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楽器としてのスピーカー
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 原則としては、スピーカーが優秀なら音はよく鳴るはずである。機種の異なるA、Bふたつのスピーカー・エンクロージャーがあって、Aは世評も高く優秀なら――当然、値段も高いが――Bに比して、すぐれたトーン・クォリティをもつと思うのが常識だ。解像能力で、あるいは高域(もしくは低域)の伸びのよさで、またプレゼンスでAはBにまさるはずなのである。

 でも実際は、そうは参らない。かけるレコードやテープによっては、優秀なはずのAよりむしろBが、音のまとまりよく、耳に快く響くことが現実にはある。レコードではなくアンプや、カートリッジを替えた場合も同様で、原則どおりにゆかぬ。そんな奇っ怪さ、物理特性を裏切る再生音というものの不思議さに呆然自失するところから、じつはオーディオの醍醐味――泥沼――がはじまると、私は思っている。人が音キチになるこれが発端だろうとおもう。

 私がスピーカーに血道をあげはじめたのは思えばずいぶん古いことだ。戦前、まだSP時代に、いわゆる電気蓄音器で音キチのスタートをきり、当時は最優秀といわれたウエスターン・エレクトリックや、ローラー、マグナボックスといった欧米のスピーカーを入手して、手製のキャビネットに納め、あるいは座敷いっぱいになる巨大なバッフル・ボードを自作して取り付けては、鳴らした。

 肝腎のソースが現在とは比較にならぬF特のわるい(ダイナミックレンジも狭い)レコードなのだから、よくなったところでタカは知れているようなものの、いささかでも改良して音がよくなるともう有頂天で、天下を取ったような気がしたものだ。

 2A3という当時はもっとも特性のいいと言われた真空管四本をつかった(ダブルプッシュ)のアンプで、ピックアップヘッド(カートリッジ)の磁石やゴムダンパーを替え、コイルを巻き替え、インピーダンスをあげるためのトランスなども特注した自家特製の装置で鳴らしていた。

 戦後、復員して日本へ帰ってみると、わが家は戦災で焼け野原になっており装置は跡形もない。以来、レコードを聴く心のゆとりがあるわけもなく、ひたすら食うものを求めて街をさまよった。ルンペンにもなった。

 ――それが、ふとしたことで或る人の知遇を得、その人の書斎でLPを聴かされた時は、こんなにもレコードの音はよくなっているのかと、息をのんで聴き入ったのを忘れない。昭和二十六年だった。なにひとつ私の身辺に心をなごませるものはなかった・戦後・――荒廃しきった私の内面にあった・焼跡・はこの時で終わった。私は人なみな生活を持ちたいと思い、自分もレコードを日常に聴ける人間になりたいと熱望した。

 定職にまずありつきたいとねがった。そういう意味で、私を立ち直らせてくれたのは思想でも、文学精神でもない。音である。いい音でレコードを聴きたいという願望だった。

 その人の紹介で、私は職に就くことができた。生まれてはじめて定収入というものを入手した。月収約九千円だった。当時の貨幣価値でも、これで妻と二人の間借り生活は苦しい。それでも自分で得た収入で生活できることにわれわれ夫婦は充実感をおぼえていた。

 ただし、当時LPはまだ輸入盤しかなく、それも一枚三千円で収入の三分の一である。とても買えない。もっぱらラジオの音楽番組をたのしんでいたが、安物のラジオだから音キチの私には不満である。せめてダイナミックスピーカーだけでも別に組んでキャビネットに納めれば見ちがえるほど音がよくなるのを私はむかしの経験で知っていた。

 たまたま、そのころパーマックスという六吋のスピーカーがラジオ店に出ているのを見つけた。二千八百円だった。われわれ夫婦の生活に二千八百円は無理な支出である。ひそかに質屋に通って生計を補ってくれる妻に、無理は言えない。

 といって、スピーカーはほしい。――そんな時、文学雑誌から短篇を書いてみないかと言われた。原稿料がもらえるのかとたずねたら出るという。ただし、掲載に価するできばえでなければならんぞ、と。

 それまで、自分好みなストーリーも何もない、散文詩のような小説ばかりを私は書いていた。言うまでもなく、まったく無名の文学青年だった。売文したくはなかったのだ。でも原稿料ではなくスピーカーが、この時の私はほしかった。

 私は書くことにした。掲載に価するもの――つまり「おもしろい小説」を生まれて初めて意図して、私は書きあげた。作品のプロットは、ドビュッシーの前奏曲第一集中の・西風の見たもの・からヒントを得たので、サブタイトルに・西風の見たものより・と書き添えたあたりに文学青年の私の名残がある。

 だがこれを見た編集長は、私が書く気になった理由を知っていたので、「・パーマックスがほしくて・と入れるのが本当じゃないか」と笑ったが、この短篇が、なんと芥川賞を受賞するという望外なことになり、おかげで私は文壇に出ることができた。かさねて言うが、この意味でも私を世に出してくれたのは、いい音で音楽を聴きたいという希いである。

 芥川賞を受けてからは、ようやく収入が多くなり、オーディオ部品にお金を注ぎこむことができるようになって、今日に至っているが、私の体験では、再生装置で最後にものを言うのはそのスピーカーシステムである。エンクロージャーである。

 身分不相応なまでに、私はさまざまなスピーカーを購入してきた。原稿の売れはじめた最初はグッドマンの十二吋だった。それから、久しくあこがれていたタンノイ・モニター15を買った。買った当座はすばらしいと思うが、いろいろレコードをかけるうちに、不満が生じる。そこで他のものを購入し、聴きくらべる。あとのがいいと思ったり、或るレコードの或る楽器の音色は前のがいいと思ったり……。

 泥沼に足を踏み入れたのだから心の安らぐことはないのが、この道の常なのはもう知りすぎているつもりでも、やっぱりうまく鳴れば狂喜するし、ちょっとでもわるいと飯も喉に通らぬほど憂鬱になる。

 どれくらい多くのスピーカーを私は買ったことだろう。思いつくままに名をあげても、ワーフデール、ステントゥリアン、J・B・ランシング、アルテック・ランシング、テレフンケン、フィリップス、サバ、後藤ユニット、YL音響、テクニクス、コロムビア、ヤマハ、パイオニア、ダイヤトーン、エレクトロボイス、ジョーダンワッツ、EMI、KEF、ブラウン、etc.……これらの機種を単体もしくはエンクロージャー(オリジナル)で購入したのはむろんだが、同じ機種にも製品のばらつきというのがあることを知って、よりよい音をもとめグッドマン Axiom 80 はつごう三個、タンノイ・モニター15を二個、テレフンケン・オッパスを二個余分にもとめた。わらってほしい、これでも私は満足できなかった男なのである。

 また、カットオフ周波数などというもっともらしい理屈をきかされ、低域を十全に再生するには口径のひろいコンクリートホーンが必要だ、とある有名な先生のご高説を拝聴すると、これも試みねばなるまいと思い、先生ご設計になるコンクリートホーンをつくって先生製作のマルチアンプシステムで鳴らしたこともある。(右の後藤ユニットはこの先生の推奨によるものだった。ちなみに、のちにテレフンケンS8型を入手して両者を聴きくらべ、立腹のあまりコンクリートホーンを私はハンマーで叩き毀したノダ)

 音というものは、いま私は断言できるのだが、たとえば一つのスピーカー・エンクロージャーの良否を識別するには、最低三年の歳月が必要である。ちょっと試聴したくらいで答は出るものではない。

 比較試聴してわかるのは、せいぜい二つのスピーカーの音色の差にすぎない。日ごろよく聴きこんだレコードを、それもまず十枚くらい(ピアノ曲、ヴァイオリン曲、それらの協奏曲およびコーラス、アリア、大編成のオーケストラ、チェンバー・オーケストラ、それに邦楽の三味線曲など)を、晴天、雨の日、深夜、朝、さまざまな湿度や寒暑の季節にわたって聴きくらべて、はじめて綜合的な良否は判別できるものだ。それぐらい、音色はさまざまな条件に左右される……物理特性だけで音楽美はつくり出されるものでないことを、三十余年、この道に血道をあげて私はさとった。

 つまり一機種の再生装置(とくにスピーカー・エンクロージャー)で、すべての曲の美しさやそのプレゼンス、生らしさを再現するのは無理であることを。マルチアンプのほうが単体で鳴らすよりアンプに無理がかからず、歪みの少ないのは自明の理である。2ウェイよりは4ウェイのほうが理論的にはいいにきまっているし、大口径のコンクリートホーンが出すのびやかな重低音は箱に納めたスピーカーからは絶対でてこない。そんなことはわかっている。

 だが、である。

 マルチアンプで4ウェイシステムをとったとき、トゥイーターとスコーカー、またウーファーの音色に微妙な差があって、どうかするとピアノ曲の低域はヤマハ、高域はスタインウェイのピアノを弾いているような違和感を、耳の敏感なリスナーなら感じるだろう。

 いかにピアノが生らしく響いても、ピアニストが右手、左手のピアノを弾いているがごときこの不自然さに平気でいられるためには、よほど鈍感な音楽への感受性が必要だ。そしてマルチアンプ・システムの場合――とくに自家製(トゥイーターはA社製、ウーファーはB社製といった)の場合、この違和感は不可避の現象となる。

 歪みなく鳴れば鳴るほど、現実に、すぐれたピアニストの生の演奏ではなくなっている。交響曲も同様で、NHK交響楽団とベルリン・フィルがごっちゃになって演奏するのだ。こんなバカなことがあろうか。どだい指揮者がいない。

 同じことはコンクリートホーンによる再生音にもいえる。拙宅の場合にかぎらず、高名な先生宅の音もそうだったが、虫のすだく声や消防車のサイレンは、まことに迫真的生々しさで聞こえるし、大オーケストラの強烈なffも歪みがない。この点は見事である。しかし、声の発源体がイメージとしてあらわれてこない。音響だけあって楽器がないのだ。

 虫の声なら、リーン、リーンとどこからともなく聞こえるのが本当だろうし、風情もあろう。しかし、音楽はちがう。シューベルトの歌曲を聴くとき、アルトやバリトンの声は歌っている歌手はどこにもいないのだ。――ふつう、ステレオでぼくらが音楽を聴くとき、前方壁面――左右二基のスピーカーをすえた空間に、音源を彷彿する。ステージに立つ歌手の口もと、その表情や姿が美声とともにイメージとして浮き上がってくる。

 プレゼンスのいい再生音ほどそうなので、でもコンクリートホーンにはこのイメージがない。声はすれど姿は見えず……幽霊である。オペラを好んで私は聴くが、幽霊の歌うフィガロなど真っ平だ。コンクリートホーンを叩き毀した理由であった。

 素人考えで言うことだが、このイメージの欠如は「指向性」に関係があるように思われる。無指向性をなにかオーディオで重要なことのように宣伝するスピーカー・メーカーがいるが、私は信用しない。指向性がつよいと、たしかに音のサービスエリアは限られ、極言すれば、立体感を十分にともなう音を聴ける位置はリスニングルームのただ一点にとどまるだろう。

 その一点から少しでも左右にずれると、右(もしくは左)の音が強くなり歌手は左右どちらかのステージへ寄ってしまう。コンクリートホーン(マルチウェイ)で再生すればそういうことはないし、部屋のどこで聴いても音のかたちは変わらない。

 しかし、である。他人様にいっしょに聴いてもらうために私はレコードを鳴らすのではない。つねに音楽を鑑賞するのは私ひとりであり、一点しかないサービスエリアの、最適の位置に坐れば十分なのである。わが家はコンサートホールではないのだ。(他人様にほめてもらいたくて音のグレードアップをするつもりは毛頭、私にはありません。)

 かくて指向性の強さなどまったく私は意にしないで、スピーカーを選択することにしてきた。結果、いまわが家に残っているのはタンノイ・オートグラフと、テレフンケンS8型エンクロージャーである。他はことごとく知人に進呈したり、物置へほうりこんでしまっている。

 タンノイ(Guy R. Fountain Autograph )については、ステレオ雑誌などに紹介記事がでているので説明は略すが、家庭でぼくらがレコード音楽、FM放送を聴くにまず過不足ない――むしろ十分すぎる音域の広さ、プレゼンスの見事さ、音色の気品ある美しさを聴かせてくれるエンクロージャーである。

 とくにクラシック音楽に向いているし、その弦のユニゾンの厚みと繊細さを響かせる点では右に出るものがない。不満は、折返しホーン型なので、どうかすると音に「ホーン鳴き」の伴うことだろうか。

 したがって、ピアノの音がふくらみすぎて聞こえる。タッチが模糊とした感じになる。これだけは憾みだが、ほかは申し分がないし、とくに人声のリアルなフィーリングは特筆に価するだろう。たとえば「マタイ受難曲」や「メサイア」で合唱メンバーを背景にバス、テノール、アルト、ソプラノ、と独唱者が4人並んで歌うとき、拙宅ではオートグラフを約五メートル幅の壁の両側にすえてあるが、その壁面にハッキリ一人一人が並び立って、別々の位置で歌ってくれる。

 そんな独唱者の立像はあたかも眼前に居並んでくれるようで、どれほどボリュームを上げてもその身長は決して巨大にならないし、ステージにしっかり両足をふまえている感じが見える。この臨場感は実に快い。

 S8型は、トゥイーターだけ(左右二個ずつ)別のキャビネットに納められて部屋の両端に立てるようになっており、スコーカー(これも左右二個ずつ)は棺桶ほどの大きさの単体キャビネットの両側に、やや外向けに納められ、ウーファーはただ一個、同じキャビネットの内側で床へ下向けに取り付けてある。

 おもしろいことにそれも右寄りで、左は、黒田家の九曜の紋さながらな穴を開けてあるだけだ。これで十分すぎるステレオ感をもつ低音が鳴るのである。言うまでもないだろうが、この棺桶キャビネットの重さは、大の男ふたりが辛うじて持ち上げられるもので、音響学的にどんな根拠で設計されたのか知らないが、小林秀雄先生が拙宅でこのS8型を聴かれ、コンサートホールの一番よい席で「これは聴ける音だ」と感心された。コンクリートホーンくそくらえの低音がこの棺桶から聞こえてくるのだから不思議である。

 要するに、さまざまなスピーカーをいじって私の痛感したことは、音楽を響かせるのは単体スピーカーのコーン紙ではなく、トゥイーターやウーファーでもなく、エンクロージャー全体であり、さらに言えばリスニングルームそのものということだった。部屋の音響条件が変われば同じスピーカーが別ものに聞こえることだってある。

 どこにスピーカーをすえるか、その位置をいろいろ移動させ、主に低音の鳴り方を考慮するのだが、ピタッとそれがツボにハマって、うまく低音の響いてくれた瞬間の快感は、これぞオーディオ狂の陶酔の最たるものだろうと思う。コンクリートホーンが低域に効果があることはわかりきっている。

 だが家屋をぶち抜き、あるいは新築してそんなものを誰もが建てるわけにはゆかんのだ。家庭の事情――経済事情?――のゆるす範囲内で、ぼくらは音楽を聴かねばならぬ。グレードアップをはからねばならぬ。その切なさ・無念さを誰だって胸に秘め、少しでも音をよくしようと苦心惨憺しているのが日本のオーディオ愛好家の姿ではないのか?

 私は、経済的に多少めぐまれた条件下にあり、めぐまれた条件をフルに活用してオーディオ装置をいじり、グレードアップを心掛けてきた。その私が、いま言えることは、いかに莫大な費用を投じ物理的条件を満たしても、測定器がどんな数値を出していてもどこかに生にはかなわぬ不満な音は生じるということだ。

 いつも私は思うのだが、大編成のオーケストラが響かせるff音のエネルギー――ベートーヴェンの交響曲にあっては、「現代のオーケストラの途方もない爆発力をもってしても色褪るほど、強大でなければならぬ」とフルトヴェングラーに言わせた「運命」のあのフォルティッシモのエネルギーが、スピーカーのコーンやジュラルミン振動でだせるわけはないのである。開口部二メートル余のコンクリートホーンだってしょせんは五十歩百歩なのだ。

 それなら、少々低音はこもりがちで、一万ヘルツあたりに粒子の荒さが感じられても、仕方のないことである。肝腎なのは唯物的な音ではなくて、音楽をぼくらは鑑賞することを忘れてはなるまい。現在のレコードに刻まれたトーン・クォリティは、また市販されるオーディオ部品の高級なものは、ほぼ、こうしたぼくらの要求を満たす程度には音質を保証してくれている。

 A機種が特別よくて、Bがわるいというようなことはまずない。したがって、あとは各人好みの音色で聴くこと、聴くための部品を選択することだ。

 カートリッジ、テープデッキ、アンプにもこれは言えるが、とりわけスピーカー・エンクロージャーが音色を決定づける大きな働きをなすと思えるので、本稿はスピーカーを主にまとめてみたまでである。

 四十年余の、わが音キチの人生をかえりみて、私は言う。再生装置で最も重要なのはスピーカーを選ぶことである。それをどんなシステムで鳴らすかである。それによって自ずとカートリッジやアンプ、チューナーは選択される。だが、どれほど装置に大金を投じようと、唯一絶対な装置というものはない。

 聴きこめばかならず不満はでてくるのである。

 ならば、グレードアップに無理をすることはあるまい。コンクリートホーンなど、だまされても造ってはならぬ。そんな閑があればいい音楽を、演奏を一度でも多く聴くことだ。自らを省みて、ラジオアンプに六吋のスピーカーをつなぎ、息をひそめて名曲を聴いた貧乏時代の私と、贅を尽したオーディオ装置をもついまと、どちらが真に純粋な音楽の聴き方をしているだろうかと思うのだ。

 装置を改良し、いい音で鳴ったときの喜びはたとえようもない。まさにオーディオ狂の醍醐味である。しかし、すぐれた音楽を聴くときの感動や悦びはそれにまさるものだ。音楽には神がいるが音には神はいない。

 決定的なこの違いをまず知らぬようで音質を改良して何になろう。そして神を見いだすことは、いまのきみの装置――FM受信からだって可能なのである。

 名曲を諸君、聴こうよ。

楽器としてのスピーカー 五味康祐。

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(スピーカーが欲しくて書いた『喪神』(関白秀次の死と妖術家・玄雲斎の結び付けた短編)で第28回芥川賞
(1952年下期)を松本清張の『ある小倉日記伝』と同時に受賞した。そのエピソードが書き込まれている)
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