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計量計測データバンク ニュースの窓-418-
News material content collection of metrology databank №418

計量計測データバンク ニュースの窓-418-
北アルプスと日本の山岳に10万年単位で発生する山体崩壊


計量計測データバンク ニュースの窓 目次

計量計測データバンク ニュースの窓-418-

計量計測データバンク ニュースの窓-418-北アルプスと日本の山岳に10万年単位で発生する山体崩壊
計量計測データバンク ニュースの窓-417-ネパール基礎情報と土砂災害と将来の経済像
計量計測データバンク ニュースの窓-419-ネパールの土砂災害と対比する日本の山岳に発生する山体崩壊

立山最高峰の月と岩と雪 高山では宇宙がみえるような夜空に感動する 写真と文:旅行家甲斐鐵太郎


 写真は標高3,015メートルを超える立山連峰の最高峰大汝山頂上とほぼ同じ標高にある山小屋付近の月と岩と雪の風景である。

 夏の夕方に日が沈む前に半月が南西の上空にみえている。この表現によってその日が7月18日前後であることがはっきりする。残雪が頂上まであるので登山者が雪を踏み抜いて雪渓の下に落ち込むと行へ不明になって発見されない。山が高くなると里で考える常識は通用しなくなる。高い山に行くほどに空は黒みを増す。青が濃くなるという言い方もできる。平地と標高3,000メートルとでは星や月の見え方が違う。

 南西の眼下に黒部ダムを西には富山市の街の明かりがみえるこの頂は同じ時刻に雲が赤く焼けるなか遠くに右回りに八ヶ岳、富士山、南アルプス連峰、槍ヶ岳、穂高岳、笠ヶ岳、白山、大日岳、剣岳、白馬岳、鹿島槍ヶ岳の姿がある。月があると星の見え方の邪魔になる。月が沈んだ後には夏の星座の天体ショーとなるもののこの日はそれが午前2時であったから、山小屋の人に見頃でると案内されても疲れた身体は対応することができない。

 登山を終えてから考えるとそれは残念なことであると大いに悔いが残ったので、それから月のでない3週間後に八ヶ岳の山小屋に泊まって夏の星座とゆっくりと対面することになった。東京の夜空でみることができる星の数はたかだかであり、それが高尾山に登るとずっと増える。八ヶ岳の山小屋でみる星の数は半端ではない。長い帯の天の川は銀河の中心部を指す。宇宙がみえるような夜空に感動しているそのときに幾つかの流星が流れた。流星群がみえる時期でもあったから夜空から有り難いプレゼントを贈られた。

日本アルプスの圏谷に人の過去と未来をみる 人は氷河期に人となり今日に至った 写真と文:旅行家甲斐鐵太郎


この雪渓の東側には内蔵助カールがあり、その先には規模壮大な雪渓が万年雪を真砂沢を埋めている。

写真は立山の大汝山(3,015メートル)の東南にもりあがる大雪渓で、この西側には明治38年(1906)8月、山崎直方(やまさき なおまさ)博士によって発見され、日本にも氷河があった証拠として説明された山崎カール(圏谷)がある。この雪渓の東側には内蔵助カールがあり、その先には規模壮大な雪渓が万年雪を真砂沢を埋めている。この雪渓は古い昔の雪を残しているので、それを調べることによってその時代の気象ほかのようすを探り出すことができるということで、ボーリング調査が行われている。

 山崎直方(博士)氏は明治3年(1870年)4月10日生まれで、 昭和4年(1929年)7月26日没。高知県の生まれ。第一高等学校 (旧制)を経て、1895年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学)の地質学科を卒業。1897年に第二高等学校 (旧制)(現・東北大学)の地質学の教授に就任。1898年から1901年までドイツとオーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のヨハネス・ユストゥス・ラインやアルブレヒト・ペンクに指導を受ける。帰国後、東京高等師範学校の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。山崎カールは規模は大きくないが堆石(モレーン)が何段かあって氷河痕であることを説明するに十分な内容であった。日本の高山にはいくつもカールがあるのでカールを訪ねての山歩きを副題にするのも一興であろう。

 地球は暖かくなったり寒くなったりを周期的に繰り返している。氷河期は、地球の気候が長期にわたって寒冷化する期間で山岳地の氷河群が拡大する。最後の氷河期は1万年前で、現在は氷期と氷期の間の間氷期にあたる。この数百万年の間に、4万年から10万年の周期で氷期が起こり、その間にも小氷期、小間氷期が認められる。ヨーロッパでは氷期が「ギュンツ」、「ミンデル」、「リス」、「ウルム」の4つに区分されている。

山崎カールです。立山連峰雄山から室堂平に向かって氷河が広がっていたのです。7月17日に撮影しました。


大トンビ山(大鳶山)の山体崩壊(鳶崩れ)と常願寺川の氾濫


桑崎山から見た立山カルデラ(国土交通省立山砂防工事事務所2002)。右手端にトンビ山(鳶山)がある。その左手にあったの大トンビ山(大鳶山)が体崩壊(鳶崩れ)した。左手に見える道路は室堂へのバスルート。


安政五年常願寺川非常洪水山里変地之模様見取図(山方図)(滑川市立博物館蔵,岩城家文書)。堰止湖が形成されていることを青色の池によって表現している。

計量計測データバンクに掲載されている甲斐鐵太郎氏の記事

大トンビ山(大鳶山)の山体崩壊(鳶崩れ)と常願寺川の氾濫「計量計測データバンク」およびその関連媒体である『日本計量新報』電子速報版などの計量計測データバンクには、甲斐鐵太郎(かい・てつたろう)氏による山岳や自然災害、歴史探訪をテーマにしたエッセイや紀行文が多数掲載されています。ご指定の記事は、安曇野や立山連峰を巡る旅や歴史の記述の中で、1858年(安政5年)に発生した飛越地震に起因する「大トンビ山(大鳶山・小鳶山)の山体崩壊(鳶崩れ)」と、それに伴う「常願寺川の土砂災害・大氾濫」の歴史的脅威について触れたものです。この記事が扱っている歴史的背景と、記述されている主なポイントは以下の通りです。

1.飛越地震と「鳶崩れ」の発生未曽有の山体崩壊:1858年4月9日(安政5年2月26日)に発生した飛越地震(ひえつじしん)により、富山県の立山連峰にある大鳶山・小鳶山が完全に崩壊しました。これが日本三大崩れの一つに数えられる「鳶崩れ(とびくずれ)」です。崩壊の規模: 剥ぎ取られた土砂の総量は約4億立方メートルとも言われ、一瞬にして巨大な山が消え去るほどの凄まじい規模でした。

2.常願寺川の堰止湖(天然ダム)と決壊川の閉塞:崩落した大量の土砂は、常願寺川の上流(立山カルデラ内)に流れ込み、河道を完全に塞いで複数の巨大な「堰止湖(天然ダム)」を形成しました。二度にわたる大氾濫:地震直後の4月23日(旧暦3月10日)に最初の決壊が起き、さらに初夏の洪水期(6月8日/旧暦4月26日)に本決壊が発生しました。押し寄せた大量の泥流と巨石が富山平野を一気に襲い、流出家屋や死者多数という壊滅的な被害をもたらしました。

3.甲斐鐵太郎氏の記事における視点自然の猛威と現在の風景の対比:甲斐氏の執筆スタイルは、自身がオートバイや車で現地(安曇野や高瀬川周辺、北アルプス山麓など)を旅した際の現代の美しい新緑や山々の風景を叙情的に描写しつつ、その背後にある過去の凄惨な大災害の記憶を歴史的知識とともに重ね合わせる特徴があります。治水の歴史への目配り:常願寺川は、この「鳶崩れ」以降、日本屈指の「暴れ川(急流河川)」として恐れられるようになり、後にオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケらによる近代砂防工事へとつながっていきます。記事中では、こうした土地の歴史的記憶が、周辺の文学碑(臼井吉見など)や地域の地理的背景と結びつけて語られています。

[資料]
歴史的大規模土砂災害地点を歩く - いさぼうネット


常願寺川の河床縦断図と鳶崩れ崩壊土砂の推定流下縦断面図(Ouchi&Mizuyama,1989を修正,田畑ほか,2000)

『安政五年戌年二月大地震記』の岩峅寺(コラム22の図2参照)衆徒の報告には、「出シ原温泉背後の大鳶・小鳶山の両山が大きく崩壊し、出シ原温泉に崩壊土砂が崩れ落ち、この温泉場は跡形もなくなっている様に見受けました」(富山県郷土史会,1976)と記されています。また、富山県立図書館蔵の『安政大地震大鳶山小鳶山々崩大水淀見取絵図』(杉木文書)は、松尾峠辺りから描いたもので(現在の展望台からの景色とほぼ一致)で、鳶崩れ後も大鳶・小鳶山は立山温泉の南側に描かれています。したがって、鳶崩れでは大きな山体が一度にすべて消失したのではなく、1858年以前の地形も現在の地形と大きくは変わっていないと判断されます。1回目の天然ダム決壊直後に、松尾峠付近から観察した芦峅寺村の仁右衛門らは、「大鳶山は頭から二、三分崩れ落ち、小鳶 山は半分以上崩れた」(富山県郷土史会,1976)と報告しています。 常願寺川南側の尾根部にある鍬崎山へは、立山温泉付近の状況を把握するため、多くの調査隊が派遣されましたが、雪深い時期の登山は多くの犠牲者を出したようです。調査隊の報告や絵図が多く残されています。

鳶崩れ崩壊土砂の運動
 現地調査によれば、鳶崩れの崩壊土砂は破砕された岩石ブロックが特徴的で、1984年長野県西部地震(M6.9)時の御嶽山の御嶽崩れ(伝上崩れ)と同じような岩屑なだれが発生したことを示しています。この岩屑なだれ堆積物からなる地形面は、図10と図11に示されているように、多枝原(だしはら)から水谷平、湯川・真川合流点、樺平(かんばだいら)を経て鬼ヶ城付近まで、点々と12km下流まで追跡できます(Ouchi & Mizuyama,1989)。水谷の段丘面を構成する堆積物は、厚さ150mで、下部の岩屑なだれ堆積物から上部に向うに従って、泥質の物質や木片の多い土石流堆積物に移行し、最上部の10~20mは礫の淘汰が若干見られる洪水流に近い堆積物となります。下流に向かっても同様の傾向が認められ、岩屑なだれを先頭に土石流が後を追う形で波状に数回に分かれて流下したと考えられます。最上部は鳶崩れから14日後(4月23日)と59日後(6月7日)に起こった天然ダムの決壊に伴う土石流・洪水流の堆積物と考えられます。表2は現地踏査時に採取した木片の14C年代測定値(井上ほか,1986,Ouchi & Mizuyama,1989)です。

鳶崩れの崩壊範囲と規模の推定


鳶崩れ(1858)前後の鳥瞰図(水山ほか,1987,田畑ほか,2002)

 町田(1962)は、詳細な現地調査を行い、鳶崩れの崩壊土砂量について、
  A地区(鳶崩れ~白岩堰堤):2.7億m3
  B地区(白岩~常願寺の河谷):1.0億m3
  C地区(常願寺川扇頂部):3600 万m3
の堆積があったとし、全崩壊土砂量を4.1億m3と推定しました。
 その後、町田(1986)は、上記の数字は飛越地震時と2回の天然ダムの決壊時の3回の土砂移動量の総和、中・下流の堆積物は天然ダムの決壊時に二次移動したものであり、全崩壊土砂量はA地区に堆積した2.7億m3となると、前説を修正しています。なお、建設省立山砂防工事事務所(1974)では、全崩壊土砂量を3.3億m3との試算を行っています。しかしながら、2.7~4.1億m3というような大きな土砂量を考えるためには、多枝原(だしはら)の上にかなり大きな山体が存在し、大部分の山体が崩壊して消滅したと考えねばなりません。これまでの崩壊土砂量の推定は、すべて堆積物から推定していますが、鳶崩れの堆積物を正確に認定することは非常に難しいと思います。鳶崩れの堆積物は、2回の天然ダムの決壊により大部分の土砂が流出し、常願寺川の河谷には点在しているのみです。御嶽山の御嶽崩れでも流下痕跡は、河谷のかなり高い位置まで存在しますが、ほとんどの崩壊土砂は下流に流下しています。このため、流下痕跡や堆積痕跡の最高点を結んでしまうと、左右岸でも位置が異なり、堆積土砂量が過大となってしまいます。

天然ダムの決壊と土石流・洪水流の発生
 安政五年二月二十六日(1858年4月9日)の飛越地震時には、常願寺川上流部は厚い積雪に覆われ、表流水はまだわずかでした。春になり、気温が上昇するにつれて、雪解け水は次第に増加し、天然ダムの背後に貯留されるようになりました。背後の集水面積や天然ダムの形状から判断して、14日後の三月十日(4月23日)は真川筋、59日後の四月二十六日(6月7日)は湯川筋の天然ダムが決壊したと推定しました。
 『越中立山変事禄』(前田文書,富山県立図書館蔵)によれば、真川筋の天然ダムは、「真川大橋(ハネ橋のこと)から上流は双方の山から岩が崩落し・・・」と記されていることなどから、上流斜面からの崩壊土砂も加わって、天然ダムが形成されたと考えられます。標高1000m付近の段丘面の縁にも鳶崩れ堆積物が存在するので、堰止め高150m,湛水面積75万m2(集水面積79km2)で、湛水量3750万m3と推定されています。
 湯川筋の天然ダムは、堆積土砂が多いため、堰止め高や湛水量はよく分りません。『立山大破損届聞取書』(金沢市立玉川図書館蔵)によれば、「松尾水谷山も所々崩れ、湯川の形は見えず」、『芦峅仁右衛門報告書』(富山県立図書館蔵)によれば、「水は落石の下を滞りなく流れ、水が溜まっている所はない。従って出水の心配はない。温泉の湯小屋付近に百間(180m)四方の泥水溜りが見える」、『越中立山変事禄』によれば、「900×550mの大きな池とその他に7つの池が出来ている」などと記載されていることから、湯川の水は大部分が堆積物の下に伏流し、地表部での湛水は僅かであったと判断されます。縮尺1/2.5万の地形図から地形状況を読み取ると、湛水標高1350m、堰止め高20m,湛水面積64万m2(集水面積10km2)となり、湛水量410万m3と推定されます。
 『酒井家文書』によれば、「淀水へ道古洞という山崩れ落ち」、『越中立山変事禄』によれば、「ドウコウイワというところが崩れたとき、水が七分程抜けた」などの記載から判断して、雪解けによる天然ダムの満水と真川の道古洞付近の崩壊土砂の流入によって、大量の湛水が越流したため、三月十日(4月23日)に1回目の真川の決壊が起こったと判断されます。同日には信濃大町付近でM5.7の地震が発生しており、このことが斜面崩壊と天然ダム決壊の引き金になった可能性が指摘されています(宇佐美,1985)。前述の『安政大地震大鳶山小鳶山々崩大水淀見取絵図』には、地震から45日後の四月十二日(5月24日)の大水溜りにより水没した立山温泉の家並が描かれています。『立山大鳶山抜図』(富山県立図書館蔵)には、59日後の四月二十六日(6月7日)の天然ダム決壊後の土砂の上に残った池の状況が描かれています。したがって、2回目の決壊にもかかわらず、多枝原付近には鳶崩れによる崩壊土砂が残っており、その上にはいくつかの池が残っていました。
 『越中立山変事禄』によれば、1回目の真川の天然ダムの決壊は、水分の少ない粥状のものであったと記載されています。このため、真川から常願寺川を埋積していた土砂・流木を巻き込んで、一気に流下したと考えられます。2回目の湯川の決壊は、多量の雪解け洪水が鳶崩れの崩壊土砂に加わり、決壊したと判断しました。下流の記録では、水分の多い流れであったと記されているので、1回目の決壊で常願寺川中流部の土砂がかなり流出していたことや、丁度融雪時期のピークで真川や称名川などの大量の融雪水も加わって流下したためと考えられます。
 常願寺川と称名川合流点の千寿ヶ原から岡田の中流域では、『地水見聞録』(富山県立図書館蔵)などに、以下のような記録が残されています。
「千寿ヶ原では観音堂が残ったものの、植林されていた杉の7~8割は土砂に押し倒され埋没した。」、「小見の藤橋(小見村と千垣村の間にあった吊橋)の両詰には、高さ3間(5.4m)の鳥居があったが埋まってしまい、藤橋の本体も不明である。」、「立山温泉から岡田村までの河筋は大石・泥・流木で埋まった。」

常願寺川扇状地での2回の大氾濫


安政五年常願寺川洪水山里変地の模様見取図(滑川市立博物館蔵)2回の天然ダム決壊による土石流・洪水流は、非常に規模が大きく常願寺川扇状地に広く氾濫・堆積た。

白山の洪水と手取川の氾濫


写真は白山(標高2,702メートル)。白山に登ったときにしげしげと眺めていた。砂防工事をしないと崩れてしまうのが日本の河川だと思ったのである。岐阜県側の郡上八幡では信仰の山となっている。岐阜側からの登山ルートもあるが現代では手取川方面からの登山が多い。

計量計測データバンク(日本計量新報社)に連載されている旅行家・甲斐鐵太郎(かい てつたろう)氏の執筆記事群において、「白山」や「九頭竜ダム」、河川の洪水対策 などをテーマにした紀行文・エッセイが複数掲載されています。

ただし、お探しの『大白山の洪水と手取川の氾濫』という特定のタイトルに完全一致する記事の全文データや直接の公開URLは、現在のデータベース上から見つかりません。

甲斐鐵太郎氏は、同サイトの「旅行家甲斐鐵太郎の自然博物誌」 や、日本計量新報の「計量記者日本を撮る」などのコーナーで、全国の自然環境、山岳、治水、防災に関する写真を交えた解説記事を数多く寄稿しています。その中では以下のような関連トピックが扱われています。

加賀の白山に関する記述:「加賀の白山で70年ぶりに雷鳥が確認された」 や「白山スーパー林道」 に関する紀行文。
治水・水害対策の視点:山に涵養(かんよう)の木を植える森林整備が、有効な水害・洪水対策に繋がるといった環境論。
北陸の河川・ダム:白山を水源の一つとする九頭竜川(九頭竜ダム) の歴史や、水力発電の原理、小説『金環蝕』に絡む背景の解説。

また、手取川の洪水に関しては、昭和9年(1934年)に発生した「手取川大水害」(大爆発に伴う泥流・大洪水)や、手取川扇状地・白山手取川ジオパークにまつわる水害史が地域の防災記録として非常によく知られています。

手取川の度重なる氾濫を防ぐため、明治31年に合口事業(取水口を1カ所にまとめる工事)が着手され、大水門や隧道、幹線水路が整備されて明治36年に完成しました。

手取川は霊峰白山を水源とする国内有数の急流河川(暴れ川)であり、昔から洪水と水不足の歴史を繰り返していました。
7つあった用水の取水口を統合する「七ヶ用水合口事業」により、安久涛ヶ淵の大水門や隧道などが明治36年に完成し、洪水の調節と安定した農業用水の確保が実現しました。詳細な歴史や施設については石川県七ヶ用水の案内も参考にしてください。

大白山の洪水と手取川の氾濫 水路完成


図 手取川の河川・七ヶ用水 明治36 年7 用水が合口 出展:のってい新聞


手取川(源流:白山)の洪水・氾濫対策と水路の歴史において、最も象徴的な「水路の完成」は、明治36年(1903年)に竣工した「七ヶ用水(しちかようすい)の合口(ごうぐち)事業」です。

石川県
手取川は古くから「七たび流路を変えた」と言われるほどの暴れ川で、頻繁に氾濫を起こしては農民を苦しめていました。

1. 手取川の氾濫と水路合口への背景
かつて手取川の右岸地域には7つの異なる用水路があり、それぞれが独自に川から水を引いていました。しかし、これには2つの重大な問題がありました。

石川県
洪水による破壊:手取川が氾濫するたびに、各用水の取入口や堰(せき)がことごとく破壊されました。
深刻な水不足:洪水が収まり日照りが続くと、今度はそれぞれの水路で激しい水の奪い合い(水論)が発生しました。

石川県
2. 明治の合口水路の完成
これらの問題を根本から解決するため、明治31年(1898年)に「合口事業(複数の取入口を一つにまとめる大改修)」が着手されました。

農林水産省
完成年: 明治36年(1903年)にすべての工事が完了し、通水式が行われました。

石川県
構造:手取川の安久涛ヶ淵(あくどがふち)に強固な「大水門」を築き、3つのトンネル(隧道)と、全長約7.8kmに及ぶ幹線水路を整備しました。

石川県
効果:氾濫による施設の破損を最小限に抑え、加賀平野の広大な農地(約6,500ha)へ安定して均等に水を届けることが可能になりました。この時に作られた七ヶ用水大水門および給水口は、現在も日本の近代化を伝える貴重な土木遺産(国の重要文化財)として残されています。

3. その後の現代に至る治水水路・ダム
明治の水路完成後も手取川の水害(特に昭和9年の大洪水)は続いたため、さらに大規模な治水プロジェクトが重ねられました。

北陸地方整備局
昭和の大改修・大日川ダム(昭和43年完成):支流にダムを建設し、洪水の調整と夏のかんがい用水をさらに安定させました。
手取川ダム(昭和55年完成):治水・発電・都市用水の確保を目的とした巨大ダムが完成し、手取川の氾濫リスクは激減しました。


八ヶ岳の巨大な山体崩壊と七里岩(AI による概要)


20万年前に八ヶ岳が山体崩壊したときに流れ出た七里岩。の下端、左側(西)に韮崎市役所、右側(東)にJR韮崎駅がある。七里岩の上には運動公園ほか様ざまな施設が建設されている。

八ヶ岳の巨大な山体崩壊と七里岩(AI による概要)

約20万年前、八ヶ岳の権現岳付近で起きた日本最大級の山体崩壊と、流れ下った土砂が固まってできた台地が七里岩です。
八ヶ岳の山体崩壊時期:約20万年前(更新世チバニアン期)
規模:当時3,000mを優に超えていたとみられる古阿弥陀岳・権現岳付近の大規模な崩壊
現象:崩れた大量の土砂が「韮崎岩屑なだれ(岩屑流)」として南麓へ一気に流れ下りました。
七里岩の特徴地形:南北約25〜30kmにわたって細長く続く、国内最大規模の岩屑なだれ台地です。
由来:長さが約7里(約28〜30km)あることから「七里岩」と呼ばれます。
歴史:先端が尖った地形や断崖絶壁は、武田勝頼が築いた新府城などの要害としても利用されました。

韮崎市にある台地 七里岩(しちりいわ)と韮崎市役所

 山梨県韮崎市にある「七里岩(しちりいわ)」は、八ヶ岳の巨大な山体崩壊によってできた、南北に細長く伸びる広大な台地(およびその断崖)です。韮崎市の中心市街地や韮崎市役所(水神1丁目)はこの台地のふもと(東側)に位置しており、西側を見上げると巨大な断崖絶壁がそそり立っています。七里岩の主な特徴と歴史地形の成り立ち約20万年前、八ヶ岳(権現岳付近)の大規模な崩壊により発生した「韮崎岩屑なだれ(泥流)」が谷を埋め尽くしました。

 その後、西側を流れる釜無川と東側を流れる塩川によって両脇が大きく削り取られた結果、中央に長さ約30km(約7里)、比高40〜150mの平坦な細長い台地が残されました。「韮崎(にらさき)」の由来この台地が南へと細長く伸び、その最南端(先端)がちょうどニラの葉の形のように尖って見えることから、「韮の岬」=「韮崎」という地名が生まれたという有力な説があります。
歴史的な要害の地台地の上は平らですが、周囲はハシゴがなければ登れないほどの断崖絶壁(要害)です。
戦国時代、武田勝頼はこの防御力の高さを利用し、七里岩の上に新府城を築城しました。現在の観光・ランドマーク七里岩の南端部(韮崎駅のすぐ近く)の崖上には、シンボルである「韮崎平和観音」が霊峰富士を望むように建立されており、市内を一望できる絶景スポットとして親しまれています。また、国登録記念物にも指定されています。

釜無川 七里岩

七里岩(しちりいわ)は、山梨県韮崎市から長野県富士見町にかけて位置する、釜無川(かまなしがわ)とその支流である塩川に挟まれた広大な台地、およびその西側(釜無川沿い)に形成された巨大な断崖絶壁のことです。

Wikipedia
日本最大級の火山崩壊の歴史と、河川による浸食が生み出した特異な地形で、国の登録記念物(名勝地関係)にも登録されています。

地理的・地学的な特徴
誕生の歴史
約20万年前、八ヶ岳(古阿弥陀岳)が大噴火と共に日本最大規模の山体崩壊を起こしました。その際に発生した「韮崎岩屑流(泥流)」が甲府盆地まで流れ込み、巨大な平坦地(台地)をつくりました。

釜無川による浸食
この堆積した台地の西側を釜無川が、東側を塩川(須玉川)が数万年かけて激しく削り取りました。その結果、釜無川沿いに高さ10m〜最大150mにおよぶ断崖絶壁が約30km(約7里)にわたって続く、現在の「七里岩」が形成されました。

Wikipedia
「韮崎」の地名の由来
七里岩の南端(先端)は、まるで「ニラの葉」のように鋭く尖った形をしています。この地形の形から、現在の「韮崎(にらさき)」という市名が生まれたといわれています。

韮崎市観光協会
歴史・観光・見どころ
天然の要害(新府城)
断崖絶壁に囲まれたこの台地は、敵の侵入を阻む「天然の要害」でした。戦国時代末期、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、この七里岩の台地突端部に新府城(しんぷじょう)を築城しました。

韮崎市観光協会
名勝「屏風岩」と奇岩
国道20号(甲州街道)を釜無川沿いに走ると、そそり立つ七里岩の岩肌を間近に見上げることができます。特に新府城跡の北西部にある「屏風岩(びょうぶいわ)」と呼ばれる部分は、国の登録範囲にもなっており、和歌や俳句の題材としても親しまれてきました。他にも「祖母石(うばいし)」や「大士洞(だいじどう)」などの奇岩・洞窟が点在しています。

韮崎市観光協会
景観道路(七里岩ライン)
台地の上には山梨県道17号(通称:七里岩ライン)が通っており、八ヶ岳や南アルプス、富士山を望む絶好のドライブ・ツーリングコース、また秋の紅葉スポットとして知られています。

武田信玄と信玄堤

 信玄堤(しんげんづつみ)は、山梨県甲斐市竜王の釜無川と御勅使川の合流地点に築かれた、武田信玄によるとされる総合的な治水システム・堤防です。
信玄堤の仕組みと特徴
水の勢いを弱める構造:すべての水を一度にせき止めるのではなく、連続していない不連続な堤防や「霞堤(かすみてい)」を組み合わせ、あふれた水を分散させて勢いを殺す仕組みになっています。
独自の治水工法:聖牛(せいぎゅう)や将棋頭(しょうぎがしら)といった木製の水制工(水の流れを変えて堤防を守る装置)が組み込まれています。
地域一体の管理:毎年4月15日の「おみゆきさん(御幸祭)」と呼ばれる祭りを通じ、多くの人が練り歩くことで堤防の土を踏み固めるメンテナンスの役割も兼ねていました。
歴史的背景築造の目的:暴れ川として知られた釜無川の氾濫から甲府盆地や城下町を守り、新田開発を進めて領国の富国をはかるために作られたと伝わっています。
近年の研究:当時の確たる設計図や直接の記録は残っていないため信玄自身がすべてを造ったかについては議論もありますが、400年以上経った現在でもその基礎技術は高く評価されています。
[資料]
火山活動と山体崩壊が富士山と八ヶ岳の高さを逆転させた八ヶ岳は富士山より高かった 甲斐鐵太郎
富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
富士山は二つに割れ始めた 甲斐鐵太郎
富士山と日本にある7つの氷河 文章 夏森龍之介
旅行家甲斐鐵太郎の自然博物誌
計量計測データバンク ニュースの窓-418-北アルプスと日本の山岳に10万年単位で発生する山体崩壊
計量計測データバンク ニュースの窓-417-ネパール基礎情報と土砂災害と将来の経済像
ナビ不調で蝶ヶ岳と常念岳への登山口に迷い込んだ2020‎年‎9‎月‎21‎日のこと 甲斐鐵太郞
計量計測データバンク ニュースの窓-155-プレートテクトニクスとそのメカニズム


計量計測データバンク ニュースの窓-155-プレートテクトニクスとそのメカニズム

経済産業省が指定検定機関の指定を取り消す行政処分


インフラ建設が経済成長に寄与した時代の経済学 夏森龍之介

計量計測データバンク ニュースの窓-291-竹村公太郎「土木工学の視点から読み解く歴史の下部構造」文字おこし、省庁幹部の学歴、スイスの景色動画、工具、ほか記録

【NTT西日本】本社組織の見直しについて|ニュースリリース - 通信・ICTサービス・ソリューション

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