私の履歴書 蓑輪善藏-その2-
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私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
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写真は蓑輪善藏氏
私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
中検天野清技師(1)
この頃、中央度量衡検定所(以後中検と略す)の天野清技師は日本科学史への執筆のため度量衡の歴史の調査をしていて、佐原の漢学者清宮秀堅の著わした地方新書度量権部(我が国度量衡の歴史を書いたもの、元老院刊行)の調査と、伊能忠敬が使ったという折衷尺調査のため何度か佐原に来ていました。
佐原中学校の事務員でもあった伊達牛助氏は伊能忠敬の研究者で、天野技師と面識があり、そんな事から、伊達牛助氏を通じ佐原中学校での中検職員の募集があったものと思われます。
清宮秀堅の子孫は、代々清宮利右衛門を名乗る旧家で、私の家とも付き合いがあったし、現在の当主は小学、中学の同級生で、中学校では同じ軟式テニス部、毎日一緒に練習で汗を流していたのに、清宮秀堅のことをつい数年前まで知らなかったとは迂闊もひどい話でした。
天野技師の誘いで中検に
この頃の我が家は、祖父母、両親、それに弟妹4人の9人家族、父親1人の稼ぎでは余裕のある筈もなく、家も狭くなり、私は鼻の詰まりそうな生活から逃げるべく中学を卒業したら早速と外に出ることを考えていました。佐原などには適当な就職先も無く、また人手不足の時代でもあり就職は極めて楽な状態で、中検への就職も天野技師が佐原中学校に来た時にお会いすることだけで決まってしまいました。
普通は3月の卒業後4月から勤めに出ますが、人不足の時代で、中学卒の就職の場合繰り上げて卒業を認め、卒業年の1月から勤められることになっていました。私は3月上旬の卒業式が終わった後上京、3月中は向島区隅田町にあった父の姉「みの」の嫁ぎ先坂井家に、4月からは神田美土代町の父の従兄蓑輪甲子三氏宅に厄介になりました。
木挽町の中検に通う
ここは神田橋の近くで、神田橋から都電に乗れば直ぐに数寄屋橋、中検まで歩いて10分足らず、入学することにしていた学校にも歩いて直ぐ、足場のよいところでした。1942年3月20日過ぎ、京橋区木挽町の中検に天野清技師を訪ね、直ぐに庶務室の岡田嘉信技師の下に連れていかれ、勤め始めの日を2、3日後からと決めて戴きました。
佐原中学から私と前林四良さんの2人が中検に入所しましたが、前林さんは直ぐに辞めて警察官になってしまいました。3月31日付けで「雇を命じ、日給1円25銭給与す。中央度量衡検定所勤務を命ず」という辞令を貰い、勤め始めました。
中検天野清技師(2)
この日給は月の日数分のことで、大の月なら31日分で38円75銭のことです。この頃は既に主食は配給制で外での食事には外食券が必要な時代で、私は3食とも外食することとしていましたが、1日の食事代は1円もあれば足りた時代です。この年中検に入所した中学校卒業者は6、7人いた筈ですが、残ったのは1月から勤めていた栗島茂吉さん、茂木一雄さんと私の3人になってしまいました。
量衡器係に配属
中検に入所して最初に配属されたのは量衡器係、係長は桑田幸男さん、次席が中谷昇弘さんだったように思います。係員は15、6人位だったと思いますが、10人程が女子職員で男子職員の約半数が都内に出張していました。残された2、3人の男子職員はメスフラスコ、メスシリンダー、ガラス製ますの検定と金剛砂を使って吹き付ける証印押し(足踏み式)でした。
入所したばかりですので、ガラス製ますの検定を教えてもらいながら、日がな1日証印押しをしていた時もありました。小柳さん、安達さん、千田さんなどと言う先輩女子職員は等比天秤を前に向き合い、衡量法によってピペット、ビュレットなどの検定をしていました。
直ぐに計量教習生に
4月も後半になった頃、計量教習生の試験があるから受けてみたらと、量衡器係女子職員の責任者であった松本恵美子さんから話があり、係長の桑田さんに申し出て、計量教習が何なのか、どんな問題が出るのもわからない中で、数日後の試験を受けました。出来はあまり良くありませんでしたが合格の通知があり、5月から始まる計量教習の授業を受けることになりました。
計量教習の内容
計量教習は中堅職員の養成を目的にした中検独自のもので、中学校卒業者を対象に、数学、物理、電気などの基礎学科と度量衡器、計量器についての知識と技術を習得させるため、約1年間、勤務時間のすべてを当てて教授するものでした。
計量教習は大学や高等専門学校を卒業して中検に入所する人が少なかったことにも起因しているようで、1937年(第1期)から開始され44年(第8期)まで続きました。
1937年の第1期には服部章二さん、木戸作二さん、堀越義国さんなど、第2期には庄司行義さん、中谷昇弘さん、上野三郎さん、勝田仁郎さんなど、第3期には小泉袈裟勝さん、森田ふみさんなど、第4期には川村竹一さん、立川喜久夫さん、小川了さん、大岸修一さん、など、第5期には高橋照二さん、小島鹿蔵さん、後藤信雄さん、中村政人さん、松本恵美子さんなどがおります。
第6期教習生10名
1943年3月に終了した私達の第6期教習生は10名程でしたが、そのうち長く計量に残っていた方々は、東京本所では飯島肇さん、栗島茂吉さん(後大阪支所)、茂木一雄さん、大坂支所の西岡輝治さん、広島出張所の高橋直倫さん(後広島県計量検定所)、福岡支所の松永三男さんなどでした。教習生側の代表は本所の斎藤勝雄さんでしたが、教習後半の1ヶ月ほどは、飯島さんと共に病気休養していました。
教授陣と先輩
教授陣は教習責任者で熱学が米田麟吉技師、物理学が玉野光男技師、数学が天野清技師、電気が佐藤朗技師、衡器が岡田嘉信技師と北村品市技手、精密測定が朝永良夫技師と山本保技手、製図が小池清技手、水力学・機構学・化学実験などが外来講師、実習では酒井五郎技手、竹内喜一郎技手の方々だったと思いました。
朝出勤してから帰るまで、1日中の授業でしたので私などはまるっきり学校の延長気分でした。中学を出たばかりの私が最年少で皆に良くしていただきましたが、特に、飯島さん、高橋さん、松永さんには可愛がって頂き、いつも3人の後ろについていました。
(つづく)
天野清( あまの・きよし)
1907年(明治40年)4月6日生まれ。1945年20年4月14日没、39歳。東京出身。東京帝大卒の物理学者で科学史家。明治40年4月6日生まれ。商工省技師をへて昭和19年東京工業大助教授。「熱輻射論と量子論の起源」「量子力学史」などを著作。日本科学史学会を創立し幹事として「明治前日本科学史」を編集する。
清宮秀堅(せいみや・ひでかた)
文化6(1809)年10月1日、香取郡佐原の商家に生まれる。生粋の商家の9代目の主でありながら江戸後期から明治時代初期の国学者、歴史考証学者でもあった。通称は利右衛門、字(あざな)は穎栗(えいりつ)、号は棠陰(どういん)。時には縑浦漁者(けんぼぎょしゃ)とも号した。この縑浦(けんぼ)とは霞ヶ浦の雅称。著作は『下総国舊(旧)事考』など多数。明治12(1879)年10月20日没、享年71。清宮家の墓は代々浄国寺にあり、昭和45年5月27日に佐原市の市指定史跡となる。清宮秀堅(せいみや・ひでかた)
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