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├計量計測データバンク ニュースの窓-454-加藤哲郎のソ連邦文書が読み解くソ連邦と日本共産党の歴史の真実 覆された定式化された常識などについて
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加藤哲郎のソ連邦文書研究が読み解く、ソ連邦と日本共産党の「隠された史実」——覆された定式化された常識
2026年9月21日 執筆 夏森龍之介
一、はじめに——「理論」から「実証」への転回
政治学者・加藤哲郎(一九四七年生、一橋大学名誉教授)は、もともとマルクス主義国家論を専門とする理論家として学界に登場した人物である。しかし一九九〇年前後のソ連崩壊とそれに伴う公文書公開は、加藤の研究姿勢を大きく転換させた。モスクワのロシア国立社会政治史文書館(旧マルクス・レーニン主義研究所)をはじめとする各国公文書館を自ら渉猟し、コミンテルンと日本共産党とのあいだで交わされた原文書に直接あたる「実証的資料探索」へと移行したのである。一九九三年に名古屋大学から博士(法学)を取得した際の論文テーマも、まさにコミンテルンそのものであった。
この転回が持つ意味は小さくない。戦後の日本共産党史は、党自身が編纂した「日本共産党の五十年」等の党史や、関係者の回想録によって長く語られてきた。だが、それらの多くは当事者の記憶や党の自己正当化の論理に依存しており、ソ連側の一次資料と照合される機会がほとんどなかった。加藤の仕事の核心は、この「語られた党史」と「文書に残された事実」との落差を、一つひとつ具体的な文書によって突き崩していく作業にある。以下、その代表的な成果を四つの論点に整理して紹介する。
二、一九二二年綱領文書の発見——「創立」神話の書き換え
長らく学界の通説は、日本共産党が一九二三年三月の市川(石神井)大会で「綱領草案」を審議したものの、これは未完成のまま終わったとするものであった。ところが加藤は、旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所に保存されていた英文文書のなかから、「一九二二年九月、日本共産党全国大会で採択」と明記された文書を発見する。これは草案ではなく、総務幹事「青木」(荒畑寒村に比定)と国際幹事「坂谷五郎」(堺利彦に比定)の署名、および正式な党印を備えた、いわば「完成品」の綱領であった。
この発見が意味するのは、党の創立時期そのものの見直しである。モスクワ宛の報告書では一九二三年二月の会合が「第二回全国大会」と明記されており、そうであれば一九二二年の大会は論理上「第一回=創立大会」でなければならない。加藤はここから、綱領採択という指標に照らせば日本共産党の創立は一九二二年に遡るとの見解を導き出した。また同綱領には、後年の党史で強調される「君主制(天皇制)廃止」の要求が見当たらず、天皇制はむしろ「軍部官僚制と愛国主義」の問題として処理されている点も注目される。
ただし、この加藤説がそのまま学界の一致した結論となったわけではない。大原社会問題研究所の黒川伊織は、後続の論考でコミンテルン文書をさらに突き合わせ、綱領文書の作成時期を加藤の「一九二三年秋以降」説から「一九二二年十二月から二三年一月初頭」へと修正し、また加藤が高瀬清の回想を「虚偽」と断定した点についても「創作と断じる根拠はない」と留保をつけている。このやり取り自体が、一次資料の発掘が新たな論争を呼び、史実がなお動態的に更新されていく実証史学の現場を映し出している。
三、モスクワの闇——スターリン粛清と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇
加藤の代表作の一つ『モスクワで粛清された日本人——三〇年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』は、一九三〇年代のスターリン大粛清の渦中で消息を絶った在ソ日本人共産主義者たちの運命を、ロシア国立社会政治史文書館の資料によって跡づけたものである。加藤の調査によれば、この時期に約百人の日本人がソ連国内で行方不明となり、うち四十人以上が銃殺刑に処されたことが文書上確認される。医学者としてドイツで活動し後にモスクワへ渡った国崎定洞についても、長く不明であった処刑理由が「日本のスパイ」という冤罪であったことが、文書によって初めて裏づけられた。
この作業はまた、粛清の実態を単純に「政治的処刑」として一括りにしない視点を加藤にもたらした。証言記録の再検討からは、政治的理由による処刑と、単なる労働力としての強制収容とが区別されるべきであり、多くの在ソ日本人が実際には経済的労働力として組織的に利用されていたという構造が浮かび上がる。これは、ソ連社会主義の「理想」と、その内部で実際に運用されていた強制システムとの落差を、日本共産党史というローカルな窓から照射する成果でもあった。
四、野坂参三密告文書——「名誉議長」除名の衝撃
もっとも衝撃的だったのは、日本共産党の指導者であり名誉議長の地位にあった野坂参三をめぐる文書の発見である。ソ連崩壊後に公開された文書のなかから、一九三九年に野坂がアメリカからコミンテルン指導者ディミトロフに宛てて送った書簡が見出された。この書簡により、野坂がソ連在住の同志であった山本懸蔵らを内務人民委員部(NKVD)に讒言・密告し、山本がスターリン大粛清の犠牲となって処刑された経緯が明らかになったのである。
日本共産党はこの事実を受けて一九九二年九月、野坂を名誉議長職から解任し、同年十二月の党中央委員会総会で除名処分を決定した。野坂本人は「事実である以上、この処分を認めざるを得ない」と述べたのみで、以後この問題について公に語ることはなかったという。一九九三年、野坂は百一歳で死去する。加藤らの実証研究が扱ったのは、まさにこの「除名の根拠となった文書」そのものの解読であり、党が自らの創立世代の指導者に対して下した審判の、資料的な土台を提供する仕事であった。長らく党の功労者として顕彰されてきた人物の実像が、当人の生存中に文書という「動かぬ証拠」によって覆される——これほど鮮烈な形で「定式化された常識」が崩れた例は、戦後日本の政治史においても稀である。
五、クレムリンの秘密資金——コミンテルン依存の再検証
もう一つの論点は、ソ連から日本共産党への資金援助の実態である。時事通信記者であった名越健郎の『クレムリン秘密文書は語る』(一九九四年)が紹介した「国際労働組合基金」関連文書によれば、日本共産党は一九五一年に十万ドル、一九五五年に二十五万ドル、一九五八年から六三年にかけて合計四十万ドル、総額八十五万ドルにのぼる資金援助を受けたとされる。当時の貨幣価値に換算すれば十億円を超える規模である。
これに対し日本共産党の不破哲三・志位和夫らは、資金を受け取ったのは野坂参三や袴田里見といった「内通者」個人であって党中央としての受領ではないと一貫して主張し、事実そのものを否定してきた。加藤の一連の研究——たとえば一九三一年のコミンテルン宛報告書に見える資金要求の記述の検証など——は、こうした党の公式説明とソ連側資料に残る実態との緊張関係を、具体的な文書に即して問い直す作業として位置づけられる。ここでもまた、資料の発掘そのものが、歴史認識をめぐる現在の政治的立場の対立と直結している点が重要である。
六、ゾルゲ事件、覆された神話——伊藤律「密告説」の解体
加藤の近年の代表作『ゾルゲ事件——覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)は、一九四一年に発覚したリヒャルト・ゾルゲ諏訪ロ諸グループの摘発経緯そのものを再検証したものである。戦後長く定説とされてきたのは、党員であった伊藤律が仲間を特別高等警察に「密告」したことで組織全体が露見したという筋書き(いわゆる伊藤律起源説)であった。
加藤はこれを、戦時中の特別高等警察が自らの摘発手法を隠すために作り上げた説明と、戦後の連合国軍総司令部情報部(GHQ・G2)がアグネス・スメドレーや在米中国共産党員を標的にする目的で利用した政治的構築物であると位置づけ直す。実際の摘発の端緒は、一九三一年の伊藤衣一検挙以降にアメリカ共産党内の日系日本人に関する調査を積み重ねていた特別高等警察の情報網が、北林トモと宮城与徳を特定したことにあったとされる。さらに、上海でゾルゲに尾崎秀実を引き合わせた伊藤衣一という、それまで歴史の陰に隠れていた人物の役割が、上海ゾルゲ機関の存在とともに新たに焦点化される。ここでも、戦後長く定着していた「神話」が、文書に基づく実証によって解体されている。
七、結びに——実証史学が問いかけるもの
加藤哲郎の仕事を通覧して浮かび上がるのは、単に個々の史実を訂正するという以上の意味である。第一に、党史や公式回想録という「語られた歴史」と、公文書という「記録された歴史」との間には、しばしば無視できない断層が存在するという方法論的な教訓である。第二に、その断層を埋める作業は一人の研究者の発見で完結するものではなく、黒川伊織らによる再検討がそうであったように、資料の相互検証を通じて絶えず更新されていく開かれた過程だということである。第三に、これらの発見が持つ意味は歴史学の内部に留まらない。野坂参三除名やソ連資金問題への日本共産党自身の対応が示すように、公文書による実証は現在の政治的立場そのものを問い直す力を持つ。
ソ連という国家がすでに消滅した今日、加藤の研究が示すのは、その崩壊が単に一つの超大国の終焉であっただけでなく、二十世紀の国際共産主義運動全体の「語られなかった歴史」を検証可能にする、資料的な意味での大きな転換点でもあったという事実である。定式化され、疑われることのなかった「常識」が、一枚の書簡や一通の報告書によって覆される——加藤哲郎のソ連邦文書研究は、その具体例を積み重ねることで、戦後日本の政治史認識そのものに問いを投げかけ続けている。
Sources:
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