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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」
-改訂版四稿-

Five days of training on how to use AI

一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

旅のエッセー集 甲斐鐵太郎

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之



作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。


二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。


五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。


野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。


野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。


南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」 2026年9月27日・@森夏之

序

 東京・神田。古書街の裏通りには文具屋やレストラン、居酒屋が並んでいた。表の靖国通りには洒落たビヤホールがあり、古書店街を歩く人混みがこの街の活気を物語っていた。古書店やそれに並ぶ岩波書店は巨大な本棚のようであった。学生たちにとって古書店街は、研究書や掘り出し物の資料を探す場というより、定価販売の本を少しでも安く手に入れるための場所であった。ある名の知れたビヤホールがビルの二階にあり、鈴木というオーナーがリズムよくジョッキにビールを注いでいた。このビヤホールは後に、NHKの朝ドラ「ひらり」で主人公が食事をする場面のロケ地にもなる。学生たちは、この「ランチョン」でカツレツを食べることを楽しみにしていた。神田・神保町の学生街に若者たちが集っていた。

 一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。

第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」

 一九六八年の春、隅田肇(すみだ はじめ)は神田にある専修大学法学部に入学した。靖国通りにはまだ都電が走っており、行き先は渋谷と新宿であった。隅田は専修大学前から都電に乗って、よく渋谷へ遊びに出た。その都電は一九七〇年の春には姿を消す。自動車優先の社会思想が背景にあった。

 専修大学の神田校舎は小さく、古色然としていた。隣には英語学校のエレックがあり、校舎のまわりには木造二階建ての小さな印刷工場が散在していた。この地には出版社が集まり、それに付随して印刷工場が集積していたのである。印刷工場はその後、徐々に周辺に散らばっていく。それは、東京の産業構造の変化がもたらした結果であった。

 隅田肇の下宿は、新宿から京王線で少し行った明大前にあった。隣の部屋には、明治大学文学部に入学した同い年の相沢俊夫(あいざわ としお)がいた。相沢はボブ・ディランの英詩が持つ謎めいた世界観に深く魅せられていた。単語の組み合わせが紡ぎ出す神秘的なイメージは、日本の文学や詩とは明らかに異なっていた。アイルランド民謡の影響を背景に持つディランの歌と、自らの東京での学生生活をいかに結びつけ、読み解くか。その探求こそが、相沢俊夫が英文科に身を置く最大の理由であった。

 大学は荒れていた。東大と日大では紛争が激化し、この年、御茶ノ水の通りにはコミューンさながらの学生の騒乱が現出した。この騒乱の渦の中にいたことを隅田肇に熱気を帯びて語る三学年上の者がいた。隅田たちが入学した翌年一月には東大安田講堂の事件があった。神田と御茶ノ水にある中央大学、明治大学、日本大学、専修大学も騒乱の渦に巻き込まれ、学生たちは落ち着かない日々を送っていた。法政大学と東京理科大学も近くにあったが、それぞれ市ヶ谷と飯田橋であったから、神田はこの二つの大学の学生とは距離があった。

 時代は高度成長期で、諸物価が高騰していた。国立大学も私立大学も授業料の値上げを繰り返し、東大・日大闘争の余波は神田・駿河台一帯の大学にも及んでいた。専修大学でも学費の値上げがあり、古い神田校舎を取り壊して高層の校舎に建て替える計画が進んでいた。私立大学への国の助成は、現在に比べれば無いに等しかった。相次ぐ値上げに、学生も教員も私学への公費助成を求めて声を上げた。

 当時、国立大学の授業料は月額千円、年額にして一万二千円であった。隅田肇の三歳年下の弟が一浪してある国立大学に入学したときには、授業料は三倍になっていた。それでも国立大学の授業料は、私立大学に比べて格段に安かった。私立大学での授業料値上げ反対運動は、この国立大学との格差と物価の高騰を背景にしていた。桜通りの端にある中華料理屋の酢豚定食は三百円。国立大学のひと月の授業料の三割ほどである。その定食に、隅田は憧れていた。酢豚の肉の量は格別に多かった。

 専修大学神田校舎は、門をくぐると中庭に出る。中庭を進むと教室への門があり、その左脇に学生自治会室があった。蒲生哲夫(がもう てつお)は入学してまもなく民主青年同盟に加わり、翌年には自治会の執行委員になっていた。隅田肇を含む、五人の仲間のひとりである。

 蒲生の役目は、大きな立て看板に模造紙を貼り、学費値上げ反対と日米安保条約廃棄を訴える檄文を書くことであった。学生の登校時刻にはビラを配り、そのあと教室に行って「何故ならば」と声を張り上げて演説した。それが済むと自治会室に戻り、翌日のビラをガリ版印刷機で刷った。三年生になると、その役はガリ版切りに変わった。文章は蒲生が考える。ビラは毎日新しく出した。事態の切迫感を演出するためであった。土曜と日曜には立て看板を書き換えた。

 蒲生たちには必読とされる本があった。小林多喜二が地下活動を描いた『党生活者』と、獄中で十二年を過ごした党の指導者とその妻の作家が交わした書簡集『十二年の手紙』である。蒲生はそれを読んで英雄の姿を思い描いた。自己犠牲への恐怖と、その自己犠牲が普通に暮らす家族とどのように関係するのか。もう少しの穏やかさがあっても良いのではないか。社会主義や共産主義への考え方が狭く鋭く定義されているように思えて、そのような状態に身が縮んだ。だが、運動の大義には同意するほか無かった。

 民主青年同盟に加入するとすぐに運動に没頭する自分にかすかな疑問をいだく蒲生であった。兵隊だって新兵教育をしてから戦場に送られる。戦争の現場を指揮するのは士官であり、士官学校や兵学校での教育の後のことである。大学生活の四年間に社会改革の理論と思想を学んで社会改革者になれるのか。それはあるいは一時の熱狂に過ぎないのではないか。蒲生哲夫は平凡に生きてきた人間が「闘士」に瞬時に変容するという自分の姿を不思議な思いで見ていた。

 三年の春からゼミが始まった。隅田と同じゼミには、遠山健一(とおやま けんいち)、蒲生哲夫、加藤望美(かとう のぞみ)がいた。蒲生はすでに自治会の執行委員長になっていたため授業にはほとんど顔を出さず、結局は単位を取れなかった。

 加藤望美は司法試験を目指していた。彼女の気迫に、隅田は圧倒された。加藤望美は当時の法学部において一割にも満たない女子学生の一人であり、背が高く細面で、美しい黒髪をした美人であった。男たちが加藤に関心を寄せるのは自然なことであった。遠山健一もまた、そのひとりであった。加藤望美を知る幼友達や高校の同級生は教育系の大学に進むと考えていた。体育が向いていて、体育教師として指導の笛を吹く姿こそ、周囲が思い描く望美の姿であった。

 松川事件は一九六三年九月十二日の最高裁判所で検察側の上告が棄却され、被告人全員の無罪が正式に確定する。GHQが国鉄労働組合(国労)の活動を抑え込むため仕組んだとする説がある。労働者被告の弁護団に後藤昌次郎がいた。松川事件が起きた一九四九年には三鷹事件があり、一九五二年には、鉄道事件ではないが辰野事件があった。望美の父親は三鷹事件を取材していた。書棚には三鷹事件のファイルがあった。共産党による警察署襲撃をでっち上げた辰野事件、松川事件のファイルもあった。林百郎は松川事件、三鷹事件、辰野事件の三つの事件で弁護人を務めた。望美には、弁護士として働く自分の姿が想像された。

 隅田は、蒲生や相沢のように意識が高い学生がいることと、何となくということで日々を送っている自分を対比していた。隅田の祖父母、父母は公務員であり、住まいは役所への通りにあった。勉学は飛び抜けてはいなかったが駄目ということでもなく、自分では上のほうに位置していると思っていた。将来、何になるかということは考えてはいない。ただ店先で算盤を弾く商いの仕事は性に合わないと思っていた。学生活動家として、これに没頭する蒲生、そしてボブ・ディランの詩に魅せられて、その内容を哲学的に解釈することで一人悦に入る相沢には軽い嫉妬心を覚えていた。彼らと比べて、自分はひどく平凡な人間なのだと決めてもみた。

 専修大学の経済学部には、マルクス主義経済学を教える荒木忠一教授がいた。荒木は海軍兵学校の生徒であった。兵学校にいたとき、彼は江田島から北の空に、広島に落ちた原爆を見た。窓ガラスが激しく揺れ、キノコ雲が立ち上った。

 終戦で兵学校が閉校になると、荒木は五年制の旧制会津中学校に復学した。そこから旧制浦和高校の理科に進み、新制の東京大学では文学部で歴史を専攻した。兵学校を追い出された生徒たちの多くは、似たような道を歩んだ。旧制浦和高校は、旧制東京帝国大学への進学実績において旧制第一高等学校に次ぐ存在であった。

 戦時中、旧制高等学校や大学の理科の学生には徴兵猶予があった。理科を選んでこの恩典に浴そうとする者、理学、工学で国家の役に立とうという者の二通りがあった。終戦で徴兵がなくなると、理科から文科に転じる旧制高校生が相次いだ。専修大学法学部教授の大嶋太郎もその一人である。大嶋が法学部長を、荒木が経済学部長を同じ時期に務めたこの二人は、旧制浦和高校でも同じ時期に学んでいた。二人とも理科から文科に転じ、大嶋は東京大学法学部に、一年遅れて荒木は東京大学文学部に入学した。のちに隅田肇は、法学部では大嶋教授の、経済学部では荒木教授のゼミに入ることになる。この偶然をどう理解したらよいのか、隅田は考えるのであった。大嶋教授は東大を卒業したのち、東大の社会科学研究所の研究員として、各地の農民が農民組合をつくって活動する様子を調査していた。大嶋太郎が転科する前の旧制浦和高等学校の理科の同級生に井伊浩市がいた。井伊浩市は工学部応用物理学科を卒業して政府の工業技術院に属する技術研究機関に入職し、後に通商産業省工業技術院の院長になっている。東京大学社会科学研究所で大嶋太郎の先輩にあたり、農村と漁村の組合運動の調査・研究を一緒にしていたのが福島新吾である。福島新吾がこの時代の東大社会科学研究所における組合活動と連動した党活動の手記を残している。福島新吾と二人でアダム・スミス『国富論』を輪読した吉瀬維哉(よしせ しげや)はすぐに大蔵省に入り、後に事務次官になった。福島新吾は東大社研を退職し、専修大学に転じ、法学部長に在任した。大嶋太郎は隅田肇の経済学部への学士入学の推薦者であった。東大駒場キャンパスで反イールズを掲げた試験ボイコット時、自治会副委員長を務めた荒木忠一。その同じ駒場に、井伊浩市もまた在籍していた。人のつながりの奇妙にも見える縁がある。

 福島新吾が吉瀬維哉とのアダム・スミス『国富論』の輪読に関係して残した次の言葉がある。「この事なかなか容易ではあるまい。根気を要する。しかしやりとげれば二人の為に大きな益を残してくれるだろう。敗戦後の平静を失った心のよりどころにも資するため大いに力を注ぎたいと思う。最近いろいろ反省してみて如何に自分が流れに逆らっているつもりで流されていたかを痛感し、自信を失っている」

 東大駒場の学生自治会で、荒木は副委員長になっていた。レッドパージに反対して試験ボイコットのストライキを決行し、委員長とともに責任を問われた。委員長は退学処分となったが、荒木の学生という身分は残された。文学部で歴史を学ぶうちに、歴史の根幹を流れる経済のことが強く心に迫るようになった。大学院では経済学を選び、山田盛太郎にマルクス主義経済学を学んだ。山田の再生産表式分析は、資本主義経済を分析できるものとして注目されていた。歴史学から転じてきた荒木の力量を慮ってか、山田は急いで経済学の手ほどきをしようとはしなかった。

 大学院を修了すると、荒木は法政大学の助手となり、続いて広島大学の専任講師としてマルクス主義経済学を担当した。一方、山田盛太郎は東京大学を定年退官して専修大学に移り、経済学部長となっていた。この時代の専修大学経済学部は、山田によって牽引されていた。決して丁寧な振る舞いをする人ではない山田が、荒木のために経済学部助教授の席を用意して呼び寄せた。広島では研究に不便だろうというのが理由であった。荒木には、広島大学は居心地のよい場所だった。山田と荒木の関係は、時代を映す師弟の姿でもあった。

 駒場でストライキを打って責任を問われた過去を知る学生のあいだで、荒木は人気があった。自治会の委員長となった蒲生にとっても、心強い存在であった。その荒木が、ある時期に学生部長の役職をあてがわれた。学生部長は学生自治会との折衝の矢面に立つ。大学の管理者として学生と向き合う立場に、荒木教授はさぞ苦笑いしていたことだろう。

 専修大学はマルクス主義経済学を教える大学として、それを知る学生には人気があった。隅田は高校を卒業するとき、京都のミッション系の名門私立大学の経済学部に合格していた。だが当時の彼には経済学が算盤の学問に思えて入学に踏ん切りがつかず、結局、専修大学の法学部を選んだ。入学してからマルクス主義経済学の中身を知り、それが算盤ではなく社会科学としての経済学であると分かったとき、隅田は「しまった」と思った。彼は法学部に籍を置いたまま、経済学部の授業を熱心に聴講した。荒木の講じる経済学はこの世界を知る手がかりであり、足がかりであると強く感じ、基礎の基礎からやり直すつもりで『資本論』のページをめくりはじめた。

 隅田は、経済学部教授の内田義彦(うちだ よしひこ)の『資本論の世界』を繰り返し読んだ。この本は『資本論』の内容を具体的に説くのではなく、『資本論』の視点に立つと人間と社会がどう見えるかを読み解くものである。資本主義の現実と人間回復の課題を結びつけようとする試みであった。隅田にとって内田教授は神様のような存在であり、その門下生として博士課程を終えた先輩から、『資本論の世界』の内容をたびたび教わった。人間と社会がどう見えるかを知るには、まず『資本論』を読まなければならない。のちに隅田が法学部を卒業してから経済学部に学士入学したのは、そう考えたからである。『資本論』を読んでも、内田教授の視点を得ることは難しかった。それでも隅田は同じような視点に立って、人間と社会の関係が生まれる経済的な背景を考えようとしている。内田教授もまた東京大学経済学部の出身で、山田盛太郎の門下生であった。

 隅田は経済学説史を理解しようと、アダム・スミスの『諸国民の富』(国富論)と『資本論』のページをめくった。内容を理解しようとするよりも、書き手がどのような思いで書いているのかに関心があった。『資本論』からは、ドイツ的な弁証法の方法が何となく伝わってきた。隅田の『資本論』は、神田の古本屋で見つけた、弁証法的な論理を色濃く残す訳本である。ほかの訳本を読むと、内容の薄い解説書のように思えてならなかった。

 専修大学には、マスコミ論の講義を受け持つ瓜生忠夫という講師がいた。映画評論家として知られた人である。東京帝国大学のドイツ文学科を出て、在学中は帝国大学新聞の編集長を務めた。共産党員であったために、一九五〇年にはレッドパージに遭っている。瓜生はいつも生真面目な顔で講義をした。受講生は五人ほどしか集まらなかった。顔を覚えられた隅田は欠席するのがためらわれ、結局、最後まで講義を聴き通した。瓜生はテキストを指定せず、試験もしなかった。授業の感想文を書かせて試験に代え、隅田の文章には最上級の点をつけた。

 卒業して二十五年ほど経ったある日、隅田は神田の古本屋で、瓜生が書いた駅弁の本を見つけた。『駅弁マニア』という。講演旅行の折に食べた駅弁の包装紙を持ち帰っては整理し、全国の駅弁を食べ歩いた経験をまとめた、楽しい本であった。奥付を見ると、隅田が講義を受けていたころには、すでに出版されていた。あの生真面目な講義には、食いしん坊の気配はなかった。隅田は本を手にしてクスッと笑うのであった。

第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた

 一九七〇年、安保条約廃棄は学費値上げ反対と抱き合わされ、闘争課題となっていた。専修大学神田校舎の学生自治会室には、蒲生哲夫ら執行委員が閉門まで詰めてガリ版を切っていた。

 日米安保条約が自動延長される当日の六月二十三日、専修大学の学生自治会はストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭に立つのは蒲生である。隅田肇は誘いに応じて、隊列に加わった。なぜか加藤望美が隅田の隣にいた。隊列の端には遠山健一の姿もあった。

 専修大学学生自治会の旗が高く掲げられ、学生の長い隊列が続いた。遠くには自治労などの旗が見えた。機関紙印刷の旗を持っていたのは、隅田の高校時代の同級生であった。

 リーダーが「風に吹かれて」の最初の一節を歌い、皆がそれに続く。どれほどの死者が出れば人は気づくのか、その答えは風だけが知っている――突き放した、哲学的な詩である。日本の街頭に英語の歌が流れる。それは国際連帯を醸し出すものでもあった。ジョーン・バエズの「ウィ・シャル・オーバーカム」が感傷的に歌われ、五つの赤い風船の「遠い世界に」も、若者たちの愛唱歌になっていた。

 労働者、商工業者、婦人団体、学生たちのデモが都心を埋め、長い隊列が深夜まで行進した。隅田肇には、隊列にいる者がすべて仲間に思えた。

 その夏、学生たちの組織は最も盛り上がりを見せた。山中湖畔では平和友好祭が開かれ、テントやバンガローに泊まった若者たちが、砂浜に篝火を焚いて「燃えろよ燃えろ」などの青春歌と労働歌を歌い、踊った。燃え上がる炎は、青春と夏の輝きに重なって見えた。隅田肇と加藤望美がいた社会科学研究会は、山梨の四尾連湖で学習合宿をした。

 学生組織は鎌倉の海の家に集まって、目指す社会の姿と運動の進め方を学び合った。隅田は蒲生に誘われて、この合宿に参加した。講師は内田義彦の指導を受けて博士になっていた先輩で、その内容は『資本論の世界』そのものであった。

 合宿の合間には、浜辺で横笛を吹いたり駆けっこをしたりして笑い合う男女がいた。女は加藤望美で、男は、のちに自治会の委員長になる下級生であった。その下級生の無邪気さに、加藤望美は調子を合わせていた。海に入った一人は、見事なバタフライで泳いでみせた。鎌倉の海は明るく輝いていた。隅田は砂の上に座り、その光景を眺めていた。加藤望美の父親が読売新聞の記者であることを、隅田は彼女から聞いていた。

 四か月後の十月二十一日には、国際反戦デーのデモがあった。自治会は再びストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭にはやはり蒲生がいた。六月と同じように、隊列には隅田と加藤と遠山の姿があった。卒業まであと一年余り、三年生の秋である。それぞれの胸の内には、進路への思いが交錯していた。

 ストライキは、全学生の投票で決まった。決まると大学は授業を休講にした。事実上、ストライキ権が認められていたのである。それでも、自治会の委員長としてストライキを打つことは、退学を覚悟してのことであった。誰かが身体を張らなければ、運動は前に進まない。

 ある日、蒲生の父親が学生課に姿を見せた。職員たちの前での面会であった。父は息子の身を案じる言葉を口にした。蒲生には父の気持ちが分かっていた。だが引くに引けないことを、察してもらうしかなかった。蒲生の弟は地方の国立大学で寮に暮らしていた。そこでも学費値上げに反対する不払い運動があったが、家に届いた支払通知書の通りに、親はさっさと納めていた。大学卒業が生きていくために役立つということが父親の思いであった。蒲生の出身地の岩手県ではある町の三百六十人いる中学校生徒のうち高等学校に進む者がやっと六割になったところであり、三百六十人のうち大学に進むのは十二人ほど。このうち国立大学に五人進むという状況であった。親にしてみれば、何としても無事に卒業してほしいのであった。

 安保条約は延長され、学費値上げの阻止も果たせなかった。値上げの幅にいくらか手心が加えられたにすぎない。目標だけを見れば敗北であった。秋が過ぎて冬になると、組織が会議を招集しても、集まるのは三分の一ほどになった。各学部の幹部学生からも、姿を見せなくなる者が出た。会議に出ない者は、大学にも顔を出せない。教室でストライキを呼びかけ、立派な論理を説いていた者が、ある日突然大学から消える。蒲生はそういう仲間を何人も見た。幹部であれば授業には出ない。活動をやめることは、大学に来なくなることと同じであった。学問の楽しみも、社会に出るための切符である卒業も、彼らは事実上諦めさせられていた。

 蒲生の目には、別のものも見えていた。活動に加わる女子学生たちの必死さと健気さである。いちばんの重荷は、自分の立場を明かして機関紙の購読を頼んで回ることだった。こんなことを一生続けるのか。そう考えずにはいられない活動の苦しさは、恋愛への憧れと隣り合わせにあった。女子学生の三割ほどが、組織の男と結ばれていった。

 激しい闘争と、そこでの敗北を、隅田肇は蒲生哲夫の姿を通じて見ていた。蒲生はへこたれずに孤塁を守っていた。その強さがどこから来るのか考えてみたが、分からなかった。

第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店

 明治大学文学部の相沢俊夫と隅田肇は、下宿が同じこともあって、空いた時間によく珈琲を飲んだ。お気に入りは、神田小川町のミズノ本店の裏にある「ダボス」であった。御茶ノ水から明治大学の坂を下り、靖国通りを渡った先の路地にある。一九六六年に開いた小さな店である。マスター(主人)は日産・フェアレディの開発者のことをよく話題にした。隣に住む人だったからだ。相沢俊夫はボブ・ディランの英文の詩を日本語に訳しては、レコードに付いている「訳詞(対訳)」は違う、こうでなければならないとブツブツ言った。ライナーノーツの解説にも文句を付けた。そこに書かれたアーティストの歴史やレコーディングの裏話は果たして本当か、などとも言う。相沢俊夫の話し相手として、隅田肇は重宝であった。

 「ダボス」はアルコールランプのサイフォンで珈琲を淹れた。ランプの火がフラスコの底を熱する。湯が上のガラス容器に吹き上がったところで粉を攪拌すると、湯と粉は泥のように混ざり合う。頃合いを見て火を落とす。その火の止め方で、珈琲の濃さが決まる。フラスコが冷えて気圧が下がると、上のガラス容器の珈琲が吸い下ろされる。粉はネルのフィルターに残り、良い色の珈琲ができあがる。小ぶりのカップで出されて、一杯百五十円であった。

 日中の「ダボス」はミズノの社員の息抜きの場であった。夜になると博報堂の社員や、名の通った紙の卸店の社員が顔を出した。午後五時を回ると、店主はカウンターの下から一升瓶を取り出し、常連と飲みはじめた。話題の中心は競馬の予想で、休日の前には馬券の手配をしていた。近所で育った司法浪人も常連のひとりであった。五時を過ぎて店に行くと、隅田は決まってジントニックを注文し、相沢もそれに倣った。ときどき一緒になる遠山健一は、いつも珈琲だった。

 神保町の交差点を挟んで、専修大学寄りの向かい側には「エルマーナ」という喫茶店があった。スペイン語で「姉妹」という意味である。ときどき姿を見せるママの妹のことかと思ったが、名の由来を聞いたことはない。広めのフロアーをママが一人で切り盛りしていた。明治大学を出た主人には早くに先立たれた。ママが主人の話をするときには明治大学の名と繋ぎ合わさった敬服の情を強くにじませた。「エルマーナ」は夜遅くまで開いていたから、学生には好都合であった。蒲生たちは毎日のようにここで珈琲を飲み、懐疑をした。

 加藤望美はママのお気に入りの女子学生であった。活発な中に憂いを見せていて、男たちの視線を浴びていることも気がかりだった。ママは進んであれこれ話しかけ、いつしか望美の身の上の相談役になっていた。望美には何となく張り詰めたところがあった。まだ幼さを残していたうえに、美人であったから、ママは寄ってくる男たちを警戒していた。夜遅くまで法律書を読んでいる加藤望美を、ママは応援していた。隅田が加藤望美の身の上を知ったのは、ママの口からであった。

 隅田は、遠山が加藤望美を目で追っていることに気づくようになっていた。人が人を好きになるのには理屈はない。大学を卒業してずっと後になって、隅田は、あのころある女性が自分に好意を寄せていたことに気づいた。その女性との距離は、縮まらないままに終わっていた。

 卒業が近いある日、隅田肇は加藤望美に喫茶店へ誘われた。夜遅くのことである。二人は飯田橋にある大きな深夜喫茶に出かけた。終電が過ぎ、二人は明け方までそこで過ごした。話はとりとめのないものだった。思いつめたように声をかけてきたのに、加藤望美はいつもと変わらない調子で話し続けた。呼び出したときの緊迫したようすを、望美は隠してしまった。いつもの素直な加藤望美として振る舞っていた。

 周囲の人々は、隅田肇と加藤望美が将来一緒になるのだろうと見ていた。エルマーナのママも同じであった。だが二人は、互いの好意口にすることがなかった。隅田肇はもう少し時間が欲しいと思っていた。このままの付き合いを続けるのが良かった。それは、彼女が司法試験に挑んでいることを考えてのことであった。そっとしておかなくてはならない。今ここで結婚という重荷を背負わせてはならない。自分はあと二年、別の学部で勉学を続ける。会う機会はあると考えていた。

 二人はコートを二枚重ねて肩から膝を覆った。加藤のコートは暖かく、それが上等な仕立てのものであることを隅田は知った。

 加藤望美からの連絡は、それきり途絶えた。隅田も連絡しなかった。加藤望美は司法試験という、冷たく厳しい氷の世界に飛び込んでいったのだ考えた。そっとしておくしかなかった。

 エルマーナのママは望美と隅田に好意的であった。経済学部に学士入学して、大学を二年延長しているときに、隅田が下級生の女子学生と話していると、「駄目」という目配せをした。これが望美と隅田を見る周囲の目であった。忠告を受けて隅田は女性との距離が近くならないようにした。

 「あのときに おもいきり なけたら いまごろ ふたり ここでうみをみていたはず」。隅田にはそのフレーズが空しく聞こえる。望美はどうなのか。

 ガロの「学生街の喫茶店」がどこからか流れてくるたびに、隅田はあの夜を思い出した。聴いていると照れくさく、きまりの悪い歌詞である。曲はどこかで聴いたことがあるような気がして、それが不思議であった。作詞は山上路夫だと誰かが語るのが聞こえた。山上路夫の綴る歌詞は、どこか現実味に欠けていると隅田は感じた。歌詞の舞台は御茶ノ水の喫茶店「丘」だとも言われるが、作詞者本人は否定している。どこにでもある情景だから、誰もが自分の通ったあの喫茶店ではないかと思う。得な歌である。

 それから三十年余りが過ぎた二〇〇〇年代の初め、隅田はN県の東京事務所に勤めることになった。二年ほど、飯田橋に寝泊まりした。加藤望美と明け方まで過ごした、あの深夜喫茶のあった町である。

 仕事の合間に事務所を抜け出して、隅田は再び「ダボス」の扉を押した。創業が明治の末という萬楽飯店の前の路地を入ったところである。店の真ん前には小さな神社があり、梅雨どきにはアジサイが咲いた。このあたりには、木造二階建家がある。東京大空襲の被災から復興した粗末な住宅である。隅田より十年年長の同郷の男性が東京電機大学卒業後にこの地に三十歳過ぎて住んでいたことに納得した。家賃が昔のままで住んでいられたのである。地権者不在の住宅だった。

 珈琲は二百五十円になっていた。これ以上値段を変えないという店主の決意を示すように、品書きは銅板に刻まれていた。サイフォンで淹れる珈琲は相変わらず上等であった。水は東京都の水道水である。壁に埋め込まれたクーラーは三十年も使っていて、ガラガラと音を立てていた。隅田はスポーツ新聞を広げながら、店主の話を聞いた。落合博満が監督にならない理由を、店主はいくつも並べてみせた。落合はその後、見事に監督業を務めた。人の見立ては難しい。

 午後五時を回ると、店主はカウンターの下から一升瓶を取り出した。博報堂の社員と紙の卸店の社員がやって来て一緒に飲む。話題は競馬の予想であった。ときどき司法浪人が顔を出した。新しくできる法科大学院に期待を寄せているのだと、店主が話していた。司法試験という言葉を聞くと、隅田は若いころの望美を思った。隅田は昔と同じように、ジントニックを頼んだ。「ダボス」は二〇一六年に五十周年を迎えていた。

第四章 ボブ・ディランの詩集

第四章 ボブ・ディランの詩集

 隅田肇は、卒業後も二年、大学に残ることが決まっていた。隣室の相沢俊夫とはこれでお別れである。ボブ・ディランを神のように崇める相沢が、ボブ・ディランの英文の詩集を持っていないことを隅田は知っていた。隅田は『タランチュラ』の原書を古書街で探しだしていた。それを渡し、ひとこと「あばよ」と言った。

 卒業式の日の蒲生哲夫の姿を、隅田は深い感慨をもって見ていた。ご苦労だったねと思った。蒲生は自治会活動のために授業にはほとんど出なかった。それでも卒業単位はそろえていた。彼としては学歴は要らなかったろうが、親や親戚の手前、卒業しておくに越したことはなかった。

 四年前に同じ教室に集った四十人の男女は、それぞれの道へ踏み出していった。

 大学に少なくとも二年残る。経済学部に学士入学して資本論にかじりつく、それが目的であった。親元のことを考慮した結果が次のようなことであった。弟が大学に入学することになっていた。隅田肇は、法学部四年の時点で国立大学職員の試験に通っていて、文部省に所属する国立大学職員として一九七二年四月から勤務を始める。専修大学に近い東京医科歯科大学を希望したが、これが通らずに指定されたのは東京大学医学部であった。ここも専修大学に近いので了解できた。国立大学職員の仕事は日中であるから、経済学部への学士入学は夜間部である二部を申し入れてこれが通った。文部省に所属する国立大学職員であることを周囲には隠して大学に通う。

 国立大学職員は現在は国立大学法人になっていて、それまでのように文部省直轄の職員ではなくなった。以前には霞が関の文部省勤務を希望すれば昇進速度が早い順キャリアの扱いを受けることができた。本省勤務になれば責務が重くなり、残業が付いて回る。これを避けるために、出先ともいえる東京大学の医学部職員として勤務することにした。一九七二年四月一日、隅田肇は国家公務員として社会に出たのであった。本人の気持ちは勉強の継続にあるから国家公務員の新人の身分は気軽でよい。まともに相手にされず、期待されないだろうから、そのことが、かえって好都合であった。職員には高校卒の者が多くいた。

 国家公務員時代の国立大学職員のときも同じであったが処遇はあまり恵まれてはいない。高卒、大卒ともに俸給表の規定の二級、三級の扱いで定年を迎える者が多かった。四級に達する者は極わずかであった。四級は霞が関本省勤務では係長級であり、出先の大学事務局では課長に相当した。

 ついでだからもっと上の職を求めても良かったかな、と思うことがあったが欲は捨てていた。曲がりなりにも国家公務員の職に就くのだから満足すべきだと自分に言い聞かせた。

 後にN県に就職するときに国家公務員時代の俸給が引き継がれた。N県に移るときに試験をどうするか、相談すると移籍ではなく、普通の形で受験して成績次第で採用の可否を決め、合格していれば俸給は引き継がれることになった。もっとも試験は形式的なものであったが合格点に達していたから、すんなりとN県の職員になった。そのような道もあるのかと隅田肇は驚いた。

 これはモラトリアムだな、という思いが行き来した。加藤望美からは連絡はない。彼女は司法試験という茨の道に飛び込んでいった。それは氷の世界に似ていた。気がかりでならなかった。励ますとはいっても、言葉を掛けても薄すぎる。こちらからは連絡はしないと決めた。彼女は吉祥寺の親元に住んでいる。それは安心材料になった。

 司法試験に挑む人々を見てきた隅田である。一つ上の人は風呂敷に本を包んでいた。大学で顔を見たのは二度だけであった。精神を病んでいたのかも知れない。同じ学年の一人は四年時には志望を変えて教員になった。神田界隈の喫茶店の暗がりで中央大学の学生が試験対策で勉強会をするのを見ていた。この当時、中央大学は東京大学より多い合格者を出していた。中央大学の学生たちは、合格への意気込みと、実現性の気配を濃厚に漂よわせていた。年に五〇〇人ほどの合格者という門の狭さに、自らの身を照らすと、その姿は見えてこなかった。大学四年の間に取り組んだ法学の勉強は、単位取得の状態を超えてはいない。法学への深い理解に達っしていない。その状態であったから、理解力が高い東大生や、受験のための体制が整備されている中央大学生と張り合う意欲が湧くことはなかった。自分は覚えることではなく、考えることを主体として、それに合うことをしようと決めた。興味があるのはマルクス主義経済学であった。モラトリアムとして設定した二年間を資本論にかじりついて過ごそうと考えた。

 決意を体現するように、卒業単位の最低限の数として科目で選んだ。必修科目を除くと選択科目は少なかった。もしかして卒業単位に足りない履修届にしたのではないか、という不安があった。卒業を目的にしているのではないと決めているから、考えないことした。合格発表名簿に名があった。授業に出るのは資本論のゼミだけ。それは週一回であり、この週に履修している科目は気分に任せて受講した。

 授業と学業について、蒲生哲夫が語った言葉がある。入学とほぼ同時に共産党に入党して、一九六八年という激しい渦に飛び込んだ蒲生である。

 「仲間の苦労をみていると授業にでることができなかった。自分が授業にでていることは活動をサボっているようであり、そのようにも見られる。同じように活動家が卒業を意識して授業にでているのを見ると女々しいと考えていた。ビラ配り、宣伝ビラのためのガリ切り、印刷機の運転、立て看板書きがある。教室に出向いて静かな語り口で演説したとしても、教室の椅子に座って授業を受けることはできない。偉そうなことを言って授業に出ている暇があるのかと見られそうであった。大学側との交渉もある。動員が掛かればデモにでかけて行かなくてはならない。学生自治会の運営、それは闘争という呼ばれ方をしたが、そのために上部の学生組織である全学連の執行部との会議、専修大学学生の党組織の会議、そして地区委員会の青年学生部長との会議、向こうはこれを指導と言った。それを受けなくてはならない。そうした活動をしていると、授業にでないで業務をこなしても終電になり、会議の続きを学内党組織の仲間の家に行って続けることになった」

 蒲生の話を聞くと、自分が学習だけを目的に通学することは身勝手にも思えるのであった。しかし資本論に目を通さなくてはならない。資本論学習の手助けを受けるために大学に行き、授業を受けるのだ、ということをわざわざ自分に言い聞かせなければならない隅田肇であった。これで二年間を押し通すしかないと、割り切った。

 そうした間にも加藤望美の姿が浮かぶ。思いはあっても意思を表現できない。望美は司法試験に挑戦している。どのようなことにも蓋をしていると思わなければならなかった。もどかしい。しかし、その状態のままでいるしかなかった。

 もがいて、そのような状態に身も心も置く。

 隅田肇はモラトリアムの世界をつくって、これに籠ったのだと、うすうす感じた。加藤望美は氷の世界に飛び込んで凍り付いている。

 四年前に、 同じ教室に集った四十人の男女は、クモの子が一斉に散るように社会にでていった。それなのに自分はどうなんだ。苦悩の日がつづいた。

 苦悩の日々に思い出すのは、下宿の隣室の相沢俊夫との会話であった。

 相沢俊夫はボブ・ディランの英詩を読んでは、独り言のようにぶつぶつ語る。

 英詩の背景にあるキリスト教文化、それは福音派なのか、カトリックを含めたキリスト教の総体なのか、そこから出てくるものとして受け取らなくてはならない。英語の単語と日本語のそれらしい単語を対置して、その日本語の単語の意味でボブ・ディランを解釈してはならない。ボブ・ディランは何系の宗教に属しているのかな。良くは分からないんだ。宗教によってモノの見方、見え方が変わるからな。

 米国の文学書を渉猟しては、ボブ・ディランを読み解こうとする。「風に吹かれて」だって意味が解らないではないか。

 「風に吹かれて」の歌詞は、問いを重ねても「答えは風の中にある」とする。結論はないようにして、問いをそのままに残す。何なんだこれは。「風の中にある」という一節も、「すぐ目の前にあるのに見落としている」とも、「捉えようがなく、どこかへ消えていく」という意味にも取れる。複雑なできごと、簡単に割り切れない人間もようを解釈しようとしても、ボブ・ディランに問うと答えがない。霧のなかに引き込まれていく。

 そのような相沢の話を聴いている隅田であった。

 How many roads must a man walk down / Before you call him a man。人が一人前と認められるまでに、どれだけの道を歩かなければならないのか。

 The answer, my friend, is blowin' in the wind / The answer is blowin' in the wind。友よ、答えは風の中に舞っている。

 いいよな、このような言い方。何か大事なことがあると問いかけて、答えを相手に被せて、と相沢は言う。

 ボブ・ディランの「風に吹かれて」は、「風は吹いている」ではないのか。

 いや違う。「風は吹いている」ではない。原題の Blowin' in the wind は、「(答えが)風の中で舞っている/漂っている」という意味だ。

 英語の文法と歌詞の文脈からであり、解釈のポイントは次の三つだ。

 主語は「風」ではない。「風は吹いている」を英語にすると The wind is blowing になる。しかし、この曲のサビの歌詞は The answer, my friend, is blowin' in the wind、つまり「友よ、答えは風の中に漂っている」になる。主語は「風」ではなく、The answerということで「答え」になっている。

 と、ぶつぶつ言う。そして続ける。

 blow in the windのニュアンスはどういうことか。ここでの blow は、単に「風が吹く」という意味の自動詞じゃない。風に煽られて、ひらひらとなびく、風の中で舞い漂う、という状態を表す自動詞なんだ。つまり、「答えは風の中にゆらゆらと漂っていて、つかみどころがない」ということだ。あるいは、誰の目にも見えているのに捕まえられない、こと。

 相変わらず相沢のぶつぶつだ。好きにしゃべってね。難しいことは分からないけれど、聴いているから、というのが隅田の態度。それでいて馬耳東風のようすは見せない。

 日本語のタイトルに選ばれたのは「風に吹かれて」。直訳するとblown by the windは、受け身に聞こえるから、本当に真っすぐな訳ではない。ただし、「風の中でなびいている」「風を感じながら途方に暮れている」と言う形にして、詩的で情緒的な響きを持たせている。

 相変わらずぶつぶつが続く。

 ボブ・ディランの「風に吹かれて」が日本に与えたこと、そして世界へのそれ。

 ボブ・ディランが一九六二年に作詞・作曲したこの曲は、ポピュラー音楽が持つ社会的かつ文化的な意義を根本から変えた。

 日本の最初のフォーク・ソング・ブームは、一九六〇年代の半ばから後半にかけてのこと。きっかけはピーター・ポール&マリーが歌う「風に吹かれて」。ジョン・バエズも歌った。ボブ・ディランを意識する者は殆どいなかった。ボブ・ディランを強く意識したのは高石友也や岡林信康の歌い手の側。遅れてやってきた吉田拓郎はボブ・ディランの曲を追いかけて、曲を作った。知らない日本の若者は吉田拓郎を恰好いいと思う。その背後にボブ・ディランがいたことを後で知る。騙されたな、と皆が感じた。日本では「風に吹かれて」が、ベトナム反戦運動の象徴となった。

 世界に与えたこと。ピーター・ポール&マリーによる一九六三年の大ヒットをきっかけに全米に広まり、同年のワシントン大行進でも歌われた。米国では公民権運動と反戦運動の象徴になる。ポピュラー音楽は情緒を歌うものであった。「風に吹かれて」によって政治的・社会的な問いができることを知った。それはビートルズとそのメンバーのジョン・レノンなど同時代のソング・ライティングとして現れた。

 相沢俊夫は難しいことを考えて、難しいことを言う。聞き手は隅田でなければならなかった。

 古書店とレコード屋とカレー屋などが渾然一体となっている、文化もまぜこぜな神田神保町のコーヒー店で、思うことを好きなだけ語り、語っては次のことを思う。思いは遠くに飛んでいき、その思いにつられて相沢がどこかに行ってしまうようであった。風のような、生活実感を見せない、頼りなさがまとわりついているのが相沢であった。だから「あばよ」なんだと隅田は考えてみた。

 中途半端な時期を過ごしていることを感じる隅田であった。このころは魂が抜けて、風の中に漂っていたんだ、と思う。

第五の一章 学生活動家と待ち受ける試練

 蒲生哲夫は入学するとすぐに民主青年同盟に加わった。全共闘運動が盛んなころで、各大学がゲバルトの気配に満ちていた。学生部長や学長が団交の場に拘束される事件が相次いでいた。

 一九七二年に卒業すると、蒲生は民主青年同盟の専従活動家になった。「二十万人の組織だぞ」と蒲生は隅田肇に誇らしげに話した。かつてない組織の規模とその高揚に、蒲生は身震いしていた。

 その年の夏のことである。蒲生の身に何かが起きたらしいことが隅田に伝わった。隅田はまだ大学に残っていたので、蒲生の動静が聞こえてきやすかった。党員であった蒲生は、党本部の一室に呼び出され、問い詰められていた。詳しいことは何も分からなかった。ただ「何かがあった」ことだけが伝わってきた。

 後に分かったのは次のようなことだった。蒲生は「分派」の嫌疑をかけられ、党本部で査問されていた。聴取ということで拘束に同意させられ、一週間に及ぶ軟禁状態となった。何を話せば理解されるのか、蒲生は途方に暮れた。自分とその周囲の行動の一つ一つが、見事なまでに調べ上げられていた。

 結局、蒲生は周囲の動きに気付きながら諫めることをしなかったということを咎(とが)められ、専従職を解かれた。失望のまま故郷に帰り、小さな印刷工場で働くことになった。

 言葉は本来、世間の共有物である。だが「分派」や「新日和見主義」は、根拠が明かされないまま、組織の側だけが意味を知る言葉として使われた。受け取った言葉を手がかりに相手を理解しようとすると、言葉はまた別のことを言いはじめ、主張はぐるぐると回る。何を話せばいいのか。査問の一週間を通じて蒲生が感じたのは、共通の理解が通じない相手と向き合うことの虚しさと怒りであった。人と向き合うとき、誰もが相手と言葉が通じることを前提にする。その前提が崩れたとき、人は深く傷つく。

 それから歳月が流れた。隅田肇と蒲生哲夫には、東京の下町の駅前にある小さな居酒屋で会う機会が一度だけあった。かつて党の千代田地区委員会で学生対策部長を務めていた人が経営する店であった。国鉄の労働組合で活動し、その後に党専従になった人で、蒲生とは郷里が同じである。身体を壊して専従をやめたあとで、江東区森下の小さな家屋の一隅を借りて始めた店である。

 蒲生はぼそっと言った。「おれは分派なんかじゃなかった。上部に物を言える雰囲気ではなかったんだ」

 自分と同じように査問された者が全国で数百人の規模でいたらしいことを、蒲生は後になって知った。幹部専従員だった川上徹も、同じ時期に同様の査問を受けていた。隅田は、川上を直接知ってはいなかった。

 事件の真相が明らかになったのは二十五年後のことである。一九九七年、川上は『査問』を出版した。党は当時、青年組織の誤りを「新日和見主義」と呼び、その芽は双葉のうちに摘み取るのだとした。事実が示されないまま、その言葉が繰り返された。

 蒲生は、「新日和見主義」とされた事件の背景には次の三つがあると考えた。新左翼か既成の組織かと迷いながら、後者に身を置いた者の揺れる心。困難を極める組織の拡大運動。そして、この組織に身を置いたまま生きていけるのかという不安である。

 居酒屋でのその夜、蒲生は次の話をした。卒業して二年ほど経ったころ、仲間の女子学生の結婚式があった。新郎新婦は同じ学年の、別の学部の組織員であった。酒が回ると、当時まだ地区委員会の専従職員であった学生対策部長が、思い余ったようにして蒲生に話しかけてきた。「あのころは随分と無理な要求をして済まなかった。党の最高幹部の子どもが、ある大学で学生活動をしていて、終電まで続く活動を知った最高幹部は、そんな激しい活動をさせては駄目だ、早く帰宅させろと組織を叱り、活動の形を改めさせたんだ」。それは同郷の誼(よしみ)にも根ざしていた。最高幹部の子どもは千代田区にある大学に通い、民主青年同盟員になっていた。

 蒲生は言った。「おれたちは、あそこまで苦しい活動を好んでやったのではない。病気になる者が多く出ていた。無理があり、その無理を知らんぷりされて、過酷な活動を求められたんだ」

 学生生活への配慮など、一切なかった。だからこそ幹部の学生は、活動をやめれば大学に来られなくなり、多くの仲間が大学を去った。かつて学生対策部長で、いまこの店を一人で切り盛りする店主は、当時も密かに蒲生たちに同情していた。とくに同郷である蒲生には優しかった。

 新郎は千代田区の党組織で専従になり、新婦は参議院議員の公設秘書になった。新郎は二年ほどで心を病むようになり職場を離れた。新婦が秘書を務めた参議院議員は落選して引退した。その議員は党の最高幹部に気に入られていなかったと伝えられている。

 蒲生は話し続けた。ある男の身の上である。千代田区の出版社に勤め、経営支部の一員として活動していたその男の支部は、議論なしに解散となり、皆が居住地の支部に組み入れられた。居住支部に移った男は、会議を主導する立場になって地域の活動に取り組んだ。しかし男がやむなく転居すると、中心になる者を失って、地域の支部は混乱し、活動が停滞した。

 男は何十年も、新聞の配達と集金を続けている。オートバイを買い、朝の二時間を配達に費やす。誰もが面白がって、あるいは必要に迫られてその新聞を読んでいるわけではないことは、男も重々承知している。それでも購読を断られるたびに、自分の存在を否定されたような情けない気持ちになる。

 蒲生が知る専従活動家のうち三人が心を病み、活動の前面から退いた。三人というのは、蒲生が知る専従活動家の半数である。専修大学の学生党員の何人かは身体を壊し、ある女性は子どもを産めない身体になった。

 蒲生は思いつめたように言った。「悔しくてならないんだ。何故ああなったんだ。あのころのみんなが、おれを含めて。悔しいだけではなく、怒りが湧く。大学の職員に親父が来たと呼び出されたんだ。面会に来たおれの父親と、党の最高幹部と、何が違うんだ。おれの親だって、子を思えばこその行動だったんだ。親の目に涙がうるんでいた。おれはつられてしまった。職員たちの前では見せられない姿だったんだ。最高幹部の自分の息子への思いは、おれたちへの思いとは違う。時期が違うとはいえ、おれたちは見捨てられているのと同じだったんだ。課題が重かったとはいえ、社会変革へのロマンを理由に、極限まで追い詰められるような形での活動を強いられていたんだ」

 隅田肇の経済学部のゼミ仲間に、蒲生と同じ専修大学の党組織で活動していた者がいた。蒲生と隅田の交友を知っていたその男は、新日和見主義が事件として取り上げられた直後のようすを、口外無用のこととして、誰にとはなしに次のように話した。

 「蒲生さんが何をしていたのかは知らない。卒業後は専修大学の学生党組織の外で活動するようになっていたから。処分を含めたその内容も知らない。処分後には、郷里の岩手に帰ったことだけは伝わってきた。新日和見主義事件で、どのような者がどう関わって何をしたのかは、機関紙赤旗では明らかにされなかった。最高幹部がこれを新日和見主義と呼び、双葉のうちに摘み取るのだと述べて、関連する文章を会議で読み合わせさせられた。その双葉が何を指すのかは知らされなかった。分派や組織破壊の行動があったのだろうと印象付けられた。民主青年同盟など青年組織の問題であることは分かった。川上徹の名は紙面には出てこなかった」

 「誰かが悪事に似たことをしたから、党が組織を守るために新日和見主義を規定し、組織原則に基づく行動を求めている。そう受け止めた。論説は、悪い奴らを退治したという手柄話に聞こえ、同じことをしたら容赦はしないぞ、と言われているようだった」

 「自分たち専修大学の学生組織は純朴だった。蒲生さんのほかには、民主青年同盟の幹部になっている者も、千代田地区委員会で学生組織を受け持っている者もいなかった。安保条約破棄と学費値上げ反対の課題に取り組み、陣営の組織強化のために民主青年同盟の新聞と赤旗の拡大の活動をしていた。やましいことはしていないし、やましい者は一人もいなかった。学生党組織には異様な雰囲気が漂った。異様さとは、何かが起きていて、それに正義が振るわれている、正義は勝つのだという興奮であった。悪い奴らがいたから党組織と最高幹部は怒っているのだろう、と受け取っていた。そして、新日和見主義を打ち負かすのだという、明るさに似た雰囲気が漂っていたんだ」

 蒲生哲夫は民主青年同盟を経て、すぐに党に所属した。蒲生は隅田と加藤望美の事情をよく知っていた。隅田の叔父は自民党の県会議員で、県会議長を務めていた。近い親戚には検事がいた。望美は良家の一人娘で、司法試験を目指していた。蒲生は、この二人を自分のような激しすぎる党活動に誘うことはできない、誘うまいと心に決めていた。党組織のあり方に沿うものではなかった。組織強化を掲げる党組織からは叱責(しっせき)された。蒲生は、隅田については「反動性を心のうちに強く含んでいる」、望美については「性格が弱すぎて、後々組織に災いをもたらす」と言って、逃げた。隅田と望美は何となくそのような空気を感じていた。

 蒲生は、望美が司法試験に挑戦することを知っていた。隅田と望美が惹かれ合っていることは雰囲気から分かった。当人たちには定かではないとしても、いずれ形が出来あがると思うのであった。二人の間に生じている空気は、蒲生だけではなく、周囲の者にも確かに感じ取れるものであった。一人だけが党に属するようになれば二人は分断され、望美の試験への意欲が落ちる。蒲生はそう案じた。蒲生の弱さと言うこともできる。蒲生は、学生党組織の過酷さを恐怖と抱き合わせに感じていた。終電まで活動すること、人前に立って幼い演説の真似ごとをすること、党に属する身分を明かして機関紙赤旗の購読を勧めること。高校を卒業するまでそうした世界を知らなかった田舎育ちの自分が、訳知りの闘士として人前に立っている。そのことに戸惑いがあった。同じことを二人に求めることはできない。結果は別にして、隅田と望美のこの先のことは、自分よりもう少し緩やかで穏やかであって欲しいと考えていた。

 そのゼミ仲間が、五十年後に同じような語り口で隅田肇に告げた。

 「あのころ専修大学の党学生支部にいた仲間は、みな屈託なく、今も同じように活動しています。元気な人は地方議員になっています。十人ぐらいは議員になっているかな。経営支部からは定年で離れているけれど、地域支部では中心になっています。学生支部での活動は仲間うちの誓いのようなものであったから、道を外れることはないのです。これは連帯のようなものです。その後にソビエト連邦が崩壊して、コミンテルンの文書が出てきて、野坂参三が山本懸蔵を密告したことが明るみに出ました。副委員長だった袴田里見は一九七七年に、路線批判などで党員権制限処分を受け、後に除名となりました。一九七二年に党の幹部だった人たちの行状こそ問題だったんです。ほかにも幹部たちの不祥事はありました。純朴で高望みしない専修大学学生党組織の当時の仲間は健全だったんです。いまも善良な市民として党にかかわり、地方議員としての活動を含めて元気にやっているのです。声高に新日和見主義を言い、双葉のうちに摘み取ると号令をかけた党の幹部のなかに、恐るべきことをした人がいたのです。この対比の捉え方は難しいですが、学生党組織における仲間は、あのころの活動を通じて分かり合えていたことが、連帯感を産み、挫けずにやろうという連帯感が静かに脈打っていて、今の私たちを支えているのです」

 隅田肇には忘れられない蒲生の叫びであった。人それぞれに人生があるとはいえ、蒲生の境遇はあまりに過酷であった。十八歳の純真が、軍隊と同じか、それよりも強い縛りを受けて、崩壊していく事例の多さを解決する方法は、最高幹部が自分の子どもを救済したその内容に凝縮されていた。スターリン時代のソビエト連邦の粛清に目をまともに向けなければならない。

 隅田は荒木忠一の講義を思い出した。荒木教授はときおり、ソビエト連邦の民主主義の在り方、スターリンの独裁と粛清、そして社会主義への幻想に触れた。当時はすでに、そのような歴史の暗部は見えていた。

 ソビエト連邦の崩壊とともに、あってはならないことが明るみに出た。モスクワのコミンテルンにいた野坂参三――のちの日本共産党議長――が、コミンテルンで働いていた山本懸蔵を事実無根の密告をしていたのである。山本は一九三七年に逮捕され、三九年に処刑された。事実が明らかになったのは一九九二年、半世紀余りを経てからのことであった。密告しなければ自分の命が危うくなる。密告合戦が繰り広げられたのが、スターリン時代のソビエト連邦であり、コミンテルンであった。密告がなくてもスターリンは罪をつくりあげた。NHKの映像の世紀やNHKスペシャルのドキュメント番組が実際を暴く。スターリン体制への評価は、厳しくなることはあっても緩むことはない。

 ソビエト連邦のことでは、隅田にはもう一人思い出す教授がいる。法学部で比較政治機構論(政治学)を担当していた大嶋太郎である。紺のスーツを着こなす、口数の少ない人であった。授業は隅田と教授の一対一であることが多かった。隅田はソビエト連邦の実情を調べることを促され、リポートにまとめて卒業した。大嶋教授は東京都練馬区で区長公選を呼びかける先頭に立っていた。後に東京では区長公選制が実現したが、教授が思い描いたものとなったか、どうか。大嶋教授には国家と地方自治に関する著書がある。地方公共団体の職員や労働組合員との学習の場を通じて交流していた。地方自治の拡大が、大嶋教授が日本の現実政治で取り組んでいたことである。大嶋教授の授業と、自分がN県の職員になったこととのあいだにどんな関係があるのか、隅田にはいまも分からない。

 隅田肇は、押し付けるのでなく、調べさせ考えさせる大嶋太郎教授の授業を受けた。隅田はソビエト連邦の内実を探ろうと文献を集めた。文章の端々に散らばる、ソビエト連邦における庶民の暮らしや指導層の特権などを拾い上げた。隅田には、ソビエト大使館に出入りする知り合いの年長者がいた。諜報員と疑われるのではないかと隅田が意見を述べたことがある。ソビエト連邦に心酔するその年長者は狂ったように怒った。その年長者は、鉄は国家なりという言葉をレーニンが述べたと繰り返していた。宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉を、レーニンが借りたもののようである。その年長者の子どもは東大の工学部に入学し、日本一の製鉄会社に就職した。

 どうにも怪しい、というソビエト連邦への認識を持つようになったことが、隅田の行動に影響した。ソビエト連邦が怪しいというだけではなく、その政治体制の基盤をなすと想像される共産党の組織運営の諸規則と、その原理と、実際の運営に幻滅した。このことが隅田の行動に後々まで作用した。

五の二章 渦を見下ろす者の記――新日和見主義事件をめぐって

はじめに 問いとして文章A、答えとしての文章Bと文章A(本文に溶け込んで見えない)


 ここでは文章A、そして文章Bは提示しない。文章Aは設問あるいは問いかけとして作用し、その答えとして文章Aと文章Bが溶け込んでいる。読み手は問いと答えの流れの背景に文章Aと文章Bがあることを、かすかに意識していればよい。ある事象のなかに、紛れ込んでいる真実と虚構、それは小さきものが無垢なままに生きる姿と、それを翻弄する外からの災い、との相克でもあり、この二つのことが時とともに流れていくということである。人は時の流れに、命は短く小さいから査問事件の場面にいた、査問する側の人々はすでにいない。同じように小さきものとしての川上徹もまた同じである。あの時何があったのかという漠とした疑問への問いかけである。

神の目の視点-その1-油井喜夫が『汚名』と『総括』で明かした事実

 「Aとしての文章」の書き手を「すべてを見渡す神の視座」に置くとき、この文章は単なる個人的な回想や推測の枠を超え、組織という神話空間の中でうごめく人間たちの業と、その生態系を俯瞰する冷徹な記録へと変貌する。

 神の視座から見れば、川上徹が抱いた新左翼への秘かなシンパシー(A)と、彼が後に赤軍派や中核派、第四インターの活動家から聞き取りをおこなった事実(B)は、必然の軌跡である。川上徹は共産党の厳格な統制(吉村ラインや宮本体制)の内部にいながらも、その精神のどこかでよりラディカルな時代精神を求めており、その「揺れ」自体が川上徹の求心力と限界を規定していた。

 しかし、神の視座が捉える最も残酷な劇薬は、その川上徹の「揺れ」と内部での独自の動きが、組織の防衛本能(民主集中制の暴走)を刺激し、結果として末(すえ)にいた蒲生哲夫や遠山健一などを揺さぶることになる。遠山健一は何の役職にも就いていない見えにくい存在であった。当初無実を叫んで『汚名』を綴った油井喜夫など)を「渦のなかの粒」として粉砕したという点にある。川上らが裏で構築した「分派」の微小な営為が、神の与り知らぬところで拡大解釈され、無実の者たちを血祭りにあげるように作用した。

 ここに歴史のアイロニーが存在する。事件の当事者でありながら自らの「分派活動」の事実を長い間、隠していて、のちに明らかにする川上徹と、そうした暴露・告白によって自身の人生の前提(完全無実の被害者というアイデンティティ)を崩され、激しい絶望とともに川上と決別した油井喜夫(B)。そして、構造の外部にいながら理不尽に処分された蒲生哲夫。彼らはみな、巨大な「党」という神話的装置のなかで翻弄された。

 だが、神の視座から光を当てるとき、人間たちのこの泥沼の足掻き(あがき)を救済し、歴史の闇から引きずり出した唯一の装置こそが「出版」という行為であった。川上は『査問』や『素描・1960年代』で自らの内面と事実を書き残し、油井喜夫は『汚名』から『総括』に至る執念の書物で組織の闇を晒した。個人の自由が踏みにじられ、多数決の暴力によって思想が抹殺されようとも、人間は「書くこと」「出版すること」によって、失われた尊厳を取り戻し、次世代へ向けて真実の芽を残すことができる。

神の目の視点-その2-川上徹の歩みと、これに対置されることになる油井喜夫から見えてくる真実

 以下は、神の視点からということで、全知の語り手による言葉を書き起こしたものである。ただし、語り手は実在の人物、川上徹、油井喜夫ら本人が書き残したことだけを引用する。内面を描くのは、蒲生哲夫・隅田肇に限っている。実在の人物に架空の心理や台詞を与えることを避けるためである。

序 語り手の位置

 一九六〇年の駒場の春も、一九七二年五月の代々木の密室も、静岡の油井喜夫の病室も、京王線明大前駅の出口も、すべてが見えるているのが、神の視座にいる語り手である。。

 ただし、実在した人々の胸の内を、私は語らない。彼らが自ら書き残した言葉を通してだけ、彼らの心を示す。神の目ではあっても、生きた人間の心を書き換えることはしない。

 私が胸の内まで語るのは、蒲生哲夫と隅田肇、この二人だけである。

 私の手もとにはAとBの二束の資料がある。

 一つはBであり、これは、のちに川上徹や油井喜夫らが図書などで世にだした文章などである。これが資料B。ここには真実の取り違えや、作り事が混じると想定する。

 もう一つはAであり、蒲生哲夫の傍らにいた一人の書き手が残した考察である。これを資料A。

一 東京大学駒場、1960年

 一九六〇年、一人の青年が東京大学教養学部に入学して、同じ年に日本共産党に入った。川上徹である。

 資料Bにある川上徹の記述である。東京・亀戸に生まれ、戦争の末期には信州東筑摩郡に疎開し、少年期をそこで過ごした、と。一九三三年に信州の教員たちが「アカ」として検挙された土地である。父がその事件に連座していたことを一冊の本にする。

 一九六四年、彼は再建された全学連の委員長になる。一九六六年からは民青の本部に移り、中央常任委員となった。

 一九六七年と一九六八年、彼は二冊の本を世に出す。『トロツキスト その「理論」と実態』と、山科三郎との共著『トロツキズム』である。新左翼の理論を批判し、党の青年学生運動の理論としての本であった。

 日本共産党の側に立つ論陣である。資料Aの書き手は、その後に書かれた川上徹の本のなかに新左翼への共感があることを読み取る。この二冊と、四十七年後に同じ課題を扱ったもう一冊の本が書かれたこととの相関から推測されることはある。

二 隆盛と亀裂、1970年から1972年

 一九七〇年代の初め、民青は隆盛を極めている。資料Bは、同盟員は二十万人を超えたことを示す。全共闘との関わりのなかで日本共産党としての活動を推進してきた民主青年同盟幹部である党青年組織の者たちである。党中央の考えとは違う方向が何とはなしに芽生えて、それが小さな形になりかけていた。

 一九七一年十二月、日本共産党の中央は民青幹部の年齢の上限を三十二歳から二十五歳に引き下げると決めた。資料Bは、民青側への事前の相談はなく、民青の中央委員の過半数がこれに反発の感情を抱いたことを記す。

 資料Aの書き手は、川上の著作などから次のようなことを思う。分派活動を完全に証明する文章はない。しかし、吉村の指導に反発する川上徹らのグループがあり、反吉村のグループとしての動きはあった。川上徹の人間的な魅力などもあって、こちらが党準中央委員である民青委員長の吉村を圧倒した。吉村がすることの全てが、日本共産党中央委員会の方針の押し付けとして受け止められて、このことが吉村への反発となり、それは日本共産党中央委員会への反発としての形態になり、党幹部への反発の様相を呈することになる。

 私はこの時期の会合の数々を見ている。そのような事態の実態は後々に明らかになる。川上徹が三十五年後に書いた本によってである。

三 代々木、一九七二年五月

 一九七二年五月、日本共産党中央委員会が動き出す。

 川上徹は代々木の党本部に呼び出される。その日から十三日間、拘留される状態が生じた。警察でもない限り、また犯罪の事実がない場合には、普通の人間を拘留することはできないはずであるのに。川上徹は『査問』に書いている。家に帰ることも、身重の妻に直接連絡することも、一人になることもできず、便所に行くにも見張りが付いた。所持品はすべて取り上げられた。「党に対して隠すべき私物はない」筈だという理由である。「査問」の中心にいたのは党中央の幹部、下司順吉であった。

 川上徹は仲間との何気ない会話が「陰謀」の物語に作り変えられることに驚いた。『査問』の書評者は戦前の特高の取り調べを思わせるとした。

 同じころ、民青の静岡県委員長であった油井喜夫は、川上徹と同じように「査問」の対象になった。肝臓の病で入院していたのであった。退院したという言い方がある一方で、退院させられたと理解される状況があり、東京の代々木の党本部に呼び出された。何かの形式に伴う誤解なのか、朝鮮人参を密輸したことを指摘され、分派に資金提供したとされた。油井喜夫は、身に覚えがないことであったが、示されたことを事実として認めるように強く迫られたとしている。油井喜夫が『汚名』にこのことを書いている。「党は誤らない」(党にはこうしたことを含めて誤りはない)と考えていたから、朝鮮人参の輸入にかんしては誰かが不正を意図してやったのだろうと受け止めていた。分派に対するお金の流れについても自分は知らないことだが、誰かがどのような形かで、そうしたことをしたのだろうと判断することになった。こうしたことから、油井喜夫は川上徹とは別の状況にあり、分派は汚名ではなかったかと、推察される。その後の行動を含めて考え合わせてのことでもある。

 五月から九月までに、査問された者は約六百人に及んだ。処分された者は約百人である。

 分派の摘発のために真っ先に動いた愛知県ほかの民青指導部の二人は公安当局の工作員としてのスパイであった。川上も油井の書評者も記しており、この前後に日本共産党もこのことを明らかにしている。

四 蒲生哲夫と隅田肇

 神の目を持つ、神の立場にいる私は蒲生哲夫に深い同情を寄せる。

 隅田肇は、京王線明大前駅の出口で、新左翼の二つのグループの激突を見たことを告げてきた。ヘルメットにゲバ棒のいでたちの双方合わせて十二人ほどの若い者、これは明治大学泉校舎を根城とする過激派であることが確かなこととして推察される。物陰に隠れて他派を待ち伏せし襲撃したのであった。ガチ、ガチ、ガチという状況である。隅田肇の下宿は明大前から数分のところにあり、相沢俊夫は明治大学の文学部に通う同じ年齢の隣人であった。激突は命を奪う状況にあった。その場をすぐに去った隅田にはその後のようすは不明である。明治大学は過激派の支配下にあり、神田校舎も明大前の泉校舎もその影響が強かった。学生の身にありながらヤクザの出入りまがいの過激派の行動とその心理を理解することは、隅田肇のどのような思考方法によってもできないことであった。

 蒲生哲夫は、党の学生指導部にいた早稲田の法学部生と中央線に乗っていたとき、新左翼の過激派三人ほどが、その早大生を襲う場面に遭遇する。姿をみるなり、いきなり狂犬のように襲ってきた。一緒の早大生は「何を」と立ち向かう。勢いに押された狂犬たちは引き下がった。早稲田大学は過激派の巣窟であった。その早大生と大隈講堂付近の地下の学生の社会科学研究会などの部室で会議を開いていた蒲生哲夫は、早稲田大学の険しさを肌で感じており、過激派と直接に対決するこの男の強さに敬服した。このような事情を知っていると、川上徹と過激派との関係が何故そのようであるか理解できないのである。過激派のヤクザにも似た心情、そして狂犬と同じ行動、相手は殺すつもりでいる彼らのことを、身体が覚える恐怖とともに、心では拒絶するのであった。だから川上徹の過激派との関わりは理解できない。過激派・トロツキストを蒲生哲夫は心のうちに呼び込むことはできない。それだから川上徹の行動は理解不能であった。

 一九七二年、蒲生哲夫は無実なのにと涙を飲む。

 蒲生哲夫は川上徹たちに連なってはいない。日本共産党の地区委員会に属しての青年学生組織の「指導」と援助の役割に限られていた。民主青年同盟の中央組織とその中での党員組織が何をしていたのか。そうした動きの外にあり、組織的なかかわりはなかった。川上徹が引き起こした大きな渦は、その組織的な動きとはかかわりなく、共産党中央から見れば川上徹を交えた大きな渦としてとらえられた。渦には枯れ葉や木屑や粉じんが巻き上げられて混じる。蒲生哲夫はつむじ風に似た渦に巻き上げられた葉の一つとして自分を理解するようになった。共産党は渦そのものが組織を破壊する現象だと考えたのだろう。渦を構成する空気の流れには小さな物質としての葉が巻き込まれ、小さな砂も同じように高く舞い上がった。

 やがて党から降りてきた文章には「新日和見主義」を「双葉のうちに摘み取る」と書いてあった。読み合わせの資料になった、その文章には事実が示されていなかった。党の説明を聞け、指導の方針は間違っていないのだから従え、ということを伝えられていることを、知らぬ間に暗黙の裡に受け止めさせるように作用した。

 蒲生哲夫はその後も党の活動を続けている。しかし、地域の支部で中心に立つこと、人を導く立場に就くことを、どこかでためらうようになった。自分ではあの扱いを汚名と受け止めている。だが党の側は、それを蒲生の汚点としているだろう。そう思うと、ためらいのままに党活動を続けていくしかなかった。自分は自分にも党組織にも正直で誠実に生きてきた。それは隅田肇、加藤望美、遠山健一に対しても同じであった。そうしてきたし、そうするしかない。それが生き方であり人としての道であると蒲生哲夫はずっと思う。

五 川上徹と油井喜夫の沈黙の長い年月とその後の急展開

 川上徹は民青本部を追われた。党員権停止一年という扱いであった。資料Bには「除名」と書き、「民青の元委員長」とも書いているが、間違いである。川上徹は司法試験に挑むことになったが、論文試験では簡潔に記すべきところを、抜けきらない長広舌が災いして突破できなかった。途中で見切りを付けたのである。その間に知り合いの伝手で出版社に勤め、その後一九八〇年、友人たちの支援の出資を受けて出版事業の「同時代社」を創立した。

 一九八五年、川上徹は『もう一度、船を出せ』を出す。一九九〇年代の初めには、ある思いによって決断して日本共産党を離党する。

 油井喜夫は「査問」事件の後には静岡県の職員を経て司法書士になる。党籍は残したまま、二十七年間、口を閉ざしていた。というよりも党活動の最低限のことをして過ごしていた。

 蒲生哲夫はずっと何も語らない。隅田肇は、言葉になっていなくても蒲生哲夫の心を聞き取れた。別の章で蒲生哲夫が語ったことになっているのは、実は隅田肇の心が聞き取ったことである。

[資料集として]第五章 学生活動家と待ち受ける試練

[資料集として]見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

文章A

 川上徹は一九六〇年に東京大学に入学した。日本共産党と新左翼のあいだに位置するような気持ちを持っていて、日本共産党に属しながらも、新左翼の運動に小さな共感を抱いていた。その共感は関心でもあった。一九六四年には、再建された全学連の委員長になっている。こうした立場にあって、少しの調査によって、新左翼を批判するトロツキズム批判の本を二冊書いている。『トロツキスト――その「理論」と実態』(日本青年出版社、一九六七年)と、山科三郎との共編『トロツキズム』(新日本新書、新日本出版社、一九六八年)である。日本共産党の側に立ち、日本民主青年同盟と日本共産党の青年学生運動を進めるための理論的な強化を目的とした本とされた。

 しかし川上徹は、批判しながらもどこかで新左翼の運動とその活動家にシンパシーを感じていた。そのことは、その後に書かれた本の端々から読み取ることができる。そうしたシンパシーがあったから彼らへのインタビューが実現し、『戦後左翼たちの誕生と衰亡――10人からの聞き取り』(同時代社、二〇一四年)が書かれたのである。歴史的記録という名目を立てているのかもしれない。それでも、先の二冊との関係で激しい矛盾が生じる。

 川上徹が興した出版社の名は「同時代社」である。その名のとおり、日本共産党の時代の仲間だけでなく、新左翼の「トロツキスト」を含む人々にまで聞き取りをおこなった。赤軍派の松平直彦氏、第四インター系の活動家の江藤正修氏(同時代社から戦後左翼を検証する本を出している)、中核派(革共同)の元幹部の水谷保孝氏である。

 蒲生哲夫と同じ時代を生きた隅田肇は、京王線明大前駅の出口で、新左翼トロツキストの二つのグループがいきなりガッとゲバ棒でやり合う場面を見ている。蒲生の経験では、そうした新左翼トロツキストのグループとは、交流しようにもできる相手ではなかったし、絶対にしたくない相手であった。蒲生哲夫は、共産党の学生指導部にいた早大法学部生と中央線に乗っていたとき、その早大生に敵対する新左翼トロツキストが襲い掛かってくる場面に出くわしている。話し合いなどできる状況ではなく、相手は殺す気で襲ってきたのであった。

 だから蒲生哲夫は、川上徹が赤軍派の松平直彦氏、第四インター系の江藤正修氏、中核派の元幹部の水谷保孝氏に接触し、聞き取りができたという状況から、「川上徹は新左翼トロツキストたちに親しさを抱く心情を持ち合わせていたのだ」と推察する。『査問』かほかの著作に川上徹が書いているところでは、彼は日本共産党と新左翼トロツキストのグループとのあいだを揺れ動いていた。それでも日本共産党の組織員として身を置き、日本共産党の青年学生運動の理論面でも実践面でも指導者として活動し、行動していた。蒲生哲夫はそう言い切る。

 川上徹の著作のなかに、分派活動をしていたことを完全に証明する文章は確認できない。ただし、日本共産党の準中央委員である吉村への反発があり、吉村に敵対する反吉村の別グループが組織としてできていて、行動していたことは明確に読み取ることができる。それを日本共産党が分派行動とみなすのであれば、そういうことになる。民主青年同盟の幹部たちは、日本共産党の青年学生組織の幹部党員の組織でもある。その中での意見と方針の対立が原因となった行動であり、そこでは吉村、つまりは日本共産党の指導に反抗する川上徹の側の勢力が圧倒的に多かった。一九七二年五月、川上徹は代々木の党本部に呼び出され、十三日間にわたって査問を受けた。

 静岡県の民主青年同盟の幹部として活動していた油井喜夫は、こうしたことを含めた事実から、川上徹たちが分派として行動していたと判断するに至った。油井喜夫は、その後に何があったのかを自らのために書き残すため、そして自分と同じ目に遭った不幸な人々の名誉のために、幾つもの本を書いた。潔白を明かそうとする油井喜夫の執着は、いまも続いている。そのことから、日本共産党の決めつけが不当であったことを油井喜夫は示している、と推定される。

 油井喜夫は川上徹に対しても裏切られたという気持ちを持ち、日本共産党から受けた査問に伴う人権蹂躙には激しい怒りをもっている。日本共産党には名誉回復を求めている。油井喜夫の無念さは、この上ないものである。蒲生哲夫の場合も、日本共産党から受けたのは不当と言える扱いであり、この点では油井喜夫と同じである。

 何があって、何がなされたのか。その二つの当事者のあいだのこととは無縁の蒲生哲夫が、処断されたのである。蒲生は無実であった。だがその無実は、川上徹らの動きのなかでは渦のなかの粒にすぎず、川上徹と同じものとして取り扱われた。そのとき蒲生哲夫の心はどのように動いたのか。

 事実を引き起こした当事者は、川上徹と日本共産党である。その外にいた非当事者たちが、両者の対立から生じた渦に翻弄された。事実が伝えられないまま「新日和見主義」が規定された。どのような事実を指して「双葉のうちに摘み取る」というのか。そうした通知を、民主青年同盟と日本共産党の青年学生組織は読み合わせさせられていたのである。事実抜きのその説明は、日本共産党の説明を聞け、指導方針は間違っていないのだから従え、ということを意味するもののように見える。蒲生哲夫も同じ思いを抱いた。

 油井喜夫が長いあいだ日本共産党に属していたことは、自分の生き方が、それまで経験した党活動の延長にあったことを示している。蒲生哲夫はいまも党活動に従事している。だが、受けた扱いを自分は汚名と受け止めていても、党の側はそれを蒲生の汚点としているだろうと考える。そう思うと、地域支部などで活動の中心になることや、指導的な立場に立って行動することをためらうようになり、実際にそのような振る舞いとなった。

 何が本当なのか、決めつけることはできない。しかし、川上徹の著作活動と、それに続く出版社の創設とその後の出版事業、そして油井喜夫の著作活動が示していることがある。人が自らの意思と意見、そして実際にあったことを書いて人に示す、その出版という活動が果たす役割である。それを何というのか、私はその言葉を知らないが、大事なことである。

 組織と個人のあいだのこと。個人が持つ自由の在り方。意見を述べること。こうしたことを何というのか、これも私はその言葉を知らない。

 著作が出版されたことによって、「新日和見主義」と、それを「双葉のうちに摘み取る」とされたことの事実や実態が、少しだけ露わになった。出版がなければ、いま振り返ればあの幻のようであった会議は、さらに幻として宙を舞ったままになっていたであろう。

 人の自由と出版。結社も自由のうちに入る。では、自由とは何か。思想も心情も自由である。自由とは、何物にも何事にもとらわれないことであり、個人に与えられている生存権の一部であるように考えられる。民主主義と多数決についても同じである。多数の側があっても、少数の側、あるいはたった一人の少数であっても、その人の意思は束縛されない自由のなかに置かれなければならない。多数があって、多数決もある。多数の側の外にいる人の自由とその主張が残されていれば、それは次の世代において大事なこととして花開くことがある。そのためにも、考えを抹殺したり、制限したり、抑制したりしてはならない。こうしたことは保証されるのが望ましい。いや、保証されなければならない。

文章B

資料集 新日和見主義事件と川上徹・油井喜夫

凡例(出典の記号)


一 新日和見主義事件

概要

背景としてあげられている事柄

公安のスパイについて

見方の違い


二 川上徹(かわかみ・とおる)

経歴〔W〕

年 事項
一九四〇年 東京・亀戸に生まれる
一九四四〜四九年 長野県東筑摩郡に疎開
一九六〇年 東京大学教養学部に入学、同時に日本共産党に入党
一九六四年 全日本学生自治会総連合(全学連)再建大会で中央執行委員長
一九六六年 委員長を退任。東京大学教育学部教育行政学科を卒業。民青本部に勤務し、中央常任委員
一九七二年五月 分派活動の疑いで、代々木の党本部で十三日間の査問を受ける
一九七二年秋 党員権停止一年の処分。民青本部を退職
その後 司法試験を受験し、出版社に勤める
一九八〇年二月 友人らの協力・出資で同時代社を設立
一九九〇年 哲学者・古在由重の追悼集会を企画し、事務局を務める
一九九一年 上記を党規約違反とされて除籍され、離党(一九九〇年とする資料もある)
一九九七年十二月 『査問』を出版
二〇一〇年六月 同時代社代表取締役を退任
二〇一五年一月二日 死去(七十四歳)。晩年はリウマチ、心臓弁膜症、胃がんを患った

著作一覧

書名 出版社 刊行 ISBN
『トロツキスト――その「理論」と実態』 日本青年出版社 一九六七年 ―
『トロツキズム』(山科三郎との共編) 新日本出版社(新日本新書) 一九六八年 ―
『もう一度、船を出せ』 共栄書房(花伝選書) 一九八五年十二月 9784763401984
『査問』 筑摩書房 一九九七年十二月二十日 9784480818089
『査問』(文庫) ちくま文庫 二〇〇一年七月十日 9784480036568
『アカ』 筑摩書房 二〇〇二年二月二十日 9784480818201
『素描・1960年代』(大窪一志との共著) 同時代社 二〇〇七年三月二十八日 9784886836038
『戦後左翼たちの誕生と衰亡――10人からの聞き取り』 同時代社 二〇一四年一月三十日 9784886837585
『川上徹《終末》日記』 同時代社 二〇一七年十一月十五日(没後刊行) 9784886838278

各著作の内容

『査問』

『アカ』〔版〕

『素描・1960年代』〔版〕

『戦後左翼たちの誕生と衰亡――10人からの聞き取り』〔版〕

『川上徹《終末》日記』〔未〕

『もう一度、船を出せ』


三 油井喜夫(ゆい・よしお)

経歴〔W〕

年 事項
一九四〇年 生まれる
六歳のとき 中国・遼寧省遼陽から引き揚げる
学歴 静岡県立藤枝東高校を卒業。通信教育課程で慶應義塾大学を卒業
役職 民青の班長、地区委員長、静岡県委員長、中央委員。日本共産党静岡県委員
職業 静岡県職員、司法書士など
一九七二年五月 分派活動の疑いで査問を受ける。すべての役職を罷免され、足かけ三年にわたり党員権を停止された
その後 約二十七年間、事件について沈黙
一九九七年十二月 川上徹『査問』の刊行をきっかけに、事件を明らかにすることを決意
一九九八年 日本共産党を離党
一九九九年六月 『汚名』を刊行
二〇〇〇年七月 『虚構』を刊行
二〇〇七年 『素描・1960年代』で、分派とみられる活動が一部で実際にあったことを知る
二〇〇八年 『実相』を刊行
二〇一〇年八月 『総括』を刊行

著作一覧

書名 出版社 刊行 頁数 ISBN
『シベリアに消えた「第二国民兵」――ある民間人の「戦死」』 同時代社 一九九五年 ― ―
『汚名』 毎日新聞社 一九九九年六月 287 9784620313511
『虚構――日本共産党の闇の事件』 社会評論社 二〇〇〇年七月 286 9784784514090
『あなたへのレクイエム』 文芸社 二〇〇六年八月 249 9784286019581
『実相――日本共産党の査問事件』 七つ森書館 二〇〇八年 254 9784822808631
『総括――民青と日本共産党の査問事件』 七つ森書館 二〇一〇年八月 199 9784822810177

各著作の内容

『汚名』(書評による要約)〔評〕〔W〕

『虚構』〔未〕

『実相』〔版〕

『総括』〔版〕

静岡県内の処分


四 関連事件 二・四事件(長野県教員赤化事件)〔W〕


五 資料間の食い違いと使用上の注意

項目 食い違いの内容 扱い
川上の役職 一部の要約に「民青の元委員長」とある 誤り。民青では中央常任委員〔W〕
川上の処分 一部の要約に「除名」とある。書評の一つは「完全追放・懲戒免職」とする どちらも誤り。党の処分は党員権停止一年〔W〕。民青本部の退職とは分けて扱う
川上の離党 一九九〇年と一九九一年の二通り 〔W〕では一九九一年に除籍
査問の期間 「十三日間」と「十数日(約二週間)」 十三日間が正しい
査問を受けた人数 約六百人と千人規模 両説を併記する。ただし、どちらも根拠が確かでない。実際には六百人規模にも至っていなかったと考えられる(編者注)
『実相』 刊行月が二月・四月・五月の三通り。副題も「日本共産党の査問事件」「新日和見主義事件と川上徹」の二通り。「シリーズの1冊目」とする要約がある 刊行月は現物で確認する。実際は『汚名』『虚構』に続く三冊目
『素描』の内容 内容要約がある一方で、「本文の引用は見つからなかった」とする検索結果もある 内容要約は未確認として扱う

資料として使わない表現

AI検索の要約に含まれる、次のような評価の言葉は出典がありません。引用には使わないでください。

「精神的に破壊」「スターリン主義的な抑圧」「構造的暴力」「35年目の裏切り」「180度転換」「非合法の分派活動」「記念碑的」「ぬぐい切れない悪のイメージ」


六 出典一覧(検索で参照されたもの)

[資料集として]見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

六 川上徹と油井喜夫によって明かされた言葉と、事実との照合

 一九九七年十二月、川上徹は『査問』を書く。事件から二十五年が経過していた。

 油井喜夫はそれを読む。衝撃だった。自分が受けたのと同じことが川上徹の身の上にあった。油井喜夫は本を書くことを決断する。『査問』出版の翌年の一九九八年に離党届をだす。本の中身は自分の身の潔白を明かす内容になっているから、党籍があったのでは党との間で事実の遣り取りをしなくてはならなくなるからであり、川上徹の『査問』を通じて、あのような「査問」をする日本共産党とは縁を切るしかなかった。一九九九年に『汚名』を、二〇〇〇年につづいて『虚構』をだす。油井喜夫は分派の結成にはまったく関わっていない。新日和見主義の分派は「宮本式の偽造された分派基準によるでっち上げ」と書いた。

 川上徹は二〇〇二年に『アカ』をだす。治安維持法で検挙された父の世代と、党に査問された自分の世代を、一冊の中に並べて書いた。

 川上徹は二〇〇七年に衝撃的な内容をもつ『素描・1960年代』を大窪一志と共著として出版する。『査問』は別だが、以後の川上徹の出版物は自分が興した同時代社からのものであった。言論封鎖に対して、日本共産党の外に出ての言論をするために同時代社となり、『査問』を契機にして、新日和見主義と査問事件が世に知れることになった。これらのことの真意を確かめるための作業としてこの場があり、事実に乗っての検証をする姿勢で、この神の文がしたためられている。

 油井喜夫は『素描・1960年代』によって、川上徹らが日本共産党が処分の対象とした分派としての行動の事実があったことを知る。油井喜夫は『査問』の内容をそのまま受け取っていたから、分派行動の記述を読んで、川上徹に騙されていたと怒る。

 このような経緯があって、新しい事実を踏まえた著書として二〇〇八年に『実相』を、二〇一〇年に『総括』をだす。『実相』の終章は「事件被害者の妻たちへ」である。

七 二〇一四年、もう一冊の本

 川上徹は二〇一四年に『戦後左翼たちの誕生と衰亡 10人からの聞き取り』をだした。

 目次には次の名が並ぶ。「本気で銃を持ち『首相官邸占拠』を計画したこともあった」松平直彦。「高校受験の年、共産党のおやじから『鋼鉄はいかにして鍛えられたか』をプレゼントされて」江藤正修。「はじめて会った左翼の中に生きた批判精神を見た」水谷保孝。

 一九六七年と一九六八年の二冊と『査問』の間には激しい矛盾がある。蒲生哲夫の身体に残る恐怖にも似た記憶は、新左翼の過激派とはどのような形でも相容れない。川上徹はそれを平然とやってのける。川上徹を闇に沈む怪獣として、それは善の側にはない別の世界のモノとして見るのであった。中央線の車内で殺意を向けてきた者たちのことは、全共闘暴力団として蒲生の身体に記憶として刻まれている。

[註](はじめに、の再掲)
 ここでは文章A、そして文章Bは提示しない。文章Aは設問あるいは問いかけとして作用し、その答えとして文章Aと文章Bが溶け込んでいる。読み手は問いと答えの流れの背景に文章Aと文章Bがあることを、かすかに意識していればよい。ある事象のなかに、紛れ込んでいる真実と虚構、それは小さきものが無垢なままに生きる姿と、それを翻弄する外からの災い、との相克でもあり、この二つのことが時とともに流れていくということである。人は時の流れに、命は短く小さい。査問事件の場面にいた、査問する側の人々はすでにいない。小さきものとしての川上徹もまた同じだ。本稿はあの時何があったのかという漠とした疑問への素直な問いかけとしてある。

第六章 進路と消息

 卒業から一年して、隅田肇は相沢俊夫の実家に電話をした。電話口の向こうで相沢の母はしばらく黙り、「東京に行ったまま、どこにいるのか分かりません」と言った。

 隅田が知る同級生四十人の卒業後の様子は次のようであった。教員になった者が十人、のちに地方議会の議員になった者が三人、国会議員の秘書が一人、団体職員と労働組合の書記が三人、税理士が二人。隅田自身を含む地方公務員が七人、国家公務員が三人、農協と地方銀行の職員が五人、出版社などに勤める会社員が三人。そして、加藤望美と遠山健一、蒲生哲夫である。蒲生と同じような道を歩んだ者が、この四十人の中にもう一人いたが、ここでは名を伏せる。

 後年、隅田は経済学者の宇沢弘文の本やインタビューなどを通じて、米国の学生反戦活動家たちの行く末を知る。宇沢はシカゴ大学経済学部の教授であった。ベトナム戦争のさなか、米国の学生は徴兵の対象であり、反戦運動をする学生や成績の悪い学生から先に徴兵されていた。一九六六年、シカゴ大学の学生たちは、成績表を徴兵局に送らないよう求めて大学の本部を占拠した。宇沢は他の三人の教授とともに大学と学生の間に立ち、調停役になった。

 宇沢は、二部門成長モデルや、最適成長の問題における宇沢条件を数学的に定式化した経済学者である。新古典派の成長理論を数学的に整えたうえで、経済成長の不安定性と失業の発生との関係を示し、不均衡動学の理論によって、アメリカ・ケインジアンたちの論理の弱点を突いた。

 隅田肇の記憶にある後藤昌次郎は、経済学者宇沢弘文の友人としての姿であった。後藤は、宇沢弘文と旧制第一高等学校の級友であった。栄養失調のために卒業要件を満たせずにいた宇沢弘文であった。仲間とともに高等学校当局へ掛け合い、その窮状からの脱却を図った。高等学校は折れて、数学科への進学に限って認めた。経済学者宇沢博弘文が世に出現する遠因である。後藤昌次郎は旧制第一高等学校文科および理科を卒業した後で、東京大学法学部に進み、一九五四年に弁護士登録している。数学から経済学に転じた宇沢は、戦時中の飢えという自分の経験もあって、経済学に数学を生かしたいと考えた。数学科に進む前は医学を志していた。隅田肇は、数学と経済学が結びついた経済学をするとしたら、自分には限界があると思った。隅田肇が経済学部を出たあと大学院に進むことをためらわせた。宇沢弘文と後藤昌次郎の二人が望美と隅田肇の二人に作用した奇縁といえる。蒲生哲夫は同郷の人として後藤昌次郎を意識していた。後藤は岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)の生まれである。蒲生は、旧制黒沢尻中学校(現岩手県立黒沢尻北高等学校)から旧制第一高等学校、東京大学法学部、弁護士という後藤の経歴をなぞって、自分もこの道をと考えなくはなかった。学生活動家という立場になったときに、この道は自動的に消えた。大学四年間を「闘争」という場面をつくって、その活動に没頭することが、この時代の活動家に望まれていた。

 シカゴ大学で宇沢が指導していた、博士論文を書いていた優秀な学生たちの結末は痛ましいものであった。事実上の迫害を受けて二人が山に籠もった。一人はのちに自ら命を絶った。一人は徴兵局を襲撃したあとで出頭し、長い懲役刑に課せられた。ベトナム戦争の期間を通じて、十万人近い若者が徴兵を逃れて国外に出ていった。アジアの小国を焼き尽くす国の、最高の権威をもつ経済学部で教えて暮らすことが恥ずかしくなった宇沢は、一九六八年、東京大学に戻った。その東京大学では、同じ年に学生が安田講堂を占拠した。

 同級生四十人の行く末を思い浮かべながら、隅田は考えた。自分たちの時代も、大学は騒乱状態であった。それでも卒業してしまえば、活動家も一般の学生も、多くは平穏な人生を送っている。銃を持たされて戦地へ送られた米国の学生とは、日本の同じ時期の学生の苦悩は質が違う。米国の学生は生きるか死ぬかという瀬戸際にあり、日本ではロマンチズムに載って誘引された。

 日本の大学が騒がしかった時代に少し遅れて、「『いちご白書』をもう一度」がヒットした。荒井由実の作詞・作曲である。歌詞には「学生集会」や、就職が決まって髪を切るという言葉が出てくる。学生のころの社会への不満を胸の奥に押し込め、企業戦士として働くうちに、身なりも考え方も変わっていく。そういう若者は多かった。髪を切って一九七四年に上京し、会社に勤めたことになっているのが、一関工業高等専門学校の同級生フォークグループ「ニュー・サディスティック・ピンク」(後の「NSP」)である。高専卒だから、扱いは大卒に及ばない。そのような立場を歌に込めた。三人は就職はせずに、歌のプロとして浮かび上がった。東京に出て就職したように物語をつくっていた。これは意図してか偶然なのか、できあがった物語であった。「NSP」のグループが結成されたのは彼らが高専在学中の一九七二年である。同じ年に専修大学を卒業した隅田肇たち五人は、そのころ「NSP」を知らない。後年隅田は経済学部の同級の男と「NSP」のコンサートに足を運んだ。男は好きなフォークグループは五つの赤い風船であると言った。「五つの赤い風船」の演奏会(コンサート)は専修大学神田校舎から歩いて十分の神田共立講堂で1969年12月と1971年4月1日に行われていて、二回とも出かけている。女性ボーカルは藤原秀子であり、藤原秀子でなければグループが成立しないと加藤望美は言う。

 法学部を卒業したあと、隅田は経済学部三年の教室にいた。『資本論』に食らいつく日々を送っていた。高校を出るときに担任に勧められて受験し、合格していた京都のミッション系の名門私立大学の経済学部を選ばなかったことが、ずっと心の片隅にあった。隅田はこのことを誰にも話さなかった。妻にも、結婚したのちも長く伏せていた。話したのは七十歳を超えてからである。

 経済学部での二年は、あっという間に過ぎた。卒業間近になって、指導教員に「これからどうする」と問われた。大学院に推薦するから、もう少し勉学を続けてはどうかということであった隅田は、まわりの学生たちが自分よりずっと若く見えることに気づいていた。母方の伯父が県議会の議長を務める縁を頼り、試験を受けてN県庁に奉職することを選んだ。

 就職先が決まっていた隅田は、経済学部の卒業式の日に、それには出ずに谷川岳へ向かった。春山とはいえ谷川岳の雪は深く、山仲間と雪に穴を掘って夜を過ごすには十分な量であった。帰りの上越線の車窓から、コブシの白い花が咲いているのが見えた。山から帰ると、知り合いが隅田に「なんだか朗らかになったね」と声を掛けた。辞令を受けて県庁の職務に就く日が、間近に迫っていた。

 学生でいるのはここまでだ――隅田はそう自分に言い聞かせて、N県へ向かう最終列車に乗った。見送る者は誰もいなかった。加藤望美のことが、頭をよぎった。

 若い力が情熱をさまざまにたぎらせる周囲の者たちと自分を対比る癖があることが分かっていた。蒲生のように学生自治会から党の活動へと進んでいった者。相沢のように、ボブ・ディランの哲学的な英文詩の世界に没入し、自分の暮らしの始末に無頓着になった者。そうした仲間を好ましく思いながら、後ずさりする自分を思うと、皆に申し訳ないという気持ちになった。一九六六年に内田義彦が書いた岩波新書の『資本論の世界』を、隅田は法学部一年のときに手にしていた。初期マルクスの「疎外論」に惹かれて、内田義彦流の解釈を真似していたのである。それが、後期マルクスの経済学体系としての『資本論』に食らいつくことにつながっていく。

 デモの隊列にいても、「ダボス」のカウンターにいても、隅田は離れたところから同級生を見ていた。それがただの傍観だったのか、語るために記憶に残しておこうとしてのことだったのかは、はっきりしない。一度考えたことや疑問に思ったことを、ずっと心にしまっておくただ隅田であった。

 隅田の経済学部卒業の年に、必修科目である財政学の教授の気まぐれによって半数の者が単位を落とし、卒業を一年先延ばしにされた。卒業に無頓着だった隅田がこれを知ったのは、数年も後のことであった。この大学は一九七〇年度の卒業生を最後に再試験制度(追試)を廃止していた。

 法学部を卒業するときには、あるはしっこい男が、必修科目の教授を仲間数人との宴席に招いて、合格点の確約を取り付けた。教授は飯岡助五郎という侠客の子孫であることを自慢していた。千葉県の房総の生まれで、専修大学の卒業生であった。宴席で教授は、隅田たちの同級生で党員の女子学生が、在学中に二学年上の活動家と結婚したことを、冷やかすように話題にした。はしっこい男は、その女子学生と同郷であった縁で、彼女の郷里での結婚式に出ていた。学生活動家を見る大学当局の目を、教授がそのまま体現していた――宴席に出ていた者のそんな怒りの言葉を、隅田は聞いた。油断ならない、と隅田は思う。

 遠山健一も皆と一緒に卒業した。就職はせず、バックパックひとつで南米に旅に出た。

 遠山健一は学生自治会で執行委員として活動していた。党活動としてそれはあった。卒業を前にすると望美への思いが募った。時間の制約がそのようにさせた。これから党活動をどこでどのようにしていくのか。職を定めきれないままに卒業が迫っていた。遠山健一が望美に寄せている思いを隅田肇は蒲生哲夫を通じて聞いていた。あの日、突然、望美が逢いたいと言ったのは、ある衝撃によるものではないかと隅田は思った。

 遠山は隅田にカメラを貸りにきた。数日後に日本を去った。何も語らなかった。遠山は一年経って日本に戻ってきた。製パン企業に職を求めた。この会社はメキシコに本拠を置き北米・南米で事業を展開して、その後には世界有数の規模に成長している。遠山は帰国後に、党から一年間の行状の調査を受けた。叱られる内容を白状するしかなかった。このことが蒲生から伝えられたが、隅田は聞こえていないように対応していた。蒲生の身には異変が起こり、遠山には失望と虚無が晴れない霧のように纏わりついていた。それからの蒲生と遠山の去就は追わないことを、彼らへの労わりとして隅田肇は心に決めた。

 やがて、その遠山の心が伝わる女性が出現した。子どもができていて、三人で遊園地で遊ぶ写真を年賀状代わりに送ってきた。奥さんは普通の顔立ちであり、遠山には笑顔がなかった。子どもは無邪気に両親の手にぶら下がっていた。遠山からの年賀状はそれっきりになった。製パン工場での勤務はそのまなで東京にいるのか。年賀状の住所には郷里の宮崎となっていた。

第七章 緑の暖かい風

 卒業から数年が経ったある日、隅田肇のもとに一通の封筒が届いた。差出人は相沢俊夫であった。封を開けると、一枚の写真が出てきた。相沢と奥さんと幼い子どもの三人が、和服姿で実家の玄関の前に立っていた。裏には「ボブ・ディランの詩集は今も大事に持っている」と、見覚えのある几帳面な文字で書かれていた。ボブ・ディランへの思いは薄れても、あの春に手渡した心遣いへの感謝は変わらずにいるのだと、隅田は受け取った。消息の知れなかった空白の向こうで何があったのか。一枚の写真は、それが幸福に辿り着くための青春の彷徨であったことを物語っていた。

 N県庁での隅田肇の勤めは、平凡なものであった。職員がひとり気張ったところで、できることはしれている。組織の一員として決まった仕事をこなすことが勤めであった。書類をつくり、判子を押してもらいに上司の席を巡る。そうした日々が続いた。隅田は農業行政にも携わった。県庁の職員は職務の内容を選べないが、生まれ故郷のN県の行政に携わることに、隅田は不満を持っていなかった。若いころのように理想を語り合う相手は、いなかった。

 長く勤めるうちに、隅田には見えてきたことがある。難しい試験を通って入ってきた職員でも、配属された職場で本当に仕事ができる者は三分の一ほどである。まずまずの者が三分の一、残りの三分の一は、いてもいなくても同じであった。学校の名前も試験の点数も、人の仕事の力を表すものではない。大工の世界では、十三の歳から鉋をかけさせ、見込みがなければ親方が引導を渡す。仕事は、やらせてみなければ分からない。一段ずつ踏みしめて登っていく力こそが才能なのだと、隅田は思うようになった。

 アルプスの山々が近いこともあって、隅田は山登りで憂さを晴らした。山は、いつしか生きる励みになっていた。山岳誌の表紙を飾る辻まことの画文を、隅田は好んで眺めた。

 県庁に入って間もない一九七〇年代の中ほど、隅田は海ノ口自然郷にある八ヶ岳高原ヒュッテに二泊した。佐久地域での仕事を終えたあとの連休であった。東京にあった旧徳川邸の洋館を移築した建物である。県庁の机の前で過ごす日々とは別の世界があった。窓の外には、八ヶ岳東麓の森が広がっていた。

 一九七九年の七月、北アルプスからの帰り道に、隅田は廃道同然になっていることを知らないまま、登山地図の案内どおりに伊藤新道を下った。人が通った痕跡の消えた急斜面の砂地を横切るのは、並の危険ではなかった。命からがらであった。怒りが湧いてきた。登山地図には道がコースタイムとともにはっきり描かれ、危険度も区分して書いてあった。だが下ってきた道は、地図の記載を遥かに超えて、最上級の危険度をも上回っていた。廃道になったのは、下流のダムの貯水が谷筋の水分量を増やし、地形を変えたためである。ダムの完成から半世紀近くを経て、谷の状態はようやく落ち着いてきたものと思われる。伊藤新道は近年、道を拓いた山小屋の関係者の手で再建され、復活している。

 肝を冷やして辿り着いた湯俣温泉の晴嵐荘は、隅田をほっとさせる山小屋であった。大町市の奥の河原にある晴嵐荘は夏の陽を浴び、青い空とともに高原の保養地のように見えた。

 晴嵐荘は老夫婦だけで切り盛りしていた。この山小屋のわが家にも似た雰囲気は、登山者に好かれる。夫婦はためらいもなく演歌のレコードを大音量で流す。レコードはもっぱら都はるみである。古い大きなステレオで奏でられる「アンコ椿は恋の花」が、頭の中でぐるぐる回る。食事の支度をする老夫婦の屈託のなさに、隅田は俗世の温もりのようなものを覚えた。真夏の草むらには、山へ登ってきて夏を過ごす赤トンボが群れていた。この山荘が発電用のダム工事で賑わったことを知ったのは、後のことである。大きなダムができ、発電所がいくつも建設された。大音量のステレオと都はるみの演歌は、飯場として営業していたころの名残ではないか。そう思いついたのは、四十年近く経ってからのことだった。

 午後三時を過ぎても、暑さと日の強さは真昼のままであった。これが七月という季節であった。その晴嵐荘に、ひとりの青年がやってきた。その日の宿泊者は、隅田と青年の二人だけであった。青年は入り口に立つとひょいと虫を捕まえ、当たり前のような口調で虫の説明をした。それが初対面の挨拶代わりだった。隅田は彼の清々しさに好感を持った。明日はこのあたりで虫を採るのか、それともアルプスに踏み込むのか、隅田はあえて聞かなかった。老婦人は青年を見て「お母さんは大柄な人でしょう」と言った。見事に当たっていた。

 後になって思えば、青年の姿は養老孟司や田渕義雄に重なった。世代の違う二人が浮かんだのは不思議である。

 養老孟司は、東大闘争のころ医学部の助手であった。大学は封鎖され、二年のあいだ研究室に行けなかったという。東京大学の管理主義的な運営と、教授たちの権力争いに嫌気がさして定年前に大学を去ったとき、どんよりとしか見えなかった空が青く見えた、と養老は語っている。養老は恩師の医学部の教授から、教養とは相手を理解する能力だと教わった。

 田渕義雄は、東京の下町のガソリン屋の三男に生まれた。小学校の通信簿には、学業はおおむね優良だが協調性に欠ける、と書かれていた。早稲田大学の文学部哲学科に進み、生物の研究会で蝶を追って山に分け入った。学生時代の後半には学費値上げをめぐる紛争が続き、田渕はいつしか学生の先頭に立っていた。擦り切れた全学連旗を掲げたデモの先頭にいた。田渕は後に、「青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学んだ」と、機動隊には「野良猫のように蹴散らかされた」と書いている。

 出版社勤めを経た田渕は、アメリカとカナダを旅してマス釣りをした。釣りはフライフィッシングであった。やがて田渕は『フライフィッシング教書』を書いて、日本におけるこの釣りの先駆者となった。そして一九八二年、三十八歳で川上村の川端下(かわはけ)に移り住んだ。金峰山の麓、標高千四百メートルの雑木林の片隅に建てた板張りの家である。電気も水道もまだ来ていなかった。台湾製の薪ストーブ一台と、ガソリンランタンの灯りで最初の日々を過ごした。ミズナラ、コナラのドングリが屋根に落ちてコロコロと転がる音を、田渕は喜んで聞いていた。村外れには、ロッククライミングの聖地として知られる小川山がそびえている。田渕の山荘は小川山とは切り離せない。北米をバックパックひとつで旅したという田渕の話を読んで、隅田は消息を追わずにきた遠山健一のことを思った。

 田渕は、ヘンリー・D・ソローとその著書『ウォールデン――森の生活』を信奉する。ソローはウォールデン湖のほとりに小屋を建て、二年二か月のあいだ自給に近い暮らしをした。読書と思索の年月である。菜園を耕すように自分の貧困を耕せ、とソローは書いた。田渕の文章は、都会の暮らしに息苦しさを覚える人々の癒やしとなっていた。小学館の雑誌『BE-PAL』(ビーパル)の常連執筆者に田渕義雄がいた。養老孟司はときどき登場している。

 虫捕りも生きる楽しみのひとつなのだ。生物の教員にでもなっているのだろうか、あの青年はいまどこで何をしているのかと、隅田は何年たっても思う。

 田渕に刺激されずとも、一九八〇年代は田舎暮らしに人の心が動く時代であった。東京で働く同級生の中にも、週末を田舎で過ごすようになった者がいた。一人は蓼科山の北側の長門町に週末の家を建てた。南に蓼科山が見える土地である。ここで過ごす週末が良いのだと言って、ランドクルーザーのディーゼル車を駆って通った。後年になって隅田が釣りに誘うと、「殺生」だからと応じなかった。どのような経緯によるのか、その友人は石綿を吸い込んだことがもとで肺を病んだ。病は突然に訪れたのだという。もう一人は新潟県の湯沢町に別荘を持ち、町を流れる魚野川でイワナやヤマメ、アユを釣った。どちらの家にも薪ストーブが据えられていた。薪は地元の人から買う。その費用が馬鹿にならないと、二人はそろって口にした。

 N県には、東大闘争の先頭に立った今井澄がいた。安田講堂の封鎖解除のあと逮捕された今井は、復学して医師となり、一九七四年に茅野市の諏訪中央病院に赴任した。安田講堂事件の判決が確定すると服役し、刑期を終えて病院に戻ると、一九八〇年、四十歳で院長になった。のちには参議院議員にもなる。闘争の渦から出て、地域の医療に生きる道を選んだ人がいることを、隅田は県の仕事を通じて知った。一方、養老孟司は医学部の助手だったころ、今井澄たち全共闘によって研究室から追い出されていた。あの学生たちは結局、戦中の軍人と変わらないと養老は述べる。養老孟司は彼らへの強い恨みを残している。大学は違っても、全学連旗を掲げてデモの先頭にいた田渕義雄は、養老から見れば今井澄たち全共闘と同じ側の学生だったことになる。そのように隅田は思う。

 蒲生哲夫には、誰にも語らずにいる秘密があった。学生時代に自治会の副委員長を務めていたある男が、公安警察への通報者だったのである。郷里に帰っていたその男を訪ねた者がその事実に行き当たり、それが蒲生に伝えられた。蒲生はこのことを誰にも語らない。おぞましくて、口にできないのである。人の人生には、ときに深い闇が忍び寄る。

 人との距離が近い昆虫好きの青年の天真爛漫さ、大らかさ、あるいは爽やかさ。そのような生き方への憧憬を、隅田肇は抱くようになった。蒲生哲夫が口を閉ざした公安への通報者がいたことを、隅田は知らない。

 加藤望美は、空しさを抱えたまま卒業後の一年を過ごしていた。収入のないまま司法試験に挑み続けることには、罪の意識があった。国家公務員になっていた同級生が、同じ職場の臨時職員になれるよう手立てをしてくれた。正規の職員になるために国家公務員試験を受けると、合格した。法律の勉強を積んできたので、ほかの科目に時間を割けたからである。こうして望美は国家公務員の職を得た。厚生省であった。霞が関の厚生省の職場には、自由と明るさがあった。望美はその仕事が好きであった。働くとはどういうことか、また仕事の内容によって分け隔てに似た感情が生じるのはなぜかと、考えてみたりもした。

 国家公務員の仕事をしながら、司法試験の勉強は続けていた。職場には法曹資格を持つ上司がいた。厚生省から検察庁に出向する人事交流があることも知った。二年ほど検察庁へ出向して、どのような業務をするのかは聞くことができなかった。検察事務を補助する程度なのか、特捜検事や重大刑事事件に関わる業務なのか、望美は知らない。出向しては戻ってくる身近な先輩職員を見ているうちに、法曹への憧れが別の方向へ移っていくようで、望美は恐かった。霞が関の職務の繁忙と労働組合の活動が重なり、それぞれに責任を負ううちに、司法試験の勉強のための時間は消えていった。とくに労働組合の重要な役職に推されてからは、その時間は皆無となった。七年間の霞が関での勤務の後半四年は、このようであった。そうした状況のなかで、法曹への願望は、公務員としての業務と組合活動への情熱に変わっていた。卒業後の一年と、そのあとの国家公務員としての七年は、そのようにして過ぎていった。

 隅田肇は県庁の一室で書類を作る日々を送っていた。氷の世界にいるはずの加藤望美のことが、いつも心のどこかにあった。一九八〇年の夏、その加藤望美から、予想もしない電話がかかってきた。司法試験がどうなったのかは分からないが、いまは趣味で芸術写真を撮っているという。川上村に滞在して、牧畜や高原野菜づくりの暮らしを撮影しているとのことだった。牧畜農家は輸入牛肉に押されて苦しい時期にあった。働いた時間がそのままお金になる暮らしとは違うのだと、加藤望美は言った。都会の人間が勝手に思い描く農村の姿を、私は写しているだけではないか。彼女は自分の写真をそう疑ってもいた。なぜ自分の電話番号を知っているのかと一瞬戸惑ったが、N県庁の職員なのだから、県庁に電話すれば分かることであった。隅田肇の心に火が灯った。隅田は、自分をいつも襲う寂しさが何なのかを、うすうす知るようになっていた。それは、深夜喫茶で二人のウール地のコートを重ねて肩から膝に掛け、朝まで話したあの夜のことが心から離れないせいであった。

 あのときの加藤望美の心情はどうであったのか。十分な好意を隅田肇に寄せていたはずだ。あれは氷の世界に飛び込む決心をするための、彼女なりの儀式であったのか。そのように考えても納得は行かない。あのことが心の底に沈んだままでいた。加藤望美はあの時、確かに何かを求めていた。このことへの確信が隅田にはあった。しかし彼女の決心を挫くことはできなかった。心に澱を抱えたまま、隅田は過ごしてきた。

 野辺山高原の北西の空には、赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が聳えていた。真上から降り注ぐ真夏の太陽は、八ヶ岳連峰を平板に見せていた。稜線は光で満ちていた。その空の下に隅田肇と加藤望美の姿があった。加藤望美は恥じらいをみせたが、それは一瞬だった。憂いを見せた微笑みをするのが望美であり、隅田の心をゆすった。幼さの残る二十二歳での別離から、二人はあの時のことを心にしまったままでいた。野辺山高原の明るい太陽は、加藤望美を素直にさせるのに十分であった。素直な加藤望美の振る舞いと、その微笑みに隅田は八年の空白が消えたのだと思った。

 加藤望美は、眼下に広がる白い畝のことを隅田に話す。春、四月の終わりから、野辺山から川上村にかけての畑ではレタスの植え付けが始まる。盛り上げた畝に白いビニールを掛け、そこに穴を開けて苗を植えていくのだと。植え付けは時期をずらして夏まで続く。事情を知らなければ、八ヶ岳の南東に広がる白い畝は謎の光景である。川上村は、夏場にレタスやキャベツを出荷する高冷地農業の村である。のちには、その労働の多くを、中国や東南アジアからの働き手が担うようになった。

 五月には白い花をいっぱいに付けたヤマナシの木が、枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝へ、枝から幹へ、さらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくった。レタス畑の農道のど真ん中に立ち、道を左右に分けている古木である。樹齢は二百年を超える。隅田肇と加藤望美は青々と繁ったヤマナシの木の下にいた。八ヶ岳の稜線の向こうに幸せが見えるようであった。稜線の先は松本、伊那、佐久、善光寺の四つの平である。盆地を平と呼び変えており、盆地が集合しているのがN県の特徴である。N県の職員は、これらの地域を定期的に異動しながら働く。

 あの稜線に登ればN県が見渡せると隅田肇が言った。加藤望美が微笑んで「一緒に登りたいな」と返した。

 その夏のある日のこと、八ヶ岳の赤岳から横岳へと続く稜線に、隅田肇と加藤望美の姿があった。

 白いビニールに覆われた苗は大きく育ち、畑は緑に変わっていた。そうした真夏の野辺山高原のレタス畑が足元に広がっていた。大らかな高原の広がりは、二人の心を解き放つものであった。熱せられた野辺山高原の空気が暖気となって上昇し、稜線を越えて諏訪方面に抜けていく。南の空には富士山が見えていた。富士山からの風が小さな渦を巻き、赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。その無邪気な姿を見て、隅田は「ああ、昔の望美だ」と思った。時間も空間も太陽も風も、二人のためにあった。緑の暖かい風がぐるりと回った。

 このままでいい、ずっとこのままがいい。望美は決意を示すように隅田に手を伸ばした。手は固く結ばれた。

 加藤望美は隅田肇との暮らしを選んだ。望美が職場に相談すると、隅田の職場であるN県庁ではなく、善光寺平のある市役所に転職する手配がなされた。女性職員が国家公務員から地方公務員へ移ることは、制度として確立されてはいないものの、状況にあわせた策として運用されていた。望美は東京の人からN県の人になった。厚生省での望美の仕事は、医療や年金などで地方公共団体を相手にすることもあり、その連絡事務も業務であった。地方公共団体の職員が霞が関に寄せる思いを肌で感じてきたことも、望美の移籍への壁を低くした。

 隅田肇と望美の子どもは女の子であった。娘は中学生になるころには、ませた態度で外からの電話の応対をしていた。高校生になるとそれは冴えた。望美の母親、つまり祖母をそっくり真似ていた。意識していたのではなく、そうなってしまった。娘は中学校から善光寺平で二番手とされる学校を選んで通い、高校を経て運営母体の大学に進んだ。小学校のころにはピアノを習い、高校生になると知り合いのギター教室に通った。水泳ではN県で二位になった。大学ではサッカー部のマネージャーをし、フラダンス教室に通った。大学四年の後半には、東海大学医学部付属東京病院に入院した祖父、つまり望美の父親のもとに毎日顔を出し、話し相手になった。

 娘は、大阪大学工学部で化学を学び、大企業に就職したあとで米国の大学に留学したことがある、いとこ(従姉妹)に、就職のことを問われた。娘は就職活動をしていなかった。いとこは「お嫁に行けば済むことだ」と言った。仕事への欲は何もないまま、娘は大学を卒業した。最初の仕事はクロネコの配達で、リヤカーや手押し車で、東京都江東区住吉の狭い区域を回った。錦糸町のダンス教室に通うためであった。映画『フラガール』のモデルになった人が運営するフラダンスのスクールである。そのうちに講師の資格を得た。講師をしていたとき、教え子の一人がプロのダンサーになった。その後に娘は、フラダンスの道を捨てた。勤めは派遣会社を通じてのものに変わっていた。一緒に働いていた若い女性の同僚が、簡単に解雇される世界であった。娘は幾つかの派遣先で働いた。ある派遣先では、天下りしてきた官僚に代わって文章を書いていた。いつしか、その人に劣らない力を身につけた。やがて、大阪大学の大学院を修了した先輩が、厚生労働省の社会人経験者採用の手続きをしてくれた。その国家公務員の係長級の採用試験を受けると、何事もなかったように通った。三十倍の競争率だったと知ったのは、何か月も後のことである。派遣の仲間があっさりと職場を去っていくのが、いちばん悲しかったと娘は言った。派遣労働に従事する身分の不安定さや報酬の低さなど、日本社会が陥っている悪しき状況を嫌というほど知っていた。

 母親の望美は厚生省に勤務していた。厚生省は労働省と統合されていて、娘の勤務先は厚生労働省の名称になっていた。採用試験の手続きで世話した先輩が、娘の母親の勤務先が厚生省であったことを知っていたかは不明である。採用に際しては親のことのほか、プライバシーに関わることは不問になっている。同じ霞が関勤務となった望美とその娘である。望美のことを知る者が何人かいた。そして、そっくりだと言った。

終章 太陽に満たされた高原の林

 隅田肇は二〇二四年十二月の半ば、蓼科山の麓の山荘に足を運んだ。N県庁に近い住まいと山荘を行き来している。山荘は雪の中にあった。積雪は平年より少なかった。標高千六百メートルの敷地に生えるシラビソは、クリスマス・ツリーのように雪を背負っていた。薪ストーブはいまでは飾りになっていて、煙突の傘には二十センチメートルの雪が載っている。暖房には石油ストーブを使う。田渕義雄のように薪を用意する意欲は、もう消えている。

 冷えた山荘を温めるために、最初に業務用の大きな石油ストーブをボーと焚く。一階から、吹き抜けを通って二階に一気に暖気がのぼる。家が温まったところでその火を止め、代わりに二階のアラジンのブルーフレーム・ヒーターを燃やす。この家のアラジンは二代目である。先代は燃焼筒が錆びて役目を終えた。燃焼筒を傾けて芯にライターの火を近づけると、小さな窓の向こうに青い炎が立つ。着火に電池を使う構造にはなっていない。着火の都度、燃焼筒を傾けて、そのあとにチャッカマンを使う。一九三〇年代にイギリスで生まれたストーブを、いまは日本のメーカーが作り続けている。天板に陶板を載せれば、食パンも焼ける。

 ある日のこと、一階のコロナの丸形石油ストーブに載せていた鍋で、タスマニア産の煮込み用の牛肉を入れたカレーが煮えた。肉は、低い火で長く煮込むほど柔らかくなる。晴れた日で、二階のバルコニーの餌台には、ヒマワリの種を目当てに野鳥がひっきりなしにやってくる。ゴジュウカラが居つくようになり、コガラとシジュウカラがせわしく出入りする。少し遅れて、ヤマガラも姿を見せるようになった。

 暖かくなった二階に上がり、アラジンの青い炎を眺めながら、隅田は串田孫一のことを思う。山の随筆で知られ、日曜の朝のFM東京で、穏やかな口調で「音楽の絵本」の朗読を長く続けた人である。串田の書斎にはルンペン・ストーブが置かれ、そのまわりにウインザーチェアが並んでいたという。訪ねてきた編集者とは、ストーブの周りに置かれた幾つもの椅子に座って長い語らいをした。田渕義雄は、薪を作るときに出る枝でウインザーチェアを自作した。この二人は隅田の敬愛する人であり、隅田の中では二人が渾然一体となっている。椅子と薪ストーブといえば、隅田には串田孫一と田渕義雄なのである。串田の仕事部屋は、串田が亡くなったのち、北海道斜里町の北のアルプ美術館に移され、机の上の小物まで元のとおりに復元されている。

 串田は、霧ヶ峰の車山の肩にあるコロボックルヒュッテを建てた手塚宗求と長く交流した。ヒュッテに泊まっては思索し、霧ヶ峰の風景を水彩に描いた。四月の後立山に二人で登ったときには、串田のキスリングに、カンダハーの締め具を付けたスキーが載っていた。

 長い親交は、ある日ふいに終わった。手塚が書き残している。ひょっこり山に登ってきた串田は、少し語らっただけで山を下りていった。強い風が吹いていた。手塚は串田の背に向かって大きな声で呼びかけたが、声は風に消された。串田は振り向かなかった。

 隅田にはその場面を読むたびに、「あばよ」と言ってボブ・ディランの詩集を渡したことが甦る。言葉は春の風に消えた。その後に相沢は姿を消したからである。

 一九六八年の夏、明大前の下宿で、隅田はソニーの左右が分かれるFMステレオラジオを鳴らし、FM東海が流す「音楽の絵本」を聴いた。一九六五年に始まり、のちにFM東京に移って三十年続いた番組である。その回のテーマは「氷」であった。のちに加藤望美が飛び込んでいった「氷の世界」を思うとき、隅田の耳には、なぜかあのときの串田の声がよみがえる。

 串田の『若き日の山』や『山のパンセ』を読むようになったのは、そのあとのことである。ある回で串田は、東京天文台の古畑正秋と対談したときの話をしていた。冬の霧ヶ峰で、夜の雪の中を奇妙な光がゆっくりと水平に流れていくのを見た。串田が詳しく話すのを黙って聞いていた古畑は、ひとこと、それは流星です、と言った。都会の空では観測もままならない天文学者は、早寝をして朝早く起き、小鳥を観察していると、まじめな口調で話した。番組の最終回は一九九四年、「冬の記憶」という詩の朗読であった。

 山中湖の砂浜で、仲間たちが篝火を囲んで「燃えろよ燃えろ」を歌った夏があったと、蒲生から聞いた。串田孫一が詞を付けた、フランス民謡のキャンプソングである。いま目の前で揺れているのは、あの夏の赤い炎ではない。風も音もない、青く静かな炎である。その日の午後は、そうして過ぎていった。

 年が明けて、二〇二五年四月二十九日、隅田は野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。

 木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れたのである。隅田はそれを知らなかった。幹のあった場所には、切り株のような残り物は何もなかった。ただの土くれのまわりに、細いひこばえが何本か伸びていた。

 古木は、すでに樹勢が衰えていた。上の枝は朽ち、八ヶ岳に向かって左手の枝も同じように朽ちて、右手の枝だけが大きく伸びていた。強風は、その伸びた枝の方角へ木を押し倒した。花の勢いも衰え、葉の茂みもまばらになっていた。樹齢二百五十年の太い幹ではあったが、栄養を吸い上げていたのは、わずかな部分にすぎなかったのだ。

 八ヶ岳へ向かって真っすぐに延びる農道の、そのど真ん中に立っていた木である。木は道を左右に分け、畑に通う車の流れを整える役目も果たしていた。あたりには、この木より背が高く、大きく枝を広げて白い花をいっぱいに付けるヤマナシが何本もある。だが、道の真ん中に立つ木はもうない。山梨の北杜市には、支柱に支えられて生きながらえ、観光名所になった山高神代ザクラがある。このヤマナシが名所になっていたら、農家は困っただろうと隅田は思った。

 倒れた木のそばでは、大きなトラクターが畑を耕していた。この日はレタスの苗の植え付けが行われていた。高原の最上部の畑では、インドネシアから来た若者たちが働いていた。その向こうで、別のヤマナシの木が元気な白い花を咲かせていた。レタスは、野辺山のある南牧村を豊かにした。

 あの夏、望美と二人で立った木の下には、もう何もない。それでも、ひこばえは伸びている。

 五月一日には、南佐久南部漁業協同組合へ釣りの年券を買いに出かけた。八千四百円で、千曲川上流のイワナもヤマメもアユも釣ることができる。組合の裏手を、千曲川の上流が流れていた。今年は川上村のイワナを釣りたい。田渕義雄がフライロッドを振った川端下で、同じように。帰りに、川端下の田渕の家の前を通った。いつか秋の薄日の中で見たときには、幻想的に見えた板張りの家である。薪小屋が並び、「寒山家具工房」という小さな表札が掛かっている。木工室は、のちに地下に増やしたのだという。まわりの林のすぐ隣まで、レタス畑が迫っていた。家の向こうには、小川山の岩峰が鋭くそびえていた。

 五月四日には、近くの知人からコンクリート・ミキサーを譲り受けた。手土産にと、街の珈琲店で豆とケーキを買って訪ねた。この知人からは、建設中の談話室に使うガラス付きの窓枠も、たくさん譲ってもらっている。自分の山荘を改修するために用意して、余ったものだという。知人の敷地は斜面にあり、窓枠もミキサーも急な坂を下ろして運んだ。

 五月二十一日、隅田は蓼科山の麓の山荘にいた。百年を経た欧州赤松のログで建てた山荘である。N県のどの出先機関への異動があっても通いやすい位置を選んだ。善光寺平の夏の暑さは東京を超えている。盆地に降りれば、どこも同じように暑い。涼しいと思って選んだ松本平の暑さに、ある原子力学者が喘いでいた。どの盆地も夏は暑い。諏訪湖の標高は八百メートル。それでも、やはり暑い。蓼科山の麓を選んだのには、そのような事情がある。長い勤めの合間に、少しずつ手を入れてきた。ベランダを広げて屋根を付けた談話室に、隅田はパソコンを持ち出していた。去年は雪が来る前に屋根を付けようと奮闘し、十一月にどうにか間に合わせた。だが四十センチの雪をのせた談話室は冷凍庫のようになり、春まで寛ぐことはできなかった。この春は、譲り受けたミキサーでコンクリートを打って土台を固め、一メートルの雪にも台風の大風にも耐える支柱を建てるつもりでいる。

 正午の談話室は摂氏二十二度であった。庭は自然のままにしてある。カラマツ、ミズナラ、コナラ、シラカバ、モミジが太陽の光をほどよく遮り、夏でも最高気温は摂氏二十五度に届くかどうかである。背の低いクマザサが地面を覆っているので、世に言う雑草は生えない。敷地のシラビソが背丈を伸ばし、かつて見えていた蓼科山や北横岳、縞枯山は木立に隠れてしまった。前の道路に出れば、蓼科山はまだ大きく見える。

 新緑の林で、ハルゼミが鳴いていた。夏が近い。セミの命は羽化して一週間と、隅田は子どものころに教わった。だが近ごろ、岡山の高校生が印を付けて放したアブラゼミが、三十二日も生きていたことが確かめられた。教科書に書かれたことも、ときには疑ってみなければならない。隅田はスノーピークのパーコレーターで珈琲を沸かし、砂糖を入れて飲んだ。ガスコンロの小さなボンベは、去年ひと夏放っておいたら、ガスが出なくなった。調べると、ホースをつなぐ口の小さな穴に、蜂がサナギの殻を残していた。管に卵を一つだけ産む蜂が、ボンベの口を命をつなぐ場所に使っていたのである。珈琲を淹れていると、ときどき神保町の「エルマーナ」とママのことを思い出す。

 隅田は、一日に十五時間も椅子に座っていることがある。パソコンに向かうときには、高山の飛騨産業(キツツキマーク)のロッキングチェアを使う。背もたれが高く、肘掛けが付いている。キーボードを打つ肘を、その肘掛けに休ませておける。寛いで本を読むときには、机の脇に置いた、同じ飛騨産業のクッション付きの揺り椅子に移る。

 机にしっかり向かい、キーボードを打つときには、高山の柏木工の椅子にする。釘を一本も使わない上等な椅子で、望美のお気に入りである。隅田はそれを借りて使う。

 こうしたウインザータイプの椅子を幾つも集めるようになったのは、田渕義雄の暮らしに惹かれたからである。田渕は、薪にするはずだったナラの木で椅子を作った。ストーブにくべるはずの枝が背もたれになり、はぎ合わせた板が座面になる。食堂の椅子も、書き物の椅子も、揺り椅子も、机や食卓も自分で作った。写真で見る田渕の揺り椅子は、背もたれが大きく後ろに倒れていて、背当ての丸木は十本あった。隅田の揺り椅子は八本で、背中を指圧されるような痛みがあるから、専用の厚布を当てている。田渕も、板の座面には薄い布地やクッションを敷いていた。

 自分が元気なうちに作らせたほうがいいよ、と田渕は言っていた。田渕が作る椅子は何気ないようでいて、大事な要件を満たしているのであった。隅田は、それを頼まないままにきている。

 談話室の前のミズナラが、年ごとに傾きを強めている。樹齢は三十年ほどである。かつてはミズナラを薪にし、そのあとからまた若木が育つという循環があった。その循環が途切れたところに、こうした「問題」が生まれるのだと隅田は思う。

 晴嵐荘の青年がひょいと捕まえた虫のことを、隅田はいまもときどき思い出す。チョウは、卵から幼虫、サナギを経て成虫になる。サナギの中で、幼虫の体はいったん溶けてどろどろになる。それでも、成虫原基という小さな細胞の塊だけは残っていて、溶けた体を養分にして、眼や脚や翅をつくりあげる。葉をかみ砕いていたイモムシの顎と、蜜を吸うチョウの口とのあいだには、何のつながりもないのだという。近ごろは、サナギの中で起きていることを、断層撮影で覗けるようになった。

 人も似たようなものかもしれない、と隅田は思う。軍国少年だった荒木教授も、社会変革運動に身を投じた蒲生も、時代の中で一度は身が溶けるような思いをしたのだろう。それでも、小さな芯のようなものだけは残って、次の姿をつくっていったのではないか。自分の中に残った成虫原基は何だったのか。見ていたこと、そのものだったのかもしれない。

 ある夏の日、霧ヶ峰の車山で遊ぶ隅田の指に、アサギマダラが止まった。本州から台湾まで渡ることもあるチョウだ。地を這っていた虫が翅を得て、ゆらゆらと遠くへ旅していく。

 夕暮れの庭では、オオカメノキの白い花が際立っていた。葉が亀の甲羅に似ていることから付いた名だ。寒い高地を好む木である。オオカメノキは、涸沢の紅葉をナナカマドと競う。上高地によく出かけ、涸沢にも足を延ばす望美の撮影対象である。

 談話室では、及川恒平の「夏・二人で」が小さな音でくり返し流れている。真夏にうきうきと歩いた神田神保町のすずらん通り。銀座の飾り窓で、白く長いウェディングドレスを見ていた望美。きれいなレストランに入りたいとも言った。いつかの夏に「ゆめのみちをたどって きえてしまう」ヘイケボタルの光にも似た儚(はかな)さに心は震え、素直な心を閉ざしていた一九七〇年を遠い眼で追う。

 ハルゼミの声がやむと、傾いてはいても光量が落ちないた陽光に満たされた緑の木々は風が静まって寂静の一時を迎えていた。談話室の窓を大きく広げた。十分だ、こんなものだ。夏の日、特に春から夏にかけての日は暮れそうで暮れないんだ。隅田の安楽椅子が静かに揺れた。

(了)


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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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