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計量計測データバンク ニュースの窓-30-
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八ヶ岳と霧ケ峰高原の映像にのせた軽音楽リスニングなど 甲斐鐵太郎


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計量計測データバンク ニュースの窓-30-八ヶ岳と霧ケ峰高原の映像にのせた軽音楽リスニングなど 甲斐鐵太郎


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(48) 八ヶ岳と霧ケ峰高原の映像にのせた軽音楽リスニングなど 甲斐鐵太郎- YouTube

リスニングス 霧ヶ峰高原 冬の詩 甲斐鐵太郎 (youtube.com)
次の文章は動画の字幕(テロップ)に用いたものを順に並べたものである。
リスニングス 霧ヶ峰高原 冬の詩 甲斐鐵太郎
[霧ヶ峰高原冬の詩]高原の空は宇宙に通じる青さだ
[霧ヶ峰高原冬の詩]八島湿原を見おろす丘に鷲が峰ひゅってが冬季営業する
[霧ヶ峰高原冬の詩]八島湿原の前を強清水に向かう
[霧ヶ峰高原冬の詩]車山のレーダードームが前方にみえる
[霧ヶ峰高原冬の詩]八島湿原の駐車場までは除雪される
[霧ヶ峰高原冬の詩]針葉樹と唐松とズミの木などが混在
[霧ヶ峰高原冬の詩]人が何かをしている 写真撮影など
[霧ヶ峰高原冬の詩]品川ナンバーの若者たちがいた
[霧ヶ峰高原冬の詩]唐松林の中を強清水に向かう
[霧ヶ峰高原冬の詩]霧ヶ峰高原のなだらかな山が連なる
[霧ヶ峰高原冬の詩]登って下って それは山の起伏のままだ
[霧ヶ峰高原冬の詩]踏み固められた道を車が行き交う
[霧ヶ峰高原冬の詩]霧ヶ峰の交差点の強清水付近にでる
[霧ヶ峰高原冬の詩]もうすぐ霧ヶ峰の名所 強清水だ
[霧ヶ峰高原冬の詩]強清水からは右手にずっと八ヶ岳連峰
[霧ヶ峰高原冬の詩]車山(1,925 m)が真っ白な姿を現す
[霧ヶ峰高原冬の詩]くるまやま肩の駐車場までの七曲がり
[霧ヶ峰高原冬の詩]肩の駐車場から雪原散歩にでた人が戻る
[霧ヶ峰高原冬の詩]2月12日晴れ 車山は絶好の散策日和
[霧ヶ峰高原冬の詩]八ヶ岳連峰を正面にみて白樺湖に降下
[霧ヶ峰高原冬の詩]北八ヶ岳と蓼科山(2,530 m)が眼前に広がる
[霧ヶ峰高原冬の詩]霧ヶ峰高原ビーナスラインのハイライトだ
[霧ヶ峰高原冬の詩]夏に緑の草原 秋に紅葉に染まるビーナスラインだ
[霧ヶ峰高原冬の詩]真弓の花は実を付けて朱色に変わる 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]白い花の真弓が赤い花のように変わる秋 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]八島湿原の丘陵と木と空 2月12日
[霧ヶ峰高原冬の詩]八島湿原に太陽が落とす影が10‎月‎15‎日午後5時を示す
[霧ヶ峰高原冬の詩]車山を東南の空に仰ぐ八島湿原10‎月‎15‎日午後5時
[霧ヶ峰高原冬の詩]八島湿原の上空にお月さま 10‎月‎15‎日午後5時
[霧ヶ峰高原冬の詩]咲き残った菊科の白い花 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]高原の秋 10月15日 わずかに咲く花がうれしい
[霧ヶ峰高原冬の詩]少しのこった草の色づきに気持ちが動く 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]高原の10月15日 楚々とした秋色
[霧ヶ峰高原冬の詩]薄茶の残り葉と夏色のわずかな名残りの10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]10‎月‎15‎日‏‎17時17分 車山への道はライト点灯
[霧ヶ峰高原冬の詩]車山の夕暮れ 肩の駐車場 ‎10‎月‎15‎日‏‎17時20分
[霧ヶ峰高原冬の詩]車山は陽が陰った 10月15日夕暮れ
[霧ヶ峰高原冬の詩]夕暮れの雲の上に顔をだす赤岳 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]噴煙が消えて久しい御嶽山(3,067 m)10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]霧ヶ峰高原からは御嶽山がよく見える 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]御嶽山も八ヶ岳も霧ヶ峰も火山なのだ 10月15日
[霧ヶ峰高原冬の詩]車山にも爆裂火口の痕跡をみることができる
[霧ヶ峰高原冬の詩]お月さまの丸い山は火山灰が積もって形成
[霧ヶ峰高原冬の詩]蓼科山も噴火でできた丸い山だ 10月15‎日‏‎17時28分
[霧ヶ峰高原冬の詩]噴火によって重ね餅になった蓼科山 10月15‎日‏‎17時28分
[霧ヶ峰高原冬の詩]山頂付近は大きな石が重なっているのが蓼科山
[霧ヶ峰高原冬の詩]信州の富士山 蓼科山(2,530 m)10月15‎日‏‎17時28分
文章と撮影と編集は甲斐鐵太郎

リスニングス 八ヶ岳高原の空と雲の詩 甲斐鉄太郎 (youtube.com)
2022/03/05 以下の文章は写真に添付の字幕と同じものを順に並べました。
空が主題になる写真ができあがる。八ヶ岳と農園が雲に溶け込む。八ヶ岳に向かって一直線にのびる落葉松林の先には海ノ口自然郷が。高原の雲と眩い太陽と樹木がおりなす八ヶ岳の自然。緑が輝く高原の夏 最高の季節である。11月 高原には霜が降りてナナカマドの実が赤く色づく。八ヶ岳の上空は青い空と白い雲 緑の野菜畑でトラクターが働く。木の葉が散ると別荘の建屋が道路越しに見えるようになる。清里の清泉寮の8月末の夏雲 二階食堂でランチして休憩する。ポール・ラッシュが富士山を向き、背後に積乱雲が湧く。清泉寮の食堂と入口の三角屋根そして講堂 空は青く晴れ上がった。清泉寮は日章旗を上に、その下にアンデレークロスの旗を掲げている。清泉寮の南に広がる牧場の先には秩父連山と富士山が正面に見える。野辺山高原の野菜畑につけられた道は何故か八ヶ岳に向かって伸びている。道沿いの風景を写したら八ヶ岳高原の宿の名があった。八ヶ岳高原野菜の看板は南牧村なのか川上村なのか。八ヶ岳はなだらかな斜面を四方に広げて丘陵地をつくる。初夏に白い花をつける山梨の木があるが山にまぎれて見えにくい。清泉寮から野辺山高原に向かう141号線の登り。八ヶ岳ヒュッテ正面 徳川義親侯爵の住まいであった。徳川義親侯爵の屋敷が名を変えたのが八ヶ岳ヒュッテだ。柱となった樹木も流通は昔はどのようだったのか。壁の外に出された柱が構成する建築美である。八ヶ岳の主峰 赤岳はが雪をかぶって白くなった11月。葉を落とした白樺とダケカンバの林が冬の気配を醸す。赤岳と横岳の稜線は雪がちらついていて冬であることを示す。葉の落ちた白樺の梢の上に広がる青空は初冬の風情。緑の草原と八ヶ岳の山々に夕暮れがおとずれる。高原野菜農園の向こうの赤岳に雲がたなびく八ヶ岳の夕暮れ。八ヶ岳は朝と昼と晩 雲と太陽と空の七変化。八ヶ岳高原ヒュッテ 11月中旬 この年最後の営業日。大らかなる山は人に安らぎをもたらす。野辺山高原の野菜畑のある林にペンションがある。高原野菜の畑地に延びる道の真ん中にある山梨の木。空と雲と八ヶ岳と林と野菜畑が織りなす八ヶ岳高原。八ヶ岳連峰が西の空に位置する場所に山梨の木がある。人の支えがなければ朽ちる老木の山梨の木。高原の歴史を刻んで生きている山梨の木。動いて空を探索するパラボラ望遠鏡が真上を向いていた。JR標高最高点のある野辺山には電波望遠鏡も。野辺山高原の滝沢観光牧場は冬季も営業している。清泉寮の旧館建屋が冬の景色の中にあった。川上村の小川山近くに風情のある住まいがあった。ロッククライミングの岩場は雪のなかにあった。高原の風雪のなかの山梨の木。春の白い花のために風雪に耐える。高原レタス栽培終期の山梨の木。八ヶ岳高原ロッジへの道。この日、泊まる宿だ。

八ヶ岳高原の野辺山高原キャベツと川上高原レタス 甲斐鐵太郎 (youtube.com)
2022/03/02  八ヶ岳高原野菜の野辺山と川上村である。八ヶ岳高原の野辺山高原野菜と川上高原野菜ともいう。野辺山の高原野菜はキャベツがイメージされ、川上村はレタスとなる。ともにブランド野菜だ。
 野辺山の地は長野県南佐久郡南牧村(みなみまきむら)であり、川上村は長野県南佐久郡が頭につく。野辺山高原のどこで二つの村に線が引かれるかというとある川が一つの目安だが、一概にはいえない。野辺山駅は川上村に所在する。
 南牧村(みなみまきむら)の人口は 2022年(令和4年)2月1日現在 2,830人、男 1,381人、女 1,449人、世帯数は1,088戸。村議会は定数8人。隣接自治体は 茅野市、南佐久郡 小海町、川上村、南相木村。山梨県北杜市。村には 佐久海ノ口駅 周辺の海ノ口地区と、野辺山高原の野辺山地区がある。
 前者は千曲川のほとりにあり、後者は八ヶ岳の裾野に位置しているため、この間に 300メートル近い標高差がある。村の幹線道路である 国道141号線は、両地区を 市場坂と呼ばれる カーブの連続する 勾配のきつい坂 で結んでいる。隣の群馬県の甘楽郡にも南牧村の名の 自治体があるがそちらは「なんもくむら」 と 読ませる。
 南牧村は標高が1,000メートルを超えるために、亜寒帯 湿潤気候に属し 冬は寒く、零下20度以下になることがある。夏は涼しいので 高原の避暑地。 南牧村の農業は野辺山高原の夏野菜栽培である。八ヶ岳山麓の なだらかな丘陵は大型トラクターが稼働するための条件を備えている。
 北に位置する 同じ南佐久郡の南相木村 ならびに 北相木村は山間部に属し林業の様相があることから人口が激減している。前述したように 南牧村の人口は 2,830人、対して南相木村は 931人、北相木村は 711人だ。南牧村と似た形式で 高原野菜農業を営む 南佐久郡 川上村は 3,820人だ。南牧村と川上村は人口が 横ばいで 維持されている。横ばいではあるが時代を反映してわずかに下降はしている。
 南牧村は1889年(明治22年)4月1日に町村制の施行により、海尻村、海ノ口村、広瀬村、平沢村および大明村の一部(板橋)の区域をもって発足し 現在に至る。南牧村立 南牧中学校、南牧村立 南牧北小学校、南牧村立 南牧南小学校がある。鉄道は東日本旅客鉄道(JR東日本) 小海線の 野辺山駅(川上村)、佐久広瀬駅、佐久海ノ口駅、海尻駅。
 野辺山の高原野菜と対をなすのが西武グループが開発した 八ヶ岳高原の 別荘地であり、それを象徴するのが八ヶ岳高原ロッジ と 八ヶ岳ヒュッテである。
 山梨県北杜市 清里高原のホテル・清泉寮か野辺山高原のホテル・八ヶ岳高原ロッジかということで、この二つのホテルは八ヶ岳高原を代表するホテルだ。西武が経営し、かつては宿泊施設として運営されていた 八ヶ岳高原ヒュッテは、現在はレストランならびに結婚式場だけが 商業稼働している。
 八ヶ岳高原 海の口自然郷の 林に隠れるように建っている リゾートホテルが 八ヶ岳高原ロッジだ。所在地は長野県 南佐久郡 南牧村 海の口 2244番地 1。
 八ヶ岳高原ロッジの 客室は 68室。メインダイニング「ル・プラトー」、カジュアルレストラン「花暦」 、ティーラウンジ・バー・ショップがある。
 近くに八ヶ岳高原音楽堂 があり、コンサートと連動する宿泊企画を 八ヶ岳高原ロッジが運営している。八ヶ岳高原ロッジの少し上に八ヶ岳高原ヒュッテがある。
 八ヶ岳高原ヒュッテはレストラン、ティーラウンジが夏季の季節営業をしている。
 八ヶ岳高原ヒュッテは国の登録有形文化財に指定されている。令和2年8月17日の官報告示。尾張徳川家第19代当主・徳川義親侯爵の本邸主屋として1934年(昭和9年)に東京の目白に建てられた。
 設計は上野東京帝室博物館(現東京国立博物館) や 銀座和光 を 手がけた 近代日本モダニズム 建築を代表する建築家の 渡辺仁氏。
 建築方法は、柱や梁などの木部の構造部材が壁面に 露出される ハーフティンバー様式を基調とし、内外の木部を 手斧(ちょうな)で仕上げた温もりのある 造り。施工は竹中組(現・株式会社竹中工務店)。
 1968年(昭和43年)、東京 目白の 旧尾張徳川本邸 主屋をそのまま移築する条件で、西武百貨店(現・株式会社そごう・西武) が譲り受け 屋敷を解体して、建築材をトラック60台で八ヶ岳高原に運搬。八ヶ岳高原での移築工事では冬期の間に材木の符号が消え、何度も木材の組み合わせを行うも材料の足りない部分は加工して建築。
 1969年(昭和44年)八ヶ岳高原ヒュッテとして営業開始。客室は7つ、特別に 高額な宿泊料が設定されていた。1990年(平成2年) からは、主にレストラン営業に変更している。移築 50周年の 2019年 7月に 新装開店。外観はそのままに基礎部分を含む耐震補強をしている。

(46) 森の生活ー横田俊英 - YouTube

リスニング(軽音楽と映像) 八ヶ岳高原の夏と清泉寮 甲斐鐵太郎 (youtube.com)

朗読 八ヶ岳高原ロッジ、八ヶ岳高原ヒュッテ、滝沢観光牧場がある高原野菜農業の長野県南牧村 甲斐鐵太郎 (youtube.com)

朗読 八ヶ岳の清泉寮 旧館客室の趣き 甲斐鐵太郎 (youtube.com)

(音声なしの動画) 霧ケ峰高原から見える2月12日の銀嶺の山々 甲斐鐵太郎 YouTube動画

朗読 八ヶ岳と清泉寮のこと (youtube.com)

(48) 冬の霧ケ峰高原 車山の山岳道路を動画撮影しました。エッセーは「冬の霧ケ峰高原にて夏を恋う」甲斐鐵太郎 - YouTube
2022/02/14 冬の霧ケ峰高原 車山の山岳道路を動画撮影しました。

エッセーは「冬の霧ケ峰高原にて夏を恋う」甲斐鐵太郎(副題 パジェロミニの雪道の走破力)

 雪の山にでかけるのに軽自動車のパジェロミニを使う。車体の大きいランクルやパジェロよりも雪道の走破力があるからだ。キャタピラを使っていない乗用車で悪路走破では軽四駆のパジェロミニが一番だ。荷物を積むのならランクルがよかろうがこれだと小回りが効かないし積みは走破力を下げる。私のパジェロミニは年季がはいっていてドアは内側から錆が塗装面を浮き上がらせている。ボンネットと屋根は塗装の上塗りにクリア材が劣化して斑(まだら)模様を呈している。そのような状態でも本格四駆の機能はしっかりしている。

 このパジェロミニは2024年1月1日に起きた令和6年能登半島地震の現地調査に都合5日使った。そしてこの年の3月1日の車検切れを機に私の手から離れた。車検に費用が掛かるので22年前に買ったその車屋さんに廃車を依頼する。ステンレスマフラーほかの部品を取り寄せてあったので整備されて再販売された。私は一年ほど前に四駆、オートマ、エアコン付きの軽トラックのスズキ・キャリーをパジェロミニの代用として新車で手に入れていたのだ。

 東京から河口湖に行き富士山を眺めていた。二月の三連休の初日であった。デリシアという河口湖のスーパーにはお目当ての品があった。北秋田の酒造会社の大吟醸だ。棚にあった四合瓶五本を仕込んだ。二本はお使い物にした。残りの三本は自分で飲むための宝物だ。宿は素泊まりに決めている。ブリの握り、お稲荷、海苔巻きの鮨類、惣菜、菓子類と缶ビールが追加される。

 宿は決めていない。甲府盆地にでてそこで考えることにした。川口湖から甲府盆地へは御坂へ抜ける山道を使う。途中から雪道になった。登り路は渋滞になっていた。進むと道路作業員と警察官がいて警戒をしている。前の車が何度も後ずさりする。すると警察官らが三人がかりで押す。夕暮れになって凍り始めた難所の通行を確保していた。一台の乗用車はレッカーに載せられていた。四駆の高速側にレンジをシフトしているパジェロミニは簡単に難所を通過した。河口湖に20㎝の降雪があった二日後である。トンネルを過ぎた峠の向こう側は日が当たらないから雪の量が多い。午後5時には氷点下5℃であった。下り道の制動力は四駆と二駆に差はない。タイヤのグリップ力に依拠しての走行となる。横にズリと動く不快さは雪道の定めだ。

 パジェロミニを駆っての旅行は雪の景色を撮影するのが追加の目的である。雪があるのは安曇野の奥か、霧ケ峰高原である。どちらかに行くのに好都合な場所にある宿を選ぶ。宿は空いているから現地に着いてから予約する。デリシアというスーパーで酒の肴と朝食のサンドイッチと昼の行動食を仕入れる。半額に値下げされた品に気をよくしてしこたま買い込む。もう一日山にいるつもりだ。宿ではビールにお刺身、卯の花。腹ごしらえはナポリタンのスパゲティであった。

 宿の屋根には20㎝の積雪があった。東の風呂場には朝日がまぶしく射している。快晴とはいえない空模様に安曇野にでかける気合は湧かない。葛温泉の高瀬館への雪道を走るつもりはあった。車の走らない雪道の先の高瀬館の温泉で雪景色を楽しみたいのであった。これは次の機会にする。

 行先のない旅行はとりあえず諏訪の造り酒屋、真澄の宮坂酒造からまっすぐ霧ケ峰高原に伸びる道を選ばせた。霧ケ峰高原の雪の状態、道路の状態は強清水に設置された国土交通省のライブカメラで逐一わかる。雪の道路の登り路は雪が少なく、下り路は雪が多い。

 登るにつれて道路の雪が多くなる。霧ケ峰高原のスキー場は快晴の冬日だった。日が射すと風がなければ温かい。ファミリーゲレンデではスキーに戯れる関東の子どもでにぎわっていた。

 冬の霧ケ峰高原にいて夏を恋う。レンゲツツジの赤い色、ニッコウキスゲの黄色、ズミの白と草原の緑だ。なだらかな丘は雪の世界になるとお月さまのようだ。標高1,925mの車山の頂上にある白いレーダードームが霧ケ峰高原の象徴だ。ここに登ると北アルプス、南アルプス、富士山、御嶽山、八ヶ岳連峰、蓼科山、浅間山がみえる。ぐるりと360度の大展望台の車山である。

 文章と写真は旅行家 甲斐鐵太郎

(無音性のテロップ映像)八ヶ岳高原の夏と清泉寮 甲斐鐵太郎 (youtube.com)
2022/03/02
文末の改行部分まではテロップに使った文である。

 1955年(昭和30年)11月、清泉寮は焼失。ポール・ラッシュによって1957年(昭和32年)に再建。1957年には姿がなかった白樺の木が大きくなった。清泉寮本館の玄関を大きく飾っているXの十字架は聖アンデレに由来するアンデレクロス。食堂のテラスの南には富士山がみえる。赤い三角屋根の玄関と大きな食堂とで構成される清泉寮。二階食堂のテラスに立つポール・ラッシュ。建物は1957年のままである。ポール・ラッシュが立ったテラスも三角屋根もはそのままの姿だ。東は秩父連山、南に富士山、西は南アルプス連峰、北に八ヶ岳が見える。モノクローム写真は1957年の清泉寮を建てているころのようす。晴れた日には富士山が見えるが霞みがちであることが多い。ポール・ラッシュ像の坂を下ってソフトクリームを買いに行く。ポール・ラッシュ像は富士山を向く。

 背に夏雲が湧いていた。日の丸と赤いアンデレクロスの旗がいつでも掲げてある。ポール・ラッシュ像を季節の花が囲んでいる。黄色の花だ。清里高原の夏 ムラサキのラベンダーが咲いていた。二階レストランは夏野菜が主題のメニューであった。清里高原の夏、清泉寮のレストランでの食事は最高の休憩だ。最高の見晴らし、最高の空気、美味しい水と美味しい料理。カレーライスは食べる この日は和風味のパスタ料理であった。清泉寮本館の入り口の向こうに広がる清里高原の夏景色。高原の夏 大きく張り出た日よけが気が利いている。清泉寮の中庭は夏草が生い茂っているような野性味があった。八ヶ岳高原と野辺山の高原野菜。ここで活躍するのが大型トラクターだ。高原野菜といえば野辺山であり、野菜畑が一面に広がる。八ヶ岳の夏は高原野菜とともにある。赤岳の眼下にはレタス畑が銀色に光る。(以上が写真に添えてテロップで流した文書)

 キリスト教を日本で広めようとした人々は学校をつくった。キリスト系の私立の学校が日本に数多くできたのは欧米の人々がお金を持っていたからなのだろうか。日本を支配するための手立ての一つが学校であったのか。いずれにしてもキリスト系の学校が日本にはたくさんある。八ヶ岳山麓の清里高原に建てられた清泉寮(せいせんりょう)も似たような経緯をもつ。遅れた日本を感化する方法の一つが教育施設であり、清泉寮による高原の寒冷地農業の普及であった。清泉寮・キープ協会の働きがあったことで野辺山地域の高原野菜農業が栄え現代につながっている。

 八ヶ岳山麓の今のようすを映し出すライブカメラがある。清里高原の清泉寮の牧場の現在を東京で確認できる。八ヶ岳山麓の春夏秋冬を何時でも映し出している。ホテルそのものが山のなかにあって景色がよいところとなると清里高原の清泉寮が好条件を備えている。

 清泉寮には新館ができていて今風の設備の宿として人気だ。旧館は洋室と和室ともに利用してきた。旧館の洋室は米国初期のころの建物の趣きがある。旧館のレストランは梁(はり)の木がむき出しになっていたのだが、天井板がはられたので梁は隠れた。旧館客室は梁は見えないものの灯油ランプ形式の照明が木組み燈火台に組まれて鎖で天井から下げられている。これが旧館客室の良さだ。レストランは二階につくられている。これは富士山やほかの山々の眺望のためだ。旧館レストランでの朝夕の食事の提供はなくなった。旧館レストランで食事をしようとすると昼のランチ・タイムとなる。旧館レストランからの富士山と奥秩父の山の眺望はこの上ない。

 レストランからの眺望と変わらない旧館の洋室に空室があったので、これ幸いと宿泊を決めた。宿には日が山に落ちるころに着いた。旧館洋室の天井の照明は木組みで昔のままであった。暮れ行く南の空にそびえる富士山は小さな景色だが周辺に邪魔する山がないので清泉寮からの眺めはよい。

 今では清里高原のリゾートホテルとなっている清泉寮であるが、清泉寮の成り立ちは、祈りと奉仕による。清泉寮は、1938年(昭和13年)にキリスト教の一派聖公会の青年運動団体である聖徒アンデレ同胞会(BSAすなわちBrotherhood of St. Andrew)の創始者ジェームズ・L・ホーテリングに由来する。清泉寮は日本聖徒アンデレ同胞会指導者訓練キャンプ場としてつくられた。

 清泉寮は大自然の中での青年指導者の養成のための修養会、その一つとして自然学級の運営をしていた。1941年(昭和16年)太平洋戦争による情勢の悪化によってキャンプは中止、清泉寮は封鎖された。1945年(昭和20年)第二次世界大戦の終結と同時にポール・ラッシュがGHQの佐官級の高級将校として再来日。ポール・ラッシュは武官ではなく情報将校でありGHQのキャノン機関の要人として戦後日本の体制に影響する活動をした。ポール・ラッシュの再来日は戦前から清泉寮の運営にかかわっていて、日本の事情に米国人としてだれよりも精通していたことによる。日本の事情にだれよりも精通するポール・ラッシュが関与して政策決定された事柄は多い。ポール・ラッシュは戦後日本の歩みの重要な部分にかかわっていた。

 ポール・ラッシュによって清泉寮は1957年(昭和32年)に再建される。1955年(昭和30年)11月、清泉寮は焼失、貴重な資料が同時に失なわれている。落成奉献式には昭和天皇の弟の高松宮夫妻が参列した。再建された清泉寮は現在の清泉寮本館である。木組みが見事な初期アメリカ風の建物だ。柱には斧で飾りの切り込みが入る。清泉寮新館は2009年(平成21年)年本館の様式を引き継いでいて宿泊ならびに研修棟として利用されている。

 清泉寮本館の玄関を大きく飾っているXの十字架はアンデレクロスという聖アンデレに由来する。このXは日本聖徒アンデレ同胞会のシンボル。X型の十字架は、イエス・キリストの弟子(12使徒)の1人であった聖アンデレが迫害に遭いキリストと同じように十字架にかけられたときに、キリストと同じ十字架ではなく当時は罪人が処刑されるときに用いられたX型の十字架で磔(はりつけ)になり殉教したことからきている。

 清泉寮からは富士山が東南の方角によく見える。日本聖徒アンデレ同胞会の清泉寮キャンプ場建設の候補地としての条件は、富士山が見えることであった。ポール・ラッシュは、南に富士山、東は秩父連山、西は南アルプス連峰、北に八ヶ岳が見える場所に選んだ。この地を知らせたのは甲府市の老舗ホテル談露館の主人であった。清泉寮の広場のロータリーに建つポール・ラッシュの像は富士山の方角を向く。

 清泉寮キャンプ場のある敷地が当時の清里村と大泉村にまたがっていることから清泉寮の名前が付けられた。1938年(昭和13年)につくられた初期のキャンプである清泉寮の名称の由来である。キャンプの名称は聖書にある聖句や周囲の山の名などを含めて考えられていた。命名を託されたのが立教大学チャペル付司祭であった。清泉という名が清里村と大泉村の漢字の頭の一文字を引いていることに疑問を持っていた責任者のポール・ラッシュであったが、英訳するとピュア・スプリング、すなわち清らかなる泉いずる所と聞かされて笑みを浮かべた。

 標高1,380mの清泉寮は清里の観光名所となっている。この地にきて多くの人は名物のソフトクリームを食べる。



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木田元(きだ げん、1928年9月7日 - 2014年8月16日)は、日本の哲学者。専攻は現象学の研究。中央大学名誉教授。海軍兵学校が解体され、旧制高等学校への編入資格を得るが、野宿生活のために締め切りを知らず、知っていても家族が全員満洲にいるため学費を捻出できず、手続きをしなかったため、失効する。1945(昭和20年)10月、満洲から家族が引き揚げてきて、母の郷里の山形県鶴岡市に落ち着く。父がシベリアに抑留されたため、長男である木田は、鶴岡市役所臨時雇、小学校代用教員などで家族を養う。同時に働いていた闇屋で一儲けし、その金をあてにして代用教員を辞め、1947年(昭和22年)4月、新設されたばかりの山形県立農林専門学校(現在の山形大学農学部)に入学した。「人生の中休みだ」と思って入学試験を受け、金が無くなれば学校を辞めようと思っていたが、同年9月に父が帰国したので、自身で生活の心配をする必要がなくなり、卒業まで在籍した。しかし、農業で生計を立てる自信もなく将来への不安がぬぐえず、年中気分が乱高下する毎日を過ごす。小さな頃から読書が好きで、また当時鶴岡の大地主であったドイツ文学者三井光弥の三男の三井聰と親友であったため三井家の本を読み漁っていた。この頃には哲学書よりも小説や俳諧、中国の詩などを読んでいたが、ドストエフスキーの注釈書として読んだキェルケゴールから哲学の興味を持ち始める。さらに本を読み漁る中で、キェルケゴールから影響を受けたハイデガーの『存在と時間』を本格的に学びたいと思い、東北大学文学部を目指して受験勉強を始めた。東北大を志望した理由は、東北大が当時の国立大学で唯一傍系入学(旧制高校や大学予科以外からの入学)を認め、また入学試験の外国語科目が2言語でなく1言語であったからであった。1950年(昭和25年)4月、東北大学文学部哲学科(旧制)に編入学。大学1年のときドイツ語を学び、秋から『存在と時間』を読み始めて半年かけて読み終えた。しかし、この本を理解するには腰を据えて哲学を学ぶ必要があると感じ、哲学を学び続けることを決心した。当時、哲学を学ぶならフランス哲学ならデカルト、ドイツ哲学ならカントと相場が決まっていたため、卒業論文はカントの『純粋理性批判』で書くことを決め2年生から読み始めた。また、哲学を学ぶためには古典ギリシア語とラテン語は必須だと考えていたため、2年生の4月から6月に古典ギリシア語、3年生の同時期にラテン語を習得した。1953年に学部を卒業して同大学院哲学科特別研究生課程に進み、フランス語を習得。1958年に同大学院を修了し、同年から東北大学文学部助手となる。1960年から中央大学文学部哲学科専任講師。同助教授を経て、1972年から中央大学文学部哲学科教授。1999年に定年退職し名誉教授となった。2010年9月に、日本経済新聞「私の履歴書」に自伝を連載した。

大日本帝国の海軍と陸軍のエリート軍人の階級と年齢
山本五十六(海軍大将)と東條英機(陸軍大将)。どちらも明治17年生まれ、同じ歳に海軍大学、陸軍大学卒。

階級 山本五十六 東條英機 キャリア官僚の昇進と職階
少尉   21歳   21歳   22歳 度係員(入省初年)
中尉   23歳   23歳   26歳 係長(4年目)
大尉   25歳   31歳   30歳 課長補佐(8年目)
少佐   31歳   36歳   40歳 企画官(18年目)
中佐   35歳   40歳   40歳 企画官(18年目)
大佐   39歳   44歳   45歳 課長(23年目)
少将   45歳   49歳   45歳 課長(23年目)
中将   50歳   52歳   50歳 審議官(28年目)
大将   56歳   57歳   52歳 局長(30年目)
次官   52歳   54歳   55歳 事務次官(33年目)
大臣   --   56歳

[注]「キャリア官僚の昇進と職階」は元経産省官僚の宇佐美典也氏の説明を採用宇佐美典也 - Wikipedia


山本五十六(海軍大将)と東條英機(陸軍大将)。どちらも明治17年生まれ、同じ歳に海軍大学、陸軍大学卒。

階級 山本五十六 東條英機 キャリア官僚の昇進と職階  人事院調査によるⅠ種採用(総合職)職員の昇進(キャリアパス)

少尉   21歳   21歳   22歳 度係員(入省初年)   22歳(入省初年 採用時年齢) 本省A局A課係員
中尉   23歳   23歳   26歳 係長(4年目)     24歳(入省2年目)本省B局A課係員。25歳(入省3年目)本省B局A課係長。
大尉   25歳   31歳   30歳 課長補佐(8年目)   27歳(入省5年目)他省庁勤務(転任)
少佐   31歳   36歳   40歳 企画官(18年目)    33歳(入省11年目)本省課長補佐(複数の局をおおむね1年で異動)
中佐   35歳   40歳   40歳 企画官(18年目)    39歳(入省17年目)本省A局A課企画官
大佐   39歳   44歳   45歳 課長(23年目)     41歳(入省19年目)本省A局B課室長
少将   45歳   49歳   45歳 課長(23年目)     42歳(入省20年目)本省課長
中将   50歳   52歳   50歳 審議官(28年目)    50歳(入省28年目)本省本省審議官
大将   56歳   57歳   52歳 局長(30年目)     51歳(入省29年目)本省局長(A局、C局)
次官   52歳   54歳   55歳 事務次官(33年目)   56歳(入省34年目)本省事務次官
大臣   --   56歳

[注]「キャリア官僚の昇進と職階」は元経産省官僚の宇佐美典也氏の説明を採用。宇佐美典也 - Wikipedia

人事院調査によるⅠ種採用(総合職)職員の昇進
(キャリアパス)(計量計測データバンク編集による)
22歳(入省初年 採用時年齢) 本省A局A課係員
24歳(入省2年目)      本省B局A課係員
25歳(入省3年目)      本省B局A課係長
27歳(入省5年目)      他省庁勤務(転任)
29歳(入省7年目)      本省A局A課係長(転任)
30歳(入省8年目)      地方公共団体勤務
33歳(入省11年目)      本省課長補佐(複数の局をおおむね1年で異動)
37歳(入省15年目)      特殊法人勤務
39歳(入省17年目)      本省A局A課企画官
41歳(入省19年目)      本省A局B課室長
42歳(入省20年目)      本省課長(複数の局にまたがる課をおおむね1年で異動)
50歳(入省28年目)      本省本省審議官
51歳(入省29年目)      本省局長(A局、C局)
56歳(入省34年目)      本省事務次官

人事院調査によるⅡ種採用(一般職)職員の昇進(キャリアパス)
(計量計測データバンク編集による)
24歳(入省初年 採用時年齢) 管区官房(経理)採用係員
26歳(入省2年目)      (転任)本省大臣官房経理係員
34歳(入省10年目)      本省係長(総務、人事)
45歳(入省21年目)      管区専門官(人事)
47歳(入省23年目)      管区課長補佐(人事)(配置換)
48歳(入省24年目)      本省専門官(管理)(配置換)
49歳(入省25年目)      外局課長補佐(管理)(転任)
52歳(入省28年目)      本省課長補佐(管理、給与)(転任)
53歳(入省29年目)      管区部長(総務)
55歳(入省31年目)      本省準課長(人事)(配置換)
57歳(入省33年目)      本省課長


平成13年度 年次報告書 (jinji.go.jp)
国家公務員のキャリアパス。I種(総合職)とII種(一般職)採用職員のキャリアパスの事例。平成13年度 年次報告書 (jinji.go.jp)
第1編 ≪人事行政≫
第1部 人事行政の動き
第1章 期待される公務員像と働きがいのある職場の実現を目指して~国民全体の奉仕者であることの再確認~
2 期待される公務員の確保に向けて
行政の中核を担うことが期待される公務員には、国民に奉仕するという使命感、責任感を有し、絶えず自己研鑽を続けるとともに、世の中の動向を高感度にキャッチするという公務員像が求められている。
前述したように、公務員像と現実の公務員との乖離は公務員像の変化に公務員が付いていけなくなったのではなく、公務員が、時代の流れの中で、あるべき公務員像から離れていったためであると思われる。
以下、こうした状況がなぜ生じてきたのかを探るため、これまでの公務員の採用、育成、職場環境等はどうであったか、また、現在どのような問題点を抱えるに至っているのかについてまず検討し、これらの課題解決に向けて取り組むべき事項を整理する。
(1) これまでの採用・育成等にみる公務員のキャリアパスと人事管理の特徴
各府省の一般の職員は、I種、II種(大学卒業程度)、III種(高校卒業程度)試験等の人事院が実施する試験の合格者の中から、各府省ごとに採用が行われ、人事当局の裁量により2~3年の周期で様々なポストに定期異動を繰り返すことにより、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(日常の業務を通じて必要な知識、技術を身に付けさせること。OJT)が図られている。同じ試験で採用された職員の処遇については、早い段階ではあまり差を付けずに、40歳前後から徐々に差を付けていくのが通常である。また、組織の新陳代謝を図るため、I種採用職員については50歳前後から退職勧奨を行い、再就職先を紹介することにより徐々に職員を組織の外に出していくことが広く行われている。
図16平成13年度 年次報告書 (jinji.go.jp)は、I種試験に合格して採用され、事務次官になった職員の具体的なキャリアパスである。大学学部卒業後、係員として採用され、3年目に係長に昇進、その後、他省庁勤務を経験し、8年目の課長補佐級昇進時に地方公共団体に出向している。次に、特殊法人勤務などを経験した後、20年目で課長、28年目で審議官、34年目で事務次官に到達しているが、この職員の場合、非常に多様な職歴を経ることにより、幅広い視野を養うことを可能にしている。
図16 I種採用職員のキャリアパスの例平成13年度 年次報告書 (jinji.go.jp)
一方、図17平成13年度 年次報告書 (jinji.go.jp)は、II種試験に合格して採用された職員の具体的なキャリアパスである。係長への昇進が10年目、課長補佐級である管区専門官への昇進が21年目とI種採用職員と比べて大きな差がある。33年目に課長に到達しているが、これはII種採用職員としては相当高いポストに昇進した例である。
図17 II種採用職員のキャリアパスの例平成13年度 年次報告書 (jinji.go.jp)
こうしたキャリアパスを形成する背景には、国家公務員に特有な次のような人事管理の特徴がある。
(キャリアシステム)
国家公務員の人事管理においては、採用段階において中核人材の選抜を行い、採用同期の者は、一定年齢までほとんど差を付けない早い昇進と遅い選抜によるいわゆる「キャリアシステム」が採られている。キャリアシステムは、優秀な人材の誘致と中核人材の早期育成に有効性を発揮するとともに、長期間高い志気を維持し続けさせるという効果もある。
一方、現行の「キャリアシステム」は、採用試験及び採用年次に応じた昇進をあまりに固定化させているため、適材適所の人材配置や能力の有無によるメリハリのある昇進など能力に応じた人材活用が不十分であるだけでなく、そのことがII種・III種等採用職員に不公平感を生じさせることにもなっていると言われている。また、このような固定的な人事運用は、一部の職員にとって、身分的なものと受け止められ特権意識を生む原因ともなっている。なお、このような人事システムの下、公務組織外との人事交流は近年まであまり行われてこなかった。


人事院調査によるⅠ種採用(総合職)職員の昇進
(キャリアパス)(計量計測データバンク編集による)
22歳(入省初年 採用時年齢) 本省A局A課係員
24歳(入省2年目)      本省B局A課係員
25歳(入省3年目)      本省B局A課係長
27歳(入省5年目)      他省庁勤務(転任)
29歳(入省7年目)      本省A局A課係長(転任)
30歳(入省8年目)      地方公共団体勤務
33歳(入省11年目)      本省課長補佐(複数の局をおおむね1年で異動)
37歳(入省15年目)      特殊法人勤務
39歳(入省17年目)      本省A局A課企画官
41歳(入省19年目)      本省A局B課室長
42歳(入省20年目)      本省課長(複数の局にまたがる課をおおむね1年で異動)
50歳(入省28年目)      本省本省審議官
51歳(入省29年目)      本省局長(A局、C局)
56歳(入省34年目)      本省事務次官

人事院調査によるⅡ種採用(一般職)職員の昇進(キャリアパス)
(計量計測データバンク編集による)
24歳(入省初年 採用時年齢) 管区官房(経理)採用係員
26歳(入省2年目)      (転任)本省大臣官房経理係員
34歳(入省10年目)      本省係長(総務、人事)
45歳(入省21年目)      管区専門官(人事)
47歳(入省23年目)      管区課長補佐(人事)(配置換)
48歳(入省24年目)      本省専門官(管理)(配置換)
49歳(入省25年目)      外局課長補佐(管理)(転任)
52歳(入省28年目)      本省課長補佐(管理、給与)(転任)
53歳(入省29年目)      管区部長(総務)
55歳(入省31年目)      本省準課長(人事)(配置換)
57歳(入省33年目)      本省課長

国家公務員採用総合職試験(院卒者試験、大卒程度)の区分試験別・府省等別採用状況(過去3年間)
(令和2年、3年、4年 人事院報告pdf)
国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)の採用状況(過去3年間)
R2 280 (98)
R3 251 (81)
R4 263 (97)
国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)の採用状況(過去3年間)
R2 467 (167)
R3 513 (183)
R4 482 (160)
(注)1( )内の数字は、女性を内数で示す。2 令和4年度の採用数は、令和4年4月1日現在の数字。


過去3年分の府省別の採用者数(R2~R4)in (jinji.go.jp)(令和2年、3年、4年 人事院報告pdf)

【ウクライナ侵攻1年】小泉悠氏「プーチン失脚でも終わらない可能性」 - YouTube(2023年02月22日)

日本の新聞社、メディア、情報機関など web検索(計量計測データバンク)
日本のテレビ局 web検索(計量計測データバンク)

2022年地域計量機関人事異動 (keiryou-keisoku.co.jp) (2022年春季調査 計量計測データバンク編集部)

シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。


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