紀州犬物語165 白い犬は遠くの不思議なことをみる眼差しをしていた(横田俊英)
(タイトル)白い犬は遠くの不思議なことをみる眼差しをしていた
(サブタイトル)子犬が母親の背中からコロリと転がる3年前の風景
第165章 白い犬は遠くの不思議なことをみる眼差しをしていた 執筆 横田俊英
(本文)
犬の体を洗ってやった。大きなカーポートで覆(おお)った畳み2枚ほどの犬舎で暮らす犬は大型扇風機で風を送っても暑かろうという真夏のことである。体を洗ったのは居間に犬の毛が散らないようにするのと臭いを抑えること、そして体の清潔のためだ。
この犬は3年前にオスの子犬一頭を居間で生んで育てた。その後も元気に暮らして朝晩の散歩を楽しみに暮らしている。暑い夏を何気なく過ごしていると思っていたら、犬舎の段差を乗り越えるのに難渋していた。後肢に力が入らない。暑さにやられたか。それなら冷房の効いた居間に移そう。体を洗ったのはそのためだ。
居間にいれてからは食事を増やした。この犬は行儀よく食事をする。ガツガツと食べることはない。ぼそぼそと時間をかけて食べる。
食事を増やすと少しふっくらとした。元気になるかと期待した。何日か経っても後肢に力が入らないのはそのままである。排泄のために外に出る動作は緩慢(かんまん)だ。排泄は外でするのだとこの犬は決めている。丸一日それを我慢する。体が弱っても習性は変わらないから排泄をしたくなると玄関に歩いていく。
年齢は13歳と6カ月になっていた。後肢の筋肉の衰えは年齢からきた。日に日に力が衰える。
これまで食べていたドッグフードを口にしなくなった。肉なら食べる。濃いだし味の食べ物は食べる。食べると軟便になった。硬いしっかりした糞をする犬だった。軟便はよいとしても下痢は体力を消耗させる。
便のようすで食べる量を加減する。軟便と少しよい便とが繰り返す。そのうちに食事の量が減った。与えても食べない。
後肢の筋肉はさらになくなった。背筋が細った。前肢の筋肉はみえにくいのだが減っている。あばら骨が浮き立った。食べたものを消化しきれない。食べる量は少ない。さらに減っていく。
その食事量では体が維持できない。しかし食べることができない。やせ細る。やせ細るのと体の動きが衰えるのとが同時に進行した。寝言のような喘ぎのような声をときどきあげる。
排泄をしに外へでようとしてもその力がない。我慢しているのがわかるから抱きかかえて庭につれていく。下ろしてやると腰を落としてオシッコをする。便はあまりでない。二日にいっぺん、ときには四日にいっぺんになった。
居間には畳半分ほどの寝小屋をおいた。10cmほどの囲い板が付いている。居間で人が食事をすると首をあげる。寄ってきておねだりをする。居間に移してひと月が過ぎると首をあげるのがやっとになった。
体力が戻るかも知れないという期待はうすれていく。一日中横になっている。食事をするにも人が口元にもって行かなくてはならない。水もおなじだ。抱きかかえて庭で排泄させようとすると嫌がる。嫌がっても庭にだすとオシッコをする。そしてたまに便をするが軟便だ。
水は激しく飲む。一度に200mlも飲む。水をあまり飲まない犬であった。飲んだだけオシッコをするる。そのうちオシッコを我慢できなくなった。人用の紙おむつで腰をくるむ。日に何度もオシッコをしている。区切りをつけてオシッコをするのではない。だらだらとしている。
腰の力が弱くなったのをみて居間にいれた。ひと月が経つころには寝たきりになった。腰に手を当てると骨張っている。筋肉がない。呼吸がときどき速くなる。落ち着くこともあるが総じて速い。肺活量が落ちているからだ。体の筋肉が落ちた。筋肉が急になくなったぶん体を包む皮革が余った。張りがなくなっていて引っ張ると伸びてしまう。伸びたきりでなかなか戻らない。
横たわるようになってから介護をする人の手が嫌だということでとワンと吠える。それも何日か子のことであった。そのうちに人が近づくとメーメーと力なく啼いて相手をするように求めるようになった。
固い糞をすると肛門から血が出る。お尻には糞が付いたままになっていることがあるからそれを除去してやる。それでも肛門周りには糞が付いているから風呂場で洗い流す。風呂場に移しお湯で洗うことは弱った犬には負担である。恐る恐る洗う。肩の下あたりに血がにじんでいる。床ずれだ。進行しないように寝返りをさせる。
食事は摂らない。水は口元にもっていくとかろうじて飲む。そのような日が2日ほどつづいた。人におねだりをするときのメーメーの啼き声をださなくなってから5日は経過している。
ある朝にあらい呼吸をしていた。呼吸のたびに唇がぶるぶるとふるえる。いままでにない状態だ。口をあけると色の変化はない。あらい呼吸がつづく。頭をもたげてやった。やがて何ごともないように呼吸をやめた。居間に移してから45日が経過していた。
白い犬の横には写真がおいてあった。三年前に一頭だけ生んだオスの子犬が背中によじ登ってコロリと転がるようすが写してあった。白い犬は遠くの不思議な光景をみる眼差しをしていた。
一緒の家で暮らしている二頭のオス犬と、もう一頭のメスの犬に何の頓着(とんちゃく)もない。二頭のオス犬は子であり、メス犬は孫だ。犬たちは腹は減ればキューンと啼いて催促をする。オシッコをしたいから外に出せと小さな声をあげる。何をしても取り合わない。要求を取り下げて静かになる。散歩のときは嬉々としている。犬たちの暮らしぶりは何も変わらない。飼い主の顔をみて喜び散歩が待ち遠しい。犬と人の暮らしは何も変わらない。静かな一日が流れる。夜がきて朝になる。犬たちは秋の虫の音をどのように聞いているのだろう。
(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)
|