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計量計測データバンク ニュースの窓-476-
測った数字が裁かれるとき――1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治(日本計量史学会向け論考)
2026年10月2日 · @横田俊英
News material content collection of metrology databank №476

計量計測データバンク ニュースの窓-476-

測った数字が裁かれるとき――
1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治(日本計量史学会向け論考)
2026年10月2日 · @横田俊英


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国崎定洞(1894〜1937)



国崎定洞(1894〜1937)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授から革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。社会衛生学の先駆者として将来を嘱望された人物である。『人間 国崎定洞』より。
国崎定洞(1894年〜1937年)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授であり、日本の社会衛生学の創始者です。
人物像と経歴
• 生没年:1894年10月5日生まれ、1937年12月10日没(熊本市出身)。
• 学問・業績:東京帝国大学医学部を首席で卒業後、同大の助手・助教授となり、ドイツの社会医学を日本に導入した。
• 政治活動:1926年にドイツへ派遣された後、現地でドイツ共産党に入党。ドイツ共産党日本語部を結成し、責任者を務めた。
• 最期:1932年にソビエト連邦へ移住したが、1937年の大粛清の最中に日本スパイ容疑で逮捕され、銃殺刑に処された(1959年に名誉回復)。

測った数字が裁かれるとき

――1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治(日本計量史学会向け論考)

· @横田俊英

はじめに:計量史からスターリン時代を見る意味

1937年のソ連では、人口を正しく数えた統計家たちが逮捕され、その長は銃殺された。測定の結果が政治の望む数字と合わなかったためである。

計量の歴史は、単位や標準器、測定技術の歴史である。同時に、「測った数字を社会が信頼できるか」という制度の歴史でもある。本稿は、スターリン時代の統計の悲劇を、後者の視点から取り上げる。

あわせて、モスクワで粛清された社会衛生学者、国崎定洞(1894〜1937)にも触れる。国崎もまた、「測ること」から社会を変えようとした人であった。本稿は別稿『モスクワの粛清とコミンテルンの影』の姉妹編として書く。(モスクワの粛清とコミンテルンの影――加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証2026年10月2日 · @横田俊英)

1937年ソ連国勢調査:実施と結果の抹殺

1937年1月6日の国勢調査で数えられたソ連の人口は、1億6203万9470人であった。出生・死亡の登録から予想された1億7000万〜1億7200万人を、大きく下回った。スターリン自身は、約1億8000万人を見込んでいたとされる。

この差は、1932〜33年の飢饉や弾圧による「不自然な死」を、数字の上であらわにしていた。測定は正しく行われた。問題は、その結果が体制の主張と合わなかったことにある。

1937年9月25日、人民委員会議(政府)は調査を「統計科学の原則に対する甚だしい違反」があったとして無効とし、翌日の『プラウダ』がこれを報じた。調査の資料は「欠陥」とされ、機密扱いとなって廃棄された。

それでも資料の一部は残った。1956年に一部が公表され、全体のデータはソ連崩壊後の1992年にようやく刊行された。

出典:Wikipedia "1937 Soviet census"、ロシア統計博物館 "Censuses on the brink of the War"、Seventeen Moments in Soviet History "The Lost Census"

統計家たちの粛清

調査を担った統計家たちは、1937年のうちに次々と逮捕された。統計の最高責任者であったイワン・クラーヴァリは、1937年9月26日に銃殺された。調査の無効が報じられたのと同じ日である。

人物

役職

その後

イワン・クラーヴァリ

国民経済計算中央局(統計局)長官

1937年9月26日銃殺、1956年名誉回復

ミハイル・クルマン

人口部長

1937年3月逮捕

オリンピー・クヴィトキン

国勢調査局長

1937年3月逮捕

ラザリ・ブランド

国勢調査局次長

1937年3月逮捕

イワン・オブローモフ

運輸・通信部長

1937年3月逮捕

各地方の統計機関の長も逮捕された。クルマンら四人のその後の運命(処刑、収容所送りの別)は、今回参照した資料では確定できなかった。ロシア語の人物辞典や「メモリアル」の犠牲者データベースで確かめる必要がある。

統計家たちは、人口を少なく見せる「破壊工作」をしたとして罪を問われたと伝えられる(罪状の文言は要確認)。測定の誤りではなく、測定の結果そのものが罪とされた。計量史の上でも、まれな事例である。

出典:Wikipedia "1937 Soviet census"、ロシア統計博物館

1939年の再調査と「望まれた数字」

1939年1月17日にやり直された国勢調査の最終結果は、1億7055万7093人であった。この数字には、50万〜150万人が上乗せされていたと推定されている。

二年の間に人口が約850万人増えたことになる。上乗せ分を差し引いても、自然な増加だけでは説明しがたい伸びである。

注目すべきは、設問の変化である。1937年の調査にあった信仰についての設問は、1939年の調査票から消えていた。1937年には、無神論を掲げる政権の下でも、多くの人が信仰があると答えたためとされる。

測る前に「何を測らないか」を決めることも、数字を動かす方法になる。計量史からみれば、測定の設計そのものが政治に従った例といえる。

出典:ロシア統計博物館、Wikipedia "1937 Soviet census"、Seventeen Moments in Soviet History

国崎定洞の社会衛生学:測ることから社会改革へ

国崎定洞は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授(1924年)から革命運動に転じ、モスクワで1937年12月10日に銃殺された。国崎が専攻した社会衛生学は、貧困や労働条件といった社会の状態が、病気や死亡にどう影響するかを、統計で示そうとする学問である。

国崎は1926年にベルリンに留学した。当時のベルリンは、社会衛生学の中心地の一つであった。国崎は留学中にドイツ共産党に入り、在独日本人左翼グループの中心となった。1932年にモスクワへ移る。

測った数字が社会の不正を示すなら、その改善を求める。国崎の歩みには、この考え方が通っている。その国崎が、人口を正しく数えた統計家たちと同じ年に、同じ恐怖政治のなかで殺された。この符合は偶然ではあるが、「事実を測る者」が危うくなる時代だったことを象徴している。

国崎の研究については、川上武・加藤哲郎・松井坦編著『社会衛生学から革命へ』(1977年)が基本文献である。国崎が統計をどう使ったかは、同書に収められた論文で確かめるのがよい。

出典:コトバンク「国崎定洞」、Wikipedia「国崎定洞」

ロシア・ソ連の度量衡改革と計量制度

ソビエト政権は、1918年9月14日の人民委員会議の布告で、メートル法を義務とした。その土台は、帝政期の化学者ドミトリー・メンデレーエフが築いていた。

年

できごと

1842年

ペテルブルクに標準度量衡器の保管所を設置

1893年

メンデレーエフのもとで「度量衡中央局(主室)」に改組

1899年

メートル法の任意使用を認める

1918年9月14日

人民委員会議の布告でメートル法を義務化

度量衡の統一は、革命政権にとって「近代化」と「国際標準への参加」を示す政策であった。その一方で、20年後には同じ政権が、人口という最も基本的な量の測定結果を拒んだ。物理的な単位は国際標準に従いながら、社会を測る数字は政治に従わせたことになる。

1930年代に度量衡の研究者や技術者が粛清の対象となったかは、今回参照した資料では確かめられなかった。メンデレーエフ計量研究所(VNIIM)の所史に当たる必要がある。

出典:ソ連大百科事典「メートル法」、Wikipedia "D. I. Mendeleev Institute for Metrology"

計量史の視点:測定の独立性、トレーサビリティ、証言との類比

1937年の事件が示すのは、測定の信頼性は技術だけでは守れないということである。測る人と、その結果を使う人との間に、独立した立場が保障されていなければならない。

現代の計量の考え方と照らし合わせると、次のように整理できる。

計量の考え方

1937年のソ連で起きたこと

証言・回想に当てはめると

測定者の独立性

統計家が政権に従属し、結果のために罰せられた

証言者が利害や圧力から自由か

トレーサビリティ(根拠をたどれること)

原データが廃棄され、検証が不可能にされた

いつ・どこで・誰が見たかを残す

測定の設計

1939年に信仰の設問を削った

何を語らなかったかにも注意する

独立した測定との照合

出生・死亡登録との食い違いが抹殺された

公開文書や他者の証言と突き合わせる

統計調査は、社会を対象とする測定である。メートル原器を基準として個々の計測がトレーサビリティによって連関していることと、人口調査の結果が実測のとおりに記録され、原資料にさかのぼって検証できることとは、測定結果への信頼を支える点で同じ根をもつ。

別稿で取り上げた目撃証言も、同じ考え方で扱える。証言は「一つの測定値」であり、その不確かさを明示し、別の測定(文書)と照合してはじめて価値をもつ。

おわりに

1937年のソ連では、正しく測ったことが罪とされた。統計家クラーヴァリは調査無効の報道と同じ日に銃殺され、社会衛生学者の国崎定洞もその二か月半後に銃殺された。

それでも、廃棄を命じられた資料の一部は残り、半世紀後に公になった。測定の記録が残っていれば、いつか事実は戻ってくる。それは計量の歴史が教える、記録を残すことの意味でもある。

今後の調査課題は次のとおりである。

参考文献・資料


イワン・アダモヴィチ・クラヴァル


イワン・クラーヴァリ 国民経済計算中央局(統計局)長官 1937年9月26日銃殺、1956年名誉回復。Краваль, Иван Адамович - Google 検索

イワン・アダモヴィチ・クラヴァル(ロシア語:Ivan Adamovich Kraval; イワン・アダモヴィッチ・クラヴァル;1897年3月17日 – 1937年9月26日)は、ソビエトの政治家であり、労働経済学と統計学の専門家、経済学博士号を取得した。
経歴
彼はヴィテプスク州リューツィンスキー地区のポトロフスキー村で生まれた。国籍はラトビア人です。1915年に第12サンクトペテルブルクギムナジウムを卒業した。1915年から1916年にかけて、クーディンスカヤ鉄道の線路崩壊事故で10番目の士官を務めた。1916年から1917年にかけてサンクトペテルブルク工科大学の学生でした。1919年からCPSUの党員。1918年から1919年にかけて。彼は教育活動に従事しました。1921年にY.M.スヴェルドロフ共産主義大学を卒業し、1924年には赤い教授職を修了した。彼はセラフィモヴィッチ通り2番地の政府官邸に住んでいました。
彼は1937年5月31日にスパイ活動、破壊工作、テロ活動の容疑で逮捕された。1937年8月21日、ソ連最高裁判所軍事委員会により死刑判決を受けた。彼は1937年9月26日に銃撃されました。彼はドンスコイ墓地の墓1に埋葬された。1956年9月29日、ソ連最高裁判所軍事合同委員会の決定により名誉回復された。
プロキャリア
1924年—1930年 — 国民経済最高評議会(VRNG)常務委員。
1925年—1930年 — 計画・経済管理委員会のメンバー、労働経済学部長。
1928年から1930年 — VRNGプレジディウムのメンバー。
1930年から1932年 — ソ連人民労働委員代理
1933年から1935年 — 国家経済会計中央部(CNGO)第一副局長、ソ連国家計画委員会常任部メンバー。
1935年—1937年 — ソ連中央計画センター長および国家計画委員会副委員長。
彼は第15回、第16回、第17回党大会の代表を務めた。彼はソ連の国民経済発展のための最初の五カ年計画の策定に参加した。複数の経済関連出版物の編集長を務めました。「貿易・産業新聞」および雑誌「工業化の道」の編集委員。1931年、アムステルダムで開催された第1回国際経済計画会議のソ連代表団メンバー。

1937年ソ連人口調査
1937年1月6日、ソ連人口センサスが実施されました。彼が設定した人口は、現在の国勢調査で予想されるよりもはるかに少なかった。その差は800万人という数字によって決まりました。この説明の最初の試みは、中央都市計画センターの人口部門長であるミハイロ・クルマンによって、ソ連国家計画委員会の国家経済会計部長イワン・クラヴァル宛ての「1926年12月17日と1937年6月12日の国勢調査の間の人口自然移動に関する覚書」で行われました。この記録は後に、1937年の国勢調査の行方を調査していた歴史家や人口学者の注目を集めました。国勢調査の結果と現在の国勢調査のデータとの人口差は、「クルマンギャップ」という用語で知られています。1937年1月24日、I.A.クラヴァルはスターリンとモロトフに、国勢調査の最初の予備的結果を報告した。それは、NKVDとNKOが数えた人口(つまりNKVDと軍の特別部隊を除く)および列車や蒸気船の乗客を除き、1億5600万人の人口であった。国勢調査での過少計数は、ソ連の指導部によって人民の敵の陰謀のせいだとされました。プラウダ紙の社説はこう述べています。「人民の敵は実際の人口数を歪めるためにあらゆる手を尽くしてきました。彼らは調査員に破壊工作の指示を出し、その結果、多くの市民グループが国勢調査表に含まれていませんでした[2]。『扇動者ノート』にはこう書かれている。「ソ連人民はこの最も重要な国家の出来事を非常に意識していたが、この問題は人民の価値のない敵――当時中央軍事管理局の指導部に潜入していたトロツキスト・ブハーリンのファシズム工作員たちによって阻止された...スターリンの人民委員同志M.I.イェジョフが率いる栄光あるソ連情報機関は、ソ連統計装置の裏切り者の蛇の立方体を打ち破った。」[3] ソ連国家計画委員会の国家経済会計中央局(CSUNGO)で最初に検出された「害虫」は、オリンピイ・クヴィトキン[4](ソ連中央計画委員会人口調査局長)、ミハイル・クルマン[5](人口部門長)の準備と実施を担当した者たちであった。 ラザール・ブランド(ブランドゲンドラー)(国勢調査局副長)— 1937年3月31日、イワン・オブブロモフ(運輸通信会計局副長)。ソ連国家計画委員会国家経済会計部長イワン・クラヴァルは1937年5月22日に職を解かれ、5月31日に逮捕された。 そして、以前の資料は押収され、機密扱いにされました。

州の受賞歴
彼はレーニン勲章を授与された。

注記
チェコ国立権威データベース
全連邦人口センサス // プラウダ。1938年7月27日。
扇動者のノート。1938年。第25-26号。12、13ページ。
オリンピイ・アリスタルホヴィチ・クヴィトキン(1874-1937)の生誕から130年。2018年9月16日にアーカイブ。2018年11月25日取得。
ミハイル・ヴェニアミノヴィチ・クルマンの回想録より。2018年11月4日にアーカイブ。2018年11月25日取得。
参考文献
ソ連計画経済体制における労働、モスクワ、1931年;
労働力を準備しよう。全連邦中央労働組合評議会第5回全体会議報告書、モスクワ、1931年;
労働分野の科学研究計画、モスクワ・レニングラード、1931年。
参考文献
ビッグソビエト百科事典。 モスクワ:ソビエト百科事典。1969—1978.
ロシア史リーダー(1914-1945年)。ポッド。エド。A. F. キセレワとE. M. シャギナ。モスクワ、1996年、419-422ページ、第IV節、文書第12号の注記。
クラヴァル・イワン・アダモヴィチ // ソ連国家権力最高当局とその指導者たち。1923—1991年:歴史・伝記参考書。V. I. イヴキン。 モスクワ、ロシア政治百科事典(ROSSPEN)、1999年。 — 365ページ。
出典
クラヴァル・イワン・アダモヴィチ。1918年から1953年にかけてモスクワおよびモスクワ地域で射殺・埋葬された政治的弾圧の犠牲者の殉教者名。2018年11月25日にアーカイブ。2018年11月25日取得。 (ロシア語)
クラヴァル・イワン・アダモヴィチ。科学的かつ実践的な電子図書館「法学」2018年11月25日取得。 (ロシア語)
イワン・アダモヴィチ・クラヴァル。クロノスはインターネット上の世界史です。2018年11月26日にアーカイブ。2018年11月25日取得。 (ロシア語)
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├モスクワの粛清とコミンテルンの影――加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証2026年10月2日 · @横田俊英
├「出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)」
├『人間 国崎定洞』
├Краваль, Иван Адамович - Google 検索

資料:「スターリンとコミンテルンの時代にモスクワに滞在した日本共産党の人々の粛清に関する資料の所在」(2026年10月4日)
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├加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証2026年10月2日 · @横田俊英
├測った数字が裁かれるとき――1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治(日本計量史学会向け論考)2026年10月2日 · @横田俊英
├[第一次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
├[第二次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
├『人間の條件』に照らす――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者(片山潜・山本懸蔵・野坂参三・国崎定洞ら)の行動の記録――2026年10月4日
├昆虫の行動原理に対比する――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者(片山潜、山本懸蔵、野坂参三、国崎定洞ら)の行動の記録から考えること――2026年10月4日
├告発しなかった人としての国崎定洞――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞――2026年10月4日
├スターリンとコミンテルンの時代、粛清の嵐のなかでのモスクワ在住の日本人共産主義者の行動から浮かび上がる姿 2026年10月4日
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