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├計量計測データバンク ニュースの窓-452-日本共産党「結成日」の揺れ――加藤哲郎の実証研究とコミンテルン第四回大会、そして民主集中制の起源
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2026年9月21日 執筆 夏森龍之介
日本共産党の党史は、その創立日を一九二二年七月十五日と明記してきた。同党中央委員会が公表する「あゆみ」にも「党の創立(七月十五日)当時、日本が起こした侵略戦争に政党として唯一反対をつらぬきました」とあり、毎年七月十五日前後には機関紙「しんぶん赤旗」が創立記念の主張・論説を掲げるのが恒例となっている(日本共産党中央委員会「あゆみ|党紹介」、志位和夫「党創立一〇一年の記念の月、どうか日本共産党の一員に」『しんぶん赤旗』二〇二三年七月十五日付)。
しかし、この「七月十五日創立」という一見動かしがたい事実は、実のところモスクワのコミンテルン文書館(旧ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所文書館)から発掘された一次資料と照合したとき、単純には成り立たない多くの矛盾を露呈する。この矛盾を実証的に解明したのが、一橋大学名誉教授・政治学者の加藤哲郎である。本稿は、加藤の一連の研究――とりわけ『大原社会問題研究所雑誌』誌上に発表された論文「一九二二年九月の日本共産党綱領」(上・下)――に依拠しながら、党史記載とコミンテルン第四回大会(一九二二年十一~十二月、モスクワ)との実際の関係を再検討し、あわせて日本共産党の組織原則である民主集中制がどのような経緯でコミンテルンから移植されたものであるかを跡づける。
通説による結成過程は、おおよそ次のように語られてきた。一九二一年四月、堺利彦・山川均・近藤栄蔵らが東京で「日本共産党準備委員会(準備会)」を発足させた。同年十月、コミンテルンの使者・張太雷が来日し、翌一九二二年一月から二月にかけてモスクワで開催される極東民族大会(極東諸民族大会)への代表派遣を要請した。この大会でスターリンらから日本の共産主義運動に対する指導と活動資金を得た代表団の帰国後、党創立の準備が具体化し、一九二二年七月十五日、堺・山川・近藤・吉川守圀・橋浦・浦田武雄・渡辺・高瀬清の八名が東京・渋谷の高瀬清の下宿に集まり、堺利彦を委員長とする非合法政党として日本共産党を創立した(中央委員には荒畑寒村・高津正道・徳田球一ら七名が選出され、当時の党員数はおよそ百名とされる)。同年十一月、高瀬清と川内唯彦が代表としてコミンテルン第四回大会に出席し、党の成立を報告、「コミンテルン日本支部」として正式に承認された(フリー百科事典『ウィキペディア』「日本共産党」「第一次共産党(日本)」の各項目、日本共産党「コミンテルンとの関係 どう考える?」『しんぶん赤旗』二〇〇六年九月七日付)。
加藤哲郎は、旧ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所(コミンテルン文書館)に保存されていた英文文書のなかから、「一九二二年九月、日本共産党全国大会で採択」と明記された日本共産党綱領を発見した。この文書には「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」という直筆署名と、「日本共産党幹部之印」という朱色の公印まで押されており、従来知られていたいわゆる「二十二年綱領草案(二十二年テーゼ)」とはまったく別個の、実在する党大会決定文書であった(加藤哲郎「一九二二年九月の日本共産党綱領(上)」『大原社会問題研究所雑誌』第四八一号、法政大学大原社会問題研究所、一九九八年、四三頁以下)。
加藤の実証はここから通説の根幹を揺るがす方向へ展開する。第一に、加藤は綱領の起草者を文体的特徴から山川均と推定し、署名者を荒畑寒村(党内名「青木」=Aoki Kumekichi)と堺利彦(党内名「坂谷」=Sakatani Goro)に同定した。荒畑が第一次共産党期に「青木」という党内名を使用していたことは、荒畑自身の予審訊問調書における供述で確認できるという(加藤、前掲論文(上))。
第二に、この綱領が「全国大会」として九月開催と明記されている以上、加藤は「七月十五日創立」という日付そのものの史料的根拠を問い直す。加藤によれば、この日付の文献的根拠は一九三〇年四月一日、徳田球一に対する第二十三回予審訊問(予審判事・藤本梅一)にまで遡る。このとき藤本は一九二四年発行の『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』に掲載された日本共産党綱領草案を徳田に示し、徳田は「之ト同一内容ノモノデシタ」と供述した。この供述が、翌一九三一年に市川正一が獄中で執筆した『日本共産党闘争小史』によって「七月十五日創立、綱領草案は第四回大会で得た」という一本の筋立てへと公式化され、以後の党史記述の定型となったというのが加藤の分析である(加藤哲郎「一九二二年九月の日本共産党綱領(下)」『大原社会問題研究所雑誌』第四八二号、法政大学大原社会問題研究所、一九九九年一月、三八頁以下)。加藤はこれを「『党史』そのものの政治性」と呼び、徳田が当初は石神井会議への出席を否定しながら後に「出席したがごとく」供述を変えていった過程を、後年の党史構成に合わせた「後知恵」の投影として批判する。
第三に、加藤はコミンテルン第四回大会(一九二二年十一~十二月)と「二十二年テーゼ」との通説的な結びつきそのものを覆す。従来、高瀬清が第四回大会からいわゆる綱領草案を持ち帰ったとされてきたが、加藤は「高瀬がいわゆる二十二年日本共産党綱領草案をモスクワから持ち帰った形跡はない」と断じる。加藤が発見した一九二三年三月二十五日付のモスクワ宛て報告書には、「われわれがあなた方の指令を受け取ったのが遅すぎ、ブハーリン同志による綱領草案と綱領づくりのための他の資料が、われわれに届いたのは、ようやく三月初めであったこと」と記されており、実際の指令到着は一九二三年三月初旬、同月十五日に召集された臨時党大会(東京・石神井)のわずか二週間前であったことになる。石神井会議では綱領の内容をめぐって代議員が鋭く分裂し、「明確な結論を得るにいたらなかった」。しかも加藤によれば、この会議での実際の争点は(一)政治革命とプロレタリア革命の関係、(二)合法プロレタリア政党組織化の是非、の二点であり、「君主制問題はまったく出てこない」。合意された戦術的要求は政治・社会(「完全に民主的な政府の要求」など十項目)、産業(赤色労働組合主義など三項目)、農業(二項目)、国際(ソビエト・ロシア承認など三項目)の四分野にとどまり、「君主制廃止」は含まれていなかったという(加藤、前掲論文(下))。
加藤はさらに、いわゆる「二十二年テーゼ」の実際の成文化時期を一九二三年秋以降にまで引き下げる仮説を提示する。すなわち、同年六月の第一次共産党一斉検挙と九月の関東大震災によって国内での綱領作成作業が中断されたのち、モスクワのコミンテルン東洋部でより急進的な「君主制廃止」を含む綱領草案が作成された、という推測である。あわせて加藤は、高瀬清の回想録『日本共産党創立史話』にある「極東民族大会でブハーリンから天皇制廃止を指示された」という挿話についても「フィクションとしかいいようがない」と断じ、これも後年の徳田・市川による党史構成に影響された遡及的な語り直しであるとみる。加藤はこの史料批判の先蹤として、一九七九年の松尾尊兊の論考が同様の透徹した視点を示していたにもかかわらず、その後の研究がこの洞察を見失ったことも指摘している(加藤、前掲論文(下)、四〇頁以下)。
一九二三年三月二十五日付報告書はまた、一九二三年二月の大会を「第二回全国大会」と明記しており、これによって「一九二二年夏の全国大会=第一回=創立大会」という党大会の回次自体は裏づけられる(第二回大会出席者七十三名、党員数三百六十一名)。加藤の批判は「創立の事実」そのものの否定ではなく、その日付・綱領・思想内容が、一九三〇年代の予審供述と一九三一年の獄中党史によって事後的に再構成され、政治的な「一本の赤い糸」として物語化された点に向けられている。加藤の結論は、第一次日本共産党が本来「山川均・堺利彦・荒畑寒村に代表される、のちの労農派から日本社会党へと連なる日本型左翼社会民主主義者の指導する党」であり、その遺産をのちにスターリン指導下のモスクワ製の政策・規約を奉じる党が「簒奪」したという、日本共産党史像そのものの読み替えにまで及ぶ(加藤、前掲論文(下)、結論部)。
加藤の仮説は無批判に受け入れられたわけではない。黒川伊織は「日本共産党『二十二年綱領草案』問題再考」(『大原社会問題研究所雑誌』第五九二号、二〇〇八年三月)において、新たに発掘した「一九二三年六月綱領草案」を手がかりに、綱領草案の一般綱領部分が一九二二年十一月のコミンテルン第四回大会に提出されたブハーリンの世界綱領草案に由来することを確認したうえで、綱領草案自体の成文化時期を「一九二二年十二月から一九二三年一月初頭」と推定し、これは結果として犬丸義一らが支持してきた通説を裏づけるものだと結論した。黒川は加藤の「確たる史料がない」という史料批判を部分的には認めながらも、加藤が示唆した一九二三年秋以降という成文化時期の仮説には同調しなかった。この論争は、モスクワのコミンテルン綱領問題委員会議事録や第四回大会日本問題委員会議事録など、加藤自身が課題として挙げた未発掘資料の解明にかかっており、今日なお決着した論点ではない。
日本共産党の組織原則である民主集中制もまた、党独自の発明ではなく、ロシア社会民主労働党とコミンテルンの組織論を移植したものである。
「民主主義的中央集権制」という用語は、一九〇五年以降、ボリシェヴィキの党内論争のなかで用いられ始め、一九〇六年四月、ストックホルムで開催されたロシア社会民主労働党統一(合同)大会で初めて党の公式な組織原則として採択された。レーニンはこれを「批判の自由と行動の統一」と定式化した。一九一七年のロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)第六回協議会は、これをさらに(一)党の各機関は選挙によって構成される、(二)すべての党組織はその活動を党に報告する義務を負う、(三)少数は多数の決定に服従する義務を負う、(四)上級機関の決定は下級機関に対して絶対的かつ強制的な拘束力を持つ、という規約上の原則として明文化した。
この原則を一国の党規約から国際共産主義運動全体の組織規範へと格上げしたのが、一九二〇年のコミンテルン第二回世界大会で採択された「共産主義インタナショナルへの加入条件(加入二十一カ条)」である。その第十二条は次のように定める。「共産主義インタナショナルに所属する党は、民主主義的『中央集権制』の原則にもとづいて建設されなければならない。現在のような激しい内乱の時期には、党がもっとも中央集権的に組織され、党内に軍事的規律に近い鉄の規律がおこなわれ、党中央が、広範な全権をもち、全党員の信頼をえた、権能のある、権威ある機関であるばあいにだけ、共産党は自分の責務をはたすことができるであろう」(「共産主義インタナショナルへの加入条件」一九二〇年、第十二条)。日本共産党は一九二二年十一月にこの加入条件を受け入れる形でコミンテルンの日本支部として承認されたのであり、加藤の実証研究が示すように、その組織原則や綱領文書の実際の伝達・確定過程は、党史が描くような整然とした一本道ではなく、上海経由の密使や「赤色ブローカー」を介した錯綜した情報伝達、モスクワ側の遅延と国内の混乱が複雑に絡み合ったものであった。
日本共産党の党規約が「民主集中制」を明文で掲げるのは、戦後の一九四五年十二月、第四回党大会での規約公表によってである。その後、一九五〇年代のいわゆる「五〇年問題」(コミンフォルム批判に端を発する党の分裂)の教訓を踏まえ、一九五八年の第七回党大会規約では、意見の相違を理由とする組織的排除の禁止など、運用面での修正が加えられた。
加藤哲郎の一連の実証研究が示すのは、日本共産党の「七月十五日創立」という党史記載も、コミンテルン第四回大会からもたらされたとされる「二十二年テーゼ」も、そして組織原則としての民主集中制も、いずれも単純な事実の記録ではなく、一九三〇年代の獄中供述と党史編纂という政治的行為によって事後的に構成され、コミンテルンという国際組織の規範を移植することで正統性を調達してきた、という点である。この意味で、党の結成日をめぐる論争は単なる考証上の枝葉の問題ではなく、「党史」がいかにして書かれ、いかにして特定の政治的系譜(徳田・市川的党史)が他の系譜(山川・堺・荒畑的労農派の系譜)を排除しつつ正統性を独占していったかという、日本共産主義運動史の根幹にかかわる問題なのである。黒川伊織らによる反論も含め、この論争はモスクワに残る一次資料のさらなる発掘と検討によって、今後も更新されていく性質のものであることを付言しておきたい。
注・参考文献
(本稿は上記文献に依拠した現時点での整理であり、モスクワのコミンテルン文書館所蔵の綱領問題委員会議事録・第四回大会日本問題委員会議事録など未見資料の発掘によって、記述が更新される可能性がある。)
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