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品質工学座談会
「矢野宏先生 追悼座談会 恩師との出会いと学び」

NMS研究会 日本計量新報座談会 開催日2023年10月7日 場所 品質工学会会議室

Quality Engineering Roundtable: What I learned from Dr. Hiroshi Yano

品質工学座談会 「矢野宏先生 追悼座談会 恩師との出会いと学び」

品質工学座談会 「矢野宏先生 追悼座談会 恩師との出会いと学び」(計量計測データバンク)

品質工学座談会 「矢野宏先生 追悼座談会 恩師との出会いと学び」(計量計測データバンク)

品質工学座談会 「矢野宏先生 追悼座談会 恩師との出会いと学び」

品質工学座談会-機能性評価と計測-2023年10月7日開催

 
この座談会は品質工学の理論と手法の確立に貢献し普及に努めた矢野宏博士の教え方を含めて交流を語ることを通じて、品質工学の本質に迫ろうと試みられたものである。品質工学における機能性評価とは、多くの品質特性を一つ一つ評価するのでなく、製品やシステムの本来の働き(機能)を評価しようというものである。顧客の使用条件や環境条件の違いによって、その働きがどれだけ影響されにくいか、あるいはばらつきにくいかの程度(機能性)を、SN比という一つの測度で表現する。品質特性の多くは弊害項目(悪)や使用条件差に類する項目であり、いずれも本来の働きが変化したり、ばらついたりすることによって生じる。機能が十分に発揮されていないことが本質的な問題で、機能性が優れていれば、必然的に複数の品質特性も改善されるという、品質工学で機能を扱うときの重要な考え方の一つである。

出席者

鴨下 隆志氏 応用計測研究所
吉澤 正孝氏 クオリティーディープマーツLLP
高橋 和仁氏 神奈川県立産業技術総合研究所
高田 圭氏 エプソン株式会社
畠山 鎮氏 YKK株式会社
田村 希志臣氏 コニカミノルタ株式会社
細見 純子氏 中部品質管理協会
坂本 雅基氏 花王株式会社
常田 聡氏 元日精樹脂工業株式会社
細井 光夫氏 株式会社小松製作所
上杉 一夫氏 上杉技研
見原 文雄氏 日本能率協会コンサルティング
田中 公明氏 トヨタ自動車(株)
小川 豊氏 東芝エレベータ株式会社
中根 義満氏 先端技術株式会社
吉原 均氏(司会) キヤノン株式会社

表題-1-矢野宏先生の計量研究所初期のエピソードから

吉原 均氏(司会)


 本日の座談会は、矢野宏先生の追悼を兼ねた特別な会となります。今日は、矢野先生の遺志を称え、品質工学の未来に向けた使命を共有し、決意を新たにする場と位置づけています。

 この座談会を通じて、矢野先生に対する感謝を示し、未来に向けた展望を共有しましょう。座談会の進行について、通常はテーマに関するエピソードを参加者が発表する形式を取ってきましたが、今回は鴨下先生が参加できないため、鴨下先生から提供いただいた矢野先生の計量研究所初期のエピソードを紹介したメールを音声で皆さんと共有し、それを出発点として、2時間の座談会を進行させていきます。どうぞよろしくお願いいたします。

鴨下 隆志氏(メール参加)

 鴨下です。連絡ありがとうございます。矢野先生の訃報を知ったのは、1月30日の夜でした。突然のことで、1月31日の告別式には時間的に無理でしたのでそのあとの代々幡葬祭場に何とか間に合わせることができました。ご家族のみというところでしたが、ご無理をお願いした次第です。

 当日の座談会につきましては、私の参加は無理ですので、あまり知られていない矢野先生の計量研究所における初期の研究について、ごく簡単に紹介します。参考になれば幸いです。

 計量研究所における矢野先生の最初の研究はロックウェル硬さ試験における標準の設定に関する研究でした。標準であるから、絶対値を担保しなければならないため、通常の計測の研究よりも、多くの困難を伴うことは想像に難くありません。ロックウェル硬さの標準設定の研究で感じたことは、一般の計測とは異なり、極めて繊細な仕事であるということです。硬さの測定に影響を与えると考えられるあらゆる誤差条件を管理し、そこから生じる計測の誤差を、誤差要因ごとに見積もるという、今の不確かさの考え方を先取りしたものでした。

 当時の硬さの実態は、大学、試験所、協会、メーカ等で大きな差があり、どの値が正しいのかの判断基準がない状態でした。そんな中で、国鉄(現:JR)が、新幹線の開発に伴い計量研究所のロックウェル硬さを採用しました。決め手は、田口実験計画法を駆使した、前述した不確かさの考え方の合理性・信頼性・透明性にあったのではないかと思います。(矢野先生自身は、ISO不確かさの考え方については、何をいまさらとの思いが強かったと思います)。

 硬さ標準の研究が一段落して感じたことは、このような特別な計測の世界ではなく、もっと一般に役立つ計測の研究をすることが重要であるとの思い強くしたのではないかと推察します。計測は、特別の測定者が特別の装置を用いて行うのではなく、通常の現場の過酷な条件であっても、正しい値が求められなければならないとの考え方です。

 そのようなときに、田口先生と運命的な出会いがありました。計測のロバスト性の確保という自分の思いと、田口先生のパラメータ設計の考え方に強い共感を得たのだと思います。硬さの研究で、田口式実験計画法を利用していましたが、直接の出会いはこの時が初めてだと思います。ロックウェル硬さ標準の研究のその後につきましては、多くの著書を通して知られています。さらに退官後、オーケンには三顧の礼で迎えられ、品質工学の第一人者になられたことはすでに皆さんがご存じの通りです。

 田口先生は、計測について以下のように述べています。「科学・技術の発展の70%は昔から計測技術の発展によるといわれている。確かに、硬さの計測ができても硬さの改善はできない。しかし、硬さを精度よく計測できないなら、硬さの改善を能率よく行うことはできない。硬さの改善をするのは技術だが、改善はその場、その場の技術改善という仕事であるが、計測は常に必要な技術で、計測法は国際的に標準化する必要があることになる。硬さの計測は硬さの改善に未来永却役立つ評価の技術である。改善という仕事は専門技術の分野ではあるが、毎回、別々に行われる研究で積み重ねの仕事である。計測そのものが科学技術の研究で重用視される理由である。」(出典:田口玄一、マネジメントのための品質工学(11) 商品と技術の創造性のためのR&Dの組織、品質工学8-6(2000))。

吉原 均氏(司会)

 このようなところから、矢野先生の品質工学に対する取り組みの物語が始まったと思われます。皆さん、忌憚ないご発言をお願いいたします。

吉澤 正孝氏

 鴨下さんがお話しになったのは、先生が入所された頃のことでしょうか。1960年代のお話ですね。私は70年代に入ってから研究に参加しましたが、その頃にはすでに矢野先生と田口先生はご一緒になっていらっしゃいました。

 鴨下さんはお二人の出会いの時期をご存知なのでしょうか。私は73年から経営管理誌に実験計画のシリーズを投稿させていただきましたが、それよりもずっと前のことですから、やはり60年代ということになりますかね。

畠山 鎮氏

 新幹線が開通する前の話ですね。

高田 圭氏

 私も1960年代初期くらいのことだと思います。硬さを測定する方法について、詳しく説明されていた本を読んだことがあります。当時は、田口式実験計画法がまだ普及していなかったのでしょうね。

吉澤 正孝氏

 鴨下さんがおっしゃったように、矢野先生は田口先生と出会う前から実験計画を実践されていたのでしょうか。

田村 希志臣氏

 「硬さ標準設定の経験を通じて」という記事が(株)アサヒ技研のホームページに掲載されています。ここに、1960年に国鉄が新幹線のベアリングの硬さ基準として計量研究所で策定されたロックウェルCスケールの硬さ標準を採用したとあります。つまり、硬さ試験の研究は少なくとも50年代から始まっていたということですね。田口先生との出会いはその後だったと思われます

吉澤 正孝氏

 1960年代半ばくらいになるのでしょうか。

吉原 均氏(司会)

 今日お集まりいただいた皆さんの中では、矢野先生が硬さ試験の研究を開始されたころは吉澤さんだけがお生まれになっていましたね。

吉澤 正孝氏

 私の記憶では、1973年ごろだと思いますが、実験計画法のセミナーが20日間ほどあったような気がします。その時、矢野先生から講義を受けた記憶がありますが、正直なところ、その当時の先生のことはあまり覚えていません。私は後に講師として登壇することになり、その中で横山先生や馬場先生といった先生方との印象は鮮明ですが、矢野先生については曖昧です。そんなことを考えてみると、どうしてその前の記憶があまりないのか、正直よく分かりません。

田中 公明氏

 私は新幹線の時代に生まれた世代で、新幹線が開業されたのは1964年です。つまり、私の生まれ年は64年です。これから考えると、実験計画法が一般的になったのはその前になるため、そのことを知っているのは自然なことかもしれません。

吉澤 正孝氏

 そうだね。その前から実験計画法は存在していたんだろうね。

田中 公明氏

 田口先生の実験計画法第1版がいつ出版されたかはよく分かりませんが、増山先生などがその前に実験計画法を広めていた可能性が高いです。当時、海外では実験計画法自体があまり一般的ではなかったようです。

吉澤 正孝氏

 田口先生が実験計画法第1版を出版する前に、住友電工で手刷りの実験計画法のテキストが約千部発行されていたんです。これは住友電工での社内講義の成果で、その講義メモが第1版に反映されていると思われます。当時、電電公社にいたため、そのテキストをどこかで手に入れたのかもしれませんね。

田中 公明氏

 確かに、昔は情報の共有が簡単ではなかったため、手刷りやコピーによる情報共有が行われていた時代です。

吉澤 正孝氏

 私の印象としては、矢野先生が田口先生に会った後に急速に実験計画法を学び、信奉者になったのかなと思っていたのですが、実際にはその前から実験計画法についてかなり知識があったようです。実験計画法の普及は緊急の事項だったのかもしれません。

田中 公明氏

 私が実験計画法を初めて知ったのは昭和50年代で、当時、田口先生は実験計画法の第一人者とされていました。

 ただし、実験計画法といえば、SN比などの関連事項ではなく、直交表を基にした実験計画法が一般的に広まり、田口先生だけでなく他の著名な研究者による著書も出版されました。

 当時は田口先生の名前だけでなく、さまざまな人による実験計画法の本が出版され、田口流という言葉で区別されていました。

高橋 和仁氏

 当時のことを調べてたんですけど1965年とかに矢野先生の上司、山本健太郎先生ですね。そのぐらいに実験計画法で硬さの標準が設定できるかというふうに取り組んでたみたいなんですよね。だから山本先生の影響もあったのかもしれない。そのぐらいのまあ、工業標準設定っていうのに取り組まれていました。

 あと電通大のほうで昔矢野先生のドクター論文を見たときあるんですよ。

 鴨下さんのやつも見たんですけど、硬さ標準片を標準化して統計量ですから、ばらつきのない標準試験片をどう評価して作るかっていうのが先生の考え方ですね。

 だから試験片に硬さで初めはちょっと詳しいのはもっと調べなきゃいけないと思うんですけども、そういうのはドクター論文をこうやってやられてどっちかと言うと、そこはアサヒ技研だったっけ。

 それが当時計量研のお抱えの熱処理会社なんですけども、そこで一緒に共同開発して、硬さがARC65でちゃんとバラつきない。

吉澤 正孝氏

 世界的にそこの企業は標準試験を全部作ってるような感じですね。

高橋 和仁氏

 それが当時の産総研のレベルとして評価されたっていうわけです。

吉原 均氏(司会)

 品質工学学会のホームページに矢野先生のご経歴が掲載されています。

 先生自身が工学博士の学位を取られたのは71年で、研究テーマはロックウェルの硬さ試験機の精度向上に関する研究というものでした。試験機の精度向上というところが計量研ならではという感じですね。JRに採用と言わせた頃はまだ博士号を取る前で、頑張っていたということですね。

吉澤 正孝氏

 論文としてはそうだけど、学については、産業界の影響を受けた実績も総合的に評価されたということですね。

吉原 均氏(司会)

 では、ここからですね、それぞれの矢野先生との思い出を話していただくような形で、少し話を広げていきたいと思います。そういう意味だと今日集まった中で、矢野先生と一番古い付き合いは高橋さんですね。高橋さんから、今度は矢野先生の思い出という切り口でお話しください。

表題-2-矢野宏先生の電気通信大学時代

出席者
鴨下 隆志氏 応用計測研究所
吉澤 正孝氏 クオリティーディープマーツLLP
高橋 和仁氏 神奈川県立産業技術総合研究所
高田 圭氏 エプソン株式会社
畠山 鎮氏 YKK株式会社
田村 希志臣氏 コニカミノルタ株式会社
細見 純子氏 中部品質管理協会
坂本 雅基氏 花王株式会社
常田 聡氏 元日精樹脂工業株式会社
細井 光夫氏 株式会社小松製作所
上杉 一夫氏 上杉技研
見原 文雄氏 日本能率協会コンサルティング
田中 公明氏 トヨタ自動車(株)
小川 豊氏 東芝エレベータ株式会社
中根 義満氏 先端技術株式会社
吉原 均氏(司会) キヤノン株式会社

高橋 和仁氏

 思い出ですか。ありすぎてありすぎてというか、矢野先生の訃報を聞いて当時のことが鮮明によみがえってくるという思いなんですけども、矢野先生との出会いが要は品質工学の出会いというか、代わりに今日も多いかと思うんですけども1994年ですね。

 当時私が電気通信大学の要は国立大学だったので、文部科学委員会っていうのをやっていたんですよ。19歳の時ぐらいに研究室に新しい先生が来るっていうので、真っ新な人が欲しいとかっておっしゃってたんで若くて真っ新な人が欲しいっていう白羽の矢が立ってですね。梶谷先生だったかな、紹介があったっていうのが矢野先生とお会いする始めなんですね。

 1994年から学生が6名ぐらいですかね。ついたんですよね。矢野先生は1994年から3年間在籍されたんですけども1993年に品質工学フォーラムを立ち上げて1年目ぐらいだったから、多分すごいお忙しい時期だったと思うんですけども。

 やっぱりお忙しくて、週に2回ぐらいですかね。授業がある日だから、授業は統計数学とか計測工学、後期は品質工学特論っていうのを大学院で教えてたんですよね。

 その時に来て、授業をすると同時に研究打ち合わせをやったということですね。あとは、研究スタイルとしては企業の人と共同研究ということでやってたんで、よく研究室の方に企業の方がおられてましたよね。

 あと、鴨下さんとか計量研のメンバーに引き継いで、テーマにされて一緒に研究をしているというスタイルですね。お忙しい方なので、ほとんど打ち合わせの時とあとはFAXですよね。当時FAXでほぼ毎日やりとりしてましたね。あらすじっていうか、それを1ページぐらい書いてて。あとはSN比の数式ですよね。計算をやっといてっていうような形で、それを要は品質工学の本を見ながら解析していくという。

 1年目としてはちょっとこれやってくださいって言われたのが、計測の測定能力の評価っていうのを取り組んでたんで、真値不明のエッセンシーをはじめに教えてもらったっていうのが記憶に残っています。あとは2年目からとかっていうのはちょっと高橋さんやってくださいって言われたのが切削加工の電力評価ですね。これをちょっとやってくださいって言って、要はエネルギーの考え方で加法性が成り立つように、4年生と一緒にいろんな計算法を試してやってみたっていうのがありますね。

 あとは火災報知器の頃、MTですね、マハラノビスの距離を僕は当時1995年ぐらいに始めたんで、田口先生の指導の下で日科技連にいて、田口先生と矢野先生と格闘していたんですね。

 当時学生は田畑さんとか私とかいて、マハラノビスの距離が出始めのところの研究をやったっていうのをすごく覚えていますね。研究に関してはそんなことなので、矢野先生のスタイルっていうのが必ず学生には論文を書くとあとは発表するということになっていたんで、当時の学生が3年で、高田さんとか畠山さんとか、あとは埼玉高大の川田先生とかが3名ぐらいいて、今も私も含めると4名ぐらいですかね。

 続いててあとは34名ぐらい電通大の教え子がいますよ。そのうち、論文化されたのが20何本ぐらい論文化していますので、すごい効率の良いことをやったんだか何かなって思って大変でしたけども、そういうことが思い出させます。

 よく矢野先生が言われてたんですけども、1/10ルールとか言って、品質工学を教えても実践して残るのは1/10ぐらいじゃないかなって当時話したことを覚えています。ちょっといろいろとまとまってないんですけど、そのようなことが思い出されたというかありますね。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。この流れで行きましょうか、次は畠山さん。

畠山 鎮氏

 私の方はどちらかというと劣等生でした。元々、電通大に矢野先生がいるって知らないで、入学したのです。電通大にはロボットやろうと思っていったのですが、入ってみるとロボットに向かないということが分かって落ち込んでいたのです。

 そんな時、矢野先生の統計数学の授業を受けていたのです。矢野先生の授業では授業が終わるときに質問カードというのを出すんですよ。学生がいろいろとその授業の感想とか質問を書いて出すのです。その次の授業のときに先生がその講評をいろいろするんです。

 例えば、矢野先生の字が汚いとか書いた学生がいたときにすごく覚えてるのは、「君たちは何をしに学校に来ているのだ。」と、「大学は研究機関であって、教えるところじゃない。教授は研究者だ。お前たちは自分で勉強する意思がないのか。」と言って、最初から激怒してたっていうのを覚えてて、さすがだなと今思うと感じるところがあるんです。だから生徒におもねるんじゃないんです。

 ただ、すごい真剣に教えてくれていて、統計数学という授業で、レポートを書いて出すときに自分たちの考えをまとめて提出することがありました。そのときに矢野先生が、「答えは間違ってるけど、君の考え方は面白い。」といってくれて、すごい印象に残ったのです。

 そこで僕はちょっと勘違いして、こっちの分野に行ったら良いのではないかと思い、矢野先生の授業を積極的に受けました。その結果なんとか勘とか矢野研究室に潜り込みました。

 やっぱり矢野先生がすごいなと思ったのが、先ほど高橋さんからもあったように、企業との共同研究を僕らは当たり前のようにやらせてもらいました。今、それができる人たちはどれくらいいるのか、むしろ授業も大学も全てコラボで、これって何ですかね、やっぱり、権利とか機密の問題とか、そういうものをどうやってクリアしてやってたのかというのを改めて思います。

 そういう意味では、先生が真っ当な話をして。あなた発表しなさいと激を言って、言われた方もやらなきゃいけないんだって、何か催眠効果があるのか知らないですけど、皆が発表したし、論文化しなさいと言われれば、論文化してるんですよ。

 私のような者が書くと、だいたいファクスでダメとか、バツとか書いて送られてくるパターンが多かったんですけど、それでも先生は諦めずに細かい指導をしてくれました。そういう形でダメな子はダメな子になりに教えてくれる。優秀な子にはかなりの感化があって、すごい仕事でした。

 それからもう一つ、先生が能書きは良いからさっさとやれという気の短い先生だったんですけど、本当にその言葉はいまだに会社で使うことがあって、「四の五の言わずに、さっさと論文を書け。」という言葉を本当に思い出します。

 やっぱりできない理由を一生懸命言う人は、企業でも多いんですけど、矢野先生なら、そんなことはどうでもいいから、とにかくやれということをよく言われていて、その時の指導はまだに僕らには続いているのかなと思いますね。

 研究に関してはそんな感じのことがあったんですけど、あともう一つ、学生のとき、高橋さんも高田君も覚えてると思うんだけど、矢野研究室が調布にあって土曜日になると出席率が高いんですよ。その理由は矢野先生がトンカツ弁当を買って、あの体でいっぱい持ってきて、たまに学生を呼んで取りにこい、というようなことをやって、生徒はそれを食べに来るというパターンだった。

 でも、それでも先生はニコニコして食べさせてくれて、学生は研究を続いける状態になっていました。そういうことを先生は自腹でかなりやったということを改めて思うし、生徒に対してすごい面倒見のいい人だったな、というふうに思います。

 話し始めるといっぱいあるのであれですけども、企業編とか何々編とかいっぱいあるんですけど、とりあえずここでやめてきます。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。まさにNMS研究会で参加者に昼食を振舞われていましたが、もうそのときから始まったんですね。続きまして高田さんよろしいでしょうかお願いします。

高田 圭氏

 はい。まずはNMS研究会の歴史について少し触れておきたいと思います。

 皆さんもご存知の通り、NMS研究会は矢野先生が品質工学を学びたいという方々に無償で教えるという趣旨で始められたものです。最初の開催から土曜日でした。

 NMSという名前は、矢野先生がノーマネーサービスという言葉を使っていたことに由来しますが、それだけではあまりにも簡素すぎるということで、ニューマニュファクチュアリングシステムという正式な名称が付けられました。

 この経緯は、学会誌などにも掲載されていますので、興味のある方はぜひご覧ください。学生時代の話は高橋さんや畠山さんがされましたので、私はエプソンに入社してからの話をしたいと思います。

 矢野先生には指導会や発表会などでお世話になりましたが、その中で印象的だったのは、ある発表会での出来事です。私たちが発表した後、常務から講評をいただいたのですが、その直後に矢野先生が壇上に上がってきて、常務の話が間違っていると指摘されたんです。私たちは驚きましたし、常務も困惑されたと思います。

 矢野先生は時と場所を問わずに正しいことを言う方なので、私はそれを素直に尊敬していますが、他の人から見れば少し過激な発言だったかもしれませんね。江戸っ子気質というか、子供っぽいというか、そういう面白さもお持ちだったと思います。

 もう一つ忘れられないのが、矢野先生からの催促ですね。「矢の催促」ならぬ「矢野の催促」といわれていました。論文を早く書けというメールや電話が頻繁に来ました。

 私は学生時代にロボットに興味があって電気通信大学に入ったのですが、ロボットの制御理論にはあまり魅力を感じませんでした。そこで面白そうな研究室を探していたら、矢野研究室に出会いました。

 テーマを決める際に、矢野先生から「テーマは人によって向き不向きがあるから、お前に合ったテーマをやらせる」と言われました。プログラマーの評価というテーマを与えられて、それをやりました。その時に感じたことは、矢野先生は自分の考えを押し付けるのではなくて、学生や社員の個性を引き出そうとする方だということです。私からは以上です。

高橋 和仁氏

 その件は、新入生が入ってきて人柄がわかると、このテーマを担当してもらうのはとうだろうというのを相談して、これで合っているのではないかなどと矢野先生と話したのを覚えてますね。

吉原 均氏(司会)

 なるほど。ありがとうございます。電通大関係のお三方のお話があったので、お聞きしたいのですが、矢野先生がパチンコの必勝法についてテレビでやられましたよね。その辺の思い出はいかがですか。

高橋 和仁氏

 当時、パチンコが大流行していました。そのため、学長から、矢野先生には何かできるのではないかという提案があり、俳優の峰竜太さんなども関わって、物理的にパチンコ玉がどのようにして出るかを研究する実験的なテーマが話題になりました。

 具体的には、パチンコ玉の精度、等級精度、硬さ、表面粗さなどを計測しました。私は最終的にマイクロメーターで計測しましたが、結局、パチンコ玉を45度の放物線で飛ばすための三角関数の数式を矢野先生と峰竜太さんと一緒に実演することになり、これがテレビで放映されました。その際、峰竜太さんが三角関数は、女性との三角関係と同じだとか何とか言って笑いを取り、番組は終了しました。このような内容だったと思います。

高田 圭氏

 あのパチンコ玉ですね、矢野先生がパチンコ屋さんの前で拾ってきちゃうんだ。

高橋 和仁氏

 撮影は2日かかったんだけど、放映されたのは5分から10分ぐらいだった。そんな思い出です。

吉原 均氏(司会)

 結局、パチンコ玉自体のばらつきが大きすぎるから必勝法なんか作れないって、そんな感じだったんですよね。

高橋 和仁氏

 そうでした。

吉原 均氏(司会)

 このあとは、田村さんおねがいします。

表題-3-矢野宏先生との出会いと思い出

出席者
鴨下 隆志氏 応用計測研究所
吉澤 正孝氏 クオリティーディープマーツLLP
高橋 和仁氏 神奈川県立産業技術総合研究所
高田 圭氏 エプソン株式会社
畠山 鎮氏 YKK株式会社
田村 希志臣氏 コニカミノルタ株式会社
細見 純子氏 中部品質管理協会
坂本 雅基氏 花王株式会社
常田 聡氏 元日精樹脂工業株式会社
細井 光夫氏 株式会社小松製作所
上杉 一夫氏 上杉技研
見原 文雄氏 日本能率協会コンサルティング
田中 公明氏 トヨタ自動車(株)
小川 豊氏 東芝エレベータ株式会社
中根 義満氏 先端技術株式会社
吉原 均氏(司会) キヤノン株式会社

田村 希志臣氏

 私の場合、矢野先生との出会いと品質工学との出会いは完全に同期しています。1994年に当時はコニカ(株)でしたけれども、私の所属していた部署でこれからは品質工学だと本部長が突然言い始めまして、矢野先生をお呼びしたのが最初の出会いです。すぐに矢野先生の月1回の指導会が始まりました。

 いろんなテーマを開発チームごとに持ち込んで矢野先生の指導を仰ぐ形で毎回5、6件のテーマを検討するのですけど、2回目か3回目の指導会で矢野先生から、君たちの部署はなぜ入れ替わり立ち替わり同じテーマを持ってくるのだ、チームが入れ替わっても課題は全部一緒じゃないか、と言われました。

 その時は、矢野先生が何を言っているのかよくわからなかったのです。各チームそれぞれ異なる複写機やプリンタ製品向けのトナーや現像剤の設計に取り組んでいて、それぞれ目標値も違えば制約条件も違うわけです。どのチームも互いに同じテーマとは思っていない。ただ、何を言われているのかはわからないのだけど、何か大切なことを言われている気がしたのです。

 そこで、開発の仕事は忙しかったのですけど、他のチームのテーマ検討にも知らん顔で終日参加して矢野先生の話を聞いてみることにしました。それでも最初はよくわからなかった。半年、いや、1年ぐらいかかったのかな。毎回同じ指摘をされているのだけれど、繰り返し聞いて、ようやく矢野先生の言わんとしていることがわかってきました。

 要するに君たちのやっているのは合わせ込みばかりだと。どれも電子写真向けの現像剤なのだから、製品は違っても技術の本質は全部一緒だ。だから評価は共通に行えるはずだということを、ずっと言われていたわけです。矢野先生には本当に辛抱強く指導いただけたと思います。

 テーマは違っても技術の本質が同じならチームを超えて一緒に議論することができることに気付いた結果、しだいに、矢野先生の指導会には製品設計ではなく将来必要な新しい技術テーマを積極的に持ち込むようになっていきました。やはり新しい技術テーマを持っていくと矢野先生はものすごく嬉しそうな顔をして、ああだ、こうだと議論が盛り上がるわけですが、だいたい無茶なことをやれと言われて、言われることはその通りなのだけど、どう実現するかで悩まされる、ということが増えました。

 しかし、そうしたことも、さらに視点を広げて、切り口を変えて物事を見るきっかけになって、技術者としてものすごく世界というか視野を広げることができたなと思います。

 無理難題に必死に応え続けた結果、矢野先生にはコニカ、そしてコニカミノルタという企業をいたく気に入ってもらえて、矢野先生が現役を引退されるまで20年以上にわたり指導を続けてくれました。

 矢野先生は「僕は気に入らない指導先だったらこっちから断るんだよ、これまで何社も途中でダメだなと思って断ってきたんだよ」と話されていました。そうした中で20年以上も続けて指導に来てくれたのは、指導する価値のある組織、エンジニア達だと評価してもらえたのだろうと、これは過大評価かもしれませんけれども、そう見ています。

 もし矢野先生との出会いがなかったら、私はおそらく今でもろくでもないエンジニアのままだったでしょう。矢野先生からは、テーマ指導だけでなく、エンジニアとは何か、研究とは何か、技術者の社会的な責任と役割は何か、といったことを繰り返し叩き込まれた結果、今の私があるわけです。

 矢野先生からはいつも、品質工学に取り組むなら出世は諦めなさい、と言われていました。確かに、品質工学の視点から技術を議論すると、社内の開発設計活動やテーマ設定に無駄が多いなとか、遠回りしているなとか、そもそも必要ないかな、といったことが見えてきてしまい、実際、社内的に折り合いをつけることに苦労した場面もありました。

 ただ、コニカ、そしてコニカミノルタでは思いを共有する仲間を増やせたこともあって、そこまで嫌われたという感じはありません。私が鈍感なだけかもしれませんけど。エンジニアとしての成長を支えてくれた矢野先生には今も感謝の気持ちでいっぱいです。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。そうですね。矢野先生の「出世は諦めろ。」とかは明言ですね。では、次に細見さん、お願いします。

細見 純子氏

 私は研究をやるとかそういうのではないのですが、1990年代後半ぐらいから矢野先生が細見さんのような方が品質工学をやらないと広まらないんだって言われて、社会課題をやらないかってすごくおっしゃってたんですね。私はそれが記憶にずっと残ってて。

 今、私は自分が主催の研究会で社会課題を取りくんでいるのですが、矢野先生は、ずいぶん早くにそういうことを考えていました。もっと言えば、田口先生と西掘先生が、技術で社会課題を解決するというのをたくさん書かれていて、やっぱりその流れをしっかりと汲んでいるエンジニアで研究者だったのですね。

 今週に本棚を見ていたら、矢野先生の超成功法-誰も教えてくれなかったタグチメソッド-という本が出てきて、これサインをして献本して下さったと思うんですけど、読んだらものすごくわかりやすい内容でした。

 だから本当にこの一般のっていうか、技術だけじゃなくてもっと広く社会にということをすごく考えていらしたのだなと再認識しました。

 最後に、どうしても忘れられないのは、2000年ぐらいに中部品質管理協会がちょっとマネジメント的におかしくなったときに矢野先生が電話くださって、品質工学の中部は大事だからっていうことで、田口先生にもみていただいてたんですけど、矢野先生もサポートするからっていうことで、ずいぶんお声をかけてくださったというのがありました。本当に情の深い、いい先生でした。

吉原 均氏(司会)

 次は、坂本さんお願いします。

坂本 雅基氏

 僕は社内の図書室にお話し品質工学があって、それを読んで品質工学っていうのがあるんだなっていうのを知ったんですけども、そこが本を通じて矢野先生と出会ったところですね。それが1996年くらいだったと思います。

 そこから大会に参加したり、通信教育の品質工学コースを受講したりして勉強してました。その通信教育のコースの最後は事例を自分で作って提出するっていうのがあったのですが、それを書いて出したら、矢野先生が投稿しなさいってそれを書いて出したら矢野先生がこれを投稿しなさいっていう風に言ってくださって、そこからいろいろ大会でとかで声をかけていただいたりするようになったのかなと思います。

 転勤で和歌山の方に行ったりして、戻ってきたから、NMSに参加するようになったんで2010年くらいからですね。

 それから、矢野先生にはいろんなことを教えていただきました。出会ったのも矢野先生の本だし、セミナーで声をかけていただいたのも矢野先生です。その中で、大会で声をかけてくださったときのことが今でも残っていて、大会で一度ポスター発表したときに通りかかってくださって、内容を見ていただいてコメントをもらったのですが、そのときに「型通りなんだよな。」と一言いって去っていきました。

 それが今でもちょっと残っていて、やっぱり研究発表の場でやる以上は、いろいろ工夫しなければいけなというのを、そのときの言葉で教えてくださったのかなと、そういうのが今でも心に残っております。

 いろいろ事情があってNMSへの参加は非常にご無沙汰ですが、今日参加して、品質工学を続けているのはやはり矢野先生にその折々でご指導いただいたおかげだなというふうに思っています。簡単ですけど、以上です

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。その心に引っかかった矢野先生の言葉というのは、本当にずっと引っかかり続けますよね。矢野先生はずっと考えさせ続けて人の知性を変えてしまう人ですよね。

 次は私の番ですね。私が矢野先生と初めて出会ったのは、おそらく1999年だったと思います。当時、私は生産技術の部門で働いていて、生産性向上と開発効率改善に取り組む活動に関与しました。その活動では、統計、多変量解析、品質管理などさまざまな手法を調査し、これらのツールを使いこなすことで効率が向上する可能性を模索していました。

 その後、私はこの活動の推進事務局を担当することになりました。しかし実際にはちっともうまくいかないことに悩みました。そんなとき、社内で品質工学の導入と支援する部門があることを知り、私はこれに興味を持ち相談しました。

 矢野先生が当社で指導を行っていることを知り、品質工学の指導を受けることになりました。矢野先生の指導のもと、事業所で品質工学の研修を実施し、新人社員にテーマを担当させながら、矢野先生の指導を受けました。私はその後、部門事務局として約2年間、矢野先生の指導を受け続けました。

 その指導会の中で、品質工学のサポート担当から、「あなたもしっかり覚えなさい」と言われ、日本規格協会の20日間コースが紹介されました。当時の上司の理解もあり、私は田口先生から直接指導を受けるコースで学びました。

 この過程で品質工学は技術開発に非常に有用であることを実感しました。なんとか使いこなしたいなと思うんですが、基本機能が分からなくて、矢野先生に質問しました。「品質工学は非常に優れたものだと確信していますが、基本機能を理解する方法は何ですか?」と真剣に尋ねました。

 矢野先生の答えは、「それが分からないから実験するんだ」というものでした。もしその時に、基本機能についての説明があったとしても、おそらく理解できなかったでしょう。

 しかし、矢野先生のような大先生でも「分からないから実験するんだ」と言っているなら、自分がすぐに理解できるはずはないと思いました。そこで悩んでも仕方がない。実際に行動し、実験を通じて基本機能がいずれ理解できるだろうと感じました。私にとって、この一言は品質工学に対するハードルを下げてくれたものでした。

 その後、この一言は品質工学への情熱を持ち続けるための一歩となりました。矢野先生との出会いは、品質工学に対する私の印象を大きく変えたものでした。20日間コースを修了し、社内での指導がある程度続いた時期がありました。

 しかし、上司から別の業務を担当するよう指示があり、品質工学から一時的に離れることになりました。その後、後任者が品質工学について理解が深いこともあり、任せてやるべきだと感じました。

 また、品質工学がうまくいかないという雰囲気も漂っていたため、その状況を防ぐためにも、自分が一時的に離れることが適切だと判断しました。

 その後、数年経ったある時、品質工学の導入支援をしてくれた人から、定年が迫っているため、社内の品質工学講座の講師を引き継いでくれるよう誘いがありました。私はこの誘いを受けて、講師としての役割を引き受けることができました。

 同時期に、矢野先生の指導も別の事業所で継続されており、その事務局の人が私に社内講師として手伝ってほしいと依頼してきました。こうして、矢野先生と再び出会うことになりました。

 その際、私は品質工学に対する想いを矢野先生に改めて語りました。矢野先生からは、「君はまだ錆びていないようだから、私の研究会に遊びに来てもいいよ」と誘われ、NMS研究会に参加する機会を得ました。

 NMS研究会に何度か参加するうちに進行役やるようにと言われました。そこからずっと研究会の皆勤賞を更新し続けるように毎回研究会に参加して、研究会の運営をやらせてもらってます。

 研究会に慣れたころに矢野先生から「お前もなんかやるんだろう」と言われて。それでローマクラブの成長の限界というレポートをトレースしてみたいと、矢野先生に相談すると、先生は「面白そうだから、やってみろ」と言ってくれました。

 ということで、ローマクラブの提案をヒントにした地球における国勢の変化の研究という大それたテーマで学会発表などもさせてもらいました。学会の研究発表大会では、企業の実際の開発課題に取り組む研究者が事例を発表している中で、私はその枠を外れたテーマで大会に参加できました。ひとえに矢野先生のおかげです。以上です。

 では、常田さんお願いします。

常田 聡氏

 私が初めて矢野先生とお目にかかったのは2002年のことでした。その時、私は非接触型ICカードの成形機の開発に携わっており、その製品が社会に普及していく過程を見ていました。

 長野高専で品質工学の講義を受けたことがきっかけで、品質工学に興味を持ちました。日本規格協会の通信教育を2003年に受講し、スクーリングで矢野先生の講義を拝聴しました。

 その中で、矢野先生が私の勤務先である日精樹脂に何度かお越しになったことがあるというお話を伺い、これは運命的な出会いだと感じました。

 スクーリングの後、矢野先生に品質工学の指導をお願いしたいと申し出たところ、「俺が行くよ」と快く引き受けてくださいました。

 それから2008年まで5年間、毎月矢野先生にご指導いただきました。最初は何も分からないまま、様々な人や問題を集めて、どうやって解決していくかを考え始めました。

 しかし、話が合わなかったり、理解できなかったり、矢野先生から厳しいご指摘を受けたりして、苦労の連続でした。

 特に印象に残っているのは、夏に行った一回の会議で、話がまとまらず、私も熱くなって矢野先生と激しい議論を交わしたことです。その後、家族旅行で石垣島に行きましたが、そのことがずっと頭から離れませんでした。楽しめなかったわけではありませんが、矢野先生から受けた教育の深さと愛情を強く感じました。

 その頃は日本規格協会の20日間セミナーや実験計画法の12日間セミナーなども受講しており、田口先生や横山先生や吉澤さんなどからも多くのことを学びました。

 そうすると、矢野先生の指導もだんだん理解できるようになりました。品質工学はすばらしいと思うようになりましたし、クレームの問題も直交表の実験で解決できるようになりました。

 矢野先生からは技術的なことだけでなく、部下の育成やマネジメントに関することも教えていただきました。特に人を育てる方法については大きな影響を受けました。

 矢野先生のご紹介で西堀先生の本や京都大学の先生の本なども読みましたが、非常に興味深い世界が広がりました。また、研究会だけでなく、NMSやMFRGなどでも活動させていただきましたし、規格協会のセミナーの講師も務めさせていただきました。その際には矢野先生が夕食をご馳走してくださったり、技術者としてのネットワークも広げてくださったりしました。

 私にとっては、矢野先生は人生の中で非常に大きな存在であり、感謝の気持ちでいっぱいです。

 私は10月から長野県の商業振興機構に所属しております。グリーンイノベーション推進センターのエプノコーディネーターという役職で、研究開発や企業の技術開発、講義センターの技術部門と補助金の関係を円滑に進める仕事を担当しております。

 将来的にはもっと技術者として活躍できるような仕事に転身したいと考えております。このようなキャリアプランは、矢野先生から多大な影響を受けたものです。矢野先生には心から感謝しております。以上です。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。続きまして細井さんですね。

細井 光夫氏

 細井から矢野先生とのエピソードをお話しします。コマツが品質工学を導入したのは2006年でした。そのきっかけは、当時の専務取締役開発本部長が田口玄一先生に会って、これは本物だと感じ入ったからです。

 ただし,まったく品質工学を知らないコマツが最初から田口先生に指導していただくのは申し訳ないと腰が引けていたところ,代わりに矢野先生がコマツを指導してくださることになりました。

 私は遅れて2008年から矢野先生の指導会に参加しましたが、最初から自分のテーマがなく、事務局のような立場でひたすら矢野先生の指導会に同席していました。そのうち、矢野先生が「細井さんに聞きなさい」といって帰ってしまうことが続いて、勉強しなければならない状況になりました。

 矢野先生からは「君は勉強が足りないよ」とか「細井さんともあろう人が」と厳しいことを言われながらも、こなしてきた感じです。自分のテーマがなかったので、矢野先生に直接相談することはありませんでした。矢野先生は「技術者の風上にもおけない」と言って厳しい指導をすることもあり、コマツの中には矢野先生を苦手に思う人も現れました。

 一方私は「講釈師、見てきたような嘘を言い」という感じで、分かっていないのに分かったようなことを言うところがあって、矢野先生の代わりに対応していたら、「矢野先生指導会をやめて細井さんの指導会にしちゃえ」ということで、2011年からコマツ社内の品質工学実務研修を始めました。先生との関係がだんだん薄れていきましたが、矢野先生とつながりを持ちたいと思って相談しましたところ、「編集委員会に来なさい」と言われました。それで2013年から編集委員会に参加して今も続けています。

 同時期に品質工学を活用して大きな成果を出したコマツキャステックス(コマツの関係会社)から2013年の鋳造工学会の技術講習会で品質工学を紹介するように依頼された私が矢野先生に相談したところ、「私(矢野先生)が行きます」と即答でした。矢野先生は北陸の研究会の日程と合わせて鋳造工学会に来てくださったようです。

 そして手土産まで持ってきた矢野先生に鋳造工学会の方々は大変驚いていました。私は後で「細井さんを呼んだら矢野先生が来てしまった」と聞かされました。2014年には「標準化と品質管理」誌に掲載する企画座談会の機会がありました。その時に矢野先生は私をコマツで品質工学を強力に推進している人として紹介してくださいました。

 品質工学会の秋の大会(RQES2023A)でお話いたしますが、その後コマツでは,品質工学実務研修を10年間続けたものの実務で活用されていない状況であり、2022年に研修を発展的に終了してRPD(Robust Parameter Development)活動という形で品質工学を実務で使っていく段階に入りました。

 私は来年65歳になりますが、コマツに品質工学を定着させるまでやり続けたいと思っています。これもすべて矢野先生が「細井さんに聞きなさい」と言ってくださったことから始まりました。矢野先生は厳しい方ですが、同時に温かくて優しい方でもあります。私の人生に大きな影響を与えてくださった先生です。以上です。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。矢野先生は本当に一言で人の人生を変える力を持っていた方ですね。では次に、上杉さん、お願いします。

上杉 一夫氏

 私は矢野先生と何回か出会いがありました。最初は、当時務めていた会社において品質工学の第一人者から矢野先生の言葉を教えてもらったことです。その方が講義する品質工学の初心者コースの資料には、矢野先生の言葉が最初に書かれていました。

 それは「ツバメのひなにならない」とか「畳の上で水泳はマスターできない」とか「品質工学は凸の文化で身につける」など、不思議な感じの言葉でした。

 でも、その意味を知ると、品質工学を学び実践するために心がけなければならないことが伝わってきました。

 矢野先生の言葉は、言霊であり、魅力的だと感じました。2回目は、日本規格協会の品質工学講座を受けた時に、講師である矢野先生から教えていただいたことです。

 そして、初めてNMS研究会に参加した時だったと思います。2005年12月の第94回のNMS研究会に初めて参加し、「品質工学をベースにした検査レスプロセスの開発」というテーマで発表しました。

 ここで、私がどのように品質工学に関わってきたか、そして何故このテーマを発表するに至ったかについて簡単に話します。私が製造課長をしていた当時、職場の製品組立自動機に生産技術のエンジニアがMTシステムを導入し始めました。

 そのころ会社が一丸になって品質工学にまい進しており、MTシステムの導入はその一環として実施されたものです。すると、顧客からのクレームがどんどんなくなり、これすごいなと思って、それが品質工学に興味を持つきっかけでした。

 2004年に品質工学をやらないかと誘われ、プロジェクト活動を始めました。それが検査レスプロセスの取り組みでした。その検査レスプロセスの活動結果をNMS研究会で発表した際に、発表の中に「クレームが出なければ不良じゃない」という一節がありました。すると矢野先生からこの考え方は間違っていると指摘されました。それから矢野先生と議論する機会が増えて、多くのことを学びました。

 私はNMS研究会で先生に褒められることはほとんどありません。むしろ怒られることの方が多いです。

 2011年春の討論会で、「品質工学はこれでいいのか」というテーマでリレー発表をしたときに、品質工学研究発表大会で私の会社の発表件数は多いのにあまり評価されていないと述べたところ、先生は先駆的な研究をしていないからだと言われ、苦しいけれど、それを実践してほしいとも言われました。

 私は現状の理論の進化だけで十分だと思っていたのですが、先生はそれではダメだと一蹴されました。非常にショックでした。それ以来、品質工学の新たな進化に寄与できるような研究をするべきだと考えるようになりました。私は田村さんがコニカミノルタで行っていたバーチャル設計に興味を持ちました。

 当時、矢野先生がバーチャル設計という概念を提案されて、それを研究されていたので、私もそれに挑戦してみようと思い、バーチャル設計に関する研究を色々と行ってきました。

 先生はよく「40歳過ぎたら品質工学をやるな」と言われていましたね。皆さんも聞いたことがあるでしょうか。私が品質工学を始めたのは50歳でした。なぜ40歳過ぎたらダメなのかと尋ねたら、パラダイムシフトが必要だからだと言われました。技術者は40歳過ぎると固定観念に捕らわれて、パラダイムシフトができなくなるからだということでした。

 では私は50歳ですが、どうすればいいのかと聞いたら、確かに40歳過ぎて品質工学を始めるのは難しいが、40歳過ぎても続けていけば、それは本物だと言われました。そうかと納得しました。やはり継続が大事だと思います。先生からそういう言葉をいただけるのはありがたいです。色々なことを教えていただきました。

 品質工学を創始された田口先生とは一言しか話したことがありませんが、矢野先生とは毎月NMS研究会で話す機会があります。私が品質工学を始めたのも、それを今まで続けてきたのも、やっぱり先生がいたからだし、私の会社員人生の転機はやっぱり矢野先生だったんだなと感謝しています。

 矢野先生は厳しいとよく言われますが、私にとっては優しい先生です。NMS研究会に行って宮城県に帰ると、必ず先生から電話がかかってきます。上杉さん、また来てくれるよねと、毎回言ってくださいます。そう言っていただけると、怒られてもまた行こうと思えます。

 今までNMS研究会を続けてこられたのは、先生のおかげだと思っています。私にとって矢野先生は品質工学を始めるモチベーションを与えてくださった先生であり、色々なことを教えてくださった恩師です。以上です。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。バーチャル設計が出てきましたね。

上杉 一夫氏

 バーチャル設計に取り組んでいなかったら、まだ先駆的研究やってないじゃないかと、今でも怒られると思うんです。

吉原 均氏(司会)

 はい。そこで見原さんです。よろしくお願いします。

見原 文雄氏

 はい、ありがとうございます。バーチャル設計の話をするのは難しいですが、矢野先生との出会いについてお話しします。田村さんのお話に続いて、私は矢野先生のテーマ相談会の社内管理人になったことが、矢野先生と直接お話しするきっかけでした。それは2012年ごろでした。

 その後、矢野先生が倒れられるまで5年半、私は管理人を続けました。その間に、矢野先生の講演やイベントにも参加しましたが、直接対話するようになったのは管理人になってからです。NMS研究会にも、それから1年か2年後にお誘いいただきました。

 NMS研究会に参加することで、品質工学的に成長できたと思います。最初は神保町の事務所でしたが、だんだん席が固定されて、沢田さんと中島さんと隣り合わせになりました。お二人とも残念ながら亡くなられましたが、よくお話しする機会がありました。

 田村さんも言われましたが、矢野先生から厳しいご指導を受けても諦めずに来る人は少ないです。私も管理人としてそう感じていました。品質工学が広まらない原因の一つかもしれません。

 今は技術コンサルタントとして品質工学を使っていない会社に行って指導していますが、本質的なところを伝えるのは難しいです。伝えると相手がついてこられなくなって指導が終わってしまうこともあります。

 それに比べて、矢野先生はあのスタイルを貫かれたのはすごいと思います。でも私はものづくりに貢献するためには、やっていないところにも品質工学を広める必要があると思っています。そのためには柔らかい対応も時には必要だと思っています。矢野先生と違うやり方かもしれませんが、それは人がついてこられない現実を見て感じたことです。

 もう一つのつながりとしては、矢野先生、中島先生の後を受けて電気大学の非常勤講師をしています。高橋さんが言われたように、私も毎回感想や質問を書かせて送らせています。次の講義でそれに対するフォローをします。出席確認や採点にもなりますし、面白いことを書く人には高得点をつけたりします。試験はやりません。今年で6年目です。電気大学の非常勤講師も矢野先生との関係だと思います。長くなりましたが、バーチャル設計の話がなくてすみませんでした。以上です。

吉原 均氏(司会)

 次は、田中さんお願いします。

田中 公明氏

 矢野先生の思い出として、私は「くそ爺」という言葉を先生に向かって発したことがあります。多くの人は心の中で思っていても、口に出すことはなかったでしょう。しかし、私はそれが先生への敬意の表現だったのです。先生のおっしゃることに対して、「このくそ爺と思ってもそんなことないと思って証明しようとしたら、うまくいきました。ありがとうございました」という感謝の気持ちで言ったからです。

 私自身が先生に非常に感謝していることのひとつに、技術者に教養が足りないということを教えられました。私はそれまでは技術者は腕一本でやっていけると思っていましたが、それではイノベーションを起こせないことを知りました。

 パラメータ設計は数値を変えるだけではなく、社会課題から考える必要があります。計算方法もおかしいところが多々ありますが、それは田口先生がわかりやすくするためにしているので、技術を突き詰めるために自分で考える必要があります。

 よくある質問は、制御因子か誤差因子かというものですが、私も他人に質問するときに迷います。矢野先生は田口先生の前でも迷うと言ってくれましたが、それはできないからだと言ってくれました。常に質問する姿勢が大切だということです。

 矢野先生が亡くなられた今、私は頭の中に矢野先生をイメージして、イマジナリーティーチャーとして問いかけてもらっています。先ほどの話でもありましたが、矢野先生に出会えなかったらつまらない技術者になってしまったのだろうと思います。

 技術者としての考え方と基盤、本質を教えてくださったのは、品質工学だけではなくて、技術者の本質だと思います。これこそが品質工学の学びだと思います。今後は田口先生と矢野先生が私達に伝えたことを正しく次世代に伝えることが重要だと思います。

 私はもうすぐ60歳ですが、遅いと言えば遅いですが、伊能忠敬が50歳から地図を作ったことを思えば、まだまだやれると思います。例えばですが、品質工学をパイソンライブラリーで作ったり、アプリを作ったりしたいです。また、書籍もKindle本で出版できるようにしたいです。ウェブサイトも立ち上げてみたいです。

 最初は一人でやりますが、仲間を集めてコンテンツを作るチームを作りたいです。コンサルや収益化も考えています。投資も必要ですが、機会や効果もあります。徐々に拡大していきたいです。ということで話を終わります。以上です。

吉原 均氏(司会)

 ありがとうございます。次は、自ら名乗りを上げてNMS研究会に来てくださった小川さん。

小川 豊氏

 私は2015年に入会したので、最も新しいメンバーだと思います。吉原さんが研究発表大会の懇親会で声をかけてくださり、そのおかげで参加することができました。その時には、バーチャルパラメータデザインという研究テーマについてお話ししていましたが、私はまだよく理解できていません。

 しかし、毎年学会に出席して、NMS研究会の進展を資料から拝見しています。NMSにもいつか参加したいとずっと思っていましたが、運良くまた声をかけていただき、入会することができました。

 矢野先生の品質工学に関するお話は、本や学会で聞いても、常に本質を突いていて、私にとって大きな刺激になっています。先生はお年を召されていましたが、最後まで色々なお話を聞かせてくださり、NMSで毎月勉強させていただきました。

 実は私は府中に住んでいたので、通信大学が近くにありました。先生が電通大に来られた時には、研究論文の発表会や公開討論会に参加しました。皆さんが最初にお話された時は品質工学フォーラムでしたが、私はすぐに興味を持ちました。自分で実践する機会はなかなかありませんでしたが、先生の話術や説得力に魅了されました。以上です。

吉原 均氏(司会)

 小川さんは品質工学の推しは、今流行りの推しから言うと相当筋金入りだったのね。

小川 豊氏

 最初に入ったときはそういう感じでした。ですから、高橋さんとか卒研の発表の時に色々やられてるのもその頃から知っております。

吉原 均氏(司会)

 最後の方は、私の同僚であった中根さんが登場します。中根さんは、矢野先生に怒られながらも、しっかりと品質工学を学び、弊社で力を発揮した方です。中根さん、お願いします。矢野先生との思い出話をお聞かせください。

中根 義満氏

 私が矢野先生と出会ったのは、前職のキヤノンで働いていた1995年のことです。キヤノンでは矢野先生を講師にお招きして、品質工学のセミナーを開催しました。2ヶ月間、週に1回、自分の仕事に関するテーマについて、矢野先生に指導を受けていました。

 最初は一生懸命にテーマの説明をしたのですが、矢野先生からは厳しい指摘を受けました。周りの人は私がどうして耐えられるのかと驚いていました。私も当時はショックを受けましたが、矢野先生の言葉には本当に私のことを思ってくれているという愛情が感じられました。それが忘れられません。

 セミナーが終わった後、私は自分の仕事のテーマに品質工学を応用しました。紙を空気で分離するというエア給紙の新しい技術を開発しました。パラメータが多くて設計が難しかったのですが、品質工学で最適化を行いました。

 誤差因子として紙の吸湿性を考慮し、霧吹きで湿らせても分離できるようにしました。その結果、再現性が向上しました。

 その後に何テーマか自分の設計テーマで品質工学のパラメータ設計を実施しました。

 2003年には、日本規格協会の20日間コースを受講しました。そのコースでは、矢野先生と田口先生から直接指導を受ける機会がありましたが、田口先生の話は難解で、何度も聞き返してやっと理解できるレベルでした。

 矢野先生がいかに分かりやすく説明していただいていたか良くわかりました。20日間コースは私にとって非常に有益な経験でした。

 その後、2008年に学会で複合機の開発に関する研究を発表しました。私は設計者ではなかったのですが、紙の定着技術について矢野先生からもアドバイスをいただきました。その研究は再現性が高く、製品化した結果、前機種のトラブルが解消され、会社に大きな利益をもたらしました。その功績で社長賞を受賞しました。

 自分でパラメータ設計を活用していろいろ設計するのはこの辺で終わって、今度は矢野先生に、私が支援する若い設計者や社内のメンバーの指導をしていただくようになりました。その時のエピソードをお話しします。

 矢野先生は月に1回ほどお越しになり、若い設計者のプレゼンテーションを聞いてくれました。しかし、それはなかなか大変でした。というのも、まず研究テーマのタイトルから問題がありました。

 一般的な問題解決型のテーマでは、矢野先生は興味を持ってくださらないのです。テーマの選択理由や技術的な背景、社会的な意義などをタイトルに盛り込んで、矢野先生を引き込むような工夫が必要でした。そして、その内容を論理的に展開して、やっと本題に入るという構成にしなければなりませんでした。

 私は若い設計者と協力して、そうしたプレゼンテーションを作り上げましたが、矢野先生の指導に感銘を受けた人もいれば、反発してしまった人もいました。

 ある設計者が、定着の最適化のために、定着ローラーに特殊なパッチを貼り付けて、画質や画像伸びなどの評価を行いました。直交表L18を用いて、多数の試験を実施しましたが、設計者にとっては、非常に手間のかかる実験でした。

 しかし、その結果を矢野先生に見せたところ、ダメ出しの指摘となって、やり直しを命じられました。設計者は、矢野先生の意見に納得できずに激怒し、二度とこのような実験はしないと言ってドアをバタンと閉めて去ってしまいました。

 矢野先生もその時は特に怒ってはいなかったと思いますが、私を含めてその場に居合わせたメンバーは全員、青ざめた記憶があります。長くなってしまいましたけど、以上になります。

吉原 均氏(司会)

 私が矢野先生の指導会に参加した時には、中根さんは、すでに矢野先生からも高い評価を受けていらっしゃいました。他のメンバーがテーマの進め方に苦戦している中、中根さんはスムーズにプレゼンを終えられたということで、矢野先生の指導をしっかりと吸収されたことがわかります。NMSでは、中根さんの豊富な知識と経験を活かしていただきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

中根 義満氏

 よろしくお願いします。

吉原 均氏(司会)

 この座談会では、皆さんが矢野先生との出会いや思い出を語ってくださいました。ありがとうございました。残念ながら時間が迫ってきましたので、最後に最も長く矢野先生とお付き合いのある吉澤さんにお願いします。矢野先生の研究会について、NMS研究会を外から見たご意見やご感想をお聞かせください。矢野先生の研究会としてふさわしくあるためにはどのように発展していくべきだと思いますか。どうぞよろしくお願いします。

吉澤 正孝氏

 ご指名ありがとうございます。私はNMSに参加したのは2007年か8年頃で、まだ新人のほうですが、矢野先生とはそれ以前から様々な関わりがありました。1980年代後半からですので、矢野先生から直接指導を受けるというよりは、常に新しいテーマを提示されて、それに答えるのに苦労したというのが本音です。

 最初にお願いされたのは、実験計画法基本講座の第1巻の執筆でした。本来なら矢野先生が編集されるべきだったと思いますが、矢野先生も当時はあまり気にしなかったのか、私に任せてしまいました。その後も矢野先生はテーマを出しながら、私を試すようなことをされて、そんなやりとりを通してご指導いただいたという感じです。

 NMSに参加してから、NMSは地方研究会というよりも、研究会の中でも先進的な研究を行えたと感じています。2007年ごろから基調講演をたのまれるようになり、毎回テーマを出していただきましたが、そのテーマは品質工学の重要な課題でした。

 今日の発表を聞いても、テーマの選び方はどうされていたのかと興味があります。先生は、参加者の能力や関心に応じてテーマを与えられたのだと思いますし、先生自身が疑問に思っている研究テーマと関連させて、共同研究を進められたのだと思います。私は、そのような指導スタイルに感謝しています。

 今後も、先進的なテーマをNMSとして提案して、共同で研究することは、矢野先生の志向だと思いますし、それはぜひ続けていただきたいと思います。テーマによって研究の方向性や成果が変わってくるということです。

 また、全体の話になると、自分で研究することが大切です。勉強会ではなく、テーマに沿って研究することが求められます。先生は、「やってから考えろ」という指導原則を持たれていると思いますし、「死ぬ気でやれ」という言葉も忘れられません。

 私たちは、自分のテーマを持って、研究することがNMSの伝統だと思います。その結果として、学会に投稿することや、授業で研究を発表することが必要です。これらは、研究の最も重要な部分だと思います。

 どんな小さなテーマでも構いませんが、そのテーマをしっかりと論文にまとめることや、まとめなければならないという自覚を持つことが非常に大切です。私は、それが先生の教えに応えることだと思います。

 矢野先生は人材育成において非常に優れたスタイルを持っておられます。西洋的な指導法とは異なり、日本の伝統的な道場のような指導法を取られています。

 先生は教えるのではなく、体験させることで学ばせるのです。素振りから始めて、先生の指導に従ってやってみて、自分で気づくというプロセスを繰り返すのです。

 このような指導法は、事例がなくても本物を追求できるようになるという点で、道の精神に通じるものがあります。先生は弟子を選びますし、弟子も先生についていくことができる人だけが残ります。その結果、非常に高い品質の人材が育成され、次世代にも広がっていくのです。

 NMSの中で皆さんが、現在も様々な研究テーマを持ち続けていますが、それは先生から受け継いだものです。

 私たちは先生に教えられたことだけではなく、自分でやってきたことを振り返り、周囲に影響を与えるとともに、自分自身も本物に近づくように努めています。私が今回聞いた皆さんのお話からは、そういう思いが伝わってきました。

 最後に一つ提案させていただきますが、矢野先生は重要な言葉をたくさんおっしゃっています。田口先生の語録とは違いますが、語録集を作るというのはどうでしょうか。

 先生の指導した時の記憶はどんどん薄れてしまいますから、文章に残しておくことが大切だと思います。NMSはそういう役割も果たしていくべきだと思います。以上が私の感想ですが、まとまっていたでしょうか。ご清聴ありがとうございました。

吉原 均氏(司会)

 吉澤さん、どうもありがとうございます。吉澤さんに、全体のまとめとなるコメントをいただきました。矢野先生の語録は、2020年に元日本規格協会の沢田位さんが学会誌に掲載してくださったものがありますが、それを参考にしながら、言葉のアップデートをしていきたいですね。まだ紹介されていない言葉や、感銘を受けた言葉がきっとあると思います。

吉澤 正孝氏

 皆さん方がお話しになっているように、矢野先生は厳しさの中にも愛情を持っていらっしゃいましたね。私もそのように感じています。矢野先生は独自の愛情表現方法をお持ちだったと私は思います。

吉澤 正孝氏

 NMS研究会が、矢野先生が出席されなくなっても続いているのも、まさに先生あってのことだと思います。

 NMS研究会は現在、リーダーというものは存在しません。一人一人がリーダーであり、メンバーであるという形を取ってます。そういう意味での組織的なヒエラルキーのない研究会です。一応、幹事会は設けていますが、自由な立場でお互いが研鑽しあうという形になっていると思います。

 しかし、このままで良いのかという疑問もあります。ある意味で、惰性で続けているだけかもと危惧するところもあるのですが、今後とも矢野先生の遺志を継いで、品質学会や社会に対してNMS研究会がどんな貢献ができるのかを考えていく必要があると思います。

 例えば、2月の公開討論会では、世の中を一歩二歩リードするような課題に挑戦するテーマに取り組んで議論をしていくとか、議論をやめない研究会を続けていきましょう。この辺で、討論会を締めたいと思います。どうもありがとうございました。

出席者
鴨下 隆志氏 応用計測研究所
吉澤 正孝氏 クオリティーディープマーツLLP
高橋 和仁氏 神奈川県立産業技術総合研究所
高田 圭氏 エプソン株式会社
畠山 鎮氏 YKK株式会社
田村 希志臣氏 コニカミノルタ株式会社
細見 純子氏 中部品質管理協会
坂本 雅基氏 花王株式会社
常田 聡氏 元日精樹脂工業株式会社
細井 光夫氏 株式会社小松製作所
上杉 一夫氏 上杉技研
見原 文雄氏 日本能率協会コンサルティング
田中 公明氏 トヨタ自動車(株)
小川 豊氏 東芝エレベータ株式会社
中根 義満氏 先端技術株式会社
吉原 均氏(司会) キヤノン株式会社


品質工学座談会 「矢野宏先生 追悼座談会 恩師との出会いと学び」(2023年10月7日開催)

2023-11-23-quality-engineering-roundtable-what-i-learned-from-dr-hiroshi-yano-

[関連情報]

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現場の計測管理 第12回座談会(日本計量新報社 計量計測データバンク主催)

品質工学座談会-機能性評価と計測-2020年2月28日公開
(計量計測データバンク)

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2011年 現場の計量管理座談会 JISQ10012の普及と不確かさの活用で計量管理を推進 (keiryou-keisoku.co.jp)


NMS研究会報告一覧 (keiryou-keisoku.co.jp)

計量管理とは何かを懸命に問うた一人の技術官僚


地震予知に執着する矢野宏氏と鴨長明の大地震のこと

能登大地震-その1-水道をはじめとするインフラの復旧と被災者救援 (計量計測データバンク)
機械設計における遊びの要素と性能と品質の実現


質量の起源を探る


計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)

計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書

計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-

計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-

[エッセー]イナゴ捕りが金銭と引き換えられた途端に遊びは賃労働に転換する
子どもの蝉とりと大人の労働


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2024年(令和6年)近畿地区の京都、滋賀、大阪の計量協会年賀交換会が相次いで開かれる(計量計測データバンク編集部)
京都府計量協会1月17日(水)、滋賀県計量協会1月18日(木)、大阪府計量協会1月19日(金)


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「(株)クボタから移譲された工業用はかりの紹介」東洋計量史資料館館長 土田泰秀氏

「クボタ ラックスケールの現在・過去・未来」 (株)クボタ瀬川浩一氏、(株)クボタ倉橋一夫氏

村上衡器製作所117 年の歩み 村上昇氏

国際温度目盛(国際温度標準)の変遷-1968年国際温度目盛(ITS-68)の採用-小川實吉氏

羽田正見と佐藤政養の貨幣の密度(比重)分析 山田研治氏

人の言葉の基(もとい)は教養である


田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方



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