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├計量計測データバンク ニュースの窓-475-モスクワの粛清とコミンテルンの影――加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証2026年10月2日
· @横田俊英
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国崎定洞(1894〜1937)


国崎定洞(1894〜1937)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授から革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。社会衛生学の先駆者として将来を嘱望された人物である。『人間 国崎定洞』より。
国崎定洞(1894年〜1937年)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授であり、日本の社会衛生学の創始者です。
人物像と経歴
• 生没年:1894年10月5日生まれ、1937年12月10日没(熊本市出身)。
• 学問・業績:東京帝国大学医学部を首席で卒業後、同大の助手・助教授となり、ドイツの社会医学を日本に導入した。
• 政治活動:1926年にドイツへ派遣された後、現地でドイツ共産党に入党。ドイツ共産党日本語部を結成し、責任者を務めた。
• 最期:1932年にソビエト連邦へ移住したが、1937年の大粛清の最中に日本スパイ容疑で逮捕され、銃殺刑に処された(1959年に名誉回復)。
モスクワの粛清とコミンテルンの影――加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証 2026年10月2日 · @横田俊英
はじめに:問題の所在と本稿の立場
ソ連崩壊後に開かれた旧ソ連の秘密文書は、1930年代のモスクワで日本人共産主義者が互いに密告し、粛清されていった事実を明らかにした。その実証研究の中心にいるのが、一橋大学名誉教授の加藤哲郎である。
本稿は、加藤の研究に依拠して国崎定洞と山本懸蔵の悲劇をたどり、野坂参三の除名(1992年)、袴田里見の除名(1977年)など、戦後の党とソ連の関係にも視野を広げる。あわせて、個人の目撃や回想が、のちに歴史の傍証となりうることを考える。
本稿は、確かめられた事実と、傍証・推測とを分けて書く。文書で裏づけられないことは、断定せずに「未確認」「検討課題」として示す。
加藤哲郎と旧ソ連秘密文書の研究
加藤哲郎(1947年生まれ、岩手県盛岡市出身)は政治学者で、一橋大学名誉教授である。主著に『コミンテルンの世界像』(1991年)、『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(1994年、いずれも青木書店)、『ゾルゲ事件――覆された神話』(2014年、平凡社新書)がある。
加藤は1995〜97年度の科研費研究「日本人スターリン粛清犠牲者の規模とメカニズム」で、1920〜30年代にソ連に渡った日本人の運命を調べた。その結果、犠牲者とみられる日本人は約86名にのぼる。
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確認の度合い |
人数 |
|---|---|
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ロシア文書と日本側資料の双方で確認 |
32名 |
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ソ連側文書のみで確認 |
15名 |
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ソ連在住は確実だが1930年代に消息不明 |
12名 |
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日本の警察記録にあり、その後の情報なし |
20名以上 |
加藤の研究の特徴は、日本の特高警察資料とロシア側の秘密警察(NKVD)・コミンテルン文書を突き合わせる点にある。一方の資料だけでは見えない「密告の連鎖」が、両者を重ねることで浮かび上がった。
なお、1992年に野坂参三の密告を最初に報じたのは、ジャーナリストの小林峻一と加藤昭である(第5節)。研究者の加藤哲郎とは別人であり、混同しやすいので注意を要する。加藤哲郎の功績は、野坂事件を含む日本人犠牲者の全体像を学問的に確定したことにある。
国崎定洞――ベルリンからモスクワへ、そして銃殺
国崎定洞(1894〜1937)は、東京帝国大学医学部の衛生学助教授から革命家に転じ、モスクワで「日本のスパイ」として銃殺された。社会衛生学の先駆者として将来を嘱望された人物である。
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年 |
できごと |
|---|---|
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1924年 |
東京帝大医学部衛生学助教授 |
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1926年 |
ベルリンに留学。在独日本人の社会科学研究会に参加 |
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1927年 |
ドイツ共産党に入党。在独日本人左翼グループの中心となる |
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1929年 |
東大を依願免官 |
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1932年 |
ナチス台頭のなかモスクワへ亡命 |
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1937年8月 |
「日本のスパイ」として逮捕 |
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1937年12月10日 |
銃殺 |
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1959年 |
ソ連により名誉回復 |
国崎の逮捕の直接のきっかけは、モスクワの日本共産党代表だった山本懸蔵による密告とされる。山本は国崎を「日本のスパイと結びついている」とソ連当局に告げた。国崎は外国労働者出版所の職を解かれ、NKVDの監視下に置かれた。
ドイツ人の妻フリーダと娘タツコは、国崎の逮捕後にドイツへ送還され、消息を絶った。1974年に鈴木東民が西ベルリンで二人を見つけ、1980年にはタツコが「国崎定洞をしのぶ会」の招きで来日した。
国崎の研究は、川上武『流離の革命家』(1976年)、川上武・加藤哲郎・松井坦編著『社会衛生学から革命へ』(1977年)に始まる。加藤はソ連崩壊の二十年近く前から国崎を追い続けていたことになる。
出典:コトバンク「国崎定洞」、Wikipedia「国崎定洞」
山本懸蔵――密告する側とされる側
山本懸蔵(1895〜1939)は、密告する側であり、同時に密告されて殺された側でもあった。この二重性こそ、スターリン時代のコミンテルンを象徴する。
茨城県に生まれた山本は、労働運動から共産党に加わった。1928年の三・一五事件の後にソ連へ脫出し、プロフィンテルン(赤色労動組合インターナショナル)の日本代表となる。1936年2月には野坂参三との連名で「日本の共産主義者への手紙」を発表し、人民戦線を訴えた。
加藤哲郎の調査によれば、山本自身も複数の日本人をソ連当局に密告していた。名を挙げられたのは、勝野金政、根本辰、国崎定洞、伊藤政之助である。
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年月日 |
できごと |
|---|---|
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1936年2月 |
野坂と連名で「日本の共産主義者への手紙」 |
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1937年11月2日 |
NKVDが「日本陸軍のスパイ」容疑で逮捕 |
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1939年2月22日 |
野坂が山本夫妻を憲兵隊のスパイの疑いがあるとする書簡を書く |
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1939年3月10日 |
銃殺 |
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1956年 |
ソ連で名誉回復 |
山本が銃殺された事実が日本で知られたのは戦後である。山本を「スパイ」とした告発に野坂が関わっていたことは、半世紀以上伏せられたままだった。
密告しなければ自分が疋われる。密告がなくても罪はつくられた。加藤の研究が示すのは、個人の悪意よりも、密告を生み続ける「仕組み」である。
出典:コトバンク「山本懸蔵」、Wikipedia「山本懸蔵」、Wikipedia "Sanzō Nosaka"
野坂参三――密告の露見と1992年の除名
日本共産党は1992年12月27日、名誉議長だった野坂参三(1892〜1993)を除名した。理由は、コミンテルン時代に同志の山本懸蔵を「日本の警察のスパイ」と偽って告発し、死に至らしめたことである。
発端は、ジャーナリストの小林峻一と加藤昭が1992年9月の『週刊文春』で発表した記事である。二人はモスクワで旧KGBの文書を入手し、野坂が山本夫妻の死に関わった証拠を示した。連載は翌1993年、『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋、立花隆解説)にまとめられた。
党の説明では、野坂は告発の事実を認めた。さらにその後、延安から帰国する途中で秘密裏にモスクワに呼ばれ、赤軍情報総局に直結する工作員として帰国したことも認めたという。
野坂の戦後は次のように続く。
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年 |
できごと |
|---|---|
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1946年1月 |
15年ぶりに帰国 |
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1950年 |
コミンフォルムが「平和革命論」を批判。その後地下に潜り、中国に渡ったとされる |
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1958年 |
党中央委員会議長 |
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1982年 |
議長を退き名誉議長に |
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1992年12月27日 |
除名 |
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1993年11月14日 |
死去(101歳) |
先行稿では、スターリン死去(1953年3月)の報に接して野坂が何度も無線局(ラジオ局)を訪れ、落ち着かない様子だったという記録を扱った。この時期、野坂は日本で地下に潜ったのち中国(北京)にいたとされる。その記録の出典と場所を確かめることが先決である。
そのうえで、この動揺を「山本密告の露見への恐れ」と重ねるのは、一つの読みである。ただし別の説明も成り立つ。無線局はモスクワの情報を最も早く得られる場であり、指導者の死後の路線変更を知りたかっただけとも考えられる。「重ね合わせ」は仮説として明記しておく。
出典:しんぶん赤旗(2002年10月14日)、文藝春秋『闇の男』、コトバンク「野坂参三」、Wikipedia "Sanzō Nosaka"
戦後の党とソ連――袴田里見の除名とソ連資金問題
袴田里見(1904〜1990)は、党副委員長まで務めたのち、1977年12月30日に除名された。除名の直接の理由はソ連との関係ではなく、スパイ査問事件をめぐって党外で党と宮本顕治を攻撃したとされたことである。
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年 |
できごと |
|---|---|
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1925年 |
モスクワのクートベ(東洋勤労者共産主義大学)に学ぶ |
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1927年 |
ソ連共産党に入党 |
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1951年 |
徳田球一・野坂参三らとモスクワを訪問。スターリンの批判を受ける |
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1970年 |
党副委員長 |
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1977年 |
4月に党員権制限、10月に党員権剥奪、12月30日に除名 |
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1978年11月 |
『昨日の同志 宮本顕治へ』(新潮社)を刊行 |
袴田の死後に公開されたソ連の秘密文書からは、野坂とともに袴田にもソ連側からの秘密の接触がしばしばあったことが判明したとされる。ただし、袴田個人が資金を受け取ったことを示す文書は、今回の調べでは確認できていない。
党としての資金も問題になった。名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』(1994年)は、ソ連共産党の文書にもとづき、日本共産党への援助を次のように示した。1951年に10万ドル、55年に25万ドル、58年・59年に各5万ドル、61年に10万ドル、62年・63年に各15万ドル、計85万ドルである。2016年にはこの記述をもとに衆議院で質問主意書が出された。
党はこれに対し、資金は「党として」受けたものではなく、野坂や志賀義雄らソ連に通じた分派への個人的な懐柔工作だったと説明している。両者の説明は食い違っており、文書の原本に当たって確かめる余地が残る。
先行稿にある「袴田にソ連の随員のような二人が付き添っていた」という目撃は、この「秘密の接触」と符合する。それ自体は証拠にはならないが、文書が示す事実を外から支える傍証となりうる。
出典:コトバンク「袴田里見」、Wikipedia「袴田里見」、衆議院 質問主意書第190号(2016年)、しんぶん赤旗(2004年7月5日)
宮本顕治をめぐる記録と未解明点
宮本顕治については、文書で確かめられたことと、証言の域を出ないこととを、とくに厳しく分ける必要がある。
大きな論点は、1933年12月の「スパイ査問事件」である。宮本ら党幹部が、スパイと疑った小畑達夫らを査問し、小畑が死亡した。1976年に民社党の春日一幸が国会で取り上げ、『週刊文春』が「袴田供述書」を公開した。これが袴田と宮本の対立、そして袴田の除名へとつながっていく。
先行稿で取り上げた「宮本は子どもと一緒にいたことになっているが、党も本人もこのことを伏せている」という点については、今回の調査では裏づけとなる公刺資料を確認できていない。実在の人物の名誉に関わるため、次の点を確かめてから記述する。
宮本に関する記述は、この三点が確かめられるまで「未確認の証言」として扱うのが妥当である。
目撃・証言・回想の史料的価値
何気ない一言や「見たこと」の記録は、のちに公開された文書と符合したとき、重要な傍証になる。野坂事件そのものが、モスクワの文書と、日本側に残った証言や特高資料とを突き合わせて明らかになった。
ただし、証言が史料として生きるには条件がある。
袴田の「二人の随員」、野坂の「無線局通い」は、いずれもこの条件に当てはめて確かめる価値がある。一方、「だから密告を恐れていた」「だから資金を得ていた」という結論は、目撃から直接には導けない。目撃は事実の片鱗として、推論は推論として並べて書くのがよい。
おわりに:コミンテルン指導下の党活動をどう検証するか
国崎定洞と山本懸蔵の悲劇は、外国の党がモスクワの指導下に置かれたとき、同志の命さえ密告の対象になったことを示す。密告した山本が密告されて殺され、密告した野坂が半世紀後に除名された。
この歴史が明らかになったのは、ソ連崩壊で文書が開かれ、ジャーナリストと研究者がそれを読み、日本側の記録や証言と突き合わせたからである。加藤哲郎の仕事は、その地道な照合の積み重ねであった。
今後の調査では、次の三つを優先する。
個人が「見ていた」ことは、書き留めておきさえすれば、いつか公開される文書と出会う可能性がある。その沈黙を破るきっかけを残しておくことも、歴史への貢献である。
参考文献・資料
文献
参照したウェブ資料
本文に登場する人物を、時期・場所・情報の種類(筆者が直接見たか伝え聞きか)で整理したもの。本文のみに基づき、他資料による裏付けは行っていない。
| No | 氏名 | 中国名・別名 | 区分 | 時期(本文) | 場所 | 本文の記述要旨 | 後の経歴(本文の記載) | 情報の種類 | 本文の箇所 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 国谷哲資(筆者) | 譚国材 | 東北組・放送局員 | 1953–1967 | 北京ほか | 自由日本放送受信班、労農速成中学、中国人民大学、砂間一良の秘書兼通訳 | 1967年11月帰国、『長周新聞』で約50年勤務 | 直接(本人が目撃・接触) | 全編 |
| 2 | 国谷の母 | 東北組 | 1952–1967 | 瀋陽・永年・北京・広州 | 和田真一の子の保母、自由日本放送の保育所、鈴木夫妻の家政婦、宮本顕治の息子の保母 | 1967年帰国 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1)(3)、3(1)(5)、5 | |
| 3 | 大塚有章 | 東北組(鶴崗) | 1952 | 鶴崗炭鉱 | 筆者に日本革命のために働くよう勧めた | 毛沢東思想学院 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1)、4(6) | |
| 4 | 国光昭二 | 東北組・放送局員 | 1953頃 | 北京・自由日本放送 | 大塚有章の長男。鶴崗炭鉱から自由日本放送のアナウンサーに | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4) | ||
| 5 | 和田真一 | 本名・山室茂 | 延安労農学校出身 | 1952–1953 | 瀋陽・民主新聞社→河北省永年「党学校」 | 民主新聞社の幹部。筆者の母が子の保母 | 註1に八路軍・東北での経歴 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1)、2(3)、註1 |
| 6 | 芳崎敏夫 | 東北組(鶴崗) | 1952–1953 | 瀋陽→北京 | 鶴崗の先輩。民主新聞社勤務、筆者と共に北京へ | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1) | ||
| 7 | 森藤悟 | 東北組(鶴崗) | 1952–1953 | 瀋陽・民主新聞社 | 鶴崗の青年突撃隊長、民主新聞社の編集デスク | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1) | ||
| 8 | 井上林 | 民主新聞社 | 1952–1953 | 瀋陽 | 民主新聞社の社長 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1) | ||
| 9 | 池田(三村)亮一 | 民主新聞社 | 1952–1953 | 瀋陽 | 民主新聞社の編集長 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1) | ||
| 10 | 横川次郎 | 元満鉄調査部・放送局員 | 1953 | 瀋陽→北京・自由日本放送 | 瀋陽で筆者に北京行きを指示。調査室の中心 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1)(4) | ||
| 11 | 中川(四郎と推定) | 東亜同文書院出身 | 1953–1959 | 瀋陽→北京 | 瀋陽で北京行きを指示。のち北京放送局 | 1959年北京協和病院で死去(註2・編者推定) | 直接+伝聞 | 2(1)、註2 | |
| 12 | 野坂参三 | 丁 | 北京機関中央幹部 | 1953–1954 | 北京機関 | 着任時に歓迎の言葉。スターリンの病状放送を受信室で聞く。演説を一度聞く。1954年モスクワへ | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1)(4)(6) | |
| 13 | 羅明 | 神戸華僑出身の党員・連絡員 | 1953–1967 | 北京 | 中国名を指示。以後10数年、日共連絡員として筆者と深く関わる | 1967年以降不明 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(1)(10)、4(1) | |
| 14 | 羅明の夫人 | 1956頃– | 北京 | 労農速成中学で筆者と共に学ぶ | 直接(本人が目撃・接触) | 2(10) | |||
| 15 | 藤井冠次 | 任 | 放送局編集室 | 1953–1955 | 自由日本放送 | 編集室の中心。NHK・読売のレッドパージ組 | 著書『伊藤律と北京・徳田機関』 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)(7) |
| 16 | 雪野勉 | 人民艦隊組・放送局員 | 1953–1955頃 | 自由日本放送 | 日本国内から来た放送局員 | 帰国後、農民部長(「ようである」) | 直接+伝聞 | 2(4) | |
| 17 | 西井教雄 | 人民艦隊組・放送局員 | 1953–1955頃 | 自由日本放送 | 同上 | 帰国後、東京都委員長(「ようである」) | 直接+伝聞 | 2(4) | |
| 18 | 石田精一 | 石 | 北京機関中央幹部 | 1953–1957 | 自由日本放送・北京機関 | 放送の編集委員。1956年以降も機関に残留 | 1961年第8回党大会で中央委員 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)(8) |
| 19 | 徳田球一 | 孫 | 北京機関中央幹部 | 1953(10月13日死去) | 北京機関 | 療養中で筆者は会っていない。仮葬儀に参列 | 1955年六全協で死去公表 | 直接+伝聞 | 2(4) |
| 20 | 西沢隆二(ぬやま・ひろし) | 林 | 北京機関中央幹部 | 1953–1954 | 北京機関 | アナウンス室・受信室によく顔を出し若者と話す | 1966年除名(伝聞)、毛沢東思想研究 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)(6)、3(5) |
| 21 | 安斎庫治 | 劉 | 北京機関中央幹部 | 1953–1954 | 北京機関 | 放送局スタッフの大細胞の書記 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)(6) | |
| 22 | 聴涛克巳 | 何 | 北京機関中央幹部 | 1953–1957 | 北京機関 | 1956年以降も機関に残った幹部の一人 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)(8) | |
| 23 | 高倉テル | 文 | 北京機関中央幹部・党学校 | 1953–1958 | 党学校(実質の校長)・北京機関 | 1957–58年に筆者の隣室。ピンポン、胃穿孔の際に世話 | 1958年タシュケントの作家会議、1959年4月帰国(伝聞) | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)(7)(10) |
| 24 | 土橋一吉 | 周 | 北京機関中央幹部 | 1953 | 北京機関 | 指導者として名前のみ | 名前の列挙のみ | 2(4) | |
| 25 | 伊藤律 | 顧 | 北京機関幹部 | 1952末–1953 | 自由日本放送 | 1952年末まで放送を指導した「ようだ」。1953年に査問、筆者の前に現れず | スパイとして除名 | 伝聞 | 2(4) |
| 26 | 榊利夫 | 放送局調査部 | 1954頃 | 自由日本放送→党学校 | 調査部に約1年。党学校に移った「であろう」 | 後に日本共産党幹部 | 推測を含む | 2(4) | |
| 27 | 工藤晃 | 党学校 | 1954頃 | 党学校・自由日本放送 | 党学校在籍。休暇で時々放送局に来た | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4) | ||
| 28 | 原太郎 | 放送局文芸班 | 1954頃 | 自由日本放送 | 文芸班に所属 | わらび座団長 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4) | |
| 29 | 中村翫右衛門(三代目) | 前進座 | 1952–1955 | 北京・頤和園休養所 | 1953年夏の休養所で会い、早口言葉を披露。密出国の経緯は伝聞 | 1960年代に前進座北京公演 | 直接+伝聞 | 2(5) | |
| 30 | 亀田東伍 | 労組活動家 | 1952 | 北京 | 平和会議等に出席。姿をたまに見かける程度 | 直接+伝聞 | 2(5) | ||
| 31 | 金子健太 | 党労働部長 | 1952 | 北京 | 同上 | 直接+伝聞 | 2(5) | ||
| 32 | 紺野与次郎 | 所感派・国内残留組幹部 | 1953末–1954 | 北京機関→モスクワ | 北京機関で姿を見かけ、のち消える。モスクワで六全協原案(伝聞) | 直接+伝聞 | 2(6) | ||
| 33 | 宮本太郎 | 所感派・国内残留組幹部 | 1953末–1957 | 北京機関→モスクワ→北京 | 紺野と同様。1956年以降も機関に残留 | 直接+伝聞 | 2(6)(8) | ||
| 34 | 河田賢治 | 所感派・国内残留組幹部 | 1953末–1957 | 北京機関・党学校副校長 | 同上。1957年夏、袴田と共に帰国 | 直接+伝聞 | 2(6)(8) | ||
| 35 | 袴田里見 | 国際派幹部 | 1954秋–1957夏 | 北京機関 | 放送局の主たる指導者。ソ連人秘書2人。バレーボール・ドミノ。東北旅行 | 1957年夏帰国 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(6)(8)(9) | |
| 36 | ペトロフ(ほか女性1名) | 袴田のソ連人秘書 | 1956–1957 | 北京機関 | 30歳代。秘書が付いた理由は不明 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(8) | ||
| 37 | 石井孫三郎 | 東北組(鶴崗)→党学校→モスクワ党学校 | 1957–1959 | 北京・モスクワ | モスクワ党学校に派遣された例として挙げる | 帰国後『世界政治資料』責任者 | 伝聞 | 2(8) | |
| 38 | 林麗韞 | 中共中央対外連絡部 | 1956、1966 | 東北旅行・日中両党会談 | 1956年東北旅行と1966年両党会談の通訳 | 1972年日中国交回復交渉の通訳 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(9)、4(2) | |
| 39 | 王進喜 | 大慶油田 | 1956 | 大慶 | 油田見学で話を聞く | 「鉄人」労働英雄 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(9) | |
| 40 | 川越敏孝 夫妻 | 外文出版社 | 1956–1960年代 | 北京 | よく自宅を訪ね議論した | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1) | ||
| 41 | 高野広海 夫妻(妻・谷内百合子) | 北京放送局 | 1956–1960年代 | 北京 | 世話になった。北京細胞の書記 | 2008年死去(註5) | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1)、註5 | |
| 42 | 鈴木重歳・児玉綾子 夫妻 | 北京大学日本語教師 | 1956–1960年代 | 北京大学 | 筆者の母が住み込みの家政婦 | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1) | ||
| 43 | 徳田たつ | 徳田球一夫人 | 1955、1960頃 | 北京 | 1955年の追悼会に出席(伝聞)。1960年頃、同じ招待所に住む | 直接+伝聞 | 2(4)、3(1) | ||
| 44 | 西沢ミラノ | 西沢隆二の娘 | 1960頃 | 北京・西直門の招待所 | 同じ招待所に住む | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1) | ||
| 45 | 井出潤一郎の夫人と子 | 『赤旗』ハノイ特派員の家族 | 1960年代 | 北京・西直門の招待所 | 同じ招待所に住む | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1) | ||
| 46 | 西園寺公一 一家 | 1960年代 | 北京・東交民巷 | ピンポン、食事。日本映画の上映会を世話 | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1) | |||
| 47 | 河邑重光 | 北京週報社 | 1960年代 | 北京 | 西園寺家に同行 | 後に『赤旗』編集局長。両党決裂後早々に帰国 | 直接(本人が目撃・接触) | 3(1) | |
| 48 | 酒井貞吉の息子 | 党派遣留学生 | 1963–1965 | 北京語言学院 | 中央幹部の子として留学 | 名前の列挙のみ | 3(1) | ||
| 49 | 藤井貞治の娘 | 党派遣留学生 | 1963–1965 | 北京語言学院 | 同上 | 名前の列挙のみ | 3(1) | ||
| 50 | 田代文久の娘 | 党派遣留学生 | 1963–1965 | 北京語言学院 | 同上 | 名前の列挙のみ | 3(1) | ||
| 51 | 聴涛学 | 党派遣留学生 | 1963–1965 | 北京語言学院 | 聴涛克巳の息子。一家で来ていた | 名前の列挙のみ | 3(1) | ||
| 52 | 村山孚 | 外文出版社 | 1963–1965 | 北京 | 対日宣伝活動に協力 | 名前の列挙のみ | 3(1) | ||
| 53 | 高野好久の夫人 | 外文出版社 | 1963–1965 | 北京 | 『赤旗』特派員の妻 | 名前の列挙のみ | 3(1) | ||
| 54 | 岡田文吉 | 人民艦隊隊長・中央委員 | 1950年代、1964 | 日中間・北京 | 人民艦隊の隊長(伝聞)。1964年訪中時に直接会う | 1966年に憤死と言われる(伝聞) | 直接+伝聞 | 3(5)、註6 | |
| 55 | 西沢ナポリ | 西沢隆二の息子 | 1963頃– | 北京の招待所 | 中国の学校に通う | 直接(本人が目撃・接触) | 3(5) | ||
| 56 | 宮本顕治 | 日共書記長 | 1959、1966 | 広州・北京・ハノイ・上海 | 1959年毛沢東会談(伝聞)。広州の邸宅。1966年代表団に筆者が通訳随行 | 直接+伝聞 | 3(3)(5)、4(2) | ||
| 57 | 宮本太郎(宮本顕治の息子) | 1960年代 | 広州 | 広州の邸宅に約1年。筆者の母が保母 | 直接+伝聞 | 3(5) | |||
| 58 | 砂間一良 | 日共北京代表・中央委員 | 1965–1967 | 北京・第18招待所・北京空港 | 筆者が秘書兼通訳。1967年初め決裂。8月3日空港事件 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(1)(2)(7) | ||
| 59 | 紺野純一 | 『赤旗』特派員 | 1967 | 北京空港 | 空港事件で糾弾された | 直接(本人が目撃・接触) | 4(7) | ||
| 60 | 川口孝夫 | 田 | 四川組リーダー | 1967夏 | 北京・中連部招待所 | 四川組と会い、山口県左派と交流 | 1956年夫婦で中国へ | 直接(本人が目撃・接触) | 4(6) |
| 61 | 鶴田倫也 | 四川組 | 1967以降 | 北京外語大学 | 後藤篤志の著書による | 日本史教科書を編纂 | 註(編者)・文献 | 4(6) | |
| 62 | 佐藤博 | 四川組 | 1967以降 | 四川省 | 後藤篤志の著書による | 中国人と結婚 | 註(編者)・文献 | 4(6) | |
| 63 | 村上国治 | 札幌市党委員長 | 1952– | 札幌 | 白鳥事件で逮捕・裁判闘争 | 名前の列挙のみ | 4(6) | ||
| 64 | 福田正義 | 『長周新聞』主幹 | 1967以降 | 日本 | 筆者の帰国後の上司。母の告別式で言葉を贈る | 直接(本人が目撃・接触) | 5 | ||
| 65 | 朱徳 | 中共 | 1953、1966 | 北京 | 徳田の仮葬儀に来たのを目撃。1966年の集会に出席 | 直接(本人が目撃・接触) | 2(4)、4(2) | ||
| 66 | 毛沢東 | 中共 | 1955、1966 | 北京・上海 | 徳田追悼の題字。1966年上海会談(不参加・伝聞)。第2次交流団会見に同席 | 直接+伝聞 | 2(4)、3(6)、4(2) | ||
| 67 | 周恩来 | 中共 | 1966 | 北京 | 1966年3月26日の歓迎集会に出席 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 68 | 劉少奇 | 中共 | 1966 | 北京 | 日中両党会談の中共代表団団長 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 69 | 鄧小平 | 中共 | 1966 | 北京 | 両党会談に出席 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 70 | 彭真 | 中共 | 1966 | 北京 | 両党会談、歓迎集会で演説 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 71 | 康生 | 中共 | 1966 | 北京 | 両党会談に出席 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 72 | 廖承志 | 中共 | 1965–1966 | 北京 | 両党会談に出席。1965年交流団への発言は伝聞 | 直接+伝聞 | 3(6)、4(2) | ||
| 73 | 呉玉章 | 中共 | 1950年代 | 党学校 | 党学校の名目上の校長(伝聞) | 中国人民大学学長 | 伝聞 | 2(7) | |
| 74 | 連貫 | 中共中央対外連絡部 | 1950年代 | 党学校 | 党学校の副校長(伝聞) | 伝聞 | 2(7) | ||
| 75 | レ・ズアン | ベトナム労働党 | 1966 | ハノイ | 日越両党会談の団長 | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 76 | ホー・チ・ミン | ベトナム | 1966 | ハノイ | 会談に現れ、支援の団結を求めた | 直接(本人が目撃・接触) | 4(2) | ||
| 77 | 中西功 | 中川四郎の同級生として註で言及 | 註(編者)・文献 | 註2 | |||||
| 78 | 杉本一夫(前田光繁) | 戦後 | 東北 | 和田真一と日本人労農学校を開設 | 註(編者)・文献 | 註1 | |||
| 79 | 林弥一郎 | 牡丹江航空学校教官 | 戦後 | 牡丹江 | 註で言及 | 註(編者)・文献 | 註1 | ||
| 80 | 水野正昭 | 中共軍に留用 | 戦後 | 東北 | 和田の経歴の出典となる回想の筆者 | 註(編者)・文献 | 註1 | ||
| 81 | 河崎保 | 人民艦隊組・アナウンサー | 1950年代 | 自由日本放送 | 放送設備についての証言(元東宝俳優) | 註(編者)・文献 | 註4 |
注:宮本太郎は2人(所感派幹部と宮本顕治の息子)。背景説明でのみ言及される人物(スターリン、浅沼稲次郎など)は除外。「後の経歴」は本文の記載の要約。
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