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計量計測データバンク ニュースの窓-143-
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計量計測データバンク ニュースの窓-143-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-143-大島太郎、福島新吾と旧制高等学校 福島新吾、加藤哲郎ほか文章の覚書 吉瀬維哉 縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳
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├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
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├縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之
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├天狗岳 - Wikipedia
写真は西麓より望む天狗岳 標高2,646 m(2014年3月)
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├大島太郎、福島新吾と旧制高等学校 夏森龍之介
官僚国家と地方自治 自治体革新の展望 の二冊で著者は大島太郎。共に未来社から刊行。本来なら大学教授時代に出版されるべき内容であるが50歳を前に急逝したために福島新吾などが奔走してまとめ上げた。大島太郎と福島新吾は母校の東京大学社会科学研究所で助手をしていたことがある。東京大学社会科学研究所は軍国主義日本で軍部の独走をがあったことから、国の機関に意見を言える組織を目指して創立された。大学内での反目など難しいことが多い中、今日まで組織は継続している。
大島太郎は1945年4月に旧制浦和高校に理科に入学、1947年に旧制浦和高校文科一年二組に転科留年、1949年3月に卒業。同年4月に旧制東京大学法学部政治学科に入学、1952年3月卒業。同年4月東京大学助手。東京大学社会科学研究所勤務。大島太郎は1929年3月31日生れ。旧制群馬県立太田中学校4年修了で1945年4月に旧制浦和高校在学中に理科に入学している。理科から文化に転科したために旧制浦和高校の卒業は3年であるところを4年を要した。旧制東京大学の卒業年次は三カ年。旧制浦和高校は1950年(昭和25年)3月、最後の卒業生(第26回)248名を送り出し閉校した。
1931年6月1日に生れて、旧制東京府立第四中学校 、旧制浦和高等学校を経て新制の東京大学理科1類へ進学、工学部応用物理学科の計測工学専修へ進んだのが飯塚幸三。
旧制浦和高校理科というのが大島太郎と飯塚幸三と二人を知る私のにとっての共通項。大島太郎は多弁をしない紳士。大学教員の傍ら練馬区長公選制などで地道な社会運動をした。旧制浦和高校は1949年(昭和24年)3月、最後の入学生が1学年終業とともに埼玉大学や地の新制大学に移った。
1927年(昭和2年)5月1日生れの作家、北杜夫は麻布中学校4年修了。東京帝国大学臨時附属医学専門部入学。父親の斎藤茂吉はこの学校は本来の東大医学部ではなく戦争時の間に合わせの医者養成機関であることを知り合いに確かめている。もともとの帝大医学部への進学の道を選ぶべく同校を対校して麻布中学に戻ったこと。このことを北杜夫は本に書いている。旧制松本高等学校理科乙類(卒業(『どくとるマンボウ青春記』の前半の舞台)。東北大学医学部卒業(『どくとるマンボウ青春記』の後半の舞台)。
旧制松本高等学校に1948年(昭和23年)、18歳で入学したのが映画監督になる熊井啓。1930年(昭和5年) 6月1日、現安曇野市生れ。学制改革にともなって1949年(昭和24年)、19歳のとき信州大学文理学部に入学。1953年(昭和28年)、23歳で信州大学文理学部卒業。黒部の太陽(1968年、監督、共同脚本)、忍ぶ川(1972年、監督、共同脚本)、サンダカン八番娼館
望郷(1974年、監督、共同脚色)などが有名作品。
旧制高等学校の旧制浦和高校理科というのが大島太郎と飯塚幸三。飯塚幸三と熊井啓は一歳違い。二人は旧制高等学校在学中に新しい学制が敷かれたために卒業を待たずに移行先の新制大学に移る。旧制松本高等学校から新制信州大学文理学部に移ったのが熊井啓。新制の東京大学理科1類へ移ったのが飯塚幸三。旧制浦和高校は新制の東京大学の教養学部の一部になる案があった。一学年248名ほどの生徒数であった。開学初年度は定員200名で受験者は1,600名、競争率は八倍。大島太郎と飯塚幸三の旧制浦和高校理科時代に一緒であったかを探ったが確証を得るに至らなかった。文科に移った大島太郎と理科に入学してきた飯塚幸三は少しの期間旧制浦和高校で学んでいたようだ。
大島太郎の履歴は『官僚国家と地方自治』から採っている。「旧制浦和高校文科一年二組に転科留年」の意味は、一組と二組が受講外国語学科による分類によるものと推定される。旧制松本高校でのようすを描いた北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』には理甲、理乙などのことが頻出する。二組は文科乙類であると想定される。
旧制高等学校の学科分けのその内容は次のとおり。文科甲と乙、理科甲と乙の四科があり、外国語の学習割合によって区分され、甲は英語、乙はドイツ語が多く配分された。丙はフランス語と想定され、丙を設置する学校もある。文科で丙があるのは一高、三高、浦和、福岡、静岡の各高校。理科で丙があるのは大阪高校のみ。静岡高校から東京大学工学部に進んだ高田誠二はフランス語がよくできたからあるいは静岡高校理科丙であったかもしれない。古い時代の帝国大学(東京)にはフランス物理学の分野が独立しており度量衡制度の制定に当たった高野瀬宗則は1879年(明治12年)7月に東京大学仏語物理学科第2期卒業。卒業後は駒場農学校で教鞭をとっていた。
浦和高校と一高の定員を次のようであった。
校名 文科 理科
甲 乙 丙 甲 乙 丙
浦和 43 39 37 44 35 総数198名
一高 125 36 38 107 91 総数397名
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├福島新吾、加藤哲郎ほか文章の覚書
福島新吾 マルクス・エンゲルスもその現実性に魅力を感じて基礎的に読み進み、その歴史的業績には大いに傾倒したが、その「具体から抽象へ」という段階には足踏みをしていた。資本論も第一巻までは学んだが、第二巻中途あたりから、経済、金融の知識がなくては自分には空論だと足踏みした。初期マルクスや、ヘーゲル批判などまで研究が及ばずマルクスにはあまり政治理論が無いと感じ、エンゲルスに注目したが、その『家族、私有財産及び国家の起源』の実証性には疑問を抱いた。この段階で適切な指導をしてくれる先達を持てなかったのは不幸であった。宇野などにはそんな関心は無かった。こうして私は七年の長期間さまざまな得難い体験を得たが、社研の方針に従って調査の専門家という展望をあきらめ、十分な学者としての準備も出来ぬまま専修大学へ転出することにしたのである。社研に入って間もなく先輩から慶応大へ行かされた。京浜地区大学高専助手研究生連絡会とかいうものの初会合だった。そこで戦災後の研究の困難を打開するために東大図書館の利用を各大学に開放してほしいと要望が出て、東大から独り出席した私が図書館にその旨依頼することになった。当然の事と考えた私は帰って司書官に面会し、趣旨を伝えたところ数日のうちに所長に呼び出された。図書館からの苦情を受けた「イワン雷帝」矢内原所長は、新任の助手が権限もない図書館に申し入れをするとは何事かと卓をたたいて叱責した。こちらはその剣幕に震えたが何が悪いのか、戦後の困難を互いに助け合って乗り切るのが当然だ、先生の主張通りではないかと一歩も引かずに抗弁したらやがて所長は破顔一笑君の言い分は正しいが世の中には正義も通らないこともあると非難を撤回した。所長とこんな対決をした助手は私一人だっただろう。党に入ると政治的活動が要求された。社研の職務、自己の研究と重なり忙しさがトリップルで目が回るようだった。まず東大法・経・文などでは教授の圧力で作られていなかった労働組合組織を社研で作ろうと1949年2月に塩田を委員長に結成した。助手以上の加入は無かったが、これは当時の社会では当然の行為であまり困難もなかった。しかし組合を拒否する事務長直結の職員と、図書室、用務員との亀裂を生んだ。又思いがけなく経済学部や法学部の図書室系職員たちがそれぞれ職組をつくる刺激を生んだ。私はここで唯一可能な事は教職員の親睦と差別の廃止だと考え年末忘年会などを全員で楽しくやった。5月には大学管理法案反対闘争の委員に押し出された。占領軍の意図で政府・与党がしきりに制定の動きを見せた大学の自治をおかす政策で左派の政党・労組・学生はもとより、各大学当局も反対していた。いち早く全学連は運動を展開していたが、5月28日全国70大学学生参加で大学法対策全国協議会を結成した。これに教職員が加わる形をつくろうと、社研山之内、農学部近藤康男、古島敏雄、大阪大伏見康治、都立大寺沢恒信など少数の教員が参加し、私も山之内の補佐役として学生との連絡にあたった。気炎はあがるが左翼学生ばかりで各大学内での実勢力は頼り無かったが、大学当局もこの運動には教室利用などを許した。
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├吉瀬維哉-Wikipedia
吉瀬哉事務次官大蔵省
吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。
神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1946年に大蔵省へ入省。大臣官房文書課に配属。1948年7月に高等試験行政科を合格。1949年6月に千葉税務署長、1954年11月1日)に大阪国税局調査査察部次長。主計局主計官補佐(農林係)を経て、1959年5月10日
農林省大臣官房調査官(農林漁業基本問題調査会事務局)、1960年12月1日 東京国税局直税部長、1961年 東京国税局直税部長兼東京国税局総務部長、1962年6月1日
国税庁直税部法人税課長、1964年7月6日 主計局主計官(外務、通産担当)、1966年8月1日 大臣官房秘書課長、1969年8月 大阪国税局長、1971年6月
主計局次長、1973年6月26日に経済企画庁長官官房長、1974年6月26日に理財局長、1975年7月8日に主計局長兼会計事務職員研修所長、1977年6月に事務次官に就任。戦後に入省した大蔵官僚の中でもっとも早く次官に到達した。退官後、日本開発銀行副総裁を経て日本開発銀行総裁に就任した。三井住友海上火災保険顧問、初等社顧問、財団法人トラスト60会長、レールシティ汐留企画代表取締役、磐梯リゾート会長、国鉄再建監理委員会委員なども務めた。1994年、勲一等瑞宝章受章。2003年12月22日、脳出血のため死亡した。
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├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月16日号「日本計量新報週報デジタル版」
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├縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之
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├Togari-ishi - 尖石・与助尾根遺跡 - Wikipedia
写真は尖石遺跡の名前の由来となった尖石(とがりいし)。石質は八ヶ岳噴出の安山岩。古くから信仰の対象となっていた。長野県茅野市。
尖石・与助尾根遺跡(とがりいし・よすけおねいせき)は、長野県茅野市豊平にある縄文時代中期の環状集落の遺跡。南側の尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の1つとして知られているが、現在では同遺跡と浅い沢1つ隔てた北側の台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われることが多い。「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する。
八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高1050から70メートルの東西に広がる長い台地の上にある。前述のように台地の中央部に沢が走り、北側が与助尾根、南側が尖石にあたる。尖石遺跡を最初に学界に報告したのは1893年(明治26年)考古学者、小平小平治(湖東村出身)によってであるが、本格的な発掘調査を行ったのは地元の考古学者宮坂英弌(ふさかず)である。宮坂が当遺跡とかかわったのは、1929年(昭和4年)、伏見博英が行っていた発掘を、小平小平治の弟で、俳句の師である小平雪人とともに手伝ったのが最初である。1930年(昭和5年)から独力で発掘を開始し、同年には炉跡を発掘。1940年(昭和15年)からは、縄文集落の確認を目的として本格的な発掘を開始し、途中太平洋戦争を挟んで発掘は1952年(昭和27年)まで続けられた。また、1946年には与助尾根の発掘にも取り掛かった。与助尾根は1935年(昭和10年)に現地を開墾中に発見されたものであったが、この時までほとんど手付かずであった。
宮坂は縄文土器及び石囲炉を手掛りに建物(住居)を探すもので、尖石では竪穴建物跡33棟をはじめ、53基の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されたが、土器に比べ石器の出土が極端に少なく、特に石鏃(41)が少なく、打製石斧45、破片8が見つかっている。また、与助尾根でも28棟の建物、石鏃10、打製石斧14、破片4、磨製石斧、石皿、凹石など多数を発掘している。宮坂は、ワナ猟とクリ林、黒曜石の交易が行われていたと考えた。それに対し、藤森栄一は狩猟・採集以外の何かの生業、例えば焼畑農業が存在したのではないかと考えた。
この集落遺跡は、東西170メートル・南北90メートルの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことが判明し、これによって日本で最初の縄文時代の環状集落の存在が確認された遺跡となった。
当遺跡は、「尖石石器時代遺跡」の名称で1942年10月14日、国の史跡に指定された。宮坂の尽力によって、当遺跡は「縄文集落研究の原点」とされる重要な遺跡と位置づけられ、1952年3月29日には文化財保護法に基づき特別史跡に指定。1993年4月6日には与助尾根遺跡の区域が特別史跡に追加指定された。追加指定分を含む特別史跡指定範囲の面積は66,933.405平方メートルである。
├天狗岳 - Wikipedia
写真は西麓より望む天狗岳 標高2,646 m(2014年3月)
天狗岳(てんぐだけ)は、長野県茅野市にある八ヶ岳連峰の山である。八ヶ岳連峰は夏沢峠を境に南側を南八ヶ岳(狭義の八ヶ岳)、北側を北八ヶ岳と呼ぶが、天狗岳はこの北八ヶ岳の最高峰である。山頂部は300mほどの間隔を置いて東西に分かれ、西天狗岳と東天狗岳と称する。東天狗岳の標高は2,640mで、西天狗岳の標高は2,645.8mで2つのピークが存在し東天狗岳の山頂を八ヶ岳の主縦走路が通っている。北八ヶ岳はなだらかな山容と深い針葉樹林、点在する湖などに特徴があるが、天狗岳はその中にあって唯一、南八ヶ岳に近い険しい山容をしている。日本二百名山のひとつ。登山道について。西側は奥蓼科温泉郷の渋ノ湯から、および唐沢鉱泉から、東側は稲子湯から本沢温泉を経由する登山道がある。また、八ヶ岳の主縦走路が東天狗岳の山頂を通っている。渋ノ湯からの登山道が主縦走路と合流する地点である中山峠のすぐ西にある黒百合平に、黒百合ヒュッテがある。この黒百合平から山頂までは二本の登山道があるが、その西側の登山道を通ると、「天狗の奥庭」と呼ばれる一帯を通過する。奇形の岩と丈の低い針葉樹、小さな池を配した天然の庭園のような一帯である。
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├縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之
茅野市の尖石遺跡付近から望む望む天狗岳、標高2,646m。撮影2023年12月2日、15:24:22。
天狗岳は東西二峰からなり、東天狗岳にある天狗岩と呼ぶ岩塔を天狗の鼻に見立てた山名と考えられる。東天狗岳は、長野県茅野市と同南佐久郡小海町の境に位置している。縦走路上にある東天狗岳は男性的にそびえ立っているが、縦走路から外れた西天狗岳は2646mの二等三角点をもつものの、その山容はずんぐりとしており、西尾根が唐沢鉱泉へと下っている。また、北側の黒百合平との間にある天狗ノ奥庭は、摺鉢池をはじめ点在するいくつかの小池とハイマツやコケモモ、ミネズオウなどに彩られた別天地である。
佐久側に東壁と呼ばれる大断崖をもつ東天狗岳の展望は、硫黄岳の火口壁、北アルプスをはじめ北八ヶ岳の山と森のうねりを、太古の眠りそのままに望見することができる。また、周囲には根石岳、箕冠山、稲子岳がある。東天狗岳と根石岳の鞍部は、白い砂に緑のハイマツが映える広々とした所で、南東に「白砂新道」が本沢温泉へ延びている。
渋ノ湯から4時間弱、唐沢鉱泉からも4時間弱、稲子湯から4時間強、本沢温泉から白砂新道を経て4時間の行程。東西二峰の往復は各20分である。2023年8月改定(山と溪谷オンライン編集部)
天狗岳は冬季の登山も盛んで、アイゼンとピッケルを使用する雪山登山の入門の地としてよく選ばれています。雪山登山初心者がメンバーに含まれる場合、黒百合ヒュッテを拠点として、中山峠から往復する行程が一般的です。中山峠より上は、樹林帯を抜けるためしばしば強風が吹きつけます。アイゼンとピッケルをしっかりと効かせて慎重に登ります。よりレベルの高い山行として、南八ヶ岳より硫黄岳や根石岳を経て至ることもできます。ただし、風衝地が長く続くため、十分な経験と技術が求められます。
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├内田義彦 - Wikipedia
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├山田盛太郎 - Wikipedia
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