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計量計測データバンク ニュースの窓-377-
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計量計測データバンク ニュースの窓-377-
明治初年 日本の山には木が生えていなかった、軽井沢は浅間噴火ではげ山だった


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計量計測データバンク ニュースの窓-377-明治初年 日本の山には木が生えていなかった、軽井沢は浅間噴火ではげ山だった

夢の暮らしの山荘を受け継ぐ人のこと-2026年03月07日(土)の日記-森夏之

明治初年 日本の山には木が生えていなかった、軽井沢は浅間噴火ではげ山だった


軽井沢、樹木ない時代 浅間山の噴火と薪のための木の伐採

明治期の治山事業について:林野庁
日本の森林荒廃の歴史
日本の森林は、薪炭材や建築用材等の生活に必要な資源として古来より利用されてきました。しかし、需要量の増大とともに伐採量が増えたことで、江戸時代にはかなり劣化・荒廃が進み、さらに明治期に入ると、急激な人口の増加や産業の発達などから荒廃はいっそう進行しました。それらの荒廃は、資源の枯渇や災害の頻発などの深刻な事態を招きました。そういった経緯があり、今では保安林制度や治山事業などを通じて適切に維持されるようになったのです。

加賀海岸国有林の海岸防災林造成事業(明治44年~)
石川県加賀市の加賀海岸では、明治時代には暴風による飛砂被害が深刻化していました。そこで、明治44年に石川県知事の要請を受け、国による海岸砂防事業として森林の造成が開始され、飛砂、潮風害で困難を極める中、14年の歳月をかけて、291ha、林帯幅約0.6km、延長約3.0kmの林帯が整備され、今日まで飛砂害などから人々の暮らしを守っています。

現在の成林状況(平成24年)(資料提供:近畿中国森林管理局)


工事着手前の荒廃状況(明治43年)

石川県加賀市の加賀海岸では、明治時代には暴風による飛砂被害が深刻化していた。明治44年に石川県知事の要請を受け、国による海岸砂防事業として森林の造成が開始され、飛砂、潮風害で困難を極める中、14年の歳月をかけて、291ha、林帯幅約0.6km、延長約3.0kmの林帯が整備され、今日まで飛砂害などから人々の暮らしを守っている。

はげ山化し無立木地状態の笠取山付近(大正11年) 東京都の水道水源林(明治34年~)

 多摩川上流域一帯の森林は、東京近郊の人々にとって重要な水の供給地です。しかし、明治期には山火事や自然災害の発生などによる森林の荒廃、人口の急増などにより水資源の不足が懸念されていました。そこで当時の東京府は、明治34年より多摩川上流域の山梨県下および府下の御料林を譲り受けるとともに、森林の積極的な買い入れを行い、府自らが管理主体となって水源林の育成に努めました。その結果、豊かな森林を再生させ、水源を守ることに成功したのです。

はげ山化し無立木地状態の笠取山付近(大正11年)(資料提供:東京都水道歴史館)

笠取山(かさとりやま)は、山梨県と埼玉県の県境に位置する標高1,953mの山で、多摩川の源流点として知られる日本二百名山・山梨百名山です。作場平(さくばだいら)を起点とした登山が一般的で、山頂周辺の「水干(みずひ)」や展望の良さが魅力。



瀬戸のはげ山復旧と萩御殿 明治34年 萩御殿付近

瀬戸のはげ山復旧と萩御殿 明治34年 萩御殿付近

明治34年 萩御殿付近


施工状況(昭和中期)

三大はげ山県の一つとして数えられるほど荒廃していた愛知県の尾張丘陵地の復旧のため、明治33年以降積苗工等による大規模なはげ山復旧工事が実施された。この工事には関係者等の見学が相次いだ。明治43年には皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓、見学者用に建てられていた萩の茶屋からはげ山復旧工事をご覧に。萩の茶屋は萩御殿と呼ばれるようになり、瀬戸市萩殿町という地名の由来ともなっている。第二次世界大戦の戦中戦後の混乱期に再び荒廃した森林に対して、昭和22年から昭和44年にかけて、改めてはげ山復旧工事が実施された。現在でも瀬戸市南公園において、当時の工事跡や復元した萩御殿を見学でき、歴史に触れることができる。


明治初年 日本の山には木が生えていなかった、軽井沢は浅間噴火ではげ山だった

明治初年 日本の山には木が生えていなかった

「明治初年の日本の山には木が生えていなかった」という話は、日本の多くの地域、特に都市近郊や燃料需要の高い地域においては事実です。
当時の日本は「はげ山」だらけであり、現在のような緑豊かな風景は明治以降の政策によって作られたものです。その理由と背景は以下の通りです。
1. なぜ木がなくなったのか(森林荒廃の背景)
江戸時代から明治初期にかけて、急速な人口増加と経済発展により、森林資源が過剰に消費されました。
燃料としての大量消費: 当時は薪や炭が主要なエネルギー源であり、農村の周辺や都市近郊の山々で木が伐採され続けました。
農業・生活資材としての利用: 農業用の肥料(下草、枝葉)として山が利用され、地力が低下しました。
乱伐と管理不足:江戸幕府の保護林を除き、多くの山で計画的な伐採が行われず、木が回復する前に切られていました。
2. 「はげ山」の惨状(明治初期)
明治初年、山林の多くは土壌が露出した「はげ山(禿山)」や、低木や草しか生えていない状態でした。
各地の状況:六甲山(兵庫)や愛知県瀬戸市・岐阜県多治見市などの庄内川流域は、広大かつ荒れ果てた「はげ山」として知られていました。
災害の頻発:木がなくなって土壌を支えられなくなった山は、大雨で削り取られ、土石流や洪水などの大きな災害を招いていました。
3. 明治政府の対応と緑化
この状況を深刻に受け止めた明治政府は、治山・砂防工事を強力に進めました。
森林政策の転換:乱伐を防ぐため、森林の国有化や保護林の整備を行いました。
植林の推進: 明治中期以降、治山事業としてアカマツなどの植林が積極的に行われ、禿山は徐々に緑を取り戻していきました。
結論
現在の日本の山々が緑豊かなのは、明治以降に国を挙げて植林した「人工林」の割合が高いためです。明治初年は、日本各地に「はげ山」が存在し、深刻な環境破壊が起きていた時代でした。

明治初年の日本の山々は、江戸時代からの過剰な伐採により、多くの場所が「はげ山」(樹木のほとんどない状態)となっていました。
特に人里に近い山々(里山)では、燃料や肥料の確保、建築用材としての利用が限界を超えて行われており、深刻な森林荒廃が起きていました。
明治初年に木が少なかった理由
江戸時代から明治初期にかけて、日本の森林が荒廃していた主な原因は以下の通りです。
エネルギー源としての利用:石炭や石油が普及する前、調理や暖房のための燃料はすべて薪や炭に頼っていました。
農業への利用:田畑の肥料として山から草や若葉を刈り取る「刈敷(かりしき)」が広く行われており、樹木が育つ前に資源が収奪されていました。
産業による大量消費:陶磁器を焼くための燃料や、都市部での大規模な建築需要(江戸の火事のあとの再建など)により、広大な面積の木々が伐採されました。
管理の空白: 明治維新による混乱期には、江戸時代の厳格な森林管理体制が一時的に崩れ、各地で乱伐が横行しました。
森林の再生と近代化
明治政府は、この荒廃した山々が原因で頻発する洪水などの土砂災害に対処するため、近代的な森林政策を打ち出しました。
砂防・治山事業の開始:1897年(明治30年)に森林法や砂防法が公布され、国を挙げた植林や土砂流出防止の工事が始まりました。
はげ山の復旧:愛知県の庄内川流域や兵庫県の六甲山など、特に被害の激しかった「日本三大はげ山地帯」などで積極的な緑化が進められました。
人工林の造成:明治初期からスギやヒノキの植林が本格化し、現在の豊かな森林景観へとつながる基礎が築かれました。
現在、日本の森林蓄積量は戦後の「拡大造林政策」も相まって、明治期とは比較にならないほど豊かになっています。


明治初年 軽井沢の山には木が生えていなかった

明治初年の軽井沢は、1783年の浅間山大噴火による溶岩と火山灰の影響で、木々がほとんどない広大な「草原(焼け野原)」が広がっていました。現在の豊かな森とは異なり、遮るものがなく、見晴らしが良かったと言われています。
原因:1783年(天明3年)の浅間山大噴火。大量の溶岩と火砕流により、麓の森林が焼滅した。
当時の様子:100年ほど経った明治初期でも、依然として草地がメインで、木々は疎らな状態だった。
変化:その後、植生が回復し、現在のリゾート地として知られる森に包まれた景色へと徐々に変化していった。
この景色は、後の外国人避暑地としての再発見(1886年のショー氏訪問)に至る、初期の「何もない」広々とした環境として知られています。

明治初年の軽井沢周辺の山々には、現在のような豊かな森林はなく、多くの場所が「禿山(はげやま)」や「原野」に近い状態でした。
これには、浅間山の噴火による自然環境の影響と、人間による資源利用という2つの大きな理由があります。
1. 浅間山の大噴火による影響
1783年(天明3年)に起こった浅間山の大噴火は、軽井沢一帯に大量の軽石や火山灰を降らせ、周囲の植生を壊滅させました。
土壌の問題: 降り積もった軽石層は水はけが良すぎて乾燥しやすく、植物が育ちにくい不毛の地となりました。
回復の遅れ:明治初年(1860年代後半〜)の時点では、噴火から100年ほどしか経過しておらず、自然の力だけでは十分な森林へと回復していませんでした。
2. 燃料や肥料としての過剰な伐採
江戸時代から明治にかけて、軽井沢は中山道の宿場町として栄えていました。当時の生活において、山林は重要な資源供給源でした。
生活燃料:煮炊きや暖房のための薪(まき)として、木々が日常的に伐採されていました。
農業用肥料:田畑に敷く「草」や「落葉」を確保するため、山は定期的に刈り取られ、大きな木が育たない環境になっていました。
3. 現在の景観を作った「カラマツの植林」
現在、軽井沢の象徴となっている美しい森林景観は、明治中期以降の人工的な植林によって作られたものです。
カラマツの採用:荒れ地でも育ちやすい「カラマツ」が選ばれ、大規模な植林事業が行われました。
別荘地としての整備:1886年(明治19年)にアレキサンダー・クロフト・ショーが訪れて以降、避暑地としての開発が進む中で、意図的に緑豊かな環境が整えられていきました。
明治初年の軽井沢は、現代の私たちがイメージする「緑豊かな高原」とは異なり、浅間山を背景にした広大な芒(すすき)の原野が広がる風景だったと考えられています。


明治初年 八ヶ岳には木が生えていなかった

明治初年の八ヶ岳が「木が生えていなかった(ハゲ山だった)」という説は、広範囲な森林破壊(乱伐)と山火事による影響で、当時の山麓や一部の山肌が殺風景な景観を呈していたことを指している可能性が高いです。
現在の豊かな八ヶ岳の森は、明治の終わりから大正・昭和にかけて、主に山梨県側での恩賜林(恩賜県有財産)としての保全や、その後の大規模な植林事業によって復活したものです。
詳細は以下の通りです。
1. 明治初年の状況:森林減少の背景
明治維新前後から明治初期にかけて、日本各地で山林がハゲ山化する現象が見られました。八ヶ岳周辺も例外ではなく、以下の理由で木々が失われていました。
乱伐と薪炭材の採取: 江戸時代から続く生活燃料(薪、炭)や建築材としての過剰な伐採。
入会(いりあい)地の管理荒廃: 明治政府の政策による所有権の混乱や、村々の入会権の争いの中で持続的な森林管理ができなくなったこと。
山火事:開発や地形的要因(乾燥)による山火事が多発し、樹木の再生が追いつかなかった。
2. 八ヶ岳における森林の回復(恩賜林の歴史)
明治時代末期、山梨県では特に大水害が相次ぎ、ハゲ山からの土砂流出が深刻な問題となりました。
明治44年(1911年)の恩賜林拝領: 明治天皇はこれに心を痛め、山梨県の御料地(宮内省所管)の大部分を県に無償で払い下げました(恩賜県有財産)。
植林と保全の推進:この「恩賜林」を基に、大規模な治山・造林事業が行われ、現在の八ヶ岳南麓の豊かな森林が形成されました。
3. 歴史的背景と現在の植生
縄文時代~中世:縄文文化が栄えたように、かつては植生が豊かであった。
近代の荒廃:明治初年は、長年の人為的な開発と管理不足で樹木が極端に少ない時期があった。
現代: 現在はシラビソ、コメツガ、落葉広葉樹など、多様な森が広がっている。
つまり、「明治初年に木が生えていなかった」のは、完全に木が一本も無かったわけではなく、広大な範囲で森林が伐採され尽くし、ハゲ山(荒れ地)が広がっていたという当時の社会的・環境的状況を強調した表現と言えます。

明治初年の八ヶ岳周辺において「木が生えていなかった」という説は、当時の「里山」の状況を指している可能性が高いです。
現在の鬱蒼とした森林とは異なり、当時の山麓は人々の生活(燃料としての薪や肥料としての草の採取)によって「はげ山」に近い状態であった場所が多くありました。
1. 当時の状況:はげ山と草原
明治時代初期までの日本の里山や入会地(共有地)は、現在よりもはるかに過酷に利用されていました。
薪炭林としての利用:調理や暖房のための燃料として、手近な木はことごとく伐採されていました。
茅場(かやば)と放牧: 肥料にするための草(刈敷)や、屋根を葺くためのカヤを確保するため、定期的に「火入れ(山焼き)」が行われていました。これにより樹木の成長が阻害され、広い範囲が草原(原野)になっていました。
八ヶ岳の様相:特に八ヶ岳の裾野(現在の富士見町、原村、茅野市、小淵沢付近など)は、広大なカヤ場や放牧地として利用されていたため、現在のような「森」ではなく、見渡す限りの草原が広がっていたと伝えられています。
2. 明治以降の変化
明治時代から昭和にかけて、エネルギー革命(石炭・石油への移行)や化学肥料の普及により、山から薪や草を取る必要がなくなりました。
植林の推進:明治以降、国策としてカラマツやスギなどの植林が進められました。
自然遷移:人の手が入らなくなった草原には次第に灌木や樹木が生い茂り、現在の豊かな森林へと姿を変えていきました。
3. 補足:高山帯の状況
一方で、人が立ち入るのが困難な高い標高(亜高山帯など)には、古くからの原生林(シラビソ、コメツガなど)が残っていました。そのため、「八ヶ岳全体に木がなかった」わけではなく、「人里に近い山麓や中腹が、人為的に開けた草原状態だった」というのが正確な歴史的背景です。
当時の風景を詳しく知りたい場合は、当時の古写真や、明治政府による地租改正に伴う土地調査記録などを調べると、草原が広がっていた具体的な範囲が分かります。


明治初年 蓼科高原には木が生えていなかった

明治初年の蓼科高原周辺(特に八ヶ岳の山麓一帯)は、現在の豊かな森林風景とは異なり、木があまり生えていない、または草原や禿山に近い状態であったという説は、地域の歴史的背景から見ても可能性が高いです。
その理由は以下の通りです。
燃料や肥料としての伐採(入会地)
江戸時代から明治にかけて、この地域の森林は周辺住民の「入会地(いりあいち)」として利用されていました。薪(燃料)や、田畑の肥料(草木灰や堆肥)にするための刈り取りが頻繁に行われていたため、山は木々が育ちにくい状況でした。
植生の変化と管理
現在の蓼科の森林の多くは、明治以降に組織的に植林されたものや、管理が放棄されて自然に遷移(森に戻る)したものです。明治初期は、山に人が頻繁に入り、手入れ(刈り取り)がされていたため、大木が少なく、草原やアカマツ林の明るい風景が広がっていたと考えられています。
周辺地域の歴史的な景色
近隣の高原や里山も、明治期は燃料資源確保のため、慢性的に樹木が少ない(または若木ばかりの)環境でした。
現在のような「避暑地の深い森」は、主に大正から昭和にかけての保養地開発や、その後の自然環境の回復によって形作られたものといえます。

明治初年の蓼科高原(たてしなこうげん)が「木が生えていなかった」という説は、当時の歴史的背景から見れば、広大な「禿山(はげやま)」あるいは「採草地(草原)」が広がっていた状態を指していると考えられます。
当時の状況やその後の変化については、以下の通りです。
1. 明治初年の状況:広大な草原とハゲ山
江戸時代から明治初期にかけて、蓼科山を含む八ヶ岳麓の斜面は、周辺農村にとって不可欠な「採草地(かや場)」として利用されてきました。
生活基盤としての利用:肥料(緑肥)や家畜の餌、屋根を葺くための「茅(かや)」を確保するため、定期的に火を入れ(野焼き)、樹木の侵入を防いで草原状態を維持していました。
燃料需要:また、近隣の製糸業の発展や生活燃料として樹木が過度に伐採され、現代のような深い森林ではなく、見通しの良い「ハゲ山」に近い景観が広がっていた場所も多くありました。
2. 景観の変化:大正・昭和の植林事業
現在のような緑豊かな蓼科高原の景観は、明治後半から昭和にかけて行われた大規模な植林によって形成されました。
官民を挙げた造林:明治以降、行政主導でカラマツなどの造林・営林が進められました。特に大正時代には、荒廃した山林の復旧や木材生産を目的とした植樹が加速しました。
白樺の広がり:蓼科の象徴である「白樺(シラカバ)」も、元々は火災後などの明るい裸地に真っ先に生える「先駆樹種(パイオニア植物)」です。かつて山が荒れていた、あるいは草原であったからこそ、現在のような美しい白樺林が育つ土壌が整ったという側面もあります。
3. リゾート開発と森林化
大正から昭和にかけて、蓼科は避暑地・別荘地として開発され始めました。開発とともに森林の保護や庭園造りが進み、かつての剥き出しの斜面は、現在の高原リゾートらしい豊かな森へと姿を変えていきました。
明治期の蓼科を訪れた人々が残した記録(「中山道旅行記」など)には、現在とは異なり遠くまで見渡せる雄大な山の姿が描写されていることがあります。


江戸期の薪事情と山林の状態

江戸時代(17〜19世紀)は、人口増加と都市(特に江戸)の発展により、燃料としての薪(まき)や炭の需要が極限まで高まった時代でした。その結果、全国的な山林の荒廃と、それに対応するための林業技術(植林・管理)が発達した「森林の危機と再生」の時代でもありました。
1. 江戸期の薪事情
極めて高い需要:薪は調理や暖房、入浴用の燃料として、江戸などの都市部で「消費の主役」でした。また、江戸は木造の町であり、大火が多発したため、その復興資材や燃料需要がさらに拍車をかけました。
「山売り」と運搬:薪は主に周囲の農村から供給されました。特に水路が発達していたため、近郊の山から川や海を使って「薪炭(しんたん)船」で運ばれました。18世紀半ばには炭焼きも盛んになりました。
貴重な商品:薪は重要な商品であり、価格変動が人々の生活を直撃しました。薪炭は江戸の町人の生活必需品であり、その流通が都市を支えていました。
日常の「柴刈り」:農村地域では、山に入って枯れ枝や雑木(柴)を刈り取ることが、薪や肥料(刈敷)としての日々の生活作業でした。
2. 山林の状態
前期〜中期の荒廃(禿げ山):建築資材、薪炭燃料、新田開発のための乱伐により、1710年頃までには本州、四国、九州のほぼ全域で、技術的に伐採可能な森林の大半が失われたとされています。
燃料不足と薪炭林の利用:木材が不足したため、良質なヒノキ類だけでなく、燃えやすい雑木林(薪炭林)が過剰に伐採されました。このため、各地で山林の「はげ山」化が進みました。
山論(山争い)の多発:薪燃料が不足したため、村同士の入会地(共同利用の山)や山林の権利を巡る争い(山論)が多発しました。
3. 山林の再生と管理
幕府・藩による「林政」:山林の荒廃を受けて、幕府や各藩は植林を強制し、管理を強化しました。特に18世紀以降、人工的な森林「御林(おはやし)」が造られました。
林業技術の発達:杉、ヒノキ、サワラ、唐松などの植林が進みました。江戸時代後期には、農村でも個人の植林が行われるようになりました。
「里山」の循環:燃料や肥料を効率よく利用し、再生産できる「里山」の管理が定着し、山林を荒廃させない、持続可能な利用が試みられるようになりました。
江戸時代の薪事情と山林の状況は、過度な資源利用が引き起こした「禿げ山」の危機と、その後の植林・資源管理への転換という、現代にも通じる森林保全の歴史を物語っています。

江戸時代の薪事情は、都市部での膨大な需要と農村部での自給自足という二極化が進む一方で、山林は前期の乱伐による「禿げ山」化を経て、中期以降に厳格な資源管理と植林へと転換していく過程にありました。
江戸という巨大都市を支えるバイオマスエネルギーの供給体制と、それによって変貌した日本の山林の状態について、以下の3つの視点から解説します。
1. 都市と農村の薪事情
江戸のような大都市では、炊事や暖房のために膨大な薪炭(しんたん)が消費されました。これらは商品として流通し、周辺の農村や遠方の産地から供給されていました。
都市部のエネルギー需要:
江戸の住民は、薪や炭を市場で購入して生活していました。江戸末期の奈良町の例では、1軒あたりの薪炭消費額が銀206分に達したとの記録があり、都市生活の維持には多額の燃料代が必要でした。
農村の自給自足と「柴刈り」:農村では、共同利用地である入会山(いりあいやま)で「柴(しば)」を刈り、燃料や肥料(刈敷)として利用していました。これは農家にとって死活問題であり、入会地を巡る村同士の紛争も頻発しました。
物流の発達:江戸へは、武蔵野などの近郊農村から薪が運ばれるだけでなく、海路を通じて遠方の産地からも炭や薪が供給され、幕府は価格の安定を重要な政策としていました。
2. 山林の荒廃と「禿げ山」の発生
江戸時代前期は、城郭や寺院の建設、都市の拡大、火災による復興需要が重なり、森林の乱伐が極限に達しました。
「禿げ山」の急増:1710年頃までには、本州、四国、九州の多くの山々で、当時の技術で伐採可能な樹木の多くが消失したとされています。
環境への影響:山林の保水力が失われたことで、河川の氾濫や土砂崩れ、台風による被害が激化しました。
原因:薪炭の採取だけでなく、大規模建築用の材木需要や、新田開発に伴う動物対策(鉄砲の使用や開墾)なども山林への負荷となりました。
3. 林政による資源管理と再生
森林資源の枯渇に危機感を抱いた幕府や諸藩は、江戸中期以降、厳しい規制と積極的な植林政策を導入しました。
伐採規制(留山・巣山):特定の樹種(ヒノキ、スギなど)の伐採を禁じる「停止木(ちょうじぼく)」制度や、入山を制限する「留山(とめやま)」が設定されました。
植林の始まり:天然林の不足を補うため、藩や幕府、さらには百姓による植林が奨励されました。例えば、信州の松代藩では76年間で約4万7000本を植樹した記録があります。
「五木を残し、雑木を伐れ」: 尾張藩の木曽山林などでは、高級材であるヒノキ(木曽五木)を守る一方で、住民に雑木の伐採を許可することで、結果的に森の整理(間伐)が進み、美しい人工林が形成されることになりました。
江戸時代の後半には、こうした高度な森林管理システムが確立され、人口が増加しても持続可能なバイオマス利用が維持されるようになりました。


石油、ガスがない時代の燃料事情

石油やガス、電力などが普及する以前(おおよそ産業革命前や日本では明治中期頃まで)の燃料事情は、自然界に存在するエネルギーを直接利用する「薪・炭・水・風」が中心でした。生活の基盤は、里山から得られる薪炭(しんたん)に依存していました。
主な燃料と生活事情は以下の通りです。
1. 主な熱源(暖房・調理・工業)
薪(まき):調理や暖房の最も基本的な燃料。囲炉裏、かまどで使用。
木炭(炭):火持ちが良く、煙が少ないため、室内用の囲炉裏や火鉢、茶の湯などで高級な熱源として利用された。
炭・灰:練炭や豆炭が登場する前は、炭の残り火を灰で覆って消火を防ぐ「埋み火(うずみび)」技術が発達した。
農業廃棄物・枯れ枝:農村部では、薪に加えて落葉、枯れ枝、わらなどもかまどで燃やしていた。
2. 照明用の燃料
電気がない時代の夜は、動植物性の油が灯火として使われました。
菜種油・魚油(魚の脂): 行灯(あんどん)の燃料。煙や匂いがあり、高価だった。
ロウソク:蜜蝋(みつろう)や植物性の漆(うるし)から作られた。主に神社仏閣や富裕層で使用。
松明(たいまつ): 松の脂の多い部分を燃やし、屋外や作業用の明かりに使用。
3. 生活と燃料の結びつき
「里山」の維持:燃料は購入するものではなく、周囲の森から採ってくる(採草・薪拾い)ものであり、里山の管理は燃料確保と直結していた。
移動・生活:暖房は部屋全体を温めるのではなく、囲炉裏や火鉢の周りだけを温める「局所暖房」が基本。
食事:かまどでの調理は、毎食ごとの火起こしが前提だった。
4. 産業・動力を動かすエネルギー
水力・風力:水車や風車を利用して穀物を精米したり、粉にしたりした。
畜力:牛や馬を使って農作業の動力や運搬に利用。
石油・ガスがない時代は、人々は自然の循環の中で得られる燃料を最大限に工夫し、火を絶やさない生活を送っていました。

石油やガスが普及する以前(主に産業革命前や19世紀半ばまで)は、「生物由来のエネルギー」と「自然エネルギー」が生活のすべてを支えていました。
主な燃料事情は以下の通りです。
1. 暖房・調理の主役:薪(たきぎ)と木炭
長い間、人類のメイン燃料は木材でした。
薪:農村部や一般家庭で広く使われましたが、煙が多く火力が安定しないのが欠点でした。
木炭:木を蒸し焼きにしたもので、煙が少なく火力が強いため、都市部や鍛冶などの工業、高級な暖房用として重宝されました。
2. 明かり(照明):動植物の油
電球がない時代、夜の明かりは非常に貴重でした。
植物油: 菜種油(日本で一般的)やオリーブオイル。
動物脂: 獣脂(牛や豚の脂)で作った安価なロウソク。
鯨油(げいゆ):18世紀から19世紀にかけて、欧米ではクジラの油が最高級の照明燃料として普及しました。これが乱獲の原因にもなりました。
3. 動力:人力・畜力・自然力
「動かす」ためのエネルギーは、燃料ではなく物理的な力に頼っていました。
家畜:牛や馬が田畑を耕し、荷物を運びました。
水車・風車:穀物を粉にしたり、初期の機械を動かしたりする動力源でした。
4. 石炭の登場
18世紀後半のイギリスから、木材不足を補う形で石炭が普及し始めます。これが蒸気機関を動かし、産業革命を引き起こして現代の化石燃料社会への橋渡しとなりました。
日本でも、江戸時代までは「薪・炭・菜種油」の3つがエネルギーの三種の神器でした。


石油、ガスがない時代の山林状態

石油やガス、電力などの化石燃料・近代エネルギーが普及していなかった時代(特に日本における江戸時代から明治初期)の山林は、生活エネルギーのすべて(薪・炭)を供給する源泉でした。そのため、現代の森林とは全く異なる、以下のような特徴的な姿をしていました。
1. 「禿げ山」と森林荒廃
江戸時代の人口増加と都市化(特に江戸)に伴い、燃料となる薪や建築材の需要が急増しました。1710年までには、当時の技術で伐採可能な本州、四国、九州の山林の大部分が消失していたとされています。
乱伐:燃料を求めて山が過剰に伐採され、各地で「禿げ山」が生じました。
災害:森林が保水力を失ったため、土砂崩れや河川の氾濫(水害)が頻発しました。
2. 「里山」の二次林化と徹底利用
山林は「放置」されるのではなく、人間の生活の場として厳格に管理された「二次林(里山)」でした。
薪炭林(しんたんりん):薪や炭の原料となる雑木林(クヌギ、ナラなど)が、伐っては芽が出る「萌芽更新」というサイクルを利用して管理されていました。
落ち葉の採取:燃料や、肥料となる「刈敷(かりしき)」を採取するため、山の地面には落ち葉や枝がほとんどない状態でした。
3. 山林の管理・制限
森林資源の枯渇を防ぐため、幕府や藩は厳しい規制をかけました。
留め山(とめやま):伐採を禁止し、保護された山(御用林)が多く存在しました。
入会(いりあい):村の共同管理として、枝打ちの時期や量を制限しながら利用していました。
4. 植林技術の発展
危機的な荒廃を受けて、江戸時代の中期以降は植林技術も発展しました。
吉野杉など:計画的に植林し、林業として経営される森林も一部の地域(吉野、秋田など)で生まれました。
結論:石油・ガスがない時代、山林は「自然のまま」ではなく、過剰伐採による荒廃と、生きるためのエネルギー確保による「徹底的な人の管理(里山)」の二面性を持つ、常に伐り出され、利用され続ける環境でした。

石油やガス(化石燃料)が普及する前の時代、山林は現在よりもはるかに「生活に直結した資源の宝庫」であり、同時に人の手が入り続ける「二次林(里山)」としての側面が強かったです。
主な状態と特徴は以下の通りです。
1. 「薪炭林(しんたんりん)」としての活用
石炭や石油がない時代、エネルギー源の主役は薪(まき)と炭でした。
若返る森:木が大きく育つ前に伐採し、切り株から出る新芽を育てる「萌芽更新(ほうがこうしん)」が繰り返されていました。そのため、今のような大径木が並ぶ深い森よりも、背の低い広葉樹が広がる明るい森が多く見られました。
ハゲ山の存在:人口密集地の近くでは需要が供給を上回り、木を切り尽くして地面が露出した「ハゲ山」も少なくありませんでした。
2. 肥料や飼料の供給源
化学肥料がないため、山の落ち葉や草は田畑の貴重な有機肥料(下刈り、堆肥)として持ち出されました。
見通しの良い林床:落ち葉が常に掃き清められていたため、現在の放置された山林のような「ヤブ(低木や蔓)」が少なく、歩きやすい状態が維持されていました。
3. 多様な生態系の維持
皮肉なことに、人間が適度に木を切り、草を刈ることで、日当たりの良い環境を好む植物や昆虫(カタクリやギフチョウなど)が多様に生息していました。
まとめ
当時は「山を放置すること=エネルギーと食料(肥料)を捨てること」を意味したため、人里近くの山林は常に手入れされ、今よりも明るく、若く、開けた空間でした。


貴重映像でふりかえる軽井沢
https://www.youtube.com/watch?v=8RA587tTpq0

貴重映像でふりかえる軽井沢」という特定の映像作品や番組において、かつての「はげ山」だった軽井沢の様子が紹介されています。
軽井沢の「はげ山」の背景
現在の緑豊かな軽井沢からは想像しにくいですが、明治初期までの軽井沢は、木々がほとんど生えていない「はげ山」が広がる荒涼とした地でした。
原因:浅間山の度重なる噴火による火山灰の堆積や、江戸時代の宿場町としての薪炭(燃料)確保、茅(屋根の材料)の採取などのために、山や原野の木々が伐採され続けたためです。
変化のきっかけ:1886年(明治19年)、宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を訪れ、その冷涼な気候を気に入って別荘を建てたことが避暑地としての始まりです。
植林の歴史:その後、別荘地として開発が進む中で、野上辰之助らによる大規模な植林が行われ、数十年かけて現在の深い森が形成されました。
貴重映像の視聴・確認方法
「はげ山時代の軽井沢」を収めた古い写真や貴重映像は、主に以下の場所やコンテンツで確認できることがあります。
軽井沢町立歴史民俗資料館: 軽井沢の開拓史や、はげ山だった当時のパノラマ写真、古地図などの資料が展示・保管されています。
NHK アーカイブス:「新日本紀行」や「あのとき、あの場所」などの番組で、軽井沢の変遷を当時の貴重なフィルム映像とともに振り返る特集が放送されたことがあります。
YouTube:軽井沢町公式チャンネルなどで、歴史を振り返る動画が公開されている場合があります。
かつての荒涼とした風景と、100年以上の歳月をかけて人の手で守り育てられた現在の森を比較することで、軽井沢の歴史の深さを知ることができます。

貴重映像でふりかえる軽井沢

長野市誌 第三巻 歴史編 近世1

「時の駅」第3講座資料 江戸時代の土づくりに学ぶ ―『おじいさんは山へ柴刈りに』に関わって― R4.12.3 松上清志
https://takamori-tokinoeki.com/wp-content/uploads/2024/07/R4%E3%80%8C%E6%99%82%E3%81%AE%E9%A7%85%E3%80%8D%E7%AC%AC3%E8%AC%9B%E5%BA%A7.pdf



日本林業経済史論 3―日本歴史と林業の見直し―西川善介(専修大学社会科学年報第43号)
https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nishikawa_43.pdfはしがき
第一章 課題と研究史
第二章 「中世」伐出生産(木年貢制度)の実態――日本林業の最先進地帯、京都山国・黒田地方
第三章 「近世」丹波材生産と流通の実態
第1節太閤検地による木年貢制度廃止と名主体制の解体過程
以下本号
第2節 丹波材の材木市場
1 三か所仲間の概要
2 三か所仲間の生産地支配の変遷
第3節 丹波材の育林生産技術
第4節 丹波材の伐出生産構造
第四章 「近世」林業の二類型
第1節敗戦後の近世史の枠組みについて
第2節 「近世」林業の主要な歴史的傾向
第五章 領主的林業地帯
第1節木曽谷林業の概要
第2節林業労働組織の成立と変化
第六章 農民的林業地帯
第1節幕末武州一揆の発祥地、上名栗村の実態
第2節山民生活と商人
第3節林業の生産と流通
第4節幕末における資本家的林業の成立と理由
結び

No.390 江戸時代の山林 | アーカイブズ | 福岡市博物館

江戸時代のエネルギー事情から、現代を考えてみよう!|エネルギー・文化研究所/大阪ガスネットワーク株式会社

A.C.ショーが見た軽井沢の風景とは? : ときどき葦笛

進化続ける軽井沢

軽井沢はいかにして軽井沢になったのか? | 軽井沢流

昔の日本は緑が少なかった : 考える葦笛

明治期の治山事業について:林野庁
日本の森林荒廃の歴史
日本の森林は、薪炭材や建築用材等の生活に必要な資源として古来より利用されてきました。しかし、需要量の増大とともに伐採量が増えたことで、江戸時代にはかなり劣化・荒廃が進み、さらに明治期に入ると、急激な人口の増加や産業の発達などから荒廃はいっそう進行しました。それらの荒廃は、資源の枯渇や災害の頻発などの深刻な事態を招きました。そういった経緯があり、今では保安林制度や治山事業などを通じて適切に維持されるようになったのです。

西武八ケ岳高原海の口地区開発構想 50年前の設計図 山上のシルクロードY-632宮崎健



ログハウスを建てて22年になります。私は「八ヶ岳シルクロード」と呼んでいますが、通りがかる方々からお話を伺うだけでソローの「森の生活」を読むように 、八ヶ岳の楽しみが深まる。



開発当初の「八ヶ岳高原海の口自然郷」ははげ山に近い姿だった。=昭和35年ごろの撮影


開発当初の海の口自然郷のカラー写真


現在の海の口自然郷の全景(パンフレットから)



ふんだんに池や野外劇場が計画されていた当初の設計図


目白にあった旧徳川邸を移築したヒュッテ


長くまっすぐな落葉松並木のエントランス











北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
純喫茶エルマーナ: 社労士笠島正弘のあれこれ話そう
古い田植え機を使う八ヶ岳山間地の水田 甲斐鐵太郎
蓼科の山荘の10坪の喫茶室のこと 甲斐鐵太郎
coffeeとエルマーナ 見ていた青春 若いころのこと-1- 夏森龍之介
「coffeeとエルマーナ」 見ていた青春 若いころのこと-1- 夏森龍之介



夏森龍之介のエッセー

田渕義雄エッセーの紹介

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日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する

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