数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様
数を表記する土版と数を示す土版。1から5までがある。
縄文人も弥生人も今の日本人と直接につながっているホモサピエンスである。中国渡来の人、韓国渡来の人、南方渡来のひとなどもあり、弥生人は朝鮮半島経由で渡来していて、その後に縄文人と融合した。古墳時代以降も朝鮮半島経由で人が渡来している。縄文人は今の日本人と変わらない。学校に行って学んで進むと最高学府で勉学と研究をすることができる。そのような人なのである。
縄文遺跡である秋田県鹿角市の大湯環状列石遺跡から数を示す土版がみつかっている。タブレットとはメソポタミアで陶板を示すものであり、大湯環状列石遺跡から出土の数を示す土版は現在のタブレット端末より一回り小さいスマートフォンほどの大きさである。壊れにくくするために厚みはある。
大湯環状列石遺跡から出土の数を示す土版には1、2、3、4、5を示す穴があけてある。その配置は見事といってよい。形状は人の顔と身体に似せている。1が口で2が目と思われる。
数を数えるのに土に線を引いてもよい。数にあわせて石をならべてもよい。紐(ひも)に結び目をつけてもよい。腐るものは残りにくい。刻んだ月日の移行を示す骨が残されている。夏至と冬至などを知っていることを示すのが英国におけるストーンヘッジである。
大湯環状列石遺跡から出土のタブレット状の土版には1、2、3、4、5を示す穴があけてある。この数字を示す穴を使って足し算や掛け算をしたことであろう。頭の中に思い描くよりも土版の数字を使えば計算がしやすい。
長さの基準となるモノサシを使って倍数を刻むことが三内丸山遺跡の遺構から確認されている。モノサシは35㎝であった。目盛りを刻んであったかどうかは別だが目盛りを刻むことはたやすい。巨大建築物の柱の間隔は4.2mになっている。柱を埋めるための穴は幅と深さが2mである。統一したようにそのようになっている。
数を示す土版は大人の計算機であったろうが、子どもに数と計算を教える道具であり教科書であったことが想定される。
人の脳の働きは円や三角形を描くものらしい。エジプトのピラミッドと南米大陸の神殿がにているのはここからきていると説く人がいる。この説は有力である。大湯環状列石遺跡ちかくの三角形の山は信仰の対象にされた痕跡がある。
現代の人と何ら変わらない縄文人は大湯環状列石遺跡や三内丸山遺跡で1500年もの長期にわたり定住していた。数を示す土版は大湯環状列石遺跡に暮らす人々の数値への認識を示し縄文人が数の概念を持っていたことが明確に示すた。(この項目の執筆は日本計量新報編集部)
取材先と参考資料
大湯ストーンサークル館
大湯環状列石とは
どばんくん(土版君)とは
かづの縄文の風協議会
鹿角市役所
三内丸山遺跡の概要
三内丸山遺跡
夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人
(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)
青森市にある三内丸山遺跡の全景。
青森市にある三内丸山遺跡にある大きな建物のなかの様子。
建物は35㎝を長さの単位として構築されていたことを示す図。
縄を肘に巻いていくとおおよそ35㎝の長さになる。これを単位とした。
大湯環状列石遺跡から出土の土版の二つ穴が2を示す。
足したり掛けたりの算数ができていたのではないか。
大湯環状列石遺跡から出土した数を示す土版。
数を示す土版。石を並べても数になる。ここでは穴を掘っている。
三内丸山遺跡の概要
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。平成12年11月には国特別史跡に指定されました。
三内丸山遺跡
(以下は2018年2月2日時点におけるウッキベディアによる三内丸山遺跡の説明です。)
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。
遺跡保存の経緯[編集]
この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されている。
本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本検出され、大型建物の跡とも考えられた。これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。
その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。
遺跡の概要[編集]
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居・墓・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。
この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。
遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。
平成6年(1994年)9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。
それらは縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡[編集]
熊沢遺跡
三内遺跡
三内沢部遺跡
三内霊園遺跡
近野遺跡
安田水天宮遺跡
遺跡の終焉の謎[編集]
これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。
出土遺物[編集]
出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている。
三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ・イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができる。背景には巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられている。
遺構[編集]
六本柱建物跡[編集]
現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものである。その柱の大きさで評価されることも多いが、それとともに注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることである。これはその当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものである。
特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」ともいうべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる。
さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずであり、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいたことも推測できる。
また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぐことのできた一因となっている。
復元建物[編集]
六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された。建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出された。
考証と施工は小山修三の監修の下、大林組のプロジェクトチームが行ったが、結局、中間を取って屋根のない3層構造の建物になった。しかし床があるのに屋根がない、もしくは床がないのに屋根があるというのは中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる要因となっている。[要出典]なお、普段はここに登ることはできない。
大型竪穴式住居跡[編集]
三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されている。内部の見学がでじる。
竪穴式住居跡[編集]
三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されている。屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元した。これも内部見学が可能である。
掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)[編集]
東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が検出されている。この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されている。階段があり、かつては内部を見学できたが、2001年9月27日に放火事件があった影響で、現在は立ち入りはできず、外部からのみとなっている。
環状配石墓[編集]
道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も検出されている。この墓はムラ長の墓とも考えられている。石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通しているとして注目されている。また、1999年10月6日にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡であるとも言われる。
遺跡整備の方針[編集]
1998年に遺跡整備の基本計画が取りまとめられ、遺跡整備の基本方針として以下の点が掲げられた。
保存を検討しながら実物遺構を公開展示する。
建物の復元だけでなく、植生も復元する。
縄文時代を体験・体感できるような企画性に富んだ遺跡の活用をする。
見学者が憩い楽しめるような環境作りと、充実した各種サービスを提供できる場とする。
継続的な調査・研究を行い、縄文文化研究の拠点となる施設と体制を整備する。
保存・活用の計画を段階的に推進する。
「観光施設」としての遺跡[編集]
近年、三内丸山遺跡は「縄文時遊館」などの建設などで設備が整った。しかしその一方、遺跡の整備は進んだが、公園化されてしまって、遺跡としての感じが薄れてしまったという意見もある。有料化構想が出た際は「六本柱の横に白いドームがある状態など、とても縄文のたたずまいとは言えない」として反対論が噴出したりもした。結局有料化は断念となった。
東北新幹線の「三内丸山高架橋」が敷地に隣接しており、2010年12月4日の開業後は車内から遺跡を見渡せるようになった。橋の設計に当たっては景観を損なわないよう配慮された。
2018年を目標に縄文センターが建設される予定。
年間イベント[編集](すでに終わっており参考として掲載)
縄文春祭り:平成26年5月3日~5月6日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文夏祭り:平成26年8月9日・10日、8月16日・17日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文秋祭り:平成26年10月25日・26日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文冬祭り:平成29年2月11日・12日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
アクセス[編集]
東北自動車道青森ICもしくは青森自動車道青森中央ICから国道7号青森環状道路経由で青森市道都市計画道路3・4・15号里見丸山線に入ってすぐ。
東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)新青森駅からあおもりシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で終点「三内丸山遺跡前」バス停下車。
JR東日本・青い森鉄道青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡線で「三内丸山遺跡」バス停下車。
参考文献[編集]
赤田光男 『ウサギの日本文化史』 世界思想社〈SEKAISHISO SEMINAR〉、1997年3月20日 発行、初版。ISBN 978-4790706458。
脚注[編集]
齋藤隆一「三内丸山遺跡と「和田家文書」」 安本美典・三上喜孝編集『季刊 邪馬台国』第56号 梓書院 1995年 P.196~205
村越潔「青森県の黎明」16-17ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月)
自壊する考古学・成長しない集落論 佐々木藤雄
中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)
『ウサギの日本文化史』(p298)より。
村越潔「青森県の黎明」16ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月
三内丸山遺跡 県が有料化構想/賛成、反対…検討懇話会で議論百出 東奥日報
完成工事レポート:東北新幹線 三内丸山架道橋 錢高組
懸案の「縄文センター」誕生へ
《新幹線開業対策事業》 平成22年度当初予算(案)の概要 (PDF) - 青森市ホームページ(3ページ目の「新青森駅周辺の道路網の整備」に路線名の記載あり)
関連項目[編集]
縄文時代の遺跡一覧
日本の特別史跡一覧
北海道・東北の史跡一覧
北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群
小牧野遺跡
亀ヶ岡石器時代遺跡
青森県立美術館
青森県の観光地
美しい日本の歩きたくなるみち500選
梵珠山 - 青森県の県民の森、西方向、約10km
夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人
(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)
数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様
三内丸山遺跡
数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様
数を記録した土器(土版)出土。「縄文時代の文明」(ユーチューブ・動画)
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