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計量計測データバンク ニュースの窓-477-
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計量計測データバンク ニュースの窓-477-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-477-[第一次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
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├国崎定洞(1894〜1937)


国崎定洞(1894〜1937)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授から革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。社会衛生学の先駆者として将来を嘱望された人物である。『人間 国崎定洞』より。
国崎定洞(1894年〜1937年)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授であり、日本の社会衛生学の創始者です。
人物像と経歴
• 生没年:1894年10月5日生まれ、1937年12月10日没(熊本市出身)。
• 学問・業績:東京帝国大学医学部を首席で卒業後、同大の助手・助教授となり、ドイツの社会医学を日本に導入した。
• 政治活動:1926年にドイツへ派遣された後、現地でドイツ共産党に入党。ドイツ共産党日本語部を結成し、責任者を務めた。
• 最期:1932年にソビエト連邦へ移住したが、1937年の大粛清の最中に日本スパイ容疑で逮捕され、銃殺刑に処された(1959年に名誉回復)。
――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業――
· @横田俊英
1930年代のモスクワで粛清された日本人は、互いの告発と拷問による「自白」が連鎖するかたちで、次々に処刑された。本稿はその人物どうしの関係を、「あったこと その1」として送付された長文資料(加藤哲郎執筆の『人間 国崎定洞』第19〜21章ほかと、伊藤律事件を扱った夏森龍之介の論考)と、そこから要約した「その2」に基づいて確認する。
確認の結果、連鎖の中心には山本懸蔵・伊藤政之助・野坂参三の三人がいた。山本懸蔵(党名タナカ)が勝野金政・根本辰・国崎定洞・伊藤政之助を告発し、伊藤政之助の強制された供述が国崎定洞を銃殺に導いた。その山本懸蔵自身も、前島武夫・伊藤政之助の「自白」によって1937年11月2日に逮捕され、1939年2月の野坂参三(党名岡野)のディミトロフ宛書簡による告発もあって、同年3月10日に銃殺された。
戦後、野坂参三は伊藤律を「スパイ」として除名に追い込んだが、1992年に山本懸蔵への密告が判明し、自らも同じ党から除名された。告発する者が告発される側に回るこの構図は、モスクワで始まり、戦後の日本共産党にまで続いていた。
本稿の課題は、「誰が、いつ、どの経路で、誰を告発し、その結果どうなったか」を一人ずつ確かめ、人物の相関を一枚の表にまとめることである。対象は、主に1928年から1939年までにモスクワのコミンテルン周辺にいた日本共産党関係者と、その周辺の日本人である。
本稿が扱う「あったこと」は二つあり、その1が全体の資料、その2がその中核部分の要約である。
その1の加藤執筆部分は、ソ連崩壊後に発掘された「国崎定洞ファイル」(コミンテルン文書館、495/280/168)に基づいている。小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋、1993年)の巻末資料(関マツの供述、野坂のディミトロフ宛書簡など)も、加藤の引用を介して参照している。
補助資料として、夏森龍之介「コミンテルンにおける密告と粛清――野坂参三による山本懸蔵ら「日本人スパイ」告発事件の真相」(「ニュースの窓」445号、2026年9月19日)を用いる。野坂参三の除名に至る党の対応を詳しく述べている。ただし二次文献に基づく総説であるため、加藤の文書に基づく記述と食い違う場合は加藤を優先する。
さらに、大テロル全体の規模について横田「ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲」(443号)を、ソ連の統治の仕組みについて同「ソビエト連邦の実際」(442号)を、伊藤律の除名の経過について448号の改訂版の前半を、北京機関の内部について国谷哲資「北京追憶」(446・447号に収録)を用いる。
記述はこれらの資料に書かれた範囲に限る。資料の間で食い違う点は「七 史料上の留意点」にまとめた。
同姓の人物について。 「あったこと その2」で拷問により自白を強いられた「伊藤」は、外国労働者出版所の職員であった伊藤政之助(党名タケウチ)である。「その1」の伊藤律とは別人であり、本稿では常に姓名を省略せずに書く。
外国から来た亡命者は、亡命者であるというだけで「偽装スパイ」の候補者と見なされた。当時のモスクワの雑誌は、「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ市民もみなゲシュタポの手先であるといってもけっして誇張ではないであろう」と公言していた(メドヴェーデフ『共産主義とは何か』上、三一書房、1973年、363頁)。スターリンの仮想敵国であるナチス・ドイツと軍国主義日本からの亡命者は、秘密警察NKVDにとって、その存在自体が疑いの対象だった。
この空気は、日付のある指令と数値目標を伴っていた。加藤が『闇の男』収録資料から示すところでは、次のようになる。
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日付 |
出来事 |
日本人への影響 |
|---|---|---|
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1934年12月 |
キーロフ暗殺事件。旧反対派の逮捕が始まる |
監視が強まる。国崎定洞は1935年3月に履歴書を書かされる |
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1937年7月3日 |
スターリンからNKVD議長エジョフへの粛清指令 |
粛清が組織的・計画的になる |
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1937年7月9、10日 |
『プラウダ』論説「日本諜報機関の破壊工作」 |
「亡命労働者、サーカス団、左翼インテリ」に紛れた日本人スパイへの警告 |
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1937年7月30日 |
フリノフスキーの粛清作戦計画(26万人近く)。「1937年8月5日をもって開始」「4カ月で終了」 |
国崎定洞は作戦開始の前夜、8月4日深夜に逮捕 |
『プラウダ』の分類は、日本人の逮捕順そのものだった。「亡命労働者」の伊藤政之助・須藤政尾・前島武夫はすでに逮捕されていた。「サーカス団」で入ソしたヤマサキ・キヨシは論説直後の7月22日に、「左翼インテリ」の最初として国崎定洞が8月4日に逮捕された。加藤はこれを「NKVDにとっては粛清ノルマ達成の一手段」と評している。
モスクワの日本人の粛清は、ソ連全体の大テロル(1936〜38年)の一部である。横田「ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲」(「ニュースの窓」443号)がソ連崩壊後の公文書研究から整理するところでは、その規模と仕組みは次のとおりである。
日本人の逮捕もこの期間に集中している。国崎定洞(1937年8月4日)、山本懸蔵(同11月2日)、アメ亡組7人(1938年3月22日)の逮捕は、いずれも00447号作戦の開始から1938年11月の終息までの間に入る。一方で、山本懸蔵(1939年3月10日)と杉本良吉(同10月20日)の銃殺は、終息決定の後に執行されている。公式の「終息」は、すでに逮捕されていた人々を救わなかった。
告発がそのまま処罰につながった背景には、ソ連の統治の仕組みがある。横田「ソビエト連邦の実際――その民主制と民主主義の実態」(442号)は、次の点を挙げている。
この仕組みは、モスクワの日本人社会にもそのまま持ち込まれた。1934年に山本懸蔵がベルリンの日本人グループを告発したとき、その中心の言葉は「概してこのグループは、党に反対であった」であった。分派が禁じられた党では、「党に反対」であること自体が告発の理由になった。
こうした状況では、仲間を告発することが自分の潔白を証明する手段になる。告発には決まった経路があった。日本共産党のモスクワ代表から、コミンテルン東洋部(日本担当ヤ・ヴォルク)または組織部(「札付きの密告魔」と恐れられたコテリニコフ)へ、そこから国際統制委員会を経てNKVD(その前身はGPU)へと情報が渡った。
国崎定洞の銃殺は、1920年代末の片山潜と山本懸蔵の対立から始まる、約十年にわたる告発の終点だった。その経過を四つの段階に分けて確認する。
山本懸蔵は1928年の三・一五事件で、重い結核を理由に逮捕を免れ、警官の監視をかいくぐって自宅を脱出した。6月にソ連に密入国し、プロフィンテルン日本代表としてモスクワに留まった。片山潜はこの脱出が特高警察の関与なしに可能だったかを疑い、コミンテルン執行委員会で告発した。1929年秋から30年春の査問では、証拠不十分とされた模様である。
対立には個人的な事情も重なっていた。山本懸蔵は片山の次女千代のクートベ(東洋勤労者共産主義大学)入学に強く反対した。一方で、山本が推薦した船員の一人(ニコライフ=石田某)が日本大使館に逃げ込み、片山に追及の材料を与えた。
重要なのは、山本懸蔵が自分への「疑惑の噂」を、ベルリンの国崎定洞が片山に告げ口したものと思い込んでいたことである。1938年の関マツ(山本の妻)の供述と1939年の野坂参三の書簡が、ともにこの点に触れている。
片山がコーカサスに療養に出た留守に、山本懸蔵は東洋部のヤ・ヴォルクを通じて、片山の秘書勝野金政と、国崎定洞の紹介で入ソした根本辰を、「日本のスパイ」としてGPUに告発した。勝野金政はソ連刑法第56条スパイ罪で懲役5年とされ、白海のラーゲリ(強制収容所)に送られた。根本辰は国外追放となった。
加藤はこれを「自分を告発した片山潜への、山本懸蔵の間接的報復」と見ている。二人はともに大学出身で、山本の考える「階級的労働者」ではなかった。ここで、すでに国崎定洞の名が「二人を紹介した人物」として結びつく。
国崎定洞は1932年9月、片山潜に招かれてソ連に亡命した。山本懸蔵はそのクートベ入学に反対し、賛成した野坂参三との関係も悪化した。1933年11月に片山が死に、34年初めに野坂が渡米すると、国崎定洞を守る者はいなくなった。
引き金は、1934年6月に釈放された勝野金政が日本大使館に逃げ込み、8月に日本へ脱出したことだった。最初に事情を聴取された山本懸蔵は、1934年9月19日のコテリニコフとの会談で、国崎定洞を勝野とつながるスパイ容疑者として挙げた。その内容は次の三点である。
告発を受けて、国崎定洞と同僚の野坂竜(野坂参三の妻)は10月10日にコテリニコフの尋問を受けた。国崎定洞は勝野とのつながりを正直に述べ、野坂竜は国崎と距離をおいて自分の弁明に終始した。情報は国際統制委員会を経てNKVDに渡り、1935年2月9日にはコミンテルン東洋部からNKVDへ「国崎定洞に関する報告」が送られた。国崎定洞はこの時点で、逮捕の二年半前から秘密警察の監視下に入っていた。
伊藤政之助は共同印刷の活版工出身で、1933年12月に野坂参三にモスクワへ呼ばれ、外国労働者出版所で国崎定洞の部下となった。ナリマノフ東洋学専門学校では国崎の教え子でもあった。1930年に「党の許可なく」入ソしたことで、すでに山本懸蔵から譴責処分を受けていた。
1936年5月に野坂が再び渡米すると、山本懸蔵は8月4日付でこの過去を蒸し返し、国際統制委員会に伊藤政之助の除名を申請した。その後の経過は次のとおりである。
伊藤政之助は拘留中に、おそらく拷問によって国崎定洞とのつながりを「自白」させられた。これを「証拠」として、国崎定洞は1937年8月4日に「日本のスパイ」として逮捕され、12月10日に銃殺された。1959年の名誉回復決定書によれば、有罪の根拠は三つだけだった。
罪状は「日本軍参謀本部諜報部将校タケダの命を受けて、1924年から……スパイ、テロ及び裏切り行為を行った」というものである。「タケダ」は実在が確認できず、加藤は履歴書の軍歴に合わせたデッチ上げと判断している。
さらに国崎定洞の予審での「自白」が、教え子である「アメ亡組」の島正栄・宮城與三郎・照屋忠盛・又吉淳に及んだ。アメ亡組8人のうち7人は1938年3月22日に一斉逮捕され、5月29日に全員銃殺された。照屋忠盛だけは容疑を否認し続け、強制労働5年の後に行方不明となった。
勝野金政、国崎定洞、伊藤政之助を告発した山本懸蔵も、同じ仕組みによって銃殺された。そして山本を告発した野坂参三は、半世紀後にその事実によって党を追われた。
山本懸蔵は、前島武夫と伊藤政之助の「自白」供述をもとに、1937年11月2日に逮捕された。自分が告発した伊藤政之助の供述が、今度は自分を罪に問う材料になったのである。罪状には、1928年の自宅脱出とソ連越境の疑惑がつきまとった。
山本の逮捕後、1938年11月に妻の関マツがコミンテルン国際統制委員会に召喚された(20日、23日、26日)。『闇の男』によれば、ディミトロフ、クーシネン、ピークとともに野坂参三が出席し、山本懸蔵を告発した。関マツはその場で、国崎定洞を早くから疑っていたという山本の「アリバイ」を述べ、国崎の入学を支持した故片山潜と野坂参三を逆に告発した。関マツは同年12月31日付で日本共産党から除名された。
1939年2月、野坂参三はコミンテルン書記長ディミトロフに書簡を送り、山本懸蔵の1928年の脱出を「奇妙」なものとして疑惑を述べた。加藤はこれを「自己の保身」のための密告と評している。山本懸蔵は1939年3月10日に銃殺された。
山本懸蔵は1956年5月23日にソ連で名誉回復されていた。しかし日本共産党は、野坂参三の証言によって山本の死を「1941年4月の病死」としてきた。野坂は国崎定洞についても、勝本清一郎に「必ずソ連のどこかに生きています」と答え、1989年の自伝『風雪のあゆみ』第8巻でも事情を粉飾した。
ソ連崩壊後、事実は次のように明らかになった(新しい順)。
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年月日 |
出来事 |
|---|---|
|
1993年11月14日 |
野坂参三死去 |
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1993年10月 |
小林峻一・加藤昭『闇の男』刊行 |
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1992年12月27日 |
日本共産党中央委員会が野坂参三の除名を決定(445号によれば発表は28日) |
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1992年9月20日 |
野坂参三を名誉議長から解任。党はロシアに調査団を派遣し、12月24日に帰国 |
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1992年9〜11月 |
『週刊文春』の連続報道。ディミトロフ宛書簡などを公表 |
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1992年夏 |
文藝春秋取材班がモスクワで密告の手紙と「国崎定洞ファイル」を発見 |
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1992年5月18日 |
日本共産党が山本懸蔵・国崎定洞・杉本良吉の銃殺を発表 |
野坂参三は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされる。一方で、国崎定洞らを告発した山本懸蔵は、1994年の『日本共産党の七十年』で野坂の対極の悲劇の英雄として顕彰された。加藤はこの非対称を指摘している。
伊藤律(1913〜1989)への処分は、段階を踏んで進んだ。448号(改訂版)によれば、経過は次のとおりである(新しい順)。
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年月日 |
出来事 |
|---|---|
|
1980年9月3日 |
車椅子姿で帰国(67歳) |
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1979年12月 |
中国共産党の喬石の判断で釈放が決まる |
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1960年代半ば |
野坂参三が伊藤の妻に「伊藤は死んだ」と語ったとの証言 |
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1960年 |
秦城監獄に移送。文化大革命期は「三号」と呼ばれて拘禁 |
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1955年7月 |
第六回全国協議会で除名を再確認。罪状の重心をゾルゲ事件との関連へ移す |
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1953年9月15日 |
『アカハタ』に「スパイ」として除名する中央委員声明 |
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1952年12月 |
野坂参三が「スターリンの指令」を名目に隔離審査の対象とする |
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1951年秋 |
漁船で中国へ密航。「自由日本放送」を指導 |
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1951年10月 |
第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化 |
除名の根拠とされた「伊藤律端緒説」(伊藤の自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったという説)は、渡部富哉『偽りの烙印』(五月書房、1993年)と加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、2014年)によって否定されている。加藤によれば、発覚の実際の起点は1931年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述であり、北林トモ、宮城与徳を経てゾルゲ検挙に至った。端緒説は特高警察の筋書きに始まり、GHQ参謀第二部と川合貞吉を経て流布し、1950年前後の党内抗争で野坂参三らが伊藤追放の口実に用いたという。
ここには、モスクワの粛清と同じ型が見える。確かめられない「スパイ」嫌疑が、党内の対立相手を排除する口実として使われたのである。さらに野坂は、国崎定洞については生きているかのように語り(前項(2))、伊藤律については妻に「伊藤は死んだ」と語ったとされる。告発に関わった相手の生死について、野坂は友人や家族に事実と異なることを二度伝えていたことになる。
その帰国手続きの過程で、妻キミが中国大使館と連絡を取ると、議長の野坂はその夜自ら宅を訪れ、「なぜ党に事前に相談せず」連絡したのかと詰問した。次男の伊藤淳はこれを「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものとまとめている。
「スパイ」として他者を告発した野坂参三が、四十年近く後に「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名された。この対称性が、伊藤律事件を問い直す最大の契機となった。なお伊藤律自身も「三重スパイ野坂参三」(『文藝春秋』1994年1月号)を発表している。
伊藤律が査問されたのは、北京の日本共産党非公然指導部(北京機関)においてである。1953年からそこで働いた国谷哲資の回想記「北京追憶」(446・447号に収録)は、その内部を次のように伝えている。
つまり、伊藤律の「スパイ」処分も、野坂の「スターリンの指令」を名目とし、外国の党の施設の中で進められた。モスクワ時代と同じく、外国の党の権威のもとで仲間が裁かれる構図である。
この構図は1960年代にも形を変えて現れた。1966年に宮本顕治を団長とする代表団と毛沢東の会談が決裂すると、日本共産党は「中国派」を相次いで除名し、西沢隆二も除名された。1967年8月3日の「北京空港事件」では、日本共産党の北京代表砂間一良と『赤旗』特派員紺野純一が、北京在住の日本人と紅衛兵に空港で糾弾された。国谷自身も糾弾に加わったと記し、後に「中国の紅衛兵まで参加させて好き放題をさせたことはマイナスであった」と振り返っている。外国の党の路線に従うかどうかが、かつての仲間を「敵」に変える点で、モスクワの事例と共通する。
なお、国谷は1966年の決裂後に宮本指導部と決別し、帰国後は毛沢東路線を支持する『長周新聞』で働いた。その立場からの回想であることを踏まえて読む必要がある。
資料で確認できた告発・供述は14件である。そのうち7件に山本懸蔵が告発者または被告発者として関わり、国崎定洞には3件の告発・供述が集中した。下の表は、告発した者から告発された者への「矢印」を一行ずつ並べたものである(時期順)。「強制供述」は、拷問によると推定される自白を指す。
|
No. |
告発・供述した者 |
告発・供述された者 |
時期 |
経路 |
結果 |
|---|---|---|---|---|---|
|
1 |
片山潜 |
山本懸蔵 |
1929〜30年 |
コミンテルン執行委員会 |
証拠不十分。ただし1937年の罪状に尾を引く |
|
2 |
山本懸蔵 |
勝野金政 |
1930年秋 |
ヤ・ヴォルク→GPU |
懲役5年、白海のラーゲリ。1934年8月に日本へ脱出 |
|
3 |
山本懸蔵 |
根本辰 |
1930年秋 |
ヤ・ヴォルク→GPU |
国外追放。1938年病死 |
|
4 |
山本懸蔵 |
国崎定洞 |
1934年9月19日 |
コテリニコフ→国際統制委員会→NKVD |
1935年2月からNKVDの監視下 |
|
5 |
山本懸蔵 |
伊藤政之助 |
1936年8月4日 |
国際統制委員会→ヤ・ヴォルク |
1936年11月25日逮捕、1937年9月14日銃殺 |
|
6 |
伊藤政之助(強制供述) |
国崎定洞 |
1936〜37年 |
NKVDの尋問 |
1937年8月4日逮捕、12月10日銃殺 |
|
7 |
ビリチ(供述) |
国崎定洞 |
1937年 |
NKVDの尋問 |
同上(国崎との具体的なつながりは不明) |
|
8 |
国崎定洞(強制供述) |
アメ亡組(島正栄・宮城與三郎・照屋忠盛・又吉淳) |
1937年 |
NKVDの予審 |
1938年3月22日に7人逮捕、5月29日銃殺。照屋は強制労働5年 |
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9 |
前島武夫・伊藤政之助(強制供述) |
山本懸蔵 |
1937年 |
NKVDの尋問 |
1937年11月2日逮捕 |
|
10 |
野坂参三 |
山本懸蔵・関マツ |
1938年11月、1939年2月 |
国際統制委員会、ディミトロフ宛書簡 |
関マツ1938年12月31日除名。山本1939年3月10日銃殺 |
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11 |
関マツ |
片山潜(故人)・野坂参三 |
1938年11月26日 |
国際統制委員会 |
野坂は粛清を免れる |
|
12 |
杉本良吉(強制供述) |
佐野碩・メイエルホリド |
1938年〜 |
NKVDの尋問 |
メイエルホリドの逮捕・銃殺の口実。杉本は1939年10月20日銃殺 |
|
13 |
野坂参三 |
伊藤律 |
1950年代 |
日本共産党 |
除名。中国で二十数年拘禁(資料により26〜29年)、1980年9月3日帰国 |
|
14 |
(旧ソ連文書の公開) |
野坂参三 |
1992年 |
『週刊文春』の報道 |
1992年12月27日除名 |
表から、人物は次の四つの立場に分けられる。
このほか、矢印の経路は不明だが同じ時期に粛清された人々がいる。須藤政尾(1937年銃殺)、ヤマサキ・キヨシ(1937年7月22日逮捕)、野坂竜(逮捕)、ネフスキーと日本人妻の萬谷イソ(1937年銃殺)、岡田嘉子(ラーゲリ)である。佐野碩と土方与志・梅子夫妻は、国崎逮捕直後の1937年8月12日に国外追放となった。
加藤の調査では、当時ソ連にいた日本人は80名以上にのぼる。そのほとんどが何らかのかたちで粛清され、逮捕・銃殺・収容所送り・追放が確認できた者は30名以上である。『闇の男』は、野坂参三と山本懸蔵の確執のはざまで「およそ25人」が粛清されたとする。
モスクワの日本共産党関係者の矢印は、ほぼすべて山本懸蔵に入るか、山本が告発した人物から出ている。杉本良吉の連鎖は別の経路で起き、伊藤律への矢印は戦後のものである。告発した者のうち生き延びたのは野坂参三だけである。
告発の連鎖は、政治路線の対立よりも、個人的な確執と自己保身から始まっていた。それが党の通常の報告経路を通じて秘密警察に渡り、拷問による自白で芋蔓式に広がった。資料から読み取れる仕組みは次の四点である。
第一に、動機は個人的な確執だった。 山本懸蔵は、自分への「疑惑の噂」を国崎定洞が片山潜に伝えたと思い込んでいた。勝野金政・根本辰・国崎定洞への告発は、いずれも片山潜に近い人物に向けられている。野坂参三の1939年の書簡も、加藤は自己の保身のためと見ている。
第二に、告発は党の通常の経路を通った。 「二 置かれた状況」で見た経路を通って、情報は即刻渡った。党内の査問と秘密警察の逮捕は一続きだった。山本懸蔵自身、1937年8月にアメ亡組の人々に「疑問があったら内務省[NKVD]或は党の組織を通じてやる可き」と説いている。その二カ月余り後に、山本自身が逮捕された。
第三に、自白は身近な人の線にそって広がった。 伊藤政之助は上司の国崎定洞を、国崎定洞は教え子のアメ亡組を、前島武夫と伊藤政之助は山本懸蔵を、杉本良吉は佐野碩とメイエルホリドを挙げさせられた。連鎖の経路は、職場・師弟・交友という人間関係そのものだった。加藤はこれを「芋蔓式」と呼んでいる。
第四に、告発の真偽は問われなかった。 罪状の「タケダ」のように、指令者の名は後から作られた。加藤によれば、山本懸蔵、アメ亡組、岡田嘉子・杉本良吉の事例でも同様の日本人名がデッチ上げられている。粛清作戦には人数と期限があり、告発はそのノルマを満たす材料として使われた。
この四つが重なると、告発した者も安全ではなくなる。実際、生き延びた告発者は、粛清が最も激しかった1937年をアメリカで過ごした野坂参三だけである。
戦後の展開もこの構図の延長にある。野坂参三は山本懸蔵や国崎定洞の最期を知りながら黙り、その一方で伊藤律を「スパイ」として告発した。伊藤淳によれば、渡部富哉・加藤哲郎らの実証研究によって「伊藤律スパイ説」は、「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」。他方で、国崎定洞らを告発した山本懸蔵は、野坂に告発されたことが判明したためか、党史では悲劇の英雄とされた。誰が「裏切り者」で誰が「英雄」かという評価そのものが、党の組織的判断に左右されてきたことになる。
445号はさらに、戦後の日本共産党が外国の党からの干渉を排する「自主独立路線」を掲げたにもかかわらず、その最高幹部がかつてソ連の機構と特殊な関係を持っていたという落差を指摘している。密告から発覚まで半世紀以上かかり、ソ連崩壊という外的要因なしには明らかにならなかったという点も、本稿の相関表が示す「黙っていた生存者」の問題と重なる。なお、野坂がソ連側から秘密資金を得ていたという疑惑にも445号は触れているが、本稿の資料では確認できないため立ち入らない。
資料の間、または同じ資料の中で、日付や表現が食い違う箇所がある。本稿で採った読みとその理由を示す。
|
事項 |
資料上の表記 |
本稿の扱い |
|---|---|---|
|
「伊藤」の特定 |
「その2」の引用では「伊藤」とのみ書かれる |
伊藤政之助(党名タケウチ)。伊藤律とは別人 |
|
勝野金政・根本辰の告発の年 |
『人間 国崎定洞』は「1930年秋」「1930年10月」と書くが、一箇所だけ「1931年10月」とある |
1930年秋。片山は1931年正月から入院しており、前後の記述とも合う |
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国崎定洞の名誉回復決定書の日付 |
通常は1959年10月29日。一箇所に「1959年11月31日付」とある |
10月29日。11月31日は存在しない日付であり誤記とみる |
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国崎定洞の1935年履歴書 |
本文・ファイル目録は3月14日、一箇所に3月10日 |
3月14日(履歴書本体の日付) |
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日本共産党の1992年発表 |
本文は5月18日、略年譜は5月16日 |
5月18日。『赤旗』掲載が5月19日であることと合う |
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山本懸蔵の「病死」の公表時期 |
加藤は「1941年4月」とし、日本共産党が野坂の証言によりそうしてきたとする。445号や事典類は「1942年4月」とし、445号は発表者をソ連当局とする |
加藤に従い、1941年4月 |
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野坂参三の死去時の年齢 |
445・448号は101歳、加藤は「百歳」 |
1892年生・1993年11月14日死去として扱う |
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野坂参三の密告の宛先 |
448号は「NKVDに讒言密告」、445号は「NKVDないしコミンテルン指導部」、加藤は「ディミトロフ宛手紙」 |
宛先はコミンテルンのディミトロフ。NKVDへの伝達はその先の経路と読む |
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勝野金政の適用条文 |
「ソ連刑法第五六条スパイ罪」(国崎定洞は第58条) |
資料のまま記す。第58条の誤記の可能性があるが未確認 |
このほか、拷問による自白という点は、加藤自身が「おそらく」と書く推定である。「国崎定洞ファイル」には予審尋問調書と公判記録が含まれていない。また、野坂竜・関マツの逮捕の日付と経路は、今回の資料では確認できない。
445号と加藤の記述(474号所収)の間には、上の表に挙げたもののほか、次の差異がある。
448号については、次の点に留意した。
446・447号と国谷哲資「北京追憶」については、次の点に留意した。
442・443号については、次の点に留意した。
「置かれた状況」のもとで、「あったこと その1」の資料と「その2」の要約を照らし合わせると、一本の連鎖が見える。片山潜による山本懸蔵への疑いが始まりである。山本懸蔵は片山の周りの人々(勝野金政・根本辰・国崎定洞)を告発し、さらに伊藤政之助を告発した。伊藤政之助の強制された供述が国崎定洞を銃殺に導き、国崎定洞の強制された供述がアメ亡組7人の銃殺につながった。伊藤政之助と前島武夫の供述は山本懸蔵にも及び、野坂参三の告発がそれを決定づけた。
この連鎖の中で、告発した者と告発された者は固定していない。山本懸蔵と関マツは告発者であり犠牲者でもあった。伊藤政之助と国崎定洞は、拷問のもとで他者の名を挙げさせられた犠牲者だった。そして野坂参三は、戦前に山本懸蔵を、戦後に伊藤律を告発し、1992年に自らが告発される側に回った。
「外国に居住する日本人はみなスパイ」という前提のもとでは、仲間を告発することは身を守る手段にならず、次の告発の材料を秘密警察に渡すことになった。本稿の相関表は、その連鎖を資料の証拠とともに範囲を限って示したものである。須藤政尾や野坂竜など、矢印の経路が不明な人々の解明は、加藤『モスクワで粛清された日本人』『国民国家のエルゴロジー』の詳細と照合する後の課題とする。
研究書・回想記
計量計測データバンク「ニュースの窓」掲載稿(号数順)
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資料:「スターリンとコミンテルンの時代にモスクワに滞在した日本共産党の人々の粛清に関する資料の所在」(2026年10月4日)
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├加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証2026年10月2日 · @横田俊英
├測った数字が裁かれるとき――1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治(日本計量史学会向け論考)2026年10月2日
· @横田俊英
├[第一次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
├[第二次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
├『人間の條件』に照らす――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者(片山潜・山本懸蔵・野坂参三・国崎定洞ら)の行動の記録――2026年10月4日
├昆虫の行動原理に対比する――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者(片山潜、山本懸蔵、野坂参三、国崎定洞ら)の行動の記録から考えること――2026年10月4日
├告発しなかった人としての国崎定洞――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞――2026年10月4日
├スターリンとコミンテルンの時代、粛清の嵐のなかでのモスクワ在住の日本人共産主義者の行動から浮かび上がる姿 2026年10月4日
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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