見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-
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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。
二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。
五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。
野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。
野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。
南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-2026年9月27日・@森夏之
第五章 学生活動家と待ち受ける試練
第五の一章 学生活動家と待ち受ける試練
蒲生哲夫は入学するとすぐに民主青年同盟に加わった。全共闘運動が盛んなころで、各大学がゲバルトの気配に満ちていた。学生部長や学長が団交の場に拘束される事件が相次いでいた。
一九七二年に卒業すると、蒲生は民主青年同盟の専従活動家になった。「二十万人の組織だぞ」と蒲生は隅田肇に誇らしげに話した。かつてない組織の規模とその高揚に、蒲生は身震いしていた。
その年の夏のことである。蒲生の身に何かが起きたらしいことが隅田に伝わった。隅田はまだ大学に残っていたので、蒲生の動静が聞こえてきやすかった。党員であった蒲生は、党本部の一室に呼び出され、問い詰められていた。詳しいことは何も分からなかった。ただ「何かがあった」ことだけが伝わってきた。
後に分かったのは次のようなことだった。蒲生は「分派」の嫌疑をかけられ、党本部で査問されていた。聴取ということで拘束に同意させられ、一週間に及ぶ軟禁状態となった。何を話せば理解されるのか、蒲生は途方に暮れた。自分とその周囲の行動の一つ一つが、見事なまでに調べ上げられていた。
結局、蒲生は周囲の動きに気付きながら諫めることをしなかったということを咎(とが)められ、専従職を解かれた。失望のまま故郷に帰り、小さな印刷工場で働くことになった。
言葉は本来、世間の共有物である。だが「分派」や「新日和見主義」は、根拠が明かされないまま、組織の側だけが意味を知る言葉として使われた。受け取った言葉を手がかりに相手を理解しようとすると、言葉はまた別のことを言いはじめ、主張はぐるぐると回る。何を話せばいいのか。査問の一週間を通じて蒲生が感じたのは、共通の理解が通じない相手と向き合うことの虚しさと怒りであった。人と向き合うとき、誰もが相手と言葉が通じることを前提にする。その前提が崩れたとき、人は深く傷つく。
それから歳月が流れた。隅田肇と蒲生哲夫には、東京の下町の駅前にある小さな居酒屋で会う機会が一度だけあった。かつて党の千代田地区委員会で学生対策部長を務めていた人が経営する店であった。国鉄の労働組合で活動し、その後に党専従になった人で、蒲生とは郷里が同じである。身体を壊して専従をやめたあとで、江東区森下の小さな家屋の一隅を借りて始めた店である。
蒲生はぼそっと言った。「おれは分派なんかじゃなかった。上部に物を言える雰囲気ではなかったんだ」
自分と同じように査問された者が全国で数百人の規模でいたらしいことを、蒲生は後になって知った。幹部専従員だった川上徹も、同じ時期に同様の査問を受けていた。隅田は、川上を直接知ってはいなかった。
事件の真相が明らかになったのは二十五年後のことである。一九九七年、川上は『査問』を出版した。党は当時、青年組織の誤りを「新日和見主義」と呼び、その芽は双葉のうちに摘み取るのだとした。事実が示されないまま、その言葉が繰り返された。
蒲生は、「新日和見主義」とされた事件の背景には次の三つがあると考えた。新左翼か既成の組織かと迷いながら、後者に身を置いた者の揺れる心。困難を極める組織の拡大運動。そして、この組織に身を置いたまま生きていけるのかという不安である。
居酒屋でのその夜、蒲生は次の話をした。卒業して二年ほど経ったころ、仲間の女子学生の結婚式があった。新郎新婦は同じ学年の、別の学部の組織員であった。酒が回ると、当時まだ地区委員会の専従職員であった学生対策部長が、思い余ったようにして蒲生に話しかけてきた。「あのころは随分と無理な要求をして済まなかった。党の最高幹部の子どもが、ある大学で学生活動をしていて、終電まで続く活動を知った最高幹部は、そんな激しい活動をさせては駄目だ、早く帰宅させろと組織を叱り、活動の形を改めさせたんだ」。それは同郷の誼(よしみ)にも根ざしていた。最高幹部の子どもは千代田区にある大学に通い、民主青年同盟員になっていた。
蒲生は言った。「おれたちは、あそこまで苦しい活動を好んでやったのではない。病気になる者が多く出ていた。無理があり、その無理を知らんぷりされて、過酷な活動を求められたんだ」
学生生活への配慮など、一切なかった。だからこそ幹部の学生は、活動をやめれば大学に来られなくなり、多くの仲間が大学を去った。かつて学生対策部長で、いまこの店を一人で切り盛りする店主は、当時も密かに蒲生たちに同情していた。とくに同郷である蒲生には優しかった。
新郎は千代田区の党組織で専従になり、新婦は参議院議員の公設秘書になった。新郎は二年ほどで心を病むようになり職場を離れた。新婦が秘書を務めた参議院議員は落選して引退した。その議員は党の最高幹部に気に入られていなかったと伝えられている。
蒲生は話し続けた。ある男の身の上である。千代田区の出版社に勤め、経営支部の一員として活動していたその男の支部は、議論なしに解散となり、皆が居住地の支部に組み入れられた。居住支部に移った男は、会議を主導する立場になって地域の活動に取り組んだ。しかし男がやむなく転居すると、中心になる者を失って、地域の支部は混乱し、活動が停滞した。
男は何十年も、新聞の配達と集金を続けている。オートバイを買い、朝の二時間を配達に費やす。誰もが面白がって、あるいは必要に迫られてその新聞を読んでいるわけではないことは、男も重々承知している。それでも購読を断られるたびに、自分の存在を否定されたような情けない気持ちになる。
蒲生が知る専従活動家のうち三人が心を病み、活動の前面から退いた。三人というのは、蒲生が知る専従活動家の半数である。専修大学の学生党員の何人かは身体を壊し、ある女性は子どもを産めない身体になった。
蒲生は思いつめたように言った。「悔しくてならないんだ。何故ああなったんだ。あのころのみんなが、おれを含めて。悔しいだけではなく、怒りが湧く。大学の職員に親父が来たと呼び出されたんだ。面会に来たおれの父親と、党の最高幹部と、何が違うんだ。おれの親だって、子を思えばこその行動だったんだ。親の目に涙がうるんでいた。おれはつられてしまった。職員たちの前では見せられない姿だったんだ。最高幹部の自分の息子への思いは、おれたちへの思いとは違う。時期が違うとはいえ、おれたちは見捨てられているのと同じだったんだ。課題が重かったとはいえ、社会変革へのロマンを理由に、極限まで追い詰められるような形での活動を強いられていたんだ」
隅田肇の経済学部のゼミ仲間に、蒲生と同じ専修大学の党組織で活動していた者がいた。蒲生と隅田の交友を知っていたその男は、新日和見主義が事件として取り上げられた直後のようすを、口外無用のこととして、誰にとはなしに次のように話した。
「蒲生さんが何をしていたのかは知らない。卒業後は専修大学の学生党組織の外で活動するようになっていたから。処分を含めたその内容も知らない。処分後には、郷里の岩手に帰ったことだけは伝わってきた。新日和見主義事件で、どのような者がどう関わって何をしたのかは、機関紙赤旗では明らかにされなかった。最高幹部がこれを新日和見主義と呼び、双葉のうちに摘み取るのだと述べて、関連する文章を会議で読み合わせさせられた。その双葉が何を指すのかは知らされなかった。分派や組織破壊の行動があったのだろうと印象付けられた。民主青年同盟など青年組織の問題であることは分かった。川上徹の名は紙面には出てこなかった」
「誰かが悪事に似たことをしたから、党が組織を守るために新日和見主義を規定し、組織原則に基づく行動を求めている。そう受け止めた。論説は、悪い奴らを退治したという手柄話に聞こえ、同じことをしたら容赦はしないぞ、と言われているようだった」
「自分たち専修大学の学生組織は純朴だった。蒲生さんのほかには、民主青年同盟の幹部になっている者も、千代田地区委員会で学生組織を受け持っている者もいなかった。安保条約破棄と学費値上げ反対の課題に取り組み、陣営の組織強化のために民主青年同盟の新聞と赤旗の拡大の活動をしていた。やましいことはしていないし、やましい者は一人もいなかった。学生党組織には異様な雰囲気が漂った。異様さとは、何かが起きていて、それに正義が振るわれている、正義は勝つのだという興奮であった。悪い奴らがいたから党組織と最高幹部は怒っているのだろう、と受け取っていた。そして、新日和見主義を打ち負かすのだという、明るさに似た雰囲気が漂っていたんだ」
蒲生哲夫は民主青年同盟を経て、すぐに党に所属した。蒲生は隅田と加藤望美の事情をよく知っていた。隅田の叔父は自民党の県会議員で、県会議長を務めていた。近い親戚には検事がいた。望美は良家の一人娘で、司法試験を目指していた。蒲生は、この二人を自分のような激しすぎる党活動に誘うことはできない、誘うまいと心に決めていた。党組織のあり方に沿うものではなかった。組織強化を掲げる党組織からは叱責(しっせき)された。蒲生は、隅田については「反動性を心のうちに強く含んでいる」、望美については「性格が弱すぎて、後々組織に災いをもたらす」と言って、逃げた。隅田と望美は何となくそのような空気を感じていた。
蒲生は、望美が司法試験に挑戦することを知っていた。隅田と望美が惹かれ合っていることは雰囲気から分かった。当人たちには定かではないとしても、いずれ形が出来あがると思うのであった。二人の間に生じている空気は、蒲生だけではなく、周囲の者にも確かに感じ取れるものであった。一人だけが党に属するようになれば二人は分断され、望美の試験への意欲が落ちる。蒲生はそう案じた。蒲生の弱さと言うこともできる。蒲生は、学生党組織の過酷さを恐怖と抱き合わせに感じていた。終電まで活動すること、人前に立って幼い演説の真似ごとをすること、党に属する身分を明かして機関紙赤旗の購読を勧めること。高校を卒業するまでそうした世界を知らなかった田舎育ちの自分が、訳知りの闘士として人前に立っている。そのことに戸惑いがあった。同じことを二人に求めることはできない。結果は別にして、隅田と望美のこの先のことは、自分よりもう少し緩やかで穏やかであって欲しいと考えていた。
そのゼミ仲間が、五十年後に同じような語り口で隅田肇に告げた。
「あのころ専修大学の党学生支部にいた仲間は、みな屈託なく、今も同じように活動しています。元気な人は地方議員になっています。十人ぐらいは議員になっているかな。経営支部からは定年で離れているけれど、地域支部では中心になっています。学生支部での活動は仲間うちの誓いのようなものであったから、道を外れることはないのです。これは連帯のようなものです。その後にソビエト連邦が崩壊して、コミンテルンの文書が出てきて、野坂参三が山本懸蔵を密告したことが明るみに出ました。副委員長だった袴田里見は一九七七年に、路線批判などで党員権制限処分を受け、後に除名となりました。一九七二年に党の幹部だった人たちの行状こそ問題だったんです。ほかにも幹部たちの不祥事はありました。純朴で高望みしない専修大学学生党組織の当時の仲間は健全だったんです。いまも善良な市民として党にかかわり、地方議員としての活動を含めて元気にやっているのです。声高に新日和見主義を言い、双葉のうちに摘み取ると号令をかけた党の幹部のなかに、恐るべきことをした人がいたのです。この対比の捉え方は難しいですが、学生党組織における仲間は、あのころの活動を通じて分かり合えていたことが、連帯感を産み、挫けずにやろうという連帯感が静かに脈打っていて、今の私たちを支えているのです」
隅田肇には忘れられない蒲生の叫びであった。人それぞれに人生があるとはいえ、蒲生の境遇はあまりに過酷であった。十八歳の純真が、軍隊と同じか、それよりも強い縛りを受けて、崩壊していく事例の多さを解決する方法は、最高幹部が自分の子どもを救済したその内容に凝縮されていた。スターリン時代のソビエト連邦の粛清に目をまともに向けなければならない。
隅田は荒木忠一の講義を思い出した。荒木教授はときおり、ソビエト連邦の民主主義の在り方、スターリンの独裁と粛清、そして社会主義への幻想に触れた。当時はすでに、そのような歴史の暗部は見えていた。
ソビエト連邦の崩壊とともに、あってはならないことが明るみに出た。モスクワのコミンテルンにいた野坂参三――のちの日本共産党議長――が、コミンテルンで働いていた山本懸蔵を事実無根の密告をしていたのである。山本は一九三七年に逮捕され、三九年に処刑された。事実が明らかになったのは一九九二年、半世紀余りを経てからのことであった。密告しなければ自分の命が危うくなる。密告合戦が繰り広げられたのが、スターリン時代のソビエト連邦であり、コミンテルンであった。密告がなくてもスターリンは罪をつくりあげた。NHKの映像の世紀やNHKスペシャルのドキュメント番組が実際を暴く。スターリン体制への評価は、厳しくなることはあっても緩むことはない。
ソビエト連邦のことでは、隅田にはもう一人思い出す教授がいる。法学部で比較政治機構論(政治学)を担当していた大嶋太郎である。紺のスーツを着こなす、口数の少ない人であった。授業は隅田と教授の一対一であることが多かった。隅田はソビエト連邦の実情を調べることを促され、リポートにまとめて卒業した。大嶋教授は東京都練馬区で区長公選を呼びかける先頭に立っていた。後に東京では区長公選制が実現したが、教授が思い描いたものとなったか、どうか。大嶋教授には国家と地方自治に関する著書がある。地方公共団体の職員や労働組合員との学習の場を通じて交流していた。地方自治の拡大が、大嶋教授が日本の現実政治で取り組んでいたことである。大嶋教授の授業と、自分がN県の職員になったこととのあいだにどんな関係があるのか、隅田にはいまも分からない。
隅田肇は、押し付けるのでなく、調べさせ考えさせる大嶋太郎教授の授業を受けた。隅田はソビエト連邦の内実を探ろうと文献を集めた。文章の端々に散らばる、ソビエト連邦における庶民の暮らしや指導層の特権などを拾い上げた。隅田には、ソビエト大使館に出入りする知り合いの年長者がいた。諜報員と疑われるのではないかと隅田が意見を述べたことがある。ソビエト連邦に心酔するその年長者は狂ったように怒った。その年長者は、鉄は国家なりという言葉をレーニンが述べたと繰り返していた。宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉を、レーニンが借りたもののようである。その年長者の子どもは東大の工学部に入学し、日本一の製鉄会社に就職した。
どうにも怪しい、というソビエト連邦への認識を持つようになったことが、隅田の行動に影響した。ソビエト連邦が怪しいというだけではなく、その政治体制の基盤をなすと想像される共産党の組織運営の諸規則と、その原理と、実際の運営に幻滅した。このことが隅田の行動に後々まで作用した。
五の二章 渦を見下ろす者の記――新日和見主義事件をめぐって
はじめに 問いとして文章A、答えとしての文章Bと文章A(本文に溶け込んで見えない)
ここでは文章A、そして文章Bは提示しない。文章Aは設問あるいは問いかけとして作用し、その答えとして文章Aと文章Bが溶け込んでいる。読み手は問いと答えの流れの背景に文章Aと文章Bがあることを、かすかに意識していればよい。ある事象のなかに、紛れ込んでいる真実と虚構、それは小さきものが無垢なままに生きる姿と、それを翻弄する外からの災い、との相克でもあり、この二つのことが時とともに流れていくということである。人は時の流れに、命は短く小さいから査問事件の場面にいた、査問する側の人々はすでにいない。同じように小さきものとしての川上徹もまた同じである。あの時何があったのかという漠とした疑問への問いかけである。
神の目の視点-その1-油井喜夫が『汚名』と『総括』で明かした事実
「Aとしての文章」の書き手を「すべてを見渡す神の視座」に置くとき、この文章は単なる個人的な回想や推測の枠を超え、組織という神話空間の中でうごめく人間たちの業と、その生態系を俯瞰する冷徹な記録へと変貌する。
神の視座から見れば、川上徹が抱いた新左翼への秘かなシンパシー(A)と、彼が後に赤軍派や中核派、第四インターの活動家から聞き取りをおこなった事実(B)は、必然の軌跡である。川上徹は共産党の厳格な統制(吉村ラインや宮本体制)の内部にいながらも、その精神のどこかでよりラディカルな時代精神を求めており、その「揺れ」自体が川上徹の求心力と限界を規定していた。
しかし、神の視座が捉える最も残酷な劇薬は、その川上徹の「揺れ」と内部での独自の動きが、組織の防衛本能(民主集中制の暴走)を刺激し、結果として末(すえ)にいた蒲生哲夫や遠山健一などを揺さぶることになる。遠山健一は何の役職にも就いていない見えにくい存在であった。当初無実を叫んで『汚名』を綴った油井喜夫など)を「渦のなかの粒」として粉砕したという点にある。川上らが裏で構築した「分派」の微小な営為が、神の与り知らぬところで拡大解釈され、無実の者たちを血祭りにあげるように作用した。
ここに歴史のアイロニーが存在する。事件の当事者でありながら自らの「分派活動」の事実を長い間、隠していて、のちに明らかにする川上徹と、そうした暴露・告白によって自身の人生の前提(完全無実の被害者というアイデンティティ)を崩され、激しい絶望とともに川上と決別した油井喜夫(B)。そして、構造の外部にいながら理不尽に処分された蒲生哲夫。彼らはみな、巨大な「党」という神話的装置のなかで翻弄された。
だが、神の視座から光を当てるとき、人間たちのこの泥沼の足掻き(あがき)を救済し、歴史の闇から引きずり出した唯一の装置こそが「出版」という行為であった。川上は『査問』や『素描・1960年代』で自らの内面と事実を書き残し、油井喜夫は『汚名』から『総括』に至る執念の書物で組織の闇を晒した。個人の自由が踏みにじられ、多数決の暴力によって思想が抹殺されようとも、人間は「書くこと」「出版すること」によって、失われた尊厳を取り戻し、次世代へ向けて真実の芽を残すことができる。
神の目の視点-その2-川上徹の歩みと、これに対置されることになる油井喜夫から見えてくる真実
以下は、神の視点からということで、全知の語り手による言葉を書き起こしたものである。ただし、語り手は実在の人物、川上徹、油井喜夫ら本人が書き残したことだけを引用する。内面を描くのは、蒲生哲夫・隅田肇に限っている。実在の人物に架空の心理や台詞を与えることを避けるためである。
序 語り手の位置
一九六〇年の駒場の春も、一九七二年五月の代々木の密室も、静岡の油井喜夫の病室も、京王線明大前駅の出口も、すべてが見えるているのが、神の視座にいる語り手である。。
ただし、実在した人々の胸の内を、私は語らない。彼らが自ら書き残した言葉を通してだけ、彼らの心を示す。神の目ではあっても、生きた人間の心を書き換えることはしない。
私が胸の内まで語るのは、蒲生哲夫と隅田肇、この二人だけである。
私の手もとにはAとBの二束の資料がある。
一つはBであり、これは、のちに川上徹や油井喜夫らが図書などで世にだした文章などである。これが資料B。ここには真実の取り違えや、作り事が混じると想定する。
もう一つはAであり、蒲生哲夫の傍らにいた一人の書き手が残した考察である。これを資料A。
一 東京大学駒場、1960年
一九六〇年、一人の青年が東京大学教養学部に入学して、同じ年に日本共産党に入った。川上徹である。
資料Bにある川上徹の記述である。東京・亀戸に生まれ、戦争の末期には信州東筑摩郡に疎開し、少年期をそこで過ごした、と。一九三三年に信州の教員たちが「アカ」として検挙された土地である。父がその事件に連座していたことを一冊の本にする。
一九六四年、彼は再建された全学連の委員長になる。一九六六年からは民青の本部に移り、中央常任委員となった。
一九六七年と一九六八年、彼は二冊の本を世に出す。『トロツキスト その「理論」と実態』と、山科三郎との共著『トロツキズム』である。新左翼の理論を批判し、党の青年学生運動の理論としての本であった。
日本共産党の側に立つ論陣である。資料Aの書き手は、その後に書かれた川上徹の本のなかに新左翼への共感があることを読み取る。この二冊と、四十七年後に同じ課題を扱ったもう一冊の本が書かれたこととの相関から推測されることはある。
二 隆盛と亀裂、1970年から1972年
一九七〇年代の初め、民青は隆盛を極めている。資料Bは、同盟員は二十万人を超えたことを示す。全共闘との関わりのなかで日本共産党としての活動を推進してきた民主青年同盟幹部である党青年組織の者たちである。党中央の考えとは違う方向が何とはなしに芽生えて、それが小さな形になりかけていた。
一九七一年十二月、日本共産党の中央は民青幹部の年齢の上限を三十二歳から二十五歳に引き下げると決めた。資料Bは、民青側への事前の相談はなく、民青の中央委員の過半数がこれに反発の感情を抱いたことを記す。
資料Aの書き手は、川上の著作などから次のようなことを思う。分派活動を完全に証明する文章はない。しかし、吉村の指導に反発する川上徹らのグループがあり、反吉村のグループとしての動きはあった。川上徹の人間的な魅力などもあって、こちらが党準中央委員である民青委員長の吉村を圧倒した。吉村がすることの全てが、日本共産党中央委員会の方針の押し付けとして受け止められて、このことが吉村への反発となり、それは日本共産党中央委員会への反発としての形態になり、党幹部への反発の様相を呈することになる。
私はこの時期の会合の数々を見ている。そのような事態の実態は後々に明らかになる。川上徹が三十五年後に書いた本によってである。
三 代々木、一九七二年五月
一九七二年五月、日本共産党中央委員会が動き出す。
川上徹は代々木の党本部に呼び出される。その日から十三日間、拘留される状態が生じた。警察でもない限り、また犯罪の事実がない場合には、普通の人間を拘留することはできないはずであるのに。川上徹は『査問』に書いている。家に帰ることも、身重の妻に直接連絡することも、一人になることもできず、便所に行くにも見張りが付いた。所持品はすべて取り上げられた。「党に対して隠すべき私物はない」筈だという理由である。「査問」の中心にいたのは党中央の幹部、下司順吉であった。
川上徹は仲間との何気ない会話が「陰謀」の物語に作り変えられることに驚いた。『査問』の書評者は戦前の特高の取り調べを思わせるとした。
同じころ、民青の静岡県委員長であった油井喜夫は、川上徹と同じように「査問」の対象になった。肝臓の病で入院していたのであった。退院したという言い方がある一方で、退院させられたと理解される状況があり、東京の代々木の党本部に呼び出された。何かの形式に伴う誤解なのか、朝鮮人参を密輸したことを指摘され、分派に資金提供したとされた。油井喜夫は、身に覚えがないことであったが、示されたことを事実として認めるように強く迫られたとしている。油井喜夫が『汚名』にこのことを書いている。「党は誤らない」(党にはこうしたことを含めて誤りはない)と考えていたから、朝鮮人参の輸入にかんしては誰かが不正を意図してやったのだろうと受け止めていた。分派に対するお金の流れについても自分は知らないことだが、誰かがどのような形かで、そうしたことをしたのだろうと判断することになった。こうしたことから、油井喜夫は川上徹とは別の状況にあり、分派は汚名ではなかったかと、推察される。その後の行動を含めて考え合わせてのことでもある。
五月から九月までに、査問された者は約六百人に及んだ。処分された者は約百人である。
分派の摘発のために真っ先に動いた愛知県ほかの民青指導部の二人は公安当局の工作員としてのスパイであった。川上も油井の書評者も記しており、この前後に日本共産党もこのことを明らかにしている。
四 蒲生哲夫と隅田肇
神の目を持つ、神の立場にいる私は蒲生哲夫に深い同情を寄せる。
隅田肇は、京王線明大前駅の出口で、新左翼の二つのグループの激突を見たことを告げてきた。ヘルメットにゲバ棒のいでたちの双方合わせて十二人ほどの若い者、これは明治大学泉校舎を根城とする過激派であることが確かなこととして推察される。物陰に隠れて他派を待ち伏せし襲撃したのであった。ガチ、ガチ、ガチという状況である。隅田肇の下宿は明大前から数分のところにあり、相沢俊夫は明治大学の文学部に通う同じ年齢の隣人であった。激突は命を奪う状況にあった。その場をすぐに去った隅田にはその後のようすは不明である。明治大学は過激派の支配下にあり、神田校舎も明大前の泉校舎もその影響が強かった。学生の身にありながらヤクザの出入りまがいの過激派の行動とその心理を理解することは、隅田肇のどのような思考方法によってもできないことであった。
蒲生哲夫は、党の学生指導部にいた早稲田の法学部生と中央線に乗っていたとき、新左翼の過激派三人ほどが、その早大生を襲う場面に遭遇する。姿をみるなり、いきなり狂犬のように襲ってきた。一緒の早大生は「何を」と立ち向かう。勢いに押された狂犬たちは引き下がった。早稲田大学は過激派の巣窟であった。その早大生と大隈講堂付近の地下の学生の社会科学研究会などの部室で会議を開いていた蒲生哲夫は、早稲田大学の険しさを肌で感じており、過激派と直接に対決するこの男の強さに敬服した。このような事情を知っていると、川上徹と過激派との関係が何故そのようであるか理解できないのである。過激派のヤクザにも似た心情、そして狂犬と同じ行動、相手は殺すつもりでいる彼らのことを、身体が覚える恐怖とともに、心では拒絶するのであった。だから川上徹の過激派との関わりは理解できない。過激派・トロツキストを蒲生哲夫は心のうちに呼び込むことはできない。それだから川上徹の行動は理解不能であった。
一九七二年、蒲生哲夫は無実なのにと涙を飲む。
蒲生哲夫は川上徹たちに連なってはいない。日本共産党の地区委員会に属しての青年学生組織の「指導」と援助の役割に限られていた。民主青年同盟の中央組織とその中での党員組織が何をしていたのか。そうした動きの外にあり、組織的なかかわりはなかった。川上徹が引き起こした大きな渦は、その組織的な動きとはかかわりなく、共産党中央から見れば川上徹を交えた大きな渦としてとらえられた。渦には枯れ葉や木屑や粉じんが巻き上げられて混じる。蒲生哲夫はつむじ風に似た渦に巻き上げられた葉の一つとして自分を理解するようになった。共産党は渦そのものが組織を破壊する現象だと考えたのだろう。渦を構成する空気の流れには小さな物質としての葉が巻き込まれ、小さな砂も同じように高く舞い上がった。
やがて党から降りてきた文章には「新日和見主義」を「双葉のうちに摘み取る」と書いてあった。読み合わせの資料になった、その文章には事実が示されていなかった。党の説明を聞け、指導の方針は間違っていないのだから従え、ということを伝えられていることを、知らぬ間に暗黙の裡に受け止めさせるように作用した。
蒲生哲夫はその後も党の活動を続けている。しかし、地域の支部で中心に立つこと、人を導く立場に就くことを、どこかでためらうようになった。自分ではあの扱いを汚名と受け止めている。だが党の側は、それを蒲生の汚点としているだろう。そう思うと、ためらいのままに党活動を続けていくしかなかった。自分は自分にも党組織にも正直で誠実に生きてきた。それは隅田肇、加藤望美、遠山健一に対しても同じであった。そうしてきたし、そうするしかない。それが生き方であり人としての道であると蒲生哲夫はずっと思う。
五 川上徹と油井喜夫の沈黙の長い年月とその後の急展開
川上徹は民青本部を追われた。党員権停止一年という扱いであった。資料Bには「除名」と書き、「民青の元委員長」とも書いているが、間違いである。川上徹は司法試験に挑むことになったが、論文試験では簡潔に記すべきところを、抜けきらない長広舌が災いして突破できなかった。途中で見切りを付けたのである。その間に知り合いの伝手で出版社に勤め、その後一九八〇年、友人たちの支援の出資を受けて出版事業の「同時代社」を創立した。
一九八五年、川上徹は『もう一度、船を出せ』を出す。一九九〇年代の初めには、ある思いによって決断して日本共産党を離党する。
油井喜夫は「査問」事件の後には静岡県の職員を経て司法書士になる。党籍は残したまま、二十七年間、口を閉ざしていた。というよりも党活動の最低限のことをして過ごしていた。
蒲生哲夫はずっと何も語らない。隅田肇は、言葉になっていなくても蒲生哲夫の心を聞き取れた。別の章で蒲生哲夫が語ったことになっているのは、実は隅田肇の心が聞き取ったことである。
六 川上徹と油井喜夫によって明かされた言葉と、事実との照合
一九九七年十二月、川上徹は『査問』を書く。事件から二十五年が経過していた。
油井喜夫はそれを読む。衝撃だった。自分が受けたのと同じことが川上徹の身の上にあった。油井喜夫は本を書くことを決断する。『査問』出版の翌年の一九九八年に離党届をだす。本の中身は自分の身の潔白を明かす内容になっているから、党籍があったのでは党との間で事実の遣り取りをしなくてはならなくなるからであり、川上徹の『査問』を通じて、あのような「査問」をする日本共産党とは縁を切るしかなかった。一九九九年に『汚名』を、二〇〇〇年につづいて『虚構』をだす。油井喜夫は分派の結成にはまったく関わっていない。新日和見主義の分派は「宮本式の偽造された分派基準によるでっち上げ」と書いた。
川上徹は二〇〇二年に『アカ』をだす。治安維持法で検挙された父の世代と、党に査問された自分の世代を、一冊の中に並べて書いた。
川上徹は二〇〇七年に衝撃的な内容をもつ『素描・1960年代』を大窪一志と共著として出版する。『査問』は別だが、以後の川上徹の出版物は自分が興した同時代社からのものであった。言論封鎖に対して、日本共産党の外に出ての言論をするために同時代社となり、『査問』を契機にして、新日和見主義と査問事件が世に知れることになった。これらのことの真意を確かめるための作業としてこの場があり、事実に乗っての検証をする姿勢で、この神の文がしたためられている。
油井喜夫は『素描・1960年代』によって、川上徹らが日本共産党が処分の対象とした分派としての行動の事実があったことを知る。油井喜夫は『査問』の内容をそのまま受け取っていたから、分派行動の記述を読んで、川上徹に騙されていたと怒る。
このような経緯があって、新しい事実を踏まえた著書として二〇〇八年に『実相』を、二〇一〇年に『総括』をだす。『実相』の終章は「事件被害者の妻たちへ」である。
七 二〇一四年、もう一冊の本
川上徹は二〇一四年に『戦後左翼たちの誕生と衰亡 10人からの聞き取り』をだした。
目次には次の名が並ぶ。「本気で銃を持ち『首相官邸占拠』を計画したこともあった」松平直彦。「高校受験の年、共産党のおやじから『鋼鉄はいかにして鍛えられたか』をプレゼントされて」江藤正修。「はじめて会った左翼の中に生きた批判精神を見た」水谷保孝。
一九六七年と一九六八年の二冊と『査問』の間には激しい矛盾がある。蒲生哲夫の身体に残る恐怖にも似た記憶は、新左翼の過激派とはどのような形でも相容れない。川上徹はそれを平然とやってのける。川上徹を闇に沈む怪獣として、それは善の側にはない別の世界のモノとして見るのであった。中央線の車内で殺意を向けてきた者たちのことは、全共闘暴力団として蒲生の身体に記憶として刻まれている。
[註](はじめに、の再掲)
ここでは文章A、そして文章Bは提示しない。文章Aは設問あるいは問いかけとして作用し、その答えとして文章Aと文章Bが溶け込んでいる。読み手は問いと答えの流れの背景に文章Aと文章Bがあることを、かすかに意識していればよい。ある事象のなかに、紛れ込んでいる真実と虚構、それは小さきものが無垢なままに生きる姿と、それを翻弄する外からの災い、との相克でもあり、この二つのことが時とともに流れていくということである。人は時の流れに、命は短く小さい。査問事件の場面にいた、査問する側の人々はすでにいない。小さきものとしての川上徹もまた同じだ。本稿はあの時何があったのかという漠とした疑問への素直な問いかけとしてある。
[資料集として]第五章 学生活動家と待ち受ける試練
[資料集として]見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
文章A
川上徹は一九六〇年に東京大学に入学した。日本共産党と新左翼のあいだに位置するような気持ちを持っていて、日本共産党に属しながらも、新左翼の運動に小さな共感を抱いていた。その共感は関心でもあった。一九六四年には、再建された全学連の委員長になっている。こうした立場にあって、少しの調査によって、新左翼を批判するトロツキズム批判の本を二冊書いている。『トロツキスト――その「理論」と実態』(日本青年出版社、一九六七年)と、山科三郎との共編『トロツキズム』(新日本新書、新日本出版社、一九六八年)である。日本共産党の側に立ち、日本民主青年同盟と日本共産党の青年学生運動を進めるための理論的な強化を目的とした本とされた。
しかし川上徹は、批判しながらもどこかで新左翼の運動とその活動家にシンパシーを感じていた。そのことは、その後に書かれた本の端々から読み取ることができる。そうしたシンパシーがあったから彼らへのインタビューが実現し、『戦後左翼たちの誕生と衰亡――10人からの聞き取り』(同時代社、二〇一四年)が書かれたのである。歴史的記録という名目を立てているのかもしれない。それでも、先の二冊との関係で激しい矛盾が生じる。
川上徹が興した出版社の名は「同時代社」である。その名のとおり、日本共産党の時代の仲間だけでなく、新左翼の「トロツキスト」を含む人々にまで聞き取りをおこなった。赤軍派の松平直彦氏、第四インター系の活動家の江藤正修氏(同時代社から戦後左翼を検証する本を出している)、中核派(革共同)の元幹部の水谷保孝氏である。
蒲生哲夫と同じ時代を生きた隅田肇は、京王線明大前駅の出口で、新左翼トロツキストの二つのグループがいきなりガッとゲバ棒でやり合う場面を見ている。蒲生の経験では、そうした新左翼トロツキストのグループとは、交流しようにもできる相手ではなかったし、絶対にしたくない相手であった。蒲生哲夫は、共産党の学生指導部にいた早大法学部生と中央線に乗っていたとき、その早大生に敵対する新左翼トロツキストが襲い掛かってくる場面に出くわしている。話し合いなどできる状況ではなく、相手は殺す気で襲ってきたのであった。
だから蒲生哲夫は、川上徹が赤軍派の松平直彦氏、第四インター系の江藤正修氏、中核派の元幹部の水谷保孝氏に接触し、聞き取りができたという状況から、「川上徹は新左翼トロツキストたちに親しさを抱く心情を持ち合わせていたのだ」と推察する。『査問』かほかの著作に川上徹が書いているところでは、彼は日本共産党と新左翼トロツキストのグループとのあいだを揺れ動いていた。それでも日本共産党の組織員として身を置き、日本共産党の青年学生運動の理論面でも実践面でも指導者として活動し、行動していた。蒲生哲夫はそう言い切る。
川上徹の著作のなかに、分派活動をしていたことを完全に証明する文章は確認できない。ただし、日本共産党の準中央委員である吉村への反発があり、吉村に敵対する反吉村の別グループが組織としてできていて、行動していたことは明確に読み取ることができる。それを日本共産党が分派行動とみなすのであれば、そういうことになる。民主青年同盟の幹部たちは、日本共産党の青年学生組織の幹部党員の組織でもある。その中での意見と方針の対立が原因となった行動であり、そこでは吉村、つまりは日本共産党の指導に反抗する川上徹の側の勢力が圧倒的に多かった。一九七二年五月、川上徹は代々木の党本部に呼び出され、十三日間にわたって査問を受けた。
静岡県の民主青年同盟の幹部として活動していた油井喜夫は、こうしたことを含めた事実から、川上徹たちが分派として行動していたと判断するに至った。油井喜夫は、その後に何があったのかを自らのために書き残すため、そして自分と同じ目に遭った不幸な人々の名誉のために、幾つもの本を書いた。潔白を明かそうとする油井喜夫の執着は、いまも続いている。そのことから、日本共産党の決めつけが不当であったことを油井喜夫は示している、と推定される。
油井喜夫は川上徹に対しても裏切られたという気持ちを持ち、日本共産党から受けた査問に伴う人権蹂躙には激しい怒りをもっている。日本共産党には名誉回復を求めている。油井喜夫の無念さは、この上ないものである。蒲生哲夫の場合も、日本共産党から受けたのは不当と言える扱いであり、この点では油井喜夫と同じである。
何があって、何がなされたのか。その二つの当事者のあいだのこととは無縁の蒲生哲夫が、処断されたのである。蒲生は無実であった。だがその無実は、川上徹らの動きのなかでは渦のなかの粒にすぎず、川上徹と同じものとして取り扱われた。そのとき蒲生哲夫の心はどのように動いたのか。
事実を引き起こした当事者は、川上徹と日本共産党である。その外にいた非当事者たちが、両者の対立から生じた渦に翻弄された。事実が伝えられないまま「新日和見主義」が規定された。どのような事実を指して「双葉のうちに摘み取る」というのか。そうした通知を、民主青年同盟と日本共産党の青年学生組織は読み合わせさせられていたのである。事実抜きのその説明は、日本共産党の説明を聞け、指導方針は間違っていないのだから従え、ということを意味するもののように見える。蒲生哲夫も同じ思いを抱いた。
油井喜夫が長いあいだ日本共産党に属していたことは、自分の生き方が、それまで経験した党活動の延長にあったことを示している。蒲生哲夫はいまも党活動に従事している。だが、受けた扱いを自分は汚名と受け止めていても、党の側はそれを蒲生の汚点としているだろうと考える。そう思うと、地域支部などで活動の中心になることや、指導的な立場に立って行動することをためらうようになり、実際にそのような振る舞いとなった。
何が本当なのか、決めつけることはできない。しかし、川上徹の著作活動と、それに続く出版社の創設とその後の出版事業、そして油井喜夫の著作活動が示していることがある。人が自らの意思と意見、そして実際にあったことを書いて人に示す、その出版という活動が果たす役割である。それを何というのか、私はその言葉を知らないが、大事なことである。
組織と個人のあいだのこと。個人が持つ自由の在り方。意見を述べること。こうしたことを何というのか、これも私はその言葉を知らない。
著作が出版されたことによって、「新日和見主義」と、それを「双葉のうちに摘み取る」とされたことの事実や実態が、少しだけ露わになった。出版がなければ、いま振り返ればあの幻のようであった会議は、さらに幻として宙を舞ったままになっていたであろう。
人の自由と出版。結社も自由のうちに入る。では、自由とは何か。思想も心情も自由である。自由とは、何物にも何事にもとらわれないことであり、個人に与えられている生存権の一部であるように考えられる。民主主義と多数決についても同じである。多数の側があっても、少数の側、あるいはたった一人の少数であっても、その人の意思は束縛されない自由のなかに置かれなければならない。多数があって、多数決もある。多数の側の外にいる人の自由とその主張が残されていれば、それは次の世代において大事なこととして花開くことがある。そのためにも、考えを抹殺したり、制限したり、抑制したりしてはならない。こうしたことは保証されるのが望ましい。いや、保証されなければならない。
文章B
資料集 新日和見主義事件と川上徹・油井喜夫
凡例(出典の記号)
- 〔W〕Wikipedia(「新日和見主義事件」「川上徹」「油井喜夫」「大窪一志」「二・四事件」の各項目)
- 〔版〕出版社・書店の紹介文と目次(筑摩書房、同時代社、紀伊國屋書店など)
- 〔評〕書評(書評『査問』jrcl.jp、「川上徹『査問』を読む」、書評『汚名』)
- 〔未〕AI検索の要約にあるものの、出典を確かめられていない記述。引用するときは現物で確認が必要です。
- (編者注)横田俊英の見解
一 新日和見主義事件
概要
- 一九七二年五月、日本共産党中央が摘発した。〔W〕
- 五月から九月にかけて、民青の幹部を中心に約六百人が査問を受け、約百人が処分されたとされる。千人規模とする説もある。〔W〕
※いずれの数字も根拠が確かでない。実際には六百人規模にも至っていなかったと考えられる。(編者注)- 党の説明では、党中央委員の広谷俊二と民青中央常任委員の川上徹らが、党の路線に反対する秘密組織をつくったとされる。党はこれを規約違反の分派活動と判断した。〔W〕
背景としてあげられている事柄
- 一九七〇年安保の時期に民青は全共闘と激しく衝突し、その経験から幹部の考え方が急進化して、党の「人民的議会主義」路線とずれが生じたとされる。〔W〕
- 一九七二年には民青の同盟員が二十万人を超えた。〔W〕
- 一九七一年十二月、党中央は民青幹部の年齢上限を三十二歳から二十五歳に引き下げる方針を決めた。批判的な立場の論者によれば、民青側への事前の相談はなく、民青中央委員の過半数が反対した。〔W〕
- 処分された側は、党中央への批判を口にしただけで分派とみなされたと主張している。〔W〕
公安のスパイについて
- 『査問』によれば、分派の摘発を率先して進めた民青指導部の二人が、のちに公安のスパイと分かった(p.114あたり。単行本・文庫本のどちらのページかは不明)。〔評〕
- 『汚名』の書評によれば、査問を強く進めた党幹部の中に、一九七四〜七五年に警察のスパイと発覚した人物がいた。書評の筆者は、彼らが粛清を大きくした可能性を指摘している。ただしこれは書評筆者の見方である。〔評〕
見方の違い
- 党は現在も「分派活動への正当な処分」という立場をとっている。〔W〕
- 川上徹『査問』と油井喜夫の著作は、処分を批判している。〔W〕〔評〕
二 川上徹(かわかみ・とおる)
経歴〔W〕
年 事項 一九四〇年 東京・亀戸に生まれる 一九四四〜四九年 長野県東筑摩郡に疎開 一九六〇年 東京大学教養学部に入学、同時に日本共産党に入党 一九六四年 全日本学生自治会総連合(全学連)再建大会で中央執行委員長 一九六六年 委員長を退任。東京大学教育学部教育行政学科を卒業。民青本部に勤務し、中央常任委員 一九七二年五月 分派活動の疑いで、代々木の党本部で十三日間の査問を受ける 一九七二年秋 党員権停止一年の処分。民青本部を退職 その後 司法試験を受験し、出版社に勤める 一九八〇年二月 友人らの協力・出資で同時代社を設立 一九九〇年 哲学者・古在由重の追悼集会を企画し、事務局を務める 一九九一年 上記を党規約違反とされて除籍され、離党(一九九〇年とする資料もある) 一九九七年十二月 『査問』を出版 二〇一〇年六月 同時代社代表取締役を退任 二〇一五年一月二日 死去(七十四歳)。晩年はリウマチ、心臓弁膜症、胃がんを患った 著作一覧
書名 出版社 刊行 ISBN 『トロツキスト――その「理論」と実態』 日本青年出版社 一九六七年 ― 『トロツキズム』(山科三郎との共編) 新日本出版社(新日本新書) 一九六八年 ― 『もう一度、船を出せ』 共栄書房(花伝選書) 一九八五年十二月 9784763401984 『査問』 筑摩書房 一九九七年十二月二十日 9784480818089 『査問』(文庫) ちくま文庫 二〇〇一年七月十日 9784480036568 『アカ』 筑摩書房 二〇〇二年二月二十日 9784480818201 『素描・1960年代』(大窪一志との共著) 同時代社 二〇〇七年三月二十八日 9784886836038 『戦後左翼たちの誕生と衰亡――10人からの聞き取り』 同時代社 二〇一四年一月三十日 9784886837585 『川上徹《終末》日記』 同時代社 二〇一七年十一月十五日(没後刊行) 9784886838278 各著作の内容
『査問』
- 書誌:単行本は本体一八〇〇円。文庫は「か36-1」、二八八頁で、現在は品切れ。〔版〕
- 目次:第1章 査問の風景/第2章 査問する側される側/第3章 釈放後の風景/第4章 離脱の風景/第5章 昨日の世界〔版〕
- 内容(紹介文と書評による)〔版〕〔評〕
- 一九七二年五月九日、党本部に呼び出された。
- 代々木の党本部に十三日間拘束された。家に帰ることも、身重の妻に直接連絡することもできず、トイレにも見張りが付いた。
- 所持品は「党に隠すべき私物はない」という理由で取り上げられた。
- 査問を主導したのは党中央幹部の下司順吉。ほかに「無言の男」と録音係がいた。
- 容疑は分派活動。党の「人民的議会主義」に対し「大衆闘争」を重視する意見を持っていたことなどが問題にされたが、分派活動の物的証拠は出なかったとしている。
- 査問者は子どもの将来を持ち出し、「社会的にも抹殺してヤル」と脅した。
- 仲間との何気ない会話を、自分から「陰謀」の話に作り変えて自白していった過程を書いている。
- 解放後、党幹部から「絶対にマスコミに漏らすな」「消えてくれるのが良い」と言われた。退職金はなく、日雇いの仕事などで生活を立て直した。
- 川上は、党組織に民主主義がないことが人権侵害と不当な処分を生んだと考えている。
- 書評の評価〔評〕
- 戦前の特高警察の取り調べを思わせる。
- 「歴史の空白を埋める画期的な手記」。人を責める調子を抑えた書き方も評価されている。
- 第四インター系の書評筆者・満井聡は、党が選挙と組織拡大を優先して穏健路線に切り替える中で、学生運動出身の活動家がスケープゴートにされたと見ている。
- 左派の書評には、川上がのちに穏健な方向に傾いた点を批判するものもある。
『アカ』〔版〕
- 書誌:四六判、二四八頁。品切れで、文庫化はされていないようである。
- 紹介文:治安維持法下の一九三三年に起きた「長野県教員赤化事件」に連座した父と、一九六〇年代に共産党員として全学連委員長・民青幹部を体験した私。違う時代に社会主義を信じた父と子の体験から、貧しい時代の人々がなぜ社会主義に希望を持ったのかを探る。
- 目次:序章 はじめての検挙/第1章 パラソルの女/第2章 信州の女先生/第3章 混沌の中で/第4章 父親のデスマスク/第5章 雲が動いた/第6章 それぞれの「その後」/終章 アカと呼ばれた人々
- 父の名前や本文の詳しい内容は確認できていない。
『素描・1960年代』〔版〕
- 書誌:B6判、四二八頁。NDC 315.1。
- 紹介文(原文):「60年安保、三池闘争、東大闘争、ヴェトナム反戦、新日和見事件―。僕らのあの時代経験は何だったのか。『民青系』青年学生運動の渦中にあった二人が、60年代時代精神を検証する。」
- 確認できた章題:第1章「いずれ来るべき日」のために――一九五〇年代から六〇年代へ/第8章 近代化のラストランナーとして――一九六〇年代全体をふりかえる。第6章は「一九六九年秋から一九七二年四月まで」を扱うとされる。
- 共著者の大窪一志は一九四六年、神奈川県生まれ。東京大学文学部哲学科の出身で、民青系の学生運動に参加した。〔W〕
- 〔未〕「仲良しサークルのようなものだった」「全学連を再建したという慢心があった」とする内容要約は、出典を確かめられていない。
- 〔W〕油井喜夫は、この本によって、分派とみられる活動が一部で実際におこなわれていたことを知った。
『戦後左翼たちの誕生と衰亡――10人からの聞き取り』〔版〕
- 書誌:四六判、二四〇頁(紀伊國屋書店の表記では二四九頁)。二二〇〇円(税込)。
- 紹介文(原文):「戦後新・旧左翼にかつては所属し、あるいは現在も所属している10人。彼らはそれぞれの道を歩んできた。自らを振り返りつつ衰亡の時代を共に考えた。」
- 目次
- 第1部:あるネットワークの成立とその後/松平直彦「本気で銃を持ち『首相官邸占拠』を計画したこともあった」/伊東恒夫「ルビコン河を渡る決意はあった。踏み切るときは今かな?」/朝日健太郎「周囲の変化に機敏に対応し、自分自身の変質を恐れない」/佐々木希一「『親父、一年間だけメシを食わせてくれないか』って頼むと、親父は――」/江藤正修「高校受験の年、共産党のおやじから『鋼鉄…』をプレゼントされて」
- 第2部:三浦暉「決めてもそれを他者に強制せず、命令もなく、だから規則もなかった」/水谷保孝「はじめて会った左翼の中に生きた批判精神を見た」/水谷けい子「少女時代の原風景はいつまでも消えない」/木元康博「力や思想を振りかざさずとも、たった一人で立ち向かうことだってできる」
- 書名は「10人からの聞き取り」だが、目次に名前があるのは九人である。第1部冒頭の「あるネットワークの成立とその後」で別の一人が語っているのか、聞き手の川上徹自身を数えているのかは確かめられていない。(要確認)
- 〔未〕松平直彦=赤軍派、江藤正修=第四インター系、水谷保孝=中核派という所属は、AIの知識によるもので、資料では確かめられていない。
- 〔W〕この本の中で川上は次のように書き、自分の過去の左翼活動を振り返っている。「神話とは、人々の期待が裏切られたとき、想像と実体がかけ離れていることが人々に知られてしまった時、崩れ消えるものである。私の左翼体験はその全過程を目撃したことであった。それにしても歴史は三段跳びのように消えていく」
『川上徹《終末》日記』〔未〕
- 四六判、三一四頁。副題は「時代の終わりと僕らの終わり」。二〇〇二年から二〇一四年までの日記を収め、宮崎学の特別寄稿がある。
『もう一度、船を出せ』
- 書誌以外の内容は確認できていない。
三 油井喜夫(ゆい・よしお)
経歴〔W〕
年 事項 一九四〇年 生まれる 六歳のとき 中国・遼寧省遼陽から引き揚げる 学歴 静岡県立藤枝東高校を卒業。通信教育課程で慶應義塾大学を卒業 役職 民青の班長、地区委員長、静岡県委員長、中央委員。日本共産党静岡県委員 職業 静岡県職員、司法書士など 一九七二年五月 分派活動の疑いで査問を受ける。すべての役職を罷免され、足かけ三年にわたり党員権を停止された その後 約二十七年間、事件について沈黙 一九九七年十二月 川上徹『査問』の刊行をきっかけに、事件を明らかにすることを決意 一九九八年 日本共産党を離党 一九九九年六月 『汚名』を刊行 二〇〇〇年七月 『虚構』を刊行 二〇〇七年 『素描・1960年代』で、分派とみられる活動が一部で実際にあったことを知る 二〇〇八年 『実相』を刊行 二〇一〇年八月 『総括』を刊行 著作一覧
書名 出版社 刊行 頁数 ISBN 『シベリアに消えた「第二国民兵」――ある民間人の「戦死」』 同時代社 一九九五年 ― ― 『汚名』 毎日新聞社 一九九九年六月 287 9784620313511 『虚構――日本共産党の闇の事件』 社会評論社 二〇〇〇年七月 286 9784784514090 『あなたへのレクイエム』 文芸社 二〇〇六年八月 249 9784286019581 『実相――日本共産党の査問事件』 七つ森書館 二〇〇八年 254 9784822808631 『総括――民青と日本共産党の査問事件』 七つ森書館 二〇一〇年八月 199 9784822810177 各著作の内容
『汚名』(書評による要約)〔評〕〔W〕
- 党中央が民青幹部の年齢上限を引き下げる方針を出し、民青幹部が慎重な意見を述べたところ、党中央は分派ではないかと疑った。
- 油井は肝臓の病気(急性肝炎)で入院していたが、その後に党本部へ呼ばれて査問を受けた。
- 朝鮮人参の密輸や分派への資金提供といった、身に覚えのない疑いを認めるよう迫られた。
- 「党は間違わない」と信じ切っていたため、やっていないことまで認めた。これをマインドコントロールと呼び、モスクワ裁判になぞらえている。
- 新日和見主義の分派は「宮本式偽造分派基準によるでっち上げ分派」であり、自身は分派の結成にまったく関わっていないと主張した。〔W〕
『虚構』〔未〕
- 『汚名』に続く二冊目。党が「新日和見主義」という概念をどう作り、何を根拠に処分したのかを、理論の面から検証した本とされる。
『実相』〔版〕
- 目次:序章 明かされた新事実/第1章 なぜ、いま「分派活動」が/第2章 被処分者の年一度の集まり/第3章 シンヒヨの会の推移/第4章 新日和見主義の人脈と起源/第5章 川上徹の軌跡/終章 事件被害者の妻たちへ
- 『素描・1960年代』で明らかになった分派活動について、自らの立場から検証した本である。
『総括』〔版〕
- 目次:プロローグ 過去に目を閉じない/第1章 一九七二年問題=新日和見主義事件――二〇一〇年いま/第2章 一九六〇年代から一九七〇年代初頭の民青の躍進/第3章 一九七二年問題と日本共産党/エピローグ 歴史は進む
静岡県内の処分
- 県委員長の油井のほかに、誰がどう処分されたかを示す資料は見つからなかった。油井の著作、とくに『実相』『総括』が手がかりになるとされる。
四 関連事件 二・四事件(長野県教員赤化事件)〔W〕
- 一九三三年二月四日から半年あまり、長野県で治安維持法違反の一斉検挙がおこなわれた。
- 検挙者六〇八人のうち二三〇人が教員だった。長野県内で最終的に検挙されたのは三七八人、起訴は九一人。
- 主な標的は、日本労働組合全国協議会(全協)につながる教員組合と、マルクス主義の立場から教育を変えようとした「新興教育運動」だった。
- 起訴された教員二八人のうち一三人が有罪(懲役二年六か月〜四年)。三三人が懲戒免職か諭旨退職となり、校長も多数処分された。
- 川上徹の父がこの事件に連座した(『アカ』紹介文)。〔版〕
五 資料間の食い違いと使用上の注意
項目 食い違いの内容 扱い 川上の役職 一部の要約に「民青の元委員長」とある 誤り。民青では中央常任委員〔W〕 川上の処分 一部の要約に「除名」とある。書評の一つは「完全追放・懲戒免職」とする どちらも誤り。党の処分は党員権停止一年〔W〕。民青本部の退職とは分けて扱う 川上の離党 一九九〇年と一九九一年の二通り 〔W〕では一九九一年に除籍 査問の期間 「十三日間」と「十数日(約二週間)」 十三日間が正しい 査問を受けた人数 約六百人と千人規模 両説を併記する。ただし、どちらも根拠が確かでない。実際には六百人規模にも至っていなかったと考えられる(編者注) 『実相』 刊行月が二月・四月・五月の三通り。副題も「日本共産党の査問事件」「新日和見主義事件と川上徹」の二通り。「シリーズの1冊目」とする要約がある 刊行月は現物で確認する。実際は『汚名』『虚構』に続く三冊目 『素描』の内容 内容要約がある一方で、「本文の引用は見つからなかった」とする検索結果もある 内容要約は未確認として扱う 資料として使わない表現
AI検索の要約に含まれる、次のような評価の言葉は出典がありません。引用には使わないでください。
「精神的に破壊」「スターリン主義的な抑圧」「構造的暴力」「35年目の裏切り」「180度転換」「非合法の分派活動」「記念碑的」「ぬぐい切れない悪のイメージ」
六 出典一覧(検索で参照されたもの)
- Wikipedia:「新日和見主義事件」「川上徹」「油井喜夫」「大窪一志」「二・四事件」
- 筑摩書房:『査問』(ちくま文庫)、『アカ』の紹介ページ
- 同時代社:『戦後左翼たちの誕生と衰亡』の紹介ページ、著者紹介「川上徹」
- 紀伊國屋書店:『素描・1960年代』『戦後左翼たちの誕生と衰亡』
- 書評:書評『査問』(jrcl.jp)、「川上徹『査問』を読む」、書評『汚名』
- その他:新日和見主義事件(biglobe)、Rendaico 新日和見主義事件関連書、有田芳生氏の投稿(X)、長谷川鷹士「『二・四事件』と長野県師範学校」、Amazon、HMV、日本の古本屋
[資料集として]見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
2026-09-22-c5-five-days-of-training-on-how-to-use-ai-
[資料]
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-1-(序、第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-2-(第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-3-(第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-4-(第四章 ボブ・ディランの詩集)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-5-(第五章 学生活動家と待ち受ける試練)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-6-(第六章 進路と消息)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-7-(第七章 緑の暖かい風)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之
見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-8-(終章 太陽に満たされた高原の林)-改訂版4稿-2026年9月27日・@森夏之