明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その8-
Higher Education in the Meiji Era by The era in which Aikitsu Tanakadate lived Part 8
こんまい先生こと関菊治の物理学校度量衡科当時 明治28年の高等教育機関在学者数は0.3%
物理学校卒業者は明治37年春までの369名中、中学校長、教諭、教員、186名、師範学校教諭、教員17名 社会で厚遇された

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その8-
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計量計測のエッセー 
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その8-

東京物理学校の木造校舎の外観を復元した建物


東京物理学校は、1881年に東京府に設立された、私立の物理学校(旧制専門学校)である。略称は「物理学校」。現在の東京理科大学の前身である。1881年(明治14年)9月、寺尾寿ら東京大学理学部物理学科の初期の卒業生などにより私塾の「東京物理学講習所」として設立され、のち東京物理学校に改称、1917年以降は旧制専門学校に昇格した。物理学校には明治24年から二年間だけ度量衡科が置かれた。

(タイトル)

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その8-

(本文)

こんまい先生こと関菊治の物理学校度量衡科当時 明治28年の高等教育機関在学者数は0.3%

 「こんまい先生」こと関菊治は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。東京の物理学校は明治24年(1891年)9月、度量衡科を設置、物理学校度量衡科は明治26年(1893年)7月廃止。この2年。当時の学び舎は小川町校舎であった。

 高等教育就学者の統計がでてくるのは明治28年(1895年)からである。明治28年の当該年齢に占める高等教育機関への在学者数は0.3%であった。明治38年(1905年)は0.9%。大正4年(1915年)は1%。大正14年(1925年)は2.5%。昭和10年(1935年)は3.0%。昭和25年(1950年)は6.2%。昭和35年(1960年)は10.2%。昭和36年(1961年)は10.2%。高等教育機関の数は明治28年(1895年)63校、昭和37年(1962年)は565校。昭和37年ころは高等教育機関の60%を私立が占めていた。

 明治28年の全生産人口に占める高等教育機関への在学者数は0.1%であった。同じく中等教育機関は0.2%、初等教育機関は15.6%、不就学者は84.1%。昭和10年(1935年)は上に同じように1.6%、9.2%、82.1%、7.1%、。以上は文部省発表の資料による。

富国強兵と国民の初等教育機関機関への就学

 富国強兵のために国民の初等教育機関機関への就学が強く推し進められたことにより明治28年の全生産人口に占める不就学率84.1%が、昭和10年(1935年)には7.1%にまで減っている。規律と読み書きソロバンの初歩ができていなければ兵士として鍛え上げることができないからだ。大正14年(1925年)には20.0%まで不就学率が減っている。国を挙げて初等教育の普及につとめた。

開校当初物理学校の卒業生の数

 明治18年~25年7月までの卒業生の数。数字は東京理科大学50年小史による。
明治18年      1名
明治19年      1名
明治20年7月    6名
明治21年7月    4名
明治22年2月    9名
明治22年7月   11名
明治23年2月    9名
明治23年7月    8名
明治24年2月   10名
明治24年7月   19名
明治25年2月   10名
明治25年7月   22名

第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり

 明治22年2月明治、9月それぞれの第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり。各学期の生徒数は、落第した生徒数を含むから下から進級した生徒数はさらに少ない。

明治22年2月1学期309名
明治22年9月2学期49名
明治23年2月3学期30名
明治23年9月4学期14名

物理学校 明治24年2月 滞ることな卒業した者は3.2%

 明治24年2月に卒業したものは10名、明治22年2月に入学、明治24年2月に滞ることな卒業した者は3.2パーセントに過ぎない。
                                        
明治22年9月1学期311名
明治23年2月2学期67名
明治23年9月3学期31名
明治24年2月4学期21名

「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明治39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」

  明治24年7月に卒業したものは19名、明治22年9月に入学、滞ることなく明治24年7月に卒業した者は6パーセンに過ぎない。卒業生の中には何回か落第を繰り返し卒業した者もいる。落第なしに物理学校を卒業できる者は何人もいななかった。

  明治20年12月、規則改正に際し落第について「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明治39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と明記された。しかし、実際には大分、事情が考慮されていたようである。しかし、物理学校を卒業した者の数より、その数をはるかに勝る数の生徒が学校を離れていった。

物理学校卒業者は明治37年春までの369名中、中学校長、教諭、教員、186名、師範学校教諭、教員17名 社会で厚遇された

 物理学校を卒業するのは難しかった。明治23年卒業生4名が高等師範の卒業生に伍して月俸30円~35円で中学校、師範学校へ招聘されている。明治33年~37年頃の公務員と銀行員の初任給は、東京市内の小学校の教員、警視庁の巡査で10~13円、帝国大学卒の銀行員で35円であったから35円は待遇である。「坊ちゃん」は物理学校を卒業しただけの無資格教員でありながら月給40円で松山へ赴任している。東京物理学校校長中村精男は創立25周年記念式の挨拶で明治20年より明治37年春までの卒業生369名中、中学校長、教諭、教員、186名、師範学校教諭、教員17名と中学教員が半数以上を占めていることを述べている。

2023-06-14-higher-education-in-the-meiji-era-by-in-which-aikitsu-tanakadate-lived-part-8-


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