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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-
(第四章 ボブ・ディランの詩集)

-改訂版四稿-

Five days of training on how to use AI

一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)@森夏之


旅のエッセー集 甲斐鐵太郎

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)@森夏之



作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。


二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。


五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。


野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。


野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。


南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

第四章 ボブ・ディランの詩集

 隅田肇は、卒業後も二年、大学に残ることが決まっていた。隣室の相沢俊夫とはこれでお別れである。ボブ・ディランを神のように崇める相沢が、ボブ・ディランの英文の詩集を持っていないことを隅田は知っていた。隅田は『タランチュラ』の原書を古書街で探しだしていた。それを渡し、ひとこと「あばよ」と言った。

 卒業式の日の蒲生哲夫の姿を、隅田は深い感慨をもって見ていた。ご苦労だったねと思った。蒲生は自治会活動のために授業にはほとんど出なかった。それでも卒業単位はそろえていた。彼としては学歴は要らなかったろうが、親や親戚の手前、卒業しておくに越したことはなかった。

 四年前に同じ教室に集った四十人の男女は、それぞれの道へ踏み出していった。

 大学に少なくとも二年残る。経済学部に学士入学して資本論にかじりつく、それが目的であった。親元のことを考慮した結果が次のようなことであった。弟が大学に入学することになっていた。隅田肇は、法学部四年の時点で国立大学職員の試験に通っていて、文部省に所属する国立大学職員として一九七二年四月から勤務を始める。専修大学に近い東京医科歯科大学を希望したが、これが通らずに指定されたのは東京大学医学部であった。ここも専修大学に近いので了解できた。国立大学職員の仕事は日中であるから、経済学部への学士入学は夜間部である二部を申し入れてこれが通った。文部省に所属する国立大学職員であることを周囲には隠して大学に通う。

 国立大学職員は現在は国立大学法人になっていて、それまでのように文部省直轄の職員ではなくなった。以前には霞が関の文部省勤務を希望すれば昇進速度が早い順キャリアの扱いを受けることができた。本省勤務になれば責務が重くなり、残業が付いて回る。これを避けるために、出先ともいえる東京大学の医学部職員として勤務することにした。一九七二年四月一日、隅田肇は国家公務員として社会に出たのであった。本人の気持ちは勉強の継続にあるから国家公務員の新人の身分は気軽でよい。まともに相手にされず、期待されないだろうから、そのことが、かえって好都合であった。職員には高校卒の者が多くいた。

 国家公務員時代の国立大学職員のときも同じであったが処遇はあまり恵まれてはいない。高卒、大卒ともに俸給表の規定の二級、三級の扱いで定年を迎える者が多かった。四級に達する者は極わずかであった。四級は霞が関本省勤務では係長級であり、出先の大学事務局では課長に相当した。

 ついでだからもっと上の職を求めても良かったかな、と思うことがあったが欲は捨てていた。曲がりなりにも国家公務員の職に就くのだから満足すべきだと自分に言い聞かせた。

 後にN県に就職するときに国家公務員時代の俸給が引き継がれた。N県に移るときに試験をどうするか、相談すると移籍ではなく、普通の形で受験して成績次第で採用の可否を決め、合格していれば俸給は引き継がれることになった。もっとも試験は形式的なものであったが合格点に達していたから、すんなりとN県の職員になった。そのような道もあるのかと隅田肇は驚いた。

 これはモラトリアムだな、という思いが行き来した。加藤望美からは連絡はない。彼女は司法試験という茨の道に飛び込んでいった。それは氷の世界に似ていた。気がかりでならなかった。励ますとはいっても、言葉を掛けても薄すぎる。こちらからは連絡はしないと決めた。彼女は吉祥寺の親元に住んでいる。それは安心材料になった。

 司法試験に挑む人々を見てきた隅田である。一つ上の人は風呂敷に本を包んでいた。大学で顔を見たのは二度だけであった。精神を病んでいたのかも知れない。同じ学年の一人は四年時には志望を変えて教員になった。神田界隈の喫茶店の暗がりで中央大学の学生が試験対策で勉強会をするのを見ていた。この当時、中央大学は東京大学より多い合格者を出していた。中央大学の学生たちは、合格への意気込みと、実現性の気配を濃厚に漂よわせていた。年に五〇〇人ほどの合格者という門の狭さに、自らの身を照らすと、その姿は見えてこなかった。大学四年の間に取り組んだ法学の勉強は、単位取得の状態を超えてはいない。法学への深い理解に達っしていない。その状態であったから、理解力が高い東大生や、受験のための体制が整備されている中央大学生と張り合う意欲が湧くことはなかった。自分は覚えることではなく、考えることを主体として、それに合うことをしようと決めた。興味があるのはマルクス主義経済学であった。モラトリアムとして設定した二年間を資本論にかじりついて過ごそうと考えた。

 決意を体現するように、卒業単位の最低限の数として科目で選んだ。必修科目を除くと選択科目は少なかった。もしかして卒業単位に足りない履修届にしたのではないか、という不安があった。卒業を目的にしているのではないと決めているから、考えないことした。合格発表名簿に名があった。授業に出るのは資本論のゼミだけ。それは週一回であり、この週に履修している科目は気分に任せて受講した。

 授業と学業について、蒲生哲夫が語った言葉がある。入学とほぼ同時に共産党に入党して、一九六八年という激しい渦に飛び込んだ蒲生である。

 「仲間の苦労をみていると授業にでることができなかった。自分が授業にでていることは活動をサボっているようであり、そのようにも見られる。同じように活動家が卒業を意識して授業にでているのを見ると女々しいと考えていた。ビラ配り、宣伝ビラのためのガリ切り、印刷機の運転、立て看板書きがある。教室に出向いて静かな語り口で演説したとしても、教室の椅子に座って授業を受けることはできない。偉そうなことを言って授業に出ている暇があるのかと見られそうであった。大学側との交渉もある。動員が掛かればデモにでかけて行かなくてはならない。学生自治会の運営、それは闘争という呼ばれ方をしたが、そのために上部の学生組織である全学連の執行部との会議、専修大学学生の党組織の会議、そして地区委員会の青年学生部長との会議、向こうはこれを指導と言った。それを受けなくてはならない。そうした活動をしていると、授業にでないで業務をこなしても終電になり、会議の続きを学内党組織の仲間の家に行って続けることになった」

 蒲生の話を聞くと、自分が学習だけを目的に通学することは身勝手にも思えるのであった。しかし資本論に目を通さなくてはならない。資本論学習の手助けを受けるために大学に行き、授業を受けるのだ、ということをわざわざ自分に言い聞かせなければならない隅田肇であった。これで二年間を押し通すしかないと、割り切った。

 そうした間にも加藤望美の姿が浮かぶ。思いはあっても意思を表現できない。望美は司法試験に挑戦している。どのようなことにも蓋をしていると思わなければならなかった。もどかしい。しかし、その状態のままでいるしかなかった。

 もがいて、そのような状態に身も心も置く。

 隅田肇はモラトリアムの世界をつくって、これに籠ったのだと、うすうす感じた。加藤望美は氷の世界に飛び込んで凍り付いている。

 四年前に、 同じ教室に集った四十人の男女は、クモの子が一斉に散るように社会にでていった。それなのに自分はどうなんだ。苦悩の日がつづいた。

 苦悩の日々に思い出すのは、下宿の隣室の相沢俊夫との会話であった。

 相沢俊夫はボブ・ディランの英詩を読んでは、独り言のようにぶつぶつ語る。

 英詩の背景にあるキリスト教文化、それは福音派なのか、カトリックを含めたキリスト教の総体なのか、そこから出てくるものとして受け取らなくてはならない。英語の単語と日本語のそれらしい単語を対置して、その日本語の単語の意味でボブ・ディランを解釈してはならない。ボブ・ディランは何系の宗教に属しているのかな。良くは分からないんだ。宗教によってモノの見方、見え方が変わるからな。

 米国の文学書を渉猟しては、ボブ・ディランを読み解こうとする。「風に吹かれて」だって意味が解らないではないか。

 「風に吹かれて」の歌詞は、問いを重ねても「答えは風の中にある」とする。結論はないようにして、問いをそのままに残す。何なんだこれは。「風の中にある」という一節も、「すぐ目の前にあるのに見落としている」とも、「捉えようがなく、どこかへ消えていく」という意味にも取れる。複雑なできごと、簡単に割り切れない人間もようを解釈しようとしても、ボブ・ディランに問うと答えがない。霧のなかに引き込まれていく。

 そのような相沢の話を聴いている隅田であった。

 How many roads must a man walk down / Before you call him a man。人が一人前と認められるまでに、どれだけの道を歩かなければならないのか。

 The answer, my friend, is blowin' in the wind / The answer is blowin' in the wind。友よ、答えは風の中に舞っている。

 いいよな、このような言い方。何か大事なことがあると問いかけて、答えを相手に被せて、と相沢は言う。

 ボブ・ディランの「風に吹かれて」は、「風は吹いている」ではないのか。

 いや違う。「風は吹いている」ではない。原題の Blowin' in the wind は、「(答えが)風の中で舞っている/漂っている」という意味だ。

 英語の文法と歌詞の文脈からであり、解釈のポイントは次の三つだ。

 主語は「風」ではない。「風は吹いている」を英語にすると The wind is blowing になる。しかし、この曲のサビの歌詞は The answer, my friend, is blowin' in the wind、つまり「友よ、答えは風の中に漂っている」になる。主語は「風」ではなく、The answerということで「答え」になっている。

 と、ぶつぶつ言う。そして続ける。

 blow in the windのニュアンスはどういうことか。ここでの blow は、単に「風が吹く」という意味の自動詞じゃない。風に煽られて、ひらひらとなびく、風の中で舞い漂う、という状態を表す自動詞なんだ。つまり、「答えは風の中にゆらゆらと漂っていて、つかみどころがない」ということだ。あるいは、誰の目にも見えているのに捕まえられない、こと。

 相変わらず相沢のぶつぶつだ。好きにしゃべってね。難しいことは分からないけれど、聴いているから、というのが隅田の態度。それでいて馬耳東風のようすは見せない。

 日本語のタイトルに選ばれたのは「風に吹かれて」。直訳するとblown by the windは、受け身に聞こえるから、本当に真っすぐな訳ではない。ただし、「風の中でなびいている」「風を感じながら途方に暮れている」と言う形にして、詩的で情緒的な響きを持たせている。

 相変わらずぶつぶつが続く。

 ボブ・ディランの「風に吹かれて」が日本に与えたこと、そして世界へのそれ。

 ボブ・ディランが一九六二年に作詞・作曲したこの曲は、ポピュラー音楽が持つ社会的かつ文化的な意義を根本から変えた。

 日本の最初のフォーク・ソング・ブームは、一九六〇年代の半ばから後半にかけてのこと。きっかけはピーター・ポール&マリーが歌う「風に吹かれて」。ジョン・バエズも歌った。ボブ・ディランを意識する者は殆どいなかった。ボブ・ディランを強く意識したのは高石友也や岡林信康の歌い手の側。遅れてやってきた吉田拓郎はボブ・ディランの曲を追いかけて、曲を作った。知らない日本の若者は吉田拓郎を恰好いいと思う。その背後にボブ・ディランがいたことを後で知る。騙されたな、と皆が感じた。日本では「風に吹かれて」が、ベトナム反戦運動の象徴となった。

 世界に与えたこと。ピーター・ポール&マリーによる一九六三年の大ヒットをきっかけに全米に広まり、同年のワシントン大行進でも歌われた。米国では公民権運動と反戦運動の象徴になる。ポピュラー音楽は情緒を歌うものであった。「風に吹かれて」によって政治的・社会的な問いができることを知った。それはビートルズとそのメンバーのジョン・レノンなど同時代のソング・ライティングとして現れた。

 相沢俊夫は難しいことを考えて、難しいことを言う。聞き手は隅田でなければならなかった。

 古書店とレコード屋とカレー屋などが渾然一体となっている、文化もまぜこぜな神田神保町のコーヒー店で、思うことを好きなだけ語り、語っては次のことを思う。思いは遠くに飛んでいき、その思いにつられて相沢がどこかに行ってしまうようであった。風のような、生活実感を見せない、頼りなさがまとわりついているのが相沢であった。だから「あばよ」なんだと隅田は考えてみた。

 中途半端な時期を過ごしていることを感じる隅田であった。このころは魂が抜けて、風の中に漂っていたんだ、と思う。

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[資料]
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-3-(第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-6-(第六章 進路と消息)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-7-(第七章 緑の暖かい風)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之



旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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