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計量計測データバンク ニュースの窓-381-
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エッセー「見ていた青春」(夏森龍之介)を書き進める決断した日-2026年3月12日(木)-森夏之
真似ごとをしない 私にだけできることをして生きる-2026年3月11日(水)の日記- 森夏之
八ヶ岳の東から




安岡章太郎 - Wikipedia
 安岡章太郎 1920年(大正9年)4月18日生れ

福島新吾 - Wikipedia  福島新吾 1921年〈大正10年〉5月2日生れ
二瓶敏 - Wikipedia
 二瓶敏(にへい さとし)1929年12月10日生れ
宇沢弘文 - Wikipedia 宇沢弘文(うざわ ひろふみ)1928年(昭和3年)7月21日生れ



【養老孟司】自然の大切さについてお話します 2026/03/11






二瓶敏教授に聞く—戦後日本資本主義論争の回顧と展望-専修大学社会科学研究所月報ISSN0286-312X No.456 2001.6.20 聞き手 矢吹滴男(司会)泉武夫(2000年12月9日 於生田校舎)
https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/geppo2001/smr456.pdf

1944年の夏、中学3年のときに海軍兵学校の試験を受けました。それまで海兵の受験資格は中学4年からだったのですが、この時は戦争の真っ最中で軍人掟成を急ごうとしたのでしょう。3年からも受験可能になったのです。これに何とか合格して、翌年4月に入校ということになりました。ところが、この年の秋に、急速内地に引き揚げてくることになったのです。というのは、この時、父は海軍に招集されて横須賀にいたのですか、恐らく民間人よりも詳しい—多分、台湾は危ないぞといった一ー情報を仕入れていたのでしょう。浅間丸という船が近く基隆から門司まで就航するので、その船で引き揚げるようにという指示が母のもとに届いたのです。この指示が来たのが出港の数日前だったと記憶しています。そこで大慌てで準備をして、家財道具一切を放菓したまま、手荷物だけもって乗船しました。母と男の子3人(私と弟2人)ですが、下の弟はまだ3歳で、母は大変心細い思いをしたことでしょう。浅間丸は2万トンクラスの大型船で、船内は満員でした。これを中心として何隻かの船がかたまり、周辺を魚雷艇みたいな軍艦か遊tしていました。まさに護送船団でした。いつアメリカの潜水艦の攻撃を受けるかもしれないというので、船内では海軍の下士官が救命胴衣の着け方などを指導していました。もし、魚雷攻撃を受けたら、救命胴衣を着けて躊躇せずに洵に飛び込め、赤ん坊は救命胴衣を着けて海に投げ込め、それで失神すればかえって助かる可能性が高い、などということを聞かされました。しかし、幸いにも無事に門司に着くことができました(浅間丸はこの次の航海で撃沈されたという話を、あとになって聞きました)。私たちは、横浜の母の実家にしばらく逗留した後、会津の父の故郷の農家に身を寄せ、私と上の弟は会津中学校に転校しました。もうこの頃はまともな授業は行ゎれず、私も会津若松の-3 鉄工所に学徒動員され、軍需品の材料となる鋳物の製作などに従事させられました。そして、45年4月に海軍兵学校に入学したのです。(2)海軍兵学校と敗戦◇質問そうすると、海兵在学は半年足らずだったのですか。●二瓶そうです。45年の4月から8月敗戦まででした。この頃は海兵の生徒数が大幅に瑠やされて、本校の他に分校もつくられていたのですが、私は、江田島の中の大原という分校に入れられました。すでに、アメリカ軍の空襲や艦載機の機銃掃射などが頻繁に行われていましたので、それを避けて地下に学校を移転させようという計画が立てられて、毎日穴掘りに動員されていました。瀬戸内廂の島は砂岩でできていて、穴を掘ると崩れ易い。勿論壕の中に支柱は立てるのですが、崩れで怪我人が出たこともありました。こんなことに追われていたので、本来の教育(学科や教練)は非常に手薄になっていましたか、そうした中で伝統的な内務班生活だけは変わることなく受け継がれていました。生徒は皆分隊に所属し、分隊は1・2・3年生(逆に3号・ 2号.1号という呼び名でした)から構成されるのですが、3年生 (1号)が1年生 (3号)を「鍛える」のです。分隊1年生の誰かに一寸した落ち度があると、「連帯責任」で1年生全員が制裁を受けるのです。「足を開け、歯をくいしはれ」という声とともに拳骨が飛んでくるのです。実によく殴られました。海兵入学までは、陸軍はバンカラなのに対して海軍はスマートだという感じをもっていたのですが、日本軍隊の野蛮な精神主義は陸軍でも海軍でも同じだったのでしょう。海兵で忘れられない思い出は広島の原爆です。8月6日の朝食後でしたが、分隊が隊伍を組んで食堂から婦る途中、目の前かいきなりパァーッと明るくなりました。驚いて空を見上げると、広島あたりの上空にもくもくと、例のキノコ雲が盛り上かり、 1分ほどしてから轟音か鳴り響きました。その時は空製警報は出ていなかったのですが、普わけが分からずに、防空壕に出たり入ったり、うろうろする有様でした。江田島では、どこかでガラスが割れたということを聞いた以外にはとくに実害はなかったのですが、その後広島上空の雲はさらに膨れあがり、夜には赤色もまじって、おどろおどろした恐ろしい様相を呈していました。このあと、あれは「特殊爆弾」で強い熱線を発するということを聞かされました。海軍のレインコートは黒っぽいもので、空襲の時にはそれを着て防空壕に入ることになっていましたが、黒だと熱線を吸収し易いというので、白い布が配られてこれで頭巾を縫うように言われました。これは子供だましの気休めでしたが、とにかく、あの広島上空の雲のすごさは忘れられません。あの色は、市街地の火災を写したものかもしれません。そして、その下では「黒い雨」が降っていたのでしょつ。-4 8月15日の「玉音放送」は、全員校庭に整列して聞きましたが、雑音がひどくて聞き取れませんでした。その後、 「日本が負けた」ということを教えられましたか、「負ける」とはどういうことか、理解できませんでした。そのうち、アメリカ軍か占領するのだということを聞かされました。各分隊に置かれていた小銃を一箇所に集めるように指示されました。指定された場所に持っていくと、そこには大きく「海中投棄。無念」と書いてありました。そのうち、軍 隊はなくなるのだ、海軍兵学校は閉校になり、生徒は皆故郷に帰るのだ、と聞かされました。こうして、「負ける」とはどういうことかということが、おぼろげながら分かってきたのです。帰郷は8月末でした。行き先別にグループを作り、小さな船で宇品に連ばれました。宇品から広馬駅までの沿線は、ビルの残骸をのこすだけの、文字通り一面の焼け野原でした。広島駅に着くと、そこは列車を待つ人たちでごった返していました。列車はいつ来るかわからず、人々はかなり長時間待っている様子でした。人々がしゃがみこんでいる付近には荷物が置かれ、あちこちにゴミが散乱し、片隅には汚物が堆禎し、何ともいえない饒えた臭いが辺りに立ちこめていました。そして、やっと列車がやってくると、人々は満員列車に殺到し、窓ガラスを割って乗り込んだり、屈強な復員兵が女子供を突き飛ばしたりする光景か繰り広げられました。阿 、、、!叫喚といえばいいのでしょうか。 「戦争に負ける」とはこういうことなのか、という思いでした。私たちの一行は、ようやく貨車に乗り込むことができました。 石炭を積んだ無蓋車に乗ったのですか、山陽本線はトンネルが多いのです。トンネルに入ると、無蓋車の上は蒸気機関車の煙に覆われて、息も苦しくなります。靡と口を押さえて息を止めて、トンネルを抜けるとホッとする、ということの繰り返しでした。このあと、北陸本線まわりで会津に戻りました。そして、 (3)会津中学の4年生に復学したのてす。会津中学校から浦和高等学校へ◇ 質問敗戦後の雰囲気はどういうものでしたか。◆二瓶敗戦の年の秋、A級戦犯か相次いで逮捕されましたが、 12月には梨本宮も逮捕されました。この時、会津中学の生徒たちか、10人くらいいたでしょうか、「皇族を逮捕するとは何事か、これを見過ごしていいのか」と言って校長室に抑しかけたことがありました。私もその一人でした。つまり、戦時中の軍国少年ぶりと天皇崇拝はまだ全然変わっていなかったのです。世の中は民主主義の時代に入ったと言われていましたか、私たちには、それはどうも胡散臭く感じられたのです。会津でも共産党が活動を始めましたが、これにも白い目を向けていました。1947年の初め、2.1ストに向けて労働運動が盛り上かりを見せ、中学でも先生たちがストをしようとして生徒に説明しましたか、生徒の方はこれに納得せず、「なぜ先生がストをしなければならないのですか、それは先生の責任放棄ではないですか」などと言って、先生た-5ちを追及したことを覚えています。つまり、先生たちが時代の潮流に乗っていこうとしたのに対して、生徒の方がそれに背を向けていたのです。この頃、会津で非常に印象に残ったことがあります。それは、46年の夏の盆踊りでした。戦時中、何年か盆踊りは行われなかったのですか、敗戦の翌年、盆踊りが久しぶりで復活したのです。これに向けての会津の人たちの、とくに中学の友人たちの意気ごみはすごいものでした。会津の盆踊りとは、広場に樅を組んで、笛と太鼓を奏しながら「会津磐梯山」を歌い、大勢の人が檄を回って踊るのですか、夏が近づくと、あちこちで笛や太鼓の練習が始まります。それを聞くと、友人たちは居ても立ってもいられないという風情でした。いよいよ盆の季節になると、今夜はあそこの村の小学校の校庭、明日の晩は向こうの町の広場、といった具合に、少しづつ日をずらして踊りが催されるのですが、それに向けて近郷近在から大勢の人たちが、時には仮装して繰り込んできて、夜遅くまで踊る。そして最後に、会津若松の駅前広場に大きな櫓が組まれて、周辺から集まった大群衆が徹夜で踊り明かす、というのです。それは、戦時中抑圧されていたエネルギーが解放されて、一気に爆発するような、大変な熱気にあふれたものでした。そこで歌われる「会津磐梯山」は、よく知られたお座敷歌ではなくて、もっと単調ですが哀愁を帯びたものです。そして、何よりすばらしいのは笛と太鼓で、時に躍動し、時に婿々として、人の心に染み入るのです。これがむしろ主役で、笛の合間に歌が一節づつ歌われるという次第で、私はこれにすっかり魁せられてしまいました。 ◇ 質問以前、ある研究会の合宿で、二瓶さんが歌われたのかそれですね。◆二瓶そうです。何とかこの情景が再現できないかと考えて、口笛で笛を模して、太鼓の代わりに拳で机をたたいて、口笛の合間に歌をはさむということをやってみたのです。これを宴席で何度かやったことがあります。◇質問面白い芸だと思いました。◆二瓶いや、今ではもうできなくなりました。 1947年に旧制浦和高等学校に入りました。理科でした。中学時代から物理や化学が好きで、それで理科に入ったのですが、高等学校に入ってから思想的な遍歴を遂げ、それとともに関心が移っていきました。というのは、同じクラスに共産党員がいて、彼との議論が私を変えるきっかけになったような気がします。当時、 2.1ストは弾圧されましたが、労働運動や社会主義の波は大きなうねりとなっており、そうした中で、彼は共産主義思想を説いて止みませんでした。もっとも、彼もそう勉強していたわけではなく、また人間的にもやや軽薄なところがあったので、私はかなり反発を感じながら、議論ではしばしば彼をやりこめたように思います。そうすると、彼は寮のある一室に私を辿れて行くのです。そこには、かなり年上で共産党の主みたいな人がいて、その人は私の疑問に答えると同時に、色々な本を出して、これを読め、こんな本-6もあるよ、と教えてくれるのです。そんなわけで、私は初めてマルクス主義の初歩的な文献に接しました。そして、また、 48年の秋頃、埼玉の共産党が住民の反税闘争を組織して大挙して県庁に押しかけたのですが、これに誘われてその熱気に触れたことがあります。そこに参加した街のおばさんが「私は共産党が好きになりました」と言っていたのが、印象的でした。こうした民衆のエネルギーの高まりが、49年1月総選挙での共産党の大躍進 (35名当選)をもたらしたのだと思います。こうして、一方でマルクス主義に惹かれながら、しかし、まだすっきり納得したわけではなく、なおマルクス主義への反発が尾をひいていました。自分の思想的立脚点が定まらなくて、うろうろしながら雑多な書物を読みあさりました。キリスト教の教会を覗いてみたこともありました。そうした中で、理科に対する興味はだんだん薄れてきて、学校の勉強もおろそかになりました。そして、49年初め、2年生の学年末試験でついに落第してしまったのです。この年は丁度学制改革の年で、47年入学の私のクラスが旧制高校最後のクラス、私の下の48年入学の人は1年生を経験しただけで旧制高校は廃止、ということになってしまいました。したがって、2年生で落第した私は、気がついたら下がいなくなってしまったので、落第即放校ということになったわけです。ですから、私は旧制浦和高校を2年で中退したことになります。放校になって、これからどうするかということを迫られたわけですが、その当時私は非常に投げやりになっていました。しかし、クラス担任だった小宮喘三先生(小宮豊隆の息子さん、ドイツ語担当、のちに東大教授定年後、専修大学文学部に来られて再会しました)や友人から強く勧められて、その年開校予定の新制大学を受験することにしました。新制東大の入試が6月に行われることになっていたので、それに向けて心機一転して、受験勉強に打ち込みました。その結果、なんとか東大教養学部文科2類に合格できたのです。







1960年代末から1970年初頭にかけての年専修大学二部の自治会組織と学生運動


 1960年代末から1970年代初頭にかけての専修大学二部(夜間部)は、日本の学生運動(全共闘運動)の盛り上がりの中で、非常に活発な自治活動が行われていた時期です。
 当時の状況を整理すると、以下のような特徴がありました。
1. 自治会組織と「全共闘」の形成
当時、専修大学には二部の各学部(経済・法・商)ごとに学部自治会が存在していました。1968年から1969年にかけての全学的な闘争の波の中で、従来の自治会枠組みを超えた「専修大全共闘(全学共闘会議)」が結成されます。二部の学生もこの全共闘に深く関わっており、昼間の学生(一部)と連動しながら、神田校舎を中心に活動していました。
2. 運動の主要な争点
二部における運動は、主に以下の3点に集約されていました。
学費値上げ反対:1969年前後に持ち上がった学費改訂に対し、生活の苦しい労働学生が多い二部では特に激しい反発が起きました。
神田校舎の維持(移転問題):生田キャンパス(川崎市)への全面移転計画に対し、都心で働く二部学生は「神田で学べなくなる」として強く反対しました。
学生会館の管理運営権:学生たちの活動拠点としての自由を求め、大学当局と激しく対立しました。
3. 社会的背景と労働学生
専修二部の最大の特徴は、「働きながら学ぶ」学生が主体であったことです。
そのため、自治会運動には労働組合(総評系など)の動員や、既成政党(日本共産党系の民青や、新左翼諸セクト)の論理が強く入り混じっていました。
二部学生は日中働いているため、集会やデモは夜間や深夜に行われることも多く、神田校舎は不夜城のような様相を呈していました。
4. 終焉と衰退
1970年の安保闘争以降、大学立法(大学運営臨時措置法)の施行や、大学当局による学内規制の強化、さらに内ゲバによる運動の過激化と一般学生の離反により、組織的な自治活動は徐々に沈静化していきました。

1970年専修大学二部の自治会組織と学生運動

 1970年前後の専修大学(特に二部・夜間部)は、全国的な学生運動の激化と連動し、大学の管理運営に対する抗議や、政治的な安保闘争・沖縄闘争が展開された時代でした。
 1970年時点における専修大学二部の自治会組織と学生運動の主な特徴は以下の通りです。
1. 1970年頃の学生運動の背景
1970年安保・沖縄闘争:1970年の日米安保条約自動延長や、沖縄返還問題に対し、全日本学生自治会総連合(全学連)の潮流に沿った反戦・政治闘争が主流であった。
学園闘争の継続:1968〜69年の東大闘争を頂点とする全国的な大学紛争の流れが1970年にも残り、専修大学でも学費値上げ反対、カリキュラム編成への不満、大学管理運営権をめぐる抗議が行われた。
党派活動の対立:当時の学生運動は、新左翼の諸党派(ブント、民青など)が自治会組織を拠点として活動しており、専修大学二部もその影響下にあった。
2. 専修大学二部の自治会組織と運動
自治会の役割:二部学生で構成される「専修大学学生会」などが、自治的な学生生活の維持に加え、政治活動の拠点となっていた。
活動の激化:1960年代後半から70年にかけて、学生が主体となって大学当局と交渉し、直接行動(抗議デモ、ハンガーストライキなど)を行うケースが発生していた。
二部特有の状況:昼間は働いている学生が多いため、全学的な政治闘争だけでなく、学費、夜間授業のカリキュラム、食堂などの施設開放といった「生活権」に直結する課題が重視された。
3. 歴史的背景とその後
活動の終焉:1970年代の激しい運動を経て、学生運動は次第に沈静化していった。
学生会の解散:長年活動してきた二部の学生自治組織は、時代の変化とともに徐々に規模を縮小し、2023年度末で全活動を終了した。
なお、1970年の専修大学に関するより詳細な党派別の活動や、具体的なデモの様子は、大学史資料や当時の新聞、各党派の文献に記録されています。

 1970年頃の専修大学第二部(夜間部)における自治会組織と学生運動は、神田キャンパスを拠点とした激しい政治闘争と、二部特有の勤労学生の権利主張が絡み合う複雑な状況にありました。
自治会組織と学生運動の概要
専修大学学生会(二部自治会):二部学生によって構成された独自の自治組織です。この組織は、2023年3月まで長らく活動を続けていましたが、1970年前後には学内政治の中核として機能していました。
全二部共闘会議(全二共):1960年代後半から1970年にかけて、学園紛争の激化に伴い結成された組織です。明治大学などの他大学と同様、専修大学でも二部学生による独自の共闘組織が形成され、学籍剥奪を伴う厳しい処分を巡って大学当局と激しく対立しました。
神田キャンパスの闘争:当時、神田校舎は学生運動の主要な舞台でした。二部学生は日中働いている者が多く、夜間の授業時間帯や放課後を利用して集会やデモを行いました。
処分と解散命令:1969年から1970年にかけて、大学側は「全学闘争委員会」や「全二部共闘会議」などの組織に対して解散を命じ、指導的な立場にあった二部学生らにも懲戒処分を下しました。
当時の時代背景
1970年は「70年安保」の年であり、全国的な学生運動がピークから分裂・過激化へと向かう転換点でした。
セクトの対立:共産党系の「民青系」と、反代々木系の「新左翼諸派」による自治会の主導権争いが激化していました。
二部学生の特異性:二部の学生運動は、政治的なスローガンだけでなく、夜間教育の環境改善や学費値上げ反対など、生活に直結する課題も強く反映されていました。




夏森龍之介のエッセー

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