見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-
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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。
二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。
五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。
野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。
野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。
南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
東京・神田。古書店街の裏通りには文具屋やレストラン、居酒屋が軒を連ねていた。表の靖国通りには洒落たビヤホールがあり、行き交う人々の活気が街全体を満たしている。立ち並ぶ古書店や岩波書店は、街そのものが巨大な本棚であるかのような錯覚を覚えさせた。学生たちにとって古書店街は、単に研究書や掘り出し物を探す場というだけでなく、定価販売の新刊本を少しでも安く手に入れるための生活の場でもあった。
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他 3 件
ビルの二階にある老舗ビヤホール「ランチョン」では、オーナーの鈴木がリズムよくジョッキにビールを注いでいた。後にNHKの朝ドラ『ひらり』のロケ地にもなるこの店で、名物のカツレツを味わうことは学生たちにとってささやかな楽しみであった。神田・神保町の学生街には、いつもこうした若者たちの熱気が集っていた。
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他 2 件
一九六八年、桜の咲く季節。専修大学法学部の新入生たちが、ある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者も混ざっていた。日本武道館での入学式を終えた若者たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りからすずらん通りへと抜ける夜風が、頬に心地いい。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者と、その輪から少し離れた場所で彼らを見つめ続けた一人の男の物語が、ここから始まろうとしていた。
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序
東京・神田。古書店街の裏通りはには文具屋やレストラン、居酒屋が軒を連ねていた。表の靖国通りには洒落たビヤホールがあり、行き交う人々の活気が街全体を満たしている。立ち並ぶ古書店や岩波書店は、街そのものが巨大な本棚であるかのような錯覚を覚えさせた。学生たちにとって古書店街は、単に研究書や掘り出し物を探す場というだけでなく、定価販売の新刊本を少しでも安く手に入れるための生活の場でもあった。
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他 3 件
ビルの二階にある老舗ビヤホール「ランチョン」では、オーナーの鈴木がリズムよくジョッキにビールを注いでいた。後にNHKの朝ドラ『ひらり』のロケ地にもなるこの店で、名物のカツレツを味わうことは学生たちにとってささやかな楽しみであった。神田・神保町の学生街には、いつもこうした若者たちの熱気が集っていた。
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他 2 件
一九六八年、桜の咲く季節。専修大学法学部の新入生たちが、ある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者も混ざっていた。日本武道館での入学式を終えた若者たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りからすずらん通りへと抜ける夜風が、頬に心地いい。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者と、その輪から少し離れた場所で彼らを見つめ続けた一人の男の物語が、ここから始まろうとしていた。
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東京・神田。古書街の裏通りには文具屋やレストラン、居酒屋が並んでいた。表の靖国通りには洒落たビヤホールがあり、古書店街を歩く人混みがこの街の活気を物語っていた。古書店やそれに並ぶ岩波書店は巨大な本棚のようであった。学生たちにとって古書店街は、研究書や掘り出し物の資料を探す場というより、定価販売の本を少しでも安く手に入れるための場所であった。ある名の知れたビヤホールがビルの二階にあり、鈴木というオーナーがリズムよくジョッキにビールを注いでいた。このビヤホールは後に、NHKの朝ドラ「ひらり」で主人公が食事をする場面のロケ地にもなる。学生たちは、この「ランチョン」でカツレツを食べることを楽しみにしていた。神田・神保町の学生街に若者たちが集っていた。
一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。
第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」
一九六八年の春、隅田肇(すみだ はじめ)は神田にある専修大学法学部に入学した。靖国通りにはまだ都電が走っており、行き先は渋谷と新宿であった。隅田は専修大学前から都電に乗って、よく渋谷へ遊びに出た。その都電は一九七〇年の春には姿を消す。自動車優先の社会思想が背景にあった。
専修大学の神田校舎は小さく、古色然としていた。隣には英語学校のエレックがあり、校舎のまわりには木造二階建ての小さな印刷工場が散在していた。この地には出版社が集まり、それに付随して印刷工場が集積していたのである。印刷工場はその後、徐々に周辺に散らばっていく。それは、東京の産業構造の変化がもたらした結果であった。
隅田肇の下宿は、新宿から京王線で少し行った明大前にあった。隣の部屋には、明治大学文学部に入学した同い年の相沢俊夫(あいざわ としお)がいた。相沢はボブ・ディランの英詩が持つ謎めいた世界観に深く魅せられていた。単語の組み合わせが紡ぎ出す神秘的なイメージは、日本の文学や詩とは明らかに異なっていた。アイルランド民謡の影響を背景に持つディランの歌と、自らの東京での学生生活をいかに結びつけ、読み解くか。その探求こそが、相沢俊夫が英文科に身を置く最大の理由であった。
大学は荒れていた。東大と日大では紛争が激化し、この年、御茶ノ水の通りにはコミューンさながらの学生の騒乱が現出した。この騒乱の渦の中にいたことを隅田肇に熱気を帯びて語る三学年上の者がいた。隅田たちが入学した翌年一月には東大安田講堂の事件があった。神田と御茶ノ水にある中央大学、明治大学、日本大学、専修大学も騒乱の渦に巻き込まれ、学生たちは落ち着かない日々を送っていた。法政大学と東京理科大学も近くにあったが、それぞれ市ヶ谷と飯田橋であったから、神田はこの二つの大学の学生とは距離があった。
時代は高度成長期で、諸物価が高騰していた。国立大学も私立大学も授業料の値上げを繰り返し、東大・日大闘争の余波は神田・駿河台一帯の大学にも及んでいた。専修大学でも学費の値上げがあり、古い神田校舎を取り壊して高層の校舎に建て替える計画が進んでいた。私立大学への国の助成は、現在に比べれば無いに等しかった。相次ぐ値上げに、学生も教員も私学への公費助成を求めて声を上げた。
当時、国立大学の授業料は月額千円、年額にして一万二千円であった。隅田肇の三歳年下の弟が一浪してある国立大学に入学したときには、授業料は三倍になっていた。それでも国立大学の授業料は、私立大学に比べて格段に安かった。私立大学での授業料値上げ反対運動は、この国立大学との格差と物価の高騰を背景にしていた。桜通りの端にある中華料理屋の酢豚定食は三百円。国立大学のひと月の授業料の三割ほどである。その定食に、隅田は憧れていた。酢豚の肉の量は格別に多かった。
専修大学神田校舎は、門をくぐると中庭に出る。中庭を進むと教室への門があり、その左脇に学生自治会室があった。蒲生哲夫(がもう てつお)は入学してまもなく民主青年同盟に加わり、翌年には自治会の執行委員になっていた。隅田肇を含む、五人の仲間のひとりである。
蒲生の役目は、大きな立て看板に模造紙を貼り、学費値上げ反対と日米安保条約廃棄を訴える檄文を書くことであった。学生の登校時刻にはビラを配り、そのあと教室に行って「何故ならば」と声を張り上げて演説した。それが済むと自治会室に戻り、翌日のビラをガリ版印刷機で刷った。三年生になると、その役はガリ版切りに変わった。文章は蒲生が考える。ビラは毎日新しく出した。事態の切迫感を演出するためであった。土曜と日曜には立て看板を書き換えた。
蒲生たちには必読とされる本があった。小林多喜二が地下活動を描いた『党生活者』と、獄中で十二年を過ごした党の指導者とその妻の作家が交わした書簡集『十二年の手紙』である。蒲生はそれを読んで英雄の姿を思い描いた。自己犠牲への恐怖と、その自己犠牲が普通に暮らす家族とどのように関係するのか。もう少しの穏やかさがあっても良いのではないか。社会主義や共産主義への考え方が狭く鋭く定義されているように思えて、そのような状態に身が縮んだ。だが、運動の大義には同意するほか無かった。
民主青年同盟に加入するとすぐに運動に没頭する自分にかすかな疑問をいだく蒲生であった。兵隊だって新兵教育をしてから戦場に送られる。戦争の現場を指揮するのは士官であり、士官学校や兵学校での教育の後のことである。大学生活の四年間に社会改革の理論と思想を学んで社会改革者になれるのか。それはあるいは一時の熱狂に過ぎないのではないか。蒲生哲夫は平凡に生きてきた人間が「闘士」に瞬時に変容するという自分の姿を不思議な思いで見ていた。
三年の春からゼミが始まった。隅田と同じゼミには、遠山健一(とおやま けんいち)、蒲生哲夫、加藤望美(かとう のぞみ)がいた。蒲生はすでに自治会の執行委員長になっていたため授業にはほとんど顔を出さず、結局は単位を取れなかった。
加藤望美は司法試験を目指していた。彼女の気迫に、隅田は圧倒された。加藤望美は当時の法学部において一割にも満たない女子学生の一人であり、背が高く細面で、美しい黒髪をした美人であった。男たちが加藤に関心を寄せるのは自然なことであった。遠山健一もまた、そのひとりであった。加藤望美を知る幼友達や高校の同級生は教育系の大学に進むと考えていた。体育が向いていて、体育教師として指導の笛を吹く姿こそ、周囲が思い描く望美の姿であった。
松川事件は一九六三年九月十二日の最高裁判所で検察側の上告が棄却され、被告人全員の無罪が正式に確定する。GHQが国鉄労働組合(国労)の活動を抑え込むため仕組んだとする説がある。労働者被告の弁護団に後藤昌次郎がいた。松川事件が起きた一九四九年には三鷹事件があり、一九五二年には、鉄道事件ではないが辰野事件があった。望美の父親は三鷹事件を取材していた。書棚には三鷹事件のファイルがあった。共産党による警察署襲撃をでっち上げた辰野事件、松川事件のファイルもあった。林百郎は松川事件、三鷹事件、辰野事件の三つの事件で弁護人を務めた。望美には、弁護士として働く自分の姿が想像された。
隅田は、蒲生や相沢のように意識が高い学生がいることと、何となくということで日々を送っている自分を対比していた。隅田の祖父母、父母は公務員であり、住まいは役所への通りにあった。勉学は飛び抜けてはいなかったが駄目ということでもなく、自分では上のほうに位置していると思っていた。将来、何になるかということは考えてはいない。ただ店先で算盤を弾く商いの仕事は性に合わないと思っていた。学生活動家として、これに没頭する蒲生、そしてボブ・ディランの詩に魅せられて、その内容を哲学的に解釈することで一人悦に入る相沢には軽い嫉妬心を覚えていた。彼らと比べて、自分はひどく平凡な人間なのだと決めてもみた。
専修大学の経済学部には、マルクス主義経済学を教える荒木忠一教授がいた。荒木は海軍兵学校の生徒であった。兵学校にいたとき、彼は江田島から北の空に、広島に落ちた原爆を見た。窓ガラスが激しく揺れ、キノコ雲が立ち上った。
終戦で兵学校が閉校になると、荒木は五年制の旧制会津中学校に復学した。そこから旧制浦和高校の理科に進み、新制の東京大学では文学部で歴史を専攻した。兵学校を追い出された生徒たちの多くは、似たような道を歩んだ。旧制浦和高校は、旧制東京帝国大学への進学実績において旧制第一高等学校に次ぐ存在であった。
戦時中、旧制高等学校や大学の理科の学生には徴兵猶予があった。理科を選んでこの恩典に浴そうとする者、理学、工学で国家の役に立とうという者の二通りがあった。終戦で徴兵がなくなると、理科から文科に転じる旧制高校生が相次いだ。専修大学法学部教授の大嶋太郎もその一人である。大嶋が法学部長を、荒木が経済学部長を同じ時期に務めたこの二人は、旧制浦和高校でも同じ時期に学んでいた。二人とも理科から文科に転じ、大嶋は東京大学法学部に、一年遅れて荒木は東京大学文学部に入学した。のちに隅田肇は、法学部では大嶋教授の、経済学部では荒木教授のゼミに入ることになる。この偶然をどう理解したらよいのか、隅田は考えるのであった。大嶋教授は東大を卒業したのち、東大の社会科学研究所の研究員として、各地の農民が農民組合をつくって活動する様子を調査していた。大嶋太郎が転科する前の旧制浦和高等学校の理科の同級生に井伊浩市がいた。井伊浩市は工学部応用物理学科を卒業して政府の工業技術院に属する技術研究機関に入職し、後に通商産業省工業技術院の院長になっている。東京大学社会科学研究所で大嶋太郎の先輩にあたり、農村と漁村の組合運動の調査・研究を一緒にしていたのが福島新吾である。福島新吾がこの時代の東大社会科学研究所における組合活動と連動した党活動の手記を残している。福島新吾と二人でアダム・スミス『国富論』を輪読した吉瀬維哉(よしせ しげや)はすぐに大蔵省に入り、後に事務次官になった。福島新吾は東大社研を退職し、専修大学に転じ、法学部長に在任した。大嶋太郎は隅田肇の経済学部への学士入学の推薦者であった。東大駒場キャンパスで反イールズを掲げた試験ボイコット時、自治会副委員長を務めた荒木忠一。その同じ駒場に、井伊浩市もまた在籍していた。人のつながりの奇妙にも見える縁がある。
福島新吾が吉瀬維哉とのアダム・スミス『国富論』の輪読に関係して残した次の言葉がある。「この事なかなか容易ではあるまい。根気を要する。しかしやりとげれば二人の為に大きな益を残してくれるだろう。敗戦後の平静を失った心のよりどころにも資するため大いに力を注ぎたいと思う。最近いろいろ反省してみて如何に自分が流れに逆らっているつもりで流されていたかを痛感し、自信を失っている」
東大駒場の学生自治会で、荒木は副委員長になっていた。レッドパージに反対して試験ボイコットのストライキを決行し、委員長とともに責任を問われた。委員長は退学処分となったが、荒木の学生という身分は残された。文学部で歴史を学ぶうちに、歴史の根幹を流れる経済のことが強く心に迫るようになった。大学院では経済学を選び、山田盛太郎にマルクス主義経済学を学んだ。山田の再生産表式分析は、資本主義経済を分析できるものとして注目されていた。歴史学から転じてきた荒木の力量を慮ってか、山田は急いで経済学の手ほどきをしようとはしなかった。
大学院を修了すると、荒木は法政大学の助手となり、続いて広島大学の専任講師としてマルクス主義経済学を担当した。一方、山田盛太郎は東京大学を定年退官して専修大学に移り、経済学部長となっていた。この時代の専修大学経済学部は、山田によって牽引されていた。決して丁寧な振る舞いをする人ではない山田が、荒木のために経済学部助教授の席を用意して呼び寄せた。広島では研究に不便だろうというのが理由であった。荒木には、広島大学は居心地のよい場所だった。山田と荒木の関係は、時代を映す師弟の姿でもあった。
駒場でストライキを打って責任を問われた過去を知る学生のあいだで、荒木は人気があった。自治会の委員長となった蒲生にとっても、心強い存在であった。その荒木が、ある時期に学生部長の役職をあてがわれた。学生部長は学生自治会との折衝の矢面に立つ。大学の管理者として学生と向き合う立場に、荒木教授はさぞ苦笑いしていたことだろう。
専修大学はマルクス主義経済学を教える大学として、それを知る学生には人気があった。隅田は高校を卒業するとき、京都のミッション系の名門私立大学の経済学部に合格していた。だが当時の彼には経済学が算盤の学問に思えて入学に踏ん切りがつかず、結局、専修大学の法学部を選んだ。入学してからマルクス主義経済学の中身を知り、それが算盤ではなく社会科学としての経済学であると分かったとき、隅田は「しまった」と思った。彼は法学部に籍を置いたまま、経済学部の授業を熱心に聴講した。荒木の講じる経済学はこの世界を知る手がかりであり、足がかりであると強く感じ、基礎の基礎からやり直すつもりで『資本論』のページをめくりはじめた。
隅田は、経済学部教授の内田義彦(うちだ よしひこ)の『資本論の世界』を繰り返し読んだ。この本は『資本論』の内容を具体的に説くのではなく、『資本論』の視点に立つと人間と社会がどう見えるかを読み解くものである。資本主義の現実と人間回復の課題を結びつけようとする試みであった。隅田にとって内田教授は神様のような存在であり、その門下生として博士課程を終えた先輩から、『資本論の世界』の内容をたびたび教わった。人間と社会がどう見えるかを知るには、まず『資本論』を読まなければならない。のちに隅田が法学部を卒業してから経済学部に学士入学したのは、そう考えたからである。『資本論』を読んでも、内田教授の視点を得ることは難しかった。それでも隅田は同じような視点に立って、人間と社会の関係が生まれる経済的な背景を考えようとしている。内田教授もまた東京大学経済学部の出身で、山田盛太郎の門下生であった。
隅田は経済学説史を理解しようと、アダム・スミスの『諸国民の富』(国富論)と『資本論』のページをめくった。内容を理解しようとするよりも、書き手がどのような思いで書いているのかに関心があった。『資本論』からは、ドイツ的な弁証法の方法が何となく伝わってきた。隅田の『資本論』は、神田の古本屋で見つけた、弁証法的な論理を色濃く残す訳本である。ほかの訳本を読むと、内容の薄い解説書のように思えてならなかった。
専修大学には、マスコミ論の講義を受け持つ瓜生忠夫という講師がいた。映画評論家として知られた人である。東京帝国大学のドイツ文学科を出て、在学中は帝国大学新聞の編集長を務めた。共産党員であったために、一九五〇年にはレッドパージに遭っている。瓜生はいつも生真面目な顔で講義をした。受講生は五人ほどしか集まらなかった。顔を覚えられた隅田は欠席するのがためらわれ、結局、最後まで講義を聴き通した。瓜生はテキストを指定せず、試験もしなかった。授業の感想文を書かせて試験に代え、隅田の文章には最上級の点をつけた。
卒業して二十五年ほど経ったある日、隅田は神田の古本屋で、瓜生が書いた駅弁の本を見つけた。『駅弁マニア』という。講演旅行の折に食べた駅弁の包装紙を持ち帰っては整理し、全国の駅弁を食べ歩いた経験をまとめた、楽しい本であった。奥付を見ると、隅田が講義を受けていたころには、すでに出版されていた。あの生真面目な講義には、食いしん坊の気配はなかった。隅田は本を手にしてクスッと笑うのであった。
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[資料]
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-3-(第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-6-(第六章 進路と消息)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-7-(第七章 緑の暖かい風)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之