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計量計測データバンク ニュースの窓-81-
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計量計測データバンク ニュースの窓-81-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-81-福島新吾、加藤哲郎ほか文章の覚書
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├IV 定期刊行物 2.戦後の機関紙誌 |羽仁説子・宮本百合子らの婦人民主クラブ(機関紙『婦人民主新聞』)
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├証言:日本の社会運動 戦時抵抗と政治犯の釈放――岩田英一氏に聞く(1)吉田 健二
伊藤律は獄中でも要領よく立ち回り,豊多摩刑務所(東京・中野)に在獄中は,小野義彦が『「昭和史」に生きて』(三一書房,1985年)に書いているが,彼は教誨師の助手や教務雑役をしていた。
―― 教務雑役とはどんな役なのですか。
岩田 模範囚人から選ばれた,名目は世話役ですけれども,実際は刑務所長のスパイなのです。同じ獄中の政治犯を監視・指導し,動静を報告する役目を担わされていた。伊藤にはゾルゲ事件との関係もあった。だから,彼が1946年2月に党の中央委員,書記局員になったときは私は仰天した。
├証言:日本の社会運動 戦時抵抗と政治犯の釈放――岩田英一氏に聞く(2)
愛知県の全協運動はこの「二月事件」をもってピリオドを打ちました。禍が重なりました。この「二月事件」の最中に,警視庁が1933年12月に宮本顕治らが起こしたリンチ殺人事件=スパイ査問事件の全容を発表し,新聞がこれを号外などでセンセーショナルに報じた。スパイ査問事件とは,共産党に対する相次ぐ弾圧の裏に,もしかしたら党中央にスパイが潜り込み,大泉兼蔵だけでなく,小畑達夫もスパイじゃないかと疑って査問し,査問中に小畑が死んだ事件です。大泉兼蔵は野呂栄太郎が信頼を寄せていた人物だったらしい。私は小畑達夫もスパイだったという報道や,宮本顕治らの査問で死者が出たという報道に衝撃を受けた。私は絶望し,冷静でいられなくなった。私は高木鉄工所を辞し,東京に戻って中田惣寿に相談した。中田先輩は「現下の状況はまことに厳しい。待機するか,他に活路を模索すべきだろう」と助言してくれた。私は全協のオルグ,すなわち非合法活動にピリオドを打つことにした。
京浜グループ――知識人との連帯を志向―― 第3に,中西兄弟らのグループは知識人との連帯を志向していました。彼らは知識人と意思疎通を重ね,自らの活動方針を立て,検証し,問題点や課題を確認していたようです。この点,中西三洋さんが先の「戦時下の非合法活動――京浜グループ事件」で,知識人との連帯を求めた理由について実践上「もっと深く理論的に研究する必要のため」(84頁)とし,官憲も「メムバー相互の理論的水準の高度化」(『社会運動の状況
11』22頁)を図っていたと述べています。知識人がどのような思いで京浜グループに協力をしたのか――中西篤さんが先日,古在由重先生のことを述懐しています(「古在由重氏と『京浜労働者グループ』の関係」,編集委員会編『古在由重
人・行動・思想』同時代社,1991年)
岩田 中西篤とはもう何年もあっていない。私は1945~47年中,日本共産党の東京地方委員会の委員として,彼や弟の三洋と連絡を取り合っていました。中西篤は長兄の中西功と同じく理論肌で,また筋を通すコミュニストでした。彼は徳田や野坂にもなびかなかった。中西篤に,主流派を批判した『日本共産党内の偏向について――野坂・徳田コース批判』(高田書店,1950年)があります。あの当時,徳田や野坂を批判することはとても勇気がいることです。中西篤は骨太の党員でした。なお中西三洋はのちに千代田区委員会の委員長になっていますよ。
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├二〇世紀社会主義運動は何を残すのか──『生還者の証言──伊藤律書簡集』(五月書房)を沖縄で読む──加藤哲郎(一橋大学教員・政治学)
渡部富哉の手で編まれた新著『生還者の証言──伊藤律書簡集』は、沖縄で読むと格別の臨場感がある。渡部には、『徳田球一著作集』全六巻(五月書房)刊行に尽力し『偽りの烙印──伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、九三年)で尾崎秀樹や松本清張により広められた「生きているユダ」伝説を覆した実績がある。そこには、中国での二七年間の査問・投獄を経て八〇年に帰国してから八九年夏の死に至る、家族や友人に宛てた伊藤の一三九通の書簡が収録されている。音信不通だった妻に「きみ子同志」とよびかけた帰国直前の手紙から、過去を自己批判的に検証する書簡が続く。ゾルゲ事件発覚の発端とされ、日本共産党除名の主たる理由とされた「スパイ」説は、自分の戦前獄中供述が特高警察と占領軍により情報操作され、共産党がそれに攪乱され便乗した結果であることを見出すまでの心境が、率直に綴られる。無論、日本国憲法制定時の共産党の態度は「憲法より飯」で今日流布する「憲法草案」は正式審議を経ない宮本顕治の作文だったこと、二・一ゼネストの内幕や第六回党大会直前のアメリカ帝国主義批判に転じた秘密会議、勃発一年半前の朝鮮戦争情報入手、コミンフォルム批判と「五〇年問題」時の党内闘争、徳田が中国出国時に余命四年の病気であったこと等々も、驚くべき記憶力で回想される。
いわゆる北京機関での野坂参三・西沢隆二らの伊藤査問の状況、獄中生活の記述は、『伊藤律回想録』(文藝春秋社、九三年)と重なるが、戦前宮本顕治・袴田里見らの「スパイ査問」致死事件や、不破の体験した東大細胞リンチ事件を想起させる。川上徹『査問』(筑摩書房、九七年)、油井喜夫『汚名』(毎日新聞社、九八年)で最近ようやく明るみに出た七〇年代「新日和見主義」事件の原型として、日本共産党史の暗部を照射する。史実の確定にはなお検証を要するが、公認党史『日本共産党の七十年』や野坂参三『風雪のあゆみ』全八巻(新日本出版社)よりは、はるかに説得力がある。「愛される共産党の顔」野坂と違って、伊藤には汚名を晴らす以外の失うべき何ものもなかったのであるから。
評者の研究する在独日本人反帝グループや旧ソ連日本人粛清犠牲者に関わる情報も、例えば講座派の論客で日ソ友好運動に尽くした山田勝次郎が、戦後党再建の資金提供者で綱領問題学者責任者として出てくる。中でも伊藤が「笑面鬼心」と評する野坂の裏面を知るには本書は必見だ。彼らの存命中は明るみにでなかったが、渡部も注記しているように、野坂は、二八年三・一五検挙直後の検事聴取書でも、保釈前の予審訊問調書でも、「君主制撤廃スローガンに反対」と供述していた。徳田・伊藤の路線とは当然衝突する。いや評者の調査では、日本共産党が創立時から天皇制打倒を掲げてきたという通説自体が、ソ連崩壊後にモスクワで明るみに出た関係資料に照らすと、「神話」であった(加藤「一九二二年九月の日本共産党綱領」『大原社会問題研究所雑誌』第四八一号以下参照)。
五〇年当時の武装革命路線を凍結したまま保持し、私信でも「徳田の党のため」ときっぱり言い放つ伊藤律に、時代錯誤を見出すのは容易だろう。書簡に見られるマスコミや友人たちへの異常な猜疑心にも驚かされる。しかしそれが二〇世紀日本社会主義の重要な構成部分であり、沖縄ではなお実感できる運動の臨場感でもある。研究者にとっては貴重な証言で一級資料である。残念ながら社会運動史研究の全体が衰退産業となり、再生産不能なまでにリストラされてきているが。沖縄から基地が消え、「スターリンは大勢を粛正して殺したが、裁判にかけて相手に発言の機会を与えている。私には裁判はなかった」という伊藤の慟哭が歴史の中で公正に裁かれる日は、二一世紀のいつ頃になるのだろうか。
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├第一次共産党 20世紀日本の社会主義と第一次共産党 一橋大学教授加藤哲郎
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├一橋大学教授加藤哲郎 今日法政大学大原社会問題研究所が所蔵する戦前機関紙誌は、一九一八 ... 宮本百合子(日本共産党指導者宮本顕治夫人)
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├歴史における善意と粛清――国崎定洞の非業の死からみた『闇の男――野坂参三の百年』の読み方 加藤 哲郎(一橋大学・政治学)
職業政治家の心情倫理と責任倫理の問題を提起したのは、マックス・ウェーバーであった(『職業としての政治』)。日本共産党に「前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任」「結果責任」を問いかけたのは、丸山真男であった(『戦中と戦後の間』601頁)。私が「歴史における沈黙の責任」を追及した野坂参三は、沈黙したまま、「同志を裏切った」責任をとらされ、寂しく世を去った。国崎定洞や伊藤政之助を「売った」山本懸蔵は、野坂に「売られ」自らが粛清されることで、責任をあがなったことになるのだろうか? 杉本良吉にソ連渡航を命じた宮本顕治は、当時は「善意のコミュニストは誰も予想しない」事態であったが故に、免責されるのであろうか?
いや、ここでも熊沢光子の運命を想起し、her-storyに目配りすべきだろう。国崎の妻フリーダ・レートリヒにとって、夫の生まれた日本および夫を奪った日本人とは、何であったのか? 野坂竜や関マツに、非党員片山安子に、党に献身して家庭を顧みず、同志でありながら互いに密告しあう男たちは、どう映っていたのだろうか? 愛する杉本とともに越境し、あっけなく引き裂かれ、10年の禁固・流刑を体験した岡田嘉子にとって、杉本に渡航を命じた日本共産党とは、杉本をかりたてた「社会主義」とは、いったい何であったのか? 岡田の人生において、宮本顕治の杉本への「任務」の指示は、いかなる意味を持っていたのだろうか? 女たちは、その時代について多くを語らず、自らの文字で記録を残すことなく、沈黙したまま世を去った。
これらモスクワでの戦前日本共産党指導部の歴史と、リンチ査問致死事件から中央委員会壊滅にいたる国内共産党指導部の歴史は、表裏一体である。その歩みは、いかに天皇制特高警察の弾圧やスターリン体制の残虐性を考慮に入れても、私には「自壊」に見える。
そこで「資本」として失われた多くの一般党員・非党員の生命の痛みを、今日どのように感じとるべきかが、私が、本書『闇の男』からうけとり、いまなお考えつづけている、重く痛切な問いである。
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├第四部 戦争、占領、革命と情報戦 加藤哲郎 Microsoft Word - 科研成果報告書加藤 .doc
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├名越健郎 博士論文 2020年1月7日 日本の政界工作に流入した米ソの資金 2019_b0042_1.pdf
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├専修大学社会科学研究所月報No.478 体験戦後史 1945~47 福島新吾(2003.4.20)
福島新吾氏
八 ・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。
降伏の数日後、私は第一師範の校庭に掘った大きな穴に、命じられた膨大な数の 「機密文書」の山を次々に投げ込んでは焼き捨てていた。その大部分は戦時中最後まで中立国だった、スウェーデン、アイルランド、スイスなどに残留した日本外交公館が西欧の新聞雑誌などから入手
した敵国側の情報を、本省あてに送ってきた暗号電報の解読であった。それらは暗号解読の素材になる〔戦争終結後に?〕 以外は、戦時中に一般国民や憲兵に対して極秘であっただけで、米国に対して何も秘密な事などなかったのだから、焼却する必要があったかどうか疑わしい。その多くは未だ読んでいなかったから、敗戦後でもそこに何が書かれていたのか好奇心があり、何とか焼かずに保管できないものかなあと思いながら、紅蓮の炎に空襲の業火を重ね合わせて見守っていた。
私の在学中からの一高校長安倍能成先生が敗戦後多分最初の『週刊朝日』9月2日・9日号(9日発行)の巻頭に「日本の出発」という文章を書いた。米軍の検閲なしで最後に発行されたと思えるこの論説には
「今や……日本の歴史あって以来最も大いなる又恐らく世界の国民の経験にも多くを見ざる、苦しい生の長い道が横たわっている。自国の利害を第一とする連合国の方針が、日本人の考える程おめでたいものだかどうだかは分からない…一新しく強い重圧の加わる恐れもなくはない…一アメリカの大統領 トルーマンは、日本人が平和を愛好する国民だという事を信じえて始めて警戒の手をゆるめるといった意味のことを口にしたと記憶する。彼のいわゆる平和がアメリカにとって都合のよい平和であり、平和を愛好することがアメリカに対する従順を意味するという制約も免れがたいであろう。しかし我々日本国民はトルーマンのことばを超えて、真に平和を愛好し、日本の存在を本当に世界諸国民の歓びとし幸福とし得るような、国家として国民としての最高の理想をめがけて進んでゆきたい。…一(昭 和二十年八月二十八日米機のしきりなる爆音を頭上にききっっ)」 とあった。あの時にこれだけの事をいいきったのは実に勇気があったと感心する。それは私が最も共感を得た文章であり、戦後の再出発の導きであったし、今日にもなお通用する警告である。
ただその後のソ連による東欧の占領政策を知ると、ソ連にではなく米国に占領されたことは不幸中の幸せだったと認めるのが公平かも知れない。そして敗戦の後遺症は今なお続いているのだと自覚する必要があろう。戦災を受けた安倍先生は世田谷の私の家の近所に仮寓しておられ、46年1月から5月までは幣原内閣の文相を勤めた。母が安倍恭子夫人(藤村操の妹)と東京府立第二高等女学校同級の親友だったので、入閣前から何度かたずねて先生の話を聞く機会があった。十畳位の一間に僅かな食器、日常家具と布団などを積み上げて、夫妻で起居されていた。その不便な暮らしの中で、『今ラジオで
「夏の夜の夢」のオペラを聴いていた。面白いね』などと悠々たるものだった。宗教とは何かと問うと 『個人の命を宇宙の大生命とっらねるものだ』といわれたが宗教に入らなかったのは何故とたずねる機会はもたなかった。また当時の米国教育使節団と学制改革にっいて論じあい、旧制高等学校の長所を力説しその存続を求めたが受け入れられなかったとこぼされたこともあった。アイケルバーガー中将が帰国する時には、貨物船一杯日本の骨董などを持ちかえったと非難されていた。
私は多分9月中旬東京帝国大学(まだこの名前であった)法 学部に復学した。学徒出陣にあたり文部省は昭和18年9月に二年修了(と いっても戦時の学年短縮で、最初の半年で一年の講義を終了したから、実質は入学後一年半だった)の
学生にはある程度の単位取得をしていれば「仮卒業」という資格を与え、在螢のまま翌19年9月に卒業させることにした。そこで同期生はほとんど仮卒業になっている。(銀杏会調べによると政治学科407法律学科87計494名である。入学は約800だったはず)。私も仮卒業資格があったが、当時まだ三年配当科目など七科目を残しており、「戦死するなら大学生のままでいたい。生きて帰れば、しっかり受講
したい」という論理で、仮卒業の申請をしなかった。そこで敗戦後のこの時仮卒業組は聴講生にされたが、私は復学が出来た。
講義に出てみると戦前と同じ教授のいうことがまるで変わっており、それに反発を感じる場合もあった。それは多分川島武宜先生だっただろう。名著 『所有権法の理論』を戦時中にまとめた川島さんは、私達のクラスに物権法の特別講義をして、ゲヴェーレなどという難しい概念を教えて悩ましたが、「私はマルクス主義者ではありませんが」とわさわざことわっておずおずとマルクスの説を一部紹介していた。それが今や公然とマルクス日くとやっていたからだ。それが悪いわけでは無いのだが、転換があまり際立っており、大阪高校同窓の安井さんに似たキザな印象があって感情的に反発したのだろう。他方丸山真男先生(まだ
『世界』の論文を発表して強烈な反響を呼ぶ前)や、一高で教えを受けた大塚久雄先生(戦 時中東大講師)の講義を何度か聞けたことがよかった。また多分大河内先生あたりから史的唯物論の壮大な構想を聞くことができて、世界観が変わる思いをした。末弘先生の労働法もようやく禁止が解け、時代の焦点となり興味は深かった。南原先生は一度位しか聞けなかった。たまにしか講義に出ず、戦前のようにノートの空白を埋めさせてくれる友もなく参考書も入手できず、うぶなことに空手で受験する勇気が無かったので試験は放棄続きで、卒業のメドがたたなかった。大学側は溢れている学生を早く卒業させたがっていたので、早く相談すればよかったのだが、窓口の指導を受けてみたら敗戦から一年半たった1947年3月になっても戦時の特典があり、既得単位だけで不足があっても卒業出来た。
こうして中途半端な 「仮卒業拒否」は消えた。結局私は卒業年度をおくらせ生涯給与の号数で損をしたが、この一年半の間のわずかな聴講で戦後の教授たちの自由な講義を耳にしたことが私に大きな思想的変化を与えた。そのために同期で戦後に大学の講義を聞かなかった仮卒業組とは生涯長く政治的、社会的な意見が違う思いをした。当時盛んに出版されはじめた粗悪でうすっぺらな用紙のマルクス主義のパンフレット「共産党宣言」や
「賃労働と資本」なども次々と読んで、軍国青年の心に一抹の抵抗を感じながら、その眼は長くかかって徐々に開かれた。当時戦時中からの寵児西田幾多郎、和辻哲郎などの書はひっぱりだこで、反感を感じたそれらを売っては本屋にならんだ改造社版のマルクス・エンゲルス全集や、特に明治文化全集がバラで安価に出回っていたのを買いあさった。河上肇の
『日記』は熱読したが、『貧乏物語』その他の経済学はマルクスが先だとして読まずじまいだった。
私はそんな時論の受け売りより自分の内面の基礎知識を固めることが第一と考えるにいたった。10月頃、アダム・スミス 『国富論』の輪読を友人と二人で始めた。敗戦後の経済大混乱を理解すべく手をっけたが、戦争中の空白は大きく英語の読解力もさることながら、経済史の細部に至るまで知らないことだらけだった。戦時中よみかけて、空襲以後中絶していた大塚久雄先生の
『近代欧州経済史序説』をまた読み始めていたので、その注にならって、父が米国から持っていた"Palgrave'sDictionaryofPoliticalEconomy"を引いて一々未知の概念や史実を調べた。これは自分にはとても面白い勉強だったのだが遅々として読み進まず、戦後の日本経済の現状を知るための研究とはとうてい対応しなかったわけで友人をうんざりさせた。
安倍先生の論説も 「今度の敗戦の原因にっいて徹底的に究明され認識されなければならぬこというまでもないが、更にさかのぼってかかる戦争をやるに至った原因についてまでも、根本的に聞(せ
ん)明 されねばならぬ」と強調していた。それは大変貴重な調査になると大いに期待をもった記憶がある。
東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は 「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に
『ドイッ国民に告ぐ』と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、…語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に
「押しっけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほかに公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。
末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は
継続し、労働者委員の徳田球一(共 産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日 経連)な どとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。
(1994年8月 起稿、2003年1月21日 脱稿)
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├専修大学社会科学研究所月報No.486 社会科学としての政治研究―1947~54 福島新吾(2003. 12. 20)
非転向だけを振りかざし、セクト主義の反省を全くせず、戦前の反共派の労農派や社大党の屈伏だけを非難する偏狭さを捨てきれなかった。しかも社研で共産党を支持する人々もそれが革新の主流だからと独善の過ちを看過、許容していたのであった。戦後の共産党は占領下の弾圧とソ連幹部の批判の板挟みになり、テーゼのどの部分が占領民主化によって実現されたか、どの点が不十分なのかという基本問題の討議にふれようとしなかった。志賀義雄や神山茂夫らは公式主義ながら若干の発言を行っていたが、中央では秘密裡にそれにからんだ派閥対立を起し除名や脱党が続いていた。その中で1950年1月のコミンフォルムによる野坂批判(実質は徳田批判)がおきた。徳田はそれに一度は反発したが一週間で全面降伏した。その間に私は招かれて代々木の共産党本部二階のM.L研究所の会議に出席、眼と鼻の先で徳田球一書記長がまさに真っ赤になって、日本の事情を知りもしない幹部達が勝手に口を出す、二七年テーゼの時と同じだとコミンフォルムの批判に反撃したのを見た。当時徳田は日和見主義と批判され、占領軍にはほとんど無抵抗で専ら吉田内閣への議会主義的な非難攻撃のみ(それを串刺し論と称していた)を展開していた。私は二・一スト中止の大打撃以後の米占領軍の公然たる反共主義の下では日本の革命は出来るはずが無いと半ばあきらめわずかな改良闘争を支持していた。今日から見れば、コミンフォルム批判は朝鮮戦争開始に先立つ第二戦線結成の要求にほかならなかった。だから徳田の抵抗は全く意味が無かったわけではない。宮本顕治の国際主義の方が誤っていたであろう。その自己批判は無いのだろうか。
第5回は『日本社会の基礎を為すコンミュニテイーの総合的社会実態調査』として1952~54の特別研究費を受け、鵜飼、有泉、内田、林、磯田、加藤俊彦、遠藤、大内、潮見、高柳信一、藤田若雄、福島、小山、長坂聡、江守五夫、岡田与好、大島太郎、藤田勇、戸原四郎、暉峻が名を連ねている。
群馬県強戸(ごうど)村 1952年8月24~9月2日。これは社研に行政管理庁から廃止報告が出された状況下で「コンミュニティーの研究」に研究所全体で取り組むことになった調査であった。私はすでに社研に残れない状況で最後の助手論文に没頭していたからくわしい事情に通じなかったが、調査方針で助手たちがスタッフと衝突し調査は中絶の形に終わったようだ。この村は昭和初期に農民組合が強く、土地闘争に勝利して村政まで手中におさめた希有の歴史をもっていた。第一回普選に日本労農党から須永好が立候補したが、当時八百軒の村で五百軒が組合員で村長も農民組合、村議二十五名のうち十九名が組合員という状況であった。その伝統で当時も日本農民組合の勢力が強く、戦後第一回の総選挙でも須永を衆議院(社)に送っていた(46
年死去)。それを太田市出身の大島太郎助手が知っていて推薦したのだったと思う。
私は色弱のため幼児から他人との色彩の認識の不一致に悩まされ、自己の認識の客観性に自信をもてなかった。逆に読書能力は小学一年で六年の教科書が初見ですらすら読めておおむね理解でき、その点での同年者との相違も懐疑主義につながったのかもしれない。中学時代から旧盛岡藩出身で母の実家と古くから交流があった元国際連盟事務局次長新渡戸稲造を尊敬していた。その『内観外望』(1933
年)に「教育とは学校で習ったことをことごとく忘れた、その後に残っているものをいうのだ」、「大学で聞いた講義のノートなどを持ち出してチャプター・エンド・バース〔to
give chapter and verse=引用句の出所などを明らかにすること〕をやっている時代はまだ本物でない……すっかり自分自身の物になり切った、パーソナル・コンヴィクションになった、それがほんとうの教育である」と述べている。さらにデカルトの説を聞き自分で検証するまで他人の説をうかうか承認するまいとした。それは一種の経験主義になろうか。そこで戦後の民主主義全盛期に政治学を研究しようと心掛けていながら、当時全盛のプラトン、アリストテレス、マキアベリ、ホッブス、ロック、ルソー等々の古典やブライスの近代民主政治などをまず学習する方法をかたくなに避けた。そして就職論文執筆以後現実政治に直面してそれを分析することを第一とし、初学者がたどるべき理論研究を後回しにしていた。社会科学の理論でも留保を続けた。講座派、労農派どちらもマルクスの解釈論争で、その依拠した経済・政治史的事実、理論的問題を自ら原資料にあたって著者以上に分析しなおす意欲は欠く訓詁学と思った。たとえば天皇制は絶対主義か、近代君主制かと争っていても、マルクスは何を絶対主義、何を近代君主制としていたかを検討する事もなかった。そこで私は当時マルクス主義に全面的に傾倒する意思は無く、ソ連や共産主義には批判意識を持ちつづけようと努めた。1949年のメーデーに初めて参加して赤旗の波に生理的違和感を覚えた位だった。
マルクス・エンゲルスもその現実性に魅力を感じて基礎的に読み進み、その歴史的業績には大いに傾倒したが、その「具体から抽象へ」という段階には足踏みをしていた。
資本論も第一巻までは学んだが、第二巻中途あたりから、経済、金融の知識がなくては自分には空論だと足踏みした。初期マルクスや、ヘーゲル批判などまで研究が及ばずマルクスにはあまり政治理論が無いと感じ、エンゲルスに注目したが、その『家族、私有財産及び国家の起源』の実証性には疑問を抱いた。この段階で適切な指導をしてくれる先達を持てなかったのは不幸であった。宇野などにはそんな関心は無かった。こうして私は七年の長期間さまざまな得難い体験を得たが、社研の方針に従って調査の専門家という展望をあきらめ、十分な学者としての準備も出来ぬまま専修大学へ転出することにしたのである。
社研に入って間もなく先輩から慶応大へ行かされた。京浜地区大学高専助手研究生連絡会とかいうものの初会合だった。そこで戦災後の研究の困難を打開するために東大図書館の利用を各大学に開放してほしいと要望が出て、東大から独り出席した私が図書館にその旨依頼することになった。当然の事と考えた私は帰って司書官に面会し、趣旨を伝えたところ数日のうちに所長に呼び出された。図書館からの苦情を受けた「イワン雷帝」矢内原所長は、新任の助手が権限もない図書館に申し入れをするとは何事かと卓をたたいて叱責した。こちらはその剣幕に震えたが何が悪いのか、戦後の困難を互いに助け合って乗り切るのが当然だ、先生の主張通りではないかと一歩も引かずに抗弁したらやがて所長は破顔一笑君の言い分は正しいが世の中には正義も通らないこともあると非難を撤回した。所長とこんな対決をした助手は私一人だっただろう。
党に入ると政治的活動が要求された。社研の職務、自己の研究と重なり忙しさがトリップルで目が回るようだった。まず東大法・経・文などでは教授の圧力で作られていなかった労働組合組織を社研で作ろうと1949年2月に塩田を委員長に結成した。助手以上の加入は無かったが、これは当時の社会では当然の行為であまり困難もなかった。しかし組合を拒否する事務長直結の職員と、図書室、用務員との亀裂を生んだ。又思いがけなく経済学部や法学部の図書室系職員たちがそれぞれ職組をつくる刺激を生んだ。私はここで唯一可能な事は教職員の親睦と差別の廃止だと考え年末忘年会などを全員で楽しくやった。5月には大学管理法案反対闘争の委員に押し出された。占領軍の意図で政府・与党がしきりに制定の動きを見せた大学の自治をおかす政策で左派の政党・労組・学生はもとより、各大学当局も反対していた。いち早く全学連は運動を展開していたが、5月28日全国70大学学生参加で大学法対策全国協議会を結成した。これに教職員が加わる形をつくろうと、社研山之内、農学部近藤康男、古島敏雄、大阪大伏見康治、都立大寺沢恒信など少数の教員が参加し、私も山之内の補佐役として学生との連絡にあたった。気炎はあがるが左翼学生ばかりで各大学内での実勢力は頼り無かったが、大学当局もこの運動には教室利用などを許した。
当時CIEのイールズが新潟大学で左翼教授追放の演説を行ったので、教授連でこれに反撃しようと、総司令部CIEに7月16日ルーミス、8月4日にはイールズを訪れ米国の有名なHolmesとBrandeis両判事のa
clear and present dangerを生み出す状況がないかぎり言論を抑制すべきではないとの判例をあげて、左翼教授の学問の自由を擁護した。民間でどこかの州のcountyの教育長だったらしいイールズはそんな憲法の常識すらなく答弁に詰まった。この時案内した学生が高沢寅男(故社会党議員)と戸塚秀夫(元社研教授)だった。この頃から学習運動の助言者も命じられて様々の会合に出掛けた。大学法の解説から破壊活動防止法案など次々とテーマは変わった。スターリンの社会主義経済の諸問題な
ども大真面目に指導した。
塩田退職で社研職組委員長になった49年12月、恒例の年末一時金闘争が東大職組でも盛り上がった。当時南原総長は対日講和の意見交流で渡米中で瀬藤象二工学部長が代理であった。大学事務局の警備不足をついて組合側は大衆交渉にもちこみ、馴れぬ瀬藤に一時金支給の調印をさせた。これが懲戒問題となり約二年公聴会での係争の後原田正道委員長(第二工学部助教授)、大山勲副委員長(理学部助手)は休職、身分保障の無い福本書記長(本部事務局事務官)は気の毒にも解雇となり東職はその救援活動も出来ず、行き詰まった当人は数年後自殺する悲劇に至った。この間朝鮮戦争が始まり共産党議員は追放され、幹部は地下活動を開始しいよいよファシズムの出現と緊張した。
アカハタが戦争報道により発行禁止となると、戦前の経験にものをいわせて党は次から次へ禁止をくぐってその代替紙や、「占領目的阻害行為禁止令」違反となるコミンフォルム機関紙「恒久平和のために!人民民主主義のために!」、地区の党紙などの非合法紙を発行した。その秘密配付が党員の大きな仕事となり、現物を持って警官に自転車の無灯火で意見されたり、大晦日に大量の束を受け取り、新年は縁の下に隠し持ったりヒヤヒヤした。東職本部が懲戒反対闘争に明け暮れているうち連合体の東職の各単位組合は休眠状態におちいった。委員長交代が出来ず1年半が過ぎた。組合保全のため放置出来ないとついに51年4月頃組合新参の私が半年と期限をきり工学部助手の高橋昇書記長(現『技術と人間』編集長)と組んで委員長になった。私は3月に結婚したばかりであった。初代の長畑一正(病院)二代原田は助教授で助手は異例であった。就任にあたり社研のスタッフに挨拶したら昇格に響くと警告されたがそんなことは無関係とつっぱねた。医学部(付属病院)、農学部、理学部、工学部、第二工学部(千葉)のほか学部には単位組合は無く、地震研、本部事務局、史料編纂所、理工研、新設の社研の連合であった。しかも朝鮮戦争開始から一年、米占領軍の戒厳体制はますますきびしく、学内には本富士署の私服刑事が多数歩きまわっていた。1952年2月の「ポポロ事件」で学生が取り上げた私服刑事の警察手帳(「吾々は告発する-警察手帳の全貌-」)にも私の大学への出入がメモされていた。当時東職委員会はかろうじて四五人の出席で、活動といっても最低限の情報ビラを委員長、書記長と学生書記の四人位で大学構内各所にちらばる連絡のない単位組合の職場まで配って歩く始末だった。だが病院の看護婦が組合のビラなど何年振りと感謝され、工学部の技術実習担当の高齢の元労働者などは、好意をもって受け取りながら弾圧されるぞ気をつけろと戦前の経験を語って励まされた。外部では書記長と二人だけで芝公園のデモ禁止のメーデーや労働者決起大会に参加したり(手帳に記載)、無謀にも少数の委員会で差し迫るサンフランシスコ平和会議に向かって8.15までの数日講演と映画の「平和祭」を計画、人脈を存分に生かして法哲学の尾高朝雄、大河内に紹介された官庁エコノミストの稲葉秀三、渡辺一夫にことわられて一高の恩師フランス文学の市原豊太の三氏を引出した。それに毎日一本づつ反戦映画、「また逢う日まで」「大いなる幻影」などを上映した。これで少しは組合員も参加するかと期待したが、強権横行の時代、私服刑事が入り込む状況で学生(夏休みで半年後の「ポポロ事件」の時のように刑事を捕らえるほどの数がなかった)や、ひそかに呼びかけた本郷周辺の労働者、在日朝鮮人の方が多かった。最後の8月14日第二食堂で平和祭を開こうとしたが、まず大学の用務員、それを説得すると本部事務員、さらには鉄門前に集結した本富士署から、無届け集会禁止で解散を命じられた。組合員の集会だという弁明は参加者を一目すれば崩れる。日頃大学当局は学生デモに対し学内に警察権力を入れないと、大学の自主規制で処理している状況を考慮すると、ここで警察の立ち入りを招くことは影響が悪いと判断して、残念ながら委員長の独断で解散し、参加した朝鮮人に軟弱だと非難された。翌日は本富士署に任意出頭で高橋と二人敗戦記念日の暑い西日の中尋問され、前途ある東大の助手が労働者や朝鮮人と共闘するとはと戦線分裂をはかったり、突然机を叩いて怒鳴ったり、硬軟使い分けでさんざん脅かされたが弱音は吹かなかった。その夜は大田区の工場で非合法の平和決起集会に参加などした。東職は東京都大学高専教職組連合(略称ダコセ)に加入していたので、その線で総評の平和闘争に参加し、8月末には浅草の仁王門の真ん前の歩道で、すぐ後ろに交番をひかえながら、平垣日教組中執とともに生まれて初めての街頭演説をやり、幼少期の上海の状況を述べて講和後も続く日本の主権喪失を訴えた。9月初旬には総評の平和推進国民会議主催の朝鮮戦争後初めての大規模の平和集会とデモに参加して感激した。場所は意外な靖国神社境内、デモも両国震災記念堂だった。インドのネルー首相から友好の象が贈られ、宗教者平和運動協議会の日蓮宗妙法寺僧侶が団扇太鼓で参加したり、1年半に及ぶ占領軍の戒厳令的治安に抗した民衆の平和的感情が爆発した。全面講和、再軍備反対、中立維持、軍事基地反対の平和四原則は参加者の大きな願望であった。このデモで私たちダコセグループが先頭に立って組合旗をかかげて行進する姿が『人民日報』に掲載されたと聞いて快哉を叫ぶような子供じみた気分であった。すべて蟷螂の斧であった。嵐のような半年はまたたく間に過ぎ、11月には南原後任の総長選挙で、農学部が推した岡田教授を委員会でしりぞけて東職として矢内原を支持し(12月3日当選)最後の統一戦線の仕事を終わった。その後遠山茂樹(史料編纂所助教授格)が後任と決まり、私は破壊活動防止法案反対のための解説執筆や、小集会での報告、講和発効後のメーデー事件など緊張した日常を続けつつ、僅かな余裕を得て二度目の助手論文「戦後日本の警察と治安」を執筆した。
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├大島太郎、福島新吾と旧制高等学校 夏森龍之介
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├東京大学社会科学研究所
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├東京大学社会科学研究所 - Wikipedia
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├福島新吾 - Wikipedia
福島 新吾(ふくしま しんご、1921年〈大正10年〉5月2日 - 2013年〈平成25年〉5月1日)は、日本の政治学者。専修大学名誉教授。政治学原論専攻。
1921年、福島喜三次の四男として東京に生まれる(母〈1893-1981〉は明治期の外交官杉村濬の長女)。
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├福島喜三次 - Wikipedia
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。
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├杉村濬 - Wikipedia
杉村 濬(すぎむら ふかし、1848年3月20日〈弘化5/嘉永元年2月16日〉 - 1906年〈明治39年〉5月19日)は、明治時代の日本の外交官(外務官僚)。初代バンクーバー領事を間に挟み、通算8年在勤した朝鮮では一等書記官として閔妃暗殺事件に関与。以後、台湾総督府民政局事務官兼参事官及び評議会員、外務省通商局長を務め、晩年は駐ブラジル弁理公使兼総領事として同地で客死した。
経歴
陸奥国盛岡城下(現・岩手県盛岡市大沢川原)にて盛岡藩士杉村収蔵(のち秀三)の次男として生まれ(幼名は順八)、杉村実則と称した。両刀扱いの達人と言われた父と、藩学明義堂(のち作人館)の師範役菊池重政に剣術を習い、文久2年(1862年)に藩主南部利剛に従い江戸へ出府後、漢学に専念し、慶応2年(1866年)には京へ出役したとされる。
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├吉瀬維哉 - Wikipedia
吉瀬哉事務次官大蔵省
吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。
来歴・人物
神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1946年に大蔵省へ入省。大臣官房文書課に配属[2]。1948年7月に高等試験行政科を合格。1949年6月に千葉税務署長、1954年11月1日)に大阪国税局調査査察部次長。主計局主計官補佐(農林係)を経て、1959年5月10日
農林省大臣官房調査官(農林漁業基本問題調査会事務局)、1960年12月1日 東京国税局直税部長、1961年 東京国税局直税部長兼東京国税局総務部長、1962年6月1日
国税庁直税部法人税課長、1964年7月6日 主計局主計官(外務、通産担当)、1966年8月1日 大臣官房秘書課長、1969年8月 大阪国税局長、1971年6月
主計局次長、1973年6月26日に経済企画庁長官官房長、1974年6月26日に理財局長、1975年7月8日に主計局長兼会計事務職員研修所長、1977年6月に事務次官に就任。戦後に入省した大蔵官僚の中でもっとも早く次官に到達した。退官後、日本開発銀行副総裁を経て日本開発銀行総裁に就任した。三井住友海上火災保険顧問、初等社顧問[3]、財団法人トラスト60会長、レールシティ汐留企画代表取締役、磐梯リゾート会長、国鉄再建監理委員会委員なども務めた。1994年、勲一等瑞宝章受章[4]。2003年12月22日、脳出血のため死亡した。
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├宮地健一のホームページ 共産党、社会主義
├【サライ】【日本大好きロシア人】プロのソプラノ歌手が歌う【加山雄三】【谷村新司】
├【サライ】【日本大好きロシア人】プロのソプラノ歌手が歌う【加山雄三】【谷村新司】
├【ヴォルガの舟唄】【ロシア民謡】【Эй, ухнем】【日露字幕】プロのソプラノ歌手が歌う【日本大好きロシア人】
├(639) 【モスクワの夜は更けて】【モスクワ郊外の夕べ】【ロシア歌謡】【日本大好きロシア人】プロのソプラノ歌手が歌う【Подмосковные
вечера】 - YouTube
├ロシア語 モスクワ郊外の夕べ カタカナ表記
├キログラム - Wikipedia 単位の「k」は小文字で書く。大文字で「Kg」と表記してはならない。 | 「計量計測データバンク」
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├工業技術院計量研究所力学部長を勤めた矢野宏氏は2023年1月27日逝去 | 「計量計測データバンク」
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├中部7県計量協議会 2023年7月13日にホテルフジタ福井の宴会場「ザ・グランユアーズフクイ」で開かれ一般計量士登録に関する1年間の実務要件が議題に
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├軍人と国家官僚 軍国主義日本の軍人として命を捨てる覚悟の軍人と国民の福祉の向上のために働く人との対比(計量計測データバンク編集部)
├伝統の「技」を今に伝える浮ひょうの専門メーカー 横田計器製作所 | 「計量計測データバンク」
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├【郡上おどり-その1-】郡上八幡の徹夜踊りのもようです。徹夜おどりは、8月13,14,15,16日の4日間行われます。 | 「計量計測データバンク」
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├飛騨・高山の朝市と古い街並み 甲斐鐵太郎
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├郡上おどり 甲斐鐵太郎
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├数学の言葉で世界を見たら 父から娘に贈る数学 | 株式会社 幻冬舎 (gentosha.co.jp)
数学の言葉で世界を見たら 父から娘に贈る数学 大栗博司著(本体1,800円+税10%)
考える力・創造する力がグングン伸びる。人生がもっとワクワクしてくる。基礎の基礎から役立つ話、驚く話、美しい話まで。楽しみながら学ぶ、数と論理の世界。数学は、英語や日本語では表すことができないくらい、シンプルに正確にそして本質的に、物事を表現するために作られた言葉です。だから数学がわかれば、これまで見えなかったことが見えるようになり、言えなかったことが言えるようになり、考えたこともなかったことが考えられるようになります。本書では、世界的に有名な物理学者である著者が、高校生になる娘に語りかけるかたちをとりながら、驚きと感動に満ちた数学の世界を道案内します。イラスト多数。
第1話 不確実な情報から判断する
第2話 基本原理に立ち戻ってみる
第3話 大きな数だって怖くない
第4話 素数はふしぎ
第5話 無限世界と不完全性定理
第6話 宇宙のかたちを測る
第7話 微積は積分から
第8話 本当にあった「空想の数」
第9話「難しさ」「美しさ」を測る
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├数学は言葉 – CoSTEP – Communication in Science and Technology Education and
Research Program, Hokkaido University (hokudai.ac.jp)
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├計量法解説 (keiryou-keisoku.co.jp)
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├:計量法の読み方 - livedoor Blog(ブログ)
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├「計量法の読み方」全章 |
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├計量法が定める皮革面積計を解かる (写真と日本産業規格(日本工業規格)JIS B 7614:2010皮革面積計によって理解する)
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├皮革面積計
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├計量法が定める皮革面積計を解かる
(写真と日本産業規格(日本工業規格)JIS B 7614:2010皮革面積計によって理解する)
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├微分も積分も忘れてしまう東大理三卒の大学教授(2023-05-09)【理3のリアル@50代】 東大医学部卒の弁
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├「ハッピーエンド」を聴く。メンバーは大瀧詠一,細野雅臣、鈴木茂、松本隆。
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├計量法の皮革面積計の規定そして実働する皮革面積計
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├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年10月12日号「日本計量新報週報デジタル版」
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年07月27日号「日本計量新報週報デジタル版」
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年07月20日号「日本計量新報週報デジタル版」
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年07月13日号「日本計量新報週報デジタル版」
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年07月09日号「日本計量新報週報デジタル版」
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├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年06月22日号「日本計量新報週報デジタル版」
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├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年06月01日号「日本計量新報週報デジタル版」
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├シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。
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├私の自転車物語 | 「計量計測データバンク」とその情報 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
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├Windowsによる新聞組方式の現状
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├玄関網戸DIY取り付け 「網戸屋一番 ADY-235」 | Wood Chips (mokmok29.com)
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├網戸の取付け方法(標準タイプ)網戸屋一番 - 玄関網戸からサッシ網戸まで、網戸のことなら【網戸.jp】 (amido.jp)
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├網戸屋一番 - 玄関網戸からサッシ網戸まで、網戸のことなら【網戸.jp】 (amido.jp)
├【第5回】医系技官として国の健康課題に向き合う | 連載 | 未来のドクターへ、期待以上の出会いを。【マイナビRESIDENT】 (mynavi.jp)
├社会の統計と計量計測の統計
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├計量計測のエッセー ( 2018年1月22日からの日本計量新報の社説と同じ内容です。)
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├Windowsによる新聞組方式の現状
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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro
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├日本の新聞社、メディア、情報機関など web検索(計量計測データバンク)
├日本のテレビ局 web検索(計量計測データバンク)
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├Windowsによる新聞組方式の現状
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├死霊はわが姿なり(副題・女の深い悲しみの表情が人の心の闇を照らす)森龍之
├小梨平 3LDK+物置|蓼科ビレッジ(長野県茅野市) (tateshina-v.co.jp)
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├計量計測データバンク 紙面予定の原稿-その1-
├計量計測データバンク ニュース原稿など資料庫-その1-
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├計量法と行政のニュースの窓 目次
├計量法と行政のニュースの窓-その1-
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├地方計量行政機関 ニュースの窓 目次
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├地方計量協会ニュースの窓口 目次
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├計量計測機器団体のニュースの窓 目次
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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├(442) 【岐阜県郡上市】郡上おどり「おどり発祥祭」2023年7月15日 - YouTube
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夏森龍之介のエッセー
田渕義雄エッセーの紹介
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├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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├2023年度国家公務員採用総合職試験(春)の合格者を人事院が発表(令和5年6月8日)
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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2023-07-27-news-81-materia-content-collection-of-metrology-databank-81-1-
「計量計測データバンク」サイトマップ
measure and measurement data bank of saite map