旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №26
(タイトル)
白い天空の世界、霧ヶ峰高原の八島湿原で朝日が昇るのを眺める。
サブタイトル
北アルプスの常念岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳が白い雪原の上にちょ
こんと顔をだしておりました。

文章と写真 甲斐鐵太郎(旅行家)3月9日撮影。) 
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旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №26
(タイトル)
白い天空の世界、霧ヶ峰高原の八島湿原で朝日が昇るのを眺める。
(サブタイトル)
北アルプスの常念岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳が白い雪原の上にちょ
こんと顔をだしておりました。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 3月9日撮影。)



 下の写真の説明です。

3月9日午前6時32分に八島湿原の向こうの蓼科山(たてしなやま)の頭上に日が射しました。


身支度をした人が湿原に向かって歩き出しました。私も同じように行動したのでした。


70年に一度ほどの大雪がつづけて降った後の車山高原は城の世界です。右正面が車山。


南東に八ヶ岳連峰が見えます。その右に富士山がかすかに見えます。


北アルプス連峰が雪原の上に顔をだしております。槍ヶ岳を10倍の双眼鏡で眺めました。



(本文)

宮坂酒造で300円をだしての「利き酒」で良い気分になっての投宿です。

 憂さの多い日ごろですが、その日すべきことを終えた土曜日の午後2時、中央線JR相模湖駅で用をすませ、ここで思い立って諏訪の宿に急遽向かいました。

 何やかやとあった処理課題が済んだので、自分へのご褒美の行楽です。

 諏訪ではいろいろな楽しみが私にはあります。

 湖畔を散歩すること、良い温泉にゆっくりと浸かること、家財道具のない宿でくつろぐこと、ブックオフで何冊か本を買って何となく読むこと、などです。

 もう一つ、上諏訪駅近くにある「真澄(ますみ)」を造る宮坂酒造でお酒を振る舞ってもらうことです。300円をだしての「利き酒」ですが、大吟醸やら焼酎やら普段は飲めない酒を飲ましてもらうことです。

 吟醸とか、純米とか、いくつも出てくる言葉に誘われて、日本酒とその味のことを考え迷わされるのです。

 酒にまつわり酒屋では印象に残る光景があります。

 高山市の朝市の宮川近くの酒屋でのことです。下呂温泉に行く途中の夕刻にここで地酒の濁酒(どぶろく)を買っているときのことでした。勤め帰りの常連客といった風情でやってきた老年の作業服姿の人がワンカップの日本酒を二つの代金を支払って、その場でこれをクイーッと喉に流し込んだのです。見事な飲みっぷりでした。

 ビンの外から酒を眺めてその酒の味を想像して銘柄を選ぶというのが慣れない地に行ってやることです。私はそのときその老年の人が飲んだのと同じ銘柄を選びました。飲むと普通のお酒でした。

 もう一つは京都市の錦市場に近いデパ地下でのことです。能登の酒蔵が地酒を出張販売していたのです。大吟醸、吟醸、純米酒といろいろの酒を売っておりました。デパ地下でのこのような日本酒販売では試飲をさせてくれます。美味くて安い買い得なのを選びたいと思うのです。あれこれ飲んだ後に酒蔵の人にご自身はどの酒を飲みますか、と聞きました。すると値段の安いのを飲んでいるということです。訳知りの飲んべえが飲んでいる酒ならそれで十分だということで、その酒を買って帰りました。京都の宿で落花生とチーズを肴(さかな)にチビチビと飲んだのでした。

 毎日飲む。燗(かん)をして飲む。ぬるで飲む。常温で飲む。そのような飲み方には日本酒は、何気ない値の張らないもので良いようです。日本酒の面白いのは全国各地の酒造会社からいろんな味わいのものがでていることです。安売り屋でうんと安く売っている日本酒には紛い物がありますから、安いからといってこの手のお酒を選んではならないことを経験しております。

 食通であるように振る舞わないこと、同じことで酒の通であったり、ワイン通であったりというように振る舞わないことが、人に嫌がられないための作法であるようです。

 真澄(ますみ)を飲んで宮坂酒造の自慢の生酒を買って、千鳥足で宿に戻りました。地酒のほかに地ビールと地ワインと小布施の栗羊羹(ようかん)の袋手にしてのことです。


宿では石原裕次郎の『黒部の太陽』という面白味のない映画をテレビでみておりました。


 宿では食前にザブンと湯を浴びて食事の後でもサッと湯に入って、後はごろんと横になってテレビを見ます。石原裕次郎の『黒部の太陽』が流れていたのでチャンネルをそのままにして見ておりました。

 滝沢修、三船敏郎、高峰三枝子など居なくなった人々が登場しておりました。

 工事なったあとの回想場面に工事責任者の役の三船敏郎がバスに乗って黒四ダムに向かうところがありました。バスは難工事になった破砕帯付近にさしかかると、これを突破する苦難を車内放送します。映画『黒部の太陽』から50年ほどが経ちますし工事完了から50年を過ぎております。

 学校のゼミナールのクラスの合宿旅行でこの地に来たときにも同じ言葉の車内放送が流れていたことでした。大町市の扇沢から黒四ダムにでるバスには何度も乗車しておりますがこの台詞といいますかアナウンスの内容は岩盤のように変わることがありません。

 この映画『黒部の太陽』の主題を、破砕帯突破のために激闘する人とその人の家族のことにしたのです。これは映画興行のためには良くなかったのだと、思います。

 室堂平や立山そして剣岳などが織りなす山岳風景は日本ではこれ以上はない素晴らしさです。黒四ダムはこうした場所にあって、この工事を通じて天空の大広場である室堂平まで観光のための交通手段を切り開いたのです。

 いまは寂(さび)れていますが大町温泉郷はこの工事と関係して栄えたのでもありました。これは富山県側も同じであり、立山と黒四ダムを中心にした観光による大きな人と物とお金の動きは当時は考えが及ばなかったことだったと思われます。

 私の縁者のなかにはこの工事によって計測機器の商売の基礎を築いた人がおります。また工事現場にでることによって家計をまかない家族の食い扶持を得たという人もおります。

 『黒部の太陽』から50年近くを経過して、ある映画監督は新田次郎氏の剣岳登頂の記録『点と線の記』を映画にして興行に成功しました。この監督はその映画のあとでも奥秩父の山小屋がかかわる物語を、この室堂平や立山に移し替えて映画を作りました。

 7月の中旬ころいつも行く立山の雄山(たてやまのおやま)(標高3,003 m)よりも少し高い大汝山(おおなんじさんやま)(標高3,015 m)の脇にある山小屋が撮影隊によって貸し切られておりました。4013年の夏のことです。

 室堂平の室堂山荘の部屋からその監督の映画撮影を見ておりました。風呂に入れるこの山荘の個室に宿泊して、ビールを飲んで日本酒を飲んで、風呂に入りということでノンベンダラリです。風呂におりましたら背の高い人が入ってきてサッと汗を流して出て行きました。渋い声で苦み走った顔をした俳優がテレビコマーシャルに出ているのを見て、あの人だと思い出したのでした。

 北アルプスの室堂平と立山連峰そして剣岳、向かいには後立山連峰がそびえますから、『黒部の太陽』もこの要素をふんだんに取り入れたら良かったのだと思います。

 石原裕次郎主演の映画は人の光と影の陰影を宿して作られておりました。この手法が当時の映画でしたから『黒部の太陽』も同じように作られました。

 この時代には加山雄三の若大将シリーズが全盛期で、森繁久弥の社長シリーズや、駅前シリーズが興行成績をあげていた時代です。植木等の無責任一代男などもその一つです。石原裕次郎は青春映画からは退いてヤクザ映画やラリーなどのドキュメント映画に移っておりました。

 『黒部の太陽』が上演されていたころ、東大医学部では騒動がおこり、学園紛争と70年安保で世の中が騒々しかったのです。上映4時間の映画『黒部の太陽』をテレビで見ていてあの時代のことを回想しておりました、


よし、霧ヶ峰高原に昇る朝日を見に行こう。

 温泉に浸かると草臥(くたび)れるので早く寝てしまいます。

 そして午前2時ころに目を覚すのがいつものことです。

 湯に行って寝汗を流すしながら、この日の行動を考えます。

 そうだ、朝食前に霧ヶ峰高原に朝日が昇るの見に行こう、と決めたのです。

 3月9日午前6時は、東京の日の出の時刻です。

 諏訪の宿から霧ヶ峰高原の中心部の強清水に出たのはちょうど午前6時でした。

 昇りはじめている太陽は標高1,925 mの車山(くるまやま)に遮(さえぎ)られているので霧ヶ峰高原、車山高原一帯には日は差しておりません。車山が太陽を遮らない朝日を浴びてま白く輝いておりました。

 車屋の上空に太陽が昇って一面を照らすのは少し先だということがわかったので、強清水から西に移動して八島湿原に行きました。高原にまだ日の出はありません。

 冬場の道路の終着点、八島湿原の横の路上には2台の車が止まっておりました。身支度をした人が湿原に向かって歩き出すのを見ながら私も同じように行動しておりました。太陽が八島湿原の向こうに見える蓼科山(たてしなやま、標高2,530m)の頭上に日が射したのは午前6時32分のことです。

 周りに二人ほどの人がいれば静寂(せいじゃく)という言い方はできませんが、氷点下10度(摂氏)ほどの気温が身体を凍らせます。昨日は佐久方面の野辺山では氷点下25度を記録しました。

 この場所にたたずんでただ景色を見ていればよいのです。それではもったいないので、写真を撮りました。

 デジカメのシャッターボタンをドーッと押して、そのついでにフィルムカメラを振り回します。フィルムカメラはブローニーサイズのポジフィルムを詰めた「645」というカメラです。自動露出にまかせるには雪原の撮影はできないかも知れないと、戸惑ながら10枚ほど撮りました。これで詰めてあるフィルムの半分以上になります。

 幅6センチメートルのフィルムを4.5センチメートル刻みで一小間として使う方式です。印刷用にはデジカメが便利ですから、「645」のカメラの出番はないといってもよいのです。

 しかしこうしたカメラを手にして絵を描くような気持ちで風景と向き合って写真を撮るのも良いことだと思っております。しかしフィルムカメラを操作するのもドーッという感じになってしまっていけません。「645」のカメラには、プリント用として使うことを目的にネガフィルムを詰めるのがよいのかも知れません。


北アルプスの常念岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳が白い雪原の上にちょこんと顔をだしておりました。

 朝日が昇り景色が変化する八島湿原を見物して、ついでに写真を撮って、強清水にもどり車山方面に向かいました。車山肩の駐車場付近では遠くの山を眺めて大気を存分に吸うのです。北アルプスの常念岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳(のりくらだけ)が白い雪原の上にちょこんと顔をだしておりました。

 御嶽山(おんたけさん)は真っ白になって空にそびえております。

 木曽駒ヶ岳などの中央アルプス、甲斐駒ヶ岳を含む南アルプスの連山、そしてこの日は雲より低い富士山の姿、八ヶ岳連峰などが見えておりました。

 日本アルプスの展望台としてこの地は良いところです。

 諏訪の西にある「高ボッチ」は車山高原よりも北にあるので北アルプスがよく見えます。

 肩の駐車場から南へ少し下ったところで望遠鏡を覗くと槍ヶ岳がとんがり三角をして空にそびえておりました。槍ヶ岳は冬でも黒く見えるのですがこの日は白い槍ヶ岳でした。それでも雪がところどころ、はげていることで槍ヶ岳が急峻であることを物語ります。

 2週間前と3週間前に70年に一度ほどの大雪が降りましたから、車山高原も霧ヶ峰高原も分厚い雪に覆われており、遠くに見える2,800メートルから3,000メートルほどの山々は何時もとはその白さが違います。朝日を浴びて白くくっきりと見えているのでした。

 八ヶ岳連峰は車山高原の雪原の東側に白く大きく横に広がっておりました。その右の低い茅野の峠(とうげ)を跨(また)ぐようには富士山が雲に押しつぶされたような姿で見えておりました。

 このような早朝の散策をして宿には午前8時少し前に戻りました。

 凍えた身体をサラサラとした温泉の湯で温めて朝食です。


(読み返しておりません。誤字脱字そして不適切な表現がありますのでご容赦ください。)

(写真と文章 甲斐鐵太郎)
 
 

旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №26
(タイトル)
白い天空の世界、霧ヶ峰高原の八島湿原で朝日が昇るのを眺める。
(サブタイトル)
北アルプスの常念岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳が白い雪原の上にちょ
こんと顔をだしておりました。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 3月9日撮影。)




旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №25
(タイトル)
絵を描くつもりでフィルムカメラを使う、という方法で写真を楽しもうと思います。
(サブタイトル)
撮影フィルムからの印画には特別の雰囲気を感じる。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 6月30日撮影。)




旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №24
(タイトル)
霧ヶ峰高原で野鳥を撮影している人を羨ましく思っておりました。
(サブタイトル)
旅行と山野と野鳥とカメラと写真。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 6月15日撮影。)




旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №23
(タイトル)
日曜日の夕暮れは富士山のサンセットショーの見物でした。
(サブタイトル)
夕日の光線が横から差していて、富士山にその筋がでて太陽の位置を示します。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 1月27日撮影。)




旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 №22
(タイトル)
雪景色の霧ヶ峰高原と車山高原の白い世界に身を置く。
(サブタイトル)
霧ヶ峰高原と車山高原に魅了されていて、機会をつくってここに足を運んでおります。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 1月12日撮影。)

 
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