「計量計測データバンク」サイトマップ measure and measurement data bank of saite map

計量計測データバンク ニュースの窓-458-
日本共産党の党運営の在り方をめぐる在野・末端党員の疑問
―機関紙中心主義と「査問」の文化を軸に―
[新日和見主義事件 考察-その3-]

News material content collection of metrology databank №458

計量計測データバンク ニュースの窓-458-日本共産党の党運営の在り方をめぐる在野・末端党員の疑問 ―機関紙中心主義と「査問」の文化を軸に―[新日和見主義事件 考察-その3-]


計量計測データバンク ニュースの窓 目次

計量計測データバンク ニュースの窓-458-
├
├計量計測データバンク ニュースの窓-458-日本共産党の党運営の在り方をめぐる在野・末端党員の疑問 ―機関紙中心主義と「査問」の文化を軸に―[新日和見主義事件 考察-その3-]
├

日本共産党と一九七〇年前後の学生運動 ―宮本顕治の関与と「新日和見主義事件」―

著者:夏森龍之介 2026年9月21日記

一 はじめに

一九七〇年前後、日本の学生運動・青年運動はひとつの頂点を迎えていた。日本民主青年同盟(民青)は同盟員二十万人規模にまで膨張し、日本共産党の青年組織として全国の大学・職場に浸透していた。だがその絶頂のただ中で、一九七二年、党中央は民青幹部と党員合わせて数百名を「査問」にかけ、多数を処分するという事件を引き起こす。「新日和見主義事件」と呼ばれるこの出来事は、党の公式史ではほとんど語られてこなかったが、当事者たちの手記や証言、後年の研究によってその輪郭が明らかになりつつある。本稿では、この事件の経緯と、事件を主導したとされる宮本顕治の党内での位置、そして除名・処分された人々の足跡を、公開されている資料に基づいて整理する。

二 前史――宮本顕治という指導者の形成

宮本顕治(一九〇八〜二〇〇七)は、戦後日本共産党を四十年近くにわたって主導した中心人物である。一九三三年、いわゆる「日本共産党スパイ査問事件」――党内でスパイ容疑をかけられた小畑達夫が、査問の最中に暴行を受け外傷性ショックで死亡した事件――に関与したとして、治安維持法違反、不法監禁、傷害致死、死体遺棄等により無期懲役の判決を受けた。同年十二月に逮捕された宮本は、一九四五年十月、連合国軍の指示による政治犯釈放によって出獄するまで、実に十一年十か月にわたって獄中にあった。

戦後、宮本は一九五五年に中央指導部員となり、一九五八年から一九七〇年までの十二年間は党書記長を務め、一九七〇年に書記長職を廃して幹部会委員長に就任、一九八二年には党議長となった。つまり新日和見主義事件が起きた一九七二年は、宮本が書記長から幹部会委員長へと党内最高権力を移し固めたまさにその直後にあたる。そして、党内において「スパイ査問」を主導した経験を持つ人物が、四十年後に再び党内査問の最高責任者として立ち現れることになる。この因果関係を単純化することはできないが、党内における「査問」という統制手法が、宮本個人の経験と分かちがたく結びついていた可能性は指摘に値する。

三 民青同盟の膨張と学生運動の高揚

一九六〇年代末から一九七〇年前後にかけて、全共闘運動の高まりと軌を一にして、民青同盟は急速に組織を拡大した。同盟員は最盛期に約二十万人(資料によっては二十四万人前後とするものもある)に達し、名古屋大学では学生四千人中千人、東北大学では学生八千人中千人が加盟するなど、有力大学では学生の一〇〜三〇%が民青傘下にあったとされる。岩手大学のように、学生の三分の一以上が組織に加わり、寮の会議がそのまま民青の会議として機能していたという証言も残る。

この時期の民青・全学連の運動は、党中央の統制下にありながらも独自の自由さと機動力を持っていた。全共闘運動という急進主義と対峙しつつ組織を拡大した青年指導部は、次第に党中央の「人民的議会主義」路線に対して独自の見解を持つようになり、党中央の指導を無条件には受け入れない空気が広がっていったとされる。

四 「新日和見主義事件」の経過

一九七二年五月、党中央はこうした民青・党青年層の動きを「分派活動」として摘発した。五月から九月にかけて、全国で約六百名の党員が「査問」と呼ばれる取り調べを受け、最終的に約百名が処分の対象となった。中央委員であった広谷俊二は除名処分を受け、民青中央常任委員であった川上徹は十三日間の査問を経て同年秋に党員権停止一年の処分を受けている。民青静岡県委員長の油井喜夫は四日間、後にジャーナリストとして知られることになる高野孟も約一週間、それぞれ査問の対象となった。

証言によれば、査問においては拘束に「同意」した旨の署名を求められ、否認する者は一週間以上にわたって事実上の身柄拘束状態に置かれることも少なくなかったという。処分の基準について川上らは、宮本顕治が「党中央への不満を一言でも漏らした」だけで「二人分派、三人分派」とみなしうる基準を独自に創出し、「分派のふたばを摘み取れ」と指示したと証言している。ここで用いられた「新日和見主義」という呼称そのものが、外部からは実態の分かりにくい独特の政治用語であり、事件を知らない一般党員には、その説明文を読み込ませ、その枠内でのみ議論させるという形で処理されたと伝えられる。

五 その後の展開――手記・反論・再考

査問を受けた川上徹は民青本部を退職したのち、一九九一年、哲学者・古在由重の追悼集会への関与を「党規約違反」とされて除籍処分を受け、正式に離党した。一九八〇年に出版社・同時代社を設立していた川上は、一九九七年に事件の実態を綴った『査問』を刊行し、大きな反響を呼んだ。これに対し日本共産党側は翌一九九八年、機関紙『しんぶん赤旗』紙上で、川上の著作は「分派の具体的な実態や構成員を公表しなかったことを悪用」し、事件をあたかも冤罪であるかのように描いていると反論した。

一九九八年に離党した油井喜夫も、二〇〇八年に『実相 日本共産党の査問事件』を出版し、党側の説明とは異なる当事者の記録を残している。川上は二〇〇七年に『素描・一九六〇年代』を刊行し、二〇一四年には左翼運動体験者への聞き取りをまとめた著作の中で、自らの半生を「その全過程を目撃したことであった」と振り返っている。学術的にも「新日和見主義『事件』と日本共産党の路線転換」と題する論考がCiNii上に登録されており、単なる内部抗争としてではなく、党の路線転換史の一齣として位置づける研究がなされている。

六 考察――組織原理と個人の相克

新日和見主義事件が示すのは、大衆運動の実践の中で自律的な判断力と発信力を身につけた青年指導部と、地下活動と獄中闘争という全く異なる経験を土台に築かれた党中央指導部との間に生じた、根深い断層である。宮本顕治をはじめとする戦前世代の指導者たちは、大衆運動を大規模に組織した経験を持たないまま、非合法下の地下組織と長期の獄中生活によって党内での権威を築いた。これに対し民青・全学連の若い指導者たちは、二十万人規模の合法的大衆組織を実際に率いる経験の中から、独自の理論と実践感覚を養っていた。両者が同じ党の傘の下で合流したとき、指導的地位を脅かされることへの警戒が、「分派」という名の摘発というかたちで噴出したと見ることができる。

事件ののち、民青同盟は長期にわたって組織を縮小させ続け、後年の資料では最盛期の数%程度にまで同盟員数が落ち込んだと伝えられている。青年組織の衰退を追うように、指導する側の党自体もまた党勢を後退させていった。多くの構成員が自らの才能や発信力を存分に発揮する機会を持てないまま組織を去っていったとすれば、それは組織にとっても社会全体にとっても、大きな損失であったと言わねばならない。

七 おわりに

本稿で取り上げた事件は半世紀以上前の出来事であるが、党内における「査問」という統制文化そのものは、一九三三年のスパイ査問事件、一九七二年の新日和見主義事件、そして後述する二〇二三年の党員除名問題まで、形を変えながら反復されているように見える。この連続性については稿を改めて論じたい。

出典・参考


第二の論考。

日本共産党の党運営の在り方をめぐる在野・末端党員の疑問 ―機関紙中心主義と「査問」の文化を軸に―

著者:夏森龍之 2026年9月21日記介

一 はじめに――一枚の証言から出発する

あるニュースの窓に次のような文章が掲載されている。

男と女の嘆(なげ)きを聴かされて滅入ってしまう」には、日本共産党とその青年組織に関わった人々の、公式史には決して残らない肉声が記録されている。ある男は無給の新聞配達員・集金人として何十年も活動を続けることに苦悩し、ある党職員は新聞拡張と募金活動の重圧のなかで精神を病み、ある居住区支部は高齢化した二十名足らずの組織で毎週「新聞の拡張」だけを議題にし続けている。

そして筆者自身は、二十四万人を擁した青年組織が「指導」する親組織との軋轢のなかで崩壊していった過程に、深い疑問を投げかけている。

本稿は、この証言を出発点としながら、日本共産党の党運営――とりわけ「機関紙中心主義」と呼ばれる組織原理、および内部批判を封じてきたとされる「査問」の文化――について、公開資料・統計・当事者の著作をできる限り多く参照しながら、在野の視点から検証を試みるものである。ひとつの証言を一般化することには慎重でなければならないが、以下に示す通り、この証言が描く構図は、党史上何度も繰り返されてきたパターンと符合する部分が少なくない。

二 証言が伝えるもの――末端党員の実感

あるニュースの窓には、少なくとも次のような論点が含まれている。

第一に、組織がその指導者個人のために存在していたのではないかという仮説である。筆者は、新聞の配達と集金を核とした収入構造が党組織の実体をなし、「真面目で意欲的とされた普通の組織員」が事実上「無給の新聞配達と集金員」として機能させられていたと記す。ある幹部が最晩年に「人類の未来のために知能を働かせる」と語っていたという家族の証言も紹介されており、組織の理念と、末端で新聞配達に追われる党員の日常との落差が対比的に描かれている。

第二に、二十四万人規模にまで膨張した青年組織――先の論考で扱った民青同盟にあたる――が、その自由闊達さゆえに「指導」する親組織から警戒され、追及・粛清されて衰退していった経過である。岩手大学で学生の三分の一以上が組織に加わり寮の会議がそのまま青年組織の会議であったという具体的なエピソードは、前稿で確認した統計(名古屋大学、東北大学等での加盟率)とも符合する。

第三に、その組織で働いた四人のうち二人が精神疾患を患い、そのうち一人は自律神経失調症も併発したという証言である。新聞を増やすこと、募金を集めることが日常業務の中心であり、「皆が嫌なことを、促して仕事をさせる」構造があったと記されている。

第四に、社会改革の理論を自ら組み立て発表することが、この組織では実質的に「許されない」という感覚である。理論戦線・文芸戦線が幹部に独占され、普通の党員には開かれていないという指摘は、後述する近年の除名事件とも通じるところがある。

第五に、千代田区の出版社経営支部が一片の議論もなく解散させられ、個々の党員が居住区支部に組み込まれたという命令的な組織再編の経験、そして高齢化した支部で新聞拡張だけが延々と議題になり続ける停滞した現実である。

第六に、10年、20年先には新聞発行の体制そのものが崩壊するだろうという予測である。

以下、これらの論点を、統計と歴史的経緯によって裏づけ、あるいは相対化しながら検討する。

三 「機関紙中心主義」という組織原理の形成

日本共産党は綱領上も規約上も「しんぶん赤旗を中心とした党活動」を組織原則の柱に据えてきた。これは単なる広報手段としての新聞ではなく、党財政の根幹をなす仕組みである。実際、二〇二三年の党収入約百九十四億五千八百七十一万円のうち、赤旗の購読料を含む事業収入は約百五十三億四百九十八万円と、実に八割近くを占めている。党はこの収入構造を「日刊紙は年間十数億円の赤字」としながらも維持し続けており、機関紙の配達・集金活動が党の存続そのものと直結していることがわかる。

この構造は、党中央にとっては合理的な財政基盤である一方、末端の党員にとっては、証言にあるように「無給の新聞屋」としての労働を恒常的に担わされることを意味する。給与生活者が朝の一、二時間を配達に費やし、集金のたびに苦情や購読中止の通告を受けるという証言は、機関紙中心主義が末端において具体的にどのような負担として現れるかを如実に物語っている。

四 数字で見る退潮――党員数・機関紙読者数の推移

証言にある「10年先、20年先には新聞発行の体制は崩壊するであろう」という予測を検証するために、公開されている統計を確認する。

日本共産党の党員数は、二〇〇〇年の約三十八万七千人をピークに、二〇二〇年には二十七万人前後、二〇二四年一月現在では約二十五万人にまで減少している。機関紙「しんぶん赤旗」の読者数は、一九八〇年の約三百五十五万人をピークに、二〇一九年には百万人を割り込み、二〇二四年一月には約八十五万人、二〇二五年には八十万人を割る可能性が指摘されている。減少率は近年加速しており、二〇二三年は前年比約四・五%減、二〇二四年は約五・一%減、二〇二五年は約五・六%減と見込まれている。

青年組織である民主青年同盟も同様の道をたどっている。一九七〇年前後に約二十万人(証言では二十四万人)を数えた同盟員は、二〇〇二年の第三十回大会で「二万二千の峰を突破」と発表されたのを最後に公式の会員数発表が途絶え、二〇二三年時点では六千四百六十人程度と報告されている。ピーク時の三%程度への縮小である。

これらの数字は、証言にある「崩壊」が、すでに緩やかに、しかし着実に進行中の現実であることを裏づけている。機関紙収入に依存した財政構造は、購読者数の減少とともにその持続可能性を失いつつあり、証言者の予測はすでに統計上の趨勢として観測可能な事実になっている。

五 「査問」の文化とその系譜

証言にある「意見を述べることの自由度」への疑問、「反対意見を述べようものなら容赦ない反撃を浴びて、つまはじきの状態になる」という記述は、単発の個人的経験ではなく、党史上繰り返し観察される構造的パターンの一部として理解する必要がある。

一九七二年には、前稿で詳述した「新日和見主義事件」が起きている。全国で約六百名が「査問」の対象となり、約百名が処分された。処分基準そのものが宮本顕治の裁量によって事後的に創出されたとする証言(「二人分派、三人分派」)、拘束への「同意」署名を強いられたとする証言、一週間以上にわたる事実上の身柄拘束があったとする証言は、いずれも当事者である川上徹・油井喜夫らの著作に記録されている。

そして二〇二三年、党首公選制の導入を訴えた松竹伸幸が『シン・日本共産党宣言』を刊行した直後に除名され、同様に志位和夫委員長(当時)の辞任と党首公選を求める本を出版した鈴木元も除名された。両氏の出版が「分派活動」と認定された点は、一九七二年の事件との構造的な相似を思わせるが、組織の様子は党側の主張がとおる状態になっている。松竹は党規約第五十五条に基づき中央委員会・党大会への再審査を求めたが却下され、二〇二四年三月には東京地裁に党員地位確認訴訟を提起している。党大会では、福岡県委員会の紙屋高雪が処分の見直しを提案したが否決され、神奈川県選出の代議員が「本の出版よりも除名のほうが問題」と中央を批判する場面もあった。これに対し当時副委員長であった田村智子は、その代議員の発言を「党員としての主体性を欠き、誠実さを欠く」と反論している。憲法学者の小林節は除名を「ルール違反」としつつも組織の処分権自体は認め、政治学者の中北浩爾は「二党員の除名処分は従来の体質が変わらないことを示した」と評した。

一九三三年、一九七二年、二〇二三年――半世紀以上の時間を隔てながらも、内部批判者を「分派」「規律違反」として処分する構造そのものは、党の歴史を貫く一つの型として繰り返し現れているように見える。むろん党側には党側の言い分があり、この統制原理は「民主集中制」という党の組織原則――全党員の議論を経た決定には全党員が従うという建前――に基づく正当な規律であるとされてきた。一九九八年の党機関紙による川上徹への反論は、その立場を代表するものである。しかし、証言にあるように「意見を述べることの自由度」に対する末端党員の実感と、党が掲げる建前との間には、埋めがたい溝が存在し続けているように思われる。

六 末端党員の疑問・不満の諸相――組織と個人の相克

証言に描かれた個々のエピソードを、これまでの資料と重ね合わせると、いくつかの共通する不満の類型が浮かび上がる。

一つは、理論・文芸活動からの排除である。証言者は「社会改革のための理想を描く。その理想を自分で描いてみること、論理化してみること、それを発表することは、この組織では実際には普通の人にはできない」と記している。松竹伸幸・鈴木元の事例は、まさに党員が自らの言葉で党運営のあり方を論じ発表しようとした結果、除名という最も重い処分を受けた事例であり、証言者の懸念を裏づける具体例と言える。哲学者や原水禁運動の活動家、学生運動出身者が次々と組織を去り、そのことを寂しく思うという証言者の述懐も、文芸・哲学・理論戦線の縮小という党の実態と符合する。日本共産党はこのことに関連しては言論にではなく組織原理と規則に違反したことによって除名されたとしている。

二つは、心身の健康への負荷である。証言者が知る「その組織に勤めた四人」のうち二人が精神疾患を患ったという記述は、個別のケースではあるが、新聞拡張と募金という業務の過酷さを物語る。無給に近い待遇で、断られ続ける集金業務や、数字目標としての新聞拡張に日々従事することの精神的負荷は、統計には現れにくいが軽視できない論点である。

三つは、組織再編の非民主的な手続きである。千代田区の出版社経営支部が一片の議論もなく解散を命じられたという証言は、党の意思決定が上意下達的に行われる実態を示す一例である。

四つは、高齢化と組織の空洞化である。二十名ほどの居住区支部のうち高齢の女性が十名、その配偶者が五名という構成、そして新聞拡張のみが議題であり続ける会議の停滞は、党員数・機関紙読者数の傾向的減少が、末端組織の日常においてどのように体感されているかを具体的に示している。

七 考察――なぜこの構造は変わらないのか

新日和見主義事件から半世紀、松竹伸幸・鈴木元の除名からもなお、党の統制構造そのものは大きく変化していないように見える。その理由の一つは、機関紙中心主義という財政構造が、党員を組織的に動員し続けることを構造的に要求する点にあるだろう。新聞の配達と集金という日常業務は、党員同士の接触頻度を高め、組織への帰属意識を維持する機能を同時に果たしてきた。この仕組みを見直すことは、財政基盤そのものを揺るがしかねないため、党中央にとって容易な選択ではない。

もう一つの理由は、証言にもあるように、「指導」する側とされる側の非対称性が、党の組織原則そのものに埋め込まれている点である。中央委員会が理論的正統性を独占し、末端党員はその枠内でのみ議論を許されるという構造は、青年組織の膨張と粛清、除名者たちの相次ぐ離党という形で、繰り返し軋みを生んできた。

一方で、この構造への異議申し立てが党内から――紙屋高雪の提案や神奈川代議員の発言のように――生まれていることも事実である。それが多数決によって退けられ続けているという現実こそが、証言者の言う「気の毒でならない」という感情の根にあるのだろう。

八 おわりに

証言者は末尾で、新聞発行体制の崩壊とともに組織自体が「崩壊を余儀なくされるのではないか」と結んでいる。統計はこの予測をすでに部分的に裏づけている。だが、財政構造の崩壊が組織文化そのものの変化をもたらすのか、あるいは規模を縮小させながら統制の型だけを保持し続けるのかは、今後の党運営の選択にかかっている。少なくとも、末端党員や離党者たちが繰り返し発してきた疑問――意見の自由、理論活動への参加、心身の健康、組織の民主性――に、党がどう向き合うかが、その分岐点になるように思われる。

出典・参考


├
├計量計測データバンク ニュースの窓-441-ソビエト連邦の実際 ― その民主制と民主主義の実態、ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲 ― 歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-442-ソビエト連邦の実際 ― その民主制と民主主義の実態
├計量計測データバンク ニュースの窓-443-ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲——歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-444-レーニンの功績と歴史的制約がもたらしたもの、そして汚点に属する事柄
├計量計測データバンク ニュースの窓-445-コミンテルンにおける密告と粛清――野坂参三による山本懸蔵ら「日本人スパイ」告発事件の真相――
├計量計測データバンク ニュースの窓-446-宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―
├計量計測データバンク ニュースの窓-447-宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―考察資料集
├計量計測データバンク ニュースの窓-448-伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相
├計量計測データバンク ニュースの窓-451-モスクワの粛清とコミンテルンの影――加藤哲郎の実証研究にみる日本共産党・国崎定洞・山本懸蔵の悲劇と、コミンテルン指導下の党活動の歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-452-日本共産党「結成日」の揺れ――加藤哲郎の実証研究とコミンテルン第四回大会、そして民主集中制の起源
├計量計測データバンク ニュースの窓-453-日本共産党「結成日」の揺れ――加藤哲郎の実証研究とコミンテルン第四回大会、そして民主集中制の起源(無印版)
├計量計測データバンク ニュースの窓-454-加藤哲郎のソ連邦文書が読み解くソ連邦と日本共産党の歴史の真実 覆された定式化された常識などについて
├計量計測データバンク ニュースの窓-455-加藤哲郎のソ連邦文書が読み解くソ連邦と日本共産党の歴史の真実 覆された定式化された常識などについて(無印版)
├計量計測データバンク ニュースの窓-456-「新日和見主義事件」と一九七〇年前後の学生運動 ― 日本共産党・宮本顕治指導部と川上徹ら除名者たちが問うたもの[考察-その1-]
├計量計測データバンク ニュースの窓-457-「新日和見主義事件」と一九七〇年前後の学生運動―赤旗反論記事など党側の主張と除名者たちの告発[新日和見主義事件 考察-その2-]
├計量計測データバンク ニュースの窓-458-日本共産党の党運営の在り方をめぐる在野・末端党員の疑問 ―機関紙中心主義と「査問」の文化を軸に―[新日和見主義事件 考察-その3-]
├

TOPへ

├
├
├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
├

2026-09-20-news-458-materia-content-collection-of-metrology-databank-458-



「計量計測データバンク」サイトマップ
measure and measurement data bank of saite map