太閤の検地棹、南部藩の検地棹そして「石高」 南部の年貢「五公五民」 執筆吉田和彦
吉田和彦氏
太閤の検地棹
豊臣秀吉が天正十(1582)年、明智光秀を討ってから直ぐ天下統一したという東北から九州までの支配地の検地を行って、政権の財政基盤となる直轄領(蔵入地)を決めたと言われる。その際、土地は四等級に分けられ、それぞれの土地の玄米の生産量を石高で表す石高制とした。この時使うことにしたのが「京枡」である。また測地に使ったのが当時の六尺三寸を一間とした棹で、これで測り面積は次のようにした。
一間四方を一歩
三十歩は一畝
三百歩は一反
とされた。
南部藩の検地棹
正しくは検地棹と言わないかもしれないが、延宝五(1677)年南部藩の一間は六尺五寸で、上田一反あたり一石三斗、そして下々田は、これより約54%少ない石高記録が残されている。中世は勿論、江戸期においても耕地面積の歩、畝、反などの計量単位の大きさは、国内的に不変だとの感覚で史料を見てはいけないようだ。江戸期の「ものさし」の寸法は多くの「南部枡」から確認出来る。
秀吉の覇、北は何処まで
秀吉は蝦夷地(北海道)を除き、日本国内すべてを統一したと宣言し、その統一地域の検地は全て実施したとしている。大和・摂津などの五畿内をはじめ、九州の西海道に至るまでの全検地石高、千八百五十万石と、その内の蔵入地高二百二十二万石などの記録が残されている。ここで中世期の陸奥史を調べている人々の話を聞くと、岩手・秋田の県北から青森側にかけて史料が出て来ないと言っているので、秀吉はこの地域から北は蝦夷地と見なしたと言う人もいる。
年貢・駄・片馬
旧南部領の三戸・二戸を中心とした地域の古枡を見ると、その周辺だけから出てくるものに「三升枡」がある。地域の古老である資料館の館長さん方から聞いても分からなかった。
枡は南部藩特有の京枡がらみ寸法の「南部枡」で、形状はくずれているが焼印類はある。南部に年貢「五公五民」と言う言葉もあるが、百姓に対する年貢の基準のことで50%を指す。
米俵を運ぶために積む馬の荷は「駄」と言い、
一駄=三斗七升の俵二俵分で七斗四升
片馬=右同一俵分
ここで注意したいのは町米(民間米)で、一俵が蔵米にくらべ5・4%少ない三斗五升であることで、これが基準値で蔵米には、マス目とも余り目とも言われるのが入っていると見られる。しかし、これはあくまで、みちのく南部藩の基準で、三升枡のこともこれに類似した問題ではないかと推察される。
太閤の検地棹、南部藩の検地棹そして「石高」 南部の年貢「五公五民」 執筆吉田和彦