紀州犬物語163 犬人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。(横田俊英)
(タイトル)犬人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。
(サブタイトル)人がどのように思おうと犬は犬としての行動様式を貫く
第163章 犬人に寄り添って生活する。人と調和できる犬に育てる。 執筆 横田俊英
(本文)
紀州犬を飼う。普通の暮らしの人がありふれた状態で紀州犬を飼う。ありふれた状態とは紀州犬のその姿や伝えられる気性を求めてのことである。このような状態での犬の飼い方についてはこの物語が対象としている。前章の「紀州犬物語160章」で飼い方などに立ち入った。
紀州犬を飼う場合にその猟性能を求めてということがある。主にイノシシそして鹿のスポーツ猟をするための伴(とも)として紀州犬を求める。私のところから連れて行った紀州犬で猟をさせるという人は多い。近隣の人はその目的で子犬を連れて行った。
猟をさせるために子犬のころから仕留めたイノシシの毛皮を囓(かじ)らせているうちに猟をするようになった。子を摂るためにもう1頭連れて行った。
紀州犬は猟犬としての能力が尊ばれたことで残存した。それだからといってどの犬でも猟をするとは限らない。訓練をしてそれが上手くいったときに猟をする犬になる。そのように考えなければならない。その上での紀州犬の猟性能である。紀州犬には確率高く猟をする犬が出現する。猟だけを求めて交配を進めたからといって猟性能が備わるものではない。先祖犬の総合的な素性にもよる。血筋をちらばさないように丁寧に繁殖する。このことによって紀州犬の猟性能は高い確率で保存される。
犬の猟性能だけをも求めるのであれば犬種を問わず「猟をする」という一点だけで交配を繰り返す。そのなかには紀州犬の純血種もいることもある。紀州犬に半分以上他の犬種の血液が混じった犬がいる。他犬種に紀州犬の血液をいれることもある。猟だけを求めて繁殖された犬で紀州犬の姿に似たのがいる。この犬を紀州犬と呼ぶわけにはいかない。純粋種といえない血液の犬を紀州犬として登録した事例を知っている。それをやったら紀州犬と猟性能の関係に収集がつかなくなる。
紀州犬は断固として先祖伝来の血液を保存する。すべてはその上でのことだ。紀州犬の猟性能は確かである。
単純にイノシシ猟だけを求めれば西洋犬に紀州犬は劣ることがあるかも知れない。紀州犬が日本の風土で育ってきた犬である。紀州犬の素朴さはとくべつである。素朴さとは国語辞書は自然のままに近く、あまり手の加えられていないこと、素直で飾り気がないこととしている。犬の世界の解釈は少し違う。紀州犬にはが求められる。良性とは国語辞書は性質が良いこと、とする。犬の世界では子育てを含む総合した性質の良さと解釈される。
イノシシを追う前に犬同士がいがみ合っていては役にたたない。仲間の犬といがみ合わないことも良性に含まれる。
訓練を積んで猟の性能を育てていく。上手くいかない犬もいる。どのような世界にも確立ということが含まれ、標準偏差として描き出すと紀州犬は猟をする犬なのだ。特別に猟性能が優れたもの同士で繁殖しても血液の根底で標準偏差が働く。だから猟性能を求めても一朝一夕には結果を得ることができない。このことを別の言い方で表現すると紀州犬は猟性能に優れた犬であるけれども、それが特別な状態で発露する犬とそうでない犬もいるということになる。目的をもって勇んで犬を飼ってみたけれども当てが外れるということは頻繁におこる。猟ができなくても紀州犬は一緒に暮らせば素朴であり日本人の心に溶けこむ犬である。
縄文時代には犬は人に飼われていて猟の伴(とも)をした。弥生時代も同じである。時代が進んで昭和の第二次大戦の前後まで猟をすることによって命をつないできた犬がいた。紀州犬はそのような犬である。
犬を供にして縄文人は狩りをした。縄文人の食べモノは千種をこえる。千種の食材を縄文人は食べていた。草や木の実、貝や魚、獣(けもの)など千をこえる。現代人の食卓には30種がのぼればいいほうだ。食材は現代では商品になっていて特別なモノだけが商業生産され流通する。縄文人は食べるモノに詳しかった。自然のなかにあるもののすべてを食べたといってよいほどだ。自然と一体になっていて生きていた。千種以上の食材をより分けられる縄文人である。犬を養い訓練する知恵と能力は現代の普通の人よりはるかにすぐれてた。
山梨県の釈迦堂遺跡からは人には聞こえない高周波数をだす犬笛が出土している。犬を操るのにその笛を使った。高い周波数の音は遠くまで届く。5キロメートルぐらいの範囲であれば犬は聞き分けができたであろう。もっと遠くまで届くという人がいる。100キロメートル先まで届くというがどうだろう。現代のように雑音が少ない縄文時代には届いたかも知れない。
縄文の犬は暮らしがそのまま狩りと隣り合っていた。毎日が狩りの訓練であり実践の場である。狩りは人の生活でもあった。林のなかにつくった竪穴式住居には熊が出る。犬は熊を撃退した。熊を狩るのも縄文の犬の仕事である。犬の能力を侮(あなど)ってはならない。狩りは犬の生活そのものだった。狩りを犬が犬に教える。人もまた犬を訓練する。自然とともにあって森の中から動物性タンパク質を獲得するために縄文の人と犬は共同して作業した。
犬の帰家能力はよく知られている。アメリカ大陸を横断して元の飼い主のところに帰った話は有名である。鳥や獣は方位感覚をもっている。私の経験ではお産の後の子どもを離したその日に新しい飼い主に渡された母犬はリードを咬みきって一夜放浪して朝になったらその新しい飼い主のところに戻った。一晩子犬を探していたのだろう。
犬の使役犬としての能力は高い。訓練を受けて能力を備える。驚くほどの能力である。
犬は犬である。犬は犬の生活をする。犬の生活は人に寄り添う。現代においては特別な使役目的をべつにすれば紀州犬の場合でも家庭で普通に生活する犬だ。その犬の行動様式や犬の楽しみを理解して人と調和して生活できる犬に育てる。
(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)
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