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├計量計測データバンク ニュースの窓-247-ヤルタ密約と諜報の神様-小野寺信(岡部伸)、皇太子裕仁親王とが教皇ベネディクト15世、砂漠の狐ロンメル元帥
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├ポーランドから最後の返礼「ヤルタ密約」:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(5) | nippon.com
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ポーランドから最後の返礼「ヤルタ密約」:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(5)歴史 岡部 伸OKABE Noburu 2019.12.30
北欧唯一の中立国、スウェーデンの首都は、連合側と枢軸側機密情報が交錯する「諜報のメッカ」だった。小野寺信(まこと)陸軍武官は、親密な人間関係を築いたバルト3国やポーランドなどの情報士官から情報を得て、日米開戦後も欧州情勢や連合軍情報を東京に送り続けた。1944年9月、ストックホルムを訪ねた海軍の扇一登大佐(当時)は、「小野寺さんは他国の情報将校から、“諜報の神様”と慕われていた」と戦後、回想している。45年2月、米英ソ首脳がクリミアのヤルタで、ソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦する密約を交わした連合側最高機密を、小野寺は会談直後にポーランドから入手した。
ヒムラーが忌み嫌った「世界で最も危険な密偵」
ポーランドの大物情報士官、ミハウ・リビコフスキが小野寺と「心の絆」で結ばれたのは、小野寺が草木もなびくナチスに反抗し、危険承知でリビコフスキを守り抜いたためだ。
小野寺が赴任して約半年後の41年7月。ベルリンの中心地ティア・ガルテンでリビコフスキの部下がドイツの秘密国家警察(ゲシュタポ)に摘発され、リビコフスキが満州の偽造パスポートでストックホルム日本陸軍武官室職員として諜報活動を行っていることが発覚した。ナチス親衛隊(SS)の第四代指導者、ハインリヒ・ヒムラーが「世界で最も危険な密偵」と忌み嫌い、リビコフスキ逮捕に躍起になった。
ベルリンに出張した小野寺に面会して、リビコフスキからの預かり物(指令書や活動資金)を受け取った直後に逮捕された部下は、ポーランド地下組織のリーダーで、ベルリン満州公使館で雇われていた。その前は、リトアニアのカウナス日本領事館で杉原千畝領事代理に協力していた。
「敵」はナチスだけではなかった。日独伊三国同盟締結後、ドイツ一辺倒になったベルリン日本大使館で、満州国参事官としてポーランドとの諜報協力を主導していた陸軍中野学校の初代校長、秋草俊も露骨にリビコフスキを嫌悪していた。ドイツは、ベルリンの大島浩大使を通じて再三、リビコフスキの身柄引き渡しを求めた。
しかし、小野寺は頑として受け付けなかった。ゲシュタポに四六時中命を狙われるリビコフスキを武官室で保護し続け、さらなる身の安全のため、ストックホルム公使館の神田襄太郎代理公使に依頼して日本パスポートを発給した。偽名ピーター・イワノフに漢字を当てて「岩延平太」名義とすると、リビコフスキは「日本人になれた」と深謝した。
偽名ピーター・イワノフに漢字を当てた「岩延平太」名義の日本旅券(小野寺家提供)
2人を親密にしたのは、ひとつには、リビコフスキらポーランド人が日本に対して並々ならぬ好意を抱いていたことがあった。18世紀からロシアの侵略と圧政に苦しめられたポーランドは、そのロシアを日露戦争で打ち負かした日本を尊敬していた。また、この戦争で、日本軍は望まずにロシア軍に従軍したポーランド人捕虜に寛容に接した。
さらに両国の距離を縮めたのが、ロシア革命後にシベリア出兵していた日本軍が、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)に両親を惨殺されたポーランド孤児765名を救出した出来事だ。ポーランドの新聞は、「日本人の親切を絶対に忘れてはならない。我々も彼らと同じように礼節と誇りを大切にする民族であるからだ」と伝え、ポーランド人は感謝の念を抱いた。日本も19年の国交樹立後、ポーランドから暗号技術を学ぶ。
そして40年、カウナス領事館で杉原千畝領事代理が「命のビザ」を出して5000人を超えるユダヤ人を救ったが、その多くはポーランドから逃れたユダヤ人だった。こうした経緯でポーランドは日本を「大切なパートナー」と感じた。すでに記したが、杉原は39年の独ソ侵攻で祖国を逃れたリビコフスキに満州国パスポートを発給した。「命のビザ」の1年前で、杉原もリビコフスキら亡命ポーランド政府の情報士官たちと協力して諜報活動を行った。
戦後も交わした100通近い往復書簡
戦後、カナダ・モントリオールに移住したリビコフスキは70年に日本を訪れ、小野寺と再会を果たす。その数年後、小野寺もカナダのリビコフスキを訪問した。2人は、61年から87年に小野寺が亡くなるまで、100通近くの往復書簡を交わした。
手紙でリビコフスキは、「マコトは自分の命の恩人だ。自分をドイツのゲシュタポから護ってくれたのはマコトだ」と、小野寺が体を張って守り通してくれた感謝の気持ちを生涯、忘れることはなかった。
リビコフスキはついに44年3月31日、英国の首都ロンドンに移った。ドイツからの圧力に抗しきれず、同1月、スウェーデン政府が「秩序を乱して好ましくない」と「ペルソナ・ノングラータ」(好ましからざる人物)として国外退去を命じたのだった。
退去理由を小野寺は百合子夫人に、「単に女の問題だ」と説明した。スウェーデン秘密警察調書によると、リビコフスキには70人協力者がいて、大部分は恋愛関係となった女性だった。男気あるリビコフスキに女性は魅了されたのだろう。反ナチスの女性を操り、ドイツにサボタージュや人間を媒介とした諜報活動の「ヒューミント」を仕掛けていた。
「ロンドンの亡命ポーランド情報部が入手した情報を駐在武官のフェリックス・ブルジェスクウィンスキーを経由して届ける」。退去にあたり、リビコフスキは小野寺に約束。終戦まで約1年半、ロンドンから機密情報が送り届けた。ブルジェスクウィンスキーはリガで知遇を得た友人だった。
バッキンガム宮殿に近いルーベンスホテルにあった亡命政府陸軍参謀本部に登庁したリビコフスキは、ポーランド軍に復帰し、旅団長としてイタリア戦線に赴いた。代わって情報を送り続けたのは、上司の情報部長、スタニスロー・ガノ大佐だった。
「今度は我々が日本を救う」と「至宝」提供
中立条約を結んでいたソ連が対日参戦を決めたヤルタ密約情報も、45年2月、このルートで提供された。小野寺の『回想録』によると、会談直後の2月半ば、午後8時から始まる夕食前だった。ブルジェスクウィンスキーの長男の少年が、らせん階段を最上階5階まで駆け上がり、小野寺の自宅郵便受けに手紙を落とした。差出人はブルジェスクウィンスキーだった。
「ソ連はドイツ降伏より、3カ月を準備期間として、対日参戦する」と書かれ、小野寺は直ちに中央(参謀本部次長あて)に打電した。
ヤルタ密約について、小野寺は旧陸軍将校の親睦組織の機関誌「偕行」(1986年4月号「将軍は語る」)で、「ポーランド亡命政府の公式情報だった」と証言している。日本にとって敗戦を決定付ける近代史上最大級の情報は、ポーランドからすれば、長年の日本の厚意への「返礼」で、「今度は我々が日本を救う」との思いの表れだった。小野寺の誠実な人柄を信用して、密約という「至宝」を惜しげもなく提供したのだった。
ガノは、終戦後の46年1月、イタリアのナポリから、日本に引き揚げる小野寺に、こんな心温まる言葉を手紙で贈った。
「あなたは真のポーランドの友人です。長い間の協力と信頼に感謝して、もし帰国して新生日本の体制があなたと合わなければ、どうか家族と共に、ポーランド亡命政府に身を寄せて下さい。ポーランドは経済的保障のみならず身体保護を喜んで行いたい」
祖国をソ連に奪われ、共産化されたポーランドは、世界の誰よりもスターリニズムの恐怖を皮膚感覚で知っていた。「大切なパートナー」を同じ目に遭わせまいと密約を伝え、小野寺に「何かあったら俺たちのところに来い」と伝えたのだ。
不幸にもヤルタ密約の情報は、ソ連に傾斜する参謀本部の中枢で握りつぶされ、日本の政策を変えるに至らなかった。しかし、それをもたらしてくれたポーランドの人たちの熱い思い。そして、彼らから絶大な信頼を受けて情報を提供され、戦火の欧州で祖国を救うべく奔走したひとりの誠実な日本人がいたことを誇りにしたい。
岡部 伸OKABE Noburu
産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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├エルヴィン・ロンメル - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB
エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル
ロンメルの任官のルートは、世紀の変わり目にドイツ陸軍の職業軍人の半分以上が辿った道であった。ドイツ軍はアメリカ軍や大日本帝国軍など多くの列強の軍隊のように、士官学校出身者を中心に構成されるシステムではなく、独特な「直接入隊」というプロセスを採用していた。
これは、中等教育を修了している士官候補生が、まずは「少尉試験」に合格するのに加えて、希望する連隊に入隊して将校からの認可を受ける必要があった。将校として正式に任官する前に、各連隊にてその候補生の人種的、社会的、宗教的な問題を洗い出してふるいにかけることにより、軍内の問題の未然防止や、将校の質に一定の水準を維持する狙いもあった。
プロイセン軍がかつてナポレオンに粉砕されるに至った軍の問題点を検証した際に、下級将校が下士官や兵卒によそよそしいという指摘があり、少尉候補生と下士官兵を一緒に軍務につかせて、一体感を醸成しようという目的もあった。
ロンメルは入隊する連隊としてまずは地元の砲兵連隊を望んだが、砲兵は人気兵種で既に希望者が幼少の頃から連隊と関係を構築しており、ロンメルが入り込む余地はなかった。次に工兵隊を希望したが、もともと連隊数が少なく砲兵隊以上に狭き門で断念せざるを得なかった。結局、もっとも連隊数が多く入隊が容易な歩兵に落ち着き、1910年7月19日にヴァインガルテン(ドイツ語版)に駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)(ドイツ語版)に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した。
連隊将校から認可をもらうと、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ。1912年1月27日に少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った。
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├|視点|日本とバチカン: 宣教師から巧みな外交へ(ヴィクトル・ガエタン ナショナル・カトリック・レジスター紙シニア国際特派員) | INPS
Japan
https://inpsjapan.com/news/culture-art-religion/japan-and-the-holy-see-missionaries-artful-diplomacy/
|視点|日本とバチカン: 宣教師から巧みな外交へ(ヴィクトル・ガエタン ナショナル・カトリック・レジスター紙シニア国際特派員)2024年8月26日
長い歴史的な関係と、日本のエリートを教育したカトリック宣教師たちは、1921年7月に皇太子裕仁親王が教皇ベネディクト15世と会見したような興味深い瞬間を説明する助けとなっている。
裕仁親王は、いくつかの帝国が崩壊しつつある新しい時代を迎える中で成人しようとしていた。日本の皇室は、皇太子がそれまで海外渡航したことがなく、父親の大正天皇が病弱だったため、第一次世界大戦時の同盟国である英国やフランスを含むいくつかの国を訪問するべきだと決定した。
裕仁親王が教皇ベネディクト15世と会見した後、政府はバチカンに外交使節を送るための資金を割り当てたが、神道と仏教の団体の精力的な抗議によって、この計画は失敗に終わった。
バチカンは皇太子裕仁親王のヨーロッパ歴訪の最後の訪問地だった。ニューヨーク・タイムズ紙によると、裕仁親王はサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、大正天皇から教皇ベネディクト15世に宛てた長寿を祈るメッセージを伝えた。大正天皇は、1919年に使徒代表が東京に駐在することを仏教と神道の指導者たちの反対にもかかわらず承認していた(バチカンは1885年と1905年に特使を天皇に派遣していた)。
正式な外交関係
1942年に日本とバチカンが完全な国交を結ぶことに合意した際、昭和天皇はこのネットワークを活用しようと躍起になった。日本はアジアで最初にバチカンと国交を樹立した国であり、このニュースは(日本と交戦中の)連合国を驚かせた。
この知らせに米英両国の当局者は激怒した。この協定は、日本による真珠湾攻撃のわずか2か月後に結ばれたもので、連合国側はバチカンの決定を日本の勝利と国民が見るだろうと考えていた。しかし、彼らの反応は教会の外交ミッションを理解していなかったことを証明した。教皇ピウス11世が1929年に述べたように、「魂を救済、或いは魂へのより大きな害を防ぐことが問題になるとき、私たちは悪魔ともでも直接対話する勇気を感じる。」というのがバチカンの外交ミッションである。
この時期に関する優れた分析は、ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が編集した『ザビエルの遺産:近代日本文化におけるカトリシズム』に収録されている池原万里子著『金山政英:カトリックと20世紀中期の日本外交』である。
このエッセイは、1942年から45年までバチカンで日本大使館の参事官を務め、(原田健公使離任後は)45年から52年まで大使館を率いたカトリック外交官、アウグスティン金山政英の姿を通して、日本人の視点からバチカンと日本の関係を考察している。東京で法律を学んでいた21歳のとき、金山はハンセン病病院の礼拝堂で洗礼を受けた。入信の動機は患者たちの信仰と、何年も既知であったカトリック司祭である病院長に感銘を受けたからだった。
昭和天皇が1942年にバチカンとの外交関係を開始した理由について、「第一に、天皇は米国のフランクリン・ルーズベルト大統領がバチカンと関係を築こうとしていたことに影響を受けていた。」と説明した。
第二に、真珠湾攻撃以前から、昭和天皇はバチカンが自国の連合国との和平交渉に役立つ可能性を見出していた。1941年10月13日、昭和天皇は次のように記している。「この戦争を避けることはできそうにないが、いったん戦争に突入したら、和平交渉にどのように関与するか今から考えておく必要がある。そのためには、バチカンと外交関係を樹立することが必要である。」
この章は、日本のテレビ番組のために行ったマーティン・クイグリー氏に関する研究が始まりであったと語った。クイグリー氏は『広島なき平和:1945年春のバチカンにおける秘密工作』の著者であり、中央情報局(CIA)の前身である戦略事務局(OSS)に所属していた米国の情報機関員。彼は、米国政府を代表して和平交渉を開始するために、バチカンで日本の外交官に接触したと主張している。」
「当時日本政府は、(中立条約を結んでいた)ソ連とスウェーデン経由で和平交渉の可能性を探っていたのですが、それはかなり間違っていました」と池原は説明する。
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├ローマ教皇庁 - Wikipedia
サンピエトロ大聖堂とバチカン市国(ローマ)-Photo by Sean Pavone-
サンピエトロ大聖堂とバチカン市国(ローマ)
サンピエトロ大聖堂とバチカン市国(ローマ)
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├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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