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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-
(第七章 緑の暖かい風)

-改訂版四稿-

Five days of training on how to use AI

一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

旅のエッセー集 甲斐鐵太郎

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之



作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。


二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。


五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。


野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。


野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。


南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

終章 太陽に満たされた高原の林

 隅田肇は二〇二四年十二月の半ば、蓼科山の麓の山荘に足を運んだ。N県庁に近い住まいと山荘を行き来している。山荘は雪の中にあった。積雪は平年より少なかった。標高千六百メートルの敷地に生えるシラビソは、クリスマス・ツリーのように雪を背負っていた。薪ストーブはいまでは飾りになっていて、煙突の傘には二十センチメートルの雪が載っている。暖房には石油ストーブを使う。田渕義雄のように薪を用意する意欲は、もう消えている。

 冷えた山荘を温めるために、最初に業務用の大きな石油ストーブをボーと焚く。一階から、吹き抜けを通って二階に一気に暖気がのぼる。家が温まったところでその火を止め、代わりに二階のアラジンのブルーフレーム・ヒーターを燃やす。この家のアラジンは二代目である。先代は燃焼筒が錆びて役目を終えた。燃焼筒を傾けて芯にライターの火を近づけると、小さな窓の向こうに青い炎が立つ。着火に電池を使う構造にはなっていない。着火の都度、燃焼筒を傾けて、そのあとにチャッカマンを使う。一九三〇年代にイギリスで生まれたストーブを、いまは日本のメーカーが作り続けている。天板に陶板を載せれば、食パンも焼ける。

 ある日のこと、一階のコロナの丸形石油ストーブに載せていた鍋で、タスマニア産の煮込み用の牛肉を入れたカレーが煮えた。肉は、低い火で長く煮込むほど柔らかくなる。晴れた日で、二階のバルコニーの餌台には、ヒマワリの種を目当てに野鳥がひっきりなしにやってくる。ゴジュウカラが居つくようになり、コガラとシジュウカラがせわしく出入りする。少し遅れて、ヤマガラも姿を見せるようになった。

 暖かくなった二階に上がり、アラジンの青い炎を眺めながら、隅田は串田孫一のことを思う。山の随筆で知られ、日曜の朝のFM東京で、穏やかな口調で「音楽の絵本」の朗読を長く続けた人である。串田の書斎にはルンペン・ストーブが置かれ、そのまわりにウインザーチェアが並んでいたという。訪ねてきた編集者とは、ストーブの周りに置かれた幾つもの椅子に座って長い語らいをした。田渕義雄は、薪を作るときに出る枝でウインザーチェアを自作した。この二人は隅田の敬愛する人であり、隅田の中では二人が渾然一体となっている。椅子と薪ストーブといえば、隅田には串田孫一と田渕義雄なのである。串田の仕事部屋は、串田が亡くなったのち、北海道斜里町の北のアルプ美術館に移され、机の上の小物まで元のとおりに復元されている。

 串田は、霧ヶ峰の車山の肩にあるコロボックルヒュッテを建てた手塚宗求と長く交流した。ヒュッテに泊まっては思索し、霧ヶ峰の風景を水彩に描いた。四月の後立山に二人で登ったときには、串田のキスリングに、カンダハーの締め具を付けたスキーが載っていた。

 長い親交は、ある日ふいに終わった。手塚が書き残している。ひょっこり山に登ってきた串田は、少し語らっただけで山を下りていった。強い風が吹いていた。手塚は串田の背に向かって大きな声で呼びかけたが、声は風に消された。串田は振り向かなかった。

 隅田にはその場面を読むたびに、「あばよ」と言ってボブ・ディランの詩集を渡したことが甦る。言葉は春の風に消えた。その後に相沢は姿を消したからである。

 一九六八年の夏、明大前の下宿で、隅田はソニーの左右が分かれるFMステレオラジオを鳴らし、FM東海が流す「音楽の絵本」を聴いた。一九六五年に始まり、のちにFM東京に移って三十年続いた番組である。その回のテーマは「氷」であった。のちに加藤望美が飛び込んでいった「氷の世界」を思うとき、隅田の耳には、なぜかあのときの串田の声がよみがえる。

 串田の『若き日の山』や『山のパンセ』を読むようになったのは、そのあとのことである。ある回で串田は、東京天文台の古畑正秋と対談したときの話をしていた。冬の霧ヶ峰で、夜の雪の中を奇妙な光がゆっくりと水平に流れていくのを見た。串田が詳しく話すのを黙って聞いていた古畑は、ひとこと、それは流星です、と言った。都会の空では観測もままならない天文学者は、早寝をして朝早く起き、小鳥を観察していると、まじめな口調で話した。番組の最終回は一九九四年、「冬の記憶」という詩の朗読であった。

 山中湖の砂浜で、仲間たちが篝火を囲んで「燃えろよ燃えろ」を歌った夏があったと、蒲生から聞いた。串田孫一が詞を付けた、フランス民謡のキャンプソングである。いま目の前で揺れているのは、あの夏の赤い炎ではない。風も音もない、青く静かな炎である。その日の午後は、そうして過ぎていった。

 年が明けて、二〇二五年四月二十九日、隅田は野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。

 木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れたのである。隅田はそれを知らなかった。幹のあった場所には、切り株のような残り物は何もなかった。ただの土くれのまわりに、細いひこばえが何本か伸びていた。

 古木は、すでに樹勢が衰えていた。上の枝は朽ち、八ヶ岳に向かって左手の枝も同じように朽ちて、右手の枝だけが大きく伸びていた。強風は、その伸びた枝の方角へ木を押し倒した。花の勢いも衰え、葉の茂みもまばらになっていた。樹齢二百五十年の太い幹ではあったが、栄養を吸い上げていたのは、わずかな部分にすぎなかったのだ。

 八ヶ岳へ向かって真っすぐに延びる農道の、そのど真ん中に立っていた木である。木は道を左右に分け、畑に通う車の流れを整える役目も果たしていた。あたりには、この木より背が高く、大きく枝を広げて白い花をいっぱいに付けるヤマナシが何本もある。だが、道の真ん中に立つ木はもうない。山梨の北杜市には、支柱に支えられて生きながらえ、観光名所になった山高神代ザクラがある。このヤマナシが名所になっていたら、農家は困っただろうと隅田は思った。

 倒れた木のそばでは、大きなトラクターが畑を耕していた。この日はレタスの苗の植え付けが行われていた。高原の最上部の畑では、インドネシアから来た若者たちが働いていた。その向こうで、別のヤマナシの木が元気な白い花を咲かせていた。レタスは、野辺山のある南牧村を豊かにした。

 あの夏、望美と二人で立った木の下には、もう何もない。それでも、ひこばえは伸びている。

 五月一日には、南佐久南部漁業協同組合へ釣りの年券を買いに出かけた。八千四百円で、千曲川上流のイワナもヤマメもアユも釣ることができる。組合の裏手を、千曲川の上流が流れていた。今年は川上村のイワナを釣りたい。田渕義雄がフライロッドを振った川端下で、同じように。帰りに、川端下の田渕の家の前を通った。いつか秋の薄日の中で見たときには、幻想的に見えた板張りの家である。薪小屋が並び、「寒山家具工房」という小さな表札が掛かっている。木工室は、のちに地下に増やしたのだという。まわりの林のすぐ隣まで、レタス畑が迫っていた。家の向こうには、小川山の岩峰が鋭くそびえていた。

 五月四日には、近くの知人からコンクリート・ミキサーを譲り受けた。手土産にと、街の珈琲店で豆とケーキを買って訪ねた。この知人からは、建設中の談話室に使うガラス付きの窓枠も、たくさん譲ってもらっている。自分の山荘を改修するために用意して、余ったものだという。知人の敷地は斜面にあり、窓枠もミキサーも急な坂を下ろして運んだ。

 五月二十一日、隅田は蓼科山の麓の山荘にいた。百年を経た欧州赤松のログで建てた山荘である。N県のどの出先機関への異動があっても通いやすい位置を選んだ。善光寺平の夏の暑さは東京を超えている。盆地に降りれば、どこも同じように暑い。涼しいと思って選んだ松本平の暑さに、ある原子力学者が喘いでいた。どの盆地も夏は暑い。諏訪湖の標高は八百メートル。それでも、やはり暑い。蓼科山の麓を選んだのには、そのような事情がある。長い勤めの合間に、少しずつ手を入れてきた。ベランダを広げて屋根を付けた談話室に、隅田はパソコンを持ち出していた。去年は雪が来る前に屋根を付けようと奮闘し、十一月にどうにか間に合わせた。だが四十センチの雪をのせた談話室は冷凍庫のようになり、春まで寛ぐことはできなかった。この春は、譲り受けたミキサーでコンクリートを打って土台を固め、一メートルの雪にも台風の大風にも耐える支柱を建てるつもりでいる。

 正午の談話室は摂氏二十二度であった。庭は自然のままにしてある。カラマツ、ミズナラ、コナラ、シラカバ、モミジが太陽の光をほどよく遮り、夏でも最高気温は摂氏二十五度に届くかどうかである。背の低いクマザサが地面を覆っているので、世に言う雑草は生えない。敷地のシラビソが背丈を伸ばし、かつて見えていた蓼科山や北横岳、縞枯山は木立に隠れてしまった。前の道路に出れば、蓼科山はまだ大きく見える。

 新緑の林で、ハルゼミが鳴いていた。夏が近い。セミの命は羽化して一週間と、隅田は子どものころに教わった。だが近ごろ、岡山の高校生が印を付けて放したアブラゼミが、三十二日も生きていたことが確かめられた。教科書に書かれたことも、ときには疑ってみなければならない。隅田はスノーピークのパーコレーターで珈琲を沸かし、砂糖を入れて飲んだ。ガスコンロの小さなボンベは、去年ひと夏放っておいたら、ガスが出なくなった。調べると、ホースをつなぐ口の小さな穴に、蜂がサナギの殻を残していた。管に卵を一つだけ産む蜂が、ボンベの口を命をつなぐ場所に使っていたのである。珈琲を淹れていると、ときどき神保町の「エルマーナ」とママのことを思い出す。

 隅田は、一日に十五時間も椅子に座っていることがある。パソコンに向かうときには、高山の飛騨産業(キツツキマーク)のロッキングチェアを使う。背もたれが高く、肘掛けが付いている。キーボードを打つ肘を、その肘掛けに休ませておける。寛いで本を読むときには、机の脇に置いた、同じ飛騨産業のクッション付きの揺り椅子に移る。

 机にしっかり向かい、キーボードを打つときには、高山の柏木工の椅子にする。釘を一本も使わない上等な椅子で、望美のお気に入りである。隅田はそれを借りて使う。

 こうしたウインザータイプの椅子を幾つも集めるようになったのは、田渕義雄の暮らしに惹かれたからである。田渕は、薪にするはずだったナラの木で椅子を作った。ストーブにくべるはずの枝が背もたれになり、はぎ合わせた板が座面になる。食堂の椅子も、書き物の椅子も、揺り椅子も、机や食卓も自分で作った。写真で見る田渕の揺り椅子は、背もたれが大きく後ろに倒れていて、背当ての丸木は十本あった。隅田の揺り椅子は八本で、背中を指圧されるような痛みがあるから、専用の厚布を当てている。田渕も、板の座面には薄い布地やクッションを敷いていた。

 自分が元気なうちに作らせたほうがいいよ、と田渕は言っていた。田渕が作る椅子は何気ないようでいて、大事な要件を満たしているのであった。隅田は、それを頼まないままにきている。

 談話室の前のミズナラが、年ごとに傾きを強めている。樹齢は三十年ほどである。かつてはミズナラを薪にし、そのあとからまた若木が育つという循環があった。その循環が途切れたところに、こうした「問題」が生まれるのだと隅田は思う。

 晴嵐荘の青年がひょいと捕まえた虫のことを、隅田はいまもときどき思い出す。チョウは、卵から幼虫、サナギを経て成虫になる。サナギの中で、幼虫の体はいったん溶けてどろどろになる。それでも、成虫原基という小さな細胞の塊だけは残っていて、溶けた体を養分にして、眼や脚や翅をつくりあげる。葉をかみ砕いていたイモムシの顎と、蜜を吸うチョウの口とのあいだには、何のつながりもないのだという。近ごろは、サナギの中で起きていることを、断層撮影で覗けるようになった。

 人も似たようなものかもしれない、と隅田は思う。軍国少年だった荒木教授も、社会変革運動に身を投じた蒲生も、時代の中で一度は身が溶けるような思いをしたのだろう。それでも、小さな芯のようなものだけは残って、次の姿をつくっていったのではないか。自分の中に残った成虫原基は何だったのか。見ていたこと、そのものだったのかもしれない。

 ある夏の日、霧ヶ峰の車山で遊ぶ隅田の指に、アサギマダラが止まった。本州から台湾まで渡ることもあるチョウだ。地を這っていた虫が翅を得て、ゆらゆらと遠くへ旅していく。

 夕暮れの庭では、オオカメノキの白い花が際立っていた。葉が亀の甲羅に似ていることから付いた名だ。寒い高地を好む木である。オオカメノキは、涸沢の紅葉をナナカマドと競う。上高地によく出かけ、涸沢にも足を延ばす望美の撮影対象である。

 談話室では、及川恒平の「夏・二人で」が小さな音でくり返し流れている。真夏にうきうきと歩いた神田神保町のすずらん通り。銀座の飾り窓で、白く長いウェディングドレスを見ていた望美。きれいなレストランに入りたいとも言った。いつかの夏に「ゆめのみちをたどって きえてしまう」ヘイケボタルの光にも似た儚(はかな)さに心は震え、素直な心を閉ざしていた一九七〇年を遠い眼で追う。

 ハルゼミの声がやむと、傾いてはいても光量が落ちないた陽光に満たされた緑の木々は風が静まって寂静の一時を迎えていた。談話室の窓を大きく広げた。十分だ、こんなものだ。夏の日、特に春から夏にかけての日は暮れそうで暮れないんだ。隅田の安楽椅子が静かに揺れた。

(了)


2026-09-22-c8-five-days-of-training-on-how-to-use-ai-

[資料]
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-3-(第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-6-(第六章 進路と消息)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-7-(第七章 緑の暖かい風)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之



旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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