明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その9-
Higher Education in the Meiji Era by The era in which Aikitsu Tanakadate lived Part 9

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その9-
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その9-
計量計測のエッセー 
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その9-

日本の近代度量衡制度の創設にかかわった高野瀬宗則は江州彦根藩士高野瀬喜介の子である
井伊大老の死を国元彦根に急報の使者は彦根藩目付役の高野瀬喜介 喜介は高野瀬宗則の父


桜田門外の変 堀の内側から見た絵図 青い衣服が井伊家の人々

(タイトル)

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その9-

(本文)



井伊大老の死を国元彦根に急報の使者は彦根藩目付役の高野瀬喜介 喜介は高野瀬宗則の父

 安政7年3月3日(1860年3月24日)に彦根藩主で大老井伊直弼は桜田門で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名によって殺害される。桜田門外の変である。井伊直弼の死は幕閣には秘された。彦根への急報の使者となったのは高野瀬喜介である。喜介は高野瀬宗則の父である。その日に早駕籠にのって西に向かい3月7日夜半に彦根に着いた。井伊直弼が首を切られたことは多くの者が見て知っている。近江商人の情報網は高野瀬喜介の彦根到着より半日早かったと伝えられている。飛脚に文を託して走らせれば駕籠より早い。近江商人の情報伝達の速さを物語る逸話であるが、これは駅伝の仕組みでもある。

 井伊直弼は水戸と薩摩の脱藩浪士の襲撃で首を討ちとられる。こうした事態は横死であり武士には許されない。横死はお家取り潰しとなる。これをまぬかれなければならない。江戸の彦根藩邸は直弼の首を取り返して身体に縫い付ける。公儀の使者の見舞いを二度受ける。高野瀬喜介の急報を受けて彦根藩は総力を挙げて策を練り、動く。結果、お家取り潰しをまぬかれる。大老職を辞職する直弼の願いが受け入れられる。直弼の次子の愛麿(直憲)が遺領を継ぐ。形式を整えて幕閣を説き伏せることを含めて様々に手が施された。彦根への急報の使者となった高野瀬喜介の役割は大きい。高野瀬喜介を乗せた籠が箱根を越えるのを逃走する襲撃者がみていたというのは出来すぎた話に聞こえるが様子を描写するには恰好である。

 3月3日はご節句の一つの上巳の節句である。在府の諸大名は正装して江戸城に登城する。午前10時には大太鼓を合図に節句の式を執り行う。登城する大名の行列を見物することを町人たちは楽しみにしていた。酒と団子を売る葦簀(よしず)張りの店がでた。

 公衆の面前で井伊直弼は首をとられた。井伊直弼の首級をさげて逃亡する薩摩藩士有村治左衛門は力尽きて遠藤但馬の守の門前で切腹する。遠藤家は事態を幕府に届け出る。井伊直弼の首級は遠藤家が保管していた。井伊家は井伊直弼の首ではなく供回りの者であると言い張って引き渡しを求める。遠藤家は井伊直弼の首級ならば預かっていると応じない。遠藤家の地位ある者の配慮によって井伊直弼の首級は井伊家の者に渡された。

 襲撃を受けたその日に井伊家は井伊直弼の名で狼藉者を取り押さえるために当主が負傷したと、幕閣に届け出る。将軍は見舞いの者を3月4日と7日の二度差し向ける。井伊直弼は3月30日に家老職を免じられ、4月28日には直弼の次子の愛麿(直憲)に遺領を継ぐことになった。

 井伊直弼の首を打ち取った薩摩藩士有村治左衛門は声高らかに名乗り上げる。登城の儀式の見物者の前でなされたことである。大名屋敷の内側からも事態は見られていた。拳銃の音がし、切り合いの声が上がれば当然、塀の外を見る。井伊直弼襲撃の噂は流布されていた。不穏な動きは井伊藩邸に何度もの通報されていた。直弼は無警戒の態度をとっていた。

 江戸の彦根藩邸から桜田門までは600メートルほどである。有村治左衛門が首をかざすころには彦根藩邸に急を告げる者が駆け込んだ。藩邸から飛び出した彦根藩の後詰めの者が首のない井伊直弼の胴体を籠に乗せて引き上げた。雪に散らばった血泥は四斗樽に詰めて持ち帰った。斬死した7名の井伊藩士の死体も持ち帰った。桜田門外のこの事件はなかったように装われた。

佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石 肥田村城主高野瀬備前守 高野瀬喜介は此末なり

 役名 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石 加番1人、同所門番足軽10人、同所下番2人が附属と「近世大名家臣団の官僚制と軍制-彦根井伊家の場合 佐和口門番頭 高野瀬喜介-母利美和」にある。また往古當國の國司三拾六人の名前一建部山城主建部左京進一下之郷城主多賀豐後守一小脇村城主三井石見守一肥田村城主高野瀬備前守〈高野瀬喜介は此末なり〉とある。

 高野瀬一族は浅井氏と六角氏の抗争がつづくなか小領主なりに乱世を生き抜く。六角氏の支配下にあった高野瀬一族は戦国の乱世に巻き込まれる。尾張および美濃を支配下においた上洛の軍をおこした信長を、六角氏は足利義昭を奉じ迎撃したが敗戦、再起をはかるが没落の運命となった。激変のなか高野瀬氏は浅井氏ついで織田氏に従った。信長の部将柴田勝家が越前の一向一揆鎮圧のために天正二年(1574年)に出陣したなかに高野瀬秀隆、高野瀬隆景父子が含まれていた。高野瀬秀隆、高野瀬隆景父子は越前安居の戦いでともに討死する。鎌倉以来の高野瀬氏嫡流はここで断絶する。高野瀬秀隆・隆景一族直系と彦根藩「佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」の高野瀬喜介を結び付ける文書は見当たらない。彦根藩家臣団の高野瀬姓は江戸末期においては高野瀬喜介ただ一人である。

高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖と推定される高野瀬秀隆)

 高野瀬秀隆は六角義賢に従っていた。高野瀬秀隆は現在の彦根市肥田町に肥田城を築いていた。この城を拠点に六角義賢に敵対する浅井長政との戦いの最前線にあったのが肥田城である。六角義賢と浅井長政の力はときどきで変動した。味方に付くものが増えれば強くなり、減れば弱くなる。どちらに付くかは周囲の勢力の動きを含めた様々な要因による。

 肥田城高野瀬秀隆は六角義賢の側から浅井長政の側に移る。高野瀬秀隆を討たなければ勢力の挽回ができないから六角義賢は肥田城を攻める。肥田城を水没させる水攻めであった。肥田城は城下町を有する新しい形式の城であった。守りの堅固さを美濃国主の斎藤義龍が褒めた書状が残されている。肥田城の北には宇曽川があり、南には愛知川がある。この二つの川を天然の堀としたことから防御は堅固であった。平野部につくられた平城が肥田城である。

 水攻めのことを少しまとめてみよう。中国では春秋時代に「晋陽の戦い」で水攻めが行われた、後漢末期に曹操は水攻めの戦法を採っている。日本最初の水攻めは文明15年(1483年)の若江城水攻めである。六角軍による肥田城水攻めは永禄2年(1559)4月3日(旧暦)である。羽柴秀吉による備中高松城水攻めは天正10年(1582年)である。秀吉にはほかにも紀州太田城と竹ヶ鼻城の水攻めがある。秀吉の命によって石田三成は忍城の水攻めをした。

 水攻めは費用が掛かる。備中高松城水攻めに要した費用は「安土城を2つ築城してもまだお釣りが出るくらい」と語られる。話半分だとしても費用を要する。秀吉による備中高松城水攻めのための土塁は、底の幅12間(23mほど)、上部の幅6間(11mほど)、高さ2丈余(6mほど)、長さ30余町(3.3㎞ほど)。これに要した費用は70万貫文(1千億円ほど)だという。

 六角軍は、肥田城から距離にして200mの宇曽川と1㎞ほどの愛知川の水を肥田城に流し込む作戦を取った。永禄2年(1559)4月3日(旧暦)のことである。水かさが増しているなか5月28日(旧暦)に降った大雨は溜池の役目の堤を決壊させた。これによって水攻めは失敗する。切れた堤があったところが廿八という地名として残っている。水攻めは肥田城を幅23m、長さ6.3㎞の土塁(堤防)を築いて囲むものであった。堤防の高さを示す資料がないのが残念なことである。肥田城の土塁は築城のときに城の警護のために築かれていたという見方があるが定かではない。

 水攻めに失敗した六角義賢はなおも肥田城を攻める。肥田城をどちらが獲るかは決定的であった。兵の数では六角義賢が浅井長政を上回っていた。浅井長政は野良田表の合戦で六角義賢を打ち破る。この勝利によって浅井長政の名が戦国の世に広がる。同じ年、織田信長は桶狭間で今川義元を討っている。浅井長政に織田信長の妹のお市が嫁いだのは後のことである。

 勢力を広げ、また戦に勝てばのし上がる戦国の世における高野瀬秀隆と肥田城そして高野瀬一族のことである。

 高野瀬氏の始まりは近江守護佐々木氏の分家が高野瀬村を与えられて住んだことによる。また三上山の大ムカデ退治や平将門の乱を平定した藤原秀郷の子孫が源平合戦のときに源頼朝についていて高野瀬に住むようになった。これら二つが伝えれれている。もう一つ、鎌倉幕府が終焉を迎えるときに六波羅探題であった北条仲時を高野瀬隆重の働きで番場宿で自害させたという伝えがある高野瀬氏は、鎌倉時代末期までに高野瀬村に落ち着いて、この地名を氏とし築城した。近くには高野瀬氏が信仰していた天稚彦神社がある。

 古くから高野瀬村に土着した高野瀬一族は勢力を広げる。14世紀後半から15世紀に佐々木六角氏の命で肥田城を築城したとされている。鎌倉時代から戦国時代まで高野瀬村周辺を治めていたころに、明(中国)との貿易をしていたようだ。城跡から明銭が大量に出土している。紙の生産や瓜(うり)の取引も行っていた。佐々木(六角)氏をつうじて朝廷に瓜(うり)が献上されていた。東山道(中山道)には下枝の関をつくっていて、関銭五十文を徴収していた。通行税といったもので500円ほどの金額だ。

高野瀬一族は応仁元年(1467)から始まった応仁の乱に巻き込まれる

 江州の地では北の京極氏(東軍)と南の六角氏(西軍)に分かれて戦いが行わた。両軍の勢力の境目は現在の彦根市であった。高野瀬一族はこの戦乱の渦中にあって六角氏の側にあった。佐々木一族が近江守護職の名を冠した時代のことである。

 応仁の乱から戦国時代に移行する。江州の地にあっては勢力争いがつづく。西軍に属していた六角氏は、都で権力を握った東軍の細川氏との戦いに明け暮れる。浅井久政は京極氏を打ち破って湖北の実権を握る。六角義賢は浅井久政と江州の覇権を争う。高野瀬一族の高野瀬備前守は六角義賢に属して戦うが天文22年(1553年)に討ち死にする。高野瀬備前守の後を継いで肥田城主になったのが高野瀬秀隆である。高野瀬秀隆は先代の仇である浅井氏の側に付く。浅井有利の状況ができていたからだろうか。

 江州の地の覇権を浅井氏と六角氏が争うようになった。高野瀬秀隆は浅井長政に従うようになった。浅井長政が織田信長に討たれたあとには織田に従う。

 肥田城主である高野瀬秀隆の子孫は近江の地に生き残っていた。江州彦根藩主井伊家の家臣「役名 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」がそれである。このように推察される。





こんまい先生こと関菊治の物理学校度量衡科当時 明治28年の高等教育機関在学者数は0.3%

 「こんまい先生」こと関菊治は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。東京の物理学校は明治24年(1891年)9月、度量衡科を設置、物理学校度量衡科は明治26年(1893年)7月廃止。この2年。当時の学び舎は小川町校舎であった。

 高等教育就学者の統計がでてくるのは明治28年(1895年)からである。明治28年の当該年齢に占める高等教育機関への在学者数は0.3%であった。明治38年(1905年)は0.9%。大正4年(1915年)は1%。大正14年(1925年)は2.5%。昭和10年(1935年)は3.0%。昭和25年(1950年)は6.2%。昭和35年(1960年)は10.2%。昭和36年(1961年)は10.2%。高等教育機関の数は明治28年(1895年)63校、昭和37年(1962年)は565校。昭和37年ころは高等教育機関の60%を私立が占めていた。

 明治28年の全生産人口に占める高等教育機関への在学者数は0.1%であった。同じく中等教育機関は0.2%、初等教育機関は15.6%、不就学者は84.1%。昭和10年(1935年)は上に同じように1.6%、9.2%、82.1%、7.1%、。以上は文部省発表の資料による。

富国強兵と国民の初等教育機関機関への就学

 富国強兵のために国民の初等教育機関機関への就学が強く推し進められたことにより明治28年の全生産人口に占める不就学率84.1%が、昭和10年(1935年)には7.1%にまで減っている。規律と読み書きソロバンの初歩ができていなければ兵士として鍛え上げることができないからだ。大正14年(1925年)には20.0%まで不就学率が減っている。国を挙げて初等教育の普及につとめた。

開校当初物理学校の卒業生の数

 明治18年~25年7月までの卒業生の数。数字は東京理科大学50年小史による。
明治18年      1名
明治19年      1名
明治20年7月    6名
明治21年7月    4名
明治22年2月    9名
明治22年7月   11名
明治23年2月    9名
明治23年7月    8名
明治24年2月   10名
明治24年7月   19名
明治25年2月   10名
明治25年7月   22名

第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり

 明治22年2月明治、9月それぞれの第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり。各学期の生徒数は、落第した生徒数を含むから下から進級した生徒数はさらに少ない。

明治22年2月1学期309名
明治22年9月2学期49名
明治23年2月3学期30名
明治23年9月4学期14名

物理学校 明治24年2月 滞ることな卒業した者は3.2%

 明治24年2月に卒業したものは10名、明治22年2月に入学、明治24年2月に滞ることな卒業した者は3.2パーセントに過ぎない。
                                        
明治22年9月1学期311名
明治23年2月2学期67名
明治23年9月3学期31名
明治24年2月4学期21名

「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明治39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」

  明治24年7月に卒業したものは19名、明治22年9月に入学、滞ることなく明治24年7月に卒業した者は6パーセンに過ぎない。卒業生の中には何回か落第を繰り返し卒業した者もいる。落第なしに物理学校を卒業できる者は何人もいななかった。

  明治20年12月、規則改正に際し落第について「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明治39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と明記された。しかし、実際には大分、事情が考慮されていたようである。しかし、物理学校を卒業した者の数より、その数をはるかに勝る数の生徒が学校を離れていった。

2023-08-10-higher-education-in-the-meiji-era-by-in-which-aikitsu-tanakadate-lived-part-9-


メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏

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