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├計量計測データバンク ニュースの窓-481-告発しなかった人としての国崎定洞――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞――2026年10月4日
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国崎定洞(1894〜1937)


国崎定洞(1894〜1937)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授から革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。社会衛生学の先駆者として将来を嘱望された人物である。『人間 国崎定洞』より。
国崎定洞(1894年〜1937年)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授であり、日本の社会衛生学の創始者です。
人物像と経歴
• 生没年:1894年10月5日生まれ、1937年12月10日没(熊本市出身)。
• 学問・業績:東京帝国大学医学部を首席で卒業後、同大の助手・助教授となり、ドイツの社会医学を日本に導入した。
• 政治活動:1926年にドイツへ派遣された後、現地でドイツ共産党に入党。ドイツ共産党日本語部を結成し、責任者を務めた。
• 最期:1932年にソビエト連邦へ移住したが、1937年の大粛清の最中に日本スパイ容疑で逮捕され、銃殺刑に処された(1959年に名誉回復)。
告発しなかった人としての国崎定洞――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞――2026年10月4日
· @横田俊英
――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞――
· @横田俊英
1930年代のモスクワで、日本人共産主義者は互いに告発し、告発された者は逮捕され、銃殺された。本稿は、その中にいた国崎定洞(1894〜1937)を取り出し、告発の記録と並べる。
本稿が用いる資料の範囲では、国崎が自ら進んで他人を告発した記録、譴責や除名を申請した記録はない。国崎は尋問には事実を答え、自筆の履歴書には不利になりうる経歴も書き、法廷では拷問によるとみられる予審での自白を否認した。
一方、同じ時期、同じ条件のもとにいた人々の中には、告発し、申請し、書簡を送った人がいた。本稿は両者を並べ、評価は記録に委ねる。
川上武、加藤哲郎『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)は、川上が1970年と76年に書いた伝記に、加藤が第19〜21章を書き加えたものである。「まえがき」によれば、加藤の担当部分は、ソ連崩壊後に発見された「国崎定洞ファイル」によって、「ソ連で粛清された日本人犠牲者」としての国崎の最後の5年を跡づけ、1959年の法的な無罪確定と名誉回復の過程を再構成するものである。
書名は「人間」である。「まえがき」は、生誕百周年の集いに寄せられた娘タツコの言葉、友人たちの回想から始まる。「スパイ」として処刑された人を、医学者、友人、父として描き直すことが、この本の意図の一つであると本稿は読む。本稿は、加藤が読み解いた文書の中から、告発をめぐる国崎の行為だけを取り出す。
本稿で「告発しなかった」とは、次のことを指す。
ただし、国崎の名が他人の供述と結びついている記録が二つある。一つは、1934年の尋問でベルリン時代の共産党員の名を答えたこと。もう一つは、逮捕後の予審で、教え子の名を挙げた自白があることである。この二つは伏せずに、四節と六節で扱う。
資料は、主に『人間 国崎定洞』の加藤執筆部分(ウェブ上の復元版)とその付録、略年譜に拠る。付録には、コテリニコフの会談記録(1934年)、関マツの供述記録(1938年)、ソ連最高裁判所の名誉回復決定書(1959年)などの訳文が収められている。
国崎定洞は1894年生まれの元東京帝国大学医学部助教授で、社会衛生学を専攻した。1926年にドイツに渡り、日本には戻らなかった。『人間 国崎定洞』の略年譜から、本稿に関わる事項を抜き出す。
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年月日 |
事項 |
|---|---|
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1928年7月 |
ドイツ共産党に入党。この頃、勝野金政が国崎宅を経てモスクワに渡り、片山潜の私設秘書となる |
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1929年末 |
ドイツ共産党日本語部を組織し、責任者となる(ベルリン反帝グループ) |
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1930年10月 |
モスクワで、国崎の紹介で入ソした根本辰が国外追放、勝野金政がラーゲリ送りとなる(山本懸蔵の告発による) |
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1932年6月25日 |
日本語の自筆履歴書を書く |
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1932年9月4日 |
片山潜とともにソ連に入国。片山の「自伝」の完成を助ける |
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1933年3月 |
クートベ大学院に入学(山本懸蔵は反対) |
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1933年11月 |
片山潜が死去 |
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1934年7月 |
外国労働者出版所日本課長。ナリマノフ東洋学専門学校で教え、「アメ亡組」を指導する |
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1934年9月19日 |
山本懸蔵がコテリニコフとの会談で国崎について告発する |
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1934年10月10日 |
コテリニコフが国崎と野坂竜を尋問する |
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1935年2月9日 |
コミンテルン東洋部からNKVDへ「国崎定洞についての通知」 |
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1935年3月14日 |
ドイツ語の自筆履歴書を書く |
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1936年夏 |
スペイン内戦の国際義勇軍に志願するが、許可されない |
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1936年11月25日 |
同じ日本課の伊藤政之助が逮捕される(山本懸蔵の申請による) |
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1937年8月4日 |
日本軍のスパイの容疑で逮捕される |
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1937年8月22日 |
ドイツ共産党から除名の手続き |
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1937年12月10日 |
銃殺される |
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1938年2月17日 |
妻フリーダと娘タツコが、国崎の生死を知らないままナチス・ドイツへ強制送還される |
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1959年10月29日 |
ソ連最高裁判所で法的に名誉回復 |
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1975年8月2日 |
日本共産党が「獄死」と名誉回復を発表 |
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1992年5月16日 |
日本共産党が「銃殺」と発表 |
加藤によれば、国崎の党籍は最後までドイツ共産党であった。ただしモスクワでは主に日本共産党関係の仕事に就き、「その指導部の内部葛藤と疑心暗鬼にまきこまれ」た、と加藤は書いている。
本稿の資料で確認できる告発と申請を、自ら進んで行われたものと、逮捕後の供述とに分けて並べる。
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年月日 |
行った人 |
対象 |
宛先・形式 |
その後 |
|---|---|---|---|---|
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1930年 |
山本懸蔵 |
勝野金政、根本辰 |
東洋部のヤ・ヴォルクを通じてGPUへ |
勝野はラーゲリ、根本は国外追放 |
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1934年9月19日 |
山本懸蔵 |
国崎定洞、ベルリンの日本人グループ |
組織部コテリニコフとの会談 |
1935年2月、国崎はNKVDの監視下に |
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1936年8月4日 |
山本懸蔵 |
伊藤政之助 |
国際統制委員会へ除名申請 |
1936年11月25日逮捕、1937年9月14日銃殺 |
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1937年8月 |
アメ亡組の集会 |
国崎の逮捕について尋ねた仲間 |
「警告付きの譴責」の申請を決議 |
この8人のうち7人が1938年3月22日逮捕 |
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1937年9月11日 |
ライトネル・マックス(ドイツ共産党員) |
国崎定洞 |
「怪しかった」という供述 |
国崎の逮捕、除名の後。加藤は「副次的」とする |
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1938年11月 |
関マツ |
故片山潜、野坂参三 |
国際統制委員会での供述 |
関は同年12月に除名 |
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1938年11月、1939年2月 |
野坂参三 |
山本懸蔵 |
国際統制委員会での発言、ディミトロフ宛書簡 |
山本は1939年3月に銃殺 |
このほか、1929〜30年に片山潜が、山本懸蔵の日本からの脱出の経緯をコミンテルン執行委員会で問題にしている。この査問は大テロル以前のもので、証拠不十分とされ、誰の逮捕にもつながっていない。上の表とは分けて記す。
また、1934年10月10日の尋問で、野坂竜は、加藤によれば「国崎定洞と距離をおいて、自らの弁明に終始した」。これは告発ではないが、尋問を受けた人の応じ方の一つとして、四節の国崎の応じ方と並べる。
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供述した人 |
名を挙げられた人 |
用いられ方 |
|---|---|---|
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伊藤政之助、ビリチ |
国崎定洞 |
名誉回復決定書で、国崎有罪の二人の証言者とされる |
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前島武夫、伊藤政之助 |
山本懸蔵 |
1937年11月2日の山本の逮捕の根拠 |
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国崎定洞 |
教え子の島正栄、宮城與三郎、照屋忠盛、又吉淳 |
国崎の起訴の根拠。国崎は法廷で否認した |
これらは、主に拷問によると推定される自白である(加藤は「おそらく」と書く)。自ら進んで行われた告発とは分けて扱う。
国崎について残っているのは、尋問の記録、自筆の履歴書、名誉回復決定書、妻フリーダの手紙である。書いた人も目的も異なる。それぞれから、告発をめぐる国崎の行為を取り出す。
山本懸蔵の告発の3週間後、国崎はコテリニコフの尋問を受けた。加藤によれば、山本の告発の内容はそのままでは示されなかった模様である。国崎は、「ベルリン時代の自らの活動や勝野金政とのつながりを正直に述べた」(加藤)。
このとき国崎は、ドイツの日本人サークルの性格を問われ、約15名のうち3〜5人が共産党員であったと答え、その名と現在の所在を述べている。答えたのは党員であるかどうかと居場所であり、その人々を「スパイ」や「敵」としては述べていない。
同じグループについて、山本はその前月の会談で、総じて「党に対して反対」であり、日本に帰国した勝本清一郎、平野義太郎らは「ファシスト」に転向したと述べている。
1932年にソ連へ渡る際に書いた自筆の履歴書には、日本での兵役(一年志願兵、陸軍三等軍医)が記されている。1937年の罪状は「日本軍参謀本部諜報部将校タケダの命を受けて」というもので、加藤はこの軍歴が罪状の根拠に使われた可能性が高いとみている。徴兵制の日本では入隊は義務であり、書かなければ「経歴詐称」を疑われたとも加藤は述べている。
1936年夏、国崎はスペイン内戦の国際義勇軍に志願したが、出国は許可されなかった。
1937年8月4日の逮捕の夜、国崎が妻に残した言葉は「フリーダ、僕は潔癖なんだからね。また帰って来るよ」であったという(フリーダから鈴木東民への手紙、1974年11月21日付)。国崎には遺書も遺稿もなかった。加藤は、心境を書き残せば証拠書類にされて家族や友人に累が及ぶことを自覚していたのではないか、と問いの形で書いている。
「国崎定洞ファイル」には、予審尋問調書と公判記録は入っていない。1959年の名誉回復決定書は、次のように記している。
「コンの起訴は、コンにスパイ情報をもたらしたのは、ユク、パク、ニュー、ツォイであるという、予審での彼自身の自白に基づいていた」
「法廷でコンは自分の供述を否認し、いついかなる時も日本の諜報部員であったことはないし、スパイ活動をしたこともないと証言した」
コンは国崎の党名で、ユク、パク、ニュー、ツォイは教え子の島正栄、宮城與三郎、照屋忠盛、又吉淳である。加藤は、予審での自白を「いったん拷問により」なされたものとみている。国崎は法廷でそれを否認し、自分の無実を述べた。それは認められず、1937年12月10日に銃殺された。
三節と四節の記録を、同じ場面ごとに並べる。
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場面 |
他の人々の記録 |
国崎定洞の記録 |
|---|---|---|
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尋問を受けたとき(1934年10月) |
野坂竜は国崎と距離をおき、自らの弁明に終始した |
自らの活動と勝野金政とのつながりを述べた。ベルリンの仲間を「敵」としては述べなかった |
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ベルリンの日本人グループについて |
山本懸蔵は「党に対して反対」「ファシスト」に転向と述べた |
党員の名と所在を答え、一部は今も党員だと考えると述べた |
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疑いをかけられた同僚や仲間について |
山本は伊藤政之助の除名を申請した。アメ亡組の集会は仲間の譴責を申請した |
同じ課の伊藤が逮捕された後も、伊藤について報告した記録はない |
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他人について文書を書く |
山本は会談で、野坂参三は書簡で、他人への疑いを述べた |
残る自筆の文書は、自分の経歴を書いた履歴書である |
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逮捕後 |
前島武夫、伊藤政之助の供述が山本の逮捕の根拠となった。照屋忠盛は否認を続けた |
予審で拷問によるとみられる自白をしたが、法廷で否認した |
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他の道 |
勝野金政は日本大使館に逃げ込んだ。野坂参三は1937年をアメリカで過ごした |
スペイン義勇軍に志願したが、許可されなかった |
条件がまったく同じだったわけではない。山本懸蔵と野坂参三は日本共産党の代表として、党員について報告する立場にあった。国崎はドイツ共産党籍で、出版所の課長と教師であった。ただし、分派の禁止、報告の経路、「日本人はみなスパイ」という空気、粛清作戦の期限は、全員に共通していた。
加藤は、国崎粛清の主たる直接的理由を、政治的要因よりも「在モスクワ日本人内部の疑心暗鬼の人間関係」に求めている。その人間関係の中で、国崎は告発される側にいた。そして、本稿の資料の範囲では、告発する側には回らなかった。
本稿は、告発の記録と、国崎定洞の記録を並べた。
国崎は、山本懸蔵に告発され、NKVDの監視下に入り、日本課の課員であった伊藤政之助の供述を根拠の一つとして銃殺された。その間に残る国崎自身の記録は、次のとおりである。
同じ時期のモスクワで、他の人々は告発し、申請し、書簡を送った。その行為の多くは、組織の報告の経路に沿って行われた。そしてその人々の多くも、やがて逮捕され、銃殺され、除名された。
その中で、告発しなかった人がいた。その人は、告発しなかったことによって命を守れたわけではない。それでも、「日本人はみなスパイ」とされた時と場所で、他人を告げないという行動がありえたことを、記録は示している。
その時、その場所で、何が正しい行いであったか。本稿はその答えを書かない。並べた記録が、読者の前にある。
同じ記録を別の角度から扱ったものとして、「ニュースの窓」477〜480号がある。
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資料:「スターリンとコミンテルンの時代にモスクワに滞在した日本共産党の人々の粛清に関する資料の所在」(2026年10月4日)
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├加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証2026年10月2日 · @横田俊英
├測った数字が裁かれるとき――1937年ソ連国勢調査の抹殺と統計家の粛清、国崎定洞の社会衛生学にみる計量と政治(日本計量史学会向け論考)2026年10月2日
· @横田俊英
├[第一次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
├[第二次推敲]モスクワ在住日本人共産主義者における相互告発と粛清の連鎖――「置かれた状況」と二つの事件にみる人物相関の確認作業
├『人間の條件』に照らす――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者(片山潜・山本懸蔵・野坂参三・国崎定洞ら)の行動の記録――2026年10月4日
├昆虫の行動原理に対比する――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者(片山潜、山本懸蔵、野坂参三、国崎定洞ら)の行動の記録から考えること――2026年10月4日
├告発しなかった人としての国崎定洞――スターリンとコミンテルンの時代、モスクワ在住の日本人共産主義者の告発の記録と国崎定洞――2026年10月4日
├スターリンとコミンテルンの時代、粛清の嵐のなかでのモスクワ在住の日本人共産主義者の行動から浮かび上がる姿 2026年10月4日
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