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蓑輪善蔵が語る「計量行政に係わって69 年」
NZenzo Minowa talks about “69 years of involvement in metrology administration”

蓑輪善蔵が語る「計量行政に係わって69 年」2011 年 6月 3 日に収録(2024年9月7日再掲)

蓑輪善蔵が語る「計量行政に係わって69 年」2011 年 6月 3 日に収録(2024年9月7日再掲)

蓑輪善蔵が語る「計量行政に係わって69 年」2011 年 6月 3 日に収録(2024年9月7日再掲)

蓑輪善蔵が語る「計量行政に係わって69 年」2011 年 6月 3 日に収録(2024年9月7日再掲)

聴き手 松本榮壽、黒須茂、高松宏之
http://161.34.12.161/book-for-collecting-news-/new-holder-5-news-collection-/2024-02-17-news-materia-content-collection-/digidepo_10632249_po_ART0009947795.pdf

1.蓑輪善蔵氏のプロフィール

1925年千葉県香取郡佐原町 (現在 香取市佐原)に生まれ、42 年佐原 中学校卒業後、中央度量衡検定所に入所、45年 東京物理学校卒業、53年同主任研究員、73年工業技術院計量研 究所第4部長、76〜79 年計量教習所所長、80 年計量行政審議会検定検査専門部会委員、82年日本計量協会常任理事、84年計量標準国際比較検討委員会委員、85 年計量行政審議会計量管理及び計量士専門部会部会長、87 年計量管理協会理事、89年日本 計量士 会会長、2001〜2008年 日本計量史学会会長、現在同学会名誉会員。

本稿は、2011 年 6月 3 日に日本計量史学会事務所にて収録した対談をもとに編集したものです。

聞き手は、松本栄寿、黒須茂、高松宏之であり、一部を飛躍のないように編集しなおししてあります。蓑輪さんの人間性溢れるこまやかな情愛を失うことなく、収録内容にできるだけ忠実に執筆しました。しかしながら、事実や年代の誤認についての責任は聴取者にあります。以下の2〜4章は聞き取りの全記録です。

2,生いたちから中学校時代まで おばあさん子だったか。

◆松本 生い立ちをお話いただきたいと思います。生まれてから少年時代、学校へ入られて、中央度量衡検定所(中検)に入られるまでのあたりを。お生まれは千葉県の佐原でしたね。
◆蓑輪 そう。佐原です、弟が二つ下ですぐに生まれて、おふくろは赤ん坊を抱えてい たから、私はばあさん子です。年寄りっ子で、二つぐらいになったときにもうばあさんと一緒で 、寝るときも一緒でした。年寄りっ子だからいいかげんなところがあるんですよ。

 それで長男でしょう。長男というのは三文安いと言われています。だから人間が甘くできているんです。
◆松本 おばあさんはずっとお元気だったんですか。

◆蓑輪 そうです。 じいさんが死んだのは私が25歳のときだから、大分先まで生きていたわけです。

 ばあさんは1955年(昭和30年)に死んでい二人とも長命でした。
 ばあさんに連れられて夕方の4 時ごろまで外で遊んでいて、暗くなってから家に帰っ てくるという状況が、小学校に入るころまでずっと続いていたわけです。

◆松本 ずっと佐原だったんですか。
◆蓑輪 そうです。旧制中学校を卒業するまで佐原にいたんです。

○近くには伊能忠敬の旧宅が

◆松本 伊能忠敬のお宅の近くですよね。
◆蓑輪 近くです。家から300メ ートルかな距離でした。
◆松本 今でも伊能忠敬の旧宅が残っていて、その向かい側に伊能忠敬記念館が建っていますね。
◆蓑輪 ありますね、当時は、記念館はなかったですが、あの辺まではよく遊びに行っ ていました。
 あそこに川がありますでしょう。あの川は小野川と言い利根川に注いでいます。私の家はあの川のもう少し上流ほぼ東の方にありました。
◆松本 新館の裏に土蔵もありましたね。
◆蓑輪 旧宅の南東側の奥には土蔵が建っておりました。かつては忠敬の遺品の多くが納められていました。以前は旧宅の敷地内に伊能忠敬記念館がありました。新館ができる前はそこに展示していたんです。
◆松本 そうですね。できる前は私も行ったことがありますが、行きますと市役所の人が出てき説明してくれました。今のように増築され、専門家がいるという状態ではなかっ たですね。
◆蓑輪 なかったですね。奥にまだ人が住んでいましたからね。幼稚園に入るまではおばあさんと過ごしていました。
◆松本 そのころは幼稚園にみんな入っていたわけじゃないでしょう。
◆蓑輪 みんなは入らないですね。
◆黒須 伊能忠敬というと幕末の大偉人ですけれど、佐原ではどういうふうに見られていたんですか。
◆蓑輪 4月に忠敬祭(ちゅうけいさい )があったのかな。たしか忠敬記念口がありました。そのときに、毎年小学生が銅像の絵を描かされていました。
◆松本 どこか教室に展示したんですか。
◆蓑輪 上手に描けたものだけ教室に展示したのかな。
私なんか下手だから展示なんて関係ないですけれど、町で記念日をつくっていましたか らね。
◆松本 遠くから見てい た人間にとっての伊能忠敬は戦前、戦中、戦後まであまり評価が変わらない、非常に珍しい日本人の偉人なんですね。 戦前の偉人というのは、戦後は大体評価がひっくり返って、「あれは国賊だ」みたいになったでしょう。伊能だけはあまり変わっていなくて、ずっと伝わっていますね。
◆蓑輪 でも、評判はまだ全国的ではなかったんじゃないですか。
◆松本 なるほどね。今のように彼の業績をきちんと研究しようという状態ではなかっ たかもしれませんね。
◆蓑輪 なかったですね。でも昔からあの辺では、伊能忠敬を「ちゅうけいさん」と言 うんで伊能家の前にある「じゃあじゃあ橋」を「忠敬橋(ちゅうけいばし)」というの かな。あの辺の人は「ただたか」なんて言わない で「ちゅうけいさん」と言っていたんです。県立佐原中学校の校歌には「ただたか翁の威徳ぞ尊」というのが入っていたんですよ。私たちのときはそれが校歌だったんだけれども、私の在学中、新しい校長の意見で 校歌は新しいものに変わってしまいました。

○蓑輪家は裕福な酒屋

◆蓑輪 伊能家と蓑輪家というのは結構つながりがあったのですよ。
◆松本 どういうっながりですか。
◆蓑輪 蓑輸家は酒屋ですが、伊能家も酒をつくっていたのです。伊能は酒の免許を持っていましたから。蓑輪の本家というのが酒屋だから、酒屋の石数をふやすために伊能家から製造石数を譲ってもらってもいるんですよ。
◆松本 なるほど。酒屋同士が融通するわけですね。
◆蓑輪 そうです。それで、「蓑輪の 本家には伊能忠敬のつくった地図があるはずだ。調べろ」と天野清さんに言われたことがあります。それで本家に行って、「おじさん、こういうふうに言われたけれど、どうなんだ」と言ったら、「善ちゃん、それはだめだよ、うちはつぶれたときに道具屋がいいものは全部持っていった。だからないよ」と言うわけです。「何だ、そうかよ」ということになりました。
◆松本 惜しいことをしましたね。
◆蓑輪 ええ。あればね。
◆松本 とんでもないところから出てくるかもし本当は表に出てはいけない地図だったのかもしれないですね。
◆蓑輪 そうそう。変なところから出てくるんですよね。
◆松本 それはみんな道具屋ですよ。
◆蓑輪 どこの道具屋だか、もうわからなくなっているけれど、そんなこともありました。
◆松本 じゃ、昔は酒のブランドがあったわけですね。名前がわかりますか。
◆蓑輪 名前は知りませんけれどけっこう金持ちで 、幕末に天狗党が水戸からあの辺まで金を集めにきたときに、金を出しているんですよ。そのときに蓑輪は幾ら出したというのが 『香取郡史』には出ているんです。海野という人が書いた佐原の歴史書みたいなも
のがあって、私もそれをおやじにもらったんですがけれど、残念ながら、どこかにいっ ちゃって、今は手元にはありません。「ほら、書いてあるじゃないかよ」なんて、おや じに言われたんだけれどね。
◆松本 なるほど。蓑輪家は歴史書に書かれる家たんですね。
◆蓑輪 そうなんですよ。盛りのときには金はったたんです。蓑輪家の盛りの時期は明治の半ばぐらいまでですかね。そして、私のじいさんの 頃につぶれたんです。何でつぶれたかとい うと、結局、遊び歩いたんですよね。遊んで金を使ったんです。昔の話だから
状況はよくわかりません。

○天野清さんが募集ポスターを

◆松本 とにかく縁あって計量研の前身に入られることになったわけですね。それはど うしてですか 。
◆蓑輪 天野清さんが 『地方新書』を書いた清宮秀堅を調べに来ていたんです。天野清さんは 3回か 4 回佐原に来ています。中学に伊達牛助という、伊能忠敬の研究者ではないけれどけっこう調べている人がいました。この伊達牛助さんのところに天野さんは来ていて、それから清宮(宅)にへ行って調べていたわけです。私のうちは 9人家族、10人家族で狭いうちに住んでいるわけだから、「中学校を出たらどこか行くよ」という話になっ て、どこかに勤めなきゃならないから探していたら、天野清さんが募集のポスターを持ってきました。「それでは、ここに行ってみるか」ということで、どうせ行くなら東京だなと思ったわけです。夜学にでも行きながら勤めることを考えました。

 というのは、どっちみち兵隊にとられるわけです。兵隊にとられたときに二等兵で行くのは嫌だと思いましたね。「最初から二等兵じゃ、おれは嫌だよ」と。中学を出ているから乙の幹部候補生になれるんですけれども、歩兵か何かで持っていかれて、中国へ行かされても困るということです。

 それで東京へ出て理科系の学校を出れば何とかなるだろうと思って、出てきたわけです。

○中学は県立佐原中学校

◆黒須 中学校卒業って何歳ですか。
◆蓑輪 17歳です。
◆松本 そのころの中学というのはやはり大変なものだと思いますね。
◆蓑輪 そうですね。
◆松本 選ばれた人ですね。しかも佐原では。
◆蓑輪 佐原の小学校は男が 3クラスありまして、一クラスの人数が50人位だから、学年で150人位男の子がいました。けれどその中で佐原中学とか銚子商業とか、あと東京へ出て行く人も人れて、上級学校へ進学するのは全部で 50人ぐらいでしょうか。
◆松本 そのぐらいしかいなかった。
◆蓑輪 私のクラスは進学する人が多くて20人位だったんです。20人のうちの 17〜18人が県立佐原中学校へ進学しました。県立というのは少なくて、あの辺では佐原と銚子だけだったですね。成田は私立なんです。あれは初めから成田山が金を出してつくった学校ですから。

〇就職は楽だった

◆蓑輪 そんなことで天野清さんが来ていたものですか ら、「では行ってみよう」とい うことで、その縁で中学卒業後、中央度量衡検定所(中検)に来たわけです。あのころは多くの人が兵隊に行っていて、人が足りないですから、人が欲しい 、欲しいです。だから就職は楽だったですね。あれから5〜6年前の1937年(昭和12年)から38年(昭和13年)ぐらいはものすごく就職難でした。だから、佐原中学の英語の先生、歴史の先生、国語の先生は東大出でした。東京大学を出た人が中学の先生になっています。就職先がないから来たんですよ。こういう状況は私が卒業するころまで続きました。卒業するころは、就職は相当楽になっていましたけれど。
◆松本 先生のお名前はまだ覚えておられますか 。
◆蓑輪 覚えていますよ。木村、中郡、中林、能登地とかいうのがみんな東大出ですよ。物理学校出は数学の先生だよね。
◆松本 そういう先生にめぐり会ったわけです
ね。
◆蓑輪 うん。だけれど、東大出の先生でも実際に授業を受けなければ、いい先生か悪い先生かわからないですからね。

3 .中央度量衡検定所に入所から計量研の筑波移転まで

〇1942 年に中検入所

◆松本 中央度量衡検定所(中検)に入られたのは何年ですか。
◆蓑輪 1942(昭和17)年の3月25日です。あのころ総務部の部長と副部長が米田麟吉さん、岡田嘉信さんだったんですよ。岡田嘉信って名前ぐらい知っているでしょう。
◆高松 知っています。

○岡田嘉信さん

◆蓑輪 岡田嘉信というのは計量教習所の初めのころの所長ですけれど、はかりの専門家なんですよ。福岡から東京へ来た立派な偉い人でしたよ。福岡の戸畑高等技術専門学校の卒業生で、中央度量衡検定所の福岡支所にいて、その後東京へ来たようです。
◆高松 たしか岡田さんは1940(昭和15)年に「満州国」へ も計量の指導に行ってい るんです。国立公文書館アジア資料セ ンターに「商工技師岡田嘉信満洲国攻府ノ招聘二 応スルノ件1 (昭和15年8月9日付)という資料が残っています。

○今の 日本人には骨がない

◆黒須 蓑輪さんの若いころは全面的に戦争とダブっていますね。
◆蓑輪 そうです。満州事変のときに小学校へ入ったんですから。中学校に入ったときに日支事変、卒業したときにこの戦争ですから、戦争のための教育が全部やられたわけですよ。だから、言ってみれば右翼もいいところですね。ところが 、戦争が終わった途端に一転して右翼が全部左翼になったんです。私は天邪鬼だから。どっちかというと、「それでも右翼だから」と言って、随分けんかしましたよ。「何が共産党だ」と言ってね。
◆黒須 日本人の気質として変わり身が早いということですね。
◆蓑輪 早いですね。
◆黒須 ということは、骨がないということですか。
◆蓑輪 骨がないですね。今の人も骨がないですね。自分の言ったことに責任を持たないものね。「自分の言ったことぐらい責任を持ちなよ」と言いたくなるけれど。

○先輩からかわいがられた

◆黒須 蓑輪さんの履歴を振り返ると、どちらかというと、蓑輪さんはけっこう先輩にかわいがられたほうですよね。
◆蓑輪 かわいがられたですね。
◆黒須 徹底してかわいがられていますよ。
◆蓑輪 自分でもどうしてだろうと不思議に思うもの 。年寄りっ子だから年寄りがかわいがってくれたんです。私は年寄りにかわいがられたと思いますよ。
◆松本 中検に入ってからもですか。
◆蓑輪 中検に入ってからもずっとですね。天野さんにかわいがられたでしょう。玉野さんにかわいがられたでしょう。岡田さんにかわいがられたでしょう。私を嫌った人は年寄りには少なかったみたい 。就職して直ぐは量衡器係りに配属されましたが、そこに東山利市と言う先輩がいて、タバコを吸ったら叱られました。東山利市さんは右翼の影山塾の人で、終戦の日に宮城前で自殺しています。
◆黒須 今まで一度も相手との確執はないんですか。
◆松本 組合もあったし、もめたことはあるんじゃないですか。
◆蓑輪 それはありましたよ。「何を!」というのはいくらでもありますよ。
◆松本 歴史に残る中検の所長のもとだったですからね。

○計量教習

◆蓑輪 「計量教習」というものが中検にはあったんですよ。これは、本所、大阪支所、名古屋支所、福岡支所に申学卒で入ってきた人を対象に試験をやりまして 10人ばかり集めるわけです。それを東京へ呼びまして1年間みっちり仕込むんです。けれどそれが 1937(昭和12)年から始まっているんですよ。
◆松本 なるほど。戦前ですね。
◆蓑輪 それを1年間やるんです。仕事をさせないんですよ。仕事をしないで朝の9時から夕方の4時までみっちり講義をやるわけです。製図までやったんですから。数学、物理、電気、計量器学を含めまして、はかり、精密測定もやりました。
◆松本 本当の学校ですね。それで、教育が終われば、彼らをもとの部署に返すんですか。
◆蓑輪 返します。それを義務づけるのではなく所長の権限でやるわけです。そういう金を所長は持っているんです。小泉袈裟勝さんなんかも出ているんですよ。その最初だっ たと思うけれども、1937(昭和12)年ごろ、専門学校出以外の中学出の職員の内で 計量教習をやってから検定の責任者にし、任官させようということでした。

○比較検査に配属
◆蓑輪 私は6期生なんですよ。そこで1943(昭和18)年の3月に計量教習が終わりまして、行った先が比較検査というところなんですよ。そこに佐藤朗さん、天野さん、玉野さんがいまして、彼らは東大出の技師で偉いんですよ。3人技師がいて、技手が3人ぐらい、係員が男女含めて10名位しかいない。比較検査という係にそれだけなんですよ。今で言えば基準器検査係、そこでガスメーターの基準器、ガラス製量器の基準器、質量計の基準器、分銅の検査を全部やっていましそれだけの人数でできるはずないと思うけれども、何年に一遍とかしかやらなくていいものはやらないし、年がら年じゅうやらされたのは湿式ガスメーターの検査で、これが出張先の瓦斯メーターの基準器です。毎日毎日そればかりやっていました。

 私はそのころ物理学校の夜学に通っていまして、1年たって2月で2年生になった途端に、所長が調査係に引っ張り込んだんです。

◆松本 調査係?
◆蓑輪 調査係というのは物理学校の出身者がけっこういました。そこは所長直属でエリートの集まりです。そこではブロックゲージのそれから25メートルのトンネルがありまして、その中や地下室で長さの検査研究が行われていました。
◆松本 トンネル は温度が変わらないですからね。
◆蓑輪 変わらない 。トンネルをつくってあって、地下室に行っては何かやっていました。そこへ持っていかれました。何で持っていかれたかというと、そこに馬見塚という人がいて物理学校の2年になれなくて、彼が兵隊に行ってしまったので、そのかわりだというんです。

 調査係へ行った途端にブロックゲージを磨けと言うんですよ。酸化クロムという青い粉でもって 磨いて平面を出せと。平面を出せと言われたって 、ニュートンリングではかるわけですよ。「こんなもの、おれの性に合わない 」と思いましたね。
◆松本 そのころの検査のやり方というのは、どこから来たんですかね。
◆蓑輪 あのころの渡辺襄という所長は、光波干渉のナトリウムのD線を使った測定で世界的に有名な人です。 渡辺・今泉の研究は世界的に有名でした。

 ブロックゲージを磨いていたら、何も教えてくれないでニッケルメッキをやれなんて言われるし、そんなものできない と。
◆高松 メッキまでやったんですか。
◆蓑輪 メッキまでやっていましたね。
◆松本 基本ですからね。ブロックゲージは最も大事な長さの基準じゃないですか。
◆蓑輪 そうです。
◆黒須 我々素人考えだと、ブロックゲージというのは一つの精密な物差しみたいなものだから、そんなもの磨いていいのかよと思いますね。そんなものうかつにさわるもんじゃないぞと。

○渡辺襄所長にしかられる

◆蓑輪 それがいいかげんなブロックゲージで 、ただ平面を磨いて出せるかどうかとい うことだけなんですよ。平面を出せるまでになったら、何等かの精密測定に役立つだろうと言う事だったのでしようか。

 そのころは 1944年(昭和19年)3月ですから、もう食いものがない 。昼飯は佐原から米を持ってきて飯盒で炊いて食べていました。たまたまそのときブンゼンバーナーを使いまして、飯盒を上に載せて飯を炊いたんです。11時半ごろ渡辺襄所長が来て 「おまえ、何をやっているんだ」と。答えようがなくて黙っていたら怒られた。怒られたってしようがないですね。飯を炊いているんだから、「何をやっているんだ」と言われたって答えようがないですよ(笑)。
◆高松 多分ほかのところでも似たようなことをやっていたわけでしょう。

○谷川盈科さん

◆蓑輪 やっていたんでしょうね、よくわからないけれど。もうしようがないから黙っ ていたら、あくる日に計圧器係に飛ばされました。一番悪いところ。計圧器係には、谷川盈科(たにかわ えいか)さんという係長がいまして名物係長なんですよ。しごきにしごく係長です。そこへ初めに行ったときに私のことを怒ったものだから、それで半年間けんかしていました。出勤して直ぐ帰ったりしたものですから、毎日の検定個数などを記す 日計簿に「蓑輪9時出勤。9時半早退」とでかでか書かれた りして。

 いろんなけんかをやっていたけれど、半年位たった途端に、逆に仲よくなりました。谷川さんが折れたのか、私が折れたのかわからないけれど、多分私でしょうが。私が大げんかしたのはあれだけですね。そのかわり仲良くなったら、今度は私がやることに絶対に文句を言わなかった。誰かが「蓑輪は何か間違えてやっている」と言うと「蓑輪は知ってい てやっているんだからいい 」と、ほかの人に言うんですよ。それくらいの仲になったんです。

 谷川盈科さんは蔵前(後の東京工業大学)を出ている。それで本当に器用なんです。バルブの中をちゃんと磨けるんですから。谷川さんにやってもらうと、コソクを閉めるとぴたっととまる。バルブは使っていると漏るようになっちゃうんですよね。それを合わせ るわけです。ろうづけはやるし、器用な人でした。いろんなことを教わりましたけれど、私は器用なことはできないから、仕事はみんなに、やってくれとすぐに頼んじゃうんです。

○東京大空襲に遭遇

◆松本 1944年(昭和19年)ごろになってだんだん終戦に近くなりますよね。終戦前後なんてどんな状態だったんですか。
◆蓑輪 3月10 日の東京大空襲のとき、私は銀座の中央度量衡検定所に泊まっていました。あのころは1週間置きぐらいに泊まりの順番が回って来ました。7〜8人のグループに分けて防火班というのを組ませて泊まってい ました。私なんかが泊まるとしょっ ちゅ う空襲があるんだけれど、3 月10 日はすごい空襲でしょう。怖かっ たですよ。あんな大きな空襲は初めてですからね。だから初めは地下室に潜って、2人ばかりで震えていました。

○原器は疎開

◆松本 かなりの人は疎開したとか。仕事自体は別なところでやっていたんじゃないですか。
◆蓑輪 やってないですね。疎開したのは原器だけです。原器は中央気象台柿岡地区の地磁気観測所へ疎開しました。メートル原器とキログラム原器。あれは米田麟吉という技師が終戦後持ってきたんですから。
◆松本 まだメートル原器が二つあるね。
◆蓑輪 そう。二つある時代です。
◆松本 一一つは駐留軍に接収されました。
◆蓑輪 そうそう。東大に一っあって、あったそのうちの一つをとられて、で韓国に持っていかれました。

○仕事がない時代

◆松本 日本はいいことをやったと言われていました。そのころは検定の仕事はあったんですか。
◆蓑輪 その3月10 日があってから、がったり減りました。その後5月にも大空襲があって銀座の辺もやられましたけれども、そのときから仕事はほとんどなくなりました。朝から遊んで歩いているという感じでした。銀座の辺をぶらぶら歩いたり、演舞場の後ろでハゼ釣りをやってみたり。

 1945年(昭和20年)、1946年(昭和21年)の半ばぐらいまでは仕事はなかったと思いますよ。
○所内で寝泊まり

◆蓑輪 終戦になって1946年(昭和21年)年の3月に、レッドパ ージではないけれども、古い人はやめろうという話になって所長がかわったわけです。
 次の所長は的場鞆哉(まとば ともや)さんです。的場鞆哉という人は福岡支所にい たんですよ。終戦少し前に糸雅俊三さんという大阪支所の所長がやめて、的場さんは 6カ月ぐらい前に大阪へ来たら、今度は本所長がやめたので大阪からぽんぽんと来たわけです。専門は温度計、体温計ですけれど。住むところがないから所長室に住んでいました。

 あのころ東京は金部焼け野原でしょう。泊まるところがない。私もそうなんだけれど、何人か中検の中に泊まっていました。家がないんだからしようがないでしょう。中検も畳の部屋を一部屋つくって、ここに泊まりなさいということになっていました。宿泊者は最初は4〜5人だったのが最後は12〜13 人になっていました。帰ってきたって泊まるところがないでしょう。小泉袈裟勝さん、川田裕郎さん、なども泊まっていました。川田裕郎さんは後に、工業技術院長になりますが、当時はそういう人も泊まっていたんです。

〇1946年半ばから検定が急増

◆松本 計量法ができるまではまだ時間がありますね。数年間。
◆蓑輪 まだありますね。
◆松本 1946 年(昭和21年)ですから、前の度量衡法でやっていたわけですね。
◆蓑輪 そうです。度量衡法で。度量衡法というのはえらく条文が少なく、政省令も少ないのであとは全部通牒などで運用していたんです。通牒集が3冊あって 、その後は印刷できなくなった時代ですから通牒が来ると全部積み重ねていって、それを調べて覚えていないと検定できませんから、自分のところだけ覚えている。幾つもないからすぐ覚えちゃいますけれどね。

 1946年(昭和21年)の半ば過ぎぐらいから、今度はものすごい量の計量器が出てきます。
◆松本 何でもかんでもですか。
◆蓑輪 長さだろうと、量器だろうと、圧力計だろうと、温度計だろうと、何でもかんでも、えらく出てくるんですよ。
◆松本 つくったらすぐ持ってくるわけですね。
◆蓑輪 そう。つくって検定に合格しないと売れないから、ごそごそ持ってきます。猫もしゃくしもという感じで製作者ができまして、来ること来ること。残業をやったって間に
合わないわけですよ。

 毎日毎日残業ばかりで7時8 時まで検定をやらされました。
◆松本 検定料は物価に関係なく、前の値段でやっていたんですね。

◆蓑輪 同じです。 体温計が10本で7銭かそこらですからね。検定料がものすごく安いのです。残業しても時間外手当の予算がない。もうしようがなくて偉い人が業者から金を集めて配ったんです。メーカーのほうは、やってもらわなければ売れないから、やって もらうためには金を払いますということだったと思います。あれは正式にはなっていませんから、知っている人は少ないと思います。
◆松本 そうですね。正式にやったら問題になりますね。
◆蓑輪 あれは幹部何人かでやったんでしょうね。
◆黒須 不合格品も多かったんでしょう。
◆蓑輪 多いですよ。半分ぐらい不合格の製品があったときがありますものね。私なんかがやっていたときはすごいですよ。圧力計検査というのは、圧力計を試験機に取り付けて圧力を上げていくで しょう、最高圧で30分置けという規則です。30分置くとブルドン管が全部延びちゃう。ブルドン管にいいかげんな真鍮を使っていますから。
◆松本 材料がないわけですね。
◆蓑輪 材料がないですから、これは延びますよ。あっという間に延びちゃうんです。「全部だめ」と言って、持っていかせていました。それでも、やはりつくるんですよ。下手に工場でもって検査するよりも、検定に持ってきたほうが安いですから。検査工を雇うより、検定を受けた方が安くあがるんですよ。
◆松本 お役所のお墨付きでもありますからね。

○組合運動

◆蓑輪 そのころですよ。今度は組合運動。私は随分やらされました。青年部の部長なんてけっこうやらされましたよ。私は所内で案外人気があったんですね。当時は、兵隊上がりがけっこういたんです。うるさいのが。兵隊帰りの人と私はあまりけんかしたことがないんですよ。向こうに気に入られたのか、こっちが頭を下げたのかわからないけれども、まあまあ仲がよかったんです。その連中と一生懸命酒ばかり飲んで遊んでいたから、兵 隊から帰った人達は若い連中には煙ったいわ、出刃を持って振り回して役所の中を駈けずり回ったりしているんだから。私はそういうことは全然やらない 。おとなしいからね。だから、青年部の部長をさせられたりして、2.1ストの時はあっちに行ったりこっちに行ったりしてストの説明をしていました。

◆松本 計量法の 作成を1949年(昭和24年)から始められたときに、進駐軍からの圧力はなかったんですか。
◆蓑輪 それはなかったようです。玉野光男さんという所長が進駐軍に行っていろんな交渉をしていたんだけれど、制約はなかったようですね。玉野さんは、メートル原器、キログラム原器を朝鮮に渡す渡さないの問題が起こったときの所長だから、GHQへ行ってこ れがいいとか悪いとかいろいろとやっていみみたいですけれど、計量法については制約はなかったみたいですよ。聞いてないですね。あのころは中央度量衡検定所にも法令に関してけっこうよく知っている人がいましてね。高橋凱さんとか。それからミツトヨに行っ た江浦さんとかは度量衡法とかをよく知っていて、計量課長になった高田忠さんも一目置くような連中がたくさんいましたからね。高田忠さんは強引にいろんなことをやりましたね。

○レツ ドパージ

◆松本 中検でお役所の立場と組合の立場で、非常にもめて困ったというのはありますか。
◆蓑輪 それはないですね、こっちは言うとおりにやっている御用組合だから。私が活動していた組合は御用組合に近いんですよ。玉野さんとよく組合交渉したけれども、あまり無理な注文を出さないことにしていました。一番困ったのはレッドパ ージです。中央度量衡検定所は4人か5人の共産党員の首を切ったんですよ。そのときに所長室で彼等がぎゃ一ぎゃ一騒ぐわけです。当時、「係長は全部、用はないけれども残っていろ」というわけですよ。私の部屋にはそういうのはなかったんだけれども、温度計や庶務などに石口とか岩城とか私と仲のいい人もいました。

 けれど共産党だというから、けんかをしたり、口けんかしたりしていたけれども、その連中が首を切られて、あのときには大分もめましたね。共産党脱党届に名前を書いて、私は脱党したという脱党届を廊下に張り出した人もい ました。

 そういう連中は助かっているんですよ。共産党から抜ければ大体大丈夫でした。抜けるか抜けないかだけが問題だったんです。あの連中はオルグと言われた連中ですけれど、よく仕事をするんですよ。きちんとしているんですよ。それでも思想的にいろいろやるわけでしょう。そういうことがありましたけれどね。
◆高松 当時は上から「首を切れ」と命令されていたわけだから、仕事ができるかどうかということは関係ないんですね。
◆蓑輪 関係ないですね。党員を切れというんだから、所長だってやりようがないですよね。共産党員であることが大っぴらになっていれば駄目ですからね。

〇1949 年に 結婚

◆松本 結婚されたのは何年ですか。
◆蓑輪 1949年(昭和24年)の 2月です。
◆松本 そのころは住宅の状況はよくなっていたんですか。
◆蓑輪 まだまだ良くなかったです。私は中検で寝泊まりしていました。だから、市川に在った家内の家に同盾する事になりました。

 終戦後、うちの家内が中検によく遊びに来ていたんですよ。

 家内は、1944年(昭和19年)ごろに中検に勤めており、終戦のときにやめて、家にい
たんだけれども、家にいてもやることがないからと中検に遊びに来ていたわけです。しょっちゅう谷川盈科さんのところに遊びに来ていました。私は千葉の人間でしょう。「一緒に帰るか」なんて言いながら帰っていたんです。そんなことがなれ初めです。

 家内のうちは市川にありました。市川の離れをあけるからと言ってくれたんですけれど、空かなたので、しばらく家内の両親と一緒に住んでいて、そして1年か2年たったら家内の親が別のところに家を建てて移って、こっちは残ったわけです。それも借家ですけれどね。

◆松本 市川でしたら、職場にも比較的通いやすくてよかったですね。
◆蓑輪 近くてよかったです。遠かったら大変でしたね。家内の親というのは建築、土木屋です。鹿島建設で指宿か宇部なんかの石油タンクの基礎づくりをやったりしていた。

 それでお金を持っていたんです。特許を持っていたからそれを鹿島に売って。昔技術屋として銀座の松屋を建てたり、国会議事堂にも関係したと言っていました。

○検定で徹夜も

◆黒須 結婚は 1949年(昭和24年)だと言われました。その前に、1946年(昭和21年)年の終戦直後、とにかく仕事が忙しくなったということでした。まだ生産ラインも何も動いていない段階で、検定ってそんなに忙しいんですか。
◆蓑輪 検定数は多かったですね。1946年(昭和21年)の終わり頃からですか1947年 (昭和22年)以降は本当に大変でした。
◆黒須 計器が必要だったんですか。
◆蓑輪 そうですね。何もなくなっちゃったんですからね。量器なんて水をぶっかけて出したという話もある位ですよ。どういうわけかな。わかりません。特に長さ関係が不足 していたかな。畳尺から何からなかったみたいです。とにかくすごかったですよ。
◆松本 畳尺って折り畳むやつですか。
◆蓑輪 そうそう。
◆松本 ラインを動かすためにはそういう計器が必要なんですね。
◆黒須 現場で使うものもなくなったから、そんな高級なものでなくても。
◆蓑輪 ええ。圧力計なんかはボンベにつける圧力計がないんですね。あれは油を使うと爆発しますから検査で油を使えないんですよ。だから水を使うんです。禁油と書いてありますけれどね。それからガス屋が使う圧力計、ドラフトゲージというのがあって、そんなのがくるし、そうかと思うと高度計もありました。気圧ではかる高度計です。
◆松本 とにかく何でもつくれば売れる時代だったんでしょうね。
◆蓑輪 そうです。私が計圧にい るこ ろの 1949年(昭和24年)、1950年(昭和25年)は、船に使う圧力計、それから汽車で使用する圧力計が大変なんですよ。輸出のための 圧力計をつくったトキコ(東京機器工業)などが、東京計器はもっと違う圧力計だけれど、「輸出にこれを今夜積みたい」と言って持ってくるんですよ。最高圧力150kg/CML’ぐらいの圧力計を持ってくるんですが、いいかげんな管を使うから管が破裂しちゃうんです。

 「蓑輪さん、これを何とかしてくれよ」と言うから「パ ンクしちゃうようなやっを合格にできないよ」と言うと、「ちょっと待ってください 。今つくり直して持ってきますから」と言っ て、川崎まで行って戻ってきました。しかし、それでもだめなんですよ。「蓑輪さん、待ってくれ」と言うから徹夜ですよ。しようがないから待ってやるわけです。積み込まなければしようがないんだからという話で、大変でした。
◆松本 やはり日本の最初の特需分は朝鮮戦争(1950 年〜 53年)ですね 。
◆蓑輪 そうそう。朝鮮戦争でしょうね。
◆黒須 圧力計なんかは、直してこいというと、ろうづけか何かして直しちゃうんだろうな。
◆蓑輪 いや、それをやると危ないんですよ。それをやらないでまた新しくつくり直すんです。ブルドン管をろうづけして曲げて、それで来るんですよ。やっと証印を押せたのが朝の5時ごろ、明るくなってからですよ。
◆松本 それは本当に動いたんですかね。
◆蓑輪 いや、私は全然わからないけれども、ただ、こっちはそのとおりやって合格すれば証印を押すんですから。
◆高松 でも、最高の圧力のところで30分は間を置くんでしょう。
◆蓑輪 置きます。それで大丈夫なら多分大丈夫だろうということです。
◆松本 常時そんな圧力で使っているわけではないですからね。

◆蓑輪 3分の2 ぐらいがせいぜいですからね。そのころに、そういうことをやるとわかると、酒を持ってきたりして「徹夜してください」と来るわけよ。すごいですよ。そうすると今度は、若い人たちがマージャンを始めるんです。検査にかかる時間が30分はあるから。かけっ放しで時間が来るまでやっていて、「お一い 、来るぞ 」と言うと、やめて見に来るんです。

〇盛んだっ たス ポーツ

◆蓑輪 しかし、あのころはそんなことばかりやっていましたが、スポーツが盛んだったんでよ。
◆松本 どんなスポーツですか。
◆蓑輪 工業技術院(工技院)という組織の中で野球、テニ ス、卓球、バレーボール 、この四つだけ大会をやるというわけですよ。工技院だから試験場が八つあるでしょう。それを一堂に集めて試合をやる。それはもうすごいですよ。私は軟式テニス専門だったですね。中学のときに軟式をやっていたから。
◆松本 ポジションは何だったんですか。
◆蓑輪 テニスは前衛です。野球はピッチャーですよ。
◆松本 すごいですね。
◆黒須 蓑輪さんは万能選手ですね。何でもこいですよ。
◆蓑輪 そうなんですよ。卓球だって強かったですからね。
◆松本 短時間にものすごくエネルギーを使いますね。
◆蓑輪 それはなぜかというと、野球は小学校の4年頃からやっていたからですよ。本家に銚子商業で野球の選手をやっていた人がいるもんだから、それで9人集めて野球のチームをつくって試合をやっていたんです。子供のころから野球はうまかったですよ。中学に入ってすぐに、みんな集まってキャッチボールを昼休みにやっていたんです。ショートバンドが来て、私が逆シングルでとったら、野球部のやつらがひっきりなしに勧誘に来ました。中学の1年生ぐらいの子供が逆シングルでショートバンドをとるなんていうことはまずないですよ。それもまぐれに近いんですけれど、やっらが見れば、こいつは野球のセンスがあるなというのはわかるわけですよ。入れ入れと、うるさくてうるさくて、おっかなくておっかなくて、という状況でした。
◆黒須 プロが見れば、キャッチボールを見ただけでわかるということですね。
◆蓑輪 みたいね。
◆黒須 東京ドームにファンキャッチボールを子供たちにやらせるんです。野球を知っ
ている人は、「あの中で使えるのはあの子とあの子だけだ、あとはガラクタだ」とすぐわかるようです。ちょっと投げただけでわかっちゃうんですね。それだけ球が速いんでしょうね。ぴしゃっと行くんですよ。
◆高松 テニスは何がきっかけで始めたんですか。
◆蓑輪 おやじがテニスをやっていたんですよ。だから家にラケットがありました。それを持っていってやったわけです。野球は金がかかりますからね。
◆松本 何でですか。
◆蓑輪 まず、ユニフォーム をつくらなきゃならない。スパイクを買わなきゃいけない。全部そろえなきゃならないでしょ う。テニスはズボンと運動靴さえあればいいんですよ。あとはラケットだけですからね。ラケットなんてすぐ壊れるものではないから、金がかからないからテニスだというわけです。

 本当はボートをやりたかったんで佐原中学にボート部があったんです。利根川でやっ ていました。それでボートレースがありまして、そのときにみんな見に行くわけですよ。屋台は出るし、おもしろいんです。
◆松本 ボート部選手は合宿してやっていたんでしょうね。
◆蓑輪 そうそう。ボートをやりたかったんでけれど、入った途端にだめになりました。ボートが壊れちゃって、修理の金はないというわけです。ボート部が廃部になっちゃって◆松本 そうすると、中学時代からスポーツをいろいろやられていて、工技院の大会もい ろいろ出ていたのですね。
◆蓑輪 何か大会があると必ず顏を出していましたからね。
◆松本 よく時間がありましたね。残業もやられて運動の選手でもありなんて、そんなことないですか。
◆蓑輪 そんなことはないですね。いいかげんだから。
◆黒須 検定のような仕事は、スポーツでもやらないともたないんじゃないですか。病院
のお医者さんと同じで、座ったきりでやっているでしょう。こういう仕事だと、体でも動かさなきゃもたないでしょう。座っている仕事のほうが多いんでしよう。
◆蓑輪 そうそう。圧力計の検定なんて駆けずりてやれるからいいけれど、ほかの検定、体温計とか物差しなんかもあまり動かないですよね。そのせいか、みんなよく運動をしていましたよ。その後瓦斯メーター、水道メ ーターを初め多くの検定は地方庁に委譲になり、中検の検定検査は基準器検査が中心になっていました。中検が1957年(昭和32年)板橋に移転すると、敷地も広くなり近くに区営の運動場もあって、野球場やテニス場を借りたり、敷地内でバドミントンなどスポーツが盛んに行われるようになりました。

○戦前とは逆の風潮に

◆蓑輪 中検というのは戦時中渡辺所長の方針で「男女7歳にして席を同じうせず」なんですよ。女の職員がいて若い男の職員がいて、2人で話をしているのを見つかったら怒られます。
「2人そろって話をすりゃ、林のばあさん角を出す」という数え歌が中検で歌われてい たんですよ。

 林のばあさんというのはお茶の水女子大出の年配の人ですけれど女子監督という立場です。それで男の子と話をしているのを見つかったら両方とも怒られました。
◆松本 それは戦前のことですよね。
◆蓑輪 そうです。ところが、終戦になって所長がかわった途端に、女の子と話をしてもいいこと今度は大っぴらです。戦争が終わって今度は民主主義だからというわけです。民
主主義というか自由主義というか。女の子と仲よくなって、ハイキングに行くとか、みんなで女の子と騒ぐわけです。
◆松本 その意地悪ばあさんはいなくなったんですか。
◆蓑輪 いなくなりました。林さんが退職して、代わりに岡沢さんという女性にかわっ たんです。中年のきれいな女の人だったけれど、そのうち退職してしまいました。2階にはきれいな女子更衣室があり、オルガンがちゃんと設備されていました。宿直のときに、オルガンを弾いたりして、いたずらをしたりしたこともありましたよ。

 制限がなくなったわけですから、今度は男の子と女の子がくっつくのが早いわけです。私なんかそういうことが一番早いことにに、なっているんだけどけれども、そうじゃありません。私のところものすごく、そういう情報が集まるんです。ですから、私は職員の恋愛の状況などはほとんど知っているんだけれど、あまり言うと、まだ存命の方もいらっしゃるからね。
◆松本 みんなから感謝されたんじゃないですか。
◆蓑輪 だから、随分いろんなことで相談に乗りましたよ。女性からの相談も随分ありましたね。私はまじめだったんですよ。結婚するときに、庶務の係長をやっていた人が市川に住んでいたんだけれど、それが家内を呼びっけて、「蓑輪は女たらしだから結婚するのは考えたほうがいいよ」と言ったそうです。変な評判ばかり立っんですよ。いろんなことがあるけれど、それもこれも昔の話。

(休憩〉

○浮ひょうの検査で苦労

◆黒須 浮ひょうの検定で苦労されたとか。
◆蓑輪 標準浮ひょうの検査をやるときに、例えば水の中に浮きばかりを入れると止まるでしょ。水は表面張力が大きいんです。 20 ℃で72 .75mN /m ですから。初めのころは硫酸とまぜて比重で1.1とか 1.2とかの 目盛を検査するんですけれども、表面張力が大きいから、ちょっと汚れるとメニスカス(表面張力によって細管内の液体の表面がつ くる凸状または凹状の曲面)がなかなかきれいに出にくいんです。これをきれいに出すために、水の表面に流すんですよ。流すときれいになりますからね。硫酸ですから湿気を吸ったりするとおかしくなって、同じ液体をはかっていてもやるたびに違ってきまそれでどうにもならなくて水で表面を流します。流したら、やるたびに同じになってきました。表面張力というのは、ちょっと見たぐらいではなかなかわからないんですね。研究所になって初めての研究発表をする事になった時、私が発表させられました、「こうやったら直りました、うまくいきました」という話をさせられたんです。

 最初に研究発表をやったのは私なんですよ。朝永良夫さんに言われてやったんです。

○中央度量衡検定所は銀座にあった

◆松本 中央度量衡検定所 (中検)は、1949年(昭和24年)にはどこにあったんですか。銀座ですか。
◆蓑輪 銀座です。私が中検に入ったのは、1942年(昭和17年)の3月です。話は変わりますが、1942年(昭和17年)ごろになると物がないわけですよ。戦争が始まっていたときですから、だんだん物がなくなってきていて、昼飯も食うのがなかなか大変になってきました。中検の4階に食堂がありまして、そこで昼飯にうどんを食わせてくれました。値段は10銭だか12銭だったか、それとも金を取らなかったか覚えていないけれど、女子職員がつくっていました。それを昼飯として食っていた時代がありましたよ。あのころ銀座に行くと、まだみつ豆屋なんかがありましたね。
◆松本 まだ営業していたんですか。
◆蓑輪 していました。「若松」とかがまだありまして 、いい喫茶店がありましたよ。「牡丹」なんていう店は私は好きでしたな、いい女の子もいたみたいでしたね。あのころは、まだ 1942年(昭和17年)ですから。
○板橋に移転
◆松本 銀座でやっておられたのはいつごろまでですか。
◆蓑輪 1958年(昭和33年)までです。
◆松本 板橋に移られるときには組織も相当変たんですか。そうではなくて組織は同じですか 。
◆蓑輪 組織は変わらずに移りました。その前に、中央度量衡検定所は 、1952年(昭
和27年)に中央計量検定所と改称されました。中検は 1956年(昭和31年)に組織が えらく変わって研究室制度になったんですよ。そのころにきちんとした部制になって研究部ができたんですね。1部、2部、3部が研究部になって、4部となったのかも。

 そして、1958年(昭和33年)に板橋に移転したわけです。

注:中央度量衡検定所の組織:1947年(昭和22年)頃まで は規定によれば3部1係制であったが実際は、研究、検査、検定を分担する主任技師により運営されてい た。後− 業技術庁、工業技術院の傘下に入り研究所への道を進む。

1953年(昭和28年)頃から研究室を誕生させ、1956年(昭和31年)頃から筑波に移転する頃までの、研究所としての基本的組織となった。すなわち4部2課、総務部制となる 。
第 1部 2課、5研究室
第2部 2課、6研究室
第3部 2課、6研究室
第4部 3課、11係

○係長の権限が強かった

◆高松 いろいろあるけれど、今ほど規則でガチガチと行動が規制されていませんでしたので、今よりはもう少し自由度がありましたね。
◆蓑輪 あった、あった。
◆高松 いちいち上司の判断を仰がなくても、それぞれが自らの権限で判断できるとい う自由度がありましたね。そのかわり責任も持たされたけれども。
◆蓑輪 度量衡法が計量法に変わる前は、係長がほとんど責任を持っていて、係長が困ったという時は技師のところに持っていくけれども、困らなければそれで済ましちゃうから、全部係のところで済まさざるを得なくなっているんです。だから、係長の権限は強かったんですよ。ですから、係長は、法令の内容をよく知っている人でないと務まらないんですよ。だから、係長というのはつらかったんじゃないかな。私なんか1944年(昭和19年)から計圧器係だから、1944年(昭和19年)から1949年(昭和24年)まで 、係長にな
るまで 6年ぐらい同じところにいたんですから。
◆松本 同じところに。
◆蓑輪 それで係長になっているんですから、仕事に関してはみんな知っているわけですよ。全部知っているから、どうってことはなかったんだけれどね。だから、若い連中を見るとすぐわかるわけ。その係は男ばかりで、私よりみんな若いんだからね。高田誠二さんが私をつかまえて「若いころは怖かった」と言うのは、圧力計の係長をやっているころを知っているからです。あのころは男ばかりだから、どなりっけないとやらないんですよ。おとなしく「やれよ」とか言ったってやりはしないんだから。「このやろう」と言わなくちゃ。だから、私のことを怖い、怖いとみんな言うんですよね。係長が黙っていたら仕事なんかしないんですよ。私は戦争が終わるまでずっと次席だったんです。係長はずっと谷川盈科さんで、次席に須藤さんがいたんだけれど、彼は胸を悪くしてずっと休んで いました。私が実質上の次席だから、ある程度責任を持たされました。終戦になって今度は兵
隊に行っていた人達が帰ってくるでしょう。みんな私より上で、2人ばかり入りました。川村竹一さんとか堀越義国さん。堀越さんが次席で、三席が川村さん。四席が私になっ たのかな。四席になったら今度はのんきですよ。この頃こそ遊んで歩きました。ちょっ と仕事をやっては部屋からいなくなりましたね、あっちの部屋、こっちの部屋へ行って、野球をどうしようかとか、テニスをどうするとか、そんな話をしながらぐるぐるぐるぐる囘って歩いているんですから、そうすると、係長の谷川盈科さんが堀越さんとか川村さ
んをつかまえては、ぐずぐずぐずぐず文句を言っているわけですよ。そのとき、私は遊んで歩いて外へ行って、いないんですからね。「これはだれがやっ た」「蓑輪がやりました」。そうすると、「じゃ、いいよ」と谷川さんは怒らないんだから。

 おもしろいもんだよね。私は若い人達と仲よくなっているもんだから、どこへ行ったって平気だったですね。

○度量衡法から計量法へ の改正

◆松本 度量衡法から計量法への改正に関わっておられますね。
◆蓑輪 終戦になって2年ぐらいたったら、度量衡法を計量法に改正しようという話になって、1949年(昭和24年)ごろから実際の作業が始まってきたわけです。1949年のときに私は係長になっていて、一番若い係長でした。高橋照二さんは私より1年上ですけれど、私と高橋さんの 2人が係長になって、玉野さんが総務部長でした。そのころ私の担当は計圧器係で、圧力計の検定をしていました。

○圧力計の検則原案をつくる

◆蓑輪 そこで若い男を7〜8人使って、彼らをどなりつけながら検定をやっ ていました。そのときに計量法ができるから検定規則をつくるとい話がでてきました。私に圧力計に関する検定規則の原案を全部つくれというわけです。私は係長になったばかりで、1年ぐらいしかたっていませんでした。1944年(昭和19年)から1952年(昭和27年)まで そこにいたから、知っている事には変わりないけれど、高田忠度量衡事務官(初代計量課
長)も加わって、みんなで推敲して決めたんです。
◆松本 できるまでどのぐらい時問はかかったんですか。
◆蓑輪 私の担当は1〜2週問ぐらいです。ただ、作業は夜の夜中までやるわけですよ。◆松本 そうでしょうね。細かいことを合わせなければいけないから。
◆蓑輪 あの高田忠という計量課長は、仕事のやり方がひどいんですよ。夕方5時ごろ中検に来て夜の夜中の11時とか12時までやるんですから。
◆松本 それを毎口ですか。
◆蓑輪 それを1週間ぐらい続けられたんですよ。私は結婚していたので、家に帰ると、家内が「顔色が悪いよ、どうしたの」と言うわけです。だって 11時ごろ終わって12時半とか1時にうちに着くでしょう。それでちゃんとまた朝に出ていくんですから。
◆松本 家に帰ってですか。
◆蓑輪 家に帰って寝て、朝起きて、飯を食って。3時間かそこらしか寝ないで、それでまた昼間の仕事をして、夕方から検則の作成作業をやるわけだから、あのころはひどい 目にあいましたよ。

○密度計、浮ひょうの基準器検査規則も

◆蓑輪 それで圧力計に関する検定規則ができたら、終わりましたというので、今度は密度計、濃度計(浮ひょう)係の係長をやってくれと言ってひどいものです。そこに行っ たら、今度は密度計、濃度計、比重計の基準器検査規則を作れと言うのですから。密度計等の係へ行ったばかりでしたが、そんなことばかりやってきました。私は大体が後始末屋なのです。ずっと後始末ばかり。

 密度の標準を作ることは、間宮修一郎という人が比較検査という係にいてやっていたんですが、この人が計量課に転出してしまったのです。職場放棄ではなくて、行きたくて行ってしまったんだけれども、間宮さんが計量課、いわゆる本所のほうに移ったから、密度をやる入がいなくなって、「蓑輪、おまえやれ」というわけですよ。命令でね、そこで基準器検査の規則をつくって、その後、密度標準の研究になったのです。

○計量法の改正

◆松本 計量法ができたのはいつですか。
◆蓑輪 1951年(昭和26年)です。
◆松本 それから現在に至るまで何回か改定、大改定があったんですか。
◆蓑輪 ありました。
◆松本 その後はいつですか。
◆蓑輪 1959年(昭和34年)、1966年(昭和41年)、1993年(平成5年)、2000 年(平成11年)、2001年(平成13年)年、2002年(平成14年)、2003 年(平成15年)と改正されています。

〇1966 年の改正は大改正

◆蓑輪 1966年(昭和41年)の改正は電気測定法との統合などがあったから本当に大改正ですよ。
◆松本 そこに至るまで、準備はけっこう大変だったんですか。
◆蓑輪 大変だったようです。電気測定法の事もありましたが、計量法の総てを見直しています。

 計量単位の追加、電力量計などの法定計量器への追加、型式承認制度の導入、そして土地、建物についてメートル法にする法律の制定で完全メートル法化の達成等々、大変な量の改正が行われました。あのころ私は行政にかかわっていなかったので部分的にしか情報はありませんでしたね。
◇高松 法律は一緒になったけれども際に扱う現場は一緒になっていない。
◆蓑輪 なっていない 。
◆高松 今でも電気メーターは資源エネルギー庁ですからね。計量法は、最後は計量行政室が責任を持たなければいけないんだけれど、実際は、電気メーターに関しては全部資源エネルギー庁がやっちやうから。
◆蓑輪 あれはただ別のものを一緒にくっっけただけの話だから。
◆高松 実務の現場は別々のままなんですね。
◆蓑輪 一緒になったのは温度だけじゃないですか。温度測定の為の熱電対を日本電気計器検定所で検査するようになりました。

○計量研の筑波移転は拙速だと思っていた

◆松本 筑波に移転する前後は、蓑輪さんはどこにおられたんですか。
◆蓑輪 筑波移転のころは計量教習所長です。
◆松本 教習所のほうに既にいたんですか。
◆蓑輪 そうなんです。移転のときには教習所にいましたから。私自身は筑波に行くつ もりは半分あったんだけれど。
◆松本 話が始まってから、かなり時間がたちましたね。
◆蓑輪 筑波移転というのは、今はそう思っていないけれど、あの当時は拙速と思っていました。研究所と名のつくものが全国にもっと増えてからにしたほうがいいと考えていました。「移るんだったら、あそこに町をっくってから移れ」と言ったんです。
◆高松 当時は何もなかったですからね。
◆蓑輪 何もなくて生活ができないから、それはだめだ、生活の基盤をつくってからと言ったんだけれど、上司の部長、所長に握りつぶされたんじゃないかな。
◆高松 今から客観的に考えると、確かにそうですね。
◆蓑輪 あのときそういう意見書を書いて出したんだけれどね。意見があれば言ってくれというから。
◆松本 当時は川田さんが計量研究所の所長だったんですか。
◆蓑輪 川田さんは部長で、1980年に所長になってますから、私がいた頃は桜井好正さんでした。移転した時の所長は桜井好正さんでした。

4 .日本計量史学会から計量管理協会までの活動

○日本計量士会へ

◆蓑輪 私が計量教習所をやめるとき、計量研の所長は桜井さんだったんです。桜井さんから電話があって、「蓑輪さん、もう2年過ぎたからそろそろやめてくれませんか」と言うから、「そうか。おれ、やめるのか」と言ったら、「うん、そうです」と言うから、「どこか世話してくれ」と言ったら「ちょっと待ってくれ」と言うわけですよ。

 それで工業技術院と相談したみたいです。そうしたら、薦められたのが製品安全検査協会 (今の製品評価技術基盤機構)でしたか。そこの 部長職があいていますというわけです。計量課に、そこからの出向者で大坪さんという人がいたので、彼に電話したんです。「あそこの部長職があいていて、私にどうだと言うけれど、どうなんだ」と言ったら、「ちょっと待ってくれ。調べてくる」と言って調べてきてくれました。

 「蓑輪さん、やめたほうがいい。57歳で定年です」と言うんですよ。「何だよ。私54歳でやめて3年で定年か」と言ったら、「そうです。定年になったら、また職探しをしなければなりませんから」と言うから、「じゃ、やめた」ということになりました。

 しかし半分はジェスチャーで 、私はもう決めていたんです。日本計量士会に行くことになっ ていたんです。日本計量士会がこんなにひどい状況だと思っていないですからね。本宮大介さんと小泉袈裟勝さんに言われて、「しようがないから行くか。仲間のところに行くんだからいいや」と言って来たんですよ。本宮さんは日本計量士会の専務理事を辞めたくて、早く教習所長を辞めうと催促されていたのです。

◆松本 計量士も既にかなりいましたね。何千人か 。
◆蓑輪 そう。何千人かいたんだけれど会員は1000人ぐらいだから、あのころはひどい 団体でしたよ。団体の形もなしていなく、事務局もお粗末で金もなくて会長の溝呂木金太郎さんにおんぶしていました。
◆高松 外からでは、団体の中身はわかりません仕事の続きでいうと、計量教習所長をやって計量士をいっぱい育てられているから、日本計量士会というのはポジションとしては非常にいいですよね。
◆蓑輪 そうなんですよ。日本計量士会の状態がよければ非常に私には合っている団体なんです私は計量研で4部長をやっていて、その後が計量教習所長ですから、全国に一応名前は通っています。ですから、計量関係の全国団体は勤めるには楽ですよね。だから、日本計量士会へ来たようなもんですね。私には民間の会社は務まりませんからね。

 ただ実際には、日本計量士会へ来たら、金はないし、人はいないでしょう、一体どう するんだよってなもんです。しようがないから、長野計器社長で日本計量士会会長の溝呂木金太郎さんのところに行って、「金をくれ。人をくれ」と言ったんです。圧力計の 製造会社である長野計器は1948年(昭和23年)にできたんだよね。
◆高松 そうです。
◆蓑輪 ちょうど私が中検の計圧器係にいた頃なんですよ。だから長野計器のことは、今の人よりも私のほうがよく知っています。ただ、あのころは、前社長の宮下茂さんにつ いてはよく知らなかったですね。
◆高松 そうですね。宮下さんは総務畑ですからね。
◆蓑輪 東大出の箕浦さんもいまして、その人が相当頑張ったんですよね。専務取締役をやっていたんだけれど、役所とのつき合いもやっていたし。


○小泉袈裟勝さん

◆黒須 小泉袈裟勝さんのお話をお伺いしたいのですが。
◆蓑輪 袈裟勝さんはね私より7つ年上でした。背が高い 人ですが、干支は午ですよ。彼は1937年(昭和12年)か 1938年(昭和13年)に中検に入って、それで渡辺襄さんの光の光波干渉の測定を手伝っていたんです。1942年(昭和17年)に兵隊にとられてビルマに行ったのかな。

 出征するときのことも私は知っています。野砲でしたかね。馬の世話をしたりしなが ら。

 それで帰ってきたときに、計圧器係がいる3階から小泉さんが2階の岡田さんの部屋に入ったのを見ました。小泉さんが帰ってきたというのは、上から見ればわかるわけ。役所の中は狭いから。「小泉が帰ってきたけれど、手を出すな」と係員に言っていたのを覚えています。

 小泉さんは、うるさ型で通っていたんですよ。それでけっこう切れるんだよね。彼は頭がいいんですよ。

 長いこと所長をやっていた玉野光男さんにかわいがられて、メートル法の宣伝とか、計
量課とのつき合いとか、計量法を基本的にどうするとかという話に携わったりしていました。だから法律も含めて計量全般に関してよく知っているんですよ。行政マンとしての適性もありました。

○進級が難しい物理学校

 旧制中学を出て計量教習を出ているだけなんですよ。それで物理学校へ1年間だけ行って、2年生になれなかったようです。物理学校って進級が非常に厳しくて簡単には2年になれないんです。
◆高松 そんなに進級は大変だったのですか。
◆蓑輪 大変ですよ。私のとき1年生が2000人位いて2年になったのは500人ですから。

 私より前は2000人の中から200人ぐらいしか2年になれていません。私のときは戦争の最中だから理科系の人材を育てなくてはいけないということで、進級させる範囲が広がったんです。

 1944年(昭和19年)、私が調査係に行く前に、調査係に馬見塚さんという人がいて仕事をしていたのですが、出征していなくなりました。馬見塚さんの代わりに私が調査係りに移ったのです。彼も一緒に 物理学校行っていたんでけっすが、2年になれなかったの です。

 入学しても進級できなかった人が計量研には随分います。私が4部長の時推薦して入 学させたけれど、続かなくて辞めた人がけっこういるんですよ。

 度量衡法が最初に公布された頃に施行の為、その技術者の養成を物理学校に依頼 している関係から、計量研には物理学校卒業者が非常に多かったのです。そんなことから私が推薦すると何人かは推薦で入学させることが出来ました。今は多分できないと思いますけれども、昔は計量研からの推薦で入れたんです。あそこは無試験ですから、入れることは入れるんですよ。

 ただ卒業できないだけの話でね。

○一生懸命にメートル法を宣伝

◆蓑輪 小泉袈裟勝さんは、私なんかより実験とかが好きというか、研究なんかもけっ こうやれる人だったですね。しかし、結局はあまりやらなくて、彼もマネジメントの仕事が多くなりました。

 メートル法の宣伝を一生懸命やっていて2 代目の蒲谷友芳という計量課長、高田忠さんの後の計量課長で防衛庁の装備局長までやった人だけれども、彼と一緒にメートル法の施行の宣伝で全国を渡り歩いていました。

 あのころは、計量協会も含めて、よくやっていましたね。補助金を日本計量協会がとって、それを使ってメートル法の宣伝をやるわけです。

 計量研は計量研で別に予算も少しとって、北海道から全国を回って歩いていました。あのころはメートル法の宣伝って結構すごかったですよ。

○日本はメートル 法を選択

◆蓑輪 フランスの長さの単位がトワーズからメートルになるころから、日本は関心を持っていたみたいですね。それでもヤード・ポンド法とメートル法のどっちにしようかという議論がありそのときに日本は万国共通で、しかも基準がしっかりしているものがいいといってメートル法にしたんですからね。

 最初の度量衡法をつくったときにも、基準はこれだと。

◆黒須 日本は早くからメートル法を採用しましたね。
◆松本 それで33分の幾つとか。
◆蓑輪 そうそう。尺貫法でやるけれども、その基準はメートル法でやるというふうに最初から言っているんです。そこから始まっているんですから、日本でのメートル法の歴史は長いですよ。メートル法普及宣伝というのは、口本度量衡協会の任務みたいなもので協会の主要な活動としてとやってきてい たんだけれども、昭和の戦争が始まる前の1933 年(昭和8年)、1934年(昭和9年)ぐらいになると、今度は国粋主義者が台頭してきて、「日本にも尺貫法があるのに、なぜだ」という話になってメートル法統一は延期になり、それで1966年(昭和41年)まで来てしまったのです。

 計量単位をメートル法に統一するために地方庁もえらく頑張りまして、金は使うし、大変なものだったけれど、日本計量協会(日本度量衡協会の後身)は、それだけが本当の仕事みたいなものでした。

 そのために金をどう集めるかというのを一生懸命やりました。統一が完了したら日本計量協会の仕事はなくなったという感じになってしまいました。

 柱が1本外されたものだから、あとはありきたりの話しか出てこないんですよね。

◆黒須 日本の近代化にとっては大きな功績ですよね。

○日本計量史学会が発足

◆蓑輪 明治以前の日本科学史の編纂する中に、度量衡の歴史的変遷を加える事になり、天野清さんが担当し調査を行っていました。天野清さんが亡くなってしまった為、小泉袈裟勝さんが、跡を継ぐようになり、度量衡の歴史について小泉袈裟勝さんが、そういう役割を果たすようになりました。彼は好きだったんで しょう。そんなものだから文献や資料を調査しながら、計量法にも携わったのです。計量法をやるときに古い 度量衡法も一生懸命読んだりしたから、それが引っかかりになって 、小泉さんとか登丸正雄さんとか、升やはかりの好きな人が集まって同好会をっくり、方々を見に行ったりしてい ました。

 その中に岩田重雄さんが入ってくると、会の性格がだんだんと学術的になってくるわけです。それまでは学術的よりも同好会的に遊び歩くほうが多かったんじゃないのかな。私はそう見ているんだけれど。

 それで研究会の性質が少し変わってくると、今度は『日本計量新報』に手伝を頼む話になって、私も小泉袈裟勝さんに手伝わされたました。小泉さんは、(社)日本計量機器工業連合会(計工連)の専務理事になる前、計量研の4部長をやっていころから、いろいろ『日本計量新報』とのっながりをつくりました。

 『日本計量新報』に一生懸命いろんな投稿をしていました。『日本計量新報』も小泉さんを尊重したりしていました。それで両方仲よくなって、研究会の事務を口本計量新報社の藤原泉さんに頼みました。そうしていくうちに学会にするといって偉い先生を連れてきました。
◆高松 歴史学者の宝月圭吾さんですね。
◆蓑輪 そうです。日本計量史学会は、宝月さんを連れてきて会長にして始まってきたわけです。この学会もそういういきさつで、岩田重雄さんが力をつけてくるといろんな人を呼び集めてきて、今度は学者さんがふえてきました。でも、これだけいろんな人が集まるというのはいいことです
よ。
◆黒須 そうです。
◆黒須 この前の オーラルヒストリーの岩田重雄さんのお話を聞きますと、小泉さんは同好会的な色彩が強いんですよ。
◆松本 学術的に主張されたのは、小泉さんではないんですか。
◆蓑輪 私はそう思いますね。
◆黒須 岩田さんが学術的だから。
◆蓑輪 そうそう。

◆黒須 最初から名前を目本計量史学会にするかどうか、これも小泉さんは研究会でいいと。それを、岩田さんが、学会でなければ困るということで、とうとう学会という名前になったんですよね。
◆松本 難しいですね。

○小泉袈裟勝さんの評価

◆蓑輪 小泉さんにしても、「おらが天下一でいたい 」という人だから、功罪半ばとい う評価もあるけれども。でも、彼はいろんな面でアクティブに動きましたよ。そういう意味からいうと、割合によくやったんじゃないかと思います。
◆黒須 自他ともに実力は認められていたんですよね。
◆蓑輪 そうなんです。いろんな紆余曲折があるけれどもだんだんとよくなりまして。まあ、いいんじゃないですか。

○稲松照子さん

◆松本 現在に至ったということですね。私はあまり直接関係なかったけれど、亡くなられた稲松照子さんをちょっと知っていまして、稲松さんからは、女性という立場で、「この人はこういう方で すよ」という紹介を受けていたものですから。
◆蓑輪 私の悪口も言っていたでしょう。
◆松本 いやいや、言っていないですよ。
稲松さんは女性だから、しかもフランスに行ったりしたから計量研からも重宝がられて、と言ってい まし川田さんとか高田さん、それから小泉さんも含めて、みなさんとうまく仕事をされたようですね。亡くなられたのはちょっと残念でしたね。
◆蓑輪 稲松さんは私のところへ最初に来たんですよ。

 私が研究室長のときに玉野さんの紹介で私の部屋に転勤してきたんです。それで湿度をやらせたんです。
◆松本 湿度をずっとやって、人からは「湿度なんかやって、ドクターを取れるのか」 と言われているんですよとか言っていたけれど、取りましたよね。ああいう研究はほかにやっている人がいないわけですから、ユニークですよね 。

〇湿度は難しい

◆蓑輪 湿度は、中検が板橋に移るときに、実は小泉袈裟勝さんに言われたんです。袈裟勝さんは私の課長だったですからね。「蓑輪君、湿度をやってくれ」と言うから、「湿度なんてできないよ」と言ったんだけれど。しかし、やれと言うから、最初に気象研究所の所長をやった小林寿太郎さんのところに行って、その人はそのころ湿度をやっていたんだけれど、「どうだろう、湿度の標準をやろうと思うんだけれど」と言ったら、「蓑輪さん、それは泥沼だよ。あんなものをやったって成果は出ないぞ」という話になりました。

 小林寿太郎さんのところへ行って話をして、それで「まあ、しようがないね」と言い ながら、それでも板橋に移るときに「じゃあ、研究設備をつくろう」ということになっ て袈裟勝さんは予算をとったんだけれど、本当はその名目でもって金を余そうと思っていたようです。余して、計量研が筑波に移るときに課の必要な費用をまかなおうと思っていたんです。

◆高松 備品とか実験器具とかですか。
◆蓑輪 それもありますが、移転のときに金がないとなかなかうまくいかないんですよね。その予算で、恒温チャンバーをつくって板橋へ持っていたけれど、全然使わずに廃棄してしまいました。湿度を河崎さんとやり始めて何とか目鼻がつき始めたら稲松さんが来て、それ以来、彼女は湿度をずっと続けてやったわけです。
◆松本 珍しいテーマをよくやりましたね。
◆蓑輪 湿度ってやっている人が少ないからね。
◆松本 世界的にも少ないんじゃないですか。
◆蓑輪 そうかもしれないですね。
◆黒須 私も日本計量史学会に所属させてもらっていろいろ文献やなんかも調べたりしていますが、結局、この計量の主体になる学問は物理ですね。
◆蓑輪 物理だと思います。
◆黒須 機械屋ではどうしてもよくわからない 難問にぶつかるのは、物理が基本なんだからですね。
◆蓑輪 そうですね。
◆黒須 湿度に首を突っ込むのでも、何をやろうとしても、物理化学、要するに理学に首を突っ込んでいないとちょっと苦しいなという感じです。
◆蓑輪 工学とはちょっと違うんですよね。
◆黒須 工学というのはアプリケーションだから、人のやったものをあっちに置いたりこっちに置いたりして、他人の基礎知識を利用するだけなんですよ、計量は、物をはかるということが根本にあるから、物理系の学問をきちんと積まないとなりたたないという感じがしましたね。

○測定値は消してはいけない

◆蓑輪 今はもう常識に近いけれど、私たちがよく言われたの は、「測定したらちゃん と測定値を書いておけ、絶対に消してはいけない 」ということですよ。「消しゴムは絶対に使ってはいかん」と。「もしもその測定値が間違いだとはっきりしたら2本線で引いておけ。絶対に消すな。消したら怒る」と言われました。

 消しゴムを使ってデータを消して怒られたのは高橋照二さんといわれていました。米田さんに怒られて、研究室から4部に移されたと。

 彼は研究室にいたんですよ、一緒の 部屋というか同じ課にいたんです。そこに高橋さんは質量の研究室、私は密度の研究室、金田さんは圧力の研究室で三っあったんですよ。高橋さんはそれをやって見つかったのかな。私には本当かどうかわかりませんが、高橋さんは検定検査部に移りたかったとも聞いています。

 高橋さん自身は研究よりも4部のほうが好きでした。だから、結果的にはよかったんですよ。本人が「4部へ出してください」と言ったのかもしれないね。そこのところはわからないんだけれど。

○密度の研究

◆蓑輪 ただ、研究というのは難しいよね。私は好きでありません、研究というのは。そんなことを言うと怒 られるけれど。私は密度標準の研究をやっていて、計量研は何をやるべきだろうって最初からずっと考えて、アルコールの比重と濃度との関係を研究していたわけですよ。

 それが一段落したときに、次に何をやりましょうかというので。湿度の研究はしていましたが。

 もう一つは、何の密度をやろうかということで、水の密度を研究することになりました。私は「定数表(定数テーブル)をつくるのに、その基本をやるのが計量研の仕事じゃないか、だから水か水銀かどっちかをやろう」と言ったんです。もうみんなやっているんだよね。

 イギリスのクックが、升と浮力を使う二通りで水銀の密度表をつくったけれども、水はやっていないんですよ。

 あの当時、水のテーブルが途中で不連続になっているんです。10何度かな。連続性がないんです。これはおかしいということで、じゃあ、やり直そうと。あのとき大山勲さんという東大出の物理屋さんがいて、水をやってみようじゃないかと言うわけです。

 それで水素、重水素、分子量が16のほか17、18の酸素の水の含有量をいろいろ調べ うと言うので調べ始めたわけです。

 まもなく担当が変わり最後は増井良平さんと渡辺英雄さんの論文になりました。水の密度はオーストラリアでも行われていて双方の結果が発表されていると思います。飯塚幸三さんが所長のときに結果が出たはずですけれども、密度表が変わったかどうかはわかりません。

 水の密度は体積の基準になりますでしょう。ところが計量研は、密度の基準は球だっ て言い出したんですよ。
◆高松 シリコン球ですね。

〇標準などの基礎研究はやりにくい

◆蓑輪 そう、シリコン球だって言い出したんですよ。水の密度がちゃんとはかれてい るんだから水の密度でもいいんじゃないかという分野はたくさんあるんだけれどね。

 体積をはかるときに水の密度を使いますよね。工学でも使うでしょう。こういうものの体積をはかるのに、目方をはかって密度がわかっていれば体積がわかるわけです。

 昔は水の密度が基準だったんです。密度というのは体積と質量、二つがちゃんとはかれればそれでいいわけです。そういうのをしゃべっているうちはおもしろいんだけれど、実際にやるとなったら大変ですよ。生半可ではできません。

◆高松 独立行攻法人では、だいたい3年以内に研究の成果を出しなさいという感じですね。5年というのはなかなかないと思います。言量標準などの基礎研究は例外だとは言われていますが。
◆蓑輪 精度を一けた上げるのに10年かかるって昔から言われているんです。中央度量衡検定所が計量研究所になってからの話ですけれど、計量標準の精度を一けた上げるのに10年ですから仕事がそれしかないわけですよ。附属する研究発表はできるかもしれませんけれど、本質は10年かかる。それぐらいの覚悟でやれと言われていたんですよ。
◆高松 計量標準の研究は、なかなか注目される論文は書けないですものね。そんなに短期間に成果が出るわけじゃないから。
◆蓑輪 そうなんです。わきの研究をちょっとやって研究発表するぐらいしかできない んです。
◆高松 標準の研究というのは研究者にとっては割に合わないものですか。
◆蓑輪 そうそう。だから、矢野宏さんなどは、別のこともやって研究発表という話になってきました。そっちのほうが論文の数が多くなるわけですよ。研究者としての評価も高くなるわけです。
◆松本 計量標準の研究のように、表からよく見えない研究は大変なんですね。
◆蓑輪 そういう見えない研究をちゃんとやれるのかということです。これから特にそうだと思いますね。例えば原子力だって、もっと基本的なことをずっと5年も10年もかけてやれるような体制をとらないと困るんじゃないですかね。日本だって原子力がなくなったら困るんでしょう。
◆松本 ええ。どうしようもない 。
◆蓑輪 日本は原子力の研究はどんどんやらなければいけないんですよ。原発がどうこ うではなくて、そうしなければ世界のレベルに遅れてしまうんですよ。だから、研究をやらなくてはだめですね。
◆黒須 今は多少アメリカナイズされたというか、日本の研究そのものが、成果が出そ うもない対象には、はなから手を出さないという風潮があります。原発なんかもそういったことが言えるんじゃないですかね。原発に手を出せばけっこう銭がもらえる。それで携わっている学者の手が汚れたというふうに思います。テレビに出て何かをしゃべっている人はみんな推進派ですからね。
◆蓑輪 確かに推進もいいですよ。いいけれど、もっと考えるべ き、やるべ きことがあるんじゃないかって思います。きちんとやっておいて、その上でないとね。
◆高松 確かにあれは全部見切り発車してしまったというところがありますよね。だか ら、やっている本人も、いや大丈夫かなと思いつつ、でもやらざるを得ないからやっているという感じですね。そういう事情が垣間見えますね。でも、黒須さんのお考えだと、アメリカもそうだけれど、日本も計量標準などの基礎研究をじっくりやれる体制ではなくなってきてい ると。
◆蓑輪 そう。すぐ成果を上げることを考えるからいけないんです。だから、もう少し落ちついた環境と体制が必要です。
◆高松 独立行政法人そのものが、基本的には自前で金をもうけなさい言われていますから。
◆蓑輪 そうなんですよ。
◆黒須 日本の長老たちがアメリカに来て、よく言っていましたね。アメリカでは研究者は育っかもしれない、でも何かじっくりやる学者は育たない と。
◆松本 そうすると、やはりヨーロッパですかね。
◆蓑輪 ドイツなんかいいかもしれないですよ。
◆松本 今は日本の評価を下げようかというときにヨーロッパは高いですよね。イギリスだって、あんな小さい国なのに高いですね。評価が。
◆高松 格付とかですか。
◆松本 保険会社の評価があるじゃないですか。イギリスとかはけっこう高いですよね。
◆蓑輪 沢辺雅二さんがよく言いますよね。ドイツはちゃんとしているけれども、日本はだめだって 。

 「長さの標準はドイツとミツトヨ だ、もう計量研は相手にできません」 という話を私にしていた。標準比較をするにも、元の計量研、今の産総研とやるよりはミツトヨとやるほうが、効果があるというふうに言われていますと言っていましたよ。沢辺さんは身びいきがありますから、本当かどうかは私にはわかりませんが。
◆松本 両方にいた人ですから、ほかの会社との比較はわかるでしょうね。
◆蓑輪 だから、日本も少し考えなくてはいけないのかもしれないですね。いい機会かもしれません。

○日本計量史学会と関わるきっかけ

◆松本 日本計量史学会に関わるようになったきっかけは何ですか。
◆蓑輪 私が日本計量史学会に携わるのは、多賀谷宏さんに言われたからですよ。
◆松本 亡くなられた多賀谷宏さんですね。
◆蓑輪 私は計量史をやるつもりはなかったんだけれど、とにかく日本計量史学会の理事になってくれということを永瀬好治さんと多賀谷さんに言われて、「何でだよ」と言っ たら、「とにかくもう蓑輪さん、決めたよ」って。何で私の承諾なく決めたのかという話になったけれど、彼らに恥をかかせるわけにもいかないから、しようがないかというこ とです。こっちもだんだん暇になってきそうだから、何かあったほ がいいかなと思って。
私は理事になるまで日本計量史学会とあまりおよき合いがなくて、時々小泉袈裟勝さんに「あそこを見に行こうよ」なんて言われて、さぐる会に1回か2同行ったことはあるんだけれど、あとは行かなかったんです。日本計量士会の活動が忙しくてね。計量士会での活動はなんかおもしろかったですよ。そのころ金がたまっていたから、みんなを連れて遊びに行って、酒ばかり飲んでいたんですから。そんなことをやっているものだから、学会に関わる余裕はなかった。そうしたら理事になっちゃったんで す。そうしたら山田研治さんが校長をされていた学校で理事会をやる、総会の 前だと言うから行ったら、岩田重雄さんが会長をやめるということになっていました。やめるのはもう決まっていて、高田誠二さんが会長になるはずだったんです。そしたら、高田さんが、「私 は医者にとめられました。とても会長はできません」と言うわけです。

 岩出さんはやめると言ったきりです。その後どうしようかと言うか ら、周りを見たら、他の方は皆、私より年が若いんです。「やってくれ」と言うから、会長を引き受けるこ とになりました。
◆黒須 日本計量史学会の会長は、ある程度政治力がないと困るんですよ。人をかき集めることができないと困るんです。

○学会の運営

◆黒須 計量史をさぐる会などのイベ ントになるべく出てきて、それなりに楽しんでもらえるとありがたいんですけれどね。ですから、新しく発表したいとかという研究は徹底して優先するようにしたいと思っています。楽しんで、おもしろいと思ってくれないと。
◆蓑輪 楽しくしないと、人は集まりませんよ。
◆黒須 研究に関しても、あまりうるさいことを言ってけっ飛ばしちゃったりすると、広がりません。
◆蓑輪 本来の学会と思ってはいけないんじゃないかなと。あまり学術や研究を前面に出してしまうと逃げる人がふえるかもしれないですね。
◆黒須 そうですね。
◆高松 同好会的な意識で入っていらっしゃる方がたくさんおられます。それから収集家といった方も。これらの会員の指向は、研究とはちょっと違いますね。
◆蓑輪 そういう人が何かできるような場を考えるほうがいいのかもしれないですね。
◆黒須 展示とかはやっていますけれども、発表もやってもらい たい。
◆蓑輪 展示したものの説明をやってもらうということでもいいと思うんだけれど。
◆高松 今は研究発表の間にやっていただいているけれども、正式のプログラムの 一っに加えてやることも考えるとよいかもしれません。
◆蓑輪 確かに学会として、もう少しレベ ル を引き上げてきちんとしたいと思う気持ちもあるけれども、しばらくは、もう少し会員がふえるまでは我慢するほうがいいのかもしれないですね。
◆黒須 学会としての体裁はちゃんと整えているつもりですけれどね。
◆蓑輪 そうそう。それは持っていてね。
◆黒須 ちゃんと査読もしていますし。
◆蓑輪 それはやっておかないといけないですね。

○マネージャーが得意か

◆蓑輪 私には大体、実験とか研究とかあまり合っていないんですよ。いま思うと、私には全然合っていないと思いますね。マネージャーに近いんじゃないかな。そっちのほうが得意だったんじゃないかしら。

 浮ひょう、密度計のほうに行ってやるときに、部下に保科さんという人がい て、その 人がほとんど段取りをつけていました。それから河崎さんという方が来て、河崎さんと私とでずっとやっていました。私は実務もやるけれども、ほとんど河崎さんにやらせてい たという感じですね。片や、私は仕事が嫌いで、方々をぐるぐるぐるぐる回って遊び歩いているから、あそこにはこういう機械があって余っているということがわかっているから、それをみんなもらってくるんです。いいの引っ張ってくるんですね。

○私の仕事は後始末ばかり

◆蓑輪 私白身は何もできない男なんだよね。ほとんどできていない。全部だれかにやってもらうしかないのです。さっき私は後始末屋だと言ったでしょう。密度の標準も後始末だったでしょう。第4部長になったときには筑波移転の話で4部の中はめちゃくちゃにもめていて、増井敏郎さんがやめたわけですよ。川田さんの下で研究室の課長をやってい た私に「やれ」と言うから、「あんなにもめているところでできるか。嫌だ。」 と言っ たんです。そうしたら川田さんが来て。これは川田さんとの話だけですよ。山本健太郎さんという所長は出てこないんですからね、川田さんが私とじっくり話をしようと言って話をして、「おまえにやってもらわなきゃ私は困る。おまえがやらないのなら私が 4 部長をやる」と言うから、「川田さんに4 部長をやらせたら困るじゃないか」と考えました。

 「ほかにやる人はいないのか」と言ったら、「いない」と言うから、「しようがない 、じゃあやるよ」と言って、4部長をやったんです。

 それで4 部の反対運動を他人の所為にして全部静めたんです。4部全体が東京に残りたいというわけですよ。検定検査の実務者たちの集まりだから、筑波に行ったら検査を受ける人に迷惑をかけるから東京に残ろうというわけです。

○職員の移籍を斡旋

◆蓑輪 いろんなところに根回しをしたんだけれど結局だめで、それで増井さんは静岡大学に行ってしまっ て、しようがないから、「私の顔に免じてやめてくれ」と言って、移転反対運動をやめさせました。
 そしたら今度は、計量研をやめたいという人が出てくるわけです。
◆高松 筑波へは行きたくないと。
◆蓑輪 嫌だからと言うんです。でも、みんな経歴は古いから計量士の資格は持っています。何とかしてくれればいいと言うから、じゃあ、私が何とかするからと言って、それで私が4部長になったときに東京都の計量検定所長のところに行ったのです。そこへ行っ て、私は4部長になったけれども、筑波移転があるから、何とかしてほしいって所長に頼んだんです。ちょうどそのころに川村竹一さんもまだ生きていたのかな、それから白井、矢島という、以前に計量研から東京都へ移った人たちがまだ何人もいて、力を持ってい る人もいたんです。

 そこへ行って、昔の仲間だから「何かあったら頼む」と言って、それで帰ってききました。4 部の中でやめたいのはだれだと言ったら、最初は森光雄さんだったか、「じゃあ」ってことで東京へ行って頼んだら、「ここの部署があります」って言ってきたわけです。
 「いいじゃないか 、おまえ行くか」と言ったら、「行きたい」と言うから、「よし」というわけです。あと給料や何かの面は総務部長の責任だ、勤務条件はそっちで面倒を見ろ、私はここまでやったからと言い渡して、その後何人か計量士で移りました。ある程度やるべきことをやっておかないと、かわいそうですからね。筑波へ行かれない人を何も無理して連れていくことはないんですよ。

 しかも勤めるところがあるんですから、あれば紹介すればいいじゃないかってことです。その後、須藤さん、立川さん、小川さんが計量士で移籍できたのは、みんな私が道をつ けたからと思っています。
◆松本 よく面倒を見ていただいたから、みんながまとまったんですね。

◆蓑輪 立場立場でやるべき仕事があるわけだから、4部長というのは、あとは 行政室長と酒を飲んで、地方庁へ行って地方回りをして酒を飲んでくればいいわけです。でも、酒を飲めてよかったですね。酒飲みの家に生まれて助かったですよ。4 部長で酒が飲めなかったら大変ですよ。

○計量教習所でも後始末を

◆蓑輪 4部長になって3年ぐらいして、筑波移転の後始末でしょう。そして今度は、計量教習所に赴任しました。前任者が堀忠良さんです。堀さんは、「矢萩さんという計量課から移っていた人と、女性職員を2人やめさせて、かわりに新しい人をちゃんと入れておきます。それから環境計量が始まったから、これもきちんと処理しておきます。だから蓑輪さんが来たときにはきちんとしています」と言うわけです。しかし、行ったら何もやっていないのです。「どうなっているんだよ」という話です。私はもう嫌になっちゃいました。

 堀忠良という人はいい加減な人なんです。ただ、環境計量のカリキュラムはきちんと決めてありました。しかし、人事は何もしていないのです。それからが大変でした。その矢萩さんをやめさせるのに四苦八苦、計量課の肝いりで来ているんだから、やめさせるの も大変です。計量課長に了解をとっておいて、私がやめさせましたから、私はひどい目に遭いました。女性職員もやめさせて、かわりもちゃんと手当てしました。

 計量教習所で3年間は、市川から久米川まで通うんだから、片道2時間かかりました。

 あのころ講義が10時から始まるから10時までに行くと久米川駅からタクシーです。研修所からチケットをもらって往復ともタクシーでした。うちへ帰るのは何時になると思いますか。2時間かかって、しかも飲んで帰るんだから。研修所の中にバ ーがあるから行 くと生徒が来るし、わ一わ一飲んでいるうちに8時9時でしょう。うちに帰るのは12時ですよ。「毎日それをやっていたんじゃ体がもたない 」と言って、こっちは逃げるわけです。今日はやめ、行かないと。昼に帰るんです。

 「これから計量課へ行く」、「今日は計量研に行く」、「筑波に行く」と言って逃げて、それで帰るんです。

 それでやっと何とかなってからカリキュラムを変えました。教習所の講義の中に電気関係がなかったんです。私は「電気をやらないで、何ができるんだ」と言ったんです。
◆松本 今の時代にね。
◆蓑輪 しようがなくて菅野充さんのところへ行って、彼が玉川大学にいたから、易しい講義をやってくれと頼んで、菅野さんがしばらく来てくれました。講義だけしてくれって頼んだら、「実験はどうしよう」と言うから、実験は、計量研から法政大学へ行った望月さんのところへ行って、「よう、頼むよ」と言ったら、「じゃあ、若い人を出します」 と言ってやってくれました。
◆松本 たしか久米川ですかね。
◆蓑輪 うん。実験もそこでやりました。
◆松本 菅野さんは、昔は田無におられましたね。
◆蓑輪 そう。電子技術総合研究所(電総研)の田無分室です。菅野さんとは何となくつき合いがあったから頼みに行ったんですよ。
◆松本 本当にいろいろ面倒を見られた。
◆蓑輪 面倒を見たというよりも、やることをやらなければしようがないし、あとは千葉県計量検定所の齊藤勝夫さんが来て、蓑輪さん、これをやろう、あれをやろうと言うわけです。「大型はかりの実験は私が千葉県でやるから」と言って、それで朝早くに教習生を久米川から連れてくるというか、何時までに来いと言うから行ったら、パンと牛乳を出して、それで実験ですよ。昼飯抜き、「じゃあ、頼むわ、お まえやってくれや」と言って頼んだんです。彼も一生懸命私のことを、面倒見てくれました。周りがみんなよくしてくれるんです。私は何もしないんですよ。ただ、頼みに行くだけでね。

 それで日本計量士会へ来たでしょう。日本計量士会の組織は、当時はめちゃくちゃで、金はない人はいない、どうなっているんだという状況でした。1000人近くの会員がいるのに、会員管理をやっているのが1人いて、経理が1人いて、検査が1人いて、それぐらいですもんね。後は、金の勘定、庶務をやる女の人が1人いただけで、どうにもならないなと。先ほど話したように、しようがないから長野計器に行って当時の溝呂木金太郎社長に「溝呂木さん、悪いけれど人を出してくれよ」と言って、それで関口幸雄さんを呼び出しました。「おれはできないんだから、金勘定はおまえがやれ」と言ってね。私みたい なのが金勘定をやったら大変ですからね。みんな使っちゃうから。みんな飲んじゃうか ら。

○全国に顔が利く

◆黒須 教習所へ行って、ある一定の期間教習を受けると計量士になれるわけですか。
◆蓑輪 そうそう。後は、実務をやって国から認定されればね。
◆黒須 計量上になれば日本計量士会に所属するわけですか。
◆蓑輪 入れます。それで仕事もできます。私が計量教習所にいるころは、計量行政機関には都道府県と特定市がありまして、各都道府県から4年間に40人ぐらい 計量教習に来ました。計量教習は義務化されていたんです。県の検定所には、計量教習所を修了したのがいなければいけないと法律に書かれていて、それでみんな来たわけです。県から来たり、特定市から来たりする連中がけっこういましたね。成績が悪いと、「何とかしてくれませんか」と生徒が所属している都道府県の計量検定所長が飛んでくるんです。そのときに必ず酒を持ってくるんです。だから、ウイスキーはいつもあるんです。

 私が酒飲みだって知っているもんだから、みんな酒を持ってくるんです。それをバーに預けておいてそれを飲んでいるんですもんね。それで県の所長さんなんかと仲よくなるなど、顔見知りになりましたね。

 教習所の講師というのは、1954 年(昭和29年)ぐらいからずっとやっているんです。ですから、教習所を出た連中は私の顔と名前ぐらいは大体知っているわけです。地方へ 行くと、「蓑輪さんが来た、じゃあ一杯飲むか 」という話になります。そういう人がどこへ行ってもいるわけです。だから、私は全国どこへでも行けたんです。

○日本計量士会を立て直す

◆蓑輪 日本計量士会に来ても、計量士会には支部があって、その親玉連中にも顔見知 りがけっこういましたから、計量士会でまとめることができたんですよ。それは4部長もやって計量教習所の所長をやったからなんですね。経歴的に計量士会に行ったことは私自身にとってはよかったんです。ただ、私が行ってそこまでなるには大変だったんですね。計量研から村田さん、田中さん、永瀬さんも呼び出しました。彼らは全部計量研のOBだから給料が少なくて済むわけです。年金をもらっているのにたくさん出す必要はない 、生活が前と同じならいいだろうって、年金だけ差っ引いて給料を渡すわけですから。

 それでいろいろやったものだから、けっこううまく同ったんですよ。あと新しく計量上の国家試験の準備講習会とか、試験の傾向別問題集なんて出して。最初に機関誌を出しました。来てすぐ「団体に機関誌がないのはおかしい。機関誌を出せ」と言って、それで 長野計器に行って、溝呂木金太郎さんに「今年1年間でいいから500万円くれ」と言っ たんです。それで出してもらってはじめたんです。

 随分早くから機関誌を出したから会費も上げようというときに、みんな何も言わない で上げさせてくれたんですよ。会長の溝呂木金太郎さんが亡くなったときに、本当は会としてぎりぎりお金は必要としていなかったんだけれど、「この際だから会費を上げよう」といって上げました。そうしたらみんなが納得してくれたのでうまく回りましたから、日本計量士会は裕福になりましたよ。だから、いくら酒を飲んだって大丈夫でした。

 私が酒を飲むために金を稼いだようなもんですよ。

 3 団体が合併するときには、日本計量士会の資産は5000万円ぐらいありました。私はもう少し日本計量士会にいて 2億円ぐらいためようかと思っていたんですよ。2億円ためれば検査施設もつくれるかなと思ってね。でも、2億円はできなかったですね。いろい ろありましたが、私は適当に世の中を渡ってきましたよ。これでもそんなに苦労はしなかったですね。

○大事なのは人とのつき合い

◆松本 いろいろな組織をうまく運営するのは大変ですね。
◆蓑輪 結局、何だかんだ人のつながりがあったんだよね。私は大事なのは人とのつき合いだと思いますね。計量教習所のころにけっこう金も使えたから、あのころに大臣官房なんかとつき合ったんですよ。通産研修所は官房の担当だからね。
◆高松 計量教習所も最後のころは、組織変更で所長のランクは下がったけれども、蓑輪さんのころは教習所長って本省の課長と同等のランクですか らね。
◆蓑輪 計量教習所はね。予算編成の時期には、官房に酒を持っていっ たりしました。だから、陣中見舞いといって酒の2本も持っていって置いてきたことがありますよ。計量課は機械情報局の庶務が担当していました。

 今でもうまくいっ たなと思うのは、庶務室には年配の女性職員がけっこういるので、有名な和菓子を持ってい くんですよ。うさぎやのどら焼きとか虎屋の何とかを持っていくんですよ。「これ、食べ たことあるか」とか言いながら、庶務室の女性に渡すんです。
「蓑輪さん、おいしいものをくれたね。今度は何を持ってきてくれるの」「ふ ざけるん じゃないそんなに自腹を切れるか」なんてやりとりをしましたよ。白腹なんか切ってい ないけれどね、それだけしておけば、よくしてくれるんですよ。
◆高松 日本計量士会に来てからも、計量課とか計量行政室の偉い人はもちろんだけれども、若手の人ともよくつき合ったりされていましたよね。
◆蓑輪 計量課長や計量行政室にも随分いいことを言ってやったんですよ。そのくせ、「蓑輪はアンチ、ミティ」ということがちゃんと課長の引継ぎ簿には載っているんだと言っ
た課長がいました。

 「蓑輪さんの名前が引き継ぎ簿に載ってるんだ よ」と。世の中ってのはおもしろいね。
通産省(通商産業省、現経済産業省)の中で私がずっと見ていて思うことは、顔の広い 人のほうが仕事はできますね。いろいろな人とちゃんとつき合えるような人のほうが仕事はうまくいくんじゃ ないでしょうか。おれは偉いんだとか、おれは別なんだとか考えていると、だめですよね。

 そうい面からいうと、小泉さんは酒飲みだけだったけれども、つき合いは広かったん じゃないですか。あの人は長いことつき合いますね。例えば私が80歳の 祝賀会をやっ てもらったときに出席してくれた、法制局長官になった元計量課長の秋山さん。計量課に2度来た人です。小泉さんからのお付き合いです。

○郵政の計量管理は以前やっていた

◆蓑輪 い ま、(社)日本計量振興協会が、委託を受けて郵政の計量管理をやっているでしょう。あれは前に私がやったんですよ。
◆高松 ええ、かつてもやっていましたね。
◆蓑輪 郵政の計量管理は、私が小杉さんに話をして始めたんです。それを小島計量課長がぶっ壊したんですよ。
◆高松 必要ないということでね。
◆蓑輪 そう。そんなことはないんですよ。
◆高松 あれで郵政は一遍にやらなくなりましたからね。
◆蓑輪 継続してやっていれば苦労しなくて済んでいるんですよ。
◆高松 あのときは、東京の郵政関係の計量管理は、(社 )東京都計量協会が全部引き受けてやっていたんですね。それが全部パアになりました。
◆蓑輪 ばかなことをやりましたね。

○計量管理協会

◆蓑輪 私は(社)計量管理協会の副会長をやっていたでしょう。
◆高松 (社)計量管理協会については何かありますか。(社)計量管理協会ももうないから、いま言っておかないと後の人にはわからなくなりますね。
◆蓑輪 (社)計量管理協会には遠藤さんという専務理事が島津製作所から来ていたで しょう。あの人が一生懸命やっていました。あの人とよく酒を飲んだり、碁を打ったりしていたんだけれど、あの人が割合にお金を倹約して1000万円ぐらい残しました。しかし、後任者の時代には赤字になってしまいました。(社)計量管理協会は組織としての機能を失っていきました。赤字になって、金がなくなって、どうにもならなくなりました。(社)日本計量士会、(社)日本計量協会、(社)計量管理協会の3団体が合併して(社)日
本計量振興協会を設立するときには、日本計量士会から金を少し融通して、普通の団体にして合併したんですよ。赤字では合併できないですからね。私がなぜ合併させたかとい うと、団体をつぶすなんて計量課のメンツにかかわるから、つぶせないんですよ、私も副会長だから何とかしなければならないし、「じゃあ合併しかない 」 といって合併 したんです。(社)日本計量士会の連中には悪いことをしたような気もするけれども。
◆高松 (社)日本計量士会だけだったら、自前でお金も持っているし、運営できたたわけですから、合併しなくてもよかったのですね。
◆蓑輪 これは責任逃れだけれど、計量課長が蓑輪さん、悪いけれど、計量管理協会の副会長を引き受けてくれないか」と言うから、「仕事しないよ」「いいです。名前だけ貸 しておいてくれ」「わかりました」と。それで副会長を引き受けたんです。結局、通産省の OBが1人ぐらい 副会長にいなければ困るというような事情があったみたいです。
◆松本 どうもありがとうございました。
(終了)

原本
オーラルヒストリー 蓑輪善蔵氏インタビュー 「計量制度に係わって 69 年」 計量史研究 34−1[40]2012


○小泉袈裟勝さん
◆黒須 小泉袈裟勝さんのお話をお伺いしたいのですが。
◆蓑輪 袈裟勝さんはね私より7つ年上でした。背が高い人ですが、干支は午ですよ。彼は1937(昭 和 12)年か 1938(昭和 13)年に中検に入って、それで渡辺襄さんの光の光波干渉の測定を手伝っていたんです。1942(昭和17)年に兵隊にとられてビルマに行ったのかな。出征するときのことも私は知っています。野砲でしたかね。馬の世話をしたりしながら。
 それで帰ってきたときに、計圧器係がいる3階から小泉さんが2階の岡田さんの部屋に入ったのを見ました。小泉さんが帰ってきたというのは、上から見ればわかるわけ。役所の中は狭いから。

 「小泉が帰ってきたけれど、手を出すな」と係員に言っていたのを覚えてい ます。小泉さんは、うるさ型で通っていたんですよ。それでけっこう切れるんだよね。彼は頭がいいんですよ。

 長いこと所長をやっていた玉野光男さんにかわいがられて、メートル法の宣伝とか、計量課とのつき合いとか、計量法を基本的にどうするとかという話に携わったりしていました。だから法律も含めて計量全般に関してよく知っているんですよ。行政マンとしての適性もありました。

○進級が難しい物理学校
 旧制中学を出て計量教習を出ているだけなんですよ。それで物理学校へ 1年間だけ行って、2年生になれなかったようです。物理学校って進級が非常に厳しくて簡単には2年になれないんです。



蓑輪善蔵が語る「計量行政に係わって69 年」2011 年 6月 3 日に収録(2024年9月7日再掲)

計量法解説 (keiryou-keisoku.co.jp)

:計量法の読み方 - livedoor Blog(ブログ)

「計量法の読み方」全章 |

微分も積分も忘れてしまう東大理三卒の大学教授(2023-05-09)【理3のリアル@50代】 東大医学部卒の弁

フィルムカメラとデジタルカメラの発展の速度の違い

「ハッピーエンド」を聴く。メンバーは大瀧詠一,細野雅臣、鈴木茂、松本隆。


シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。


Windowsによる新聞組方式の現状

社会の統計と計量計測の統計

計量計測のエッセー ( 2018年1月22日からの日本計量新報の社説と同じ内容です。)

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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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死霊はわが姿なり(副題・女の深い悲しみの表情が人の心の闇を照らす)森龍之

計量計測データバンク 紙面予定の原稿-その1-
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日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する

夏森龍之介のエッセー

田渕義雄エッセーの紹介

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