見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-
|
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。
二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。
五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。
野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。
野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。
南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた
一九七〇年、安保条約廃棄は学費値上げ反対と抱き合わされ、闘争課題となっていた。専修大学神田校舎の学生自治会室には、蒲生哲夫ら執行委員が閉門まで詰めてガリ版を切っていた。
日米安保条約が自動延長される当日の六月二十三日、専修大学の学生自治会はストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭に立つのは蒲生である。隅田肇は誘いに応じて、隊列に加わった。なぜか加藤望美が隅田の隣にいた。隊列の端には遠山健一の姿もあった。
専修大学学生自治会の旗が高く掲げられ、学生の長い隊列が続いた。遠くには自治労などの旗が見えた。機関紙印刷の旗を持っていたのは、隅田の高校時代の同級生であった。
リーダーが「風に吹かれて」の最初の一節を歌い、皆がそれに続く。どれほどの死者が出れば人は気づくのか、その答えは風だけが知っている――突き放した、哲学的な詩である。日本の街頭に英語の歌が流れる。それは国際連帯を醸し出すものでもあった。ジョーン・バエズの「ウィ・シャル・オーバーカム」が感傷的に歌われ、五つの赤い風船の「遠い世界に」も、若者たちの愛唱歌になっていた。
労働者、商工業者、婦人団体、学生たちのデモが都心を埋め、長い隊列が深夜まで行進した。隅田肇には、隊列にいる者がすべて仲間に思えた。
その夏、学生たちの組織は最も盛り上がりを見せた。山中湖畔では平和友好祭が開かれ、テントやバンガローに泊まった若者たちが、砂浜に篝火を焚いて「燃えろよ燃えろ」などの青春歌と労働歌を歌い、踊った。燃え上がる炎は、青春と夏の輝きに重なって見えた。隅田肇と加藤望美がいた社会科学研究会は、山梨の四尾連湖で学習合宿をした。
学生組織は鎌倉の海の家に集まって、目指す社会の姿と運動の進め方を学び合った。隅田は蒲生に誘われて、この合宿に参加した。講師は内田義彦の指導を受けて博士になっていた先輩で、その内容は『資本論の世界』そのものであった。
合宿の合間には、浜辺で横笛を吹いたり駆けっこをしたりして笑い合う男女がいた。女は加藤望美で、男は、のちに自治会の委員長になる下級生であった。その下級生の無邪気さに、加藤望美は調子を合わせていた。海に入った一人は、見事なバタフライで泳いでみせた。鎌倉の海は明るく輝いていた。隅田は砂の上に座り、その光景を眺めていた。加藤望美の父親が読売新聞の記者であることを、隅田は彼女から聞いていた。
四か月後の十月二十一日には、国際反戦デーのデモがあった。自治会は再びストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭にはやはり蒲生がいた。六月と同じように、隊列には隅田と加藤と遠山の姿があった。卒業まであと一年余り、三年生の秋である。それぞれの胸の内には、進路への思いが交錯していた。
ストライキは、全学生の投票で決まった。決まると大学は授業を休講にした。事実上、ストライキ権が認められていたのである。それでも、自治会の委員長としてストライキを打つことは、退学を覚悟してのことであった。誰かが身体を張らなければ、運動は前に進まない。
ある日、蒲生の父親が学生課に姿を見せた。職員たちの前での面会であった。父は息子の身を案じる言葉を口にした。蒲生には父の気持ちが分かっていた。だが引くに引けないことを、察してもらうしかなかった。蒲生の弟は地方の国立大学で寮に暮らしていた。そこでも学費値上げに反対する不払い運動があったが、家に届いた支払通知書の通りに、親はさっさと納めていた。大学卒業が生きていくために役立つということが父親の思いであった。蒲生の出身地の岩手県ではある町の三百六十人いる中学校生徒のうち高等学校に進む者がやっと六割になったところであり、三百六十人のうち大学に進むのは十二人ほど。このうち国立大学に五人進むという状況であった。親にしてみれば、何としても無事に卒業してほしいのであった。
安保条約は延長され、学費値上げの阻止も果たせなかった。値上げの幅にいくらか手心が加えられたにすぎない。目標だけを見れば敗北であった。秋が過ぎて冬になると、組織が会議を招集しても、集まるのは三分の一ほどになった。各学部の幹部学生からも、姿を見せなくなる者が出た。会議に出ない者は、大学にも顔を出せない。教室でストライキを呼びかけ、立派な論理を説いていた者が、ある日突然大学から消える。蒲生はそういう仲間を何人も見た。幹部であれば授業には出ない。活動をやめることは、大学に来なくなることと同じであった。学問の楽しみも、社会に出るための切符である卒業も、彼らは事実上諦めさせられていた。
蒲生の目には、別のものも見えていた。活動に加わる女子学生たちの必死さと健気さである。いちばんの重荷は、自分の立場を明かして機関紙の購読を頼んで回ることだった。こんなことを一生続けるのか。そう考えずにはいられない活動の苦しさは、恋愛への憧れと隣り合わせにあった。女子学生の三割ほどが、組織の男と結ばれていった。
激しい闘争と、そこでの敗北を、隅田肇は蒲生哲夫の姿を通じて見ていた。蒲生はへこたれずに孤塁を守っていた。その強さがどこから来るのか考えてみたが、分からなかった。
2026-09-22-c1-five-days-of-training-on-how-to-use-ai-
[資料]
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-3-(第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-6-(第六章 進路と消息)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-7-(第七章 緑の暖かい風)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之