明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その4-
Higher Education in the Meiji Era by The era in which Aikitsu Tanakadate lived Part 4
高野瀬宗則が学んだ物理学はフランス語によるフランス式の物理学である。
田中館愛橘が学んだのは米国人のメンデンホール、英国人のユーイングによる物理学と数学であった。

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その4-
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その4-
計量計測のエッセー 
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その4-

初代権度課課長 高野瀬宗典
農商務省技師としてとして度量衡法の制定と計量制度の確立に役目果たす


(タイトル)

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その4-

(本文)

日本の遅れは理工学分野での開明度の低さにあると考える会津藩家老の子山川健次郎

 会津藩家老の子で白虎隊士であった後の東京大学理学部長後に総長となる山川健次郎は米国のエール大学で学んだ。日本の遅れは理工学分野での開明度の低さにあると考える。そのようなことで物理学を専攻して卒業する。田中館愛橘は東京開成学校時代から山川健次郎の教えを受ける。高野瀬宗則は田中館愛橘の4歳年長にして東京大学フランス語物理学科を卒業している。フランス人教師がフランス語で授業するのがフランス語物理学科である。

東京大学理学部に入学 藤澤利喜太郎が数学、隅本有尚が数学、田中館愛橘と田中正平が物理学に

 田中館愛橘は明治11年(1878年)9月に東京大学理学部に入学して、明治15年(1882年)7月に卒業する。すぐに準助教授に任ぜられる。田中館愛橘がいた東京開成学校在籍していた東京開成学校予備門は東京大学予備門に名称変更される。ここから数学、物理、星学をひとまとめにした分野には4名が進む。藤澤利喜太郎が数学、隅本有尚が数学、田中館愛橘と田中正平が物理学に傾いていった。

高野瀬宗則が学んだ物理学はフランス語によるフランス式の物理学

 高野瀬宗則が学んだ物理学はフランス語によるフランス式の物理学である。東京大学フランス語物理学学部は数年で廃止される。田中館愛橘が学んだのは米国人のメンデンホール、英国人のユーイングによる物理学と数学であった。教授陣には菊池大麓、山川健次郎がいた。

 招聘される外国人教師の報酬は高額であった。外国人教師に劣らない能力を備えた田中館愛橘を準助教授に任じたのはそのような事情にもよる。

メートル法推進論の田中舘愛橘の師 グラスゴー大学のケルビン博士、米国人のメンデンホール、山川健太郎

 田中舘愛橘は英国に渡る。グラスゴー大学でケルビン教授の助手を務める。のちドイツのベルリン大学に渡り有名教授に教えを受け、三年の留学期間をへて明治24年(1891年)7月に帰国して教授に任ぜられる。翌年8月に理学博士の学位を授与される。ユーイングと入れ換えに明治16年9月に同じ英国人のノットが物理学教師として来日する。ノットは田中舘愛橘が帰国する前月に解任、帰庫する。米国人のメンデンホール、英国人のユーイング、英国人のノットともに優秀な人であった。米国人のメンデンホールは帰米後に米国のメートル法を推進する。グラスゴー大学のケルビン博士もメートル法論者であった。田中舘愛橘はこのような教師と山川健太郎などのメートル法推進者と交流することを通じて志操堅固なメートル論者になる。

人間の目的は己をおさめ天下を治むるにある、もし世に用いられないときには書いたものを後世に残せ

 田中館愛橘と学問への取り組みを語る逸話がある。田中館愛橘は「平素先輩から、人間の目的は己をおさめ天下を治むるにある、もし世に用いられないときには書いたものを後世に残せ、そのために文を修めよ、と聞かされていたからそれまでは国家を治める道を学ぼうと思った。しかし今まで見たところでは国を治める道については西洋の修身治国を説いたものが在来の孔孟の教えに優るちは思えない。これに反して理科方面は大いに学びたいものがある。それで理科の根本たる物理学を修めて大いにわが国家の欠を補いたいと感じ、父に許しをこうて了解された」と述べている。この時代の東京大学理学部の同一学年の在学者数は東京開成学校から進んだ者と他から集まった者の10名ほどであった。

井伊大老の襲撃を国元の彦根藩に急報する使者となった高野瀬宗則の父、高野瀬喜介

 安政7年3月3日(1860年3月24日)に大老井伊直弼は桜田門で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名によって襲撃を受ける。井伊直弼の死は極秘にされ、国元へは高野瀬宗則の父である高野瀬喜介が急報の使者となる。高野瀬喜はその日に早駕籠にのって3月7日夜半に彦根に着いた。高野瀬喜介は彦根藩士で禄高150石の記録が確認でき、高野瀬宗則の文書では彦根藩御目付役となっている。

 脱藩の浪士に急襲されて首をはねられること事態が大失態である。知れれば井伊家はお家お取り潰しとなる。窮状を脱すべく彦根藩は策を打つ。登城のときに賊を退治するときに負傷したと幕閣に告げる。幕閣は彦根藩江戸屋敷に二度の見舞いをする。井伊直弼は老中を辞し、次男が井伊家の家督を継ぐ。節句の祝いに登城する大名の行列を町民と侍が見物するなかでおきた事件であった。辻には屋台がでて酒や餅、団子も売られる。井伊直弼の首がはねられたことは隠しようがなかった。公儀の処置は彦根藩の思うような内容になった。

東京大学フランス語物理学科卒の高野瀬宗則と4年若い田中館愛橘が物理教育と度量衡の仕事で交錯


 明治政府は日本の近代度量衡制度を築き上げることを急務としていた。西洋および米国に伍する度量衡制度の構築は日本の近代化に欠かせない。殖産興業の下地となるのが近代度量衡制度であった。

 幕末の動乱は日本が欧米の植民地になることを忌避するためのもがきであった。英国、仏国、露国、米国、蘭国などの経済行動は軍事行動と一体となった帝国主義による植民地支配と分割である。富国と連動する強兵は日本が独立を保持する道であった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦は中国に侵攻することで始まった日中戦争を含み15年戦争である。大戦の敗北は経済戦争の敗北、植民地争奪戦争の敗北であった。明治から昭和の終戦の時代は戦争の時代であった。15年戦争、そして太平洋戦線などでの戦いをどのように受け止めるのか、いつまでもつづく問いかけである。

高野瀬宗則は江州彦根藩士高野瀬喜介の子である。高野瀬喜介は彦根藩の御目付け役の任にあった

 日本の近代度量衡制度の創設、日本の近代度量衡行政の敷設のために、招聘されたのが東京大学フランス語物理学科を卒業して駒場農学校で教鞭を執っていた高野瀬宗則(たかのせ・むねのり)である。高野瀬宗則は東京大学フランス語物理学科を明治13年に卒業して駒場にある東京農林学校(駒場農学校)は後に東京大学農科大学となる。現在の東京大学教養学部の所在地)で教鞭をとっていた。高野瀬宗則は江州彦根藩士高野瀬喜介の子である。高野瀬喜介は彦根藩の御目付け役の任にあった。目付役は藩にあっては要職に位置する。高野瀬宗則は藩の定めによって10代半ばには藩付の兵として訓練を受けて任務に就いていた。見習士官といってよい。高野瀬宗則は明治が始まるまでは武家の子として、彦根藩にあってその年齢に求められる勤めをしていた。

高野瀬宗則の学費のこと 藩から推薦されて国が学費を負担するの給費生ということで貢進制度は一年ほどで廃止された

 高野瀬宗則が東京大学で学ぶ時代は学制がくるくると変わった。理由を説く文書は見当たらない。学制の変動に止むを得ず身をゆだねるようにして学んでいたのが高野瀬宗則より年齢が4歳下であった田中舘愛橘である。藩校で学んで後、東京に出てくる者、藩からの給費生として若くして東京で学ぶ者、英語など外国語を習得していることが上級学校に進む条件であったからこの過程で年月を費やしてしまう者など、さまざまあって東京大学入学の年齢は不揃いであった。13歳で藩からの給費生として官立学校で学び始めた者は若くして東京大学を卒業している。藩から推薦されて国が学費を負担するの給費生ということで貢進制度があったが、この制度は一年ほどで廃止された。

 貢進生として東京開成学校で学んでいた高野瀬宗則は、この制度が廃止されたために止む得ず私費にて学ぶことになる。私費がどのようにして工面されたのか高野瀬宗則以外の人々によっても語られていない。

4年間だけあった東京大学フランス語物理学科 卒業生は30名ほど

 東京大学フランス語物理学科が学生を受け入れたのは4年ほどの間である。東京大学フランス語物理学科の卒業生は30名足らず。高野瀬宗則は東京大学フランス語物理学科の第二期卒業生である。高野瀬宗則より4歳若い田中舘愛橘は東京大学物理学科に進んだ。米国人メンデンホール、英国人ユーイングは田中舘愛橘が入学したその学期に赴任した。日本人教授として理学部では菊地大麓が数学、山川健次郎が物理を担当した。メンデンホールは物理、ユーイングは数学を受け持った。開成学校から東京大学理学部に進んだのは4名であった。田中舘愛橘が学んだ東京大学理学部は外国人教師が英語で授業をした。東京大学フランス語物理学科の外国人教師もまたフランス語で授業をした。物理学ほか学問は外国の知識が圧倒していたから、外国人教師を招聘(しょうへい)してそれを学び取るということであった。したがってフランス人教師から物理学を学ぶためにはフランス語を理解していなければならなかった。米国人、英国人から物理学を学ぶためには英語がわからなければならなかった。この時代に東京大学フランス語物理学科があったのはそのような事情による。

高野瀬宗則は田中館愛橘の4歳年長 高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月生まれ。田中館愛橘は安政3年(1856年)9月の生れ

 高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月生まれ。田中館愛橘は安政3年(1856年)9月の生れである。高野瀬宗則は田中館愛橘の4歳年長。東京大学フランス語物理学科に学んだ高野瀬宗則は、農商務省権度課長の立場で日本に度量衡制度を敷いた。フランスはメートル法を提唱した国であり、高野瀬宗則が農商務省権度課長になったときにはすでに世界17カ国でメートル条約(1875年(明治8年)が締結され、日本に条約加盟の要請が出されいた。農商務省権度課長の任に東京大学フランス語物理学科を第二期生として明治13年(1880年)に卒業した高野瀬宗則が適任であった。農商務省は1886年(明治19年)4月に設立され、このとき度量衡事務が大蔵省から農商務省に移管された。移管と同時に権度課長に就任したのが高野瀬宗則である。

田中舘愛橘は物理学を大所高所から説くことができ物理実験にも通じていた

 グラスゴー大学のケルビン卿の助手を勤めて帰国した田中舘愛橘は物理学の心得を学び取った。大所高所から物理学を説くことができ、物理実験にも通じていた。日本各地の重力値の測定、地磁気の測定、濃尾大地震の見聞と根尾谷の大断層の発見といった仕事を随行の弟子とともにしている。

 高野瀬宗則と田中館愛橘は度量衡の仕事で交錯していく。1901年(明治34年)第3回国際度量衡総会には田中舘愛橘と高野瀬宗則の二人が揃って参加した。高野瀬宗則は物理学校(東京物理学校)の創設に高野瀬宗則は中心人物の一人として東京大学フランス語物理学科を卒業した20数名の人々とともにかかわる。計量行政の官吏を養成するために物理学校に度量衡科をつくったのは高野瀬宗則の要請による。官吏とともに度量衡器の製造にかかわる者の育成が目的にされた。物理学校に度量衡科は二年ほどで閉鎖される。高野瀬宗典は権度課長の仕事のあとで午後8時ころから物理学校で物理の熱学を教えた。二年間だけあった高野瀬宗則の要請でつくられた物理学校度量衡科を受け継ぐように1903年(明治36年)12月23日、中央度量衡器検定所を設立の勅令がだされ、前後して度量衡講習が始まった。度量衡官吏と度量衡器製造技術者の養成の教育が物理学校から農商務省に移った。

高野瀬宗則と田中館愛橘が学んだ東京大学物理学科の変遷

 明治の学制の変化は激しい。東京大学の組織の変動も同じである。徳川幕府時代の学校制度に間借りしていた高等教育は次第に明治の学制として整えられていく。以下に高野瀬宗則と田中館愛橘が学んだ東京大学物理学科の変遷である。

 明治18年9月に本郷富士見町の旧加賀屋敷に東京大学の理学部の校舎が新築された。神田一橋にあった理学部は本郷の新校舎に移転した。東京大学の法学部、文学部、理学部の3学部のうち法学部と文学部は前年に本郷に移っていた。理学部が移転したことで東京大学3学部が本郷に揃った。このときを転機に東京大学は一橋時代から本郷の赤門時代になる。

 東京大学と関係する教育組織に医学校があり、虎ノ門には工部大学校があった。医学校と工部大学校は明治19年3月に行われた大学の官制の変更によって東京大学の分科となった。これによって東京大学は5分科大学による帝国大学に変わった。明治15年7月に東京大学理学部を卒業した田中舘愛橘はその月に準助教授に、明治16年12月に助教授に任ぜられる。

高野瀬宗則は東京大学フランス語物理学科を明治13年に卒業して東京農林学校(駒場農学校)で物理学の教鞭を執っていた

 駒場にあった東京農林学校は明治23年6月に帝国大学の一分科である農科大学になった。高野瀬宗則は東京大学フランス語物理学科を明治13年に卒業して東京農林学校(駒場農学校)で物理学の教鞭を執っていた。東京大学フランス語物理学科はほどなくして廃止となる。ランス語物理学科を卒業した30名ほどの人々は理学教育と理学思想の普及の熱情を物理学校の設立に傾けていく。フランス語物理学科の第二期卒業生の高野瀬宗則はそのうちの重要人物として私立の物理学校の設立に取り組む。物理学校は後に東京物理学校に名前を変える。設立のための費用は30名ほどの人々の私費をもってまかなわれた。設立当初は入学者が少ないために運営に苦しんだ。

高野瀬宗則の要請によりは物理学校に度量衡官吏と度量衡器製造技術者を養成の度量衡科が設置される

 高野瀬宗則は1886年(明治19年)4月に農商務省の初代権度課長に就任した。高野瀬宗則は物理学校に度量衡官吏と度量衡器製造などの技術者を養成するために物理学校に短期修学年限の度量衡科の設置を求めて、これを実現させる。度量衡科は2年ほどで廃止になるが修了者のなかに日本の度量衡行政の実務の基礎を固める役割をした関菊治がいた。度量衡科は物理学校への入学者が少ないことによる運営経費不足を補うのに役立ったようだ。同じころ現在の東京工業大学の全身である工業学校への入学のための準備教育の学科をつくっていた。度量衡科と工業学校入学予備教育の二つの組織は運営費の不足に苦しんでいた物理学校の経営に資することになった。このころは運営費不足を補うために設立の同志たちに毎月のお金の支援を仰ぐ状態であった。

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メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏(計量の歴史物語 執筆 横田俊英)


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