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├計量計測データバンク ニュースの窓-456-「新日和見主義事件」と一九七〇年前後の学生運動 ― 日本共産党・宮本顕治指導部と川上徹ら除名者たちが問うたもの[新日和見主義事件 考察考察-その1-]
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2026年9月21日 執筆 夏森龍之介
一 はじめに
一九七二年、日本共産党は党内に潜んでいたとされる秘密組織「新日和見主義」分派を摘発したとして、民主青年同盟(民青)中央や全学連などの若手活動家層を中心に、数百人規模の党員を「査問」にかけ、約百人を処分した。この「新日和見主義事件」は、長らく党内の内部問題として公にされることがなかったが、一九九〇年代後半以降、当事者であった川上徹や油井喜夫らが相次いで著作を発表したことで、戦後日本共産党史上最大級の内部粛清事件として広く知られるようになった。
本稿は、この事件を一九七〇年前後の学生運動史という文脈の中に位置づけたうえで、事件の経緯、処分された人々の実像、宮本顕治指導部の関与、そして事件をめぐるその後の論争を、現時点で確認できる公刊資料・証言に基づいて整理することを目的とする。党史をめぐる評価は今日なお当事者間で鋭く対立しており、本稿は特定の立場に与するのではなく、公式見解・被処分者側の証言・第三者的な研究の三つの視点を可能な限り並置して提示する。
戦後日本の学生運動を主導した全日本学生自治会総連合(全学連)は、一九四八年の結成当初、日本共産党の強い影響下にあった。しかし一九五〇年代半ば以降、党の方針――とりわけ武装闘争路線の放棄や「六全協」(一九五五年)に至る党内路線転換――に反発する学生活動家層が台頭し、共産党の統制に批判的な潮流が全学連主流派を占めるようになる。一九五八年の共産主義者同盟(ブント)結成を経て、一九六〇年安保闘争では、日本共産党とは一線を画す全学連主流派(のちにいう新左翼諸派の源流)が街頭闘争の前面に立ち、党はこれを「トロツキスト」的な冒険主義として厳しく批判した。
この対立の結果、全学連は事実上分裂し、日本共産党・民青は独自に組織を再建する道を選ぶ。一九六〇年代を通じて、学生運動の場では、日本共産党・民青系の学生自治会組織と、革マル派・中核派・社学同など新左翼諸党派系の組織とが並存し、しばしば激しく敵対した。一九六八~六九年の大学紛争(東大闘争、日大闘争などいわゆる全共闘運動)においては、新左翼諸党派やノンセクト活動家が主導する全学共闘会議(全共闘)が各大学で急進化する一方、日本共産党・民青は「大学正常化」路線を掲げてこれと鋭く対立し、キャンパスでは両者の間で暴力的な衝突も頻発した
三 一九七〇年安保闘争と民青同盟の急進化
一九七〇年の日米安保条約自動延長をめぐる闘争において、民青同盟は全国から多数の同盟員を動員し、街頭闘争に積極的に参加した。この時期、民青の同盟員数は二十万人を超える規模に達し、組織としての存在感を急速に高めていた。同時に、全共闘運動の高揚と新左翼諸派との日常的な緊張関係のなかで、民青傘下の学生・青年活動家の間には、独自の判断で行動する自主性や、党中央の統制に対する率直な批判を口にする空気が広がっていったとされる。
こうした状況を、党指導部――とりわけ宮本顕治委員長――がどう受け止めたかが、次に述べる一九七二年の事件を理解するうえでの重要な背景となる。党の公式路線は、暴力革命ではなく議会を通じた多数派形成(いわゆる「人民的議会主義」)に重心を置くものであり、これは急進化した学生運動の現場感覚とは一定の距離があった。党指導部が、民青中央や全学連の一部指導層に「党中央の路線からの逸脱」の兆候を見出し、これを組織的な「分派」活動として摘発する方針を固めていったとみられる。
四 「新日和見主義事件」の発覚と査問の実態
一九七二年五月、日本共産党中央は、民青同盟中央常任委員であった川上徹と、党中央委員であった広谷俊二を中心とする党内秘密組織(分派)が存在するとして、これを摘発したと発表した。摘発の対象は民青同盟本部にとどまらず、全学連、日本平和委員会、労働者教育協会、ジャパンプレスサービス、各地の労組・党組織など多岐にわたり、同年五月から九月にかけて、六百人から千人ともいわれる党員・同盟員が「査問」と呼ばれる取り調べの対象となった。
川上自身の証言(『査問』一九九七年、『素描・一九六〇年代』二〇〇七年)によれば、査問では「離党して新組織を結成しようとした疑い」から「組織資金の横領疑惑」まで様々な容疑が持ち出され、対象者は身柄拘束への同意を事実上強要され、否認する者は一週間から、長い場合には十日間以上にわたって拘束されたケースもあったという。最終的に処分を受けた者はおよそ百人とされ、民青中央常任委員十五人中七人、中央委員百八人中三十人が何らかの処分(党員権一年間停止、役員罷免、専従解任など)を受けたと伝えられている。ジャーナリストの高野孟のように、一週間の査問の後、関与なしと判断されて解放された例もある。
査問委員会の中心には宮本顕治委員長自身がいたとされ、川上の回想によれば、宮本は民青指導部を観察する場を設けたうえで「分派的傾向」を察知し、摘発に踏み切ったとされる。査問には宮本の側近とされる幹部らが加わったと川上は記しているが、これは被処分者側の証言に基づくものであり、党側はこうした人物特定や査問の運営実態について公式には具体的に反論していない。この点は、事件の全体像を評価するうえで留保が必要な部分である。
五 処分された人々――川上徹・広谷俊二・油井喜夫ら
事件の中心人物とされた川上徹(一九四〇~二〇一五)は、一九六〇年に東京大学在学中に日本共産党へ入党し、一九六四年には全学連中央執行委員長を務めた後、民青同盟本部の中央常任委員として活動した人物である。一九七二年の査問の結果、党員権停止一年の処分を受けて民青本部を退職。その後、一九九一年には哲学者・古在由重の追悼集会を独自に企画したことが党規約違反とされ、除籍処分となり離党した。彼は一九九七年に『査問』を著して事件の実態を初めて公に証言し、二〇〇一年の文庫版には政治学者・加藤哲郎が解説を寄せ、この事件を「党史上最大の人権侵害事件」と評した。二〇〇七年には『素描・一九六〇年代』で、自らが率いた民青本部内の分派的活動の実態そのものについても言及している。
広谷俊二は、川上とともに事件の主導者とされた党中央委員であり、党員権停止を経て除名処分を受けた。また、民青静岡県委員長であった油井喜夫は、二十七年間沈黙を守った後、一九九八年に離党し、一九九九年『汚名』、二〇〇〇年『虚構―日本共産党の闇の事件』、二〇〇八年『実相―日本共産党の査問事件』を相次いで刊行した。油井は、党中央の査問手法を宮本式の分派基準をによるでっち上げてのものと厳しく批判する一方で、川上ら民青本部グループの内部にも問題があったことを認めるなど、単純な加害・被害の図式には収まらない複雑な視点を提示している。このほか、評論家の川端治も査問の対象になったと伝えられているが、その後の処分内容は資料上明らかではない。
六 宮本顕治指導部と粛清の政治的論理
なぜこの時期に、これほど大規模な内部粛清が行われたのか。この点については、複数の解釈が並存している。
第一に、日本共産党自身の公式見解である。党は一九九八年一月、機関紙『しんぶん赤旗』に「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか」と題する反論記事を掲載し、川上らの著作が「事件をあたかも冤罪であるかのように偽っている」と批判した。党の立場では、これは党規約に違反する現実の分派活動に対する正当な規律措置であり、理論的立場の相違というより、組織原則を逸脱した秘密活動そのものが問題とされたことになる
第二に、被処分者側および批判的な立場からの見方である。川上や油井、加藤哲郎らは、摘発された「分派」の実態そのものに疑問を投げかけ、明確な政治路線の相違も組織的な結社の証拠も乏しいまま、党中央への不満をわずかに漏らした者までもが「分派」と認定されたと主張する。この立場からは、事件は党の「人民的議会主義」路線への転換を進めるにあたり、街頭闘争や大学闘争の最前線で急進化しつつあった若手活動家層――当時最も熱心に運動に取り組んでいた層でもあった――を切り離し、党の「穏健化」を印象づけるための組織的措置であった、という解釈が示される。トロツキスト系の立場から書かれた書評(『週刊かけはし』所収)は、これをより端的に、党の「右転換」のための「スケープゴート」であったと位置づけている。
第三に、より距離を置いた研究的関心からは、この事件を、急速に組織が拡大した民青同盟(当時同盟員二十万人超)の若手幹部層と、議会主義路線を掲げる党中央官僚機構との間の、世代的・路線的な緊張関係として捉える見方も存在する。実際、事件の直後には民青幹部の若返り方針をめぐる党中央と民青中央委員会の間の摩擦が指摘されており、単なる「陰謀」か「正当な規律」かの二項対立に還元しきれない組織内力学が働いていた可能性がある。
なお、事件の数年後にあたる一九七四年から七五年にかけて、民青中央や愛知県委員会の幹部が公安警察の協力者であったことが発覚する事件も起きている。批判的な立場からは、川上らの分派活動によって組織の結束が弱まった隙にこうした浸透が生じたとする見方も示されているが、これも当事者の証言に基づくものであり、確定的な事実関係としてではなく、一つの解釈として理解すべきだろう。
七 一九九〇年代以降の告発と論争
事件は摘発から一九九〇年代半ばまで、ほとんど公然と語られることがなかった。多くの処分者が離党せず党籍を保持し続けたことも、事件が長く「話題にならなかった」一因とされる。転機となったのは一九九七年の川上徹『査問』の刊行であり、同書は党規約違反の具体的内容には触れないまま、査問という体験そのものの過酷さを世に問う内容であった。日本共産党はこれに対し翌九八年に反論記事を掲載し、以後、当事者の証言と党の公式見解とが正面から対立する構図が続くことになる。
二〇〇〇年代に入ると、油井喜夫が『虚構』『実相』を通じて、川上ら民青本部グループが長年「分派の事実」そのものを伏せてきたと批判するなど、被処分者側の内部でも認識の相違が明らかになった。二〇〇七年の川上『素描・一九六〇年代』は、こうした批判にも応える形で、当事者自身の目から見た分派活動の実態を記録したものとして位置づけられる。今日にいたるまで、この事件に関する評価は、党の公式資料、当事者たちの回想録、そして政治学的な検証という異なる情報源の間で、なお完全には一致していない。
八 事件の歴史的意味
「新日和見主義事件」は、単に一政党の内部規律問題としてではなく、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけての日本の学生運動・青年運動が置かれていた特殊な位置――新左翼諸派の急進化と、それに対抗しつつ独自の大衆的基盤の拡大を図っていた日本共産党・民青同盟という、二つの潮流の緊張関係――のなかで理解される必要がある事件である。全共闘運動や新左翼諸派との対立の最前線に立っていた民青・全学連の若手活動家たちが、まさにその急進化のゆえに、今度は自らが属する党組織そのものから「分派」として切り離されたという事実は、戦後日本の左翼運動史における組織と個人、路線と規律の関係を考えるうえで、今なお重要な参照点を提供している。
九 おわりに
本稿で見てきたように、「新日和見主義事件」をめぐる評価は、党の公式見解、被処分者側の証言、批判的な立場からの分析の間で、今日でも大きく隔たっている。確実に言えるのは、一九七二年に数百人規模の党員・同盟員が査問の対象となり、約百人が何らかの処分を受けたという事実、そしてその中心にいたとされる川上徹をはじめとする当事者たちが、四半世紀以上の沈黙を経て、それぞれの立場から事件の実態を証言してきたという経緯である。事件の全体像――とりわけ査問の個々の実態や、宮本顕治指導部の意思決定過程の詳細――については、公党の内部資料が公開されていない以上、今後も第三者による資料的検証には限界が残ることを付言しておきたい。
(川上徹『査問』(同時代社、一九九七年)/同『素描・一九六〇年代』(同時代社、二〇〇七年)/油井喜夫『汚名』(一九九九年)・『虚構―日本共産党の闇の事件』(二〇〇〇年)・『実相―日本共産党の査問事件』(二〇〇八年)は、いずれも刊行物としての存在は確認できたが、本文中の引用箇所は上記ウェブ資料に基づく要約・孫引きであり、原本を直接確認したものではない点をお断りしておく。)
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