」よりもその内容とその後の新憲法の歩みにおいていかに国民によって受け入れられ、国民の意思に定着しているかによって判断されるべきが至当と思われる。
ちなみに、地方自治法は、国家体制の統治権による最大の要因の根幹的基本法であるので、「昭和22年5月3日」から施行しているが、警察法は、独立国家後の「昭和29年7月1日」施行であり、公職選挙法は、「昭和25年5月1日」施行であり、さらに語弊があるが、新憲法最大の基本原則の新設条項の基本的人権は永久の権利として憲法が保障し、「公共の福祉に反しない限り」において尊重されるものとされたが、「売春禁止法」は、新憲法施行後9年後の昭和32年4月1日施行である。
国民のために誠実に法を執行
このように国民のための新しい内容を盛り込んだ日本国憲法が成立した後も、昭和27年2月までは、帝国憲法下の法律である度量衡法が残るという、矛盾した事態が生じたのである。
しかし、生きて機能している法が存在する限り、取締は法に則って厳正に行われなければならない。新しい憲法とは矛盾する、他人の財産器物を取締の名の下に毀損する「破棄」の含む広範な処分権限が与えられていることを計量公務員として肝に銘じ、適正な計量の実施を確保することは、まさに国民の生活安定と秩序を維持するための行為であるという信念と使命感をもって、努力し、苦労を重ねてきた。
「国やぶれて度量衡法計量制度を守る」という混乱した戦後を国民とともに生き抜いて、計量法に橋渡しをする役目を懸命に果たしてきたのである。
官民一体となったメートル法統一運動
メートル法統一運動の成就は、1875年(明治8年)メートル条約締結、その後明治18年12月加盟手続き完了し、メートル法の歩みが始まり、幾度かの変遷を経て、戦後の計量法の誕生により、尺貫法とヤード・ポンド法は、昭和33年12月31日に廃止となった。
しかし、土地・建物の計量単位の使用だけが、こともあろうに、時の法の番人であるべき法務省の都合で即ち、国側の事情で昭和41年3月31日まで延長されたが、約一世紀にわたり、特に、計量法施行後、まれにみる官民一体となった運動が盛り上がり、その尊い努力で世紀の事業が先進国としては、貴重にして珍しい完成の域にたどりつくことができた。
メートル法統一は、当時の計量業界と計量行政側の極めて地についた親密な信頼関係がなし得たと、歴史を共に歩んだ私の偽らざる心境である。
イギリスを「商品の計量販売の促進に関する海外の実態調査」のために、前述の昭和53年10月に訪問した際のエデン消費者保護省の局長と面談した際のやりとりを思い浮かべたとき、つくづくと歴史に残る改革とか、際立った偉業を行うときは、熱気のこもった波のように寄せては返すエネルギーの結集が英知を集めて自然発生的な域まで広がることが必要であり、なせる業であると悟り入った次第である。
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